崩壊

原題
The Crack-up
作者
F・スコット・フィッツジェラルド
作者(英語表記)
F. Scott Fitzgerald
翻訳者
枯葉

崩壊

もちろん人生というものはこれすべて壊れていくその過程なのだけど、その中で劇的な役割を果たす打撃――外部からやってくる、あるいは外部からやってくるように思える不意の大打撃――つまり、そのときのショックを覚えておいて、後になってからぼやいたり、心弱くなったときに友だちに話したりする類の打撃は、ただちに致命傷になるわけではない。打撃にはもうひとつ、内部からやってくるものがある――なにをするにも手遅れになるまで感じられない、もう二度とまっとうな人間にはもどれないと完璧に悟らされてしまうような打撃が。最初に挙げたダメージはすぐにあらわれる――第二のダメージは、ダメージを負ったことを本人でさえほとんど知りえないけれど、ある日まさにとつぜんそれに気づかされる。

このささやかな昔話を先に進める前に、まず一般論を述べさせてもらいたい――第一級の知性とは、精神に一対の対立しあう考え方を保持し、それでいてその機能を失わずにいられるものを謂う。たとえば、ものごとに希望を見いださないでいながら、ものごとを希望ある方向に変えようと心したりとか。この哲学は、はじまったばかりの大人としての人生――ありえそうにないこと、信じがたいこと、ときに「ありえない」ことさえが現実になったころ――そうした人生にはふさわしいものだった。もしあなたになんらかの特技があれば、あなたは人生を支配できるはずだ。人生は知性と努力、あるいは両者の均整の前に、たやすく屈する。成功に満ちた文筆家とは一見ロマンティックな稼業のように思える――ムービースターほどには顔が売れることはないけれど、その名前はたぶんずっと後にまで残る――政治家や宗教家ほどの力を手にすることはないけれど、かれらに比べればある程度他に依存しないですむ。もちろん人間は自分の稼業にいつまでも不満を抱えるものではある――それでも、ぼくに他の職業を選ぶつもりは毛頭なかった。

20年代が進行につれ、とくにぼくの20代は年代に少し遅れる形で進行したのだけど、それにつれて、自分の若いころの悔恨の種――大学でフットボールがプレイできるほどに体が大きくなかった(あるいは、うまくなかった)こと、それから、戦争で海外に出征しなかったこと――は、子どもじみた空想の世界へと解消され、眠れない夜でも、英雄になった自分の姿を空想に弄べば、いつしか眠りに落ちることができた。人生において、重大な問題は時間が解決してくれるように思えた。それにもし問題に修正を加えるのが困難だったとしたら、疲れのあまりもっと一般的な問題を考えられなくなってしまっていただろう。

10年前、人生は主として個人的な問題だった。努力を無益と感じ、しかし奮闘の必要性を感じながら、バランスをとらなければならなかった。敗残の道を避けられないという確信、それでも抱く「成功」への志――そしてそれ以上に、現在に対する過去の圧迫感と将来への激しい情熱との矛盾。もしぼくがこれらのバランスを、ありきたりの患いごと――家庭的なもの、職業的なもの、個人的なもの――に冒されながらもとりつづけることができていたなら、自意識は、やがて重力によって大地に叩きつけられないかぎり、無から無へと飛ぶ矢のように走りつづけたことだろう。

17年間、故意の放蕩と迂遠な暮らしに費やした1年を含め――新たに発生した嫌な仕事と、明日への希望のみとともに、ものごとはそういう具合に進行していった。つらい毎日でもあった、けれども、「49までは大丈夫」とぼくは言った。「それくらいは期待してもいいだろう。こんな生き方をしている人間だからな、それ以上を求めるのは無理さ」

――そしてふと気がつくと、4910年も前にして、ぼくは早くも崩壊してしまっていた。

II

ところで、人間はさまざまに崩壊する。頭が崩壊することもある――このケースでは、決定権があなたの手をはなれ、他人に委ねられる! または体が崩壊した場合、決定権は失われないが、白い病室のみをその世界としなければならない。あるいは神経もまた崩壊する。とある同情に値しない本に登場するウィリアム・シーブルックは、多少の自負心をこめ、映画のエンディングさながらにどのようにして自分が社会の負担になっていったかを語っている。かれをアルコール中毒に導いたもの、というか、かれをアルコール中毒の運命に縛りつけたもの、それはかれの神経体系の衰弱だった。このわたくしはそれほどまでに溺れているわけではないけれど――ここ6ヶ月というもの、ビール一杯以上のアルコールを口にしていない――かれの場合、崩れ落ちたのは神経の反射作用だった――とめどもない怒りととめどもない涙。

