グレイト・ギャツビー

原題
The Great Gatsby
作者
F・スコット・フィッツジェラルド
作者(英語表記)
F. Scott Fitzgerald
翻訳者
枯葉

目次


今一度、ゼルダへ


Then wear the gold hat, if that will move her;
  If you can bounce high, bounce for her too,
Till she cry 'Lover, gold-hatted, high-bouncing lover,
  I must have you!'
金の帽子をかぶるんだ それがあの娘に効くのなら
もしも高く跳べるなら ついでに高く跳んでやれ
やがてあの娘が叫ぶまで 「金色帽子も ハイジャンプも すてき
あなたを絶対モノにしなくちゃね!」

トーマス・パーク・ダンヴィリエ


1

ぼくが今より若くて今より傷つきやすかった時代に父から受けた一種の忠告を、ぼくは何度も心の中で繰りかえしながら生きてきた。

「他人のことをとやかく言いたくなったときはいつでもね、この世の誰もがおまえほどに恵まれた生き方をしてるわけじゃないと思い出すことだ」

父はそれ以上何も言わなかったものの、ぼくと父とは、他人行儀なやりかたで異常なほど意思を伝え合ってきたから、父はこの言葉にもっと大きな意味を含めているのがよく分かった。結果として、ぼくはどんなときでも判断を保留したがるくせがつき、そのおかげで一風変わった連中の気持ちも理解できたし、また、退屈きわまりない連中が23人と言わずぼくにつきまとったりしたのも、このくせのせいだろう。人並外れた精神は、人並みの人物がこの心がけを見せると、たちまちそれを察知し、よしみを通じようとするものなのだ。それで大学では、あいつは策士だなんて不当な非難を浴びたりもした。というのもぼくは、よく知りもしない乱暴者たちが胸に抱えこんだ苦悩を知っていたりしたからだ。ぼくはそうした信頼を求めて得たわけではない。よく、寝たふりをしたり、考え事をしているふりをしてみせたり、嫌がらせに走ったりして、相手を遠ざけようとしたのだ――ぼくと親しくつきあいたがっている気配が伺えたときは。それは勘違いのしようがない気配といえた。なぜなら、若者同士の親睦しんぼくというものは――というか、少なくともそういう親睦において用いられる言葉には――たいていオリジナリティーが欠けていて、本心を隠そうとしているのが見え見えの出来の悪い代物しろものになっているからだ。判断の保留は無限の希望を生む。父がえらそうに言い出したように、そしてぼくがえらそうに繰りかえすように、常識非常識の感覚は生まれながらに十人十色じゅうにんといろなのであって、これを忘れてしまうようでは、ぼくもまた何事かを見落としてしまうのではないだろうか。

それで、ぼくはこうして自分の心の広さを誇っておきながら、それにも限度があるということを認めることになる。人の一挙一動は、岩のようにがっしりしたところに根をおろしていたり、あるいは沼地のようにじめじめとしたところに根をおろしていたりするのだけれども、ある一点を超えると、その根っこがどこにあるのかまったく気にならなくなってしまう。去年の秋、東部からもどってきたぼくは、世間というものがいつまでも軍服を着、その道徳観に「気をつけ」みたいにしていて欲しい気分だった。いい気に人の心を垣間かいま見ながら馬鹿騒ぎに満ちた旅をやるのはもうまっぴらだった。ただひとりギャツビー、この本に名をふきこんだ男だけは、ぼくの反感の対象外だった――ギャツビー、ぼくが心からの軽蔑けいべつを抱いているものすべてを一身に表したような男。もし人格というものを首尾よく続けられた一連の演技のことだとすれば、かれの人格には豪華絢爛ごうかけんらんとでもいうべきところがあって、人生の希望を捉える研ぎ澄まされたその感性は、まるで、数千マイル離れた場所の地震を感知する、あの複雑な機械とつながりがありそうに思えた。この鋭敏さは、「クリエイティブな気質」とかいうもったいぶった言い方をされる、あの危うい影響の受けやすさとは違う――ギャツビーのそれは、希望を見出す天分であり、ロマンティックな思考回路だった。ぼくがこれまで他の人に見出したことがなく、これからも見出みいだせそうには思えないような。そう――最後になってみればギャツビーはすべて正しかったのだ。ギャツビーを喰い物にした連中、ギャツビーの夢が描いた航跡に浮かんでいた薄汚い塵芥ちりあくた、そういったものが一時的にぼくの目をくらまし、人が胸に抱えこんだ、とりかえしのつかない悲しみやはかない思い入れへの関心を持てなくしていたのだ。

**********

ぼくの家系は3世代にわたって中西部で繁栄してきた。我がキャラウェイ家はどこか族閥ぞくばつみたいなところがあって、バクルー公爵家の末流まつりゅうなのだなどという言い伝えがあったりするのだけど、実際のところは、ぼくの祖父の兄が家系の始祖になる。1851年にこの地にやってきた大伯父は、南北戦争のおりには替え玉を出しておいて、金物の卸売りを始めたのだ。そしていまはぼくの父がその仕事を引き継いでいる。

ぼくはこの大伯父に会ったことがない。が、ぼくはかれに似ていると言われる――父のオフィスに掛けられているややハードボイルドなタッチの肖像画が引き合いに出されながら。ぼくは1915年、父に遅れること4半世紀、イェール大学ニューヘイヴンを卒業し、その後ほどなくして、世界大戦として知られるあの遅すぎたゲルマン民族大移動に参加した。この逆襲をこころゆくまで堪能たんのうしたぼくは、帰国したときは妙に落ちつけなかった。中西部は、心揺さぶるような世界の中心とは違って、いまや宇宙の最果てのように思えた――それでぼくは東部に出て証券取引を学ぶことにした。ぼくの知り合いはみんな証券業界にいたし、独身の男をもう一人くらい養えるだろうと思ったのだ。叔父たちや叔母たちはまるでぼくをどこの学校にやろうか選ぶみたいな態度でぼくの決心について話し合い、やがて「まあ――よかろう」と、引きつった、ためらいがちの顔で言った。父は1年の仕送りを約束してくれた。それからいろいろあって遅れたものの、ぼくは1922年の春、東部にやってきた。永遠に、と、そのときは思っていた。

市内に部屋をみつけるのが現実的なやりかたではあったのだろうが、暑い時期でもあったし、涼やかな芝生しばふや木立が広がる田舎から出てきたばかりだったから、職場の若い男が、市外に共同で家を借りないか、と言い出したときは、とてもいいアイデアだと思えた。風雨にさらされた安手やすでのバンガローを月80ドルで見つけてきてくれたかれは、最後の段になって社からワシントンへの転勤を命じられ、ぼくがその田舎にひとりでいくことになった。ともにあったのは、犬1匹――すくなくとも逃げられるまでの数日は――に古いダッジ1台、フィンランド生まれの女が1人。この女はぼくのベッドを整え、朝食の支度をし、電気コンロに屈みこみながらフィンランドの警句をぶつぶつとつぶやいていた。

ぼくが孤独だったのは一日やそこらで、ある朝、ぼくより後にこの土地にやってきたらしい男が、道端みちばたでいきあったぼくの目の前で足を止めるまでのことだった。

「ウェスト・エッグ・ビレッジにはどう行けばよろしいんでしょうか?」男は途方にくれたようすでそう尋ねた。

ぼくは教えてやった。そして歩き出した。ぼくはもう孤独ではなかった。ぼくはガイドであり、草分けであり、古株ふるかぶの住民だった。男は、そうと意識することなく、ぼくにこの付近での自由を与えてくれたのだ。

そして、陽光あふれる中、新芽しんめこずえからほとばしり出る――まるで早回しの映画のように――それを見てぼくは、この夏とともにまたふたたび新しい日々が始まろうとしているのだという、おなじみのあの確信を抱いた。

ひとつには、読むべきものがたくさんあり、また、引きとめられなければ若々しい新鮮な空気を楽しもうとする健やかさがあった。銀行業務や信用取引や投資信託に関する書籍を、十冊、二十冊と買いこんで本棚に立ててみると、それらは造幣局から出てきたばかりの紙幣のように、朱色に、黄金色に輝き、ミダス、モルガン、マエケナスのみぞ知る、燦然さんぜんたる秘密の解明を約束してくれるもののように思えた。そして、それと平行して、もっと幅広くいろいろな本を読もうと志していた。大学時代のぼくは文学的なほうだった――ある年など、『イェール・ニュース』に、生真面目な、わかりきったことを並べたてた論説を連載したこともあったりした――そしてぼくはそれらをいまの日々にとりもどして、あらゆる専門家のうちもっとも視野の狭い類の専門家、「バランスのとれた人間」にたちもどろうとしていた。これは単なる警句などではない――人生とは、結局のところ、ひとつきりの窓を通してのほうがよく見えるものなのだ。

まったくの偶然から、ぼくは北アメリカのコミュニティーのうち、もっとも珍しいところのひとつに家を借りることになった。それはニューヨークの真東にある細長くて騒々しい島にある――そこのいろいろな自然の奇観のうちでも、2つの島は例を見ないものだった。ニューヨークから距離にして20マイルのところに浮かぶ、1対の巨大な卵。外形的には同一、申しわけ程度の入江にわかたれ、それぞれが、この海域を西半球でいちばん開発が進んだ牧地とたとえるならば、養鶏小屋からロング・アイランド海峡という湿った前庭に転がり出ている。卵はふたつとも完全な楕円形だえんけいではなかった――コロンブスの話に出てくる卵のように、陸地に接するほうの端が平らにひしゃげていた。けれども、この2つの卵は見たところそっくりだったから、上空を飛ぶ鴎はどっちがどっちかと困り果てていたに違いない。翼のないぼくらにとっては、形とサイズをのぞいた、あらゆる違いこそが興味の対象だった。

ぼくはウェスト・エッグに住んでいた――そう、2つの島のうち、ファッショナブルではないほうだ。この言い方は、両者の、不吉さすら感じられたりもするアンバランスさを表現するにはきわめて底が浅いとは思うものの。ぼくの家はこの卵の頂点にあった。海峡からはわずか50メートル。両側を、家賃がシーズンごとに12,000とか15,000とかするような屋敷に挟まれ、窮屈そうに立っていた。そのうち、右手に立っていた家はまさしく豪邸だった――ノルマンディのシティ・ホールでもそっくり再現したみたいだった。そばに建てられた塔は、ひげ代わりの薄いつたの下で真新しいきらめきを放っている。それから大理石のプール。それから、40エーカーを超える広大な芝生や庭園。それがギャツビーの邸宅だった。いや、ぼくはミスター・ギャツビーを知らなかったのだから、むしろ、そういう名前の紳士が住んでいる邸宅だった、というべきか。ぼくの家は目障りだったけれど、小さな目障りだったから、見逃されていた。というわけで、ぼくは海を眺め、隣人の芝生の一部を眺め、金満家きんまんかに近づいたような気持ちをたのしんだ――しめて、月80ドルで。

ささやかな入江の向こうには、海岸沿いに、ファッショナブルなイースト・エッグの白亜の豪邸がまばゆく建ち並んでいた。そしてあの夏の物語は、そこへ、トム・ブキャナン夫妻とディナーをともにするため、ぼくが車で乗りつけたあの夕べにはじまる。デイジーはぼくのはとこの子にあたるし、トムは大学時代から面識めんしきのある相手だ。それに戦争の直後、シカゴでかれらと2日、ともにしたこともあった。

デイジーの夫は、いろいろなスポーツで名を知られた男だったけれど、とりわけ、ニューヘイヴンのフットボール史における最強のエンドだった――ある意味では全国的な有名人で、よわい21にして絶頂を極め、以後は万事下り坂といった具合の人物だった。生家は財産家――大学時代も、金遣いの放蕩ほうとうさで非難を集めていた――そしていま、シカゴから東部にやってきたのだけど、それがまた人々の息をのませるようなやりかた。たとえば、レイク・フォレストからポロ用ポニーを並べ連ねてつれてくる、とか。ぼくと同世代の男にそんな真似まねをできるだけの財産があるというのは、どうにも理解しづらいことだった。

なぜかれらは東部にやってきたのか、ぼくは今も知らない。かれらはこれといった理由もなく一年をフランスですごした後、ふらふらと、ポロをやる金持ちの間を渡り歩いていた。今度は永住する、とデイジーは電話で言ってきたけど、ぼくは信じていなかった――デイジーの胸のうちはまったく読めなかったけれど、トムからは、敗色濃厚なフットボールの試合とかに見られるドラマティックな騒乱を、どこか物足りなさそうに探し求めて永遠にさまよいつづけるのではと思わせるような、そんな感じがしていた。

それでぼくは、生暖かい風が強く吹いていたあの夕べ、よく知っているとは言いがたい2人の友人を訪ねて、車をイースト・エッグに向けて走らせた。ブキャナン夫妻の住まいは予想をはるかに越えるものだった。入り江を見下ろすように建つ、感じのよい、赤と白のジョージ王朝風殖民時代様式の屋敷。芝生は浜辺のところからスタートし、そこから玄関までの400メートルを、途中、日時計を、煉瓦れんが敷きの道を、色鮮やかな庭を飛び越えながら走り――やがて家屋かおくにつきあたったところで、余勢を駆るみたいに、つややかに光る蔦となって家の壁をよじのぼっている。正面はフランス窓が並んでいて、それが夕日を黄金色に照りかえしながら、熱っぽい午後の風をとり入れるために大きく開かれていた。玄関には、乗馬服を着たトム・ブキャナンが、大股に立っていた。

トムはニューヘイヴン時代とは変わっていた。髪は藁色わらいろ、口調はどちらかといえば乱暴で、マナーは尊大。いまや精力的な30代の男になっていた。どんな顔をしているときでも横柄にきらめく両の瞳がとにかく目につき、そのせいで、行動には突っかかってくるような感じがつきまとう。優美な乗馬服姿でいるときも、その肉体に宿る力を隠せてはいなかった――鈍い光を放つブーツはいかにも窮屈で、編み紐のいちばん上は苦しげに結ばれ、また薄い上着の下で肩が上下すると、一塊ひとかたまりになった筋肉の動きが分かる。そこにはすさまじい力が内在していた──壮烈な肉体だった。

しゃべる声は無愛想な、かすれぎみのテナーで、かれの気難きむずかしそうな印象を余計に強めていた。口のきき方にどこか家父長的なところがあって、自分が好意をもっている相手にさえもそんな口のきき方をする――そういうところから、ニューヘイヴン時代から心底しんそこかれを嫌っている人もいた。

「単におれがおまえよりも強くて男らしいからといって、おれの意見が絶対だなんて思わなくてもいいんだぜ」と言外に表明しているみたいだった。ぼくらは同じ上級生サークルに所属していた。それでまだ親しくないうちから、ぼくはずっと、かれから認められていて、かれのことを気に入るように望まれているような印象を受けていた。それもかれらしい、性急で乱暴な形で。

ぼくらは陽のあたるポーチですこし話をした。

「いい家を見つけてね」とトムは言った。落ちつきなくあちこち視線を走らせている。

片腕がぼくの背中に回され、ぼくは体の向きを変えられた。正面の景色をトムの大きな手が横切る。その先に、イタリア風の沈床園サンクンガーデンがあり、真っ赤な、強い香りを放つ薔薇ばらの植え込みが半エーカーほど広がっていて、ビーチでは先のそりかえったモーターボートが波に揺れていた。

「前はディメインという石油屋のものだったんだ」と言うとふたたび、丁寧ていねいに、けれども断りなく、ぼくの体の向きを変えた。「さ、中に入ろう」

ぼくらは吹き抜けの大広間を抜け、薔薇色ばらいろのスペースに入った。壁全面にフランス窓がとりつけられていて、かろうじて家の中にあるといった格好だ。半開きの窓は外の新緑しんりょくを背に白く輝き、新緑はといえば部屋の中へと入りこんできそうな勢い。部屋を吹きぬけた一陣いちじんの風にあおられたカーテンが色あせた旗のようにはためくと、お互いに絡まりあいながら大きくしなって、砂糖まみれのウエディング・ケーキめいた天井に触れなんとする――そうして、あたかも海を渡る風のように、ワインレッドの絨毯じゅうたん飛沫しぶきをたて、影をさっと走らせる。

部屋の中でじっとしていたのは、大きな長椅子ただひとつ。その上に、ふたりの若い女性が係留気球けいりゅうききゅうにでも乗っているかのように浮かんでいた。ふたりの白一色のドレスが波打ちはためくさまは、家の外をひらりと一周んできたのだろうかと思わせる。ぼくはしばらくの間、カーテンがむちのようにしなる音と、壁の絵画がたてるうめき声とに気を奪われていたに違いない。不意にトム・ブキャナンが後背の窓を閉める音がして、部屋の中から風は閉め出された。すると、カーテンも、絨毯も、浮かんでいた2人の女も、ゆっくりと床に降りてきた。

ふたりのうち、年下の女とは初対面だった。長椅子の片側に全身を伸ばしてねそべり、身じろぎひとつせずに、ちょっとだけあごを上げている。まるで、あごの先に何かを乗せ、それを落とさないようバランスをとっているみたいだ。ぼくの姿を視界の端にでもとらえてくれたのかどうか、その手がかりすらくれなかった――実際、ぼくはもうすこしで部屋に入ってきたことを謝りそうになった。

もうひとりの女、デイジーは起きあがろうとした――誠意をみせようというつもりか、やや上体を起こした――それから、笑った。取りたてて意味のない、それでいて魅力的な、軽やかな笑い声。ぼくもまた笑いながら、部屋の中央へと進み出た。

「わたし幸せにあたって、麻痺まひしちゃった」

ウィットに富んだことを言ったつもりなのか、また笑った。それからぼくの手をしばらく握り締め、ぼくの顔を見上げた。世界中どこを探してもぼく以上に会いたかったひとはいないと誓うように。前と変わらないやり方だ。それからささやき声で、バランスをとっている女の姓がベイカーだということを教えてくれた。(デイジーのささやき声は、相手の顔を自分のほうに吸い寄せるためのものにすぎない、と言った人があった――いわれなき誹謗ひぼうであり、その声からちょっとでも魅力をぎおとすものではない。)

ともあれ、ミス・ベイカーの唇がかすかに動き、ぼくにむかってほんのちょっとだけうなずいてみせ、それからすぐにもとのように反らした――荷物のバランスが少しだけくずれ、それであわてふためいたとでもいうのだろう。先と同じく、ぼくは詫び言みたいなものを口にするところだった。高慢なふるまいをあからさまにみせつけられれば、ぼくはつい誉めてやりたくなってしまうたちなのだ。

ぼくは従妹に目をもどした。低い、ぞくぞくするような声で、質問がはじまった。それは思わず耳を引きこまれるような声であり、言葉のそれぞれがもう二度と奏でられることのない旋律のようだった。顔はうれいをふくみ、それでも内に輝くみたいな愛らしさを含んでいる。つややかな瞳、つややかな、誘うような口元。けれども、その声は男の気をひき、けっして忘れ去ることができそうにないと思わせるような刺激があった。魔法の歌というか、その「ねえ、聞いてくれる?」というささやきには、いまちょうど楽しいことがあってうきうきした気分にあって、そのうえこれからも楽しいことがありまだ何時間も楽しい気分が続くのだと約束するような、力があった。

ぼくは東部にくる途中シカゴに1日寄ったことを、それから、そこでいかにたくさんの人たちがぼくを介してよろしく言ってきたかを話した。

「わたしがいなくて寂しがってるってこと?」とうっとりした調子でさけんだ。

「街全体がさびれてしまってるよ。車はみんな前輪を黒く塗ってまるで手向たむけの花輪みたいだし、北の湖あたりじゃ嘆きの声が夜な夜なひっきりなしでね」

「大げさね! ねえトム、帰ってみない? 明日にでも!」それから、脈絡もなく続ける。「そうだ、うちの子に会っていくといい」

「そりゃあぜひ」

「いま寝てるのよ。3つになったんだ。前に会わせたことあったっけ」

「いや、ないね」

「じゃあ、会っていくといい。あの子ね――」

それまで落ちつきなく部屋の中を歩き回っていたトム・ブキャナンがふと立ち止まり、ぼくの肩に手を置いた。

「いま何をやってるんだ、ニック?」

「証券マンを」

「だれのところで?」

ぼくは教えてやった。

「聞かない連中だな」

そのきっぱりとした言い方にぼくは不愉快になった。

「聞くだろうよ」と短く返す。「これから東部に腰を落ちつけるんなら、そのうちにね」

「おいおい、もちろん東部に落ちつくとも、心配するな」と言って、他に言っておきたいことがあるのか、デイジーを見、それからぼくに目をもどした。「他の場所に住みたいなんて、よっぽどの馬鹿にならんかぎり、思わんよ」

ここでミス・ベイカーが口を開き「まったくね!」と言ったのだけど、その唐突さにぼくはびっくりした――それは、ぼくが部屋に入って以来はじめて彼女の口から飛び出した言葉だった。どうやら、彼女自身もぼくと同じく驚いたらしい。ひとつあくびをすると、流れるような身ごなしで立ちあがった。

「体がこわばってる。覚えてるかぎりずっとソファに寝っぱなしなんだもの」

「なんでわたしのほうを見るのよ」とデイジーが言い返す。「午後からいっしょにニューヨークに行こうって、ずっと言ってるじゃない」

「いいえ、結構」とミス・ベイカーはちょうど食堂から運ばれてきた4杯のカクテルに向かって言った。「いまほんとにトレーニング中なんだから」

トムが信じられないという面持おももちで彼女を見た。

「トレーニング中ね!」グラスを取ったかれは、のっけから最後の一滴を飲み下すような勢いで、一気にあおった。「いったいどういうふうにあれこれやってのけるのか、おれにはさっぱり分からん」

いったい何を「やってのけた」のか不思議に思いながら、ぼくはミス・ベイカーに目を向けた。彼女を見ているのは気分がよかった。ほっそりとした、胸の小さな女で、そのきりっとした身ごなしが、若い士官学校生みたいに肩をはって胸を反らしている姿勢のせいで強められていた。灰色の瞳を太陽に細めるみたいにし、その肉の薄い、魅力的な、不満ありげな顔に返礼的な好奇心をこめ、ぼくに向けた。これはどこかで見たことのある顔だ、とそのとき気づいた。あるいは写真で見たのか、とにかくどこかで以前に見たことがある。

「ウェスト・エッグにお住まいなんですってね」と小馬鹿にするような確認。「わたし、あそこには知ってるひとがいるの」

「ぼくはまだひとりも――」

「ギャツビーを知らないはずない」

「ギャツビー?」とデイジーが横から絡んできた。「なに、ギャツビー?」

それはぼくの隣に住んでいるひとだと答えようとしたところで、ディナーの準備ができたという知らせがきた。ぼくの体を抱えこむようにして、トム・ブキャナンはその部屋からぼくを追いたてた。まるでチェッカーの駒を動かしているみたいだ。

面倒くさそうに両手をそっと腰に当てると、2人の若い女はぼくらに先だって夕焼けを望む薔薇色ばらいろのポーチに出た。そこでは、テーブルの上に4本の蝋燭ろうそくが立てられ、その火影ほかげ微風そよかぜにちらちらと揺れていた。

「ろぉそくぅ?」デイジーは眉をしかめた。「なんでこんなもの出すのよ」と、指でもみけす。「2週間もすれば1年で一番長い日がくる」とうれしそうに言った。「ねえ、みんなは1年で一番長い日を待ちわびて、それなのに、うっかり当日になったら忘れてたりしてない? わたしはいつも1年で一番長い日を待ちわびてるのに、それなのにいつも当日になったらうっかり忘れてるのよ」

「なにか計画を立てるべきね、わたしたち」ミス・ベイカーはあくびをすると、まるでベッドに入るみたいな感じで椅子に座った。

「わかった」とデイジー。「どんな計画を立てようか」それから困りきったようにぼくのほうに向き直った。「ふつうはどんな計画を立てるものなんだろう?」

それに答える隙も与えず、デイジーは怯えたようすで目を細め、自分の指を見つめた。

「見てよ! 怪我してる」

ぼくらはそこに注目した――指の関節に青痣あおあざができている。

「あなたがやったのよ、トム。わざとじゃないのはわかってるけど、あなたがやったんだからね。これこそがわたしが結婚して手にしたものってわけ。粗暴な男、ほんとにもうばかでかい体の――」

「ばかでかいとは気に入らん言葉だな。冗談にしても好かん」

「ばかでかい」とデイジーは突っぱねた。

ときにはデイジーとミス・ベイカーとが同時にしゃべることもあった。おしつけがましくない、ふざけ半分成り行きまかせの終わりない会話。ふたりの白いドレスや、願望のかけらも見られない無機質な瞳のように、冷めきった感じだった。ここで彼女たちは、ぼくとトムとを受け入れ、ただ、楽しむため、楽しませられるために、礼儀正しくて心地よい努力を行っているだけなのだ。彼女たちは知っていた。そのうちにディナーは終わり、それからあっという間に夕べもおしせまり、さりげなく置き捨てられてゆくことを。西部とはまったく違っていた。あそこでの夕べは解散に向けてめまぐるしくすぎていったものだった。絶えることなく期待を裏切られながら、さもなくばその時間その時間への不安に駆られながら。

「デイジーの前に出ると自分が文明の外からやってきたような気がする」とぼくは打ち明けた。2杯めのクラレットは、コルクくさくはあったけど、味はなかなかよかった。「作物さくもつの出来みたいな話はだめなのかな?」

ぼくはとりたてて深い意味をこめて言ったわけではなかったのに、予想外の方向へと話は進んでいった。

「文明はいまや崩壊しつつあるんだぜ」と、トムが激しい調子で口火くちびをきった。「おれはひどいペシミストになってな。ゴダードってやつの『有色帝国の隆盛』って本は読んだか?」

「いや、ないけど」とぼくはその口調にあっけにとられたまま言った。

「そう、いい本だよ。だれもが読んでおくべきだ。要するに、もしおれたちが警戒をおこたれば、白色人種は――白色人種は完璧かんぺきに埋没してしまうだろう、っていうんだ。科学的なやつでね、ちゃんと証明までついてる」

「トムはとっても高尚こうしょうになっちゃって」とデイジーは浅はかな悲しみをこめて言った。「読むのは長い単語がずらずら並んだむずかしそうな本ばっかり。ほら、なんていったっけあの単語、わたしたちが――」

「まあ、どれも科学的なやつなんだけどな」とデイジーをいらだたしげに横目で見る。「この男はそのへんをすべてまとめてひとつに仕上げたんだよ。おれたち次第ってわけだ。支配人種たるおれたちが警戒を怠るかどうか、もし怠れば、他の人種が支配権を得ることになる」

「おれたちはやつらを叩きのめさねばならんのだ」とデイジーは囁くように言った。夕日に向かってウインクしながら。

「だったらカリフォルニアにでも住んでみれば――」とミス・ベイカーが言いはじめたが、トムはそれを椅子に座ったまま大きな身振りで制した。

「つまり、我々はノルマン民族だっていう考えなんだよ。おれも、ニックも、あんたもそうだし――」一瞬ためらい、それからかすかにうなずいてみせることで、デイジーをそこに含めた。デイジーはぼくに向かってふたたびウインクした。「――で、文明となるものはどれもおれたちが生み出してきたわけだ――まあ、学問とか芸術とか、その他いろいろだな。わかるか?」

かれの熱心さにはどこか感傷的なところがあった。その自己満足、年のわりには性急な自己満足だけでは、もはや自分にとって十分ではないのだとでもいうような。それとほぼ同時に家の中から電話のベルが鳴り響いてきて、執事が出ていった。デイジーはそのすきをつき、ぼくに向かって身を乗り出した。

「ある家族の秘密を教えてあげる」と熱に浮かされたような声。「あの執事の鼻のことよ。聞きたい? 執事の鼻のこと」

「そのためにこそ、今夜ぼくはきたんだよ」

「あのね、むかしから執事ってわけじゃなかったの。かれはニューヨークのひとたちを相手に銀器磨きをやっておりました。お客さんは200人にものぼります。朝から晩まで銀器を磨いておりましたところ、とうとう鼻に影響が出てきまして――」

「それから事態は悪くなる一方でした」とミス・ベイカーが口を挟んだ。

「そう。事態は悪くなる一方でした。とうとうかれは職を辞さなければならなくなったのです」

その間、デイジーの顔に落ちかかる入日がロマンティックな効果をあげていた。耳をますとその声は途切れることなくぼくの中へと飛びこんでくるみたいだった――やがてその輝きは、ぐずぐずと、夕暮れの街から引き上げていく子供のように、すこしずつ消えていった。

執事がもどり、トムに何事かを耳打ちした。するとトムは眉をしかめ、椅子を引き、なにも言わずに中へと入っていった。トムがいなくなったためだろうか、デイジーがふたたび身を乗り出した。輝くような、歌うような声。

「ニックをお招きできてほんとに嬉しい。ニックってむかしからどこか――どこか、バラっていうか、正真正銘しょうしんしょうめいのバラって感じがするんだもの。ねえ、そうじゃない?」と、ミス・ベイカーに振る。「正真正銘のバラよね?」

これは嘘だった。ぼくはいまもむかしも、どこをどうみたってバラのようではない。デイジーのアドリブにすぎなかったのだけど、それでも心温まるものが伝わってきた。そのぞくぞくするような言葉の流れに包み込まれた心が、聞き手の中に入りこんでくる。それがデイジーの声の特徴だった。それから急にデイジーはナプキンをテーブルに投げ出し、中座ちゅうざびて家の中へと入っていった。

ミス・ベイカーとぼくとは、軽く視線を交わした。意識的に、特に意味を含まないようにと心した視線を。ぼくが口を開こうとすると、警戒するように立ちあがり、「しっ!」とぼくの言葉を封じた。押し殺しされているものの、強い感情がこめられた囁き声が、遠くの部屋から聞こえてくる。ミス・ベイカーは恥ずかしげもなく家の中の会話を盗み聞きしようと身を乗りだした。ふたつの囁き声は不協和ディスコードし、震え、小さくなり、興奮したように高まり、やがて、同時にやんだ。

「さきほど話題になさったミスター・ギャツビーはぼくの隣に住んでいて――」と、ぼくは切り出した。

「黙ってよ。何が起きてるか、聞きたいんだから」

「何かが起きてる?」とぼくは無邪気むじゃきに訊ねた。

「って、知らないわけ?」とミス・ベイカーは本当に驚いて言った。「みんな知ってるもんだって思ってた」

「いや、ぼくは知らない」

「えっとね――」とためらう。「トムはニューヨークに女を作ってるのよ」

「女を作ってる?」ぼくは無内容に鸚鵡おうむ返しした。

ミス・ベイカーはうなずいた。

「ディナーの時間には電話しないくらいの礼儀はわきまえなさいよね。そう思わない?」

言っていることの意味がよくのみこめないうちに、ドレスの衣擦れと、ブーツの足音が近づいてきた。

「どうしようもなかったの!」というデイジーの雰囲気にはぎこちない陽気さがあった。

それから椅子に座り、探るようにミス・ベイカーを、それからぼくを見て、続きを言った。「ちょっと外を見てきたのよ、外はすごくロマンティックだった。芝生の上に鳥が1羽いて。たぶんカナードとかホワイト・スター・ラインとかからきたナイチンゲールだと思うんだけど。それが歌いつづけてるのよ――」その声もまた歌うようだった。「ロマンティックよね。ねえ、トム、そうじゃない?」

「すごくロマンティックだ」それからぼくのほうを見て、みじめに逃げを打つ。「もしディナーが終わった後まだ明るかったら、馬小屋を見せてやりたいところだな」

中でとつぜん電話が鳴り響き、デイジーがトムにむかって決めつけるように首を横に振ってみせると、馬小屋の話題どころかあらゆる話題が宙に消え去った。テーブルを囲んだ最後の5分間、キャンドルが意味なくもとどおりにともされた記憶がある。ぼく自身は、みんなをまっすぐに見つめたがっているのを意識しながらも、みんなの目をさけていた。ぼくにはデイジーとトムが何を考えていたのか見当もつかなかったが、言わば、大胆な懐疑かいぎ精神をマスターしているように思えていたミス・ベイカーでさえもこの5人めのゲストの金属的な金切り声を無視しきることはできなかったんじゃないかと思う。ある種の気質の持ち主にとって、この状況は好奇心をそそられるものだったかもしれない――ぼくの場合は、警察に電話しようと思った。

馬のことなど、言うまでもないだろうけど、二度と口にされなかった。トムとミス・ベイカーは数十センチの黄昏たおがれを両者の間に置きながら、通夜にでも行くみたいな足取りで、書斎へと入っていった。いっぽう、気分よく過ごしているようにみえるようつとめながら、少し耳の遠いようなふりをして、ぼくはデイジーのあとについて、仕切りのチェーンを迂回し、ポーチの真正面に続くベランダに出た。どんよりとした空気の中、ぼくらはとうのベンチに並んで腰を下ろした。

自分の綺麗きれいな顔かたちを手で確かめようとするみたいに、デイジーは両手で顔の下半分をおおった。そのまま、視線をしだいにビロードのような夕焼けに伸ばす。デイジーが穏やかでない感情にたかぶっているのを見取ったぼくは、何を言えば気を静めることができるだろうと考え、デイジーの小さな娘のことについて質問してみた。

「わたしたち、お互いのことあまりよく知らないのよね」と、デイジーの返事は意表をつくものだった。「従弟だって言っても。結婚式にもきてくれなかった」

「戦争から帰ってきてなかったからね」

「そう、確かにそう」と言いよどむ。「ねえニック、わたしほんとに毎日ひどいことになってて、それで、なにもかもがシニカルにしか見れなくなっちゃったんだ」

そうなったのには明らかにデイジー自身に原因があった。ぼくは黙っていた。が、デイジーはそれ以上何も言おうとしなかったため、ぼくはぎこちなく話題をデイジーの娘のことへともどした。

「たしかもう、しゃべれるくらいだと思うんだけど――食べたりとか、他にもいろいろ」

「ああ、それよそれ。聞いてニック、あの子が生まれたときにわたしなんて言ったか教えてあげる。聞きたい?」

「ぜひ」

「聞いてもらえればどう感じてるのか分かってもらえると思う――いろんなことをどう感じてるか。あの子が生まれてから1時間とたってなくてトムはどこにいるのかまったく分からなかった。麻酔から覚めるとすっかりやけになって、近くにいた看護婦に聞いてみたのよ。男の子か女の子かって。女の子だって教えてくれた。それでわたし、顔を背けて泣きながら言ったの。『よかった。女の子でよかった。ばかな子だといいな――女の子がこの世界で生きていくには、ばかなのがなによりなんだから。かわいいおばかさんが』って。

「分かってくれたと思うけど、とにかくもうなにもかもがひどいありさまに思えて。だれだってそう思ってる――最先端のひとたちみんな。というか、分かっちゃったんだ。どこにでも行って、なんでも目にして、なんでもやって」ここでデイジーは、むしろトムのほうにこそふさわしい反抗的な態度であたりを睥睨へいげいし、自嘲じちょうに満ちた笑い声をあげた。「ソフィスティケートされちゃったのよ――ふふっ、すっかりソフィスティケートされましたのよ」

デイジーの声が途切れた瞬間、その束縛の力からぼくの心は解き放たれた。デイジーの話は根本から虚構なのではないかと感じた。ぼくは息苦いきぐるしくなった。このディナー全体が、自分たちにとって都合のいい感情をぼくから無理にでも引き出そうとする、一種のトリックのように思えたのだ。ぼくは何も言わなかった。するとデイジーは、なるほど、トムとともに所属するわりと著名な某秘密結社に名を連ねていることを公言するかのように、その綺麗きれいな顔にほほえみを浮かべ、ぼくに向けたのだった。

**********

深紅しんくの部屋の中には光がいっぱいに満ち溢れていた。二人はそれぞれ長椅子の両端に座って、ミス・ベイカーがトムに『サタデイ・イブニング・ポスト』を読んでやっていた――囁かれる言葉が次々とよどみなくつむがれていた。心地よい声音だった。ランプの光がトムのブーツをてかてかと光らせ、ミス・ベイカーの銀杏いちょう色の髪を鈍く輝かせ、その腕の筋肉がしなやかに躍動やくどうしてページがめくられるたび、去りゆくページの輪郭りんかくを鮮やかに照らした。

ぼくらが中に入っていくと、ミス・ベイカーは片手をあげて声を出すなと制止した。

「続く」と言って、雑誌をテーブルに投げ出す。「以下次号」

それから、せわしなく膝を動かしていたが、やがて立ちあがった。

「もう10時だし」と、天井に時間が書いてあるような雰囲気で言う。「善良な女の子はおやすみの時間ね」

「ジョーダンは明日トーナメントに出るのよ」とデイジーが説明する。「ウェストチェスターでのトーナメントに」

「ああ――ジョーダン・ベイカーとはあなたのことなんですね」

それで顔に見覚えがあったわけがわかった――人を小馬鹿にしたようなご機嫌なその態度を、アッシュビルとかホット・スプリングとかパーム・ビーチとかでのスポーツ活動を扱うグラビア誌で何度も何度も見たことがあったのだ。それから、彼女に関する、致命的で不快なエピソードをなにか聞いたこともあったけれども、それがなんであったのか、とうの昔に忘れてしまっていた。

「おやすみなさい」と柔らかい声が言った。「8時に起こしてね、いい?」

「起きてくれればね」

「起きますとも。おやすみなさい、ミスター・キャラウェイ。そのうちまた」

「もちろんよ」とデイジーはきっぱり言った。「実はわたし結婚の仲介役になりそうな気がしてるんだから。ちょくちょくくるのよ、ニック。そしたらわたしが、なんていうかな――ほら――うまくセッティングしてあげる。そうねえ――うっかりリネンのクロゼットにふたりを閉じこめちゃったりとか、ボートにふたり乗せて海に出してやったりとか、そんな感じでいろいろ――」

「おやすみなさい」というミス・ベイカーの声が階段から飛んできた。「一言も聞こえなかったからね」

「いい子だよ、あれは」とトムはしばらくしてから言った。「こんなふうに出歩かせてまわるのは感心せんな」

「感心しないって、だれに?」とデイジーは冷ややかに言った。

「家の人たちに」

「家の人たちったって、千歳にもなるみたいな叔母さんひとりきりなのよ。それに、ニックがちゃんと見ててあげるし。でしょ、ニック? ジョーダンはね、この夏の間、週末のほとんどをこっちですごす予定にしてるの。たぶん、家庭の雰囲気ってあの娘にはとってもいい影響を与えると思う」

デイジーとトムはしばらくの間だまってお互いを見つめた。

「ニューヨークの人?」とぼくはあわてて聞いた。

「ルイビルよ。わたしたちは純白の少女時代をあそこで過ごしたの。わたしたちの、けがれなき、純白の――」

「ベランダでは、ニックと心通い合う話でもやったのか?」と不意にトムが絡んだ。

「わたし?」とデイジーはぼくのほうを見た。「えーっと、なんだったっけ? ノルマン民族の話だったかな。そうそう、それだ。いつのまにかそんな話になってて。最初は――」

「聞かされたことをなんでも信じるなよ、ニック」とトムは忠告をくれた。

ぼくはあっさり別に何も聞かされていないと答え、それから数分経ったところで、家に帰るために腰を上げた。ふたりはドアのところまで見送りにきて、肩を並べ、明々と光る一画に立った。エンジンをかけたところで、デイジーは断固とした調子で「待って!」と呼びとめた。

「忘れてた、ちょっと聞いときたいことがあったの。大切なこと。ニックが西部で婚約したって話を聞いたんだけど」

「そうそう」トムがご親切にも確証する。「婚約したって話を聞いたぞ」

「中傷だよ。そんな金ないし」

「でも聞いたんだもの」とデイジーは食い下がり、それから花が開くみたいに打ち解けた口ぶりになってぼくを驚かせた。「3人のひとから聞いたのよ。だから、ほんとうのことじゃなきゃおかしい」

ふたりが何を指して言っているのか、もちろんぼくには分かっていたけど、それでもぼくは、婚約の「こ」の字すら言い与えたことがなかった。実は、そういうゴシップが結婚予定表に載せられてしまったりしたのもぼくが東部にやってきた理由のひとつだったのだ。噂を恐れて旧友とのつきあいをやめるわけにはいかないものだし、その一方で、噂がそのまま事実になってしまうような事態は望むところではなかった。

かれらがぼくに興味を持ってくれるというのはなかなか嬉しかったし、また、かけ離れた金持ちだという印象も薄まった――けれどもしかし、車を走らせるにつれだんだんわけがわからなくなってきて、軽蔑したい気分になってきた。ぼくが見るに、デイジーのやるべきことは子供を抱いて家を飛び出すことだ――けれども、デイジーの頭の中にそんな意図はさらさらないらしい。トムについて言えば、「ニューヨークに女がいる」なんてのはぜんぜん驚くに値しない。それよりも、本を読んで意気消沈いきしょうちんしていることのほうに驚く。何かがかれに陳腐ちんぷな思想を生噛なまかじりさせている。その旺盛おうせいな肉体的エゴイズムではもう精神的な横柄さを支えきれないとでもいうように。

すでに真夏のきざしがロードハウスの屋根に現れ、それからリペアガレージの正面でもまた、真新しいガソリンポンプが光のプールに浸っている姿が見られた。ウェスト・エッグの自分の家にたどりつくと車を車庫に入れ、それから、庭に放置されていた芝刈器に腰を下ろした。風はやみ、そこに明るくも騒々しい夜空が広がる。木立からは翼の気配けはい。そして、オルガンのように洋々と響き渡る、大地という風袋ふうたいがいっぱいに膨らみ鳴らす、生を謳歌おうかするかえるたちの声。月光をさっと横切った猫の影を追って首を動かしたぼくは、この場にいるのがぼくひとりでないことに気づいた――15メートルほど離れたところに、隣人の屋敷の影から現れたその人影は、両手をポケットに突っこんだまま立ちつくし、銀の芥子粒けしつぶみたいな星々を見つめていた。悠然とした身ごなしや、ギャツビー邸の芝生に堂々と立つその姿勢から言って、どうやらかれこそがミスター・ギャツビーその人らしい。ぼくらの住むこの街で、自分の屋敷がどういうポジションにあるのか、見定めにきたのだろう。

ぼくは声をかけてみることにした。ミス・ベイカーが夕食の席でかれの名前を口にしたことを話題にすれば、うまく話を切り出せると思った。だが、ぼくはかれに声をかけなかった。かれがひとりでいることに満足しているようすを不意に見せたから――かれは暗い海に向けて両腕を伸ばした。不思議な伸ばし方だった。ぼくはすこし離れたところにいたけれど、かれが震えていたのは誓って間違いない。とっさにぼくは海のほうを見やった――がそこには特に何もなかった。ただ、桟橋さんばしの先端にだろうか、遠く小さな緑の光がひとつともっているのをのぞけば。ギャツビーに目をもどすと、もうかれの姿は消えていた。静まらないやみの中、ぼくはふたたびひとりになった。

2

ウェスト・エッグからニューヨークに至る道のほぼ中間にあたるところで、自動車道路があせったように鉄道と肩を並べ、そこから400メートルいっしょに走る。まるである種のうらぶれた地域から身を遠ざけるみたいに。ここは灰の谷――灰が麦のように生育し、尾根や丘やグロテスクな庭にまで広がっている。そこで灰は家となり、煙突となり、もくもくと上がる煙となり、やがて途方もない苦労のすえに、灰色の人間となる。かれらの動きは緩慢かんまんで、そもそも粉っぽい空気のせいで何がどうなっているのかわかりづらい。ときには灰色の車の行列が目に見えない道に沿っていずるようにやってくる。悪寒を走らせるようなきしを立てて止まると、そこから即座に灰色の人間の群れが手に手に鉛のすきを持って降り立ち、そこら中をひっかきまわしたあげく、一面が雲に覆われ、他人の視界からはなんの作業をやっているのかわからなくなってしまう。

