世界が若かつた時

原題
When the World Was Young
作者
ジャック・ロンドン
作者(英語表記)
Jack London
翻訳者
律次郎

彼は、却々なか/\落付いたたんのすわた男だたので、塀の上に鳥渡腰を下して、何か危を報ずる物音が聞こえはしないかと、ジメジメした暗闇くらやみを測量してみた。が、彼のうかくとい測錘さぐりは、彼に、眼に見えないを渡る風の呻きと、れる枝のサラサラとい木の葉のきとをもたらしたのみであた。深い霧が風に吹きまくられてて、彼は霧を見ることは出なかたが、其に感じた。彼の腰をおろしてる塀も濡れてた。

彼は少しの物音をも立てないで、外側から塀の上へたのであたが、同じうに少しの物音をも立てないで内側の庭へスルスルとすべり下りた。そしてポケトから中電燈を取出したが、それを使はしなかた。行く手は暗だたけれども。別に燈火あかりを付けようといはなかた。中電燈を片手に持て、そのボタンに指をてたままで、彼は進んで行た。彼の踏む地面は天鵞毛びろうどのやうに柔かで且つ力があた。長い間掃かれたことのない松葉や其他そのたの木木の落葉おちは朽葉くちはが一面に散り敷いてたからである。木の葉や枝が彼のからだた。非常に暗くて、それをけることが出なかたのである。間もなく彼は手を前へ突き出してく手を探ぐり探ぐり歩いてた。そして再三彼の手は巨大な樹の固い幹を探ぐりてた。彼は、彼の周一面にうい樹のあることを知た。彼はいたでそれらの樹の朦朧もうろうたる影を感じたのである。そして彼は、彼を押潰してしまうとかぶさる巨大な幹の間で、自分が微鏡的微小物かなんぞのうに不思議に思たのであた。向の方に家があることを彼は知た。そして彼は、容易にそこに達し得られるこみちがあるに違ないと思たのであた。

一度彼は、スカリ進退がた。前後左右どちらへうとしても、樹や枝が手にるか、灌木くわんぼくの繁みへ迷込むかした。そして到底とてもどちらへも行けうになかた。そこで彼は用心しなが電燈あかりを付けた。光を自分の足元の地面へ向けながら。そろそろと注意しつつ彼は、自分の周を照らした。煌々くわ/\たる白い光は彼の進路を阻止した障碍物をクキリと照らし出した。彼は巨大な幹と幹との間に隙間すきまのあるのを見付けたので燈光あかりを消して、頭上の密生せる枝葉しようによて霧の滴から保護せられてる乾いた地面を踏みながら、そこを抜けて進んで行た。彼の方向にする感鉛敏えんびんた。で、彼は、彼が家の方へ進んでることを知た。

そして其時そのときに事件が起た――想像すべからざるよきすべからざる事件である。彼は何か柔かな生きたものを踏み付けた。そのものは、彼のからだの重味を感ずると同時にうめと共に起き上た。彼はパと飛びのいた。そして更に飛びのく用意に身をかがめた。そのえたいの知れないものの攻撃にしてあたりを配りながら、彼は鳥渡の間待た。そして彼の足元から起き上て、今音も立てず動きもせずに、彼と同じうに油なく身構して待るに違ない其生物そのせいぶつは、一たい何んであうかと怪しんだ。其内そのうち最早もうとしてられなくなた。彼は中電燈を前へ突き出して、ボタンを押した。そして一目見るや否や消魂けたましい恐怖の叫びした。彼は、ふるる子牛、子鹿から獰猛獅子ししに至るまで、あらゆるものをよきしてた。が、彼が見たものだけはよきしてなかたのである。其の瞬間に彼の細い探照燈がクキリとてらし出したものを、彼はおそらく一千年後にも忘れることが出ないであう――それは白面黄黄髯はくめんこうはつこうぜんの巨人で、腰の山羊やぎの皮らしいものをまとかになめした鹿皮の靴を穿いてほかは、全くらたいであた。手も足も肩も胸も赤裸々せきらであた。皮膚はスベスベしてて毛は無かたが、日光と風とで褐色になた。そして其下そのしたには、がんな筋肉が肥えた蛇のうに隆々と盛上た。

が、それはじつに意外ではあたが、彼に悲鳴を揚げさせた原因は、たんにそれのみではなかた。彼を恐怖せしめたものは、獰猛極まる付き、燈光あかりにたじろがぬ青いまなこの野的な閃き、ひげや頭にくついてる松葉、まさに彼に飛び付うとして身構してる恐るべき巨等であた。彼は一刹那せつなに、かれれらのものすべてを見たのであるが、彼の悲鳴の終らぬ内に、其物は彼に向て飛びかかた。彼は中電燈を力一杯それに叩き付けて地面に突伏した。彼は、其物の足とはぎとが彼の横腹にあたたのを感じた。彼はたちまち起き上て逃げ出した。一方其物は、灌木の繁みへドサリと重い音を立て飛び込んだ。