その上、人生は波状攻撃にさらされているというぼくの理論に話をもどせば、崩壊は打撃と同時に認識されるわけではなく、認識までの間に猶予期間がもうけられているのだ。

それほど前の話ではないが、ぼくはある名高い医者の診療室で、椅子に座り、重々しい宣告に耳を傾けていた。思い起こせば平静とも見える態度で、当時自分が暮らしていた町での毎日を送っていた。投げやりで、やりのこしたことがどれほど残っているかを考えることもなく、あれやこれやのつけの結果がどうなるかも考えなかった。ちょうど、小説中の人物のように。ぼくには十分保険がかけられていたし、いずれにせよ、ぼくは自分のことの大部分については、自分の才能についてさえも、二流どころのケアテイカーでしかなかった。

だがぼくはその当時、ひとりでいなければならないという、強い不意の衝動を覚えていた。だれにもまったく会いたくなかった。これまで生きてきて、あまりにも多くの人々に会いすぎた――ぼくは社交家としては月並みだったけれど、自己や自分の考え、自分の運命について、さまざまな階級の人間と結びつけて考えてみる傾向があった。ぼくはつねに救い、救われてきた――ワーテルローにおけるウェリントンに帰すべき感情を抱いた朝もあった。ぼくのまわりには不可解な敵、不可譲の友と支えがつねにあった。

だがそのときのぼくは絶対的な孤独を欲し、だから日常的な面倒から隔離されたある種の環境を整えることにした。

それは不幸せな時間ではなかった。ぼくが出向いた遠く離れた場所では人の数もずっと少なかった。自分がすさまじく疲れていることを知った。嬉しかったのは、そこら辺に寝そべって、日に20時間も眠ったりまどろんだりしていてかまわなかったことだ。その合間には強いて何も考えないように務めた――その代わりにリストを作りまくった――作っては引き裂いた、何百ものリスト。騎兵隊長やフットボール選手に都市のリスト、流行歌とピッチャーのリスト、幸せだった時のリスト、趣味、住んだ家、それから軍隊を出て以来購入してきたスーツと靴のリスト(ただし、ソレントで買ったものの縮んでしまったスーツと、何年も持ち歩いておきながら、湿気にやられてしまったパンプス、黄ばみ、糊が悪くなったドレスシャツとカラーは、一度も身につけたことがないわけだし勘定に入れなかった)。それから、ぼくが好意を寄せた女性のリストに、人格的にも能力的にもぼくに劣る連中から馬鹿にされた瞬間のリスト。

――するととつぜん、驚いたことにぼくはよくなった。

――そしてそれと知ったとたん、古い皿のように割れ飛んだ。

あれが、この物語の本当の終着点だ。それについてなにがなされるべきだったかといえば、いわゆる「時の母胎」にくるまれて休めということになるだろう。こう言えばこと足りると思う、枕を抱いての1時間を過ごした後、ぼくは、この2年間が生の画材の上に描かれたラフスケッチにすぎなかったこと、自分が肉体的にも精神的にも骨の髄まで抵当に入っていたということを認識しはじめた。それと対照的に、人生が投げかえしてくれた小さな贈り物は、いったいなんだったというのか? ――かつては、自分の指針に誇りを持ち、独立性を失わないという自信があったのに。

ぼくはこの2年というもの、何かを守ろうとして――内的沈静か、あるいはそうでないかもしれないが――ぼくがかつて愛したものごとすべてから遠ざかっていたのに気がついた――朝の歯磨きから、友人を迎えてのディナーに至る日常茶飯事のすべてが、骨の折れる行為になっていた。長い間ずっとぼくは人間や物事が好きではなく、ただ好きであるような苦しい演技をしていただけだと気づいた。自分と近しいものへの愛情さえも恣意的な愛情にすぎなくなったのに気づき、さほど親しくはない関係――編集者、煙草屋の店番、友人の子どもといった相手に対しては、ぼくがそうすべきと覚えこまされた、いつの日かの惰性でつきあっているにすぎなかった。同じころ、ラジオの音だとか、雑誌の広告だとか、トラックのブレーキ音だとか、片田舎の死んだような静寂といったものに対して苛立ちを覚えるようになり――人間的優しさを馬鹿にし――眠れないときは夜を嫌い、やがて夜になるからというので昼を嫌った。ぼくは心臓を下にして眠るようになっていた。というのも、心臓が疲れれば疲れるほど、ぼくが新しい日をよりよく迎えるのをカタルシスのように可能にする祝福された時間というか悪夢の時間が、小なりとはいえより早くやってくるのだから。