だが、この灰色の土地、終わりなく立ちこめる荒涼こうりょうとした塵の向こうを見透かそうとしてみたならば、やがて、高みから見下ろすT. J. エクルバーグ博士の瞳が見えてくることだろう。T. J. エクルバーグ博士の瞳は青く、並外れて大きい――網膜もうまくは縦1メートル近くもある。それが乗るべき顔面はなく、その代わりに、実在しない鼻をまたいで繋がっている巨大な黄色い眼鏡をかけている。あきらかに、でたらめな道化者どうけものの眼科医が、クイーンズ区あたりの自分の診療所をにぎわそうとして設置したに違いない。そして、その医者自身が不治ふじ無明むみょうに沈んでいったか、あるいは、忘れたまま引っ越してしまったのだろう。けれどもその瞳は、ずっとペンキを塗りなおされておらず少し色褪いろあせてはいたけれど、晴れの日も雨の日も、このごみ捨て場みたいな土地に目を光らせていた。

灰の谷の片側には、境界線を兼ねる汚い小川が流れていて、この川にかかる跳橋が荷船を通すために上げられていると、橋が降りるのを待つ列車の乗客たちは、最大30分、そこの陰鬱いんうつな景色を見ることができた。最低でも1分はきまって停車する。そしてそれが、ぼくをトム・ブキャナンの女に会わせることになった。

トムに女がいるという事実は、トムを知る人ならば誰だって知っていることだった。トムの知り合いたちは憤慨ふんがいしていたけど、トムはその女を連れて有名なカフェに立ち寄り、彼女をテーブルに残したまま、あちこち歩き回って、知り合いと見ればだれにでも話しかけるらしい。好奇心から一度その女を見てみたいとは思っていたにしても、別にぜひ会ってみたかったわけではない――それなのに、ぼくはこの女と会うことになったのだ。ぼくはある日の午後、トムと一緒にニューヨーク行きの列車に乗っていた。この灰の山のかたわらで列車が停まると、トムは席から立ちあがり、ぼくの肘をつかんで文字どおり無理やりにぼくを車両から追いたてた。

「降りるぞ」とかれは言いはった。「おれの女と会わせておきたい」

思えば、トムは昼食の席でかなり飲んでいた。ぼくをつれていこうという決意は無茶苦茶なものだった。横柄にも、ぼくが日曜の午後にすべきことなど他にあるはずがないと決めつけたのだ。

ぼくはかれを追って鉄道の低い白塗りのフェンスを乗り越え、そしてエクルバーグ博士の監視を受けながら道に沿って1キロメートルほどひきかえす。目の届くかぎり、建物と言えばこの荒れはてた土地のはずれにある黄色い煉瓦れんがのこじんまりとした塊だけだった。メインストリートのミニチュアみたいなところで、隣接するものはなにもなかった。その建物内は3つの店舗が入れるようになっていて、ひとつはテナント募集中、もうひとつは終夜営業のレストランで、この店へは灰の小道がひかれている。そして3軒めはリペアガレージだった――修理.ジョージ B.ウィルソン.自動車売買――そこに入っていったトムを、ぼくも後から追った。

内装は飾り気がなかった。1台だけある車はフォードのスクラップで、薄ぐらい片隅で埃をかぶっている。ふと、この陰気な店はただの目くらましで、頭上には贅沢でロマンティックな部屋があるにちがいない、と思いついた。そのとき、経営者そのひとが奥の事務所から、原型をとどめていない布切れで手をぬぐいつつ現れた。金髪の無気力そうな男だったが、顔立ちはハンサムといえないこともない。ぼくらを目にすると、きれいな碧眼へきがんに濁った希望の光が差した。

「やあ、ウィルソン」とトムは相手の肩を陽気に叩きながら言った。「景気はどうだ?」

「おかげさまで」とウィルソンは言葉をにごした。「あのお車、いつお売りいただけますか?」

「来週だ。いまうちのやつに手入れさせてる」

「えらく遅い仕事ぶりみたいですが、そうお思いになりませんか?」

「ぜんぜん」とトムの返事は冷たい。「そんなことを言うんだったら、結局、他の所で売ったほうがいいかもしれんな」

「いえ、そういうつもりじゃあ」とウィルソンがあわてて説明した。「ただつまり――」

そこから先は続かなかった。トムはガレージをいらだたしげに見まわした。と、階段を降りる足音が聞こえてきて、次の瞬間、事務所のドアからひとりの女が出てきた。30代半ばといったところで、太っていると言えなくもなかったが、むしろその肉付きのよさは、一部の女にしかみられない類の魅力となっていた。ドレスは水玉模様の入ったダークブルーのクレープ・デ・シン。そこから飛び出している顔には輝くようなきらめくような美しさはなかったにしても、全身からすぐそれと分かるバイタリティが感じられた。全身の神経が絶えず煙をあげているような感じだ。女はかすかにほほえむと、まるで幽霊をつきぬけるみたいにして夫の前に出、トムの手をにぎりしめた。瞳がきらめいた。それから唇を湿らせると、振りかえらずに、物柔らかだけれども野卑な声で夫に言った。

「椅子くらい持ってきなさいよ、なにをしてるんだか。どなたかお座りになりたいかもしれないでしょ」

「おお、そうだな」とあわてて同意したウィルソンは、小さな事務所に向かい、そのまま鼠色ねずみいろの壁に溶けこむように消えた。この界隈かいわいのものはすべてそうなのだけど、かれの地味なスーツも、色の薄い髪もまた、灰で覆われていた――例外はこの妻だけだった。そして彼女が、トムに近づいた。

「会いたいんだ」とトムは熱っぽく言った。「次の列車に乗れよ」

「わかった」

「下の新聞の売店のところで待つから」

彼女はうなずいてトムのそばをはなれた。ちょうどそこでジョージ・ウィルソンが椅子をふたつ抱えて事務所のドアを開けた。

ぼくらは彼女が支度をすませ、道に出て視界から消えるまで待った。74日まであと何日もなかった。灰色のやせこけたイタリア人少年が、線路の上に癇癪玉かんしゃくだまを並べていた。

「ひどいところだろう?」と、エクルバーグ博士と眉をしかめあいながら言った。

「これはあんまりだね」

「抜け出すのはあいつにとってもいい」

「でもご主人は気づいてないのか?」

「ウィルソン? ニューヨークの妹のところに会いに行ってるんだと思ってるよ。あいつは鈍いんだ。自分が生きてるってことすら気づいてないかも」

というわけで、ぼくはトムとその女といっしょに、ニューヨーク行きの列車に乗っていた――いっしょにといっても、ミセス・ウィルソンは別の車両に座っていたが。これは、潔癖なイースト・エッグの住民と乗り合わるかもしれないというトムの配慮による。

ミセス・ウィルソンは茶色のモスリンに着替えていた。ヒップがちょっと苦しかったもので、ニューヨークのプラットフォームではトムが手を貸してやっていた。新聞の売店で、彼女は『タウン・タトル』と映画雑誌を1部買い求めた。それから、駅のドラッグストアでコールドクリームと香水の瓶を。階段を上って重苦しい音が響くタクシー待ち場に出ると、彼女は4台のタクシーをやりすごし、5台めの真新しいタクシーを選んだ。外装はラベンダー色で、中は灰色にまとめられていた。それに乗って、ぼくらは混み合う駅からぎらぎらと照りつける太陽の下へとすべりだした。が、発車後すぐにするどく窓を振りかえったミセス・ウィルソンが、前に身を乗り出して運転席との間を仕切るガラスをこんこんと叩いた。

「あの犬のどれか、欲しい」と熱心に言う。「あの部屋に一匹飼っておきたいのよ。すてきじゃない――犬を飼うって」

ぼくらは白髪頭しらがあたまの老人のところにひきかえした。老人の容貌ようぼうは、馬鹿げたことに、ジョン D.ロックフェラーそっくりだった。首から吊るしているかごの中には、血統は不確かながら結構こぎれいな子犬たちが収まっている。

「種類はなに?」とミセス・ウィルソンは、男がタクシーの窓ぎわに寄ってきたところで、熱心にたずねた。

「なんでもございますよ。奥さまはどういう種類がお望みですか?」

「警察犬みたいなのが欲しいの。そういうのってないかもしれないけど」

男は自信なさそうに籠をのぞきこみ、手を差し入れて1匹の子犬の首根をつかんでひっぱりだしてきた。子犬はじたばたと暴れている。

「そいつは警察犬じゃない」とトム。

「そう、正確には警察犬とは言えません」とがっかりした声で言う。「エアデルといったほうがよろしいです」と言って、子犬の茶色い背中を、手ぬぐいで手を拭くみたいに撫で回した。「この毛並みをごらんください。ちょっとしたものですよ。この犬は風邪かぜをひいたりしてご心配をおかけするようなことがありませんよ」

「かわいい」とミセス・ウィルソンは熱っぽく言った。「いくら?」

「こいつですか?」と言うとたたえるような目つきで子犬を見る。「10ドルにしておきましょう」

そのエアデルは――足ははっとするほど白かったけれど、たしかに、どこかエアデルの血は引いているようだった――老人の手からミセス・ウィルソンの膝に移動し、主人を変えた。ミセス・ウィルソンがうっとりとした顔で、自分の膝の上にいる子犬の暖かそうな毛をなでる。

「これ、男の子、女の子?」デリカシーのある聞き方だった。

「そいつですか? それは男の子ですよ」

「そいつはメスだ」とトムが決めつけるように言う。「金はここにある。こいつで10匹でも仕入れてくるんだな」

ぼくらは5番街を疾走しっそうした。暖かく、優しく、牧歌的ぼっかてきとさえいえそうな夏の日曜の午後だった。角からひつじの大群が出てきたとしても、驚きはしなかっただろう。

「待って」とぼくは言った。「ここでお別れしないと」

「馬鹿言うんじゃない」とトムがすかさず言った。「アパートまできてくれないとマートルが傷つく。そうだろ、マートル?」

「おいでなさいよ」と彼女もしきりにすすめた。「妹のキャサリンにも電話する。あの子のことを知ってるひとみんな、とてもきれいだって誉めるんだから」

「いや、行きたいことは行きたいんですが、でも――」

ぼくらはそのまま走りつづけた。ふたたびパークを抜け、西区に向かう。百番代の通りにきてもまだ走りつづけたが、158番街、白の細長いケーキみたいなアパートの前でタクシーは停まった。王が帰ってきたときのような視線で近隣を睥睨へいげいしながら、ミセス・ウィルソンは犬を他の買い物荷物といっしょに抱え上げ、横柄な態度で中に入った。

「マッキーさんも家族そろって呼ぶつもり」と、彼女はエレベーターの中でアナウンスした。「それからもちろん、妹にも電話する」

部屋は最上階だった――こじんまりとしたリビング、こじんまりとしたダイニング、こじんまりとしたベッドルーム、それから浴室。リビングは四面ドアだらけ、タペストリーをかけられた家具一式はあまりに大きすぎて、ちょっと歩くたびにベルサイユの庭のブランコに貴婦人たちが揺れるシーンにつまづくありさまだった。1枚だけかけられている額縁がくぶちには無理に拡大された写真が収められている。どうやらかすんだ岩に休む雌鶏めんどりを撮ったものらしく見える。が、遠くからみると雌鶏は婦人帽と化し、老婦人の顔が部屋を見下ろしている、という案配あんばい。テーブルの上にあるのは、『タウン・タトル』のバックナンバーが何部か、そのそばに『ペテロと呼ばれしシモン』が1部、それからブロードウェイ関係の小さなゴシップ誌が何部か。ミセス・ウィルソンがまず気がけたのは、犬のことだった。いやいやながらに箱一杯のわらとミルクをいくらかとりにやらされたエレベーターボーイは、その他独断で、大きくて堅い犬用ビスケットのブリキ缶を運んできた――そこからとりだされた1枚が、その日の午後ずっとミルク皿に浸され、けだるそうに崩れていくことになる。トムはといえば施錠せじょうされていたドレッサーからウイスキーを1本取り出してきた。

ぼくが酔っ払ったのは一生に2度しかない。2度めはこの午後のことだ。だから、見ることすべてが霧がかかっているみたいにおぼつかなかった。8時すぎてもなお太陽が燦々さんさんと室内を照らしていたというのにだ。トムの膝に座ったミセス・ウィルソンは何人かに電話をかけていた。煙草がなかったものだから、ぼくが角のドラッグストアまで買いに行った。もどってきてみるとふたりは連れだって姿を消していたため、ぼくはおとなしくリビングに腰を落ちつけ、『ペテロと呼ばれしシモン』を一くぎり読んでいった。小説がひどい代物だったためか、ウイスキーがよく回る代物だったためか。どちらにせよ、ぼくにはこの小説が何を言いたいのかさっぱりわからなかった。

トムとマートル(飲みはじめたとたん、ぼくとミセス・ウィルソンはおたがいをファーストネームで呼びあうようになった)が帰ってきたちょうどそのとき、客たちがやってきた。

問題の妹キャサリンは、ほっそりとした世俗的な女で、年のころは30ほど。量が多くて重苦しそうな赤毛をばっさりショートにしている。顔はパウダーで乳白色になっていた。眉毛まゆげは引きぬかれて前より粋な角度に描きなおされていたけれど、もとの形を取りもどそうとする自然治癒能力のせいで顔全体がぼやけた感じだ。動き回るたびに腕に数えきれないほどはめた陶器の腕輪が上下し、涼しげな音をたてた。ここにきたとき、まるで自分の部屋に帰ってきたみたいな態度だったから、ぼくはここに住んでいる人なんだろうかと思ったりした。けれども、実際にそうたずねてみると、彼女は遠慮なく笑ってぼくの質問を大きな声でくりかえすと、女友達とホテルに住んでいると言った。

ミスター・マッキーは下の部屋に住む顔色の悪い優男やさおとこだった。ついさっき髭を剃ったばかりらしく、頬骨ほおぼねに白い石鹸せっけんの跡が1点しみついていた。たいそう礼儀正しく室内の全員に挨拶した。ぼくには「芸術関係の仕事」をしていると自己紹介した。後からいろいろ考えあわせてみるとかれは写真家で、壁に亡霊ぼうれいみたいに浮かんでいるミセス・ウィルソンの母親のぼやけた拡大写真を作ったのはかれなのだと気づいた。かれの妻は、甲高かんだかい声でしゃべり、けだるそうな態度の、顔立ちは端正たんせいだったけれど、ひどく嫌な感じのする女だった。彼女は、夫が結婚以来127回自分を撮り下ろしたとぼくに自慢した。

ミセス・ウィルソンはいつのまにか服を変えていて、いまはクリーム色の絹を念入りに織り上げたアフターヌーン・ドレスをまとい、部屋の中を歩くたびに衣擦きぬずれの音をたてていた。ドレスの影響もあるのだろう、人格もまた変化の波をかぶっていた。あの激しいバイタリティはガレージではすぐそれと分かるほどだったのに、それが印象的な尊大さに作り変えられていた。その笑い方、その身振り、その言葉。すべてが時を追うにつれ乱暴になり、彼女が膨らんでいくにつれ、まわりの部屋は縮み上がり、やがて場のけむたい空気全体が彼女を中心に回っているように思えてきた。

「ねえキャサリン」と取り澄ました裏声で言う。「ああいうやつらって、たいていあんたをだまそうとしてるのよ。連中の頭の中には金のことしかないんだから。先週、足を診てもらおうと女をひとり呼んだんだけど、よこしてきた請求書ときたら、見せたかったな、盲腸でも切ったのかと思うくらいなんだから」

「その女、なんていう名前?」とミセス・マッキー。

「ミセス・エバハート。足を診に、頼まれれば家まで出かけていくひと」

「それ、いいドレスね」とミセス・マッキーが言った。「ほれぼれするくらい」

ミセス・ウィルソンは軽蔑したように眉を吊りあげてその賛辞さんじをはねのけた。

「ぜんぜんだめよ、こんなの。どう見えてもいいやってときだけ、これを引っかけるようにしてる」

「でもあんたが着ればぜんぜん違うみたい。つまりそういうこと」さらに追い討ちをかける。「もしチェスターにそのポーズを撮ってもらえば、ちょっとしたものができると思うんだ」

ぼくらは黙ってミセス・ウィルソンに注目した。彼女は目にかぶさっていた髪をかきあげると、きらきらした目でぼくらを見返した。ミスター・マッキーは片側から覗きこむようにして熱心に構図を見積もり、やがて手を自分の顔の前にかざし、ゆっくりと前後させた。

「光線を変えたほうがよさそうだ」と、しばらくしてから言う。「顔立ちのモデリングをはっきり出したいから。それから、後ろの黒い髪もぜんぶ捉えたいな」

「光線なんて変えなくていいじゃない」とミセス・マッキーが言った。「だからつまり――」

夫が「しっ」とさえぎった。ぼくらはふたたび題材を見つめたが、するとすぐトム・ブキャナンがあくびをしながら立ちあがった。

「マッキーたちも何か飲めよ。マートル、氷とミネラルウォーターをもうすこし持ってきてくれ、みんなが眠っちまうまえに」

「氷はさっきのボーイに言っといたんだけど」とマートルは注文が無視されていることに失望して眉を吊りあげた。「あの連中! ずっとうしろから監視してないとなんにもしないんだから」

そう言ってぼくを見、意味もなく笑い出した。それから犬のところに飛んでいくと、うっとりしたようすでキスし、何十人ものシェフが彼女の指示を待っているのだと思わせるような勢いでキッチンに駆けこんだ。

「ロング・アイランドはいい仕事のできる環境ですね」とミスター・マッキー。

トムは要領を得ないままかれの顔を見た。

「下にふたつ、そういうやつを飾ってあります」

「ふたつの、何を?」とトムが問う。

「習作をふたつ。ひとつは『モンターク岬――カモメ』といいまして、もうひとつは『モンターク岬――海』と呼んでいます」

長椅子に座っていたぼくの横に、キャサリンが腰を下ろした。

「あなたもロング・アイランドに住んでるの?」

「ウェスト・エッグにね」

「ほんと? 1ヶ月くらい前、そこのパーティーに行ったことある。ギャツビーってお名前のひとのところ。かれのこと、ご存知?」

「その人の隣に住んでるんだ、ぼくは」

「そう。みんなね、あのひとのことをウィルヘルム皇帝の甥か従弟かって言うのよ。そこからお金が出てるんだって」

「ほんとに?」

彼女はうなずいた。

「わたし、あのひとが恐くて。あんまりあのひとの目にとまりたくないな」

ぼくは隣人に関するこの新情報にすごく興味があったけれど、ミセス・マッキーが不意にキャサリンを指差してこの話の腰を折った。

「チェスター、あのひとでならちょっとしたものが作れそうじゃない?」とわめくように言った妻に、ミスター・マッキーはただうんざりしたようにうなずいてみせただけで、トムと話をつづけた。

「ロング・アイランドでもっと仕事したいんですよ。うまく入りこめさえすれば。つまり欲しいのはきっかけ、それだけなんです」

「マートルに頼めよ」とトムはトレイを持って入ってきたミセス・ウィルソンに向かって笑いかけた。「あれが紹介状を書いてくれる。やってくれるよな、マートル?」

「何をするって?」と彼女はとつぜんのことにたずねかえした。

「マッキーにウィルソンへの紹介状を書いてやれよ、そうすればあいつを題材に習作が作れるだろうから」それから言葉をさがすようにちょっと黙って、「『ガソリン・ポンプにつくジョージ・B・ウィルソン』とかいうようなのをな」

キャサリンがぼくにかがみこむようにして、耳打ちした。

「あのひとたち、どっちも自分たちの結婚相手に我慢できないのよ」

「できない?」

「我慢できないのよ」と答えてマートルを見、トムを見た。「だからね、なんであのひとたちは我慢できない相手と暮らしつづけてるんだろう、って言いたいのよ、わたしは。わたしだったら、離婚してお互いに再婚する。そうするべきよ」

「マートルもウィルソンを嫌ってるわけ?」

答えは意外なところから飛んできた。ぼくらの話が聞こえたのだろう、マートル自身がこの質問に乱暴で猥雑わいざつな答えを返してきたのだ。

「分かったでしょ?」とキャサリンは勝ち誇って叫んだ。それから声を落としてつづける。「トムの奥さんが問題なのよ、別れるにあたっては。あのひとカトリックでしょ、カトリックでは離婚が認められないから」

デイジーはカトリックではない。ぼくはその念の入った嘘に、多少ショックを受けた。

「再婚したとしたら」とキャサリンがつづける。「西部に行ってほとぼりをさますつもりみたい」

「ヨーロッパまで行ったほうがいいんじゃないかな」

「へえ、ヨーロッパが好きなの?」とびっくりしたようすで言う。「わたし、ついこないだモンテ・カルロからもどってきたところ」

「そうなんだ」

「まだ去年のことね。友だちといっしょに行ったの、女の友だち」

「長く?」

「ううん、モンテ・カルロに行ってもどってきただけ。マルセイユ経由よ。出かけるときは1,200ドル以上あったのに、カジノでぜんぶ巻き上げられちゃって。たった2日でよ。帰りは散々だったな、はっきり言って。まったくあの街ってほんとに最低!」

夕暮れ間際の空の輝きが窓にさあっと流れ込み、その青のうるおいに地中海ちちゅうかいを見る――そこにミセス・マッキーの金切り声が響いて、ぼくの意識は室内に呼びもどされた。

「あたしだってあぶなかったんだから」といやに元気よく宣言する。「もうすこしであたしを何年も追っかけつづけてたちゃちなユダヤ人と結婚するところでさ。あいつなんかあたしとはくらべものにならないちんけなやつだってわかってた。みんな口をそろえて言いつづけた、『ねえルシル、あんな男、あんたの足元にもおよばないじゃない!』 でももしチェスターに出会わなかったら、あの男のものになってたかもしれないんだから」

「そうね。でもさ」とマートル・ウィルソン、激しくうなずきながら言う。「あんたは結局そいつとは結婚しなかったんでしょ」

「もちろんそうよ」

「それがね、こっちは結婚したってわけ」と言葉を濁した。「それが、そっちとこっちとの違いなのよ」

「なんで結婚したんだっけ、マートル?」とキャサリンが絡む。「べつにだれかから強制されてってわけじゃないでしょ」

マートルはしばらく考えこんだ。

「あのひとが紳士だと思ったからね」とやがて言った。「家族を養うことくらいは知ってると思ってたんだけど、あたしの靴を舐める資格もない男だった」

「しばらくはあのひとに夢中だったじゃない」とキャサリン。

「なんだって?」信じられないといった口調で叫ぶ。「だれよ、あたしがあのひとに夢中だったことがあるなんて言ってるのは。わたしがあのひとに夢中だったことなんてぜんぜんありゃしない、それはそう、そこにいるひとが相手のときとおんなじこと」

と言ってマートルが不意にぼくを指さすと、全員の非難するような視線がぼくに集中した。それでぼくは、変な気なんてぜんぜんないのだというのを態度で示してみせた。

「そうね、夢中だったのは結婚したときだけよ。ちゃんと起きてたんならあんな真似まねしでかしたはずないもの。すぐ間違いだったと分かった。だってあのひと、だれかから一張羅いっちょうらを借りて式に出たのよ、私にはなんにも言わずにね。それで後からあのひとが出かけてるときにそのひとが自分のスーツをとりにきたわけ。わたし、思わずこう言った。『え、あなたのスーツだったんですか? それは初耳はつみみです』って。でもとにかくスーツを返して、その日の午後ずっと泣きまくった」

「ね、ほんとうの話、ご主人とは別れたほうがいいみたいでしょ」とキャサリンがぼくに向かって言った。「もう11年もあのガレージに住んでるのね。それで、トムが生まれてはじめての恋人ってわけ」

ウイスキーのボトル――2本めの――はいまや出席者全員から手が出るようになっていた。といってもキャサリンは例外で、彼女は「なにも飲まなくてもいい気持ちで」いた。トムがベルを鳴らしてアパートの管理人を呼び、評判のサンドイッチを買いに行かせた。これでその日の晩餐ばんさんのメニューはおしまいだった。ぼくは黄昏たそがれどきの静かな戸外に出て東のほう、公園あたりまで散歩したかったのだけど、そうしようとするたびにぼくは声高に戦わされる無茶苦茶な議論に巻きこまれ、ロープで引っ張られるようにして椅子にもどされた。部屋の窓が描く黄色い帯は高いところにあったはずだけど、それでも暮れゆく通りから見上げるあの通行人の目には人類の秘密の一端を担うもののように思えたに違いない。ぼくもまたかれを見返し、それから天井を見、もの思いにふけった。人生の尽きることない多様性に魅了され、同時にまた反感も覚えながら、ぼくの心は室内と室外を行きつ戻りつした。

マートルが自分の椅子をぼくのそばまでひっぱってきて、急に、生温かい息に乗せてトムとの出会いをぼくに語りはじめた。

「その列車にはいつも最後まで空いてる席がふたつあってね。向かい合わせの席なんだけど、そこでかれとはじめて会ったのよ。あたしは妹に会いにニューヨークに行って、そのまま泊まってくる予定だった。かれは夜会服やかいふくをきて、エナメルの革靴をいてた。あたしの目はかれに釘づけだった。でもかれの目がこっちに向けられるたび、あたしは自分がかれの頭の上の広告を見てるふりをしたっけ。駅につくとかれはあたしの隣に座って、白いワイシャツの前をあたしの腕に押しつけてきた。それで警察を呼ぶって言ってやったんだけど、嘘だと分かってたのね。あたし、ぼうっとしちゃってかれといっしょにタクシーに乗ってしまった。地下鉄に乗るはずだったのにね。頭の中で繰り返し繰り返し考えてた。『永遠に生きることはできないんだぞ、永遠に生きることはできないんだぞ』」

彼女はミセス・マッキーをふりかえると、不自然な笑い声を室内にとどろかせた。

「ねえ、このドレス、脱いだらあんたにあげる。あたしは明日新しいの買わなきゃだめだから。揃えておかなきゃだめなの、リストしとこう。まず、マッサージを受けて、ウェーブをかけて、それから犬の首輪に、あのスプリング式のかわいい灰皿ね。それから一夏ひとなつもちそうな黒い花束を、母のお墓に。やらなきゃだめなことを忘れないうちにリストしとかないと」

9時――その後すぐに自分の時計を見たはずなのに、針は10時をさしていた。ミスター・マッキーは椅子に座り、拳を膝の上に乗せたまま眠っていた。写真の中の活動家のように。ぼくは自分のハンカチを取り出し、ずっと気になっていた、頬に残っていた石鹸の乾いた跡をぬぐった。

子犬はテーブルの上に座って、まだよく見えてない目で、煙がもうもうとたちこめる部屋にじっと目を凝らし、ときどきかすかにうなった。人々は消え、ふたたび現れ、どこかへ行こうと計画し、それからおたがいを見失い、おたがいを捜し、数十センチはなれたところにおたがいを見出す。深夜になろうとしているころ、いつのまにかトム・ブキャナンとミセス・ウィルソンとが立ちあがって顔と顔とをつきあわせ、ミセス・ウィルソンにデイジーの名前を呼ぶ権利があるのかないのか言いあっていた。

「デイジー! デイジー! デイジー!」とミセス・ウィルソンが叫んだ。「言いたいときはいつだって言いますとも! デイジー! デイ――」

無駄のない動きでトム・ブキャナンは彼女の鼻に平手打ひらてうちをくれた。

血染ちぞめのタオルがバスルームの床に放り出され、騒々しい女たちの声が飛び交い、それを吹き飛ばすような泣きわめきが余計に部屋の混乱をかきたてる。ミスター・マッキーが目を覚まし、なかば寝ぼけたままドアへと向かった。ドアまであと半分というところでくるりとふりかえって室内を見まわした。自分の妻とキャサリンが救急用品を手に部屋中の家具に何度もけつまずく。そして寝椅子に弱々しく横たわるミセス・ウィルソンはだらだらと血を流しながら、『タウン・タトル』をタペストリーに織りこまれたベルサイユの情景に広げようとしている。ミスター・マッキーはふりかえり、そのままドアから出ていった。シャンデリアから帽子をとったぼくもそのうしろに続いた。

「そのうちランチにおいでください」と、かれは、ぼくらが乗るエレベーターがうめく中、提案した。

「どちらで?」

「どこででも」

「レバーから手をお放しください」とエレベーターボーイが鋭い口調で言った。

「失礼」とミスター・マッキーは威厳をもって受け答える。「触っているとは思いもしなかった」

「かまいませんよ」とぼくは言った。「そのときはぜひ」

……ぼくはかれのベッドのそばに立ち、かれは下着姿でシーツの上に身を起こし、分厚ぶあつい写真集を両手で広げていた。

「『美女と野獣』……『孤独』……『オールド・グロッサリー・ホース』……『ブルックン・ブリッジ』……」

いつのまにか、ぼくはペンシルベニア駅の寒い地階に寝転がっていて、『トリビューン』の朝刊をうとうとながめながら、4時の列車を待っていた。

3

夏の間、隣の家からは毎晩音楽が聞こえてきた。その青々とした庭を、成人と小娘の群れが、噂話からシャンパンへ、シャンパンから綺羅星きらぼしへと、蛾のように行き交う。高潮たかしおが午後にあたれば、訪客たちが浮き桟橋さんばしにある飛び込み台から海にとびこんだり、砂浜で日光浴をしたりする一方、2台のモーターボートがその航路を泡立たせながら水上スキーアクアプレーンいて疾走するのが見受けられた。週末になるとロールスロイスが送迎バスに早変わりし、朝9時から深夜まで市内と屋敷を往復する。ステーションワゴンのほうはといえば、列車を一便たりとも逃すことなく出迎えようとミツバチのようにあくせく走りまわった。そして月曜日になると、臨時の庭師を加えて8人の雇い人たちが、モップやたわしに金槌かなづち園芸鋏えんげいばさみを手に、前夜の狼藉ろうぜきの跡を一日がかりで修復する。

金曜日にはニューヨークの果物屋から木箱で5箱分のオレンジやレモンが届けられた――その同じオレンジとレモンが、月曜日には真っ二つにされた皮だけのピラミッドになって勝手口から出ていく。屋敷には200個のオレンジを30分で絞ってしまう機械があった。執事が小さなボタンをせっせと200回押してやりさえすれば。

すくなくとも2週間に一度は、数十メートルもの麻布ズックと、ギャツビー邸の庭全体を1本のクリスマスツリーに仕立て上げられそうなくらいの色電球を抱えた、イベント屋の大部隊がやってくる。ビュッフェのテーブルには、きらきら光るオードブルの飾りつけとともに、スパイス入り焼きハムが並べられる。その下敷きになっているのは道化師ハーレクインの服を思わせる盛りつけのサラダ。さらに、豚型の練り菓子や、摩訶まか不思議にも黄金色に輝く七面鳥しちめんちょう。大広間には真鍮製しんちゅうせいの手摺がついたカウンターが設けられ、ジンやリキュールとともに、ギャツビー邸にやってくる女の客人にはその若さゆえにとうてい見分けることができそうにない、とっくに忘れ去られたドリンク類がストックされる。

7時までにはオーケストラも到着。5パート程度の代物しろものではなく、席一杯に、オーボエ、トロンボーン、サキソフォン、ビオール、コルネット、ピッコロが並び、高低取り揃えられたドラムがそこに加わる。最後まで泳いでいた連中がビーチから引き上げてきて2階で着替えるころになると、邸宅内の私道にはニューヨークからきた車が5列に並んで駐まり、もうすでに大広間も客間もベランダも原色ベースでけばけばしく飾りたてられ、新奇なスタイルのショートボブの髪、カスティリャの夢もかすませる華麗かれいなショールがそこにいろどりを加える。カウンターは大盛況。カクテルが外の庭にまで繰り返し繰り返し運ばれていくうちに、おしゃべりと笑いとで雰囲気はなごみ、その場かぎりで忘れ去られるさりげない当てこすりや自他の紹介が取り交わされ、おたがいの名前さえ知らない女同士がやたらと浮かれた調子で出会いを喜びあう。

地球がゆるゆると太陽を引き離していくにつれて照明はますます明るくなり、オーケストラがかしましくカクテル・ミュージックを奏でる中、人々の声が織りなすオペラもまた次第にキーを上げてゆく。笑いの渦は、虚しく費やされるだけというのに、陽気な言葉を載せ、刻一刻と勢力を広げてゆく。グループ構成の寿命はどんどん短くなり、新来の客を得て膨れ上がるや、一呼吸のうちに散ってはまたもとの形に集う。自分たちより腰の重い連中の間をさすらう大胆な女たちがもうすでにいて、あるグループの中心となり、興奮して勝利の余韻よいんに酔いながら、また、絶えず変わりつづけるライトに照らされ激変する、顔、声、色のわだつみを、颯爽さっそうと渡っていく。

とつぜん、こうしたジプシー娘のひとりが、全身のオパールをゆらゆら揺らしながらカクテルをさっと取り上げて一気呵成いっきかせいに飲み干し、両手をフリスコのダンスのように動かしつつ、ひとり、麻布をはったステージに踊りでる。束の間、みなが固唾かたずを飲む。オーケストラの指揮者が親切にも彼女に合わせてリズムを変えてやると人々の間にも声がもどり、たとえば、あれは『フォリーズ』からギルダ・グレイの代役できた女だという誤情報が聞こえてくる。パーティーはすでに始まっているのだ。

ぼくがはじめてギャツビーの屋敷を訪れた夜、正式に招待されてきた客はぼくを入れても数えられるほどだったと思う。人々は招待されたのではない――勝手にやってきたのだ。ロング・アイランドに向かう自動車に乗りこみ、とにもかくにもギャツビー邸の門前で降りる。そこまでついたらだれかギャツビーを知る人間にとりなしてもらえる。あとは遊園地のルールに準じて行動すればいい。ときには、帰るまでの間にギャツビーと一度も会わないことだってある。複雑な思惑おもわくを絡めずただパーティーにやってきたがる心、それ自体が入場に必要なチケットだった。

ぼくは実際に招待を受けていた。駒鳥こまどりの卵のような青色の制服を着た運転手が土曜日の朝、ぼくの家の芝生を通って、かれの雇用主からのびっくりするほど堅苦しいメモを置いていったのだ。もしぼくがきたる夜に開かれるかれの「ささやかなパーティー」に出席してやれば、その栄誉すなわちギャツビーの全栄誉になるでありましょう。かれはぼくを何度か見かけていて、ずいぶん前からぼくを訪ねようと思っていたのだけど、いろいろの事情が相重あいかさなって果たせずにいた、そうな。終わりにはジェイ・ギャツビーというサイン。いかめしい筆跡のサインだった。

白のフランネルをめかしこんだぼくは、7時をすこしまわったころにかれの芝生内に入り、やや不安な気持ちで、あたりに渦巻く見知らぬ人々の間を歩きまわった――といっても、通勤列車で見かける顔もあちこちにいたけれど。ぼくがまず気になったのは、若い英国人の数だった。べつにかれら同士でグループを組んでいるわけではないけれど、一様に仕立てのいい服を着て、えた顔つきで、羽振りのいいアメリカ人に低い熱心な声で話しかけている。何かを売りつけようとしているのだ。証券か、保険か、あるいは自動車か。かれらはこの付近に楽な儲け話がごろごろ転がっていることをすくなくとも察してはいて、苦しい思いを忍びながら、正しいキーでの23言と引き換えにその話を現実にできるという確信を抱いているのだ。

到着後すぐ、ぼくはパーティーのホストを探そうとしたが、かれの居場所を23の人に尋ねてみたところ、かれらは驚いたと言わんばかりに目を丸くして、あいつがなにをしていようと知ったことかという返事で迎えられ、ぼくはこそこそとカクテルのテーブルのほうに退散した――あぶれた男がひとりでくすぶっていても、寂しげに思われたり手持ち無沙汰ぶさたと思われたりしなさそうなところといえば、庭にそこだけしかなかった。

ぼくがまったくの当惑状態から騒がしい酩酊めいてい状態へと移行し終える前に、ジョーダン・ベイカーが屋敷の奥から庭に出てきて、大理石のステップのてっぺんに立った。すこし背筋を反らし、からかうようなあざけるような興味をたたえた目を、下手の庭へと向けている。

歓迎されようがされまいが、通りがかりの人々に声をかけるにしても連れがいないのでは気もそぞろでやりようがないものだから、とにかく連れを作らなくては。

「こんばんは!」ぼくは彼女のほうに向かいつつ怒鳴った。ぼくの声が庭中に不自然に大きく響いたような気がした。

「もしかしたらいるかなと思ってたのよ」ぼくが近づいてくるのを見て、彼女は心ここにあらずといった感じで応じた。「たしか、お隣にお住まいって――」

彼女は、少しだけなら相手してあげる、と言わんばかりの冷淡さでぼくの手をとり、そのまま、ステップの下から声をかけてきたお揃いの黄色いドレスを着た2人の娘に顔を向けた。

「こんばんは!」と2人一緒に呼びかけてくる。「残念だったな、あなたが勝てなくって」

ゴルフのトーナメントの話だ。1週間前の決勝戦でジョーダンは敗れたのだ。

「わたしたちがだれか、お分かりにならないかもしれないけど」と片方が言う。「1ヶ月前、ここでお目にかかったのよ」

「あれから髪を染めたんでしょ」とジョーダンが言った。その言葉にははっとさせられたけど、すでに2人組の娘は自然とその場を離れてしまっていたため、ジョーダンの言葉は月に向けられる結果となった。空はまだ暮れきらないというのに浮かんでいた月は、どうしても、あの晩餐ばんさんと同じく仕出し係のバスケットからでてきたもののように思えてならなかった。ジョーダンのほっそりとした小麦色の腕がぼくの腕に置かれる。ぼくらはステップを降り、庭をうろついた。黄昏たそがれに染まったカクテルを乗せたトレーが眼前に差し出され、ぼくらはテーブルに腰を落ちつけた。そこには先ほどの黄色いドレスの娘たちと、3人の男たちがいた。男性陣はこもごもミスター・なんとかと自己紹介してくれた。

「あなた、こういうパーティーにはよくくるの?」とジョーダンが隣の娘に訊いた。

「最後にきたのはあなたとあったときね」きびきびとした答えを返した彼女は連れを振りかえって、「あなたもそうじゃない、ルシル?」

ルシルもそうだった。

「好きなのよ、パーティーにくるの」とルシル。「自分が何をやるのか、そんなことはどうでもいいわけ。だからいつも楽しく過ごせる。前ここにきたときは椅子でガウンをやぶいちゃったんだけど、そしたらあのひとが私の名前と住所を聞くのよ――それから1週間もしないうちにクローリアから新品のイブニングガウンが届いたっけ」

「それ、いまも持ってる?」とジョーダンが尋ねる。

「もちろん。今夜着てくるつもりだったんだけどね、バストが大きすぎて仕立てなおさなきゃだめだったのよ。ラベンダー色のビーズをあしらった空色のガウンでね。お値段は65ドル」

「そういうことをする人って、なにか裏があるものよ」ともうひとりの娘が熱心に訴える。「あのひと、だれとでも、だれひとりともトラブルを起こしたくないみたい」

「だれがです?」とぼくは訊いた。

「ギャツビー。聞いた話だけど――」

2人の娘とジョーダンは、あたりを気にするように身を乗り出した。

「聞いた話だけどね、あのひと、人を殺したことがあるんじゃないかって」

ぼくらの間に戦慄が走った。3人のミスター・某もいまや身を乗り出し熱心に話を聞いていた。

「それはちょっと違うんじゃない」とルシルが疑問を挟む。「戦争中、ドイツのスパイをやってたってのがもっとありえそうな話だと思うんだけど」

男のひとりがうなずいて賛意を示す。

「ぼくがあの男のことならなんでも知ってるってやつから聞いた話じゃ、そいつとあの男はドイツで一緒に育ったらしいぜ」と、肯定的な証言。

「まさか」と最初の娘が答えた。「そんなはずない、だってあのひと、戦争中はアメリカの陸軍に入ってたんだもの」ぼくらの注目をとりもどした彼女は熱っぽく身を乗り出した。「他人の視線から逃れたと思って気をゆるめたときのあのひとの姿、見たことないかな。あれは人を殺したことのある男ね、賭けてもいい」

と言って目を細め、体をぶるっと震わせた。ルシルも震えた。ぼくらは揃って振りかえり、きょろきょろとギャツビーの姿を求めた。かれは他人にロマンを感じさせる男だった。この世にひそひそと話す必要性をほとんど認めない連中に、こうしてひそひそと話させたというだけで、それはじゅうぶんに証されたわけだ。

最初の晩餐ばんさん――夜更けにもう一度出るらしい――がふるまわれていた。ジョーダンはぼくを招いて自分の仲間たちとひきあわせてくれた。庭の反対側にあったテーブルを囲んでいた連中だ。夫婦連れが3組、それからジョーダンのエスコート役。辛辣しんらつな皮肉ばかり言っているしつこい大学生で、遅かれ早かれジョーダンが自分に屈し、多かれ少なかれ自分を頼みとするようになると思っているのが態度にはっきり表れていた。この連中はうろうろ席を立って回らず、その代わりに型にはまった威厳を保ちつづけ、それを田舎じみた昔ながらの気品にみちた社交辞令しゃこうじれいで飾りたてる――ウェスト・エッグ風に格を落としながらも、注意深く、そのけばけばしい陽気さからは身を遠ざけるイースト・エッグそのものだった。

「抜け出そうか」とジョーダンがささやきかけてきた。すでに30分ほど意味のない時間を空費していた。「これはちょっとおとなしすぎる」

ぼくらは立ちあがった。招待主に会いにいくのだと、ジョーダンがまわりに説明する。このひと(ぼくのことだ)、まだ一度もかれにあったことがないからどうしても落ちつけそうにないらしくて。大学生はシニカルな、メランコリックな印象を与えるうなずきかたをした。

カウンターをぼくらは最初にのぞいてみた。かなり人が集まっていたけれど、ギャツビーはいなかった。ステップの最上段に立ったジョーダンの目にもギャツビーはつかまらなかったし、ベランダにもいなかった。なりゆきでぼくらは荘重なドアを試した。中に入ってみると、そこは天井の高いゴシック風の書斎で、彫刻入りのオーク板が羽目板として使われていた。おそらくは海外の打ち捨てられた屋敷から一切合切いっさいがっさいを運んできたのだろう。

そこには中肉の中年男がいた。ふくろうの瞳を思わせるやたら大きな眼鏡をかけ、いささか酔って、巨大なテーブルに座りこんでいる。散漫なようすもうかがえたけど、視線はじっと本棚に向けられていた。ぼくらが入っていくとかれはくるりと振りかえり、ジョーダンを頭のてっぺんからつま先までじろじろ見た。

「どう思う?」といきなり絡んでくる。

「なんのことです?」

かれは手を動かして本棚を示した。

「あれのことだよ。実際のところ、きみらは確かめなくていい。私が確かめてみたから。本物だよ」

「本が?」

かれはうなずいた。

「まったくの本物だ――ページもなにもかも揃ってる。私は全部もちのいい厚紙で作ったんだと思っていた。実際のところ、どれもまったくの本物だ。ページも――ほら! お目にかけようか」

ぼくらの疑わしげなようすを見て、かれは本棚に飛びつき、『ストッダード・レクチャーズ』の第1巻を手にもどってきた。

「ごらん!」かれは勝ち誇ってわめいた。「正真正銘しょうしんしょうめいの印刷物だよ。みごとにしてやられた。ここのやつはベラスコーの常連だな。見事なもんだ。まさに完璧だ! これぞリアリズム! しかも引き際を知っていて――ページを切ってない。それにしても、きみらはなにをしにきた? なにを捜している?」

かれはぼくから本を奪いとって本棚にもどした。ぶつぶつと、煉瓦れんが1つ外しただけで書庫全体が崩れ落ちるかもしれない、などとつぶやきながら。

「だれかに連れてこられたのか?」とかれがふたたび絡む。「それともふつうにきたのか? 私は連れてこられたんだ。ほとんどの連中は連れてこられてる」

ジョーダンは黙ったまま面白そうに男を観察していた。

「ルーズベルトという女が私を連れてきたんだ」とかれは言葉を続けた。「ミセス・クロード・ルーズベルト。名前くらいは聞いたことあるだろう? 私はあの女と昨晩どこかで会ったんだ。ここ1週間ずっと酔っ払ってるからね、私は。それで書庫に座っていれば酔いも覚めるかと思ってさ」