ぼくがまじまじ見つめることができた、特定の場所、特定の顔があった。大部分の中西部人同様、ぼくも人種的、民族的な偏見をはっきりとは持たない――セント・ポールのポーチに座っていたスカンジナビア系の美しいブロンドにずっと密かにあこがれていたが、そのころの社交界に顔を出すのに十分な経済力がなかった。「町娘」であるにはあまりにも育ちのよい女の子たちであり、陽のあたる場所に出るにはあまりにも性急に農地を手放してしまう、そんな生まれの女の子たちだったけれど、ぼくは、輝く髪を垣間見ようと、何ブロックも歩き回っていた記憶がある――とある、名前を知ることもなかった女の子をめぐる、陽気な衝撃。これは都会的な、非一般的な話だ。後年ぼくは、実のところ、いろいろな視点に我慢できなくなった。ケルト系民族の視点、イギリス人の視点、政治家の視点、異邦人の視点、バージニア人の視点、黒人の視点(明暗ともに)、狩猟会員たちの視点、あるいは小売店の店員、それから中年男性全般、あらゆるもの書きたち(ぼくはもの書きたちをきわめて注意深く避けたけれど、それはかれらが他の誰にも真似できないほど次から次へと問題を起こしてくれるからだ)――そして、あらゆる階層という階層、階層の構成員としての個人の大部分の……。

なにかにすがりつこうとして、ぼくは医者たちをひいきにし、上は13までの女の子たちをひいきにし、育ちのよい8才くらいからの男の子たちをひいきにした。こういった狭いカテゴリーの人たちといるときにだけ、ぼくは安寧と幸福と感じることができた。書き落とすところだったが、ぼくは老人たちもひいきにした――70才以上、顔つきがひなびている場合は60才以上の老人たちを。スクリーンに映し出されるキャサリーン・ヘップバーンの顔も、自惚れ屋さんらしいという噂もどこ吹く風でひいきにしたし、ミリアム・ホプキンスの顔もひいきにしたし、付き合いの長い友人たちも、会うのが1年に1度でぼくのほうでもかれらの面影を思い出せる相手なら、ひいきにした。

どれも非人間的で不健康な話じゃないか? ねえみなさん、これはまさに崩壊開始のその兆候なのです。

きれいな絵ではない。それは不可抗力にしたがって枠にはめられたままあちこち運びまわされ、あちらこちらの都市でさまざまな人たちから非難を浴びてきた。そのなかの一人に、他の人間の生き方を死んでいるように思わせるような生き方をしているとしか言いようのない女性がいた――お節介焼きという、心を動かさせるもののない平凡な役柄を割り振られたいまこの時ですら、そうだった。これで話はお終いですとするかわりに、追伸みたいな形でぼくらの会話を添えさせていただきたい。

「自分に同情するくらいなら、いいですか」と彼女は言った。(彼女は口癖のように「いいですか」と言う。なぜなら、彼女は話をしながら考えるからだ――本当に考えているのだ。)とにかくこう言った。「いいですか。崩壊はあなたの中にあるんじゃないと考えてごらんなさい――それがグランド・キャニオンのどこかにあるとして」

「崩壊はぼくの中にあるんだよ」とぼくは英雄気取りで言った。

「いいですか! 世界はただあなたの瞳の中にだけあるの――あなたが世界をどう見てるかという問題なのよ。世界はあなたの気持ち次第で大きくも小さくもなる。あなたはちっぽけで弱々しい自分であろうとしているの。そうね、もしわたしが崩壊したことがあったとしたら、世界もわたしにならって崩壊させてやろうとしたでしょうね。いいですか! 世界はあなたの捕らえ方を通してのみ存在するんです。だから、崩壊したのはあなたじゃない――グランド・キャニオンのほうよ」

「きみはスピノザを鵜呑みにするのかい?」

「スピノザなんてこれっぽっちも知りません。わたしが知ってるのは――」と言って、彼女は長らく抱えていた迷いや悩みについて語った。話に聞くかぎりではぼくの迷いや悩みよりも深刻そうに思えたそれを、彼女がいかに見つめ、乗り越え、克服したかを語った。

彼女の言葉にある種の反発も感じたけれど、ぼくはもともと考えをまとめるのが遅いたちだし、しかもそのときのぼくは話を聞きながら、あらゆる性質のうち、バイタリティーはやりとりが不可能なのではないかという思いつきで頭がいっぱいだった。エネルギーが義務を伴わない品物として向こうからやってきていた日々の人間はそれを配ってまわろうとした――が、いつだってうまくいかなかった。さらに言葉遊びを弄すれば、バイタリティーはけっして「獲得」できない。それは持っているか持っていないかの問題で、健康とか、茶色の瞳とか、名誉とか、バリトンの声とかと同じのことなのだ。それを、手際よく包装されて調理にも消化にも手間のかからない形で彼女から貰おうとしたところで、結局は貰えなかったことだろう――自己憐憫の托鉢を掲げて千時間と待ちつづけても無駄に終わったことだろうと思う。ぼくは、壊れた陶器を扱うように自分を支えながら、どうにか戸口に向かい、世間という過酷な場所へ、まにあわせの材料で自分の帰るところを作り上げようとしていた場所へと足を踏み出した――そして彼女の住まいを出てから、ぼくは自分に向けてある聖句をつぶやいた。

「あなた方は地の塩だ。だが、塩がその風味を失うなら、何によって塩づけられるだろう?」
マタイによる福音書5:13

貼り合せ

前稿で筆者は、目の前にある皿が40代にそなえて注文しておいた料理と違っていることに、いかにして気づいたかを話した。実際のところ――筆者とその皿とは同一なのだから、著者は自分のことを割れた皿、とっておく意味があるかどうか怪しみたくなるような皿だ、と表現した。編集者は、この原稿があまりに多くの思いつきレベルの要素をふくみすぎている、と思ったし、たぶん、読者の感想もそんなところだろう――そして、“不屈の魂”を神に感謝する、という形で結ばれないかぎり、あらゆる自己啓示を軽蔑する人は、どこにでもいるものだ。

だけど、ぼくはずっとずっと神に感謝してきた。なにはなくても感謝してきた。華をそえてくれるエウガニアの丘を背景にできなくとも、ぼくは悲嘆を記録に残したかった。ぼくの目には、エウガニアの丘が一切見えなかった。

といっても、割れた皿も食器棚に保管され、家事に一役かうことだってある。コンロで加熱したり、他の皿と一緒に洗ったりするわけにはいかない。友達の前に出すわけにもいかないけれど、夜食のクラッカーを盛ったり、残り物をのせて冷蔵庫にしまったりするのはかまわない……

そこでこうして続きを書くことにした――割れた皿のそれからのお話だ。

さて、うち沈んだときの治療法としてスタンダードなものは、貧困や病気に苦しむ本物の人間のことを考えることだ――これは鬱全般に対する特効薬であり、昼なら、多少天気が悪かろうが、どんな人にでも至福を与える。けれど、午前3時になると、忘れてきた荷物も死の宣告と同じくらい悲劇的重要性をもつようになり、手当ての甲斐もなくなる――そして魂の暗夜では、くる日もくる日も、時刻はいつも午前3時なのだ。その刻限には、子どもじみた夢に逃げることで、現実と直面するのを可能なかぎり先送りしようとすることが多い――が、俗世とのさまざまな接触に、絶えず起こされる。これらの事態を、できるだけ手早く、できるだけ無造作にさばいて、物質的・精神的大変革によってものごとがおのずと改善されるのを期待しながら、いまひとたび夢の世界に逃げこむ。しかし、こうした逃避をくりかえすほどに変革のチャンスは失われていき――ひとつの悲しみが消え果てるのを待つどころか、自己の解体という処刑にいやいやながらにたちあわされるはめになる。

狂気やドラッグや酒にでも走らないかぎり、この道は結局のところ袋小路で、空虚な静寂へと進む。ここで、みなさんは、何が失われ、何が残されたかを見極めることができるだろう。ぼくの場合、この静寂の中ではじめて、同じことを2回も経験してきたことに気がついた。

初回は20年前、プリンストンの3年生だったときのことで、このときぼくはマラリア罹患を告知され、大学を離れた。10年ほど後にレントゲンを撮ってもらったら、それが結核だったとわかってすっきりした――症状は軽く、ほんの何ヶ月か休んだあと復学した。しかし、トライアングル・クラブの部長をはじめとするいくつかの地位とミュージカル・コメディーの構想を失い、留年もした。大学生活はもう以前のようにはいかなかった。名誉のバッジも、数々のメダルも、結局は無縁になってしまった。3月のある日、ぼくは欲しかったものがすべて失われたように思った――その日の夜、はじめてぼくは女性の影を追い、しばらくの間は、他のことがすべてどうでもよく思えた。

数年経って、大学で大物になりそこねたのはよいことだったと気づいた――委員を務める代わりに、英詩にとりくんだ。英詩とはなにかという概念をつかむと、書き方を学んだ。ショーの信条にしたがえば「欲しいものが手に入らないのならば、手に入るものを欲しがるに越したことはない」のだから、あれはかっこうの息抜きだったと思う――あの頃は、自分がみんなのリーダーになる資格を失ったのを認めるのは、つらく、苦しい仕事だった。

爾来、ぼくは使えない従業員を解雇できたためしがなく、それができる人を見ると仰天し、感動してしまう。他人を支配しようという昔の欲望は壊れ、消滅した。毎日の暮らしはぼくにとって形ある夢であり、ぼくは違う街に住む女の子に手紙を書いて毎日を送った。男というものはこの手の衝撃から立ち直ることがない――かれは違う人間に変わり、やがて、新しい人間として新しい関心事を見つける。

いまのぼくの状況とおなじ場面がもうひとつ、戦争の後に訪れた。また背伸びしすぎていたのだ。経済的事情から破局を迎えるおきまりの悲恋で、ある日、彼女が常識に基づいて関係を終わらせた。長い絶望の夏を、手紙の代わりに小説を書いて過ごし、結果それでよかったわけだが、別の人にとってもそれでよかった。彼女と結婚したポケット一杯に銭を蓄えた男は、常に、有閑階級に対する根強い不信感、敵意を抱いていた――革命家の信念なんてものではなく、農夫のくすぶった憎悪だ。それ以来、ぼくの友人たちの金はどこから湧いて出てきているのかと不思議に思わずにはいられなくなり、いつかぼくの恋人に対して“領主の特権”が行使されるのではないかと考えるのを押しとどめきれなくなった。