「覚めましたか?」

「すこしくらいは、たぶんね。まだ分からない。きて1時間くらいしか経ってないしな。本の話はしたっけ? あれは本物だ。どれもみな――」

「それはお聞きしました」

ぼくらは重々しく握手を交わし、ドアの外に出た。

庭のステージではダンスがはじまっていた。若い女をひたすら押しまくっては果てしなく無様ぶざまな円を描きつづける老いた男たち。隅のほうには、欺瞞的に、ファッショナブルに手を取り合う上流者同士のカップル。――そして、勝手気ままにおどりまくり、オーケストラのリズム隊からバンジョーやパーカッション類をしばらく拝借したりと、やりほうだいの小娘たち。深夜、馬鹿騒ぎは頂点を極めていた。著名なテナーがイタリア語で歌うと、悪名高いコントラルトがジャズを歌う。庭中の人々の間でおたがいの「隠し芸」が披露され、その一方、楽しげで無内容な笑い声が炸裂し、夏の夜空にこだまする。コンビになった舞台芸人が――それが、さきほど会った黄色いドレスの2人組だと気づいたのは後になってのことだったが――衣装をつけて幼稚な芝居をやる。シャンパンがフィンガーボールよりも大きなグラスでふるまわれる。たゆまず昇りつづける月が海峡に浮かべる銀の三角影は、芝生から滴りおちるブリキみたいに堅いバンジョーの響きに、ゆらりゆらりと揺れている。

ぼくは相変わらずジョーダン・ベイカーといっしょにいた。ぼくらのテーブルにはぼくと同世代の男がひとり、騒がしい小娘がひとりいて、この女はつまらない刺激に反応してけらけらととめどなく笑っていた。ぼくはいまやパーティーを楽しんでいた。フィンガーボール2杯分のシャンパンを干したせいか、眼前の景色はどこか意義深く、根本的で、深遠しんえんなものに変化していた。

座興ざきょうが途切れたところで、男はぼくにむかってほほえんだ。

「尊公の御顔は良く存じ上げております」とかれは礼儀正しく言った。「戦争中、第一師団におられませんでしたか?」

「あ、はい。第28歩兵連隊にいました」

「私は1918年まで第16歩兵連隊におりました。何処かで御見掛けしたと思っていたのですよ」

それからぼくらは、フランスの湿っぽい灰色の村々のことなどについて話を交わした。この人物が付近に住んでいるというのは明らかだった。買ったばかりの水上機に、明日の朝に乗ってみるつもりだと言う。

「尊公、御一緒に如何でしょうか? ほんの海峡沿いの海岸辺りまで」

「時間は?」

「何時でも、御都合の宜しい時に」

ぼくがこの紳士の名前を聞こうと口を開きかけたとたん、ジョーダンがこっちを向いて笑いかけてきた。

「楽しんでる?」

「前よりもずっとね」ぼくは新しくできた知り合いの方にふたたび向き直った。「こんなパーティーは、ちょっと不慣れなものでして。まだご主人にもお会いしていないんです。ぼくはこの向こうに住んでいまして――」ぼくは見えない垣根の向こうを手振りで示した。「こちらのギャツビーという方が運転手に招待状を持たせてよこしたんですが」

男はしばらくぼくをじっと見つめていた。まるでぼくの言ったことを理解しかねるといったようすだ。

「私がギャツビーです」とつぜん、その男は言った。

「ええっ!」ぼくは思わず叫んだ。「いや、これはとんだ失礼をしました」

御存知ごぞんじだと思っていたのです、尊公。いや、これは気の利かぬ招待主で恐縮です」

かれは、理解を感じさせるほほえみを浮かべた――理解を感じさせるどころではない。まれにしか見られない、あの、潰えることのない安らぎを与える、一生に45回しか見うけられないほほえみだった。それは、永遠の世界全体に向けられ――というか、向けられたように見え――たかと思うと、次の瞬間、あなたに、あなたの願望についての、あえて異を唱える気も起こさせないような思いこみをこめて、一心に注がれる。それは、あなたが理解してもらいたいと思っているところまで理解し、信じて欲しいと思っているところまで信じ、伝えられればと望む最上さいじょうのあなたらしさを確かに受け取ったと安心させてくれる。そう思ったとたん、そのほほえみは忽然こつぜんと消えた――そしてぼくの目の前には、若くて優雅な田舎紳士、年は3012つ加わったという程度、ひとつ間違えば馬鹿馬鹿しく響きさえする堅苦しい話し方をする青年がいた。かれの自己紹介を受ける前、言葉を注意深く選んでいるなという印象を強く受けていたものだ。

かれが名乗ったのとほぼ同時に、執事が急ぎ足でやってきて、シカゴから電話がかかってきていることを伝えた。かれは、ぼくらひとりずつに軽く会釈をし、中座を詫びた。

「何か御座いましたら遠慮なく御申し付け下さい、尊公」とぼくに向かって言う。「失礼致します。後ほどまた御目に掛かりましょう」

かれが行ってしまうと、ぼくは即座にジョーダンの方に向き直った――ぼくの驚きを分かってもらいたくて。ぼくは、ミスター・ギャツビーのことを赤ら顔のでっぷりふとった中年男だとばかり思っていたのだ。

「あれはどういう人? 知ってる?」

「つまりギャツビーという名前の男ね」

「どこの出か、ということなんだけど? それから、何をやっているのか」

「今度はあなたがそのテーマにとりかかったわけね」とかすかに笑って応えた。「えっと、前にオックスフォード卒だって言ってたことがあったっけ」

かれのバックグラウンドがおぼろげながら形をとりはじめた。が、次の言葉を聞いて、それは消え去った。

「でも、嘘じゃないかな」

「なぜ?」

「わかんない。あそこに行ったことがあるひとだとは思わないってだけ」

その言葉に含まれていた何かは、あの娘の「あの人は人を殺したことがあるんだと思う」を思い起こさせ、ぼくの好奇心をかきたてた。ギャツビーがルイジアナの沼沢しょうたくや、ニューヨークはイースト・サイドのダウンタウンから出てきたというのなら、ぼくはそれを受け入れていただろう。それならば説得力がある。だが若者は決して――ぼくは未熟な田舎者だからこう信じるにすぎないのかもしれないけれど――決して、どこからともなくでしゃばってきて、ロング・アイランドの豪邸を買ったりはしないものなのだ。

「とにかく、大きなパーティーを開くひとね」具体的な話を好まない都会風の如才じょさいなさを発揮して、ジョーダンは話題を変えた。「わたしは大きなパーティーが好き。くつろげるから。小さなパーティーだとプライバシーがぜんぜんなくって」

突如、バスドラムが一打ちされて、オーケストラ指揮者の口上こうじょうが庭の空疎なやりとりを吹き飛ばさんと響き渡った。

「さて紳士淑女のみなさまがた」と、声を張り上げる。「ミスター・ギャツビーのリクエストにお応えして、これより、ミスター・ウラジミール・トストフの最新作をお聞かせしたいと思います。この曲は、去る5月にカーネギー・ホールで演奏され、大好評を博しました。新聞をお読みになっておられた方々はご存知と思いますが、一大センセーションを巻き起こしたのであります」ここでかれはおどけて恐縮してみせ「たいしたセンセーションでありました!」と付け加えた。それを聞いて人々はどっと笑った。

「曲は」いちだんと声を張り上げて締めにかかる。「ウラジミール・トストフ『ジャズの世界史』!」

ミスター・トストフの曲の魅力はよくわからなかった。というのもぼくは、演奏が始まったとき、ギャツビーの姿に注意を奪われたからだ。独り、大理石のステップに立ち、満足そうな眼差しでグループからグループへと見渡している。日に焼けた肌はたるみなく顔にはりつき、短い髪は毎日カットしているのでは思えるほどに整っている。悪い印象はまったく受けなかった。かれが酒を飲んでいないということも、客人たちから浮いてしまっている一因になっているのではないだろうか。騒ぎが軽薄さを増すにつれ、かれはどんどん謹直きんちょくになっていくように見えたから。『ジャズの世界史』が終わったとき、娘たちは酔っ払ったふりをして男たちの方に頭をあずけたり、だれかが受けとめてくれるのを知った上で、男たちの腕の中に、ときにはグループの中に、背中から崩れこんだりしていた――けれど、ギャツビーに背中から崩れこもうとするものはなく、ギャツビーの肩にフレンチ・ショートカットの頭をあずけようとするものもなく、またギャツビーを仲間に加えようとする四部合唱団もなかった。

「失礼します」

ギャツビーの執事がぼくらの後ろに立っていた。

「ミス・ベイカーでいらっしゃいますか? 失礼しますが、ミスター・ギャツビーが個人的にお話しをしたいとのことです」

「わたしと?」ジョーダンはびっくりして大声を上げた。

「左様でございます」

ジョーダンはゆっくりと立ちあがりながら、驚きのあまりぼくに眉を釣り上げて見せ、それから執事の後について家の中に入っていった。ふと、ジョーダンのイブニング・ドレスが、どんなドレスだって彼女が着ればそうなるのだけど、スポーツウェアのように思えた――ジョーダンの動作には、からりと晴れた朝のゴルフコースを一番めに歩いているとでもいうような、颯爽さっそうとした雰囲気があった。

ぼくはひとりきりになった。時刻はもうすぐ2時になろうとしていた。テラスの真上に位置する、窓がずらりと並んだ細長い部屋から、でたらめな、興味をそそる物音が響いてきた。それを聞いたぼくは、ちょうど2人のコーラス・ガールと産科学の話をしていたジョーダンの大学生から話に加わらないかと誘われたのを振りきって、家の中に入った。

その大きな部屋は人で埋め尽くされていた。黄色いドレスを着た娘がピアノを弾いている。娘のそばに立っている赤毛の長身な若い女は、有名な合唱団からきたということで、歌は彼女が担当していた。彼女はシャンパンをかなり飲んでいて、困ったことに、歌の途中ですべてがとてもとても悲しいと決めつけてしまったらしい――彼女は歌うだけでは飽きたらず、涙まで流していた。歌の合間を嗚咽おえつで埋め、また歌詞があるところにくると、オブラートのかかったソプラノで歌いあげてゆく。涙は頬を伝っていった――が、はらはらと、とは言えない。涙はマスカラを溶かしこんで黒く染まり、その流れる先に黒い筋ができていたから。顔の音符おんぷを歌ったらどうだという野次やじが飛んだ。それを聞いた彼女は両手を振り上げて、酔いがまわったのだろう、椅子に崩れこんでぐっすりと眠りこんでしまった。

「あのひと、夫だっていうひとと喧嘩したんだって」と、ぼくの肘あたりで説明する娘の声がした。

ぼくはあたりを見渡した。いまや残った女たちの大部分は夫だという男と喧嘩中。ジョーダンの仲間たち、イースト・エッグからきた4人組でさえ、議論が昂じてばらばらになっていた。男たちの中にひとり、若い女優と妙に熱っぽく話しこんでいるのがいる。その妻は、最初は威厳を保って無関心に笑い飛ばそうとしたものの、その後頭にきて横槍を入れはじめた――間隔をおきながら、不意をうって怒れるダイアモンドのみたいに夫のかたわらに現れ、その耳にするどく「約束がちがう!」の声を注ぎこむ。

家に帰りたがらないのは浮気な男たち以外にもいた。ホールにはかわいそうなほど酔いがさめてしまった男が2人、それから、ひどく憤慨しているかれらの妻。彼女たちはちょっと高めの声でおたがいに同情しあっていた。

「うちのひと、わたしが楽しんでるのを見るといつも、家に帰ろうなんて言いだすんですよ」

「なんてわがままな。そんなのって聞いたことありません」

「うちはいつも最初に帰るんです」

「うちもうちも」

「ねえ、今夜はぼくら、いちばん最後の組だよ」と、片方の夫が頼りない声をかける。「オーケストラも30分前に引き上げちまったんだから」

妻たちのおしゃべりはそんな意地悪など信じられないという意見で一致したというのに、議論が喧嘩腰に近い形になったところで打ち切り。妻たちはともに抱え上げられ、じたばたあがきながら、外へと連れ出された。

ぼくがホールで自分の帽子がくるのを待っていたところ、書庫の扉が開き、そこからジョーダン・ベイカーとギャツビーが並んで出てきた。ギャツビーはジョーダンに念押ししておきたいことがあったみたいだったけど、別れの挨拶をするために何人かが近寄ってくるのを見てそれを引っこめ、ぐっと態度を引き締めた。

ジョーダンの仲間たちがポーチからいらだたしげに呼んでいたけれど、ジョーダンはしばらく握手のために居残っていた。

「とにかくもうびっくりするような話だった」とささやく。「出てくるまでどれくらいかかった?」

「ん、1時間くらいだね」

「そりゃあもう……ただただびっくり」彼女はうわのそらで繰りかえした。「でも言わないって約束したから、ここはじらしちゃおうかな」彼女はぼくにむかって優美にあくびをしてみせた。「ね、会いにきて……電話帳……ミセス・シガニー・ハワードって名前のところ……私の叔母よ……」とだけ言うと、急いで離れていった――小麦色の手がのんきそうに振られたかと思うと、彼女は表にいた仲間の間に溶けこんでいった。

ぼくは、初回訪問というのに長居してしまったことをやや恥ずかしく思いながら、ギャツビーと最後の挨拶を交わす客人たちの仲間に加わった。かれらは一塊になってギャツビーを取り囲んでいた。ぼくは説明しようとした。庭でかれを見それたことを詫びようと思い、よいの口から探しまわっていたのだけど、機会がえられなかったと。

「その事はもう仰らないで下さい」としきりにぼくの気を楽にしようとした。「気にさるには及びませんよ、尊公」この親しい呼びかけにも、ぼくの肩をそっとなでる仕草にも、親しみはあまりこもっていなかった。「それから水上機の件も御忘れ無く。明日朝9時ですよ」

そのとき執事がかれの後ろから声をかけた。

「フィラデルフィアからお電話が入っております」

「わかった、いま行く。そう伝えておいてくれ……それではおやすみなさい」

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」かれはほほえんだ――ぼくが最後まで残っていたのを喜んでいて、最初からずっと、ぼくがそうするのを望んでいたのではないか、と思わせるようなほほえみだった。「おやすみなさいませ、尊公……おやすみなさい」

けれどもぼくは、ステップを降りる途中で、夜会はまだ完全には終わっていないのを目の当たりにした。ドアから15メートルほどのところにヘッドライトが1ダースばかり集まって、奇抜な、騒々しい情景を照らしあげていた。右路肩の溝に、ギャツビー邸の私道から出て2分も経っていない真新しいクーペが、タイヤをひとつもぎとられてはまりこんでいる。突き出た塀が、タイヤを失った原因を物語っていた。そのタイヤは、いまや、6人ほどの運転手の好奇心をおおいに煽っていた。それはいいとしても、かれらが降り捨てた車が道を塞いでしまい、しばらくの間、後方からクラクションがはげしく鳴らされたりして、あたりを、なおいっそう混乱させている。

事故車から長いダスターコートをまとった男が道路の真中に降り立ち、車からタイヤへ、タイヤから野次馬へと視線を動かした。愉快そうに、とまどいがちに。

「ごらん!」かれは説明した。「溝にはまってる!」

男にはその事実がどこまでも意外だったらしい。ぼくはかれの驚きの特異さにまず気をひかれた。それから、その男がだれかに気づいた――ギャツビーの蔵書にご執心だった男だ。

「どうしたことです、これは?」

かれは肩をすくめた。

「そう言われましても、私は機械のことなどまったく知りませんでね」

「いや、どういうわけでこんなことに? 塀にぶつけたんですか?」

「私に聞かないでくださいよ」と梟目は言った。知ったことか、という口ぶりだ。「運転のことはあまり知らんのですから――ぜんぜんといってもいいくらいに。とにかく、こうなったということしか知りません」

「なんというか、運転がうまくないんでしたら夜の運転は控えられたほうが」

「いや、私はどうでもよかったんです」かれは憤然として答えた。「どうでも」

その言葉に、見物人たちは一瞬口をつぐんだ。

「自殺する気ですか!」

「タイヤだけですんだのはラッキーですよ! 運転の下手なやつが、どうでもいい、だなんて!」

「あ、いや違うんです」と、男は釈明した。「運転していたのは私じゃありません。車の中にもうひとりいるんです」

この言葉を受けて納得したようなどよめきがまきおこると、それにあわせてクーペのドアがゆっくりと開かれた。群集は――いまや群集と呼んで差し支えない人だかりだった――思わずあとずさりし、開ききったドアを不気味な沈黙で迎える。それから、きわめてゆるやかに事故車から出てきた舞踏靴が、足場を確かめるように地面を叩き、それからよろめいている青ざめた人影が、体の1部分1部分を車外に運び出すみたいな感じで降りてきた。

ヘッドライトの強烈な光に目を細め、絶え間ないクラクションに混乱し、その男はしばらくの間きょろきょろしていた。そして、ダスターコートの男に気づく。

「どうした?」かれは落ち着き払ってたずねた。「ガス欠か?」

「あれだよ!」

半ダースの指がもぎとられたタイヤをしめした――男はそれをしばらく見つめ、それから空を見上げた。まるで、それが空から降ってきたのではないかと疑うかのように。

「外れたんだよ」とだれかが説明した。

男はうなずいた。

「最初、止まったのにさえ気づかなかった」

間。それから深呼吸しんこきゅうし、肩をぴんと張ったかれは、力強くこう述べた。

「だれか、ガソリンスタンドはどこか教えてもらえるかな?」

すくなくとも1ダースの男たちが、中にはかれに劣らず非常識なものもいたけど、口をそろえて説明した。タイヤとボディはどうがんばっても二度ともとどおりにならないのだ、と。

「バックしよう」とかれは言い出した。「向きを変える」

「タイヤが外れてるんだって!」

かれは一瞬ためらった。

「やってみて損はない」

ぼくは最高潮さいこうちょうに達したクラクションの響きに背を向け、芝生を突っ切って自分の家へと急いだ。一度だけふりかえってみた。ギャツビーの屋敷の上にはウェハースのような月が輝いていた。そう、庭はもう笑い声も低い物音も絶えて静まりかえっていたけれど、夜空はあいもかわらず澄みきっている。それを見たとたん、開けっぱなしのドアや窓から溢れ出してきた空虚さが、ポーチに立って堅苦しく片手をあげ、別れの挨拶を送る主人の姿を完全に孤立させてしまった。

**********

ここまで書いてきたものを読みかえしてみると、これでは、ぼくが数週間の間隔を空けた3夜のできごとにばかり気をとられていたような印象を与えてしまいそうだ。実際はまったく反対で、あの夜々はごたごたしたあの夏を何気なく通りすぎていったイベントにすぎず、ぼくは、ずっと後になるまで、個人的なものごとのほうへ断然だんぜんに気をとられていた。

ぼくは時間の大部分を仕事につぎこんだ。朝日に照らされて影を西側にしたがえながら、ニョーヨーク下町という白い谷間からプロビティ・トラストへと向かう。他の事務員や証券マンとファーストネームで呼び合う仲になり、昼になるとかれらと薄暗くて混んだレストランにでかけ、小さなポークソーセージにマッシュポテト、それからコーヒーをかきこんだ。ジャージー・シティに暮らしていた、経理の女の子とちょっとした火遊びをやったりもしたけど、彼女の兄から険悪な目を向けられるようになったから、7月になって彼女が休暇をとると、ぼくはそのまま自然消滅させてしまった。

ふだんはイェール・クラブで夕食をとった――わけあって、それはぼくの日課でもっとも憂鬱ゆううつなものだった――それから上の図書室にこもって、1時間まるまる、投資や保証について勉強した。クラブにはいつも騒ぎ屋がいたけれど、連中はけっして図書室には入ってこなかったから、ここにいれば集中してとりくむことができた。その後、おだやかな夜であれば、マジソン区から旧マレー・ヒル・ホテル前に出て、33番街を抜けペンシルベニア駅まで歩く。

ぼくはニューヨークが好きになりはじめていた。活気と冒険気分に満ちた夜。絶えずゆらめく男女の群れと機械が落ちつきのない瞳に満足感を与える。ぼくは5番街を歩き、群集の中からロマンティックな女性をりぬき、彼女たちの生活に、ぼくが、だれに知られることも、だれに後ろ指さされることもなく、するりと入りこんでいくという空想に、しばらくの間遊んでみるのが好きだった。ときには、心の中で、知らない街角にある彼女たちの部屋までその後を追ってみることもある。ドアの前で彼女たちはぼくをふりかえってほほえむと、戸内の暖かいやみの中へ溶けこむように消える。大都会の黄昏たそがれに行き場のない孤独感を感じることもあった。そして、それを他人に見出すこともあった――ショーウィンドウの前をぶらぶらしながら、レストランでの孤独な夕食の時間を待ちわびる若くて貧乏な勤め人たちに――もっともつらい夜を、もっともつらい日々をただ空費しているだけの黄昏時の勤め人たちに。

8時になり、40数番代のレーンに劇場区に向かうタクシーが描く5筋のはっきりとした線があらわれると、ぼくの心は沈んだ。タクシーの中に肩を寄せあって声をはずませる人影。ぼくには聞き取れないジョークに応える笑い声。中で煙草の火が揺れ、なんとも形容しがたい弧を描く。自分もまた、くつろいだ、わくわくするような夜をかれらとともにすごすため、待ち合わせ場所に急いでいるのだと空想しながら、ぼくは、かれらに幸あれと祈った。

しばらくジョーダン・ベイカーの姿を見かけなかった。ふたたび彼女を見たのは夏も盛りのころだ。はじめのうち、ぼくは彼女とともにいろいろなところに出かけるのを得意に思った。彼女はゴルフのチャンピオンで、だれもがその名前を知っていたからだ。その後、もう少し気持ちが傾いた。別に恋というほどのものでもないけれど、ぼくはある種の優しい興味を彼女に抱いた。彼女が世間に向ける、いかにも飽いたと言いたげな傲慢ごうまんな顔には、なにかが秘められていた――結局ポーズというものは、最初はちがったかもしれないけど、たいていなにかを秘めるものなのだ――そしてある日、彼女が秘めたものを見いだした。ぼくらが一緒にウォーウィックでのホームパーティーに行ったとき、彼女は借りた車の幌を下ろしたまま雨の中に放置しておいて、そのことについて嘘をついたのだ――そのときぼくは、デイジーと再会した夜に思い出しそこねたエピソードを急に思い出した。彼女がはじめて出場を果たした大きなトーナメントであやうく新聞に載りかけた騒ぎが持ちあがった――準決勝で彼女は自分のボールを具合の悪い位置から移動させたという話がでたのだ。その話はスキャンダルにまでなりかけ――立ち消えになった。キャディーが証言を撤回し、さらにもうひとりだけいた目撃者も自分の勘違いを認めた。けれどもその事件とその名前は、セットでぼくの頭に刻まれていた。

ジョーダン・ベイカーは利口で抜け目のない男を本能的に避けた。いまにしてみれば、それは規範きはんからそれるなど言語道断ごんごどうだんという世界にいたほうが安心できたからだと思う。彼女の不誠実には手のつけようがなかった。彼女は不利な立場に立たされるのに耐えられなかった。迂闊にもそういう立場に立たされたときは、思うにごく若い頃から冷静さをたもつためにそういう欺瞞ぎまんをやりはじめたのだろう、斜めに構えて世間をわらった。そして自分の頑健で奔放ほんぽうな肉体が求めるものを満足させていたわけだ。

それは、ぼくにとっては別にどうでもいいことだった。女性の不誠実さなど、くどくどと責めたてるべきものではないのだ――とりあえずは情けなく思ったけれど、それで忘れてしまった。同じホームパーティーに向かう途中、ぼくとジョーダンは車の運転についておもしろい話をしたことがある。きっかけは、ジョーダンが労働者をかすめるように車を走らせたためにフェンダーが男のコートのボタンをひとつ弾き飛ばしてしまったことだった。

「すごい運転だね。もっと注意して運転しろよ、じゃなきゃ運転なんかするな」

「注意してるよ」

「どこが」

「まあ、わたし以外の人が」

「話のつながりがわからないんだけど?」

「つまり向こうから避けてくれるってこと。事故ってのは両者の問題なんだから」

「きみと同じくらい不注意なやつに会ったときはどうする」

「会いたくないな、そんな人とは。わたし、不注意な人って大嫌い。だからあなたのこと好きなのよ」

陽に細められた灰色の瞳はまっすぐ前をみつめていたけれど、彼女のその言葉にはぼくたちの関係を変えようとする意思があった。ぼくは一瞬、彼女をいとおしく思った。ところが、ぼくはもともと決断の遅いたちだし、胸の内には個人的な欲求にブレーキをかけるいろいろなルールが刻まれている。しかも、なにより先に故郷でのもつれにはっきりした処理をしなければならないというのを知っていた。ぼくには1週間に1通のペースで「愛するニック」として手紙を書く相手がいたけれど、それについてぼくの頭の中にあることといったら、その娘がテニスをするとき、鼻の下にうっすらとした汗を浮かばせること、それがまるで薄い髭のように思えたことくらいしかない。それでもやはり、ぼくらの間にはおぼろな了解があったから、自由になるためにはそれをたくみに断ち切ってみせなければならなかった。

だれだって自分に7つの徳の1つくらいは備わっていると思うものだけど、ぼくの場合はこれだ。個人的に知っている範囲では数少ないもっとも誠実な人間、その1人がぼくなのだ。

4

日曜の朝、教会の鐘が海岸の村々に鳴り響く中、ギャツビー邸には俗世とその女主人がもどってきて、芝生の上に狂騒きょうそうを繰り広げる。

「あのひとはね、お酒の密造をやってるの」と若い女性たちは、話題の人物のカクテルと花々とを往復しながら言った。「あるときなんか、あのひとがヒンデンブルク元帥の甥で、悪魔のまた従弟だってのをかぎつけたやつを殺したこともあるのよ。ねえあなた、そこのバラ、こっちに回して。それから、あそこのクリスタルグラスに最後の1滴まで注いでよ」

ぼくは一度、時刻表の余白に、あの夏ギャツビーのところを訪れた人々の名前を書きとめてみたことがある。すでに古くなったその時刻表は、折り目のところから千切れてしまいそうだ。ヘッダには「192275日以降の運行予定」とある。それでもまだ、そこにあるかすれた名前は読めるし、その名前を並べたてるほうが、あの夏にギャツビーのもてなしを受け、それでいてギャツビーについてはまったくなにひとつ知りはしないという報いるところの薄い人々のことを、ぼくが大雑把おおざっぱにまとめてしまうよりも、イメージとして分かりやすいだろう。

イースト・エッグからきていたのは、チェスター・ベッカー夫妻にリーチ夫妻。それからブンセンという男。かれについてはぼくもイェール時代に知っていた。ドクター・ウェブスター・シベット。こちらは昨年夏にメーンで溺死した。ホーンビーム夫妻、ウィーリー・ボルテール夫妻。それからブラックバックという名の一族郎党。かれらはいつも隅に席をとり、近づくものがあると鼻を山羊やぎみたいにつんとそらした。イズメイ夫妻、クリスティ夫妻(というよりむしろヒューバート・アウアバッハとクリスティ夫人というべきだろうか)。エドガー・ビーバー。かれの頭髪はある冬の午後わけもなにもなく突如真っ白になったという噂だ。

クラレンス・エンディブもイースト・エッグからきていたように記憶している。やってきたのは一度だけで、白のニッカボッカー姿で現れたかれは、庭でエティという放蕩者ほうとうもの喧嘩けんかをやらかした。ロング・アイランドのはずれからやってきたのはシードル夫妻、O. R. P. シュレーダー夫妻、ジョージアのストーンウォール・ジャクソン・エイブラム夫妻、フィッシュガード夫妻、リプリー・スネル夫妻。スネルは刑務所行きの3日前にもきて、さんざん飲んだあげく砂利敷きの私道に寝そべり、ミセス・ユリシーズ・スウェットの自動車に右手をかれた。ダンシー夫妻もいたし、S. B. ホワイトベイトもいた。これは齢60をゆうに超える老人だ。モーリス A. フリンク、ハンマーヘッド夫妻、煙草輸入商ベルガ、それからベルガの娘たち。

ウェスト・エッグからはポール夫妻、マーリーディー夫妻、セシル・ローバック、セシル・ショーエン、ガリック上院議員。ニュートン・オーキッド、これはフィルムズ・パー・エクセレンスの支配者だ。エクホースト、クライド・コーエン、ドン S.シュワルツ(息子のほうだ)、それからアーサー・マッカーティー。ここまでは何らかの形で映画界にコネのある人々。続いてカトリップ夫妻、ベンバーグ夫妻、G. アール・マルドゥーン。後に細君を絞め殺したマルドゥーンの兄弟にあたる。映画界のパトロンであるダ・フォンタノもきていたし、エド・レグロスにジェイムズ B. (“安酒”)フェレット、ド・ジョング夫妻、アーネスト・リリーもいた――かれらはギャンブルをやりにきていて、フェレットがぶらりと庭に出てきたときはつまりかれがすってんてんになったということであり、それと同時に、翌日のアソシエイテッド・トラクション株は上向きになると見て間違いなかった。

クリップスプリンガーという名の男はしょっちゅうギャツビー邸にきて、しかも長々といつづけるものだから、「下宿人」として知られていた――かれには他に帰るところがなかったのではないかと思う。演劇人としては、ガス・ウェイズ、ホレイス・オドネイバン、レスター・マイヤー、ジョージ・ダックウィード、フランシス・ブル。またニューヨークからはクロム夫妻、バックヒッソン夫妻、デニッカー夫妻、それからラッセル・ベティーにコーリガン夫妻、ケルハー夫妻、デウォー夫妻、スカリー夫妻、S. W. ベルチャー、スマーク夫妻、それに、クインという、いまはもう離婚した、若夫婦。それからヘンリー L. パルメトー、後にタイムズ・スクウェアで地下鉄の正面に飛び出し、自殺。

ベニー・マクレナハンはいつも4人の女の子を連れてきた。顔ぶれはいつも違っていたはずなのに、ひとりひとりが似通っていたもので、これは以前もきていた娘だと思えてならなかった。名前はもう覚えていない――ジャクリーンとかコンスエラとかグローリアとかジュディとかジューンとか、そういう名前だ。ラストネームは花とか月とかの響きのよいものでもあったように思うし、あるいはアメリカを代表する富豪と同じいかめしいものだったようにも思う。突っ込んで聞いてみれば、従弟にあたるという自白が得られたかもしれない。

加えて、たしかフォースティナ・オブライエンもすくなくとも一度は顔を見せたし、ベデッカー家の娘たちもいた。それからブリュワー青年、これは大戦で鼻を吹き飛ばされた男だ。ミスター・アルバックバーガーとその婚約者ミス・ハーグ。アーディタ・フィッツビーターズ。ミスター P. ジュウェット、米国在郷軍人会の前会長。ミス・クローディア・ヒップは自分のお抱え運転手という噂の男を連れていた。それからなんとかの王子。ぼくらはかれのことを公爵と呼んでいたけど、名前のほうは聞いたことがあるにしても忘れてしまった。

こういった人々が、あの夏のギャツビー邸にこぞって押しかけてきたのだ。

**********

7月下旬のある朝、9時にギャツビーの豪華な車が我が家の砂利だらけの私道に入ってきて、3和音のクラクションを派手に鳴らした。ぼくは2回かれのパーティーに行き、水上機にも乗り、しきりの要望を受け、ビーチを頻繁ひんぱんに使わせてもらっていたけれど、かれのほうから訪ねてきたのはこれがはじめてだった。

「おはようございます、尊公。今日は御一緒に昼食でも如何ですか。車で御一緒にと思いまして」

かれは車のダッシュボードに手をついてバランスをとりながら、アメリカ人に特有なあのひっきりなしの身振りをしめした――これは、ぼくが思うに、若いころに力仕事をやらなかったせいであり、さらには、ぼくらが秘める神経質で発作的な勝負心が不定形の優美さをともなって現れたものでもあるのではないか。この特質は、かれの堅苦しい仕草のそこかしこに、落ち着きのなさという形で絶えず飛び出してきた。かれはひとときもじっとしていなかった。足元をとんとんと踏み鳴らしたり、じれったそうに手のひらを閉じたり開いたり。

ぼくが車に見とれているのにかれは気づいた。

「綺麗でしょう、尊公?」車がぼくによく見えるようひょいと飛びのく。「以前、お目に掛けた事はありませんでしたか?」

見たことはあった。だれだって見ていた。優雅ゆうがなクリーム色、ニッケルがきらりと輝き、そのおそろしく長大な車内のあちこちには帽子箱や弁当箱や道具箱が積みこまれており、太陽を1ダースも映しこんでいる段々状の複雑な風除かぜけが備わっている。幾層も重なるガラスを前とする一種の温室の緑の革椅子に腰を下ろしたぼくらは、街へと出発した。

かれと対話の場をもったのはここまでで6回ほどだろうか、がっかりしたことにギャツビーは口数の少ない人物だった。だからぼくの第一印象、これはなにかひどく重要な人物に違いないと思ったところがだんだん薄れ、隣の豪華ごうか娯楽施設ロードハウスの単なる所有者に過ぎないと思えてきていた。

そこにきたのがこの謎めいたドライブだ。やがてぼくらがウェスト・エッグ・ビレッジへの道をなかばまでも行かないうちに、ギャツビーの優雅な口ぶりはまとまりのないものになり、心を決めかねるといった雰囲気でキャラメル色のスーツの膝を叩きはじめた。

「ところでですね、尊公」と、不意に口を開く。「私のことを、どうお考えですか?」

これにはちょっと参った。そこでぼくは、この手の質問の答えにふさわしい非具体的な一般論を述べはじめた。

「いえね、私は私の過去についてすこしお話しようと思っております」とさえぎられた。「いろいろお聞き及びと思いますが、そのような噂話から私を間違って理解して頂きたくないということなのですよ」

ということは、かれの大広間に興を添えた、かれに対する奇抜きばつな告発に、当の本人も気づいていたわけだ。

「神に誓って本当のことをお話ししますよ」と、宣誓せんせいの作法にのっとり、とつぜん右手をあげた。「私は中西部の資産家の息子です――いまはみな亡くなってしまいましたが。アメリカで幼少期を過ごしましたが、オックスフォードで教育を受けました。私の先祖はもう何世代もみなあそこで教育を受けているものですから。それが我が一族の伝統なのです」

かれはぼくを盗み見た――そのときぼくは、ジョーダン・ベイカーがかれの言葉を嘘と見込んだ理由がよく分かった。かれは「オックスフォードで教育を受け」というフレーズを急ぎ足でというか、飲みこむようにというか、のどにひっかかったように話すのだ。嫌な思い出を話しているみたいだった。いったんこのように疑ってしまうと、かれの言葉すべてがばらばらに崩れ落ち、つまりは、そこに伏せられている裏みたいなものがなかったかと思いをめぐらす自分がいた。

「中西部はどちらで?」と、ぼくはさりげなく尋ねた。

「サン・フランシスコ」

「なるほど」

「一族は全員亡くなりましてね、私は相当の財産を相続することになりました」

その声は厳粛げんしゅくそのもので、一族を襲った悲劇にいまだ苦しめられているような口ぶりだった。一瞬、ぼくはかつがれようとしているのではないかと思ったものの、横目でかれを見てみると、どうもそのようには思えない。

「それから私は若いラジャのような暮らしをヨーロッパの各都市で送りました――パリ、ベニス、ローマ――宝石、主にルビーを集め、猛獣もうじゅうを狩り、人に見せるようなものではありませんが、絵を描いてみたりもしました。そうやって、遠い昔のとても悲しい出来事を忘れようとしてきたのです」

ぼくは不信の笑いを必死の思いでなんとかこらえた。一語一句がどろどろに手垢てあかまみれで、そこから思い起こされるのは、せいぜい、ターバンを巻いた「キャラクター」がブーローニュの森で虎を追いまわしながら、ことあるごとに馬脚ばきゃくをあらわすといったイメージくらいのものだった。

「そこにあの戦争が起こったのですよ、尊公。私は大変に安堵あんどし、早速さっそく死に場所を求めて回りましたが、どうやら私の命には魔法がかかっていたらしい。開戦当初、私は中尉ちゅういに任官されました。アルゴンヌの森で私は、突出してしまった機関銃部隊の指揮を任せられました。どちら側にも半マイルに渡って敵が押し寄せていて、歩兵部隊による救出ができなかったのです。私の部隊はそこで22晩奮闘しました。130名の兵士と16丁のルイス式軽機関銃マシンガン。ようやく歩兵部隊がたどりついたときは、山と折り重なった死体がつけていたドイツ軍の記章は3師団にも及んでいました。私は少佐しょうさに昇進し、連合国は争って勲章くんしょうをくれました――モンテネグロさえも、アドリア海のちっぽけなモンテネグロも!」

ちっぽけなモンテネグロ! かれは宙に浮かべられたその言葉に向かってうなずいてみせた――例のようにほほえみながら。そのほほえみにはモンテネグロの多難な歴史への理解があり、モンテネグロの人々による奮闘への同情があった。そしてモンテネグロの温かい心づくしから与えられた記念品を引き出した国際情勢の連鎖への感謝にあふれていた。そのあまりの魅力にぼくの不信はなりをひそめた。ずらりと並んだ雑誌をあわただしく拾い読みしているような感じだった。

かれはポケットに手を入れてリボンをつまみだした。その先にぶらさがっていた金属片を、ぼくの手のひらに載せる。

「それはモンテネグロからのものです」

驚いたことに、見たところそれは本物のようだった。'Orederi di Danilo' と縁に沿って円く刻まれている。'Montenegro, Nicolas Rex'.