16年間、ぼくはまさに前述のような気持ちで生きてきた。金持ちを軽蔑し、それでいて金のために働き、その金でもって一部の金持ちにみられた身の軽さや雅さをかれらと分かち合おうとした。この時期に何頭もの馬を買った――まだ名前を言えるものも何頭かいる――“穴の空いたプライド”“断ち切られた望み”“不実”“目立ちたがり”“痛恨の一撃”“二度とふたたび”。ややあってぼくは25になり、やがて35になったけれど、何一つとしてたいしてよくはならなかった。とはいえこの時期、一度も挫折したりはしなかった。誠実な男たちが絶望的な憂鬱にとりつかれるのを見た――諦めて死ぬものもいたし、うまく自分との折り合いをつけてぼくよりもっと大きな成功をおさめたものもいる。ぼくのモラルが、見るにたえないことをやってきたものだという自嘲のレベルよりも低下することはまったくなかった。トラブルがかならずしも挫折につながるわけではない――挫折の原因は挫折の原因であって、関節炎と関節不随とが異なるように、トラブルとは異なるものなのだ。

去年の春に太陽が空から消えたとき、最初、ぼくはそれが15年前か、あるいは20年前に起きたものと関連付けようとはしなかった。だんだんと、ある種の同族的類似性が見えてきたにすぎない――背伸びのしすぎ、蝋燭の両端への灯火。銀行から残高以上の金をおろそうとするような、意に反する体力の使役。衝撃は以前の2者よりも暴猛だったが、同じ種類のものだった――黄昏の射撃場に立つようなものだ。手ににぎったライフルは空、的も片付けられている。問題はなにもない――自分が呼吸する音以外になにも聞こえない静寂が広がっているだけ。

この静寂には、義務というものに対するすさまじい不信、ぼくの全価値観の減退が待ちかまえていた。秩序を情熱的に信仰し、動機や結果は軽視すべきものであり、技術と勤勉はどんな世界でも通用する――こうした信念の数々が、ひとつひとつ、消え去っていった。小説とは、ぼくが円熟期にあったころには、一個の人間から他の人間に思想や感情を伝えるのにもっとも強靭な媒体だった。それがやがて、ハリウッドの商人やロシアの理想屋の手によって、新鮮味のかけらもない思想や、明々白々な感情ぐらいしか盛りこめない、多数相手の機械的手段に従属するようになってしまった。そこでは言葉は映像に従属し、個性はコラボレーションという低級なギアにもまれて摩滅せざるをえない。ぼくは1930年あたりから、トーキーは、ベストセラー作家たちでさえをも、無声映画とおなじくらい古くさいものにしてしまうだろうという予感を覚えている。本はまだ読まれている、キャンディー教授が選ぶ今月の1冊ならば――好奇心の強い子どもたちはドラッグストアの書籍コーナーでミスター・ティファニー・セイヤーの下品な本に熱中する――いや、屈折したくもなるじゃないか、文章というものの力が他の力、粉飾まみれの力や野卑な力に従属しているのを見せつけられるのでは、いやになるほど冷遇されているものだと……

では、その長い夜にぼくを苦しめつづけたものについて書こう――小さな店がチェーンストアのせいで立ちゆかなくなってしまうように、受け入れることもはねつけることも不可能だったもの、ぼくの努力すべてを無益にする傾向があるもの、外部からの暴力、けして打ち払うことのできないもの――

(なんだか、卓上の時計で残り時間を確認しながらの講演をやっているような気分がしてきた――)

さて、ぼくが例の静寂の時をむかえたとき、自発的に採用したがる者などいそうにもない手を用いることを強いられた:ぼくは否応なく考えさせられた。いやはや、それは困難なことだった! 大いなる秘密のつまった鞄のまわりをうろつきまわった。最初に足を止めたとき、ぼくは、自分がものを考えたことがあったのかどうか、疑問に思った。長考の末、ぼくは結論に達した。それをいま書き並べてみよう:

(1) ぼくは、小説家としての技術以外の問題について、ほとんどなにも考えてこなかった。20年にわたって、ぼくの知的良心はある男のそれだった。その男とは、エドマンド・ウィルソンだ。

(2) 「よい生き方」とは、という観点については、もう一人の男の主張によっていた。といっても、この男とは10年ほど前に1度会ったきりだが。そのときからずっとかれのことは心に残っている。このノースウエストの毛皮商は、ここに名前を挙げられるのをこころよしとしないだろう。でも、さまざまな場面で、ぼくは、かれならどう考え、どう行動するだろうかと考えてみたものだった。