「めくってごらんなさい」

「ジェイ・ギャツビー少佐」とぼくは読み上げた。「その比類なき武勇に」

「もうひとつ、これも常に持ち歩いております。オックスフォード時代の思い出の品ですよ。学寮の中庭で撮ったものでしてね――私の左手に写っているのが、いまのドンカスター伯爵です」

それは1葉の写真で、6人の若者がアーチ道にたむろしていた。歩道の向こうには尖塔が見える。ギャツビーもいた。いまより大幅にとはいえないまでも若干若い――手にはクリケットのバットを握っている。

ではすべては本当のことだったのか。ぼくはグランド・キャナルに建てられたかれの宮殿に赤々とした虎の革が敷かれているのを見た。そしてかれがルビーの小箱を開け、そこに深々とたたえられた深紅の光をもって、打ちひしがれた心を癒さんとするところを見た。

「私は今日、大切なお願いをするつもりです」かれは思い出の品々を満足げにポケットにしまいながら言った。「ですから、私のことを多少とも知っておいて頂くべきだと思いました。どこぞの馬の骨などとは思って頂きたくなかったのです。お分かりでしょうが、常日頃つねひごろから私の周囲にいるのは他人ばかりです。私は3年もの間私の身に起きた悲しい出来事を忘れるため、あちこちをさすらっていたものですから」そこでかれは一瞬ためらった。「それについては今日の午後お聞きになることと思いますが」

「ランチの席で?」

「いえ、午後です。あなたがミス・ベイカーをお茶に招かれたことを偶然耳にしまして」

「つまり、あなたがミス・ベイカーの恋人なのだと?」

「いいえ、尊公、それは違います。ですが、ミス・ベイカーが、この問題をあなたにお話する役割を引き受けて下さいましたから」

ぼくには「この問題」がどういう問題なのかさっぱり分からなかったが、だからといって興味を引かれたというわけではなく、むしろ苛立ちが先行した。ぼくはミスター・ジェイ・ギャツビーを論じあうためにジョーダンをお茶に呼んだのではない。ぼくはそのお願いとやらがなにか突拍子とっぴょうしもないことにちがいないと確信し、しばらく、かれの人口過多な芝生に足を踏みいれてしまったことを悔いた。

かれはもう口をきこうとはしなかった。町に近づくにつれ、自分の計画の正しさに自信をつけていったようだ。ポート・ルーズベルトを通りすぎる。赤帯の外洋船が見えた。がたがた道をスピードをあげながら疾走する。道沿いには、1900年代の残影というべき薄暗い酒場が、見捨てられもせずにのきを並べていた。それから、灰の谷がぼくらの左右に開けてきた。そうして走るうちに、息を切らして威勢良くガソリン・ポンプを操るミセス・ウィルソンの姿が垣間かいま見えた。

フェンダーを翼のように広げ、ぼくらは光を撒き散らしつつアストリアに至るなかばまで車を走らせた――なかばというのは、高架柱を縫うように進むうちに、耳に馴染なじんだ「ドッ、ドッ、ブオン!」がぼくの耳に飛びこんできたからだ。1人の警官がバイクで飛ばしてきて、ぼくらの車に横づけした。

「大丈夫ですよ、尊公」とギャツビーは声を張り上げた。減速する。財布からとりだした白いカードを、警官の目の前でひらひらと振ってみせた。

「結構です」と警官は言い、帽子に手をあてた。「次回はお見それしません、ミスター・ギャツビー。失礼しました!」

「なんです、それ?」とぼくは尋ねた。「さっきのオックスフォードの写真?」

「以前にお偉い方に力を貸して差し上げたことがありましてね。毎年クリスマス・カードを頂くのです」

大橋の向こう、はりの影に見え隠れする、過ぎ行く車がきらめかせる陽の光。河の向こう岸にそそり立つのは、角砂糖のような白亜のビルディング。どれも、願いよ叶えと浄財じょうざいを積み、築きあげられたのだ。クイーンズボロー橋から眺める街はいつだってはじめて見る街のように新鮮だった。そこにあったのは、全世界の神秘と美麗びれいがはじめて野合やごうした姿だったからだ。

華を盛大に手向たむけられた霊柩車れいきゅうしゃに乗って、死者がぼくらのそばを通りすぎた。2台のブラインドを引いた車がそれを追い、そこに故人の友人たちを乗せた、先行車と比較すれば陽気な車が続く。かれらは悲しみをたたえた目でぼくらを見ていた。鼻と唇の間の短さからして東南ヨーロッパ系らしい。ぼくはかれらのために喜んだ。気が滅入るような休日にギャツビーの豪華な車を目にできたのだから。ブラックウェルズ・アイランド通過中には1台のリムジンがぼくらを追いこしていった。白人の運転手と、流行かぶれの黒人が男2人に娘1人の合計3人乗っていた。かれらがライバル意識むきだしでぎょろりとにらみつけてくるのを見て、ぼくは大声で笑いだした。

「この橋を渡りきったいま、なにが起こっても変じゃない」とぼくは思った。「まったくどんなことが起こったって……」

ギャツビーのような男が出てきてもなお、そこにはなんの不思議もなかった。

**********

狂乱の正午。換気扇がほどよく回っている42番街の地下店舗で、ぼくは昼食の約束をしたギャツビーと合流した。表通りのまばゆさを目をしばたかせて追い出すと、待合室にいるギャツビーの姿がおぼろに浮かびあがった。誰かと話をしている。

「ミスター・キャラウェイ、こちらは私の友人で、ミスター・ウルフシェイムです」

小柄な、鼻のひしゃげたユダヤ人が大きな頭をもたげて、両の鼻腔びこうを盛大に飾る鼻毛の束をぼくに向けた。その後で、薄暗がりの中に小さな瞳を発見した。

「――そこでわしはあいつをひとにらみしてだな」とミスター・ウルフシェイムは、ぼくの手を力強く握りつつ、言った。「なんと言ってやったと思う?」

「え?」ぼくは礼儀正しく訊ねた。

が、明らかにかれはぼくを相手に話をしているのではなかった。ぼくの手を離すとすぐにその特色ある鼻をギャツビーにつきつけたから。

「あの銭をカッツポーに握らせて、言ってやったのさ。『おうよ、カッツポー、やつが口を閉じるまで1ペニーたりとも払ってやるな』ってな。するとやつはその場で口を閉じやがったよ」

ギャツビーはぼくらを両脇に抱えるようにしてレストランの中に移動した。するとミスター・ウルフシェイムは言い出しかけた言葉を飲みこみ、びっくりしたようすで、放心状態にある夢遊病患者みたいにふらふらと中に入った。

「みなさんハイボールで?」とヘッドウェイターが聞く。

「結構なレストランだな」とミスター・ウルフシェイムは言った。天井に描かれた長老主義プレスビテリアン風の乙女ニンフたちを見上げながら。「ま、わしは向かいの店のほうが好きだがね!」

「そう、ハイボールを」とギャツビーがうなずく。それからミスター・ウルフシェイムに向かって「向かいは暑すぎますから」

「暑いし狭い――そのとおり」とミスター・ウルフシェイムが言った。「だが思い出でいっぱいだ」

「どこのことです?」とぼくは尋ねた。

「あの古ぼけたメトロポールですよ」

「あの古ぼけたメトロポール」ミスター・ウルフシェイムは沈んだようすで言った。「死んでいなくなった連中の顔がぎっしり詰まってる。いまはもう二度と帰らない友だちがぎっしり詰まってる。あの日、ロージー・ローゼンタールが撃たれた夜のことは死ぬまで忘れられそうにない。わしらのテーブルには6人いてな、ロージーは一晩中飲み食いしてやがった。朝まであとすこしって時分だったな、妙な顔をしたウェイターがロージーのところにやってきて外で待ってる人がいるなんて言った。『わかった』ってロージーは言ってな、立ちあがろうとしたもんだからわしはあいつをひっぱって椅子に座らせた。

「『ほっとけ、あのチンピラどもが本当におまえに会いたいんなら中まで入ってくるだろうさ。だがな、いいか、絶対におまえのほうからこの部屋の外に出ちゃいかん』

「時刻は朝の4時だったな。もしブラインドを開けてみたら、夜明けの光が射しこんできたろうな」

「かれは出たんですか?」ぼくは無邪気むじゃきに聞いた。

「ああ、そうとも」ミスター・ウルフシェイムの鼻がぼくに向けられ憤然ふんぜんと膨らんだ。「あいつはドアのところで振りかえって言った。『あのウェイターにおれのコーヒーを片付けさせるなよ!』それから歩道に出ていったところで連中はやつのどてっぱらに3発ぶちこんで車で逃げていきやがったんだ」

4人は電気椅子行きでしたね」とぼくは思い出して言った。

5人だ、ベッカーをいれて」かれはぼくに気をひかれたように鼻を向けてきた。「あんた、ビジネスのゴネグションを探してるんだったな」

そのふたつの発言はあまりにも脈絡みゃくらくがなくて、ぼくはまごついてしまった。そおなぼくに代わってギャツビーが答える。

「いや違う、それはこの人じゃない」

「違うのか?」ミスター・ウルフシェイムはがっかりしたようすだ。

「こちらはただの友達ですよ。その件はまた別の機会に話し合うことにしておいたじゃありませんか」

「失礼」とミスター・ウルフシェイム。「人違いをした」

汁気たっぷりの細切れ肉野菜料理が運ばれてきた。ミスター・ウルフシェイムは古ぼけたメトロポールをおもう感傷的な雰囲気はどこへやら、とんでもなく無作法にぱくつきはじめた。口を動かしながら、ゆっくりと部屋を360度眺めわたす――その動きを、体をひねって真後ろの人々を見やることで終える。たぶん、ぼくさえいなければ、ぼくらのテーブルの下も一目見ておこうとしたのではなかろうか。

「ところでですね、尊公」とギャツビーがぼくのほうに身を乗り出しつつ言った。「今朝のドライブ中、私は多少尊公を怒らせてしまったのではないでしょうか」

そこには例によってあの微笑が浮かんでいたけれども、今度ばかりはぼくもその魅力みりょくにひきこまれなかった。

「秘密めいたやりくちは好きじゃないですからね。それに、どうして直接頼みごとをおっしゃってくれないのか、理解に苦しみます。どうしてなにもかもをミス・ベイカー経由でやろうとするんです?」

「ああ、別にやましいことがある訳ではないのです」とぼくを安心させようとする。「ミス・ベイカーは立派なスポーツ選手です。ですから、胸を張って言えないようなことをあの人がなさる筈はありません」

ふとギャツビーは自分の懐中時計を確かめると、慌てて椅子から立ちあがり、テーブルにぼくとミスター・ウルフシェイムを取り残していく形で、部屋を飛び出していった。

「電話せにゃならんかったんだな」とミスター・ウルフシェイムが眼でギャツビーの姿を追いながら言った。「立派なやつだよ、そう思わんか? 顔立ちもいいし、非のうちどころのない紳士だし」

「そうですね」

「あれはオグスフォード出でな」

「ほう!」

「イギリスのオグスフォード・カレッジに行っておったんだよ。知っとるかな、オグスフォード・カレッジは?」

「聞いたことはありますね」

「世界でいちばん有名なカレッジのひとつだ」

「ギャツビーのことはずいぶん前からご存知ぞんじで?」とぼくは訊ねた。

「数年前からだな」かれはうれしそうに言った。「知りあう機会にめぐまれたのは戦争後のことだからな。だが、1時間も話さんうちにこれは育ちの立派な男を見つけたもんだと気づいたよ。わしは誰に聞かせるでもなく呟いた。『これはぜひ家に連れて帰っておふくろや妹にぜひ紹介してやりたいような人間だ』」ここでかれは言葉を切った。「ほう、わしのカフスボタンが気にかかると見える」

ぼくはべつに気にかけてもいなかったけど、改めてそれを見つめた。どこか不思議と見なれた感じのする意匠の象牙ぞうげ細工だ。

「人間の奥歯そっくりにしてある」とぼくに教える。

「ふむ!」ぼくはそれをじっくりと眺めてみた。「これは面白いアイディアですね」

「だろう」とかれは言って、そでをめくってコートの下に隠した。「そうそう、ギャツビーは女にはひどく注意深くてな。友達の奥さんをじっと見つめるような真似は絶対にせん」

この本能的な信頼の対象がもどってきてテーブルにつくと、ミスター・ウルフシェイムはコーヒーをがぶりと飲み干して立ちあがった。

「結構なランチだった」とかれは言った。「好意に甘えて長居しすぎる前に、お若いのを2人残して退散するとしよう」

「もっとゆっくりなさっては、メイヤー」とギャツビーは言ったが、熱のこもった言い方ではなかった。ミスター・ウルフシェイムは祈祷きとうでもはじめるみたいな格好で右手をあげた。

「礼儀正しいことだ。だがわしは世代が違う」とかれは重々しく告げた。「さあ、この席で意見を交わすといい。話すことはいろいろあろうさ、仲のいい連中のこととか若いご婦人方のこととか――」かれは手を振ることでその続きをはしょった。「わしのほうはといえばもう50だ、あんたたちの間に割って入ろうとはもう思わんよ」

ぼくらと握手して去って行ったかれの鼻は悲しみをたたえて震えていた。ぼくはなにかかれを傷つけるようなことを言ってしまったのではないかと思案した。

「あの人は時々ひどく感傷的になるのですよ」と、ギャツビーは説明した。「今日も感傷的になっていました。ニューヨーク周辺ではかなり名を知られた男です――ブロードウェイの住人でしてね」

「どういう人です? 俳優?」

「いいえ」

「歯医者?」

「メイヤー・ウルフシェイムが? いえいえ、博打ばくちうちですよ」ギャツビーは一瞬ためらい、そっけなく付け加えた。「1919年のワールドシリーズに八百長やおちょうをしかけた男です」

「ワールドシリーズに八百長を?」

その話にぼくはたじろいだ。もちろん、1919年のワールドシリーズが八百長試合だったのは覚えていたけれど、あまり深く考えてみたことはなかった。かりに考えてみたとしても、ただ何か不可避の事情が連なったその結果としてそうなってしまったのだとしか思えなかっただろう。1人の男がそんな勝負にでるなんて、ぼくには到底とうてい思いつけそうになかった――金庫破りを敢行する夜盗やとうのような無頼心ぶらいしんが、五千万のファンの信頼の向こうを張るなんて。

「それはまたどうやってそんなことを?」ぼくはしばらくたってから尋ねた。

「機を見てやっただけのことですよ」

「どうして刑務所に入ってないんです?」

「捕まえられないんですよ、尊公。抜け目のない男ですからね」

ぼくは自分が勘定かんじょうをもつと言いはった。ウェイターが釣銭つりせんを持ってもどってきたとき、混みあった部屋の向こうにトム・ブキャナンがいるのが見えた。

「ちょっと一緒にきてもらっていいですか?」とぼく。「挨拶していきたいひとがいるんです」

ぼくらを目にしたトムは飛びあがるように席を立ち、ぼくらの方へと6歩ほど足を進めた。

「きみはどこにいたんだ?」と勢いこんで問い詰めてきた。「デイジーはきみが電話をよこさないんでひどくおかんむりだぜ」

「こちらはミスター・ギャツビー、ミスター・ブキャナン」

2人は淡白たんぱくに握手した。張り詰めた見なれない色が、ギャツビーの困惑した顔に浮かんでいた。

「それはともかく、どういうわけでここにいるんだ?」とトムがぼくの答えを求める。「いったい何があったっていうんだよ、こんな遠くまで食事にくるなんて?」

「ミスター・ギャツビーとランチをね」

ぼくはギャツビーのほうに向き直ったが、もうそこにかれの姿はなかった。

**********

あれは1917年の10月のこと――

(あの日の午後、プラザ・ホテルのティーガーデンの椅子に背すじを伸ばして座ったジョーダン・ベイカーはそう語りだした)

――わたしはあちこち、歩道と芝生を行ったりきたりしていた。芝生を歩くのはイギリス製のゴム底の靴が柔らかい地面にめりこむみたいですごく気持ちよかった。真新しいチェックのスカートをはいてたんだけど、それがときどきそよかぜにはためいてた。風がくるといつでもね、家という家の門前に掲げられた赤・白・青の旗が、立ち向かうむたいにばさばさばさばさいってたっけ。

なかでも、デイジー・フェイの家の旗がいちばん大きかったし、芝生もいちばん広かった。あのひとは18になったばかり、わたしより2つ年上でね。それに、ルイビルにいた女の子の中ではずば抜けて有名だった。白いドレスを着て、白いロードスターを持ってて、あのひとの家にはキャンプ・テイラーの若い将校たちからの、その晩にあのひとを独占する特権をくれっていう興奮した電話がひっきりなしにかかってきてた。「とにかく、1時間だけでも!」ってね。

わたしがあのひとの家のお向かいにやってきた朝のことなんだけど、あのひとの白いロードスターがカーブのそばに停まってて、中にはあのひとと、それまで見たこともなかった中尉ちゅういさんとが座ってた。2人はお互いにひどく夢中でね、あと2メートルっていうところまで近づいてはじめてわたしに気づいたくらい。

「こんにちは、ジョーダン」と意外にもあのひとから呼びかけてきたんだ。「ねえ、ちょっとこっちにきて」

あのひとがわたしと話をしたがってると知って、わたしは得意になった。だってわたし、年上の女のひとの中でもあのひとのことをいちばん敬愛してたんだもの。あのひと、赤十字に包帯作りに行くのかって聞いた。もちろん。じゃあね、今日はわたし行けないって伝えといてくれる? 将校さんはデイジーがしゃべってる間ずっとデイジーを見つめた。若い女の子ならだれだっていつかきっとわたしにもってあこがれるような見つめ方でね。ロマンティックだなって思って、それでそのときのことをずっと覚えてたってわけ。将校さんの名前はジェイ・ギャツビーっていった。でもそれを最後に4年間ずっと見かけなかった――それで、ロング・アイランドであのひとと出会った後でさえ、このひととあのひとが同一人物だとは気づきもしなかったのよ。

それが1917年。その次の年にはわたしもすこしは男友達を作るようになって、トーナメントにもでるようになったから、デイジーにはあんまり会えなくなった。あのひとはすこし年上の人たちと出かけてたのよ――だれかと一緒に出かけるときはね。デイジーの周りには無茶苦茶な噂が飛び交ってた――あのひとが、ある冬の夜、ニューヨークに行ってこれから海外に行く軍人さんにお別れを言おうと荷物をまとめてるところを母親に見つかったって噂。結局それには横槍よこやりが入ったんだけど、数週間は家の人とまったく口を利かなかったらしいのね。それからのあのひとは軍人さんたちと遊びまわるようなことはもうしなくなって、相手にするのはただ街に残ってる偏平足へんぺいそく近眼きんがんといったほんわずかな若者だけになってた。軍隊には入れっこないような連中よ。

次の秋にはあのひともまた遊びまわるようになった。以前と同じようにね。休戦後社交界にデビューして、2月にはたしかニュー・オリンズ出身の男と婚約したんじゃなかったかな。6月にはシカゴのトム・ブキャナンと結婚、そのお祝い騒ぎときたらルイビルはじまって以来の盛大さでね。花婿さんは100人もの人たちを4台の自家用車で連れてきて、ミュールバッハ・ホテルのフロアを1階分全部借り切って、しかも結婚式の前日には35万ドルの真珠しんじゅの首飾りを花嫁に贈ったりしてさ。

わたしが花嫁の付き添いだった。ブライダルディナーの30分前にあのひとの部屋に行ってみたら、あのひと、花柄のドレスを着くずしたしどけない格好でベッドに横たわってた――へべれけに酔っ払ってね。片手にソーテルヌのボトル、反対側の手には手紙を一通にぎりしめてた。

「お祝いしてよ」ってあのひとはつぶやくように言った。「いままでお酒なんて飲んだことなかったけど、ああ、すごくいい気持ち」

「どうしたのよ、デイジー?」

わたしは正直言っておびえてた。あんなになった若い女を見たことなかったんだもの。

「ねえあなた」あのひとはベッドの側に寄せてあったごみ箱をひっかきまわして真珠の首飾りを引っぱりだした。「これを持って下に降りてって、だれでもいいから持ち主のところに返すように言ってきて。デイジーは気が変わったからって。ちゃんと言うのよ、『デイジーは気が変わりました』って!」

あのひとは泣きだした――泣いて泣いてもう手がつけられなかった。わたしは部屋を飛び出してあのひとのお母さんのメイドを捕まえてきて、ドアをロックしてから2人がかりで水浴びをさせた。あのひとは手紙を離そうとしなかった。そのまま浴槽につかったものだから湿ってぼろぼろに丸まってしまってね、結局雪みたいな破片になってしまったのを見てやっと離してくれたから、わたしはそれを石鹸箱にしまわせてもらったんだ。

でもそれ以上はもうごねたりしなかった。わたしたちはアンモニアをかがせたり、ひたいに氷を乗せてやったり、ドレスの背中のホックを留めてやったりして、それで30分後、3人そろって部屋を出たときは、真珠の首飾りもあのひとの胸元に収まって事は終わった。翌日5時にはトム・ブキャナンと身震い1つせずに結婚、南洋に向けて3ヶ月の旅行に出発。

こっちにもどってきたあのひとたちとはサンタ・バーバラで再会した。あのひとほど結婚相手に夢中な女なんて見たことないと思った。トムがちょっと席を外しただけでデイジーはあたりを不安そうに見まわして、「トムはどこにいったの?」なんて言って、トムがもどってくるまでの間ひどくぼんやりしてるのよ。トムに膝枕をしてあげたりして何時間と砂地に座ってたりもしてた。トムのまぶたを指でなぞり、喜びこの上ない様子で見つめながら。2人を見てるといかにもいじらしかったな――ほんともう、おかしくって笑い声を抑えるのがたいへんだったんだから。それが8月。わたしがサンタ・バーバラを出てから1週間後のある晩、トムは、ベンチュラ道路でワゴンと事故って、自分の車の前輪をひとつもぎとられた。それで一緒に乗ってた娘さんまで新聞に出ちゃったの、その娘の腕が折れてたからなんだけどね――しかもそれが、サンタ・バーバラ・ホテルのルームメイドのひとりで。

次の4月には女の子が生まれもした。それから1年間、家族そろってフランスで過ごした。わたしも春のころにカンヌで会ったっけ。一年たったら今度はシカゴに舞いもどってきて腰を落ちつけた。デイジーは若くて無茶な金持ち連中によく知られていたけど、悪い噂なんてこれっぽっちも聞かなかったな。たぶん、お酒が飲めないからよ。しこたま飲む連中に混じって酒を飲まないってのはすごく有利なことでね。ほら、酔って口を滑らすこともないし、それに、ハメをはずしたくなったときはだれも気にしてないようなタイミングを見計らってはずすことができるし。たぶん、デイジーは浮気なんてまったくやったことないんじゃないかな――声色にはどこか変だなと思わせるところがあるけどね……

で、6週間前、あのひとはここ数年来はじめてギャツビーの名前を耳にした。あなたもきてたあの晩のことよ――覚えてる?――わたしがウェスト・エッグのギャツビーを知ってるかどうか、あなたに尋ねたとき。あなたが帰った後すぐ、部屋にあがってきたデイジーがわたしを叩き起こして「なにギャツビー?」って聞いたの。わたしが――半分寝てたけど――ギャツビーの風采ふうさいを説明してやったら、まったく聞いたこともないような声音で昔知っていたひとにちがいないって言った。そのときはじめて、このギャツビーというひととデイジーの白い車に乗っていたあの将校さんとがわたしの中で結びついたってわけ。

**********

ジョーダン・ベイカーがここまでを語り終えたのはぼくらがプラザ・ホテルを出てから30分経ってのことで、そのときぼくらは、馬車でセントラルパークを通過中だった。陽は西区50番台街に並ぶムービースターたちの豪邸の影に隠れ、よいの入りの空には、草むらの蟋蟀こおろぎの歌のかわりに、そこいらの子供らの歌う、甲高い、ませた歌が染み広がっていく。

'I'm the Sheik of Araby.
Your love belongs to me.
At night when you're asleep
Into your tent I'll creep - '

「めずらしい巡り合わせもあったもんだね」とぼくは言った。

「ところがまったく巡り合わせなんかじゃなくてね」

「どういうこと?」

「ギャツビーがあの家を買ったのはデイジーが向こう岸に住んでるからなんだもの」

すると、6月の夜にかれが見ていたものは星どころではなかったのだ。ギャツビーが、無軌道むきどうというまばゆい母胎ぼたいの外に飛びだしてきて、ぼくの内に生きた人間として活動しはじめた。

「あのひとが知りたがってるのはね、あなたがそのうちデイジーを自分のうちでの午後のお茶に招いてくれるか、そして、そのときかれが顔をだしてもかまわないかどうか、ってこと」

その要求のつつましさにぼくは衝撃を受けた。5年もの間ずっと待ちつづけ、屋敷を買い、そこを訪れるの群れに光を分け与えてやった――それは、他人の庭での午後のお茶会にそのうち「顔をだす」ためだったのか。

「いま聞いた話を全部知らせたうえでないと頼めなかったってわけ? 些細ささいな頼みじゃない」

「あのひとも気が弱くなってるのよ、ずっと待ちつづけてきたんだから。あなたが侮辱ぶじょくされたと感じるんじゃないかって思ったわけ。ほら、ああ見えても人付き合いがうまくないひとだしね」

なにかが心に引っかかっていた。

「話はわかったけど、きみに直接再会の場を作ってくれるよう頼まなかったのはどうして?」

「あのひと、デイジーを自分の家に呼びたがってるから。お隣でしょ、それであなたってわけ」

「なるほど!」

「たぶん、あのひとはパーティーを繰り返してればそのうちひょっこりデイジーが出てくるんじゃないかと期待してたところがあったんじゃないかな。でも、そうはならなかった。そこで、いろんな人にデイジーを知らないかってさりげなく尋ねるようになって、最初に見つかったのがこのわたし。話があるって呼びにきたあの晩のことよ。そこで聞かされたのがまた、手のこんだ話でね。もちろん、わたしはすぐ、じゃあニューヨークで一緒にランチでもって提案して――そしたらもう、あのひとったら気がふれるんじゃないかと思った。

「『変な真似はしたくない、変な真似はしたくない、変な真似はしたくないんです! 私はただあの人の姿を少し離れた所から一目見られればそれでいいんです!』

「あなたとトムは特に仲がいいんだって教えてやったら、自分の考えをぜんぶ諦めはじめた。あのひと、トムのことはよく知らないのよ。デイジーの名前を一目見ようとシカゴの新聞を何年も読んでいたそうなんだけど」

あたりが暗くなっていた。ぼくらを乗せた馬車が小さな陸橋の影に入ったところで、ぼくはジョーダンの黄金色の肩に腕をまわし、自分のほうに引き寄せ、夕食にさそった。気がつくと、頭の中からはデイジーのこともギャツビーのことも消えうせ、ただ、潔癖で手厳しくて料簡りょうけんが狭くて、この世の何事をも懐疑的にとらえる癖のある、ぼくの腕の中で肩をらす人物のことだけを考えていた。「世の中にいるのは、追う者、追われる者、忙しい者、そしてくたびれた者、ただそれだけだ」という激しく興奮した声が頭の奥で響きはじめた。

「デイジーの人生にだって何事かがあって当然じゃない?」

「デイジーもギャツビーに会いたがってるわけ?」

「あのひとはなにも知らないの。ギャツビーは知られたくないらしくて。あなたがデイジーをお茶に招いてくれればって、ただそれだけを思ってる」

黒々として視界をさえぎる木立を通りすぎる。青白い光の塊と化した59番街の正面が、公園をひそやかに照らしあげていた。ギャツビーやトム・ブキャナンとは違い、ぼくは看板や広告に浮かんでいるような実体のない顔だけの女とは縁がなかったから、ぼくは、ぼくのかたわらにいる女、ぼくの腕をとらえてはなさない女を抱きよせた。その色の悪い、軽蔑をたたえた口元がほころんだ。だからぼくはもう一度彼女を抱きよせた。今度は前よりもっとそばにと。

5

あの夜、ウェスト・エッグへの家路にあったぼくは、一瞬、我が家から火が出ているのではないかと思った。2時。半島全体を包む焼けつくような光が低木の茂みに落ちかかり、そして道路横の電線は細長くきらめいていた。角を曲がったところで、ぼくはそれがギャツビーの家の、塔からはもちろん、地下室からまでも溢れだしてきた光だというのを見てとった。

最初、ぼくはまたパーティーかと思った。でたらめな連中が寄り集まって、隅から隅まで遊技場として明渡された家を舞台に「かくれんぼ」なり「おしくらまんじゅう」なりをやっているのだろう、と。ところが、なんの音も聞こえてこなかった。木々を抜ける風の声だけが聞こえてきた。風に揺れる電線はくりかえし光を反射する。まるで家全体が闇にまたたいているようだった。乗ってきたタクシーが走り去りつつたなびかせる排気音が響く中、ぼくは、ギャツビー邸の芝生を横切ってぼくのほうにやってくるギャツビーの姿を認めた。

「お宅はまるで万国博覧会ですね」とぼくは言った。

「そうですか?」ギャツビーは形だけ自分の家に目を向けた。「部屋を一つ一つ覗いて回っていたところでした。さ、コニー・アイランドに行きましょう、尊公。私の車で」

「もうこんな時間ですし」

「ふむ、ではプールでひと泳ぎするのはどうです? 私はこの夏、まだあれを使っていないのですよ」

「ぼくは寝ないと」

「そうですか」

かれは、いまにも聞きたいという想いを押し隠しつつぼくを見つめ、待った。

「ミス・ベイカーと話をしてきました」とぼくはしばらく間を置いてから言った。「デイジーをここまでお茶にくるよう誘っておきますよ、明日にでも電話して」

「ああ、それはよろしいのです」とかれはぞんざいに言った。「尊公をわずらわせたくはありませんから」

「都合のいい日はいつです?」

「そちらこそ、都合のいい日はいつです?」とかれはあわててぼくの言葉を言い換えた。「私としては尊公を煩わせたくはないのですよ」

明後日みょうごにちはどうですか?」

かれは少し考えこんだ。それから言いにくそうに、

「芝を刈っておきたいのですが」と言う。

ぼくらは揃って庭を目線を落とした――我が家のみすぼらしい芝生の端と、そこから始まるかれの家のみごとに手入れされた芝生との境目は、くっきりとした直線を描いていた。かれは我が家の芝生のことを言っているのだろう。

「それともう一つ、ちょっとした問題がありまして」とあやふやなためらいがちの口調で言った。

「つまり、23日様子を見たいということですか?」

「あ、その事ではありません。少なくとも――」かれはしどろもどろに切り出した。「まあその、多分ですね――何と言いますか、ほら、尊公はそう大金をお稼ぎになっておられるわけではないのでしょう?」

「ええ、それほどには」

この返事に安心したらしい、前よりも自信に満ちた口調で話を続けた。

「そうだろうと思っておりました、いや、お許し下さい――そのまあ、私はちょっとした仕事を片手間にやっております。サイドビジネスとでも申しますか。そして私は考えてみたのですが、もし尊公の稼ぎがあまり宜しくないということでしたら――今、証券をお売りになっているのですよね?」

「売ろうとしている段階ですけどね」

「では、この話にも興味がおありかと思います。たいして時間を取られるわけでもありませんし、それでいて悪くない小遣い稼ぎになりますよ。多少内密ないみつを要するようなこともありますが」

あのときは気づかなかったけれど、この会話を交わした当時、ぼくはむずかしい立場に立たされていたのだ。返事のしようによっては人生が大きく変わっていたかもしれない。でも、その提案はぼくをとりこもうとする意図が見えいた無粋ぶすいなものだったから、ぼくは迷わず払いのけた。

「ぼくはいま手一杯なものでしてね」とぼくは言った。「ご厚意はとてもうれしいんですが、いま以上の仕事をお引き受けするのは無理です」

「ウルフシェイムとはまったく関係を持たずにすむのですが」要するにかれはランチの席で口にされた「ゴネグション」なるものにぼくが尻ごみしていると見たわけだけど、そういうわけではないことをぼくははっきりかれに伝えた。かれはしばらく待っていた。ぼくが会話の口火を切るのを期待していたのだと思う。だが、ぼくはそれに気づかないくらいぼうっとしていた。かれはしぶしぶ自邸に引きかえしていった。

あの日の夕方の時点で、ぼくはもう、ふらふらの、ご機嫌な状態になっていた。ぼくは家の玄関を開けたとたん、深いまどろみの中へと歩みこんでいったように思う。だから、ギャツビーがあれからコニー・アイランドに行ったのかどうか、どれくらいの間屋敷中の照明をつけたまま「部屋を覗いてまわっていた」のか、ぼくはまったく知らない。翌朝ぼくは職場からデイジーに電話し、お茶を飲みにくるよう誘った。

「トムは連れてこないで」ぼくは念を押した。

「え?」

「トムは連れてこないで」

「だれよ、『トム』って」とデイジーはあどけなく言った。

調整のすえ決まったその日の天気はどしゃぶりだった。11時、レインコートを着、芝刈り器を引きずった男がぼくの家の玄関をノックした。ミスター・ギャツビーに言われて芝生を刈りにきたということだった。そのとき、ぼくのフィンランド人家政婦にあとでまた出てくるように言っておき忘れていたのを思いだし、ウェスト・エッグ・ビレッジに車を走らせ、雨に濡れそぼつ漆喰しっくいの横丁を駈けまわって彼女を探し、それからカップとレモンと花を買って帰った。

花は必要なかった。2時になるとギャツビーの家から温室ごと花が到着したからだ。花を飾る器も数えきれないほど届いた。1時間後、ひどく神経質にドアをノックする音がして、ギャツビーが飛びこんできた。白いフランネルのスーツ、シルバーのシャツ、金色のネクタイ。顔は真っ青で、目元には不眠がもたらした黒い隈ができている。

「準備は万全ですか?」とかれはだしぬけに尋ねた。

「草のことなら見違えるようですよ」

「何の草が?」と当惑した顔で言ったあと「あ、お庭のことですね」と続け、窓の外に目を向けたけれど、あの態度からして、実際にはなにひとつ見ていなかったのだと思う。

「結構ですね」とかれは曖昧に言った。「どこかの新聞が雨は4時ごろにあがると予想しておりましたよ。『ジャーナル』だったように思います。必要なものはみな揃いましたか? お茶会という形にですね」

ぼくにつれられて食料品室に入ったかれは、そこで会ったフィンランド人の家政婦に、これはちょっと芳しくないと言いたげな目を向けた。ぼくらは一緒に、デリカテッセンから買ってきた12個のレモンケーキを念入りに調べた。

「これでかまいませんよね?」とぼく。

「勿論、勿論です! 立派なものですとも!」それからうつろに言い足す。「……尊公」

雨は330分ごろにじめじめした霧に変わって、時折その霧の中に、露のような小雨が降った。ギャツビーはうつろな目つきで、キッチンの床を揺らす家政婦の足音にはっとしながら、クレイの『経済学』に目を通していたが、ときどき、霞みがかった窓の外を覗きこんだ。目に見えない恐ろしいハプニングがそこで起きているとでもいうように。やがてかれは立ちあがり、聞き取りにくい声で、家に帰ると言い出した。

「どうしてです?」

「だれもお茶にはきませんよ。もうこんな時間ですもの!」どこか別の場所に差し迫った用事があるみたいなようすで自分の時計を見た。「一日中は待っておれません」

「馬鹿言わないでください、まだ42分前じゃないですか」

まるでぼくに突き飛ばされたように、かれは椅子にへたりこんだ。それと同時に、表車道からエンジン音が響いてきた。ぼくらは2人とも飛びあがった。ちょっと悩んだけれど、ぼくは庭に出て出迎えることにした。

ぽたぽたと水滴を降すライラックの木々の下をくぐりぬけながら、1台のオープンカーがこちらに向かってきている。停車。デイジーが顔をすこし傾け、うっとりするような明るい笑顔を浮かべて、三つ折り帽子の下からぼくを見つめた。

「ねえニック、ここが本当にあなたの住んでるところなのね?」

デイジーの声は、雨の中、天然の酒となって爽快そうかいな波紋を起こした。ぼくは一瞬、全身を耳にして、その響きを追ってたかぶり、しずまり、それからようやく単語を認識した。湿り気を帯びた彼女の髪がひとふさ、青い絵の具で一筆されたダッシュ記号みたいな格好で頬にはりついていた。きらめく雨露に濡れたその手を取って、車から降りるデイジーを支えてやる。

「あなた、わたしに恋でもしちゃったの?」と低い声でぼくの耳にささやきかける。「じゃなきゃ、なんでひとりでこいなんて言うわけ?」

「ラクレント城の秘密でございましてね。運転手にどこか遠くで1時間ほど潰してくるように言ってやってくれ」

1時間したらもどってくるのよ、ファーディー」それからまじめくさったささやき。「運転手の名前、ファーディーっていうの」

「かれの鼻はガソリンにやられるのかな?」

「まさか」とあどけなく言う。「どうして?」

ぼくらは中に入った。ぼくは唖然あぜんとした。リビングは無人だったのだ。

「あれ、こいつは変だな」とぼくは大声をあげた。

「変ってなにが?」

玄関を軽くゆったりとノックする音に、デイジーは首だけ振りかえった。ぼくは出ていって玄関を開けた。そこに死人みたいな顔色をしたギャツビーが、両手を重りみたいにコートのポケットに突っこんで立っていて、かれの足元の水たまりがぎらぎらと放つ光に、ぼくは、悲劇の影を見たように思う。

両手をコートのポケットに突っこんだそのままの姿勢で、ギャツビーは、ぼくの横をすりぬけてホールに入り、マリオネットのようにがくっと向きを変え、リビングに消えた。それがちっとも変ではなかった。ぼくは自分の心臓が激しく鼓動するのを感じながら、ふたたび勢いを増してきた雨を前に玄関を閉ざした。

30秒ほど、まったくなんの物音もしなかった。そして、居間から喉を詰まらせたような囁きと断片的な笑いが聞こえてきて、デイジーのあきらかに作った声がそれに続いた。

「わたしほんとにもう嬉しくて嬉しくて。またあなたに会えるなんて」

間。それが恐くなるほど続く。ぼくはホールにいても手持ち無沙汰ということで室内に入った。

ギャツビーは、いまだポケットに両手を突っこんだまま、どこをとっても落ちついている、むしろ退屈ですらあるという風を装って、マントルピースにもたれかかっていた。後ろに大きくそらされた頭は動いていない置時計を抑えつけている。その位置からかれの不安げな瞳は、怯えながらも優美な態度で堅い椅子にちょこんと腰を下ろしたデイジーに向けられていた。

「私たちは以前にも会ったことがあるんですよ」とギャツビーは口にした。ぼくのほうをちらりと見て笑おうとしたけれど、口を開けただけに終わった。幸いにも、かれの頭の圧力に耐えかねた時計がこのときがたりと傾いたのを受け、かれは振り向き、震える指先でそれを元にもどした。それからぎくしゃくとソファに腰を下ろし、肘掛に肘をのせ、あごに手を当て頬杖をつく。

「時計のこと、どうもすみません」

ぼくの顔は真っ赤に高潮した。頭の中にはいくらでもあるはずのお決まりの返答が、ひとつも浮かんでこなかった。

「あれは古い時計だから」とぼくは馬鹿みたいなことを言ってしまった。

たぶんその瞬間、その場にいただれもが、時計は床に落ちてばらばらに壊れてしまったものと信じこんだのではないだろうか。

「もうずいぶんお会いしませんでしたね」というデイジーの声はいつになく素直なものだった。

11月で5年です」

ギャツビーの返答に含まれていた機械的な調子がぼくらをしばらく硬直させた。ぼくはやけになり、お茶の準備を手伝って欲しいから、と言って2人を立たせようとしたものの、そこにアラビアの魔神ジンならぬフィンランドの家政婦が、茶菓ちゃかをトレイに載せて入ってきた。

あれこれ騒ぎながらカップやケーキを並べているうちに、ある種、場の形式的な雰囲気が固まってきた。ギャツビーは、デイジーとぼくとが言葉を交わしている間、影に控え、緊張と不安のないまざった面持ちでぼくらをかわるがわる見つめた。が、まだ場に落ちつきがでてこないうちに、最初の機会を得たとたんぼくは中座を詫び、立ち上がった。

「どちらに行くのです?」とギャツビーが即座に尋ねてきた。

「すぐにもどりますよ」

「その前に少しお話ししておかないといけない事が」

かれはぼくを追ってキッチンに入り、ドアを閉めてから呟くように言った。「いやはや、参りました!」みじめな口調だ。

「どうしました?」

「これはひどい手違いです」と、首をはげしく左右に振りながら言う。「ひどい、ひどい手違いです」

「とまどってらっしゃるんでしょう、それだけですよ」それからうまい具合にこうつづけることができた。「デイジーもとまどってます」

「あのひとがとまどってる?」と、信じられないという口ぶりで復唱する。

「あなたと同じくらいにね」

「そんな大きい声を出さないで下さいよ」

「ねえ、子供みたいな真似まねはやめてくださいよ」ぼくは苛々してきた。「それだけじゃない、無作法ぶさほうです。デイジーはひとりぼっちでテーブルに残されてるんですからね」

かれは片手を挙げてぼくの言葉をさえぎると、忘れがたい非難の眼差しでぼくを見つめ、それから慎重にドアを開いて、隣の部屋にもどっていった。

ぼくは裏口から外に出て――ちょうどギャツビーが30分前に神経質に裏から表に回ったように――こぶのある黒い巨木めがけて走った。鬱蒼うっそうと広がるその葉が雨をさえぎっていた。ふたたびぽつぽつと雨が降りはじめ、ギャツビーの庭師がきれいに刈りこんでいった我が家の起伏に富んだ芝生には、泥水がたまった小さな水たまりが散らばり、ところによっては有史以前の沼地みたいなありさまだった。木の下からはギャツビーの広大な屋敷のほかに見るべきものがなかった。だからぼくは、教会の尖塔せんとうを見つめるカントのごとく、30分ばかりその屋敷を見つめていた。10年ほど前、「昔風」が熱狂的にもてはやされるようになったころに、ひとりの酒造業者が建てた屋敷だ。そこにまつわるひとつの物語がある。この酒造業者は、もし近隣の家々の所有者が自宅の屋根を藁葺わらぶきにしてくれれば向こう5年の税金を払おう、と言ったそうだ。おそらく、自分の提案が人々から拒絶されたことが、家を起こそうという男の野心を傷めつけたのだろう――男はあっという間に衰えてしまった。そして子供たちは家のドアに掲げられた喪章も外されないうちにその家を売却した。アメリカ人は、農奴たることはときに積極的に望みさえする一方で、小作農たることはいつもいつも断固として拒むものなのだ。

30分後、ふたたび太陽が輝きはじめ、食料品店の自動車が使用人用の食材を積んでギャツビー邸の私道に入っていった――ギャツビーはスプーン1杯分も口にしようとすまいとぼくは見ていた。1人のメイドがギャツビー邸の上の窓を開けはじめた。窓を開けるたび、その姿を外にさらす。中央の湾曲わんきょくした窓を開けたところで、そこから大きく身を乗り出し、なにか物思いにふけりながら、庭に唾を吐いた。そろそろぼくは家にもどることにした。雨が続いている間は雨音が、2人の、ほとばしる感情のままに響き高まる囁き声のように思えていた。けれども、いまの静寂の中においてぼくは、その静寂が家の中にも垂れこめているのではという気がしていた。

ぼくは室内に入った――入る前にキッチンで、コンロをひっくりかえすのだけは遠慮しておいたけれど、ありとあらゆる騒音を立てておいた――が、2人の耳に届いていたとは思えない。寝椅子の両端に座った2人は、どちらかが質問を口にしたばかりだとか、あるいはその質問の答えが待たれているかのように、黙ったまま見つめあっていた。あのとまどいはもう微塵みじんも残っていなかった。デイジーの顔には涙の跡が光っていた。ぼくが入ってくるのを見たデイジーは飛びあがるように席を立って、鏡に向かい、ハンカチで顔をぬぐった。だが、ギャツビーに訪れていた変化はただただ困ったものだった。顔をまさしく輝かせ、喜びの言葉ひとつ口にせず、喜びのそぶりひとつみせないうちにも、手にしたばかりの幸福感を全身から発散はっさんしては、小さな部屋を満たしていたのだ。

「ああ、よくお帰りになりました、尊公」まるでぼくと何年もへだてられていたような挨拶だ。一瞬、握手するつもりかと思った。

「雨はあがりましたよ」

「そうなのですか?」ぼくが言っていることを、室内に射した陽光を見て認識したギャツビーは、天気予報のにっこりマークそっくりな笑顔を浮かべ、このニュースをデイジーに向かってくりかえした。「どう思いますか? 雨はやみましたよ」

「うれしい、ジェイ」という声は、苦痛に満ち、可憐かれんな嘆きを含んだものだったけど、それはただ予期しなかった喜びを告げるものにすぎなかった。

「お2人とも、私の家に顔を出して行ってもらえませんか? デイジーにいろいろと見せて差し上げたい」

「本気でぼくにもきて欲しいと思ってるんですか?」

「無論ですとも、尊公」

デイジーは顔を洗うため2階に上がった――ぼくはタオルの状態を思い出し、しまったと思ったが、もう遅い――その間、ギャツビーとぼくとは芝生で待った。

「私の家、見事なものでしょう?」とギャツビーが言った。「ご覧なさい、正面全体が光を浴びているあの様子」

ぼくもその壮麗そうれいさを認めた。

「そう」とギャツビーは、アーチ型の扉ひとつひとつを見、角張った塔ひとつひとつを見た。「買い取る資金を作るのに丁度ちょうど3年かかりましたよ」

「財産は相続したんだと思ってました」

「そうですとも、尊公」と反射的な答え。「ですが大恐慌だいきょうこうほとんどど失くしてしまいましてね――大戦後の恐慌で」

かれは自分が何を言っているのか分かっていなかったのではないかと思う。というのも、かれがどんな仕事をしているのか尋ねてみると、「あなたには関係のない事です」と言ってから、改めてその返事の不適切さに気づいたようだった。

「いや、色々とやって参りました」と前言ぜんげんを訂正する。「薬の仕事をやり、その後、石油の仕事もやりました。ですが、今はそのどちらにも携わっておりません」そう言うと、前よりも注意をこめてぼくを見つめた。「いつかの晩に私から提案させて頂いた件を考え直して下さったという事ですか?」

ぼくが答えを返す前に、デイジーが家から出てきた。縦2列に並んだ真鍮しんちゅうのボタンが陽光にきらめいた。

「あそこの、あそこの大きなところ?」と指差しながら叫んだ。

「気に入りましたか?」

「とっても。でもひとりでどういうふうに暮らしてるの?」

「昼も夜も面白い人達で一杯にしているのですよ。面白いことをやっている人達。著名人ですね」

Instead of taking the short cut along the Sound we went down to the road and entered by the big postern. With enchanting murmur Daisy admired this aspect or that of the feudal shilhouette against the sky, admired the gardens, the sparkling odur of jonquils and the frothy odour of hawthorn and plum blossoms and the pale gold odour of kiss-me-at-the-gate. It was strange to reach the marble steps and find no stir of bright dress in and out the door, and hear no sound but bird voices in the trees.