(3) 同世代にあたる3人めの男は、ぼくにとって芸術的良心だった――かれがまだ何も発表していないうちからぼくは自分の文体を確立していたから、かれの伝染性の強い文体を真似たことはなかったけれど、かれの世界には強く引きつけられるものがあった。

(4) 4の男は、うまく人と付き合えたときの指針となっていた。どうふるまい、何を言うべきか。どうすれば他人を一時的にであれ喜ばせることができるか(体系化された野卑さなどで他人を相当不快にするミセス・ポストの理論の対極に位置する)。これはぼくを常に混乱させるものだったけれど、この男はゲームを見つめつづけ、分析し、勝利した。かれの言葉は、ぼくにとってはじゅうぶんありがたいものだった。

(5) ぼくの政治的良心というものは、10年もの間、胸の奥にしまいこまれた皮肉の一要素として以外に存在していなかった。ぼくが生きているこの社会についての関心を甦らせ、熱気と新鮮さの入り混じった風をぼくに送りこんできたのは、ぼくよりずっと若い1人の男だった。

だから、「ぼく」というものはもはやどこにもなかった――自尊心を築く土台となるものがなかった――無尽蔵の労働力だけはまだあったが、しかし、これも自分のもののような気がしなかった。自己がないというのは奇妙なものだ――ちょうど、小さな子どもが広大な空家に一人残されて、なんでも好きにできると知ったとたん、なにもしたいことがないのを知ったというのと似ている。

(時計は予定の時刻を過ぎましたが、話はまだ本題に入っておりません。ぼくの話がみなさんの興味を引くようなものかどうかちょっと疑わしく思っているのですが、もしどなたか続きをご希望でしたら、たくさんお話したいことが残っておりますので、その旨、編集者の方にお伝えください。もうたくさんだというのでしたら、そうおっしゃってくださって結構です――でも、あまり大きくない声でお願いします。どうやら、どなたかはっきりとはわからないのですが、ぐっすり眠っておられるようですから――その方が力をかしてくだされば、ぼくも商売をつづけられたかもしれなかった、そういうお方です。それはレーニンでもなく、神でもありませんでした。)

取扱注意

これまで何ページかを費やして、ある一人の類を見ないほど楽天的な若者が、あらゆる価値の崩壊、ずっと後になるまでそうと気付くことのなかった崩壊を体験したか、お話してきた。それにつづく荒廃の時期を語り、それでもなんとかやっていく必要があったと言った。といって、ヘンレーの有名な英雄観、「血まみれにしたその顔を下げず」にすがっても詮ない状況でだ。ぼくの精神的資産が借り物ばかりだった点からすれば、つまりぼくには下げるべき、あるいは下げざるべき顔がないとわかっていたのだから。心臓は自分のものだったはずだが、自信があったのはそれでほぼすべてだった。

ぼくがもがいていた泥沼からぬけだす、少なくとも出発点くらいにはなったと思われるのが、これだ。「ぼくは感じた――ゆえに、ぼくは在った」。たくさんの人たちが、人生に対するぼくの忠告や見方を頭から信じこんで、ぼくに頼り、厄介事の相談をもちかけてきたり、遠くから手紙をよこしてきたりした。ぼくがお決まりの回答しか出せない愚鈍きわまる売文屋であるにせよ、厚かましいにもほどがあるラスプーチンであるにせよ、数多くの人々の運命に影響を与えることができるからには何らかの個性があるに違いなく、だから問題は、なぜ、そしてどこでぼくが変わってしまったのか、それを知ることだった。それから、いったいどこから、本人も知らないうちに、情熱やバイタリティーが徐々にそして早々にこぼれていってしまったのか、それを知ろうとした。

悩み、絶望したぼくは、ある夜、ブリーフケースに荷物を詰め、千マイルも離れた場所でとことん考えてみることにした。知り合いの誰もいない、さえない小さな街で11ドルの部屋を借り、有り金をはたいて瓶詰め肉とクラッカーと林檎を買いこんだ。とはいえ、どちらかといえば煩雑な俗世から割合に禁欲的な生活に移行して、そこで悟りを開こうとしたなんて言い出すつもりはない――ただ、考え事をするための絶対的な静けさが欲しかっただけだ。なぜぼくが悲しみに対して悲しい態度を、憂鬱に対して憂鬱な態度を、悲劇に対して悲劇的な態度をとるようになってしまったのか――なぜぼくは、恐怖や憐れみの対象とぼくとを同一視してしまうようになったのか?

じつにどうでもいい区別とお思いになるだろうか? それは違う。こういう同一視をはじめると前に進めなくなる。気違いが仕事に手がつかないのはそれと同じようなことだ。レーニンはプロレタリアートの苦しみを味あおうとはしなかった。ワシントンは兵卒の苦しみを味あわず、ディケンズはロンドンの貧民の苦しみを味あわなかった。トルストイはかれが意を注ぐ対象にとけこもうとしたが、その努力は偽物、失敗に終わった。いまこうして名前をあげたのは、だれでも知っている名前だからだ。

それは危険な霧だった。「栄光はすでに地上から消え果てた」としたワーズワースは、ともに地上から消え果てようとはしなかった。“燃えさかる塵芥”キーツは、結核との戦いをやめず、イギリス詩壇への仲間入りの希望を最後の瞬間まで捨てなかった。

ぼくの自己犠牲心は途方もないところがあった。まったくもって近代的でないほどに――とはいえぼくは、大戦後、この資質を10人ばかりの尊敬すべき勤勉な人たちに見出したことがある。(おっしゃりたいことはわかります。でも簡単な、あまりにも簡単なことです――こうした人たちの中に、何人かマルクス主義者がいましたから。)ぼくの知り合いで著名な同世代人が、半年もの間“大逃避”の概念をもてあそびつづけるのを、ぼくはすぐそばで見ていた。同じくらい有名なもう一人の人物は、友人たちとの接触に耐えられなくなって何ヶ月かを精神病院ですごした。絶望のあまり生きるのをやめた連中なら20人は名前をあげることができる。

そういうところから、ぼくは生き残った人たちはある種の開き直りを果たした人たちだと考えるようになった。これは大変なことで、脱走という、おそらくは新しい監獄に送られ、そうでなくとも元の監獄にもどされるのが関の山のしろものとは違う。有名な「逐電」とか「何もかもから逃げ出す」というのは監視所内での遠足に等しく、たとえその監視所の中に南洋があって、それが絵に描いたり船を出したりするのに向いていたとしても、監視されているのに違いはない。ぼくが言う開き直りというのは、そこから後戻りをできなくするようなことだ。過去が存在をやめるのだから、それは取り返しのつかないものになる。とすれば、人生がぼくに仕向けた、あるいはぼくがぼく自身に仕向けた義務を果たせなくなったわけだから、4年間ポーズだけの抜け殻だったものを抹殺してもかまうまい? もの書きであることはぼくにとって唯一の生き方だからつづけざるをえないけれど、人物であることはやめる――親切さも捨て、公正さも捨て、寛大さも捨てる。そういうものの代わりに通用しうる贋金はごまんとあるし、どこへ行けば5セント貨を1ドル紙幣に変えられるかも知っている。39年にもわたって観察をつづけてきたのだから、どこでミルクが水で薄められるかもわかるし、砂糖に砂が混ぜられるところも、贋造宝石がダイアモンドに、漆喰が石材に化けるポイントもよくわかっている。自分自身を与えるのはもうやめよう――与えることを掟破りとし、新しい名前をつけよう。その名も“無駄”。

こう決意したとたん、ぼくはやや嬉しくなった。リアルで新しいものがみなそうしてくれるように。まず手始めみたいなものとして、家に帰ったら手紙の束をごみ箱に放りこもう。ただで何かをしてくれという手紙の束――こいつの原稿をよんでくれだとか、こいつの詩集を出版してくれだとか、ラジオでなにかしゃべってくれだとか、序文を書いてくれだとか、インタビューに応じてくれだとか、芝居のプロットを手伝ってくれだとか、家庭の問題をどうにかしてくれだとか、これこれの思いやりぶかい慈善行為をしてくれだとか。

手品師のシルクハットは空になっていた。長い間、小手先の技の類でそこから物をとりだして見せてはきたけれど、もう、たとえを変えれば、生活保護受給者名簿の出資者側から降りることにした。

のぼせあがった悪意はつづいた。

15年前にグレイト・ネック発の通勤列車で見かけたガラス玉のような瞳の男たちと同じ気分だった――明日世界が混沌の渦に投げこまれようとも、我が家が無事なら気にもかけない連中だ。ぼくはいまかれらの、口八丁な連中の仲間だった。つまりこうだ:

「すみませんが、ビジネスはビジネスですから」あるいは:

「トラブルに巻き込まれる前によくお考えになるべきでしたね」あるいは:

「それはぼくの預かり知らぬことです」

それに笑顔――そう、とある笑顔をぼくのものにしようと思った。いまもその笑顔について研究している。ホテルのマネージャー、老獪な社交家、参観日の校長先生、黒人のエレベータースタッフ、横顔にこだわる優男、市場価格の半値で仕事をひきうけようとしているプロデューサ、新しい患者のもとに向かうベテラン看護婦、はじめてグラビアに写ったモデル、カメラを横切る大望あるエキストラ、つま先を傷めたバレーダンサー、それから、表情をゆがめるという美徳に依存しながら存在する人々が住むワシントンからビバリー・ヒルズの各地共通の、心のこもった親切心を感じさせる大いなる笑顔、それらの長所を組み合わせるのだ。