ぼくらは海峡沿いの近道をとらず、道に出て、大きな裏門から中に入った。デイジーは聞き手をきつける囁き声で、屋敷全体が大空を切り取るそのシルエットの封建時代風の趣きを称え、黄水仙きずいせんの弾けるような香り、いまが盛りの山査子さんざしすももが放つ泡立つような香り、さらには大毛蓼おおけたでの淡い金色の香りただよう庭を称えた。違和感があったのは、大理石のステップにまできても、戸内外に華麗かれいなドレスのはためきも見えず、物音はといえば木立から鳥のさえずりしか聞こえてこなかったせいだ。

中に入り、みんなでマリー・アントワネット風の音楽室や王政復古おうせいふっこ時代風のサロンをさまよい進みながら、ぼくは、どの寝椅子、どのテーブルの影にも客人たちが隠れていて、命令に従い、ぼくらが通り抜けるまでひっそりと息を殺しているような感じを受けた。ギャツビーが「マートン大学図書館」のドアに近づいたときは、確かに、梟目の男の亡霊じみた笑い声がぼくの耳朶じだをうった。

ぼくらは2階にあがり、薔薇色や藤色の絹布けんぷでつつまれ、つみたての花々で色鮮やかに飾りたてられた時代風なベッドルームを通り抜け、いくつもの化粧室やビリヤードルームや、浴槽が床に埋め込まれたバスルームを抜けた――またある部屋に入り込んだところ、そこにはパジャマを着ただらしない格好の男が、床で強肝体操をやっていた。ミスター・クリップスプリンガー、別名「下宿人」だった。あの朝ぼくは、かれがひもじそうにビーチを歩き回っているのを目撃していた。やがて、ぼくらはギャツビー自身の部屋にきた。ベッドルームとバスルーム、アダム様式の書斎。ぼくらはそこに腰を落ち着けて、ギャツビーが壁の戸棚から取り出してきたシャルトリューズらしきものを、グラスに注いで飲んた。

ギャツビーは片時たりともデイジーから目を離さなかった。たぶんかれは、自邸にあるものひとつひとつを、それがデイジーからうっとりした眼差しをどれくらい引き出せたかという基準でもって、再評価していたのだと思う。時折、かれも一緒になって周囲にある自分の財産を呆然として見つめた。まるで、デイジーがここにいるという驚く他ない事実の前に、そのうちひとつとしてリアルには思えないと言わんばかりに。一度など、すんでのところで階段を踏み外すところだったのだ。

かれの寝室はいちばん質素な部屋だった――ドレッサーの中に見える、鈍い黄金色の光を放つ化粧道具のセットをのぞいては。デイジーは大喜びでブラシを手に取り、髪をいた。するとすぐ、ギャツビーは腰を下ろし、眉の辺りを手で抑えながら笑い出した。

「変なことですよね、尊公」とかれは浮かれたようすで言った。「私はどうしても――わたしがやろうとするといつも――」

かれは、見た目からも明らかに、第一、第二の状態を抜け、第三の状態に移行していた。戸惑いと理非もない喜びの末、いまやかれはデイジーがここにいるということに胸を高鳴らせつづけることにくたびれていた。長い間、かれはこのことを目一杯考え、その正しい道筋を結末まで夢み、言うなれば、思いもつかないほどに堅く歯を食いしばって待ちつづけてきたのだ。いまやその反動がやってきて、すりきれた時計のように止まってしまっていた。

間もなく自分をとりもどしたギャツビーは、2つの大きな特製キャビネットを開き、ぼくたちに中が見えるようにした。スーツ、ガウン、ネクタイがひとまとめにしてあり、それから、シャツの束が煉瓦みたいにうずたかく積み上げられていた。

「イギリスにいる知り合いが私に洋服を買ってくれるのですよ。毎シーズン、春と秋の頭にこれはというものを選んで送りつけてくるのです」

ギャツビーはワイシャツの束を取りだし、11枚、ぼくらの目の前に放り投げはじめた。薄手のリネンのシャツ、厚手のシルクのシャツ、洒落たフランネルのシャツが、宙を泳ぎながらその折り目を開き、テーブルの上に彩り豊かに散り積もっていく。感嘆しているぼくらを尻目にギャツビーは次々とシャツを投じ、ふかふかの山はさらに高く伸びる――横縞・縦縞・格子の模様、珊瑚色・青林檎色・藤色・薄橙色の布地、インディアン・ブルーの飾文字かざりもじ。とつぜん、耐えかねたような声をあげたデイジーは、シャツの山に顔を埋め、堰を切ったように泣きはじめた。

「こんなに綺麗なワイシャツなんて」としゃくりあげるデイジーの声はひどくくぐもっていた。「見てると悲しくなってくる。だってわたし、こんな――こんな綺麗きれいなワイシャツ、見たことないんだもの」

**********

家を見た後は、庭やプールやモーターボートや真夏の花々を見物することにしていた――が、窓の外ではふたたび雨が降りはじめたため、ぼくらは窓際に一列に並んで海峡の波打つ水面みなもを眺めた。

「もし霧がかっていなければ、湾の向こうにあなたの家が見えたのですけどね」とギャツビー。「いつもいつも、緑色の光が一晩中桟橋さんばしの先に灯されている」

デイジーは唐突にギャツビーの体に腕を伸ばしたけれど、ギャツビーはいま自分が言ったことに気を取られていたように見えた。もしかしたら、あの灯りの巨大な意味が永遠に消滅してしまったことを思わずにいられなかったのかもしれない。かれとデイジーを隔てていた長大な距離と比べれば、その灯りとデイジーとは、近くも近く、ほとんど触れんばかりの距離にあるように思えたのだろう。星から月までの距離と同じくらいの近さに。いまふたたび、それは桟橋にある緑色の灯りにすぎなくなった。かれの心を魅了みりょうしていたものが、ひとつ、減ったわけだ。

ぼくは部屋の中を歩き回っては薄暗がりの中のぼんやりとした物体の数々を調べはじめた。ヨット用の服装をした中年男の大きな写真がぼくの心に引っかかった。その写真は机が寄せられている壁に掛かっていた。

「これはどなたです?」

「あれのことですか? あれはミスター・ダン・コーディーですよ、尊公」

耳馴染みのある名前のような気がした。

「もう亡くなりました。何年か前までは、私の一番大切な友達でしたよ」

小箪笥こだんすの上に、同じくヨット用の服装に身を包んだギャツビーの小さな写真が置かれていた――頭を挑戦的に後ろに反らしたギャツビー18のころの写真だろう。

「いいなあ」とデイジーが叫んだ。「ポンパドール! こんなの持ってるって言ってなかったじゃない、ポンパドール――というかヨットを」

「これをご覧下さい」とギャツビーはあわてて言った。「切り抜きが沢山あるのですよ――あなたについての」

それをじっくり見ようと、2人は肩を並べて立った。ぼくがルビーを見せて欲しいと頼もうとしたとき、電話が鳴り、ギャツビーは受話器を取った。

「そうです……いや、いまはお話しできませんね……いまはお話しできないのですよ、尊公……私は、ち・い・さ・な・町と申し上げました……小さな町といえばどこか、あの方には分かるはずです……ふむ、あの方が小さな町と言われてデトロイトを思い浮かべるようでは、我々としても始末に困ってしまいますね……」

電話を切る。

「こっちきて、はやくはやくぅ!」とデイジーが窓の外を見つめながら叫んだ。

雨足は相変わらずだったけど、やみには西のほうから切れ目が走り、もこもこ、ふわふわとうねる雲は、ピンク色と黄金色の大渦になって、海上の空に広がっていた。

「あれ見て」とデイジーは呟くように言い、しばらくしてから、「あのピンク色の雲をひとつ捕まえて、その中にあなたを押しこんで、あちこち連れまわしてみたいな」

ぼくは帰ろうとしたのだけど、2人はどうしても聞き入れなかった。ひょっとしたら、2人だけでいるよりも、ぼくが一緒にいたほうがいっそう満足できそうな気分だったのかもしれない。

「そうだ、こうしましょう」とギャツビー。「クリップスプリンガーのピアノをみんなで聞くのです」

ギャツビーは「ユーイング!」と呼びながら部屋を出ていった。それから間もなく、戸惑ったようすの、若干疲れが見える青年を伴ってもどってきた。鼈甲縁べっこうぶちの眼鏡をかけた、薄い金髪の男。いまは、襟の開いた「スポーツシャツ」にスニーカー、ぼんやりした色合いのズボンというきちんとした服装になっている。

「運動のお邪魔ではなかったでしょうか?」とデイジーが礼儀正しく訊ねた。

「寝ていました」とクリップスプリンガーは、当惑をあらわに叫んだ。「つまりですね、ぼくは眠っていたんです。それから起きて……」

「クリップスプリンガーはピアノを弾くのです」とギャツビーはクリップスプリンガーの言葉をさえぎった。「ね、ユーイング、そうですよね」

「うまく弾けませんよ。弾けません――ピアノ、ほとんど弾いてないんですから。まったくの練――」

「下に降りましょう」と言ってギャツビーはスイッチを入れた。家中に光が満ち、灰色の窓は消え去った。

音楽室に入ったギャツビーは、ピアノの傍らのランプだけを灯した。震える手につまんだマッチでデイジーの葉巻に火をつけ、2人一緒に部屋の離れた場所にあった寝椅子に腰を下ろした。そのあたりまでには光が届いておらず、ただ、床の反射光がホールから漏れこんできているばかりだった。

クリップスプリンガーは『愛の巣』を弾き終えると、椅子に座ったままふりかえり、辛そうなようすで、薄暗がりにギャツビーの姿を探しもとめた。

「まったく練習してないんですよ。弾けないって言ったでしょう。まったく練――」

「そうごちゃごちゃ言わないで下さいよ、尊公」とギャツビーは頭ごなしに言った。「弾くんです!」

'In the morning,
In the evening,
      Ain't we got fun - '

外では風が音を立てて吹き荒れ、海峡沿岸にかすかな雷鳴らいめいが響きわたった。ウェスト・エッグの各戸に明りが灯りはじめ、人間を運ぶ電車はニューヨークを発ち、雨中、家路を驀進ばくしんする。人間が意味深い変化を遂げる刻限こくげんであり、あたりには興奮した雰囲気が作られつつあった。

'One thing's sure and nothing's surer
The rich get richer and the poor get - children.
      In the meantime,
      In between time - '

別れの挨拶をしようと近づいてみたぼくは、ギャツビーの顔に途方にくれたようすがもどってきているのに気づいた。まるで、今現在の幸福感の質にふとした疑問がわきあがったかのように。5年近い歳月! あの午後ですら、デイジーがギャツビーの夢をうち欠いた瞬間が何度かあったに違いない――それはデイジーの過ちからではなく、ギャツビーの幻想げんそうがもつ桁外れのバイタリティのせいだ。それはデイジーよりも先まで、なによりも先まで突っ走っていってしまう。ギャツビーは我が身をクリエイティブな情熱をもってその幻想に投入し、日増しにその幻想に新たな要素を描き足しながら、思うまま、鮮やかな羽根すべてでもって飾りたてた。いかに情熱を捧げたとしても、いかに溌剌はつらつと向き合ったとしても、男が己の心に築き上げる幻に挑むことなど叶わないのだ。

そう思いながら見ているうちに、どうやらギャツビーは少し気をとりなおしたようだった。手を伸ばしてデイジーの手を握り締める。デイジーがその耳に何事かを低くささやくと、かれは、思いのたけをぶつけるように、体ごとデイジーに向きなおった。思うに、情熱的な暖かさを帯びて上に下に揺れるあの声は、なによりもギャツビーを捕らえていたはずだ。というのも、それは夢にすら見られないものだったから――あの声は滅びを知らぬ歌だった。

2人はぼくのことを忘れていた。デイジーは視線を上げ、手を差し伸べた。ギャツビーの目にぼくはまったく映っていなかった。ぼくはもう一度2人を見つめた。人生のもりあがりに夢中になっていた2人はぼくをよそよそしく見つめかえした。ぼくは部屋を出て、大理石のステップを雨の中に向かって降りていった。2人をそこに残したままで。

6

このころのとある朝、ニューヨークの野心に燃える若手記者がギャツビーの屋敷にやってきて、何か言うことはないかと尋ねた。

「何に対してですか?」とギャツビーは礼儀正しく問い返した。

「そのまあ――たとえば声明とか」

5分ほどの要領を得ないやりとりの後わかったのだが、どうやらこの男は会社で人伝手にギャツビーの名前を耳にしたらしい。といってもその伝手について、どういう伝手を明らかにしようとはしなかったし、そもそも完全には理解していなかったのだろう。その日は休みだったその男は、「百聞ひゃくぶん一見いっけんかず」というわけで、まったく熱心なことにロング・アイランドまで飛んできたのだ。

それは闇夜やみよの鉄砲とでもいうべきものだったけど、記者の本能は正しかった。ギャツビーの悪名は、かれのもてなしを享受きょうじゅしたがゆえにかれについていっぱしの権威になっていた何百という連中によって喧伝され、もはや話題にも何にもなりようがないところまできていた。たとえば、「カナダへのアンダーグラウンドなパイプライン」みたいな現代的伝説がかれの身辺にまつわり、また、ギャツビーはひとところに住んでいるわけではまったくなくて、屋敷のように見える船舶に住みこみ、ロング・アイランドの海岸を密かに上り下りしているのだと、しつこく噂されていた。こうした突拍子とっぴょうしもない思いつきがなぜにノース・ダコタのジェイムズ・ギャッツを満足させるにいたったのか、語るのはたやすいことではない。

ジェイムズ・ギャッツ――それがかれの本当の名前だ。というか、戸籍上の名前はとりあえずそうなっている。17才のかれは、自分のキャリアのスタートを目の当たりにしたその刹那せつな、名前を変えたのだ――つまり、ダン・コーディーのヨットが、スペリオール湖でもっともいやらしい浅瀬に投錨とうびょうするのを見たときに。あの午後、破れた緑色のジャージにデニムのパンツという格好で海岸をうろついていたのは確かにジェイムズ・ギャッツだったが、借り出したボートをツオロミー号に漕ぎよせ、そこに停泊したまま30分も経てば風にやられてしまうと通知したのは、ジェイ・ギャツビーだった。

かれは、その当時すでに、ずいぶん長いことその名前を胸に温めていたのだと思う。無気力な敗残の百姓である両親――かれの想像力は、かれらを己の両親としてはけっして受けいれようとはしなかった。本当のところ、ロング・アイランドはウェスト・エッグのジェイ・ギャツビーは、自ら思い描いたプラトニックな構想から生まれでたのだ。かれは神の御子みこだった――もしこのフレーズになんらかの意味があるのだとしたらつまりそういうことなのだ――その父である神の御技みわざ、つまりは俗悪な美のために、どこまでも尽くさなければならない。だからかれはジェイ・ギャツビーというまさしく17才の少年が思いつきそうな人格を考案し、その構想に最後まで忠実だったわけだ。

1年以上、蛤を掘り、鮭を釣り、そのほか、寝食をあがなってくれる仕事をなんでもこなしながら、スペリオール湖の南岸をさまよいつづけていた。かれの引き締まった褐色の肉体が、過酷ながらも惰性に満ちた仕事をこなしつつ、アクティブな日々を生き抜いてみせたのは当然のことだ。かれは早くから女を知っていたけれど、女たちがかれをちやほやしてからというもの、かれは女たちを軽蔑するようになった。というのも、若い処女は無知だし、若い処女でなければ、ひたすら自分のことにかまけているかれにとってすれば当然のことにヒステリックに反応するものだから。

けれども、かれの心はずっと騒然とした状態にあった。なによりファンタスティックで、なによりグロテスクな自負心が、夜、ベッドに入ったかれを襲った。洗面台に置かれた時計が時を刻み、月が床に脱ぎ散らかされた服を照らし出す中、かれの頭の中では筆舌ひつぜつに尽くしがたくけばけばしい世界がとぐろを巻いていた。まどろみの抱擁ほうようを受けて描かれる鮮やかな情景にいつともなく幕が下ろされるまで、夜ごと、己の妄想に新たなパターンを付け加えていったのだ。こうした夢想は、しばらくの間、かれの想像力のけ口になっていた。なんとなくでも現実が非現実的に思えてくるのは心が満たされたものだし、岩のように思える世界が実は妖精ようせいの羽の上にあるのだと請けあってもくれた。

それより何ヶ月か前、将来の栄光に導かれ、南ミネソタ州のセント・オーラフにある小さなルーテル派の大学の門をたたいたことがある。そこには2週間滞在したが、かれの運命の鼓動に対し、かれの運命そのものに対し、大学は、学費を支払うために警備員をやるよう指示し、その仕事を軽蔑したかれは、大学の恐ろしく冷淡な態度に幻滅してしまった。それからふたたびスペリオール湖に流れ、ダン・コーディーのヨットが浅瀬に投錨したときも、その日やることを探しているところだった。

コーディーは当時50、ネバダの銀床やユーコンの砂金といった、1875年以来のありとあらゆる貴金属ラッシュが生み出した人物だ。かれを一介の百万長者どころでない金満家にしたてたモンタナでの銅取引は、肉体的にはたくましいかれも、精神的にはもう少しで柔和にゅうわといえそうなところがあるのが見出され、それに感づいた女たちは、数限りなくよってたかってかれとかれの金とを引き離そうとした。その中でも、エラ・ケイという、コーディーの弱さに対してマダム・ド・マントノンの役割を演じた女記者が、コーディーをヨットに乗せて海に送り出すのに用いたあまりにもけしからぬ手管てくだは、1902年の声ばかり大きいジャーナリストたちの共有財産となっていた。そしてコーディーは、5年にわたってひどく居心地のよい港町に片っ端から寄ってまわるうち、期せずして、リトル・ガール湾でジェイムズ・ギャッツの運命と交わったのだ。

若き日のギャッツが、オールを漕ぐその手を休め、欄干らんかんが設けられたデッキを見上げる。かれにとって、あのヨットはこの世界の美しさと華やかさをあらわすものだった。たぶん、かれはコーディーにほほえんでみせたことだろう――おそらくそのときはもう、自分のほほえみに人々が好意を寄せてくれることに気がついていただろうから。ともかく、いくつか質問をしてみたコーディーは(その質問のひとつに答えて、真新しい名前が飛び出したわけだ)、その若者の利口さや弾けんばかりの野心に気づいた。数日後、かれをダラスにつれていったコーディーは、青い上着と6着の白い麻のズボンとヨット帽を買い与えた。そして、ツオロミー号が西インド諸島やバーバリー海岸目指して帆を上げたとき、ギャツビーもまたその地を去った。

かれは特に決まった形で雇われたわけではなかった――コーディーに付き従っている間、給仕にもなったし、船員にもなったし、船長だったこともあるし、秘書を務めたこともあれば、果ては看守にさえなったことがある。というのも、素面のダン・コーディーは、酔ったダン・コーディーがどんなに馬鹿げたことをしでかすかとくと心得ていて、そういう不慮の事態に、ギャツビーへの信頼を深めていくことによって備えておこうとしたからだ。こうした状態が5年間続き、その間、船は大陸を3周した。もしも、エラ・ケイがボストンで乗りこんできた夜から1週間後につれなくもコーディーが死んでしまうようなことがなかったとしたら、それはいつまでも続いていたかもしれない。

ぼくはギャツビーの寝室にかかっていたダン・コーディーの肖像をまだ覚えている。近寄りがたく、無表情な赤ら顔で、髪には白いものが混じっている――放蕩無頼ほうとうぶらいの開拓者、アメリカ史の一時期に、フロンティアの売春宿や酒場といった粗野な代物を東部へ持ちかえった連中である。ギャツビーがほとんど酒を飲まないのも、間接的にはコーディーのせいだった。ときに、女たちが酔った勢いでシャンパンをかれの髪にすりこんだりしたものだ。かれ自身は、酒には一切手をふれないようにしていた。

そしてかれが相続した金もまた、コーディーのものだったのだ――25千ドルの遺産だ。かれはそれを手にしていない。自分に対してどんな法律的術策が用いられたのか、かれにはまったく理解できなかったのだけど、遺された数百万の遺産はそっくりそのままエラ・ケイの手に渡った。かれには妙に自分にあった教養だけが残された。ジェイ・ギャツビーという輪郭りんかくだけのおぼろな人格が、一人の男の骨頂こっちょうで満たされたというわけだ。

**********

以上の話をかれから聞いたのはかなり後のことだけど、最初に述べた、かれの過去についてのでたらめな噂をくつがえすため、ここにはさみこんでおくことにする。あの噂は少しも本当のことではない。しかも、この話を聞かされたときは、何もかもが混乱こんらんしていた時期であり、ギャツビーに関する何もかもが信じられそうで、何もかもが信じられなさそうな、そんな時期だった。だからぼくはこの小休止を利用し、言うなれば、ギャツビーが一息ひといき入れているすきをついて、上の誤解を明確にしておこうと思う。

休止といえば、ぼくとかれとの関係もしばらくの間空白があった。何週間か、ぼくはかれを見かけなかったし、電話で声を聞くこともなかった――ほとんどの時間をジョーダンとニューヨークで過ごし、彼女の叔母に気に入られようとやっきになっていた――けれどもそのうちとうとう、ある日曜日の午後に、ぼくはギャツビーの家に出向いた。ぼくがきてから2分もしないうちに、だれかがトム・ブキャナンをつれて飲みにやってきた。ぼくはとうぜんのことながらぎくりとしたけれど、この事態がいまさらに出来しゅったいしたことこそがほんとうに驚くべきことだった。

馬に乗ってやってきた3人の内訳は、まずトム、それからスローンという名前の男、最後に、茶色の乗馬服に身を包んだ綺麗な女。女は以前にもここにきていたことがある。

「よくいらっしゃいました」とギャツビーはポーチに立って言った。「お立ち寄り頂き嬉しく思います」

この連中が気を使ってくれているとでも?

「どうぞお座りください。煙草か葉巻でもどうぞ」かれはきびきびと部屋の向こうに歩いていって、りんを鳴らした。「すぐにお飲み物を用意いたしますので」

ギャツビーは、トムがいるという事実に間違いなく影響されていた。だが、まずなすべきことは、どうやら何かを求めてやってきたらしいこの連中にその何かをくれてやることであり、それまでは何を考えるゆとりもなかっただろう。ミスター・スローンはなにも欲していなかった。レモネードでも? いえ結構です。ではシャンパンなどは? なにもいりませんよ、ありがとう……どうもすみません――

「馬は楽しめましたか?」

「このあたりは道がいい」

「たぶん、自動車は――」

「そうですね」

耐えがたい衝動しょうどうに襲われたギャツビーは、初対面なものとして紹介されたトムに向き直って、言った。

「以前にもどこかでお会いしたはずですよね、ミスター・ブキャナン」

「ああ、そうでした」とトムはしわがれ声で丁寧ていねいに答えたが、明らかに覚えてなどいなかった。「確かにお会いしました。よく覚えていますよ」

2週間ほど前に」

「そのとおりです。あなたはここにいるニックと一緒でした」

「私はあなたの奥さまを存じ上げております」とギャツビーはほとんど切りこむような口ぶりだ。

「それはそれは」

トムはぼくのほうを向いた。

「ニックはこのあたりに住んでいるわけか?」

「隣だよ」

「それはそれは」

ミスター・スローンは会話には加わらず、椅子にふんぞり返って座っていた。女もまた一言も口を利かなかったが、ハイボールを2杯干した後、不意に饒舌じょうぜつになった。

「次のパーティーに私たちもきていいですか、ミスター・ギャツビー。何も問題がなければですが」

「問題ありませんとも。大歓迎ですよ」

「ありがたいことです」とミスター・スローンは言ったが、あまりありがたそうではなかった。「さて――そろそろ引き上げたほうがよさそうですな」

「そう急がないで下さい」とギャツビーはしきりに言った。いまや自制心をとりもどしたかれは、もっとトムのことを知りたいと思っていたのだ。「なぜまた――なぜまた夕食までお残り頂けないのですか? きっとニューヨークからどなたかお出でになりますよ」

「私のところの夕食においでになりませんか?」と女が熱心に言いつのった。「あなたがたお2人で」

ここにはぼくも含まれていた。ミスター・スローンは立ちあがった。

「行こう」と言った――が、これは女だけに向けられたものだ。

「私は本気よ」と女は食い下がった。「あなたがたと一緒に夕食をとりたいの。人数に余裕はあるし」

ギャツビーはぼくに問い掛けるような眼差まなざしを向けた。かれは行きたがっていた。けれどもかれにはミスター・スローンの、きてほしくないと思っている気配が読めていなかった。

「残念ですけど、ぼくは行けそうにありませんね」とぼくは言った。

「じゃあ、あなただけでも」と女はなおもギャツビーを誘う。

ミスター・スローンが何事かを女の耳元でささやいた。

「いまから出れば間に合うわよ」と大きな声で言い張る。

「私は馬を持っておりません。軍隊にいたころはよく乗っていたのですが、自分で買ったことはありませんでね。車でついていくしかありません。少々お時間を頂けますか」

ぼくらは外のポーチでギャツビーを待った。そこで、スローンと女は激しく言い争いはじめた。

「参ったな、あいつ、間違いなくくるつもりだぜ」とトム。「彼女がきてほしくないと思っているのが分からないものかね?」

「きてほしいって口では言ってたわけだしね」

「大きなパーティーなんだよ。あいつの知った顔などあるものか」と言って、眉をしかめる。「いったいどこでデイジーと会ったんだろう。まったく、おれの考え方が古いのかもしれんが、近頃の女はふらふらと出歩きすぎて気に入らん。妙なのと片っ端から会ってやがる」

とつぜん、ミスター・スローンと女がステップから降りてきて、それぞれ自分の馬にまたがった。

「行こう」とミスター・スローンがトムに言う。「おそくなった。もう行かないと」それからぼくに向かって、「あのひとには待ちきれなかったと言っておいてください。よろしいですか?」

ぼくとトムとは握手した。あとの2人とはそっけなく会釈えしゃくを交わした。かれらは軽やかに私道を駈けてゆき、ギャツビーが帽子と薄手のコートを手に玄関前に出てきたときは、ちょうど、8月の葉群はむらの下に消え去ろうとしているところだった。

デイジーがひとりで出歩くのを、トムは明らかに不安がっていた。というのも、きたる土曜日の夜にギャツビーが開いたパーティーに、デイジーについてやってきたからだ。トムがきているということがその夕べに妙な圧迫感を与えていたのだろう――その夏のギャツビーのパーティーのなかでも格別に記憶に残っている。顔ぶれはいつもと同じ。というか、少なくとも同じ種類の連中で、シャンパンの大盤振舞おおばんぶるまいもいつもどおり、雑多な色彩と音調が入り乱れているのも相変わらずだったけど、それでもぼくは、以前には見られなかったとげとげしさがたちこめたその場の雰囲気に不快感を覚えた。あるいは、ひょっとしてぼくがギャツビーのパーティーになじんでしまい、ウェスト・エッグという、独自の基準と独自の英雄像を持ち、そうであることを自覚していないからこそ他の追随ついずいを許さない土地を、それ自体で完結したひとつの世界として受け容れるようになっていたところが、いまそれを改めて見なおすにあたってデイジーの視点を借りたためなのかもしれない。ぼくらが一生懸命いっしょうけんめいに順応してきたなにかを新しい視点で見直していくのは、いつだって悲しみを呼ぶものだ。

トムとデイジーが到着したのは黄昏時たそがれどきだった。ぼくとギャツビーを伴って何百という精華せいかの間をうように歩き回る間、デイジーの声はささやくような無駄口を喉の奥で奏でていた。

「ここにきてからとってもわくわくしてる」とデイジーはささやくように言った。「今晩もしわたしにキスしたくなったらね、ニック、いつでもそう言って。よろこんで応えちゃうから。わたしの名前を口に出すだけでいい。じゃなきゃ、緑のカードを出すこと。わたし、緑のカードを配って――」

「あたりをごらんなさい」とギャツビーが言った。

「いま見てるところ。とっても素敵な――」

「名前くらいはお聞きの顔がたくさんあると思いますが」

トムは傲然と群集を見まわした。

「ぼくらはあまり外に出ませんでね。実際、見知った顔などひとつもないように思っていたところです」

「ひょっとしたらあの女性はご存知かもしれません」ギャツビーは白李しろすももの下に座っている女性のことを言っているのだ。人間ばなれした、らんの花みたいに絢爛けんらんな女だった。トムとデイジーは目を見張った。その眼差しには、それまで映画の中でしか見たことのなかった著名人を眼前にしたときに特有な、現実を疑うような気持ちがこめられていた。

「きれいなひとね」とデイジーは言った。

「あのひとに屈みこんでいるのはあのひとの映画を撮っている監督ですよ」

ギャツビーは儀式ばってトムとデイジーをいろんなグループに紹介していった。

「ミセス・ブキャナン……ミスター・ブキャナン――」それから一瞬ためらって、こう付け加えた。「かのポロ・プレイヤーの」

「まさか」とトムはあわてて否定した。「ぼくは『かの』なんてものじゃありませんよ」

だがその響きは明らかにギャツビーを悦に入らせていたのだ。その晩ずっとトムは「かのポロ・プレイヤー」として紹介されつづけたのだから。

「わたし、こんなにたくさんの有名人に会ったのはじめて」とデイジーは叫ぶように言った。「あのひと、気に入ったな――名前はなんだったっけ?――あの、ちょっと真面目ぶったひとなんだけど」

ギャツビーはその男の名前を言い、力のないプロデューサーだと付け加えた。

「そう。でもとにかくわたしは気に入った」

「ぼくはどっちかというと、かのポロ・プレイヤーでないほうがありがたいんですけどね」とトムが弾むような声で言った。「この高名な方々をただひたすらに見ていたいものです――すっかり忘れられた状態でね」

デイジーとギャツビーが踊った。かれの、古めかしいフォックス・トロットの優美さに驚かされた覚えがある――ぼくはそれまでかれの踊るところを一度も見たことがなかったのだ。それからかれらはパーティーを抜け出してぼくの家まで歩き、ステップに半時間ほど座っていた。ぼくはデイジーの求めに応じて庭の見張りに残った。「火事とか洪水とか」とデイジーの説明にいわく、「その他の天災が起きたらあれだから」

トムがかれの言うすっかり忘れられた状態から姿をあらわし、ぼくらが夕食の席を囲んでいるところにやってきた。「向こうの連中と食べることにしてもかまわないかな。妙な話をしてるのがいるんだよ」

「どうぞ」とデイジーが愛想よく言った。「だれかのアドレスを書きとめたくなったときは、わたしの金色の色鉛筆でも使えばいい」……デイジーはしばらくあたりを見渡してから、ぼくに向かい、その娘を「どこにでもいそうだけど、でも綺麗」と評した。デイジーは、ギャツビーとふたりきりで過ごした30分を除けば、今夜のパーティーをさっぱり楽しんでいないのだと、ぼくは悟った。

ぼくらは異様に酔ったテーブルに座っていた。ぼくのミスだ――ギャツビーが電話がかかってきていると呼び出された後、ほんの2週間前に席を囲んだのと同じ顔ぶれの連中と楽しみたいと思ったのだ。けれども、あのときは面白く思ったものが、今回はただれた雰囲気にすりかわっていた。

「気分はどう、ミス・ベーデカー?」

話を振られた若い女は、ちょうど、ぼくの肩にしなだれかかろうとし、なかなかうまくいかずにいるところだった。問いかけを受けて、椅子に腰を下ろし、目を見はる。

「は?」

図体の大きい鈍重そうな女、これはデイジーを明日のローカルなクラブでのゴルフに誘っていた女だが、それがミス・ベーデカーの弁護をはじめた。

「ああ、大丈夫よ。いつもカクテルを56杯ひっかけるとあんなふうにわめきだすんだから。お酒はやめたほうがいいって、あたし、言ってるんだけどね」

「やめてるってば」とこれは形ばかりの反駁はんぱくだ。

「あんたが大声でわめいてるのが聞こえてきたからね、あたしはここにいるシベットせんせに言ったんだ。『せんせ、あんたの力を必要としてるのがいるんだ』って」

「感謝すべきだな、まったく」ともうひとりの友人が言ったが、あまりありがたそうではない。「でもあんた、あのひとの頭をプールに突っこんでドレスまでずぶぬれにしてしまったこともあったしね」

「なにが嫌って、自分の頭をプールに突っ込まれることほど嫌なものはない」とミス・ベーデカーが舌の回らない喋り方で言った。「一度なんか、あの連中、ニュージャージーであたしを溺れさせるところだったんだから」

「じゃあ酒をやめることですな」とドクター・シベットが反撃した。

「自分はどうなのよ!」とミス・ベーデカーは猛然と叫んだ。「手が震えてるくせに。あんたの手術なんて、あたしは絶対にお断りだね!」

こんな感じだった。ぼくの記憶では、最後あたりはデイジーと並んで立って、映画監督とそのスターとを眺めていたはずだ。2人はまだ白李しろすももの下にいて、お互いの顔を触れんばかりに近づけている。顔と顔の間には、月からの細い光が流れこんでいるだけだ。ふとぼくは思った。かれは一晩かけてごくゆっくりと彼女の方へと身をかがめていき、ついにこの距離にまで達したのではないか、と。ぼくが見守っているうちに、かれは最後のひとかがみを極め、彼女の頬にキスをした。

「あのひとのこと、気に入ったな」とデイジーが言った。「きれいなひとだと思う」

けれどもその他はデイジーの気に触った――その理由は、議論の余地もなく、身振りや仕草の問題ではなくて、感情的な問題だった。ブロードウェイがロング・アイランドの一漁村にこしらえたウェスト・エッグという先例のない「場所」に、彼女は恐れをなしていた――昔ながらの回りくどい会話の皮下にある生々しい精力や、無から無へと通じる近道に人々を群がらせる、あまりにも押しつけがましい運命観に、恐れをなしたのだ。自分には理解できない単細胞さに、デイジーは何かおぞましいものを見出していた。

トムとデイジーが車を待つ間、ぼくもかれらと並んで玄関前のステップに座りこんでいた。あたりは真っ暗で、ただ戸口から漏れくる明かりが3平方メートルほどの光を夜明け前の柔らかな闇から打ち出していた。時折、頭上の更衣室に下ろされたブラインドの向こうで人影が動き、もうひとつの人影に場所を譲った。ここからは見えない鏡に向かってルージュをひき、パウダーをはたくひとたち。

「とにかく、ここのギャツビーってのはどういうやつなんだ?」と不意にトムが絡んだ。「派手に酒の密造でもやってるのか?」

「どこでそんなことを聞いたんだ?」とぼくは訊ねた。

「聞いたわけじゃない。想像だよ。最近の成金どもは大抵酒の密造をやってるもんだからな」

「ギャツビーは違う」ぼくは短く答えた。

かれはちょっとだけ黙った。私道に敷き詰められた砂利じゃりがかれの足元で擦れ合う音をたてた。

「まあ、ここまで妙な生き物を揃えてみせたんだ、さぞ苦しみもあったはずだな」

かすかな風が吹き、デイジーの首もとの、煙るような灰色の毛皮のえりをそよがせた。

「少なくともわたしたちが知ってるひとたちより面白いとは思ったけど」とデイジーは無理してそう言った。

「言うほど面白がっていたようには見えなかったがね」

「ふうん。わたしは面白がってたんだけど」

トムは笑い飛ばしてぼくのほうに向き直った。

「気がついてたか、あのとき、あの娘からシャワー室までつれていってくれって頼まれたときのデイジーの顔?」

デイジーは、かすれた律動的なささやき声で口ずさみはじめた。11語に、これまでにない、そしてこれからくりかえされることもなさそうな意味をこめて。曲が高い音域に達するとデイジーの声音は甘く乱れ、コントラルトとしては常のやり方ながら、それに合わせてキーを変えるたび、デイジーが持つ人間的魅力という魔法があたりに切り出されてゆく。

「招かれもしないのにやってくるひとがたくさんいるのよ」とデイジーはふと言いだした。「あの子だって招かれてたわけじゃない。ああいう、無理やりやってくるひとたちを、あのひとは礼儀正しすぎて追い帰せないだけ」

「あのひとってのが何者で何をやってるのか、それを知りたいものだね」とトムはなおも言う。「いまにきっとつきとめてやる」

「知りたいならいまここで教えてあげる」とデイジー。「ドラッグストアとかを持ってたの、ドラッグストアをたくさん。あのひとが自分で作った」

すっかり遅くなったリムジンが私道をこちらに向かってきた。

「おやすみなさい、ニック」とデイジーが言った。

デイジーの視線がぼくを離れ、ステップの光があたっているところを探った。そこに、開いたドアから、その年流行った聞き心地のいい悲しげな小ワルツ、『スリー・オクロック・イン・ザ・モーニング』が溢れだしていた。結局のところ、ギャツビーのパーティーのさりげなさにこそ、デイジーの世界にはまったく存在していないロマンティックな可能性があったのだ。家の中にもどってくるよう、デイジーに呼びかけるあの歌の中に何がこめられていたのか? この先、見当もつかないほど遥かでおぼろな未来に、いったい何が起きようというのか? あるいは、信じられないようなゲストが到着し、それが驚いてしかるべきかぎりなく珍しい人物、若く美しい女性で、ギャツビーをほんの一目、見る。その超常的な邂逅かいこうの瞬間、揺るぎなく愛を捧げつづけた5年間は消し飛ばされてしまうかもしれないのだ。

ぼくは夜遅くまで残った。ギャツビーから、自分の手が空くまで待っていて欲しいと頼まれたからだ。ぼくは庭に居残った。やがていつもどおりに泳ぎに行っていた連中が、冷えきり、ほろ酔い加減で、暗いビーチから駈けあがってくる。2階の客室の電気が消える。それからやっとギャツビーがステップを降りてきた。日焼けした顔にはいつもと違った緊張の色が見え、瞳はぎらぎら光って、いかにも疲れているようだった。

「デイジーは気に入らなかった」とかれは前置きもなく言った。

「気に入ってたに決まってるじゃないか」

「デイジーは気に入らなかった」と言い張る。「楽しく過ごせなかった」

かれは黙りこんだ。口には出せないほどに気落ちしているのだと思われた。

「あのひとが酷く遠く感じられるのです。中々分かって貰えない」

「つまりダンスのこと?」

「ダンス?」かれは自分が踊ったダンスというダンスをまとめて払いのけるように指を鳴らした。「尊公、ダンスなんて大したことではありません」

ギャツビーがデイジーに望んでいたことは、他でもない、トムのところに行って「あなたのことなんか愛したことない」と言ってのけることだった。その発言で4年の歳月を解消した後、採るべき現実的手段を決める。そうした計画のひとつは、自由になって実家にもどった彼女とルイビルで結婚するというものだった――ちょうど、5年の歳月を巻きもどすようにして。

「でも、あのひとは分かってくれない。昔は分かってくれるひとだったのに。私達は何時間も一緒に座って――」

そこでかれは口を閉ざし、果物の皮、破棄はきされた贈り物、ひしゃげた花々で散らかっている小道を、行ったり来たりしはじめた。

「ぼくだったらそんなに多くは求めないけどな」ぼくは思いきって言った。「過去はくりかえせないよ」

「過去はくりかえせない?」とギャツビーは疑わしげに叫んだ。「何を言うのです、勿論もちろんくりかえせますよ!」

かれは勢いよく周囲を見まわした。過去はこの家の影に潜んでいて、ただ手の届かない場所にあるだけだとでも思ったのか。

「私は何もかもを以前と同じ状態に直すつもりです」と言い、断固としてうなずいた。「あのひとも分かってくれることでしょう」

ギャツビーは過去のことを延々と話した。ぼくはいろいろと考えあわせ、かれは、自分自身のとらえ方などといった、かれにデイジーを愛させた何かをとりもどそうとしているのだ、と結論した。デイジーを愛するようになってからというもの、かれの人生は混乱し、無秩序に進行していったけれども、いったん特定の場所まで立ち返ってそこからゆっくりと全体をたどりなおすことができたならば、かれにも見つけ出せただろう、かれにデイジーを愛させたものの正体を……。

……とある、5年前の秋の夜、枯葉の舞い散る中、通りを散歩していた2人は、やがて1本の樹木もない場所に出た。足元の道が月光に白く照り輝いている。2人はそこで立ち止まり、お互いに顔を見合わせた。その夜のひんやりとした空気は、なぜか胸騒ぎを覚えさせるような、年に2度訪れる変化のときにおなじみのものだった。家々の静かな灯りがやみに向けてハミングし、星々はせわしなく動きまわった。ギャツビーは、その瞳の片隅で、歩道のブロックが本物の梯子はしごのように伸びて、木々の上に隠された秘密の場所へと通じているのを認めた――かれはそれを昇ることができた、もしひとりで昇るのならば。昇りさえすれば、その先にある命のパン粥をすすり、比肩するものなき驚異のミルクを飲みくだせたことだろう。

デイジーの白い顔がかれに近づくにつれ、ギャツビーの心臓の鼓動はますます速くなっていく。かれは知っていた。目の前の娘に口づけを与え、己の語りようのないほどのビジョンと娘のはかない吐息といきちぎらせてしまえば、もはや、かれの精神は神の精神のようには飛び回ることができなくなるのだ。だからかれはじっと待った。もうしばらくだけ、星を打つ音叉おんさの響きに耳を傾ける。それから、口づけした。唇がふれたとたん、ギャツビーの胸中におけるデイジーはみごとに花開き、生身なまみの存在であることをやめたのだ。

ギャツビーの話を聞きながら、そのおぞましいほどの感傷を感じていると、ぼくの頭の引出しの中から何かが飛び出してきそうになった――難解なリズム、なくした言葉の断片、ぼくがずっと昔にどこかで耳にしたもの。一瞬、それが言葉として形をとりそうになったけれど、ぼくは声を失ってしまったかのように、ただ口を開くことしかできなかった。そこに、一介の空気の振動どころではない、もっと苦闘を要する何かがこめられていたのだろうか。だが、それは音になりえず、ぼくがもう少しで思い出せたものが伝えられる機会は永遠に失われてしまった。

7

ちょうどギャツビーへの好奇心が最高潮に達したころの土曜日、夜になってもかれの邸宅には明りを灯される気配がなかった――そして、かれの饗宴王トリマルキオとしてのキャリアは、始まりと同様、よくわからないままに終わりを告げたのだ。期待もあらわにギャツビー邸の私道へと入りこんでくる自動車が、ほんの少し留まっただけで、すねたように走り去っていくのに、徐々にではあれ、ぼくは気づきはじめた。病気かと思って、ぼくはギャツビーに会いに行ってみた――ドアからは、人相の悪い、見なれない執事が疑るようなようすで出てきた。

「ミスター・ギャツビーはご病気ですか?」

「いいや」しばらくして、遅まきながらの「そうではございません」を面倒くさそうに付け加える。

「ここしばらくお見かけしませんでしたのでね、ちょっと心配しているんです。キャラウェイがきた、そうお伝えください」

「どちらですって?」とぶしつけな問い。

「キャラウェイ」

「キャラウェイね。確かに。伝えておきます」

いきなり、かれは音を立ててドアを閉めた。

ぼくのところのフィンランド人家政婦から聞いたところでは、ギャツビーは1週間前にそれまでの使用人全員に暇を出し、代わりに、6人ほどを雇い入れたらしい。かれらは業者に買収されるといけないというのでウェスト・エッグ・ビレッジに出たことがなく、必要最低限の品物を電話で注文しているとのことだ。食料品店の使い走りはキッチンが豚小屋のようになっていると報じ、また、村落では、新しい面々はまったく使用人などではないのだという意見が広く流布るふしていた。

翌日、ギャツビーから電話がかかってきた。

「どこかに行ってしまうつもり?」とぼくは訊ねた。

「いいえ、尊公」

「使用人をみんな首にしたって聞いたけど」

「ゴシップを流さないような使用人が欲しかったのです。デイジーがよく訪ねてきますからね――午後に」

あの隊商宿キャラバンサリー全体が、デイジーの瞳に宿っていた否定的な想いを受けて、カードの家のように崩壊したというわけだ。

「ウルフシェイムがどうにかしてやりたいと思っている人たちでしてね。みなさん兄弟姉妹なのです。前は小さなホテルを経営していました」

「なるほど」

かれが電話してきたのはデイジーに頼まれてのことだった――明日、ランチをご一緒にどうですか? ミス・ベイカーもおいでになるそうです。それから30分後、デイジーからも電話があり、ぼくがくるつもりだと知ってほっとしたようだった。何かがあるに違いない。それでもぼくは、かれらがこんな機会を選んで一悶着ひともんちゃく起こすつもりだとは思えなかった――とりわけ、先日、ギャツビーが庭で見せた痛ましくさえあるような想いのたけをぶちまけるなどということはありえまいとぼくは思っていた。

翌日は焦げるような暑さで、この夏のほぼ最後にして、間違いなく最高に暑い一日だった。ぼくを乗せた列車がトンネルを抜け陽光の下に踊り出ると、昼時の煮えたぎるような静寂せいじゃくをうち破るものはといえば、ナショナル・ビスケット・カンパニーのサイレンの音ばかり。わらの詰まった座席はいまにも燃えあがりそうだ。ぼくの隣に座っていた女性は、しばらくの間、白いブラウスにだけ汗をにじませていたが、やがて、彼女が手にしていた新聞までもが指のところから湿ってきた。絶望したようなようすで猛暑に屈し果て、つらそうに悲鳴をあげる。札入れが床に落ち、乾いた音を立てた。

「やれやれ!」とあえぐように女は言った。

ぼくはうんざりしたように身をかがめ、拾いあげ、彼女に手渡した。腕をいっぱいに伸ばし、札入れの隅と隅とに指先をかけて。そうすることで、他意のないことを示そうとしたのだ――けれども、近くにいた連中はみな、その女性を含めて、一様にぼくのことを疑っていた。

「暑いですねえ!」と乗務員が見知った顔に言った。「なんて天気だ!……暑いですねえ!……暑いですねえ!……暑いですねえ!……暑いとお思いになりません?……暑いでしょう?……ねえ……?」

かれの手からぼくのもとにもどってきた定期券には、指の跡が黒々と残っていた。この暑さだもの、かれの口づけを己の血の通う唇に受けたがる者、かれの胸に己の頭を預け、かれのパジャマのポケットに汗をにじませたがる者などいるものか!