声もだ――ぼくは先生について声を研究している。完璧にマスターすれば、ぼくの声帯はぼくの内心を音にすることをやめ、話し相手の内心を音にしてくれるだろう。求められる言葉は大部分「はい」に集約されるだろうから、ぼくとぼくの先生(弁護士だ)はそれに集中しているが、余暇を使ってだ。ぼくがその声にこめようとしているのは慇懃さであって、それによって、相手に歓迎と程遠い扱いを受けていると思わせ、いついかなる時も冷酷な分析の対象にされていると感じさせようとしている。こういうときは、例の笑顔は使わない。これは、疲れきった老人だとか、悪戦苦闘中の若者だとか、そういったぼくにとって得るところのない連中のためにとっておくのだ。かれらは気にすまい――酷い話だが、かれらはいつもいつもそういう扱いを受けているのだから。

でもこれで十分だ。軽はずみでしたことではない。もしきみが若く、もの書きたちが絶頂期に冒されがちな神経衰弱について書くような陰気な文筆家になる方法を教えてくれという手紙をよこしてきたとする――もしきみがそんな真似をしたがるほどのひとりよがりな若者だったとしたら、きみが現に富裕で重要な人物と縁でもないかぎり、ぼくはその手紙を大して気に留めないだろう。もしきみがぼくの家の窓の外で飢え死にしかけていたら、ぼくはあわてて飛び出して行って、例の笑顔と例の声を差し出し(手は差し出さない)、だれかが救急車を呼ぶ電話をかけるための硬貨を握るまで、そばにつきまとうことだろう。もしそこになにかネタになるものがあるとして、だ。

ようやく、ぼくはただのもの書きになった。それまでぼくがなろうと心していた人物が、あまりに重荷になってきたから、ぼくは、ほとんど良心の呵責をおぼえることもなく、その人物から「逃れて」しまったのだ。ちょうど、黒人の女性が土曜日の夜に恋敵から「逃れて」くるように。善人は善人として生きればいい――過労の医者は身動きすらままならないまま年に1週間の休暇を家族サービスに費やして逝けばいいし、暇な医者は11ドルの患者でもかきあつめればいい。軍人たちは殺されて栄誉の殿堂入りでもすればいい。それが、かれらが神と結んだ契約なのだから。もの書きについては、自分から契約を考え出さないかぎり、そういう心配はないし、ぼくが昔考え出したものはもうキャンセル済みだ。昔は、ゲーテ=バイロン=ショーの系譜につらなる完全さに、J. P. モーガン、トーハム・ブクラーク、聖フランシス・オブ・アッシシ的アメリカ味が加わった人物をめざしていたけれど、その夢も、プリンストンで一年生対抗フットボール試合の一日だけしか使わなかったショルダーパッドや外地で用いることのなかった外地用軍帽と一緒に、がらくたの山へと追いやられてしまった。

それでどうした? ぼくはいまこう考えている:繊細な感覚を持つ成人が置かれる自然な状態とは、適度の不幸である。本来よりも上等な人間でありたいと望む成人において、「たゆまぬ努力」(というのは、これを言うことによってパンを得る連中の常套句なのだけど)は最終的には新たな不幸を積み増すだけのことなのだ――青春や希望の果てにぼくらが見る結末と同じように。ぼくに限って言えば、過去には幸福だったことがある。それはしばしば、もっとも近しい人物とすら分かち合えないほどの忘我の境地にまで達し、そのかけらを本に見るひとひらの文章に感じながら、通りを歩いて発散させなければならなかった――ぼくの幸福というか、ぼくの自己欺瞞の才というか、あるいは他人が見れば違う名前をつけるものかもしれないけれど、いま思えばそれは、例外的なものだった。それは自然でないどころか、不自然そのものだった――にわか景気と同じくらい不自然で、実際、近年ぼくが経験した絶望の波は、にわか景気が終わったときにこの国を襲ったそれとうりふたつだった。

ぼくはこの新しい摂理とともに生きていくようになれると思う。もっとも、それを既成事実化するのに何ヶ月かかかるだろう。たとえば、アメリカの黒人たちがその耐えがたい生活環境に耐えているのはかれら一流の朗らかなストイシズムのおかげだが、そのストイシズムが真実に対するかれらの感覚を麻痺させている。それと同じように、ぼくもまた代償を支払わなければならない。郵便屋、食料品店の店員、編集者、従妹の良人――そういった人たちに、ぼくはもう好意を寄せない。かれらのほうでもぼくに好意を寄せてくれなくなって、人生はもうあまり楽しくなくなるだろう。ぼくの心の扉に『猛犬注意』のプレートをぶらさげるんだ。ぼくはそのとおりの生き物としてふるまってみせようと思う。だからもしきみがぼくに肉のたっぷりついた骨を投げてくれるなら、ぼくはきみの手までも舐めるかもしれない。


原文
"The Crack-up" (1936)
翻訳者
枯葉
ライセンス
クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンス
公開日
2002年4月18日
最終修正日
2012年6月16日
URL
Egoistic Romanticist: https://kareha.sakura.ne.jp/trans/html/crack-up,_the.html
特記事項
プロジェクト杉田玄白正式参加テキスト。