……ブキャナン家のホールを吹き抜けてきた微風そよかぜに乗って、ドアの前で待っていたぼくとギャツビーのところまで、電話のベルが聞こえてきた。

「お車のボディ!」と執事が送話口にがなりたてている。「申し訳ありませんが奥様、私どもには手入れしかねてございます──今日の暑さではとてもではありませんが手も触れかねる次第で!」

かれの本当の発言は、こうだ。「左様です……左様です……かしこまりました」

受話器を置くと、汗ばんだ顔を若干てらつかせながら、ぼくらのところにやってきて、ぼくらから固い麦藁帽子むぎわらぼうしを受け取った。

「奥様は客間でお待ちです!」と叫ぶと、不必要にも、客間の方向を指し示した。こうも暑いと、余計な身振りなど、人並みに生命力をたたえている人間にとっては侮辱ぶじょくにも等しい。

窓の日よけが程よく室内に影を作っているその部屋は、暗く、涼しかった。巨大な寝椅子に寝そべっているデイジーとジョーダンは、まるで銀の偶像のようで、ぶんぶんと小気味よい音を立てる扇風機が起こす風ではためく、自分たちの白い服を抑えこんでいた。

「動けたもんじゃない」と2人揃って言った。

ジョーダンは、日に焼けた肌を上塗りするように白粉おしろいをはたかれた指先を、しばらくぼくの指に預けていた。

「で、かのアスリート、ミスター・トーマス・ブキャナンは?」とぼくは訊ねた。

と、かれの、無愛想な、くぐもったしわがれ声が、ホールの電話のところから聞こえてきた。

ギャツビーは、深紅しんく絨毯じゅうたんの真中に立って、魅入られたような眼差しであたりを見まわした。そんなかれを眺めていたデイジーが笑い声を上げた。甘やかな、心を湧き立たせるような笑い声を。と、その胸元から白粉の粉がほうっと立ち昇った。

「噂では」とジョーダンが言う。「いま電話の向こうにいるのがトムの女なんだって」

ぼくらは沈黙した。ホールから聞こえてくる声が苛立ちを含んで調子を高める。「じゃあいい。結局のところ、あの車はおまえに売らないことにする……是が非でもおまえに売らなきゃならんという義理があるわけじゃあないからな……こんなことでランチの邪魔をしてくれたんだ、一切我慢してやるものか!」

「受話器を置いての一人芝居よ」とデイジーが皮肉った。

「いや、そうじゃない」とぼくはデイジーに向かって言った。「あれは正真正銘しょうしんしょうめいの取引なんだ。たまたま知ってるんだけどね」

トムが部屋の扉を大きく開き、少しの間、戸口に立ちふさがった。それからあわただしく室内に入ってくる。

「ミスター・ギャツビー!」かれは嫌悪をうまいこと隠しながら厚ぼったいてのひらをギャツビーにさしだした。「ようこそお越しくださいました。……ニックも……」

「冷たい飲み物を作ってきてよ」とデイジーが叫んだ。

トムが部屋を出たところで、デイジーは立ち上がってギャツビーのそばに行き、かれの顔を下に引き寄せ、唇を重ねた。

「そうよ、わたし、あなたのこと愛してる」とつぶやくように言う。

「レディの前ってことを忘れてるんじゃない?」とジョーダンが言った。

デイジーは疑わしげにあたりを見わたした。

「あなたもニックにキスしたら?」

「そんなはしたないことを言うもんじゃありません!」

「知ったことですか!」と言うと、デイジーは暖炉だんろ煉瓦れんがの上でクロッグダンスをはじめた。それからこの暑さを思いだしてばつが悪そうに寝椅子に座りなおしたところ、そこにちょうど、こざっぱりとした身なりの子守女が、小さな女の子を伴って部屋に入ってきた。

「よしよし、いい子ね」とデイジーは口ずさむように言いながら、両腕をさしのばした。「おいで、あなたを愛するママのところに」

その子は子守女の手を離すと、一気に部屋を横切り、気恥ずかしそうに母親のドレスにすがりついた。

「よしよし、いい子いい子! 黄色い髪にママの白粉おしろいがくっつかなかった? ほら、しゃんと立って、はじめましてって言ってごらん」

ギャツビーとぼくは身をかがめて、しぶしぶ差し出されてきた小さな手を握った。握手がすむと、ギャツビーはその子をひどく意外そうに見つめていた。それまで、子供の存在などまったく念頭になかったのだと思う。

「わたし、ランチの前に服を替えたの」と、その子はすぐにデイジーのほうに向き直って言った。

「それはね、ママがあなたをみんなに見せたかったからよ」と言って、皺が一筋走っている小さな首に顔を埋めた。「あなたは夢よ。何にも替えがたいちっちゃな夢」

「うん」と母親の言葉を落ちついて受け入れる。「ジョーダンおばさまも白いドレスに着替えたの」

「ママのお友達のこと、気に入ってくれた?」デイジーは周囲を見まわし、その結果、ギャツビーと顔を見合わせることになった。「立派なひとたちだと思わない?」

「パパはどこ?」

「この子、父親には似てないのよ」とデイジーが説明する。「わたしに似てる。髪の色も、顔かたちもわたし譲りね」

デイジーは寝椅子に座り直した。子守女が前に一歩踏み出し、手を差し出した。

「いきましょう、パミーお嬢さま」

「バイバイ、いい子にしてるのよ!」

一度、後ろ髪引かれるような眼差しで振りかえると、その子は聞き分けよく子守女に手を引かれ、部屋から出て行った。そこにトムが入ってきた。その背後に、目いっぱいの氷がからからと音を立てている、4杯のジン・リッキー。

ギャツビーが自分の分のグラスをとりあげた。

「これは確かに涼しそうですね」と緊張の色もあらわに言う。

ぼくらはごくごくと一息に飲みほした。

「どこで読んだか忘れてしまったが、太陽は年々熱くなってるらしいな」と、トムが陽気に言った。「そのうち地球はそのうち太陽に飲みこまれて――いや、ちょっと待て――反対だ――太陽は年々冷たくなってるんだ」

それからギャツビーに向かって提案する。「外においでになりませんか、見ていただきたいところがありまして」

ぼくはかれらと一緒にベランダに出た。熱気にいだ緑色の海峡を、小さな帆船が1隻、見果てぬ海へと、ゆっくり進んでいく。ギャツビーはちょっとの間それを目で追い、やがて、片手をあげて入江の向こうを指し示した。

「私はあなたがたのちょうど真向かいに住んでおります」

「そうなりますね」

ぼくらはバラの花壇から熱のこもった芝生へ、そこからさらに海岸沿いに並ぶ、真夏の草深いごみ捨て場へと視線を走らせた。ゆっくりと、ボートの白いウイングが、青く涼しげな空の最果てへと動いていく。その先、波々とうねる海原に、天佑明媚てんゆうめいびな島々が点在している。

「あれはいい運動になりますよ」とトムはうなずきながら言った。「1時間ほど楽しんできたいもんだ」

ぼくらは、熱気払いに暗くされているダイニングルームでランチをとり、どこか神経質な陽気さを振りまきながら、よく冷えたエールを飲み交わした。

「今日の午後はわたしたち、どう過ごそう?」とデイジーの悲鳴に近い声。「それから明日も、これからの30年間ずっと」

「よしてよ、んでるっぽいのは」とジョーダン。「秋になって過ごしやすくなればいつだって新しい日々の再スタートを切れるんだから」

「だってこんなに暑いんだもん」といまにも泣き出しそうなようすだ。「それに、何もかもがこんがらがっちゃって。みんなでニューヨークに行こう!」

デイジーの声は、熱気の無意味さを、なんとか違う形に叩きなおそうとしていたのだ。

「馬小屋をガレージに仕立てた話は聞いたことがありますが」とトムがギャツビーに言っていた。「ガレージを馬小屋に仕立てたのはぼくが初めてでしょうね」

「ニューヨークに行きたいのはだれ?」デイジーがなおも言っている。ギャツビーの視線がふとデイジーに向けられた。「ああ」デイジーは叫ぶように言った。「あなた、涼しそうね」

2人の視線がぶつかり、その場にいるほかの誰をも忘れたかのように、お互いをじっと見つめあう。デイジーは無理に視線を引き剥がし、テーブルに目を落とした。

「あなたはいつだって涼しそう」と、デイジーはくりかえした。

デイジーはギャツビーに愛を告げていたのだ。トムもそう見た。かれは愕然がくぜんとした。口をほんの少し開き、ギャツビーを見やり、それからデイジーをかえりみた。遠い昔に知っていた人物だということにやっと気づいたといった感じで。

「あなた、あの広告の人そっくりね」とデイジーは無邪気に先をつづけた。「ご存知でしょ、あの広告の人――」

「わかった!」とトムが慌てて話に割りこんだ。「いま心底ニューヨークに行きたくなったよ。さあ――みんなで街に出ようぜ!」

かれは立ち上がった。その瞳がギャツビーと自分の妻の間をせわしなく行き来する。誰一人として動かない。

「行こう!」かれの冷静さに一筋ひびが入った。「どうしたんだよ、いったい? 街に行くってんなら、出かけようじゃないか」

自制の努力に震える手でグラスを口元に運び、エールの残りを呷った。デイジーの声は、ぼくらを捕らえて熱々の砂利道に放り出すことに成功したわけだ。

「いますぐ行こうって言うの?」デイジーは反対した。「このままで? まず、煙草を吸いたい人が吸ってからにしないの?」

「みんな、ランチの間ずっと吸ってたじゃないか」

「ねえ、楽しくやりましょうよ」とすがるような声。「暑すぎるんだもの、ばたばたするのはいや」

かれは答えを返さなかった。

「我侭なんだから」とデイジー。「行こう、ジョーダン」

女たちは2階にあがって出かける準備をはじめた。その間、ぼくら3人の男性陣は、熱い敷石しきいしを足元でじゃりじゃりいわせながら、支度したくが終わるのを待っていた。弓なりになった銀色の月がはやくも西の空に浮かんでいた。ギャツビーが何かを言おうとして口を開いたが、気を変えた。しかし、口を閉じるよりも早く、トムはぐるりとギャツビーに向き直って、その言葉を待つ姿勢になっていた。

「馬小屋があるのはこの界隈ですか?」ギャツビーはなんとかとりつくろった。

500メートルほど道を下ったところに」

「成程」

間。

「街に行こうだなんて理解できんね」とトムが荒々あらあらしい口調くちょうで吐き捨てた。「女の頭の中にはこの手のたわごとがぎっしり詰まってて――」

「なにか飲み物を持っていく?」デイジーが階上の窓から呼びかけた。

「おれがウイスキーを取ってこよう」とトムが返す。それから家の中に入っていった。

ギャツビーが緊張した顔でぼくに向き直った。

「ミスター・ブキャナンの家では私からは何も言えません、尊公」

「デイジーの声にはあからさまなところがあるからね」とぼくは述べた。「あれには目一杯――」ぼくは言いよどんだ。

「あの人の声はかねに満ちているのですよ」と不意にギャツビーが言った。

それだ。ぼくはそれまで理解していなかった。金に満ちている――すなわち、そこから沸き立ってはそこに落ち入る尽きることのない魅力、その涼しげな鈴めいた音色、そのシンバルのような歌声……高き純白の宮殿に住まう王女、黄金の娘……

トムがタオルに包んだクォート・ボトルを手に家から出てきた。その後ろに、デイジーとジョーダンが続いた。金属的な光沢を放つ小さな帽子を窮屈そうにかぶり、薄手のケープを腕にかけている。

「私の車に全員乗せて行きましょうか」とギャツビーが提案した。熱しあがった緑色のシートを手で触って確かめる。「日陰に入れておくべきでしたね」

「ギアのシフトは普通のやつですか」と、トムが聞く。

「ええ」

「じゃあ、あなたはぼくのクーペをお使いになって、ぼくにあなたの車を街まで運転させませんか」

その提案はギャツビーの意に添うものではなかった。

「ガソリンが余り入っていないと思うんですが」とかれはトムの提案に反対した。

「ガソリンはたっぷり入ってるじゃないですか」とトムはぶっきらぼうに言った。ガソリンのゲージを見ている。「もし切れたときはドラッグストアに止めればいいんですし。最近はドラッグストアでなんでも買えますよ」

このどう考えても的を外した発言に、沈黙がつづいた。デイジーが眉をひそめてトムを見やった。なんともはっきりしない表情、であると同時に、はっきりと見覚えがあり、おぼろながらにもそれとわかる表情が、ギャツビーの顔をよぎった。それはまるで、言葉での描写しか聞いたことのないような表情だった。

「さあデイジー」とトムが、手でデイジーをギャツビーの車のほうに押しやりながら言った。「おれがこのサーカス・ワゴンで連れてってやるよ」

そう言ってドアを開けたが、デイジーはかれの腕の中から逃れでた。

「あなたはジョーダンとニックを連れていって。クーペでついてくるから」

デイジーはギャツビーに歩み寄り、かれの上着を片手で触った。ジョーダンとトムとぼくとは、ギャツビーの車の前部座席に乗りこんだ。トムが不慣れなギアを慎重に入れ、ぼくらは耐えがたい熱気の中に飛び出した。後に残された2人は視界から消え去った。

「気づいていたのか?」

「何に?」

かれは、ぼくとジョーダンがことのすべてを知っていたことを見抜き、ぼくに鋭い眼差しを送ってきた。

「おれのことをとんだ間抜けだと思ってるんだろう、違うか?」とかれは言い出した。「ひょっとしたらそうかもしれん。でもな、おれには――第二の視点とでも言おうか、そういうものがあってだな、ときどき、それがおれに今から何をすべきか、教えてくれるんだよ。もしかしたら信じてもらえんかもしれんが、それでも科学的に言って――」

かれは間をとった。目下の事情がかれを支配し、空理空論くうりくうろん奈落ならくに飛びいる寸前のかれを引きもどした。

「おれはあいつのことをちょっと調べてみた」と、かれは話をつづけた。「あまりディープにつっこんで調べることまではできなかったが――」

「なるほど、霊媒ミディアムのところくらいまではいけたってことね?」ジョーダンがふざけてそう訊ねた。

「なんだって?」かれは、笑いだしたぼくらをわけがわからずに見つめた。「霊媒?」

「ギャツビーのことでさ」

「ギャツビーのことで? まさか、霊媒に会ってどうする。おれが言ってるのは、あいつの過去をちょっと調べてみたってことなんだよ」

「そしてあなたはかれがオックスフォードの卒業生だと言うことを知りました」とジョーダンが続きを代弁する。

「オックスフォードの卒業生ね!」そんなことがあるかと言わんばかりの口調だ。「いやはや、死ぬほどありえそうな話だよ。ピンクのスーツを着てるくらいだからな」

「それでもオックスフォードを出たってことには変わりない」

「ニュー・メキシコのオックスフォードとかな」とトムは馬鹿にしたように言う。「なんにせよ、そういう代物に決まってる」

「ねえ、トム。そんな野暮やぼなことを言うくらいなら、なんであのひとをランチに呼んだりしたのよ?」とジョーダンはしゃくさわったようすで絡んだ。

「デイジーが呼んだんだ。結婚前からの知り合いらしい――どこで知り合ったんだか見当もつかんがね!」

ぼくら全員はエールの酔いからさめてゆき、苛立ちはじめた。それに気づいたぼくらは、しばらく黙ったままドライブを続けた。そのうち、 T. J. エクルバーグ博士のぼやけた瞳が道路の向こうに見えてきた。ぼくはガソリンについてのギャツビーの警告を思い出した。

「街に着くまで十分つ」とトム。

「でもそこにリペアガレージがあるじゃない」とジョーダン。「この暑さの中で立往生なんて、わたし嫌よ」

トムはいらだたしげに両方のブレーキをかけた。ぼくらはウィルソンの看板の下の、ほこりっぽい位置へと出し抜けに滑りこんだ。少し遅れて経営者が家具の陰から出てきて、うつろな瞳でぼくらの車を見つめた。

「ガソリンだ!」とトムが怒鳴りつける。「なんのために車を停めたと思ってる――景色を眺めるためだとでもいうのか?」

「具合が悪いんです」とウィルソンはぴくりとも動かずに言った。「今日一日、ずっと具合が悪いんですよ」

「何があったっていうんだよ」

「すっかり参ってしまいました」

「じゃあ、自分でやろうか? 電話してきたときはなんともないみたいだったじゃないか」

大儀そうに、もたれかかっていた戸口から体を起こし、日陰から出てきたウィルソンは、はあはあとあえぎながら、タンクのキャップをねじ開けた。太陽の下、その顔色は緑色に見えた。

「ランチのお邪魔をするつもりはなかったんです。ただ、ひどく金が要りようになったものですから、昔のお車をどうなさるおつもりだろうと思いまして」

「こいつは気に入らないか?」とトムは訊ねた。「先週買ったやつだ」

「黄色のいい車ですね」と苦しげにタンクのハンドルを操りながら、言う。

「買う気はないか?」

「ビッグ・チャンスですね」とウィルソンは弱々しい笑顔を作った。「でも無理です。あっちのほうだったらいくらか儲かるんですが」

「いったい何に金が要るんだ、そんな急に?」

「私はここに長居しすぎました。ここを出たくなりました。私も、妻も、西部に行きたいんです」

「奥さんが!」と、トムははっとして叫んだ。

「あれはもう10年もそんなことを言ってるんですよ」かれは手で目元に影を作りつつ、ポンプにもたれかかってしばらく休んだ。「あれはここを出ますよ、本人の意思に関係なくね。私はあれを連れていきます」

クーペが砂埃を立てて通りすぎて行った。誰かが手を振っているのが一瞬だけ見えた。

「いくらだ?」とトムが険しい口調で尋ねた。

「ここ2日、どうも様子がおかしいと思いましてね。それでここを出ようと思ったわけでして。それで、お車のことであなたをわずらわせてしまったわけです」

「いくらだ?」

1ドル20セントで」

容赦のない熱気にぼくの頭は混乱しはじめていた。かれの疑惑がトムに向けられているわけではないということに気づくまでの間、ぼくはひどく気まずい思いをした。ウィルソンは、マートルが自分と離れた世界での生活を送りはじめたのを見抜き、ショックのあまり、肉体的に参ってしまったのだ。ぼくはウィルソンを見つめ、それからトムを見つめた。1時間足らずの間におなじようなことを発見したトムを――ふとぼくの頭に、人間というものは、精神的にも人種的にも、病人と健康人の間ほどの相違はないのではないだろうか、そんなことが思い浮かんだりした。ウィルソンの病みようといったら、罪を抱えているようにも見えた。何か許されざる罪を――まるで、どこかの貧しい娘に子供をはらませたとでもいうような。

「あの車はおまえに任せるよ」とトムが言った。「明日の午後、持ってこさせよう」

その付近はいつも、太陽が照りつける午後であってすら、どこかしら不穏ふおんなところがあって、ぼくは背後から警告を投げかけられたような気がしてふりかえった。灰の山の上から、T. J.エクルバーグ博士の巨大な瞳がいつもの監視を続けていたけれど、そのうちぼくは、6メートルと離れていないところから、別の瞳がおかしなほど感情的にこちらを見つめているのに気がついた。

ガレージの2階の窓のカーテンがほんの少し開かれていて、そこから、マートル・ウィルソンが車のほうを窺っていた。他のものなど目に入っていないらしく、逆に見られているということをまったく意識していない。現像中の写真に見られる物体のように、ある感情がその顔に浮かび上がったかと思うと、次の瞬間には異なる表情が入りこんでいた。それは不思議と見なれたものだった――ぼくが女性の顔にしばしば見出してきた感情表現だ。だが、マートル・ウィルソンの顔にそれが浮かんでいるのは、意図も不明であれば、説明もつかないように思った。やがて、嫉妬心に大きく見開かれたその瞳が捉えているものが、トムではなく、ジョーダン・ベイカーだと気づくまで。マートルはジョーダンをトムの妻だと思いこんだのだ。

**********

単細胞の混乱に匹敵ひってきする混乱はない。トムは車を走らせ、ガレージから遠ざかりながら、パニックの熱いむちの存在を感じていた。かれの妻とかれの情婦は、1時間前までは安全で不可侵な存在だったのに、いま、まっさかさまにかれのコントロールから滑り落ちつつある。本能的に、二重の目的をもってトムはアクセルを踏みこんだ。ひとつはデイジーに追いすがるため、もうひとつはウィルソンを置き捨てるため。ぼくらは時速80キロでアストリアに向かい、やがて、蜘蛛くもの脚を思わせる高架の橋桁の間をのんびり先行している青いクーペの姿をとらえた。

「ほらあの、50番街の映画館は涼しいんじゃないかな」とジョーダンが提案した。「わたし、だれもいなくなったときのニューヨークの夏の午後が大好き。なんかこう、身も心を奪われちゃうのよね――れすぎ、っていうかな、すっごい果物がどんな種類でもみんな取り放題ほうだいって感じ」

「身も心も奪われる」という言葉がトムのこころをなおさらかき乱した。けれども、かれが批判の言葉を考えつくより早く、クーペが停まり、路肩に寄せるようにと、デイジーがサインを送ってきた。

「どこに行くの?」デイジーが叫ぶように言った。

「映画なんてのは?」

「暑いでしょうに」とデイジーは言った。「お行きなさいな、こっちはそこらへんをドライブしてるから。あとで合流しましょ」どうにか、彼女の貧弱なウィットがひねりだされてきた。「そのへんの街角で待っててあげる。わたしが煙草を2本吸いながら連れを待つ男になってね」

「ここでのんびり議論してるわけにはいかん」とトムが苛立って言った。ぼくらの後ろのトラックから罵るようなクラクションが飛んできていた。「ついてきてくれ、セントラル・パークの南側、プラザ・ホテルの前まで行こう」

何度か、トムは首ごと後ろを振りかえってかれらの車がついてきているかどうか確かめ、差が開いたときにはスピードを落とし、かれらの車が視界に入ってくるまで待った。おそらく、かれらが脇道に入りこんだまま、トムの人生から永遠に姿を消してしまうという事態を怖れていたのだと思う。

けれども、かれらはちゃんとついてきた。それでぼくらは、いつの間にか、プラザ・ホテルのロビーに向かうという挙に出ていた。

長丁場ながちょうばのかしましい議論は、あの部屋にぞろぞろと入ったところで打ちきられたのだけど、その議論の内容はもう記憶に残っていない。もっとも、議論中の肉感的な記憶、つまり、ぼくの下着がまるで足に巻きついた水蛇のように這い登ってきたあの感覚、背中を断続的に滴り落ちる水滴の冷たい感触は、よく覚えている。この案を言い出したのはデイジーで、もともとはバスルームを5つ借りて水浴びをしようということだったのだけど、それがもっと具体的な形になって、「ミント・ジュレップを飲める場所」に落ち着いたわけだ。ぼくらは口々にそれを「クレイジーなアイデア」だと言い放った――ぼくらは面食めんくらっている受付に一斉に話しかけながら、自分たちがいまから何か笑えることをやろうとしているのだと思った。あるいは、そう思っているふりをした……

通されたのはむっとする大部屋だった。もう4時だというのに、開けっぱなしの窓から入りこんでくる空気は、セントラル・パークからのなまぬるい風のみ。デイジーは鏡の前に立ち、ぼくらに背を向けたまま、髪を整えはじめた。

「立派なお部屋ですこと」とジョーダンが感心したようにつぶやいた。ぼくらは声をあげて笑った。

「もうひとつの窓も開けてよ」とデイジーが振りかえることなく命じた。

「もう全部開けてある」

「じゃあ、電話でおのを取り寄せて――」

「要は暑さを忘れることだ」とトムがいらだたしそうに言った。「愚痴ぐちったところで余計暑く感じるだけだぞ」

ウイスキーの瓶からタオルをほどき、テーブルの上に置く。

「どうしてそっとしておいてあげないのです?」とギャツビー。「街にきたがっていたのは、他ならぬ尊公なのですよ」

しばらく沈黙がつづいた。電話帳が留金とめがねから滑り落ちてばさりと床に落ちた。それを見たジョーダンが「失礼しました」とふざけてみせた――が、今度ばかりはだれも笑わなかった。

「ぼくが拾うよ」

「私がやります」と言ったギャツビーは、千切れた紐を点検し、「ふむ!」という不思議な声を発すると、電話帳を椅子の上に投げ出した。

「なかなかたいそうな言葉遣いですね、そうじゃありませんか?」とトムが切りこむように言った。

「何がです?」

「その、『尊公』にはじまる口の利き方ですよ。どこでお拾いになったんですか?」

「ねえトム」とデイジーが鏡から振りかえって言った。「個人攻撃に出るつもりなら、わたし、いますぐにでも帰っちゃうからね。電話して、ミント・ジュレップ用の氷を頼んでよ」

トムが受話器を取り上げたとたん、濃密な熱気が爆発して音と化し、階下の大広間から、メンデルスゾーンの『結婚行進曲』の大げさな演奏が響いてきた。

「冗談じゃない、この暑い中に誰かと結婚するなんて!」とジョーダンが憂鬱ゆううつそうに言った。

「それがねえ――わたしも結婚したのは6月半ばだったのよね」と、デイジーが昔をふりかえって言った。「6月のルイビルよ! だれかが倒れちゃってたな。倒れたの、だれだったっけ、トム?」

「ビロクシー」とトムが短く答える。

「ビロクシーってひと。“石くれブロックス”ビロクシーって言ってね、ボックスを作るのが本職で――本当よ――しかも、テネシー州ビロクシーからきてた」

「そのひと、うちにかつぎこまれたのよね」とジョーダンが後を継ぐ。「うちは教会から2軒めのところにあったから。そのまま3週間も居座ってくれてさ、結局、パパから出て行ってもらわないと困るって言われてやーっと出てったんだから。出て行った次の日にパパが死んで」すこしだけ間を置いて、こうつづけた。「別に関連があるわけじゃないんだけど」

「メンフィスのビル・ビロクシーって人なら知ってるけど」とぼくが言った。

「それは従弟なんだって。出て行くまでにあのひとの家族のことを何もかも知っちゃってね。あのひとがくれたアルミニウムのパター、今も使ってるのよ」

式典の始まりとともに音楽がやみ、長く尾を引く喝采かっさいが窓のところから聞こえてきた。それに次いで「よッ――よッ――よッ!」という掛け声が響きわたると、ついに、ダンスの始まりを告げるジャズが炸裂した。

「年をとったものね、わたしたち」とデイジーが言った。「若ければ、腰を上げてダンスってところなのに」

「ビロクシーのまいになりそうね」と、ジョーダンが警告するように言った。「ビロクシーとはどこで知り合ったの、トム?」

「ビロクシーと?」かれは骨を折って話に集中していた。「おれの知った顔じゃなかったよ。デイジーの友だちだ」

「それは違う」とデイジーが否定する。「会ったことないひとだったもの。あなたが借り切った列車できてた」

「ふうん、あいつはおまえの知り合いだって言ってたがな。ルイビルで育ったとかで。エイサ・バードが直前になって連れてきて、空いた席がないかって聞いてきたんだ」

ジョーダンは苦笑した。

「たぶん、故郷に帰るまでの足代あしだいをたかってったのよ。イェールではあなたたちのクラスの級長だったって言ってたっけ」

トムとぼくとはぽかんとしてお互いを見やった。

「ビロクシーだってえ?」

「第一、級長なんてなかったし――」

落ちつきなく床をとんとんと踏み鳴らしたギャツビーに、トムが不意に目を向けた。

「それはさておき、ミスター・ギャツビー、あなたはオックスフォードの卒業生なんでしたね」

「正確にはそうではありません」

「まさか。オックスフォードにお行きになったものと思っていたんですが」

「そうです――オックスフォードに行きましたよ」

間。それからトムの、不信に満ちたさげすむような声。

「ビロクシーがニューヘイヴンに行ったのとほぼ同時期に、あなたもオックスフォードに行っておられたんでしょうね」

さらに間。ウェイターがドアをノックし、砕いたミントと氷を持って入ってきたけれども、かれの「ありがとうございます」と静かにドアを閉める音によっても、沈黙は破られなかった。とうとう、ことの詳細が明らかにされた。

「行った、と申し上げたはずですが」とギャツビーが言う。

「確かにそうお聞きしましたが、いつのことかを知りたいんですよ」

1919年のことです。5ヶ月だけしかおりませんでした。そういうわけですから、私は自分のことを本物のオックスフォードの卒業生とは言えない訳です」

トムは周囲を見渡し、自分の不信がぼくらに反映されているかを確かめた。が、ぼくらはみんなギャツビーに注目していた。

「休戦後、一部の将校にはそういうチャンスが与えられたのですよ」とかれは言葉をつづけた。「イギリスとフランスのどこの大学にも行かせて貰えたのです」

ぼくは立っていってかれの背中をぴしゃりと叩いてやりたくなった。以前にも経験したかれへの完全な信頼が、いま新たに上書きされていたのだ。

デイジーが立ちあがり、かすかに微笑みながら、テーブルについた。

「ウイスキーを開けてよ、トム」とデイジーが言った。「ミント・ジュレップを作ってあげるから。そしたらちょっとは頭もすっきりするでしょ……ミントのいいところね!」

「ちょっと待てよ」とトムが噛みつくように言った。「もうひとつ、ミスター・ギャツビーに聞いておきたいことがある」

「どうぞ」と、ギャツビーが慇懃いんぎんに応じる。

「あんた、いったいどんな類の騒動を我が家に引き起こそうとしてるんだ?」

ついにトムの口から飛び出したその発言に、ギャツビーは満足した。

「騒動を起こしてるのはこのひとじゃないでしょう」とデイジーは絶望的にぼくらを順に見渡した。「あなたが騒動の原因じゃないの。お願いだから、ちょっとくらい自制心をもってよ」

「自制心だと!」トムが信じられないといったようすで復唱ふくしょうする。「どうやら、どこぞの馬の骨と自分の妻がいちゃつくのを椅子にもたれて見物するのが最新のやり方ってやつなんだろう。ふん、もしそういうつもりで言ってるんなら、おれは違うぞ……最近ではどいつもこいつも家族生活とか家族関係とか言うと馬鹿にしやがるが、そのうち何もかもうっちゃって、白人と黒人の雑婚をやりだすに決まってる」

顔を火照ほてらせながら激情に満ちた言葉を並べたてたトムは、文明の最後の胸壁きょうへき孤軍こぐん立ちはだかる自己の姿を思い浮かべていた。

「ここにいるのはみんな白人なんだけど」とジョーダンがつぶやくように言った。

「おれにそれほど人気がないってのくらいは分かってる。でかいパーティーを開いたりもせん。どうやら、少しでも友だちを作ろうと思えば自分の家を豚小屋にせにゃならんものらしい――現代社会では」

ぼくは、まわりのみんなと同じように、腹を立てていた。と同時に、かれが口を開くのを見るたび、大笑いしたくてしかたがなかった。放蕩者ほうとうものから求道者ぐどうしゃへの転身はそれほどに完璧だった。

「少しお話しておくことがあります。尊公にですよ――」と、ギャツビーが口火をきった。だが、デイジーがかれの意図を察した。

「お願い、やめて!」とデイジーが必死にさえぎった。「みんな、家に帰ろうよ。ねえ、帰ろう?」

「それがいい」ぼくは立ち上がった。「出よう、トム。みんな、酒って気分じゃないよ」

「おれとしてはミスター・ギャツビーがおれに言っておかなきゃならんらしいことを聞いてみたいね」

「あなたの奥さんはあなたを愛していない」とギャツビーが言った。「あなたを愛したことなど決してないのです。私を愛しているのです」

「気違いめ!」とトムがとっさに怒鳴どなった。

「デイジーはあなたを愛したことなど決してないのです、聞こえませんか?」ギャツビーが叫び返した。「私には金がなかったし、デイジーも待つのに疲れてしまって、だからあなたと結婚したのです。それはひどい手違いでしたが、デイジーも心の中ではずっと私を愛していたのです!」

この時点でぼくとジョーダンとは出て行こうとしたけれど、トムもギャツビーもいずれ劣らない頑固さで、ぼくらに帰るなと言ってきかなかった――両者ともに、隠し立てするべきものがまったくないし、自分と感情を分かちあうことがひとつの特権でさえあると思っていたのだろうか。

「まあ座れよ、デイジー」トムは自分の声になんとか家父長かふちょうめいた響きをともなわせようとしたようだったが、うまくいかなかった。「どういうことなんだね? すべてをおれに聞かせてもらいたい」

「どういう事かは私がお話しした通りですよ」とギャツビーが言う。「ここ5年間の事――あなたがご存知なかったことを」

トムはデイジーに切りこむように向き直った。

「こいつと5年間会いつづけてたってことか?」

「会っていたわけではありません」とギャツビー。「いいえ、私たちは会えなかったのですよ。それでも、その間ずっと、私もデイジーも、お互いを愛してきたのです。そして尊公はそれをご存知なかった。私はときどき笑いたくなったものです」――しかしながら、ギャツビーの瞳には笑いのかけらも見えなかった――「尊公が何もご存知ないということを思えばね」

「やれやれ――それで全部か」トムは牧師のように両手の肉厚な指の先を突きあわせると、椅子の背にもたれかかった。

「気違いが!」トムが怒号どごうした。「5年前になにがあったのか、それはわからん。そのころはまだデイジーのことを知りもしなかったのだからな――あんたがどうやってデイジーに近づいたのか、知りたいとも思わん。どうせ汚らわしい手に決まってる。じゃなきゃあ、勝手口に食品を届けたくらいのもんだろう。だがな、その他はみんな嘘も嘘、大嘘だ。デイジーは結婚したときおれを愛してたし、いまだっておれを愛してる」

「違う」と、ギャツビーはかぶりを振った。

「違うものか。問題は、デイジーがときどき馬鹿げたアイディアを思いついて、それで自分が何をやってるのか知らないままに動いちまうってことなんだよ」トムは賢しげにうなずいた。「それに、おれはデイジーを愛してる。ときにはつまらない馬鹿騒ぎに飛びこんで馬鹿をやるが、いつだってデイジーのもとにもどってきた。心の中では片時もデイジーへの愛情を忘れたことはなかった」

「ふざけないで」とデイジーが言った。そしてぼくのほうに向き直り、1オクターブ低い声を発して、冷汗の出るような嫌悪感で室内を満たした。「わたしたちがどうしてシカゴを出るはめになったか、聞いてる? もし聞いてなかったらびっくりね、そのつまらない馬鹿騒ぎとやらの話を」

ギャツビーは足を進め、デイジーのそばに立った。

「デイジー、それはみんな終わったことなんだ」と、熱をこめて言う。「もうそんなことは問題じゃない。さあ、本当のことを教えておやりなさい――あの方を愛したことなどない、と――それですべてが永遠に片付きます」

デイジーが瞳を暗くしてギャツビーを見返す。「ねえ――わたしにあのひとを愛せたわけがないじゃない?――どうあがいたって」

「あなたはあの方を愛したことなど決してないんです」

デイジーはためらった。すがりつくみたいな眼差しをジョーダンに、それからぼくに落とす。あたかも、いまになってようやく自分がなにをしようとしているのかに気がついたかのように――しかもそれまで、いつの時点であっても、何一つするつもりがなかったかのように。けれども、もうことは起こった。手遅れだった。

「わたしはトムを愛したことなんて決してない」しぶしぶながら、というようすが見え見えだった。

「カピオラニでも?」とトムが不意に尋ねた。

「そうよ」

階下のダンス・フロアから、熱波に乗って、くぐもった、息苦しい協和音が響いてきた。

「あの日、パンチ・ボールでおまえの靴を濡らしてしまわないように抱きかかえてやったときも?」その声には、空疎な優しさがこめられていた……「デイジー?」

「もうやめて」冷たい声ではあったけれど、憎しみはもはや失われていた。デイジーはギャツビーを見つめた。「これでいいでしょ、ジェイ」と言うには言ったデイジーは、煙草に火をつけようとした。震える手で。突然、デイジーは煙草と燃え盛るマッチを絨毯じゅうたんの上に投げ捨てた。

「ああ、あなたは多くを求めすぎる!」とデイジーは叫ぶように言った。「いまわたしはあなたを愛してる――それで十分でしょ? 昔のことはどうしようもないんだから」そして、頼りなくしゃくりあげはじめた。「トムを愛していたことだってあったのよ――でも、あなたのことも愛してた」

ギャツビーが大きく目を見開き、閉ざした。

「私のこと『も』愛していた、と?」ギャツビーが繰りかえした。

「それさえも嘘だ」と、トムが荒々しく言った。「デイジーはおまえが生きていたことを知らんかったんだからな。そうだ――デイジーとおれとの間には、おまえには決して知りようのないことだってあるんだぞ。おれたち2人とも、絶対に忘れようのないことが」

その言葉がギャツビーの肉体を切り裂いたかのように見えた。

「デイジーとふたりきりで話がしたいのですが」とギャツビーが言った。「いまデイジーは、とにかく興奮していますから――」

「ふたりきりになってもトムのことを愛したことがないなんて言えない」と、デイジーは哀れみを誘う声で告げた。「それは本当のことじゃないんだもの」

「あたりまえだ」とトム。

デイジーは夫に向き直った。

「あなたになんの関係があるっていうの」

「あるに決まってるだろ。これからもずっと、おまえをよりよく世話していってやるつもりなんだから」

「分からない人ですね」と、ギャツビーがかすかにあせりを見せ、言った。「あなたはもうデイジーの世話をしていくわけにはいかないんです」

「それはまた」と、トムは目を大きく見開き、笑った。いまのかれには自分をコントロールする余裕が生まれていた。「どういうわけで?」

「デイジーがあなたを捨てます」

「馬鹿馬鹿しい」

「本当のことよ」と、デイジーが見るからに苦労しながら、そう言った。

「デイジーはおれを捨てはせん!」トムの声が、不意に、ギャツビーにのしかかるように響いた。「デイジーの指にはめる指輪だって他人のものを盗まなきゃならんようなありふれた詐欺師のために、おれと別れたりするものか!」

「こんなの、もう我慢できない!」とデイジーが叫んだ。「ねえ、出ましょう」

「結局よ、あんたは一体何者なんだ?」と、トムがせきを切ったように怒鳴った。「あんた、所詮しょせんはメイヤー・ウルフシェイムと一緒にそこらをうろつきまわっている連中の一味じゃないか――というのはたまたま知ったことだがね。あんたについてちょっとした調査をやってみたんでね――明日はもっと突っこんで調べてやる」

「そのことでしたらどうぞお気の済むまで」とギャツビーが落ち着き払って言う。

「おれはこいつの『ドラッグストア』がどういうものか、探りだしたんだ」と、トムはぼくらのほうに向き直り、早口で喋りはじめた。「こいつとウルフシェイムというやつは、ここいらやシカゴのサイドストリートにあるドラッグストアをごっそり買い取ってだな、エチルアルコールを売りさばいたのさ。それがこいつのちょっとした隠し芸のひとつってわけだ。おれははじめてこいつに会ったとき、こいつは闇酒屋やみざけやだと踏んだんだが、それほど間違ってはなかった」

「それがどうかなさいましたか?」とギャツビーが礼儀正しく返す。「お友だちのウォルター・チェイスも私どもの仲間に加わるのを特に恥とはしなかったようですが」

「それであんたはウォルターを見捨てたんだろう、違うか? あんたのせいであいつはニュージャージーで1ヶ月もぶちこまれるはめになったんだぜ。くそッ。ウォルターがあんたのことをどう言ってるか、あんた、直接聞いてみろよ」

「私どものところにきたとき、あの方は無一文むいちもんだったのですよ。いくらか金が握れてたいへん喜んでいましたがね、尊公」

「おれに向かって『尊公』はやめろ!」トムが叫んだ。ギャツビーはなにも言わなかった。「ウォルターはあんたを賭博法でぶちこむこともできたんだ。ところがウルフシェイムに脅迫されて口をつぐんじまった」

ギャツビーの顔に、あの見なれない、それでいてそれと分かる表情がもどってきていた。

「ドラッグストアなんてかわいいもんだ」と、トムはゆっくりと続けて、「が、あんたは他にもなにかをやってるんだろう? ウォルターが、おれにさえ、口にするのをはばかるようなことを」

ぼくはデイジーに視線を走らせた。ギャツビーと夫との間に座っているデイジーに。それからジョーダンに。こちらは、目に見えないけれど魅力のつまった物体をあごの先に乗せ、バランスをとりはじめていた。それから、ぼくはギャツビーに目をもどした――そして、その表情を見てぎょっとした。それはまるで――かれの庭で叩かれた軽口は、どこまでもくだらないものだったけど――まるで、「人を殺した」ことのある男の顔だった。ほんの少しの間、あの奇怪な表現そのままに描写びょうしゃされうる表情が、彼の顔に浮かんでいた。

その表情が消えると、ギャツビーは興奮してデイジーに語りかけはじめた。すべてを否定し、いまだなされぬ非難にまで己の名を弁護する。けれど、どれほど言葉を尽くしても、デイジーはどんどん自分の殻に引きこもっていくばかりで、結局、ギャツビーは諦めた。そして、後にはただ息絶えた夢だけが、するりと逃げていくあの午後と戦うように、もはや実体を失ったものに触れようと、はかない望みをかけ、部屋の向こう、あの失われた声を目指してもがいていた。

その声が、ふたたび、ここを出ようとう。

「お願い、トム! わたし、こんなのもう耐えられない」

デイジーがそれまでどれほどの意思とどれほどの勇気をもっていたにせよ、いまの怯えた瞳は、そのすべてが失われたことを雄弁ゆうべんに物語っていた。

「おまえたち2人で先に帰れ、デイジー」と、トムは言った。「ミスター・ギャツビーの車でな」

デイジーはトムを、恐る恐る見つめた。が、トムはあざけりをこめつつ、それでいて寛大な自分の主張を貫いた。

「行けよ。そいつはもうおまえをてこずらせたりするものか。たぶん、自分のつまらん横恋慕よこれんぼが終わったってことくらい気づいてるだろうから」

ギャツビーとデイジーは出ていった。一言もなく、消え入るように。ぼくらとかれらとは、まるで幽霊のような偶然の関係になりはて、かれらは、ぼくらの哀れみからさえも孤絶した。

しばらくしてからトムは立ちあがり、栓を開けられることなく終わったウイスキーの瓶をタオルでくるみはじめた。

「こいつを試してみるか、ジョーダン? ……ニック?」

ぼくは答えを返さなかった。

「ニック?」ふたたびの問いかけ。

「なに?」

「いるか?」

「いや、いい……ちょうど、今日がぼくの誕生日だったって思い出したんだ」

ぼくは30になっていた。目の前には、新たな10年という不安と脅威に満ちた道が開けていた。

みんなでクーペに乗りこみ、トムの運転でロング・アイランドに向けて出発したのは7時のことだ。トムは絶え間なくしゃべり、ひどくはしゃいで笑いまくっていたけれど、その声は、ちょうど、歩道から響いてくる外国人の怒号どごうや、頭上の高架から降ってくる騒音と同じくらい、ぼくやジョーダンからは浮いた声になっていた。人間の同情心には限界がある。さきほどの悲劇的な議論すべてを後背の都市の照明がかき消していくのに、ぼくらは満足を覚えていた。30歳――その先に見えきっている、孤独の10年。独身を貫く知り合いのリストは薄くなり、情熱を詰めこんだブリーフケースも薄くなり、髪もまた薄くなる。けれども、ぼくのかたわらにはジョーダンがいた。デイジーとは違い、賢すぎるがゆえ、すでに忘れ去られた夢を年毎としごとに持ち越していくことのできないジョーダン。あの暗い橋を通り抜けると、ジョーダンはその細面ほそおもてをけだるそうにぼくの上着の肩に預けてきた。ぼくの手を優しく包みこむその力に、30代の恐ろしい衝撃は消え去っていった。

というわけで、ひんやりした黄昏たそがれの下、ぼくらは死に向かって車を走らせていた。

**********

若いギリシャ人のマイカリス、灰の山のそばで軽食店を経営している青年が、その検死にあたってはもっとも重要な目撃者となった。あの暑さの中、5時過ぎまで眠っていたかれが隣のガレージに立ち寄ってみると、ジョージ・ウィルソンが事務所で具合を悪くしているところにでくわした――本当に具合が悪そうで、顔色はその淡い髪の色と同じくらい青白く、ひっきりなしに震えていた。マイカリスはウィルソンにベッドで横になった方がいいと忠告したが、ウィルソンは、そんなことをしていたら客をどんどん逃してしまうと言って拒んだ。そんなかれを説得するうちに、階上からすさまじい物音が聞こえてきた。

「うちのやつを閉じこめてある」とウィルソンは落ち着き払って説明した。「明後日まで閉じこめておく。それから、2人でここを出るんだ」

マイカリスは仰天した。この夫妻とは4年にわたって隣人としてつきあってきたものだが、ウィルソンがそのようなことのできる男のようにはどうしても見えなかった。基本的に、ウィルソンはよくあるくたびれた男のひとりだった。仕事をしていないときは、戸口の奥の椅子に腰を下ろし、道路を過ぎてゆく車や人々をじっと見つめていたものだった。だれかから話しかけられると、きまって、感じのよい、無色透明な笑い声をあげた。妻に手綱たずなを握られていて、一人の男としては存在していなかった。

だから、当然、マイカリスはなにがあったのかを聞き出そうとしたが、ウィルソンは一言も口にしようとしない――その代わり、奇妙な、いぶかしげな眼差しをマイカリスに投げかけつつ、特定の日、特定の時間になにをしていたのか、問いかけてきた。訪客が気まずく感じはじめたところに、労働者が幾人か、マイカリスのレストランに向かってくるのが見えたため、それを機にマイカリスはその場をいったん外すことにし、後からまたもどってくることにした。が、もどることはなかった。忘れてしまったのだ、結局は。やがてマイカリスが店の表に出たとき、時刻は7時を少し回っていた。そこでさきほどの会話を思い出したのは、ガレージの1階からマートル・ウィルソンのわめき声が飛んできたからだ。

「ぶちなさいよ!」マイカリスはマートルが叫ぶのを耳にした。「ぶちたいんならぶてばいいじゃない、この薄汚い卑怯者ひきょうもの!」

まもなく、彼女は両手を振っては何事かを叫びつつ、夕闇ゆうやみの下に飛び出してきた――マイカリスが戸口から離れる時間もなく、ことは終わった。

新聞が「死の車」と書きたてたその車は、停まらなかった。濃密なやみの中から踊り出、一瞬、悲しむようにふらついたかと思うと、次のカーブを回って姿を消した。マブロマイカリスでさえ、その車の色についてはっきりと覚えていなかった――かれは最初にやってきた警官に向かって車の色はライト・グリーンだったと言っている。もう1台の車、これはニューヨークに向かっていたのだが、さらに100メートルほど進んだところで停まり、運転手は、マートル・ウィルソンのところまで大急ぎで引き返してきた。その生命は強引に断ち切られ、突っ伏したまま、路上の埃をどす黒い血で染めていた。

彼女のそばに最初にやってきたのはマイカリスとこの男だ。けれども、いまだ汗に湿っていたブラウスを引き裂いてみると、左の胸がなかばもげた形でだらりとぶらさがっており、その下の心臓の鼓動を確かめるまでもなかった。口は大きく開かれて端の方が少し裂けていた。あたかも、長いこと体内に貯えつづけていた凄まじいバイタリティを吐き出そうとして、のどにつまらせ、窒息ちっそくしてしまったかのように。

**********

ウィルソンのガレージの少し手前まできたところで、ぼくらの視界に34台の車が停まっているのが飛び込んできた。

「事故か!」とトムが言った。「よかったな。これでやっとウィルソンもちょっとは仕事にありつける」

トムはスピードを落としたけど、それは停まろうとしてのものではない。やがてガレージが近づき、その戸口にたむろする人々の、物静かながら好奇心をたたえた表情が見えたとたん、トムは反射的にブレーキをかけた。

「見ていこう」とトムが言った。「ちょっとだけだ」

いまやぼくは、ガレージからひっきりなしに聞こえてくる、空虚な嘆き声に気がついていた。その声は、車から降りて戸口に近づいてみるとはっきりと聞き取れるようになった。何度も何度もくりかえされる「ああ、神さま」という息も絶え絶えなうめき声。

「なにかまずいことになってるみたいだな」とトムが興奮したように言った。

トムは背伸びして、人垣の頭の上からガレージの中をのぞきこんだ。室内の照明は、金網籠かなあみかごに入った黄色の電灯ひとつきりしか灯されていなかった。トムは不快そうに喉を鳴らすと、力強い腕で強引ごういんに群集をかきわけていった。

あちこちでたしなめるような声が囁かれるとともに、人垣はふたたび閉じる。あっという間にぼくからはなにも見えなくなった。さらに、新来の野次馬たちが列を乱したため、ジョーダンとぼくは気がつくと中に押しこまれてしまっていた。

マートル・ウィルソンの体は、毛布で二重に包まれていた。暑い夜だというのに、凍えそうになっているみたいだ。そうして、壁際かべぎわの作業台に寝かされていた。トムは、ぼくらに背を向けたままマートルの上にかがみこんでいた。身じろぎもせずに。その隣で、バイクでやってきた警官が、派手に汗をかきながら、そしてあれこれと訂正を入れながら、手帳に複数の名前を書きこんでいた。最初、騒々しく響き渡る甲高かんだかい呻き声のみなもとを、ぼくは飾り気のない事務所の中から見つけ出すことができなかった――それから、ウィルソンが事務所の一段高くなっている敷居のところに立っているのが目に入った。前後に体を揺らしながら、戸口の柱を両手でつかんでいる。だれかが低い声で語りかけながら、時折、肩に手をあてたりしていたけれど、ウィルソンはなにも聞いていなかったし、なにも見ていなかった。その瞳は揺れるライトを見上げては壁際の作業台に落とされ、ひっきりなしに、甲高い、身の毛のよだつような声を上げる。

「ああ、神さま! ああ、神さま! ああ、神さま! ああ、神さまぁ!」

やがて、トムはあごを突き出すようにして顔を上げると、ぎらつく眼差しで瞳で見まわし、聞き取りづらい声で警官に呼びかけた。

「M・a・v――」と警官は言っていた。「――o――」

「いや、r――」相手が訂正する。「M・a・v・r・o――」

「こっちの話を聞け!」トムが怒鳴りつけた。

「r――」と警官。「o――」

「g――」

「g――」ここでトムがその肉厚な手で警官の肩をつかんだため、警官は顔を上げてトムを見た。「何か用かね?」

「なにがあったんだ?――そいつを聞きたいんだがね」

「あの女性が車にはねられたんだよ。即死」

「即死」と、トムはぎょっとしたようすでくりかえした。

「道路に飛び出したもんでね。糞野郎が、停まろうともしやがらなかった」

2台きてたんだよ」と、マイカリスが言った。「1台はあっち行き、もう1台は向こう行き。見なかったか?」

「どこに向かってた?」と警官が鋭く質問した。

「それぞれ行き違うように走ってた。で、奥さんが」――と言って毛布に手を伸ばしかけたものの、途中で腕を下ろし、脇腹につけた――「奥さんがニューヨークからきてたほうの車の前に飛び出して、もろにはねられちまったんだ。時速60キロくらい出てたな」

「ここはなんという名前の土地だ?」と警官が尋ねる。

「名前なんてない」

肌色のやや薄い、着飾った黒人が進み出てきた。

「黄色い車でした。大きな黄色の車。新車」

「事故を見たのかね?」

「いや、でも道でその車とすれ違ったもんで。60キロ以上出てました。70キロ、いや80キロ出てたかも」

「こっちにきて、名前を聞かせてもらおうか。おい、静かにするんだ。名前を書き取っておきたいんだから」

こうした会話の一部が、ウィルソンの耳にも届いていたに違いない。事務所の戸口で体をゆすっていたかれの、途切れ途切れの悲嘆の声の中に、新しいテーマが芽吹いた。

「どんな車だったかなんて言わんでいい! おれにはどんな車だったかわかってる!」

ぼくの視線の先で、トムの肩甲骨けんこうこつあたりの筋肉が上着の下で隆起したのに気がついた。トムは、すたすたとウィルソンに向かって足を進めると、その正面に立ち、ウィルソンの左右の上腕をがっちりとつかんだ。

「しっかりしなきゃ駄目だ」と、どことなく優しげに言う。

ウィルソンの瞳がトムに落ちかかった。ウィルソンはぎくりとして伸びあがり、それから急に力を失ったようになって、もしトムが抱きとめてやらなかったとしたら、膝から崩れこんでしまっていただろう。

「いいか」とトムはウィルソンの体を軽く揺さぶりながら言った。「おれはちょうど今ここにきたばっかりなんだ。ニューヨークからな。今日の午後話したクーペをここまで運んできたんだよ。昼過ぎにおれが運転していたあの黄色の車はおれのじゃないぞ。聞いてるか? おれはあの車を午後一杯見てないからな」

トムの言葉を聞き取りうる距離にいたのはぼくと例の黒人だけだったけど、その言葉の調子になにかをかぎとったらしく、警官は噛みつくような眼差しを向けてきた。

「おれはこいつの友人でね」と、トムがウィルソンの体にしっかりと腕を回したまま、首だけ振りかえって答えた。「こいつが問題の車を知っているというんだよ。黄色の車だったそうだ」

なにかひっかかるところがあったのか、警官はトムを疑るように見つめた。

「で、あんたの車の色は?」

「おれのは青、クーペだ」

「ぼくらはまっすぐニューヨークからきた」とぼくは言った。

ぼくの後を走ってきていただれかが、トムの発言を確証した。それで、警官は踵をかえした。

「さて、あんたの名前をもう1回正確に聞かせてもらいたいんだが――」

トムはウィルソンを人形みたいに抱え上げて事務所に運びこみ、椅子に座らせてもどってきた。

「だれかこっちにきて、あいつについてやってくれ」とかれは横柄おうへいに言った。いちばんそばにいた2人がお互いを見交わし、いやいやながら、屋内に入っていった。かれらが中に入るのを見届けたトムは、かれらを閉じこめるようにドアを閉め、1段しかないステップを降りた。極力きょくりょく作業台を見ないようにしながら。そしてぼくに近づき、耳打ちした。「出よう」

気まずい思いを抱え、トムの横柄な両腕が道を作るに任せて、ぼくらもまた、いまだに増えつづける人垣をすりぬけていった。人ごみの中、往診鞄を手にした医者と行き違った。希望をもつのは無茶というものながら、30分前に連絡がいっていたのだ。

カーブを曲がるまで、トムはゆっくりと車を走らせた――カーブをすぎると、アクセルがぐっと踏みこまれ、クーペは夜を切り裂いて疾走しはじめた。ほどなく、ぼくはトムの低くかすれたすすり泣きを耳にした。見ると、あふれる涙が両の頬を伝い落ちていた。

「ちくしょう、腰抜けが!」とトムは呟くように言った。「やつは車を停めようとさえしなかったんだ」

**********

葉鳴はなりの音を立てる黒々とした木立の向こうに、ブキャナン邸が忽然こつぜんと浮かび上がった。トムはポーチに車を横付けすると、2階を見上げた。つたに囲われた窓のうち、2つが煌々こうこうと輝いている。

「デイジーは帰ってきてる」とトム。それから車を降りる段になって、ぼくに視線を走らせ、かすかに眉をしかめた。

「ウェスト・エッグで降ろしてやったほうがよかったな、ニック。今夜、おれたちにできることは何一つないんだから」

かれはふだんと少し違っていた。重々しく、決意をこめた口調で話していた。みんな揃って月明かりの砂利道に沿ってポーチに向かう途中、かれは、手短なフレーズで、てきぱきとこのシチュエーションをさばいてみせた。

「タクシーを呼んでやるから、それを使って帰るといい。それまでジョーダンとキッチンで待っていてくれ。食事を用意させるよ――欲しければ、ね」トムは玄関のドアを開けた。「さあ、入れ」

「いや、いいよ。でも、タクシーは呼んでおいてもらえるとありがたいな。外で待ってるから」

ジョーダンがぼくの腕に手をかけた。

「中に入ろ?」

「いや、いいよ」

ぼくは少し気分が悪く、ひとりになりたかった。だが、ジョーダンは家に入ろうとしなかった。

「まだ9時半よ」

ぼくはどうしても中に入りたくなかった。一日にしてかれら全員に食傷しょくしょうしてしまっていたのだけど、不意に、ジョーダンにも食傷してしまった。そうした気分のかけらがぼくの言葉や態度にあらわれていて、それをジョーダンは見て取ったに違いなく、唐突にきびすをかえすと、ポーチのステップを駆け上って家の中に入っていった。家の奥から電話の音と、それに続いて執事がタクシーを呼ぶ声が聞こえてくるまでの数分間、ぼくは両手に顔をうずめていた。それから、門のところで待とうと、屋敷から遠ざかるように私道を歩きはじめた。

20メートルも行かないうちにぼくの名前を呼ぶ声が聞こえてきた。ギャツビーが2つの茂みの間からでてきて小道に足を踏みいれた。ぼくはそのときまでにすっかり感覚をちぐはぐにしていたに違いない。かれの姿を見ても何とも思わなかったのだから。ただ、月明かりに照らされたピンク色のスーツをまばゆく思ったくらいで。

「何をしてるんです?」と、ぼくは訊ねた。

「ただ立っているだけですよ、尊公」

どういうわけか、ぼくにはそれが唾棄だきすべき行為のように思えた。ことによると、かれはブキャナン家をたちどころに襲うつもりなのかもしれない。薄暗い茂みの影に、あの人相の悪い連中、「ウルフシェイムのところの人たち」の顔が並んでいるのを見たとしても、驚きはしなかっただろう。

「ここにくるまでになにかトラブルを見かけましたか?」しばらくしてから、そう尋ねてきた。

「ええ」

かれは一瞬ためらった。

「死にましたか?」

「ええ」

「そう思いましたよ。デイジーにもそうなるだろうと言ってあります。ショックは一度に来たほうがよろしいですからね。あの人はとても健気けなげに受け止めていました」

まるでデイジーの反応が唯一無二ゆいいつむにの問題だと言わんばかりの口調だった。

「ウェスト・エッグには脇道を通って戻って来ました」とかれはつづける。「車は私の車庫に置いてあります。誰にも見られなかったと思いますが、勿論もちろん断定はできません」

このときはもうかれのことがとてもいやになっていたから、かれの非を鳴らす必要をぼくは認めなかった。

「あの女性、どなたでしたか?」とかれが訊ねる。

「ウィルソンという女性。ご主人はあのガレージの持ち主ですよ。一体全体、どういうわけであんなことになったんですか?」

「いえね、私はハンドルを切ろうとしたのです――」かれは口を閉ざした。その瞬間、ぼくは事の真相を見抜いた。

「デイジーが運転していたんですね?」

「そうです」と、しばらく間を置いて答えがかえってきた。「ですがもちろん私は私が運転していたと言うつもりですよ。ほら、私たちがニューヨークを出た時は、彼女、ひどく神経質になっていましたから、運転でもしたら落ち着くだろうと思ったのでしょうね――そして、問題の女性が私たちの車に向かって飛び出して来たのです。対抗車線からも1台来ていました。全体があっという間の出来事でしたが、どうやら、あの女性は私たちに何か言いたいことがあったようでした。私たちを知り合いの誰かと思ったのでしょうか。それで、デイジーは最初ハンドルを切って彼女を避け、対抗車のほうに飛び出したのですが、気後れしたのでしょう、もとの車線に戻ってしまいました。私がハンドルを取ったその瞬間に、衝撃が来ました――即死だったに違いありません」

「体が裂けてたから――」

「言わないで下さい、尊公」かれは身震いした。「とにかく――デイジーはアクセルを踏み込みました。私はデイジーを止めようとしたのですが、停まろうとしてくれませんでしたので、サイドブレーキを引きました。するとデイジーが私のひざに崩れこんできたものですから、そこからは私が運転を代わりました。

「明日になれば、あの人も元気になります」かれは少しだけ間を置いて言った。「私は、あの方が今日の午後不愉快な思いをしたからとデイジーを苦しめたりしないかと思って、ここで待っているのです。デイジーは自分の部屋に鍵をかけて閉じこもっています。手荒な真似をされそうになった時は、電灯を一旦消し、それからまた点けるという手筈てはずになっています」

「あいつはデイジーに触れもしませんよ。あいつが考えてるのはデイジーのことじゃない」

「私はあの方を信用しておりませんでね、尊公」

「どれくらい待つおつもりなんですか?」

「必要となれば夜通よどおしでも。とにかく、あの方達が皆ベッドに下がるまでは」

ふと、違う見方もあるように思えてきた。運転していたのがデイジーだったということを、トムが探りあてたとしたら。だとしたら、トムも、そこに何らかの因果いんがを見たように思うかもしれない――とにかく、何か思うところくらいはあるのではないだろうか。ぼくは家の様子をうかがった。1階の窓のうち、23明々あかあかと照明が灯され、2階のデイジーの部屋からはピンク色の灯りが漏れ出していた。

「ここで待っててください。騒ぎの気配があるかどうか、ぼくが見てきますから」

ぼくは芝生の端に沿って歩いてもどり、砂利道を忍び足で横切り、つま先だってベランダのステップを昇った。応接室のカーテンが開かれていてので覗きこんでみたが、そこには誰もいなかった。3ヶ月前のあの夕べに食事を囲んだポーチを通りぬけ、小さく、四角形の光が漏れ出しているところに出る。おそらく、食堂だろう。ブラインドが下ろされていたけれど、窓敷居までは下りきっていなかった。

デイジーとトムはキッチンのテーブルに向かい合って座っていた。冷めたフライド・チキンの皿とエールの瓶が2本、2人の間に置かれている。熱っぽく語りかけるトムの、熱意がこもった手は、デイジーの手を上から包みこんでいた。ときどき、デイジーはトムを見上げ、うなずいては同意を示した。

かれらは幸せではなかった。チキンにもエールにも手がつけられていなかった――といって、不幸せでもなかった。その光景には、勘違いのない雰囲気、自然発生的な親密さがただよっていて、だれが見ても、2人は心が通いあっていると判断したことだろう。

つま先だってポーチを抜け出すぼくの耳に、屋敷への暗い道を探るようにして走る、ぼくのために呼ばれたタクシーの走行音が届いた。ギャツビーは、私道の、ぼくと別れたところで待っていた。

「騒ぎなど起きていませんでしたか?」かれは心配そうに尋ねてきた。

「ええ、静かなものですよ」とぼくは言った。「一緒に乗って行きませんか。おやすみになったほうがいい」

かれは首を横に振った。

「私はデイジーがベッドに入るまで待っていたい。おやすみなさい、尊公」

かれは上着のポケットに手を突っこんでくるりと振りかえり、問題の家のようすを熱心にうかがった。まるでぼくの存在が不寝番ねずのばん神聖しんせいさを損なうものだと言わんばかりに。だからぼくは歩きだした。月明かりの下に立つかれを――なにも起きようはずのない家を見守るかれをその場に残して。

8

ぼくは一晩中眠れずにいた。海峡からは霧笛むてきがひっきりなしに聞こえてきて、ぼくは、グロテスクな現実と粗暴でおぞましい夢との間で、寝返りをうちつづけた。夜も明けきらないころ、ギャツビー邸の私道に入りこむタクシーの走行音を耳にしたぼくは、ベッドから跳ね起き、身支度を整えはじめた――なにか、かれに伝えるべきことが、かれに警告すべきことがあって、しかも、朝を待てば手遅れになるというような気がしていた。

芝生を横切って行ってみると、玄関のドアが開けっぱなしになっている。ギャツビーは、大広間のテーブルにもたれかかって、落胆のためか眠気のためか、ひどく気重なようすでいた。

「何も起きませんでしたよ」と、かれは弱々しく言った。「私はあのまま待っていました。4時ごろ、あのひとは窓のところに来てしばらくそこに立っていたかと思うと、明かりを消してしまいました」

この夜、葉巻を探して家中をさまよったときほどにかれの家をだだっ広く感じたことはなかった。天幕てんまくみたいなカーテンを2人で開け広げ、電灯のスイッチを求めて、暗中あんちゅうの壁を何メートルも何メートルも手探りしていった――度など、つまずいた拍子に、亡霊じみたピアノの鍵打音みたいな音を立ててしまったくらいだ。どこもかしかも、説明に耐えないほどの量の埃が散り積もっていて、もう何日も空気を入れ替えていないのだろうか、かびくさい匂いがした。見なれないテーブルの上に葉巻入れが見えた。中には、古びて乾いた葉巻が2本、収められていた。ぼくらは応接室の窓を開け放ち、暗い部屋の中で一服しはじめた。

「ここを離れるべきですよ」とぼくは言った。「連中はあなたの車を突き止めてしまうに決まってます」

「尊公は今すぐに行けと言うのですか?」

1週間ほど、アトランティック・シティにでもお行きなさい。それかモントリオールに」

かれはぼくの提案を一顧いっこだにしなかった。デイジーがこれからどうするつもりなのか知るまでは、デイジーを置いていくわけにはいかないというのだ。かれは、最後の希望とでもいうべきものにすがりついている状態にあって、ぼくとしても、そこからかれを引き離すのは忍びなかった。

ぼくが、ダン・コーディーと過ごしたかれの青春時代の奇妙な物語を聞かされたのは、この夜のことだ――かれが話したわけは、「ジェイ・ギャツビー」がトムの堅硬な悪意にぶつかってガラスのように砕けてしまったからで、長らく秘密にしてきた狂劇エクストラバガンザに幕が降ろされたからでもある。いま思えば、あのときのギャツビーならば、なにを聞かれてもまったく保留をつけずに話してくれたのだろうけど、それでもやはりギャツビーが話したかったのはデイジーのことだった。

かれにとって、デイジーははじめて見知った「洗練された」少女だった。具体的には不明ながら、さまざまな資格でそういった人々と接触してきたギャツビーだったのだけど、かれらはいつもギャツビーとの間に有棘鉄線ゆうしてっせんを築いて対応していた。そのギャツビーにとって、デイジーは心騒がせるほどに好ましかった。かれはデイジーの家を訪ねた。最初は、キャンプ・テイラーの将校たちと一緒に。それからひとりで。かれは驚嘆した――あれほどまでに美しい屋敷を見たことがなかったのだ。でも、そこに固唾かたずをのませるほどに熱中させるような雰囲気があったのは、デイジーがそこに暮らしていたためだった――かれにとってのキャンプのテントと同じく、デイジーはその屋敷に何気なく暮らしていた。そこには円熟した神秘があった。階上の寝室はほかのどんな寝室よりも美しく涼やか。廊下でまきおこる陽気で華やかな動き。恋、といってもとうにラベンダーの中に寝かされているようなかび臭い恋などではなく、今年の輝くばかりの自動車や、まだその花々のしおれるには至っていない舞踏会のような、生き生きとしてかぐわしい恋。多くの人々がデイジーに恋をしたということもまた、かれを興奮させた――かれの目にはそのことがデイジーの価値をさらに高めるように思えたのだ。かれらの存在は家中に感じられた。いまだ華やかさを失わない感情の影と残響とともに。

けれどかれは、自分がデイジーの屋敷の中にいるのは途方もない偶然のおかげだということを熟知していた。ジェイ・ギャツビーとしての未来にどれほどの栄光が約束されていたとしても、金も経歴もない一青年であり、軍服という隠れみのがいつ肩から滑り落ちるか分かったものではなかった。だからかれはそのきっかけを最大限に利用した。得られるものはなんでも、貪婪どんらんに、無節操に奪った――そして最終的には、10月のある静かな夜、デイジーをも奪ったのだ。デイジーを奪ったそのわけは、彼女の手に触れる正当な権利を持たなかったからなのだ。

かれが自分を軽蔑したとしてもおかしくはない。うわべを偽ってデイジーを奪ったと言われれば確かにそうだ。といってもありもしない財産をかたったというわけではないのだろう。ただデイジーにある種の安心感を与えるための作為さくいがあったのは間違いない。かれは自分がデイジーと同じ階層の出であると信じこませ――自分がデイジーの面倒を完璧に見てやれる男だということを信じこませたのだ。事実はといえば、かれにそんな能のあるはずはない――裕福な家系という後ろだてがあるわけでもなく、官僚的な政府の気まぐれで世界のどこに飛ばされるかわかったものではない身だった。

けれども、かれは自分を軽蔑しなかったし、また、事態もかれの想像どおりには進行しなかった。かれの意図としては、おそらく、手にできるだけのものを奪った上で去るつもりだったのだろう――が、いつのまにか、かれは自分があの聖杯探求せいはいたんきゅうの誓いを立てているのに気がついた。かれはデイジーの奇矯ききょうさは知っていたけれど、「洗練された」娘がどれほど奇矯になれるものなのかについては気づきもしなかった。デイジーは、その豊かな屋敷の中へ、豊かで充実した生活の中へと消え去った。ギャツビーは取り残された――なにひとつ残されないままに。ただ、デイジーと結婚したという気分、それですべてだった。

2日後、2人は再会した。息を切らしていたのはギャツビーのほうで、なんとなく、裏切られたような感じがした。屋敷のポーチでは金のかかっている贅沢品が綺羅星きらぼしのように輝いていた。デイジーがギャツビーに体を向け、ギャツビーがデイジーの愛らしくも不思議な唇に口づけすると、籐椅子とういすが軽やかにきしんだ。デイジーは風邪を引いていて、そのため、彼女の声はそれまでなかったほどにかすれた魅力的な声になっていた。そしてギャツビーは圧倒されるような想いで認識した。富が若さと神秘性を繋ぎとめ、護りつづけるということを。衣服の数と新鮮さが比例するということを。そしてデイジーが、銀のように輝きながら、貧乏人の悪戦苦闘あくせんくとうを見下ろす形で、安全に、誇り高く生きているということを。

**********

「デイジーへの愛情を自覚した時にどんなに驚いたことか、説明できないくらいですよ、尊公。しばらくの間は、デイジーが私を捨ててくれるのを期待してさえいましたが、そうはなりませんでした。デイジーもまた私のことを愛していたのですから。私はデイジーが知らないようなことを知っておりましたもので、デイジーは私のことを大変な物知りだと思ったのです……さて、それから私は、己の野望を捨て、ただただ愛を深めていきました。そしてふと気が付くと、もうどうでもよくなっていたのです。これから何をするつもりかをデイジーに語るだけで心地よい時間を過ごせるのです。それなのに、偉業を成したところでなんになるというのです?」

海外に赴く前の日の午後、かれはデイジーをその腕に抱いて、長いこと一言もなく座っていた。肌寒い秋の1日。暖炉の火がデイジーの頬をあかく照らした。ときどきデイジーが身じろぎすると、ギャツビーもまたほんのすこし腕加減を変えた。一度などは鈍く輝く彼女の髪に口づけしたりもした。2人はしばらくの間平穏に包まれていた。その午後に、長い別れを翌日に控えた2人のために深い思い出を作ってやろうという意思でもあったのだろうか。それは、愛に満ちた1ヶ月中、2人がもっとも近しく、もっとも深く心を通わせた時間だった。たとえば、彼女が物言わぬ唇をかれの肩に押し当てたとき。かれが、眠っている相手にするように、そっと彼女の指先に触れたとき。

**********

かれは戦争では異常なほどうまく立ちまわった。前線に赴く前は大尉たいいだったのが、アルゴンヌの戦いを経て少佐しょうさに任官され、機関銃部隊の指揮をとった。休戦後、かれはしゃにむに帰国を希望したものの、何かの手違いか勘違いかでオックスフォードにやられることになった。かれは不安になった――デイジーからの手紙には絶望的な調子がみられるようになった。デイジーはなぜギャツビーが帰ってこないのかがわからなかった。周囲からのプレッシャーを感じては、ギャツビーを見、ギャツビーの存在を感じ、結局のところ自分が正しいことをやっているのだと安心させてもらいたかった。

というのは、デイジーも若かったし、彼女の人工的な世界はらんの香り立つ世界で、心地よくて陽気な気取りが溢れ、オーケストラはその年の流行曲を奏でては日々の悲しさや期待を真新しい響きで要約してみせるような、そんな世界だったからだ。夜な夜な、サキソフォンが『ビール・ストリート・ブルース』のよるべない調べを涙ながらに奏で、数百組にもなる金銀のスリッパがきらめく粉をかき乱す。薄暗いお茶の時間になると、この弱々しくも甘美な情熱にひっきりなしに脈動する部屋が常にあり、また、フロアに響き渡る悲しいホルンに吹かれては舞うバラの花びらのような、新鮮な顔があちらこちらをただよっていた。

この黄昏たそがれの世界を、社交シーズンがくるとともにデイジーはふたたび動き出した。とつぜん、いまふたたび1日に6人の男と6つのデートの約束をするようになり、夜明けには、消えゆく香りの染みついたイブニングドレスをベッドそばの床に放り、そのドレスを飾るビーズやシフォンと一緒に、浅い眠りについた。彼女の内にあるなにかが、決断を求めて泣き叫んでいた。自分の生活を、いますぐに、形作りたかった――その決断は、なにかの力による必要があった――愛の力、金の力、反問はんもんを許さない現実の力――それも手近なものによって。

その力は春の中ごろにトム・ブキャナンの到来とうらいという形をとった。かれ個人にもかれの身分にも健全な質感があって、デイジーは浮ついてしまった。そこに、ある種の苦悩とある種の安堵あんどがあったのは疑いない。手紙は、まだオックスフォードにいたギャツビーの元に届けられた。

**********

ロング・アイランドの夜が明けようとしていた。ぼくらは1階に降りて残りの窓を開いてまわり、戸内を灰色から金色へと変調する光が満ちるにまかせた。いつの間にか朝露に覆いかぶさるように木陰が現れ、青々とした葉群はむらの中からは、どこに隠れているのだろう、鳥たちの歌声が聞こえはじめる。空気の流れはゆったりと快適で、風もほとんどなく、涼しくて過ごしやすい一日になりそうだった。

「デイジーはあの方を愛したことなどないと思います」と窓から振りかえったギャツビーは、挑みかかるようにぼくを見つめた。「覚えておられますよね、尊公、あの午後、デイジーがひどく興奮していたことを。あの方がああいう伝え方をしたせいでデイジーは怖くなってしまったのです――あれでは、まるで私が安っぽい詐欺師さぎしみたいに聞こえてしまう。その結果、デイジーは自分が何を言っているのかすら分からなくなってしまった」

かれは憂鬱そうに腰を下ろした。

「勿論、デイジーもあの方のことを少しくらいの間は愛していたのかもしれません。結婚した時くらいは――それでも、その時にしても私のことをもっと愛していたのです、そうでしょう?」

ここでふとかれは不思議な発言をした。

「いずれにしても」とかれは言う。「個人的なことにすぎません」

みなさんならどうお考えになるだろうか? 一連の出来事にかける思いが桁外けたはずれに強いことを察することくらいはできるにせよ、しかし、これはきっとそれどころではない気もする。

かれがフランスからもどってきたとき、トムとデイジーはまだ新婚旅行の途上にあった。かれは軍人としての俸給ほうきゅうの残りをはたき、ルイビル行きの旅にでた。みじめな旅だったが、行かずにいることはできなかった。そこに一週間滞在して、あの11月の夜に2人で足音を響かせた通りを歩いたり、デイジーの白い車でドライブした人里離れた場所を再訪したりした。デイジーの屋敷は、以前のとおりに、他の家々よりも神秘的で快活に見えて、デイジーがいなくなった後であってさえも、街そのものにメランコリーな美しさが染みわたっているように思えた。

もっと一生懸命に探せばデイジーを見つけられるのではないかと感じながら、かれは去った――つまり、デイジーを置き去りにするように感じながら。普通客車は――かれは文無しになっていた――暑かった。オープンデッキにでて折りたたみ椅子に腰かけた。駅舎と見なれないビルの後背が流れていった。やがて列車は、春の野原にでた。路面電車が1便、しばらく平行して走っていた。電車の人々も、かつて、いきずりの通りで彼女の青白い顔にあった魔力を目のあたりにしたことがあったかもしれなかった。

線路はカーブして太陽から遠ざかっていく。その太陽はといえば、沈むにつれ、かつては彼女がひっそりと存在していた消えゆく街に、じんわりと恩寵おんちょうを与えていくかのようだった。かれは必死に手を伸ばし、その空気のかけらを一握りつかんで、彼女がいてこそ魅力のあったその場所を、断片だけでも手に入れようとした。けれども、かれのうるんだ目にはなにもかもがあまりにも速く通り過ぎていき、そのときかれは、そこに息づいていた、もっとも溌剌はつらつとしていてもっともすばらしい部分を、永遠に失ってしまったのだと思い知らされたのだ。

ぼくらが朝食を終えてポーチに出たのは9時のことだった。一晩で気候はすっかり変わってしまい、空気にも秋の香りが感じられた。以前からギャツビーが雇っていた使用人の中では最後のひとりになっていた庭師が、ステップの前までやってきた。

「今日はプールの水を抜いてしまおうと思っております、ミスター・ギャツビー。もうすぐ落ち葉が散りはじめますし、そうなりますとパイプが詰まってしまいますもので」

「今日はよしておいてくれ」とギャツビーは答えた。それから、詫びるようにぼくのほうに向き直った。「お分かりでしょう、尊公? 私はこの夏というものずっとあのプールを使わなかったものですから」

ぼくは自分の時計を確認し、立ちあがった。

「列車まであと12分」

ぼくはニューヨークに出たくなかった。仕事に立ち向かう気力がまったく残っていなかったというのもあるけれど、それだけではなかった――ぼくはギャツビーを置いていきたくなかった。乗るつもりだった列車を見送り、その次の列車もパスし、それからようやくぼくはこの場から自分を引き離すことができた。

「電話しますね」ぼくはとうとう言った。

「どうぞ、尊公」

「お昼ごろ、電話しますね」

ぼくらはゆっくりとステップを降りていった。

「デイジーも電話してくると思います」かれはぼくを不安そうに見つめた。そうなるようにぼくにも協力してほしいとでも言いたかったのだろうか。

「ぼくもそう思います」

「では、さようなら」

かれと握手を交わして、ぼくは歩きはじめた。生垣いけがきの寸前でぼくは忘れていたことを思いだし、くるりとふりかえった。

「あいつらはみんな腐ってる」とぼくは芝生ごしに叫んだ。「きみにはあの連中をみんな足し合わせたくらい価値がある」

ぼくはこれを言ったことを思い出すたびに嬉しくなる。ぼくは最初から最後までかれのことを認めなかったから、かれを誉めてやったのはこのときだけになってしまった。最初、かれは礼儀正しくうなずいた。それからあの理解を思わせる晴れやかなほほえみを満面まんめんに浮かべた。その顔さえあればぼくらはずっと天にも昇る心地でたばかっていけるのだと思った。かれの華美なピンク色のスーツが白いステップに異彩いさいを放っていた。かれの歴史ある土地に、ぼくがはじめて足を踏み入れた夜、あの3ヶ月前の夜を想った。芝生も私道も、ギャツビーの堕落だらくをいい加減に推しはかる人々の顔で埋めつくされていた――ギャツビーはやはりステップに立ち、ちるはずない夢を胸に、かれらに向かってさようならと手を振っていた。

ぼくはかれの手厚いもてなしに感謝した。ぼくらはいつもかれの手厚いもてなしに感謝していた――ぼくだってそう、だれだってそうだった。

「さようなら」ぼくは呼びかけた。「楽しい朝食だったよ、ギャツビー」

**********

街に出て、果てしなく続く株の出来高できだかをまとめたリストを作っていると、いつのまにか自席の回転椅子に座ったまま眠りに落ちていた。昼前、電話の呼出音よびだしおんに目を覚ましたぼくは、飛びあがって額の汗をぬぐった。ジョーダン・ベイカーからだった。ジョーダンはこの時間に電話してくることが多かったが、それはホテルやクラブや知人の家々を渡り歩く彼女にとって、それ以外の方法を見繕みつくろうのが困難だったからだ。ふだん、受話器から聞こえてくるジョーダンの声は溌剌として涼やかで、緑豊かなゴルフコースからクラブのひとふりに跳ね飛ばされた芝生が会社の窓から飛びこんでくるみたいだったけれども、その日はとげとげしく乾いた調子だった。

「デイジーのところを出たの。いまヘンプステッド。午後のうちにサウザンプトンまで行こうと思ってる」

おそらく、デイジーの家を出るという処置は機転きてんいたものだったのだろうが、ぼくはその行為を不快に感じた。そして次のジョーダンの発言を聞いて、かたくなになってしまった。

「昨日はちょっとひどかったんじゃない」

「あの状態でそんな余裕があると思う?」

一瞬、沈黙があった。

「それでも――わたし、あなたに会いたい」

「ぼくだって会いたい」

「サザンプトン行きはとりやめて、午後はニューヨークに出てきてもいいんだけど」

「いや、今日の午後はちょっと――」

「わかりました」

「今日の午後は無理なんだ。いろいろと――」

ぼくらはこんな調子でしばらく話しつづけ、ふと気がつくと、どちらも何も話さなくなっていた。がちゃんと受話器を置いたのはどちらだったのか分からないけど、ぼくがもはやどうでもいいという気分でいたのは分かっている。その日を境にこの世界でジョーダンと話す機会が永遠に失われるとしても、テーブル越しにお茶を飲みながら話し合うことなどできそうになかった。

数分後、ぼくはギャツビーに電話してみたけれど、先方は話し中だった。4回試してみた。結局は、苛立った交換手からデトロイトからの長距離電話がかかってきているのだと言われた。時刻表を取り出し、350分の列車に小さく丸をつけた。それからぼくは椅子にもたれかかって考えようとした。それがちょうど正午。

**********

あの朝、ぼくを乗せた列車が灰の山を通りすぎる際、ぼくは意図的に車両の反対側に移動した。ぼくはこう考えていた。物見高い連中があたりに一日中うろうろしていて、子供たちといっしょに塵の中の暗点を探し、どこかのおしゃべりな男があれやこれやとその出来事について語っていたけれど、やがてその話もどんどん現実から乖離かいり、終いにはもはや語ることすらなくなってしまい、そしてマートル・ウィルソンを襲った悲劇も忘れ去れていくのだろう、と。ここですこし話をさかのぼり、あの夜ぼくらが去った後のガレージで起きたことを話しておきたい。

マートルの妹、キャサリンを捕まえるのは人々にとって困難なことだった。あの夜彼女は飲酒について自らに課したルールを破っていたに違いない。やってきた彼女は馬鹿みたいに酔っていて、救急車はもうすでにフラッシングに行ってしまったということを理解しようとしなかった。それをよってたかって納得させられたとたん、その事件がまさに耐えがたいことであったのか、彼女は気絶してしまった。だれかが、親切心からか好奇心からか、キャサリンを自分の車に乗せ、姉の遺体がされているところまで運んでやった。

夜が更けてもなお野次馬たちが入れ代わり立ち代わりガレージの正面に押し寄せてきたが、ジョージ・ウィルソンはといえば中の寝椅子の上で体を前後に揺するばかりだった。しばらくの間は事務所のドアが開放されていたために、ガレージを訪れるものはみな、否応いやおうなく、かれの姿を目にするはめになった。やがてだれかが、ウィルソンの名誉をおもんばかってドアを閉めてやった。かれについていたのはマイカリスとその他数名。最初は45人ほどいたのが、後には23人になっていた。その後、マイカリスは最後に残った赤の他人に15分余計に居残ってくれるよう頼みこまなければならなかった。その間にかれは自分の店にもどり、コーヒーをれてポットにつめた。それから夜明けまで、マイカリスひとりがウィルソンのそばに残った。

3時ごろ、ウィルソンの支離滅裂しりめつれつなつぶやきの内容に変化が生じた――だんだんおとなしくなったかれは、黄色い車について話しだした。その黄色い車の持ち主を突きとめる手を握っていると告げ、それから2ヶ月前にかれの妻が鼻をはらし、顔にあざをつくってニューヨークから帰ってきたことがあったなどと口走った。

が、自分が言った言葉を耳にしたとたんに怖気づいて、またふたたび唸るような声で「ああ、神さま!」をわめきだした。マイカリスはかれをなだめようと不器用ながら手を尽くした。

「結婚して何年になるんだ、ジョージ? ほら、しばらくそこにじっと座って、質問に答えてくれ。結婚して何年になる?」

12年」

「子供はいないのか? ほらジョージ、じっと座ってろ――質問してるんだぞ。子供はいなかったのか?」

鈍い光を放つ照明に、茶色の甲虫が音を立ててぶつかりつづけた。表の道路を車が走りすぎていくたび、マイカリスの耳にはそれがほんの数時間に停まることなく走り抜けていったあの車の音のように思えた。作業台の遺体が寝かされていたところがしみになっていたため、マイカリスはガレージの中に入っていきたくなかった。それでかれは、事務所の中を居心地の悪い思いをしながら歩き回っていた――事務所に、今朝あったものが今もそっくり揃っているのは分かっていた――そして、時折ウィルソンの隣に腰を下ろしては、ウィルソンを落ち着かせようと試みた。

「ときどき顔を出したりする教会はなかったのか、ジョージ? 最後に顔を出したのがずいぶん前でもかまわないんだぞ? その教会の神父さんを電話で呼べば話も聞いてもらえるだろうし、どうだ?」

「どこにも入ってない」

「行きつけの教会くらい作っとくもんだぜ、ジョージ。こういうときのために。あんただって一度くらいは教会に行ってるはずだ。結婚式は教会で挙げたんじゃないのか? なあ、ジョージ、話を聞けよ。結婚式は教会で挙げたんじゃないのか?」

「もうずいぶん昔のことだ」

質問に答えようと努力したせいで、ウィルソンは体を揺するリズムを崩した――少しの間、かれは黙ったままでいた。それから、悟ったようでもあり、当惑したようでもあるようすが、かれのかげった瞳に浮かんだ。

「そこの引出しを見てみな」と、机を指差しながらウィルソンは言った。

「どっちの引出しを?」

「それだよ――そう、それだ」

マイカリスは手からいちばん近くにあった引出しを開けた。そこにあったのは、小さくて高価そうな犬用の首輪で、皮の部分から銀の鎖が伸びていた。新品らしい。

「これが?」と、マイカリスは首輪を持ち上げながら訊ねた。

ウィルソンはじっと見てうなずいた。

「昨日の午後、見つけたんだよ。そいつについて説明してくれたんだが、どうも妙な感じがした」

「奥さんがこれを買ったってわけか?」

「あれはそいつをティッシュペーパーにくるんでドレッサーの上に置いていた」

マイカリスはとりたてて変とも思わなかったから、マートルがその首輪を買った理由と思われるものをあれこれ話してみた。だが、ウィルソンはまったく同じ説明を、以前に、マートルから聞かされていたものと思われる。なぜなら、つぶやくような調子で「ああ、神さま!」を口にしはじめたからだ――かれを慰めようとしていたマイカリスは、他に考えついたいくつかの説明を口に出さずにおくことにした。

「それからやつに殺された」とウィルソンは言った。ふいに、口を大きく開け広げる。

「だれに?」

「そいつを探り出すにはどうすればいいか、わかってるんだ」

「疲れてるんだよ、あんたは」とウィルソンの友人は言った。「あんたにとってはつらいことだったろう、自分がなにを言っているのかわからんくなるくらいにな。朝までじっと座って休んだほうがいい」

「やつがあれを殺した」

「あれは事故だったんだ、ジョージ」

ウィルソンは首を横にふった。目を細め、口を若干前より大きく開いて、「はん!」と不気味な響きを漏らす。

「もちろん」と、ウィルソンははっきりと語りだした。「俺は人を信用するたちだし、だれかを傷つけたりしたいとも思わん。それでも、教えられれば知らずにいるわけにはいかない。あの車に乗っていた男。あれは、あの男に話があって飛び出して行ったのに、あの男は車を停めようとしなかったんだ」

マイカリスもその光景を見てはいたが、そこになにか事情があるだなんて思いつきもしなかった。ミセス・ウィルソンは、特定の車を停めようとしていたというよりも、むしろ夫から逃げ出そうとしていたのだと、マイカリスは思いこんでいた。

「あの奥さんがそんなことをするはずはなかろうが?」

「あいつは腹のわからんやつだからな」とウィルソンは言った。それで質問の答えになるとでもいうかのように。「ああああ――」

ウィルソンはふたたび体を揺らしはじめた。マイカリスは首輪をひねくりまわしながら立っていた。

「ひょっとしたら、俺から電話して呼んでやれるような友だちがいたりしないか?」

それは無茶振りといってよかった――ウィルソンには友だちがいないということを、マイカリスはほぼ確信していた。かれの妻にとってみれば夫だけでは物足りなかったわけだ。間もなく、窓に青味がさして部屋のようすが変化したのに気づいたマイカリスは、夜明けがそれほど遠くないということを悟って嬉しく思った。5時前後には、灯りを消してもいいくらいに外も青みわたった。

ウィルソンのぎらつく瞳が灰の山に向けられた。そこでは小さな灰色の雲が、奇怪な形を得、かすかな黎明れいめいの風を受けては右往左往していた。

「おれはマートルに言ってやったんだ」長い沈黙を経て、かれはそうつぶやいた。「おれをだますことはできても、神さまをだますことはできんということを。それから窓のところに引っ張っていって――」かれは大儀そうに立ちあがり、腰をかがめて窓に顔を近づけた。「――言ってやった。『神さまはおまえの行いを見ておられる。行いすべてをお見通しなのだ。おれをだますことはできても、神さまをだますことはできん!』」

ウィルソンの背後に立ったマイカリスは目を見はった。そこに見えたのは、T. J. エクルバーグ博士の瞳だった。青白い巨眼きょがんが、朝ぼらけの中に浮かんでいる。

「神さまはすべてをお見通しだ」ウィルソンがくりかえす。

「あれは広告じゃないか」とマイカリスは言った。思わず振りかえって背後を確かめた。しかしウィルソンはそこに立ち、窓ガラスにじっと顔を近づけたまま、薄明はくめいに向かってうなずきつづけた。

**********

6時になるとマイカリスもくたびれてしまい、表に車の停まったのをありがたく思った。車に乗っていたのはあの晩の野次馬のひとりで、もどってくるからとあらかじめ約束していたのだ。マイカリスは3人分の朝食を作り、マイカリスともうひとりで食べた。ウィルソンはもう静かになっていたから、マイカリスも家に帰って眠ることにした。4時間後に目をさましたかれがガレージに急いでもどったとき、ウィルソンはもういなかった。

その足取りについては――最初から最後まで徒歩だった――ポート・ルーズベルトにきていたことが後にわかった。それからガッズ・ヒルでサンドイッチを買ったがこれには手をつけず、コーヒーだけを飲んだ。ガッズ・ヒルに正午前につかなかったということは、疲れてゆっくり歩くようになっていたに違いない。ここまでは難なくかれの姿を追い求められる――「気違いみたいにふるまう」1人の男が3人の少年に目撃されているし、自動車に乗っていたところ道端からわけもなくにらみつけられた者も複数いる。それから3時間、かれの姿は見当たらなくなる。警察は、ウィルソンがマイカリスに「手がかり」の話をしたことを重要視し、それを追って近辺のガレージに立ち寄っては黄色い車について尋ねまわっていたのだろうと考えた。ところがその一方、どこのガレージからもウィルソンを見たという話は聞けなかった。ウィルソンには、それを知るにあたって、もっと簡単で、もっと確実な方法があったのかもしれない。2時半にはウェスト・エッグに姿を現し、通行人にギャツビーの屋敷への道を尋ねている。ということは、このときもうギャツビーの名を知っていたわけだ。

**********

2時、ギャツビーは水着に着替え、電話がかかってきたらプールにいるから、と執事に言いつけた。途中、車庫に立ち寄って、この夏訪客たちを楽しませてきた、空気を入れて膨らませるタイプのマットレスを出し、運転手に手伝わせて膨らませた。それから、そこのオープンカーについてどんな理由があっても外に出してはならないと指示――右前輪のフェンダーを修理する必要があったから、これは奇妙な指示と言えた。

マットレスを担いだギャツビーはプールに向かって歩きはじめた。一度、立ち止まってマットレスをほんの少しずりあげた。運転手は手伝いを申し出たが、ギャツビーはかぶりを振り、間もなく、黄色づきゆく木々の間に消えた。

電話はかかってこなかったものの、それでも執事は、4時までは眠らずに待ちつづけた――そのときすでに、仮にかかってきたとしても、つなぐべき相手はいなくなっていたのだけれど。ぼくの考えでは、ギャツビー自身、かかってくるなんて信じていなかったのだろう。もうそれがどうでもよく思えているのを自覚していたのではないだろうか。もしそのとおりであるならば、昔ながらの温かい世界を失ったこと、単一の夢を抱いて長生きするために払った代償だいしょうがあまりに高くついたことを感じていたに違いない。ぎょっとさせるような葉群はむらを通して馴染めない空を見上げ、薔薇ばらがいかにグロテスクか、かろうじて創られたみたいな芝生に突き刺さる日の光がいかに生々しいことか、それを見取って、かれは身震いしたことだろう。新しい世界、現実味のない物質。そこでは哀れな幽霊が、夢を空気みたいに呼吸しながら、行き当たりばったりにただよいつづける……形の定まらない木立を抜けてかれの懐へと滑りこんできた、あの、灰じみた奇怪な人影のように。

運転手――ウルフシェイムの子分のひとり――は、銃声を聞いていた――後になってかれに言えたのは、ただ、聞くには聞いたがたいして考えてみなかったということだけだった。ぼくは駅からまっすぐ車を飛ばし、心配のあまり玄関前のステップを駈けあがった。だれかが急を悟ったとしたら、これが最初のきっかけだったと思う。けれど、それからはかれらも事態を理解したはず、そうぼくは固く信じている。ほとんど言葉を交わすこともなく、ぼくら4人、運転手に執事に庭師、それからぼくは、プールへと急いだ。

片端にある給水口からもう片端の排水口へと向かうかすかな水の流れは、ほとんど感じられないほどのものだった。波の影とも思えないほどかすかな波紋をたてながら、マットレスは下手へと不規則に動いていた。かすかな風が水面を波だてるだけで、偶発的な荷を乗せたそのマットレスの偶発的な進路を妨げるには十分だった。枝葉のかたまりに触れられるとそれはゆっくりと旋回し、転鏡儀トランシットの脚みたいに、水面に細い赤い輪を描きだした。

ぼくらがギャツビーを抱えて屋敷にもどりはじめた後のことだった。庭師が少し離れた草むらにウィルソンの死体を見つけた。惨劇ホロコーストは完成された。

9

あの日のそれから、あの日の夜、その翌日を、2年経ったいまにして思い出してみると、ギャツビーの屋敷の玄関を出たり入ったりする警察やカメラマンや新聞記者たちがどこまでもつづくかと思われるほどの列をなしていたのだけが思い出されてくる。正面門にはロープが張られ、警官がひとりそのそばに立って野次馬たちを締め出していたけれど、子供たちはすぐにぼくの家の庭から入りこめることに気づいて、そうした子供たちが、いつも何人か一塊ひとかたまりになってプールのそばでぽかんと口をあけていた。きびきびした態度の人物が、おそらくは刑事だったのだろうが、あの午後、ウィルソンの死体に屈みこみながら「気違い」という表現を使った。なんとなしの権威がその口ぶりに備わっていたせいで、翌朝の新聞記事はみなそういった調子で書かれることになった。

そうした記事の大部分は悪夢だった――グロテスクで、回りくどく、熱狂的で、しかも真実をついていない。検死に際し、ウィルソンが妻に疑惑を抱いていたという証言をマイカリスがしたと聞き、ぼくはきわどい諷刺ふうしに包まれて話全体が暴露ばくろされるのもすぐのことだろうと思った――けれどもキャサリンは、なんでも言い出しかねないと思っていたところが、一言も口外しなかった。それどころか、ことに前後して彼女は驚くべき性格を周囲に明かした――書きなおされた眉の下から検死官をまっすぐ見据え、彼女の姉はギャツビーに会ったことがないということ、彼女の姉が夫と一緒にいてこよなく幸せだったこと、彼女の姉がいかなる悪戯もやったことがないということを、言明した。彼女はそう言い切ると、ハンカチに顔を埋めて泣きじゃくりだした。疑いを持たれるなんて我慢の限度を超えているとでも言うように。だから、ウィルソンは「悲しみのあまり発狂した」男にまで格を落とし、事件はもっとも単純な形に落としこまれた。事件はそこで収まったのだ。

けれどもそれらはみな遠い、どうでもいいできごとのように思えた。気がつくと、ぼくはひとりでギャツビーの側に立っていた。悲報をウェスト・エッグ・ビレッジに電話した時点から、ギャツビーにまつわる推測や現実的な質問のすべてが、ぼくに向けられるようになっていた。最初は驚きもしたし混乱もした。それから、屋敷の中のギャツビーが、1時間、また1時間と、動くことも息をすることも話すこともなく横たわっている間に、ぼくの中で責任感が芽生えてきた。というのも、だれも関心をもっていないのだから――関心というのは、つまり、だれもが最後の瞬間に受け取ってしかるべきはずの、熱意あふれる関心、一個人としての関心のことだ。

遺体発見から30分後、ぼくは、本能的に、ためらうことなく、デイジーに電話をかけていた。けれども、デイジーもトムもその午後早くから、荷物を持ってどこかにでかけてしまっていた。

「連絡先は聞いてないのかな?」

「はい」

「いつもどるのか、分かる?」

「いいえ」

「どこに行ったのかな? こっちから連絡する方法を知りたいんだけど?」

「わかりかねます。なんとも申し上げられません」

ぼくはギャツビーのためにだれかをつかまえてやりたかった。ぼくはギャツビーがされている部屋に行って、こう言って安心させてやりたかった。「だれかをつかまえてやるからね、ギャツビー。心配ないよ。ぼくを信じてくれ、必ずだれかをつかまえてあげるから――」

メイヤー・ウルフシェイムという名前は電話帳には載っていなかった。執事が教えてくれた、ブロードウェイにあるウルフシェイムの事務所の住所を手がかりに番号案内に問い合わせたのだけど、結局、電話番号が分かったときにはもう5時をずいぶん回ってしまっていて、だれも電話に出なかった。

「もう1回電話したいんだけど?」

「もうすでに3回呼び出してみてるんですよ」

「重要なことなんだ」

「申し訳ありません。どなたもおられないのではないでしょうか」

客間に引きかえしたぼくは、一瞬、こうして仕事柄屋敷に詰めている人々もみな予期せぬ弔問客ちょうもんきゃくなのだと思った。けれど、かれらがシーツをめくってはショックを受けた目でギャツビーを見やるそのさなかにも、ギャツビーの抗議が頭の中で鳴り響いてやまなかった。

「あのですね、尊公、私のために誰かをつかまえてこなきゃなりませんよ。一生懸命いっしょうけんめいやってもらわないと。今度ばかりは、私ひとりではとても切り抜けられませんからね」

だれかがぼくに質問を切り出したが、ぼくはそれを受け流して、2階に上がり、ギャツビーのデスクの鍵が掛かっていない引出しを矢継やつばやに調べはじめた――かれは、自分の両親が死んだとは明言めいげんしたことがなかったのだ。けれどもそこには何もなかった――ただ、忘れ去られた暴力の象徴、ダン・コーディーの肖像画が、壁から室内を睥睨へいげいするばかり。

翌朝ぼくは、執事にウルフシェイム宛ての手紙を持たせてニューヨークに行ってもらった。情報を求めると同時に、次の列車でこちらにくるようにと促す手紙だった。この要求は、書いたときは、余計なことだと思っていた。新聞でことを知ったウルフシェイムがこちらに向かっているのは確実だとぼくは思っていたから。そして、昼前にデイジーから連絡が入るということも、同じように確実視していた――が、デイジーからの連絡はなく、ウルフシェイムもこなかった。警官、カメラマン、新聞記者といった連中以外にはだれひとりやってこなかった。執事がウルフシェイムからの返事をもって帰ってきたときは、ぼくの中に反発感がうごめきはじめ、ギャツビーとぼくとで、かれら全員を軽蔑しつくしてやるという盟約を結びたいくらいだった。

親愛なるミスター・キャラウェイ。このたびのことを知り、私はこの人生においてもっともひどい衝撃を受け、本当のことなのかまったく信じられそうにない思いです。あの男がとったああいう気の狂った行為は、私たちみなに何事かを思わせずにはいられません。重要なビジネスにかかわっており、このたびの事件に巻き込まれるわけにはいかない今現在の私でありますれば、そちらに出向くことはできそうにありません。事後、何か私にできることがありましたら、エドガーに手紙を持たせてこちらにお寄越しください。このようなことを耳にすると、私はまったく打ちのめされてしまい、自分がどこにいるのかさえよくわからなくなってしまいます。

Yours truly

メイヤー・ウルフシェイム

それから、下部に慌てたように書き加えられた補遺ほいがあって、

葬儀などについてお知らせください、家族についてはなにも存じておりません。

午後、電話が鳴って、長距離電話交換局がシカゴからの電話がかかってきていると知らせてきたとき、ぼくはようやくデイジーから連絡がきたか、と思った。けれども、回線を伝って流れてきた声は、男の、細くて遠い声だった。

「もしもし、スラッグルだが……」

「はい?」聞き覚えのない名前だった。

「とんでもない話だぜ、だろ? おれの電報は届いたか?」

「電報などひとつもきておりませんが」

「パークの青二才がしくじりやがってよ」と、男は早口でしゃべりはじめた。「あの証券を窓口に出したとたん、あいつ、捕まっちまった。ニューヨークからやつらのところにナンバーがいったのが5分前ってんだぜ。んなもんわかりっこねえじゃねえか、なあ? まさかこんなど田舎いなかでだな――」

「もしもし!」ぼくは息せき切って割りこんだ。「あのですね――ぼくはミスター・ギャツビーではありません。ミスター・ギャツビーは亡くなりました」

電話の相手は長い沈黙の後、驚きの声を発した……それからがちゃんという音がして、電話は切れた。

**********

ミネソタのとある町からヘンリー C. ギャッツとサインされた電報が届いたのは、たしか、3日めのことだったと思う。送信者はすぐさま出発する、到着まで葬儀を延期されたし、という内容だった。

ギャツビーの父親だった。生真面目そうな老人で、ひどく力を落としてうろたえており、9月のなまぬるい気候の中、ぞろっとした安っぽいアルスター外套がいとうに身を包んでいた。その瞳はずっと興奮を押し隠せずにいて、ぼくがかれのバッグと傘とを預かると、白いものがまじった顎鬚あごひげをひっきりなしにひっぱりはじめたので、コートを脱がせるのは難しいだろうと断念した。いまにも倒れそうなようすだったから、ぼくはかれを音楽室に案内して椅子をすすめ、その一方で、使用人に食事を用意するように言った。けれども食事には手がつけられず、コップの牛乳も震える手からこぼれおちていった。

「シカゴの新聞で見ました」とかれは言った。「シカゴの新聞に全部書いてありましたよ。私はすぐにこちらに向かいました」

「連絡する方法がわかりませんでしたので」

かれの、なにも見るでもない瞳が、絶え間なく部屋中をさまよっていた。

「気違いの仕業だったそうですね。気が違っていたに違いない」

「コーヒーをお持ちしましょうか?」とぼくはすすめた。

「なにもいりません。すっかり大丈夫になりましたから、ミスター・――」

「キャラウェイです」

「そう、私はもうすっかり大丈夫です。ジミーはどこに?」

ぼくはかれをギャツビーが横たわっている客間に連れていき、それから席を外した。どこかの少年たちがステップから広間を覗きこんでいた。ぼくがやってきたのがだれかを教えてやると、しぶしぶ帰っていった。

ややあって、ミスター・ギャッツはドアを開けて出てきた。口はだらしなく開き、やや顔が赤らみ、目からはともに流すもののない孤独でタイミング遅れの涙が溢れていた。かれは、死というものに不気味な驚きを感じるような年齢をとうに越えている。周囲を見まわしたかれの目に、大広間の壮麗さや天井の高さ、次から次へとつながる数々の部屋が飛びこんできて、その嘆きにも、畏敬いけいに似た誇りが入り混じりはじめた。ぼくはかれを2階の寝室に案内した。コートとベストを脱ぐのを見ながら、到着まですべての手配を延期していたと告げる。

「あなたがどうなさりたいか、わかりませんでしたのでね、ミスター・ギャツビー――」

「私はギャッツと申します」

「――ミスター・ギャッツ。かれを西部に連れて帰るのがご希望かなと思いまして」

かれは首を横にふった。

「あれはいつも東部のほうを好んでおりました。身を立てたのも東部ですから。あなたは息子の友人だったのですか、ミスター・――」

「親しい友人でした」

「あれの未来はすばらしいものでしたねえ。まだほんの若造にすぎませんでしたが、ここ、頭脳の力はたいしたものでした」

と言って、かれは自分の頭に手をやって見せた。ぼくはうなずいた。

「もし生きつづけていたとしたら、さぞ偉い男になっていたことでしょう。ジェイムズ J. ヒルのような男に。この国の発展に役に立ったことでしょう」

「たしかに」ぼくは居心地悪く思いながらそう言った。

不器用に手を動かして刺繍ししゅうの入ったシーツをベッドからはがすと、かれは、ぎくしゃくと寝そべった――かと思うと、もう眠りに落ちていた。

その夜、明らかにおびえた人物から電話があり、自分の名前を言う前から、ぼくがだれだか言えと言ってきた。

「キャラウェイと申しますが」

「ああ!」と安堵あんどの声。「クリップスプリンガーです」

ぼくもまた安堵した。というのも、これでギャツビーの墓前に参列する友人がもうひとり増えることになるように思えたからだ。新聞に訃報ふほうをのせて野次馬を引き寄せるのはぼくの望むところではなかったから、少数の人々に一々電話してまわっていたのだ。そしてこれがまたなかなか捕まらない連中ばかりだった。

「葬儀は明日です」とぼくは言った。「3時に、ここの屋敷でやります。きてくれそうな方々への連絡をお願いしますね」

「ああ、わかりました」かれはあわてて答えた。「もちろんぼくはだれにも会わないように思いますが、もしものときはかならず」

その声にぼくは疑いをもった。

「もちろんあなたはおいでになりますよね」

「そうですね、なるべくそうしてみます。ぼくが電話したのは――」

「ちょっと待ってください」とぼくは話をさえぎった。「どうして、くる、と言わないんです?」

「それはですね、実は――ほんとうのところですね、いまぼくはグリーンウィッチにいるんですが、こっちの人たちは明日ぼくを連れだすつもりでいるみたいなんですよ。実際、ピクニックみたいなものじゃないかと思うんです。もちろんぼくはがんばって抜けだしてみるつもりでいますけど」

ぼくは思わず「はん!」と遠慮のない声を漏らしてしまった。それをかれも聞いたに違いなく、神経質な声で話をつづけた。

「ぼくが電話したのはですね、そっちに靴をおいていってしまってることに気づいたからなんです。執事にもってきてもらってもそう手間にはならないと思いまして。ええっと、テニスシューズなんです、あれがなくてちょっと困った感じなんですよ。いまぼくがいる家は、B. F. ――」

ぼくはその名前を最後まで聞かなかった。受話器をもどしたからだ。

その後、ぼくはギャツビーに対して、ある意味、恥ずかしく思った――ぼくが電話をしたある紳士は、自業自得じごうじとくだと言わんばかりの返事を返してきた。といっても、間違っていたのはぼくのほうだ。なぜなら、その紳士はギャツビーの酒の力をかりてギャツビーをてひどくこきおろしていた連中のひとりだったのだから、ぼくも電話などするべきではなかったのだ。

葬儀の朝、ぼくはメイヤー・ウルフシェイムに会うため、ニューヨークに出た。それ以外に、かれと連絡をとる方法を思いつけなかったのだ。エレベーター・ボーイの案内にしたがって、「スワスティカ持株会社ホールディングス」とあるドアを押したところ、最初、中にはだれもいないように見えた。が、ぼくが「すみません」と何度かむなしく叫んでみると、背後のどこかで言い争う声がし、まもなく、きれいなユダヤ人の女が奥の扉から出てきて、黒い瞳に敵意をみなぎらせ、ぼくをじろじろと見た。

「中にはだれもいません」と女は言った。「ミスター・ウルフシェイムはシカゴに行っておられます」この発言の前半は明らかに嘘だった。というのも、奥で調子はずれの口笛くちぶえが『ロザリー』を演りはじめたから。

「キャラウェイがお会いしたがっているとお伝え願えませんか」

「シカゴから連れもどしてこれるわけないでしょう?」このとき、ウルフシェイムに他ならない声で、奥のドアから「ステラ!」という呼びかけがあった。

「そこの机に名刺を置いていってください」と女はあわてて言った。「おもどりになり次第お渡ししておきますので」

「でもかれがそこにいるのはわかってるんですが」

女はぼくのほうに一歩踏み出し、腰に手をあて憤然ふんぜんと立ちふさがった。

「あなたがた若い人たちは、ここにきたときも、いつでも強引にいけばなんとかなるとお思いのようですけどね」と女は叱るように言った。「こっちだってそんなのにはもう慣れっこなんですから。シカゴにいると言えば、シカゴにいるんです」

ぼくはギャツビーの名をだした。

「あ、ああ!」女はふたたびぼくを眺めた。「ちょっと――お名前はなんと言いましたか?」

女は消えうせた。と、メイヤー・ウルフシェイムがしゃちほこばって戸口に立ち、両手を差し出していた。ぼくをオフィスに招じ入れると、真面目くさった声で悲しいことになったと言って、葉巻をぼくに差しだした。

「あいつにはじめて会ったころのことを思い出す」とかれは言った。「軍を除隊じょたいしたての若い少佐でな、軍服の一面に戦争でもらった勲章をはりつけていた。ひどく金に困っていて普通の服も買えず、軍服を着たきりだったのさ。はじめて会ったのは43番街のワインブレナーのビリヤード場でのことだった。仕事の口をさがしてた。もう2日なにも食べていなかったらしい。『一緒に昼でも食おう』とおれは言った。あいつは30分で4ドル以上食ったな」

「で、かれのために仕事を作ったということですか?」とぼくは訊ねた。

「仕事を? 違うね、わしはあいつを作ったのさ」

「なるほど」

「わしはあいつを無から育て上げた。それこそ、どん底からよ。あいつの容貌がいかにも紳士らしい若者だったのにすぐさま気づいた。それでオッグスフォードの出だと聞かされたときは、これは使えると思った。在郷軍人会に加入させてみると、うまく地位を得てくれてな。すぐに、オールバニーのわしのお得意のためにちょっとした仕事をやってくれたもんだ。なんにつけても、わしたちはそういうぐあいに緊密きんみつだった」――かれは2個のボタンを指で摘みあげた――「いつも一緒だった」

ふと、そのパートナーシップの中に1919年のワールド・シリーズ買収も含まれていたのだろうかと思ったりした。

「そのかれが亡くなりました」ぼくはちょっと間をおいてから言った。「もっとも親しい友人として、午後の葬儀にも参列したいとお思いだろうと」

「行きたいと思っている」

「ではおいでください」

鼻毛を少しだけ震わせ、目に涙をためて首を横に振った。

「そういうわけにはいかんのだ――巻きこまれるわけにはいかん」とかれは言った。

「巻きこまれるようなことなどありませんよ。すべて終わりました」

「殺された、となるとな、わしは決してどんな形でも巻きこまれたくないのさ。距離をとることにしている。若いころには違ったんだがな――うちのやつが死んだとなると、どんな事情であれ、最後まで面倒を見てやったもんだ。感傷にすぎんと言うかもしれんが、実際そうさ――最後の最後までな」

かれにはかれなりの理由があってこないと決意しているのだとぼくは見たから、腰を上げた。

「あんたは大学の出で?」とかれは不意に訊ねた。

そのとき、ぼくはかれが「ゴネグション」作りを提案してくる気だと思ったけど、かれはただうなずいてぼくの手をにぎっただけだった。

「ひとつ学ぼうや。友情は相手が生きているうちに示すべきもんで、死んだ後のもんじゃないんだ」とかれは言い出した。「後は、なにもかもそっとしておくというのがわしの決め事でね」

ぼくがかれのオフィスを出たとたん空模様があやしくなり、霧雨の中をウェスト・エッグにもどるはめになった。服を着替えてから隣家におもむくと、ミスター・ギャッツが興奮したようすで大広間を歩き回っていた。息子と息子の財産に対するかれの誇りは時を追うごとに高まっていた。そして、かれはなにかをぼくに見せようとしていた。

「ジミーがこの写真を送ってきたのです」かれは震える指先で札入れを取り出した。

「ごらんなさい」屋敷の写真だった。四隅よすみはいたみ、何度も何度も手に触れられて、汚れていた。その写真の中をひとつひとつ熱心に指差しながらぼくに見せる。

「ごらんなさい!」と言ってから、ぼくの瞳に賞賛の色を探す。この写真をことあるごとに見せびらかしてきたこの父親にとって、いまや、写真のほうが屋敷そのものよりリアルなものとなっていたのだろう。

「ジミーが送ってよこしたのです。とてもきれいな写真だと思いますよ。これを見るとよくわかります……」

「なるほど。最近、かれとの連絡は?」

2年前に私に会いにきて、いま住んでいる家を私に買ってくれました。あれが家を出ていったときはもちろん勘当かんどう同然でしたが、いまにして思えばそれにも理由があったのですな。あれは自分の目の前に大きな未来が開けているのを知っていた。身を立ててからというもの、あれは私にひどく寛容になって……」

かれはその写真をしまうのを拒むように、手に握ったそれをぼくの眼前でいじくりまわした。それから札入れにしまうと、ポケットから、古びたぼろぼろの冊子を取り出した。『ホパロング・キャシディ』という題字が見えた。

「これを。あれが子供のころに持っていた本です。これを見るとよくわかります」

かれは裏表紙うらびょうしを開き、ぼくのほうから読めるよう、さかさまにして差し出した。巻末の白紙のページに、活字体で SCHEDULE と書きこまれており、1906912日付けとなっている。そしてその下に――

起床 6.00 A.M.
ダンベル体操および塀の昇降運動 6.15-6.30
電気他の勉強 7.15-8.15
仕事 8.30-4.30 P.M.
野球などスポーツ 4.30-5.00
雄弁術およびその達成法の訓練、メンタルトレーニング 5.00-6.00
自由研究 7.00-9.00
起床…………………………………… 午前 六:〇〇
ダンベル体操および塀の昇降運動… 〃  六:一五 ~ 午前 六:三〇
電気他の勉強………………………… 〃  七:一五 ~ 〃  八:一五
仕事…………………………………… 午前 八:三〇 ~ 午後 四:三〇
野球などスポーツ…………………… 午後 四:三〇 ~ 〃  五:〇〇
雄弁術およびメンタルトレーニングの実践およびその習得方法の研究……
        …………………… 〃  五:〇〇 ~ 〃  六:〇〇
自由研究……………………………… 〃  七:〇〇 ~ 〃  九:〇〇

決意

「たまたまこの本を見つけましてね」と老人は言った。「どうです、たいしたもんでしょう?」

「たいしたものですね」

「あれは、前へ前へとつきすすむ、そんな運命にあったのですよ。こういう感じの決意やなにやをいつもやっていましたからな。あれが自分の精神をきたえるためにどれほどのことをしていたか、お気づきでしたか? これについては、あれは常にグレイトでした。一度、私をつかまえて豚のように食うと言いおったことがありましてな、ぶったりしたものです」

かれは本を閉じるのを拒むように、項目一つ一つを読み上げ、顔を上げてぼくをじっと見つめた。ぼくがそのリストを自分用に使うために書き写すことを期待していたのだろう。

3時少し前、フラッシングからルーテル派の牧師が到着した。ぼくは、他の車がやってくるのを待ち望みながら窓の外を無意識に目を向けはじめた。ギャツビーの父親もまた同様だった。時間がたち、使用人たちが揃って大広間に立ち並ぶと、父親は心配げにまばたきをしながら、困惑した、くぐもった声音で、雨のことを話した。牧師が何度か自分の時計に目をやっているのを見たぼくは、かれを横に引っ張っていって、あと30分待ってくれるように頼みこんだ。けれどもそれは無駄だった。だれひとりとしてやってきはしなかった。

**********

5時ごろ、ぼくらを乗せた3台の車の列が墓場に到着し、しとしとと降る雨の中、門のそばに停まった――1台目はぞっとするほどに黒く、水に濡れている霊柩車れいきゅうしゃ、それからミスター・ギャッツと牧師とぼくとを乗せたリムジン、それに少し遅れてギャツビーのステーションワゴン。ワゴンには、45人の使用人とウェスト・エッグの郵便集配人が、みなびしょぬれになって乗っていた。ぼくらが順に門をくぐって墓場に入りはじめたところ、1台の車が停まる音につづき、だれかが水たまりを踏み散らす音を立てながらぼくらを追ってきた。ぼくは体ごと振りかえった。それは、ふくろうのような眼鏡をかけたあの男、3ヶ月前の夜のギャツビーの書斎で、ギャツビーの蔵書に驚嘆しているところにぼくと出くわした男だった。

ぼくはあれ以来この男に会っていなかった。どうして葬儀のことを知っていたのかはわからないし、そもそも、ぼくは名前すら知らない。かれの分厚い眼鏡にも雨が降り注いでいた。かれは、ギャツビーの墓から覆いの麻布が巻き取られるのを見ようと、眼鏡を外し、水滴をぬぐった。

ぼくは少しの間ギャツビーのことを考えてみようとしたけれど、かれはすでにもう遠い存在になってしまっていて、デイジーがメッセージも花も送ってこなかったことを、とくにうらめしく思うでもなく、ふと思いだせただけだった。かすかに、「幸いなるかな、死して雨にうたれる者」というだれかのつぶやくような声が聞こえてきた。それに続けて梟眼鏡が、物怖じしていない声で「アーメン」と言った。

ぼくらはもみあうようにして雨の中を車へと急いだ。梟目が門のところで話しかけてきた。

「屋敷のほうには出向けなかった」

「それはみなさんもご同様で」

「なんと!」とかれは驚いて言った。「ひどい話だな! 前は何百と押しかけてきていたというのに」

ふたたび眼鏡を外し、外側も内側もふきなおした。

「かわいそうな野郎だ」

**********

ぼくの記憶のうち、もっとも生き生きとしているもののひとつは、クリスマス休みになって、高校から、後には大学から、西部にもどってきたときのことだ。シカゴよりも遠くに出かける人々は、12月の日、夕刻6時になると、老朽化ろうきゅうかしたユニオン・ステーションの駅舎に集まってくる。シカゴの友人たちも一握りはいるけど、かれらの心はすでに楽しい休暇に飛んでいるものだから、別れの挨拶もあわただしい。ぼくは思い出す。ミス・だれそれのところからもどってきた女の子たちの毛皮のコート、白い息を吐き出しながらのおしゃべり、知人の顔を見つけるたびに頭上でうちふられる手、「オードウェイのところには行く? ハーシーのところには? シュルツのところには?」というふうな招待合戦、ぼくらの手袋をした手に握り締められた細長い緑の切符。おしまいに、クリスマスそのもののような陽気さをたたえて改札の脇の線路にたたずんでいる、シカゴ-ミルウォーキー-セント・ポール方面行きの暗黄色あんおうしょくの列車。

ぼくらが冬の夜に引き出され、本物の雪、ぼくらの雪が、車両の窓の外をきらきらと舞うようになり、小さなウィスコンシン駅のぼやけた光も遠ざかると、鋭い野性的な緊迫感がとつぜん空気に入り混じるようになる。夕食からもどってくる際、ぼくらはデッキでそれを深々と吸いこみ、口に言い表せないほど、この地方とともにあるぼくらのアイデンティティを知覚する。その、奇妙な1時間がすぎると、ぼくらはふたたび、分かちがたいほどに、この世界に溶けこんでしまう。

それがぼくの中西部だった──小麦畑でもなく、大草原でもなく、失われたスウェーデン人の街でもない。青春時代の心弾ませる帰省列車や、寒空の下の街灯とそりの鈴音、ひいらぎのリースが明かりの灯る窓から雪の上に落とす影。ぼくはそのひとかけらだ。ぼくは、ああいう長い冬に気分を通じるちっぽけな頑固者であり、幾世代にもわたって住人たちが個々の屋敷をファミリーネームで呼び合ってきたような街のキャラウェイ邸で育ったことをよしとするちっぽけな自己満足漢なのだ。結局、いまにしてみればこれは西部の物語なのだ――トムもギャツビーもデイジーもジョーダンもぼくも、みな西部人なのだから。そしてぼくらは、東部での暮らしにどこか適合できない、共通の欠点を抱えていたのだと思う。

ぼくが東部にいちばん心をふるい立たせていたときさえも、退屈で活気もなくぶざまに膨れ上がった、子供と極端な老人を除き際限さいげんのないさぐりあいがつづくオハイオ以西の街々を凌駕りょうがする東部のよさをいちばんはっきりと知覚していたときでさえも――その当時であってさえも、ぼくの目にはいつも、東部が抱えていた何かしらのゆがみが映っていた。とりわけウェスト・エッグは、奇想天外きそうてんがいな夢想以上のリアルさをもって、今もぼくにせまってくる。エル・グレコが描きそうな一夜の情景が見える。百の家々が、古臭さと不気味さを兼ね備えつつ、陰鬱いんうつにのしかかる空と光の冴えない月の下に、うずくまるような格好で並んでいる。前景では、4人の着飾った男たちが、担架たんかを抱え、歩道を歩いていく。担架の上に横たわるのは、白いイブニング・ドレスを着ている酔いつぶれた女。片手がだらりと担架からはみだし、そこから宝飾品が冷たいきらめきを放つ。大真面目なようすで男たちは一軒の家に向かう──お門違かどちがいの家に。けれどもだれひとりとしてその女の名を知らず、だれひとりとして気にかけてなどいない。

ギャツビーの死後、東部はそういう具合にぼくを悩ますようになった。ぼくの瞳が持つ矯正きょうせいの力を超えた歪みを見せはじめたのだ。だから、落ち葉が青白い煙を宙にたなびかせ、風が吹いては湿った洗濯物をロープに並べられたままこちこちに凍らせてしまうようになると、ぼくは故郷に帰ろうと決心した。

東部を発つ前にやらなければならないことがひとつあった。気の進まないことで、ひょっとしたらそのままほったらかしにしておいたほうがよかったのかもしれない。でもぼくは発つにあたってけじめをつけておきたかったし、あの親切で無関心な海がぼくからの拒絶を洗い流してくれるのに頼りきるのは嫌だった。ぼくはジョーダン・ベイカーに会い、お互いの身に起きたことを話し、それからあの後ぼくの身に起こったことを話した。彼女は大きな椅子にもたれかかり、身じろぎもせずにぼくの話を聞いていた。

ゴルフウェアを着た彼女の姿を、よくできたイラストのように思ったのを覚えている。やや快活にそらされたあご、銀杏いちょう色の髪、膝の上に置かれた指なし手袋と同じ茶系色の顔。ぼくが話し終えると、ジョーダンは、別の男と婚約したとただ事実だけを告げた。ぼくはそれが本当かどうか疑わしく思った。うなずいてみせるだけで結婚に持ちこめる相手が何人かいたにしてもだ。とにかくぼくは驚いたふりをした。すこしの間ぼくは間違ったことをしているのではないかと思い、もう一度すべてをすばやく再検討し、そして別れを告げるために立ちあがった。

「でも結局あなたがわたしを捨てたのよ」とジョーダンがとつぜん口を開いた。「あの電話で、あなたはわたしを捨てたのよ。それを恨んでるわけじゃないの、ただ私にとってははじめての経験だったから、しばらくは呆然としちゃった」

ぼくらは握手した。

「そうだ、覚えてる? わたしたちが車で話したこと」

「ん――いや、正確には」

「下手な運転手でも、もうひとりの下手な運転手に会うまでは安全だって、そんな話をしたじゃない? それで、わたしはもうひとりの下手な運転手に出くわしちゃったってわけ。ね? つまり、とんでもない思い違いをしちゃったのは全部わたしの不注意のせいだったってこと。わたしね、あなたのこと正直でまっすぐな人だと思ってた。それがあなたの胸に秘めたプライドだと思ってたんだ」

「ぼくはもう30だぜ。あと5つ若ければ、自分に嘘をついてそれを誇りとしたかもしれないけれど」

答えはなかった。ぼくは腹をたて、なかばいとおしく想い、そして心の底から申し訳なく感じながら、きびすをかえした。

**********

10月のある夕暮れどき、5番街でトム・ブキャナンに出会った。かれはぼくの先を、いつもと同じきびきびした突っかかるような姿勢で歩いていた。まるで邪魔者を払いのけようとするかのように肩をいからせ、頭をきびきびと動かしながら、落ちつきなくあたりに目を配っている。追いついてしまわないよう歩みをゆるめると、かれは立ち止まり、眉をしかめながら宝石店のショーウィンドウをのぞきこんだ。そして不意にふりかえり、手を差し出しながらぼくのところにやってきた。

「何かあったのか、ニック? おれと握手するのが嫌なのか?」

「そうだ。ぼくがきみのことをどう思っているか、分かってるだろう」

「どうかしてるぜ、ニック」かれは間髪かんぱつをいれず言った。「ほんとうにどうかしてる。いったい何があったってのか、さっぱり分からんね」

「トム」ぼくはなじるように言った。「あの日の午後、ウィルソンに何を言ったんだ?」

かれは一言もいわずにぼくをにらんでいた。それで分かった。ぼくはあの空白の数時間について、正しく見当をつけていたのだ。ぼくがきびすをかえすと、トムは一歩足を踏み出し、後ろからぼくの腕をつかんだ。

「真相を教えてやったんだよ、あいつに。あいつ、おれたちが 2階で出かける準備をしてるところにやってきて、留守だと伝えさせたら、力ずくで階段をあがってこようとしたんだ。すっかりどうかしちまってておれを殺さんばかりの勢いだったから、しかたなくあの車の持ち主を教えてやった。うちにいる間ずっとポケットの拳銃から手を離さないんだぞ」ここでかれは反抗的に言葉を切った。「で、教えてやったからどうだってんだ? あの野郎が自分でいた種じゃないか。おまえもデイジーみたいに目くらましを食らってしまったようだが、あいつは実際ひどい人間だぜ。マートルを犬ころみたいにはねとばしやがって、しかも停まろうとしなかったんだからな」

ぼくからは何も言うことができなかった。いや、ひとつだけ言えるとすればそれは真相じゃないということだが、その事実を口外こうがいするわけにはいかなかった。

「それに、もしおれだけがぜんぜん平気でいるんだなんて思ってんのなら――いいか、あの部屋を引き払いに行って、サイドボードの上に犬用ビスケットの缶のやつがのっかってるのを見たときなんか、おれも赤ん坊みたいに座りこんで泣いちまったんだぜ。まったく、やりきれなかった――」

かれを許す気にも、好きにもなれなかった。だが、かれがやったことは、かれにとっては、全面的に正当なものだったわけだ。なにもかもがとても不注意で、とても混乱していた。不注意な人々、トムとデイジー――物も命も粉々に打ち砕いておいて、さっさと身を引き、金だか底無しの不注意さだか、とにかく2人を結びつけているものの中にたてこもった。そして、自分たちが生み出した残骸スクラップの後始末を他人におしつける……

ぼくはかれの手を握った。そうしないのが馬鹿らしく思えた。というのは、突然、まるで自分が子供と話しているような気がしてきたからだ。それからかれは真珠しんじゅの首飾りを――いや、ただのカフスボタンだったかもしれないけれど――求めて宝石店に入って行き、ぼくという狭量きょうりょう堅物かたぶつの前から去って、二度と姿を見せなかった。

**********

ギャツビーの屋敷はぼくが越していくときも空家のままだった――芝生は、ぼくのところの芝生と変わらないくらい伸びていた。村のタクシー運転手のひとりは運賃も取らずにギャツビー邸の門前まで車を走らせ、停まることなく内部を指で示したりしていた。ひょっとしたら、かれこそがあの事故の夜にデイジーとギャツビーをイースト・エッグに運んだ運転手なのかもしれない。そしてひょっとしたら、それにまつわる物語を自分勝手にこしらえていたりしたのかもしれない。ぼくはそれを聞きたくなかった。列車から降りるときはかれのタクシーに乗りあわせないようにした。

土曜の夜は決まってニューヨークで過ごした。さもないと、かれの絢爛けんらんなパーティーはとても生き生きとぼくの胸に刻みこまれていたから、いまだぼくの耳には、かれの庭からかすかながらも消えることのない音楽や笑い声が、かれの私道からは自動車が出入りする騒音が、聞こえてきたのだ。ある晩、ぼくは1台の本物の車が屋敷までやってきて、その灯りが門前で停まったのを、ほんとうに見た。だけどぼくは詮索せんさくしなかった。たぶん、それは最後のゲストで、地の果てにでもいたせいでパーティーが終わったことをご存じなかったのだろう。

最後の晩、トランクもパックし終わり、車も雑貨店に売り払った後、ぼくは矛盾むじゅんの果てに敗北した屋敷をもう一度見ようと表に出た。白いステップの上に、どこかの子供が煉瓦れんがで書きつけたのだろう、けしからぬ言葉が月光の下はっきりと照らしだされていた。ぼくはそこの石材を靴でごしごし踏みにじり、それを消した。それからふらりとビーチに下り、砂浜に大の字になった。

広大なビーチの大部分はいまや閉鎖されてしまい、ひどく薄暗かった。明かりといえばただ、海峡を渡るフェリーの留まることを知らない光があるだけ。月が高く高く昇るにつれ、無用の館は溶けはじめ、やがてぼくはこの島のかつての姿を徐々に意識するようになった。オランダの船乗ふなのりたちの目には、この島が、緑鮮やかな新たな陸地として花開いただろう。いまはない木立、ギャツビーの屋敷に場所をゆずった木立が、そのとき、あらゆる人類の夢のうち最後にして最大の夢を歌いさざめいた。魔法が解けるまでの束の間、男はこの大陸の存在を前に息をすることも忘れ、理解も望みもしない詩的考察を強いられたに違いない。それは人類が、胸が高鳴れば高鳴るほどに大きくなってゆく何物かと対面した、史上最後の瞬間だった。

ぼくは体を起こして、その遠い、知る由もない世界に思いを馳せた。そしてぼくはギャツビーのことを考えた。ギャツビーは、デイジーの屋敷の桟橋さんばしの先端にあった緑色の光をはじめて見つけたとき、どれほど胸を高鳴らせただろう。長い旅路を経てこの青い芝生にやってきたかれには、自分の夢がつかみそこないようのないほど近くにあるように思えたに違いない。かれは、それがとうに過去のものになったことを知らなかった。それがあるべきところは、あの都市が茫漠ぼうばくとして形もなかったいつかのどこか、この共和国がいまだ夜のとばりの下にうねり広がっていたころの闇深やみぶかき原野だったのだ。

ギャツビーは信じていた。あの緑色の光を、年々ぼくらから遠ざかっていく、うっとりするような未来を。あのときはぼくらの手をすりぬけていったけれど、大丈夫――明日のぼくらはもっと速く走り、もっと遠くまで腕を伸ばす……そしていつかきっと夜明けの光を浴びながら――

だからぼくらは流れにさからい、止むことなく過去へと押し流されながらも、力をふりしぼり、漕いでゆく。


原題
The Great Gatsby (1926) [1925]
邦題
グレイト・ギャツビー, グレート・ギャツビー, 偉大なギャツビー, 華麗なるギャツビー
翻訳者
枯葉
ライセンス
クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンス
公開日
2001年11月23日
最終修正日
2015年5月24日
URL
Egoistic Romanticist: https://kareha.sakura.ne.jp/trans/html/great_gatsby,_the.html
特記事項
青空文庫登録テキスト(作品ID:4831)。
プロジェクト杉田玄白正式参加テキスト。