その物音もつおとが止むと同時に、彼はとまて手と膝とで四つばになたままで、待た。彼は、其物が彼を探し出うとそのへんを動き廻物音ものおとを聞いた。で、彼は更に逃げ出すことによて自分の居所を知らせることを恐れた。彼は、逃げ出したら屹度灌木をガサガサ云わす音によて追跡せられることを知た。一度彼は短銃ピストルを取出したが、又考た。彼は自制を恢復してたので、物音を立てずに逃げ出したいと思た。五六度彼は、其物か彼を探して叢林やぶの中をガザガザ云してるのを聞いた。それから又時々は、其物もとして耳をすましてるらしかた。このことから、彼は或ることを思付いた。丁度彼の片手が木切ききれにさたので注意深く腕を充分に動かすことの出る空間があるかないかを確めてから、彼は其木切そのきぎれを拾上げて向の方へ投げた。それはあまり大きな木切れではなかたので、ずいぶんへ飛んで行叢林やぶの中へバサリと落ちた。彼は、其物が叢林やぶの中へ飛び込んでくのを聞いた。それと同時に彼はソロソロと向て行た。手と膝とで、注意しながらかに匍く内に、彼の膝はジメジメした土で濡れてた。彼は耳をすましたが、聞こえるものと云ては、呻く風の音と、樹の枝から垂れる霧の滴のみであた。なほも、飽くまでも注意を怠らないで、彼は立上て石の塀へ近寄り、それをて外側のおうらいへ飛び下りた。

彼は草叢くさむらを分けて行て、して置いたじてんしを引き出してうとした。彼は、はんたいの側のペダルを上へあげようと足で聯輪ギイアしてると、ヒラリと地上へ飛下りたらしい重いからだの物音が耳に這入はいた。彼は一瞬もゆうよしなかた。彼は自車の把手ハンドル手で持て駈け出した。そして走りながらそれにまたがて、ペダルへ足が掛かるや否や全速力で疾走した。彼はうしろの方でバダバタい早い足音がしてるのを聞いたが、段々それは遠のいて行て、つひには全く聞こえなくなしまた。

ところが、うんわく彼は、町とははんたいの方向へ走り出したので、段々と丘陵道へ差しかかた。彼は、其道が全く一本路ほんみちで脇へそれる路のないことを知た。で、同じ路を後戻のちもどりする以外には方法はないが、うすれば例の恐ろしいもののところを通らなくてはならない、彼は、再びそれにでくわすだけの勇がなかた。半時間後どこまでも道がのぼりになるので、彼は自車を下りた。そして飽くまでも安全なうにと、自車を路傍みちばたして置いて、垣を越えて丘の斜面の牧場ぼくらしいり込み、新聞紙をひろげて腰を下した。

「畜生!」彼は大きなで云た、の汗と霧とを拭きながら。

「畜生!」彼はモウ一度云た。そして煙草かみまきたばこきながら、どうしてたらいいかを思案した。

が、彼はうとはしなかた。彼は暗闇くらやみして其道を通ることはすまいと決心した。そしてあたまを膝の上に垂れてうたねをした。夜の明けるのを待ちながら。

どのくらあとだか判らないが、彼は若い草原狼そうげんおかみの鳴きに夢を破られた。彼はあたりを見廻して、それが自分の背後うしろの丘の中腹でしてるのを知たが同時に夜の景色がた事にが付いた。霧は何時いつの間にか晴れてしまて、星や月が出てた。風もほとんんでた。すがすがしいカリフニヤの夏のとなた。彼は再びうたねをようとしたが、草原狼の鳴きがうるさく耳についた。ウトウトしながら彼は、荒々しい奇怪な歌のを聞いた。再びあたりを見廻すと、例の草原狼は鳴きを立てるのをやめて丘の背に沿うて逃走してた。其のすぐ後から彼が庭で出した裸生物せいぶつが狼を追跡してたが、モウ歌てはなかた。それは若い草原狼だたので、追跡の光景が、彼の眼界のほかに出うとする時には、今にも追付かれうであた。彼は、寒がするかのうにふるながら立上て垣を越え、自車に跨た。この機を逸してはならぬことを彼は知たのである。恐ろしいものは最早もう彼とミル・ヴとの間にはないのである。

彼は、ましぐらに丘を馳せ下た。が、ふもとの曲り角の木蔭こかげの暗いで、路の窪みに車輪がはまて、彼はモンドリ打て投げ出された。

「どうしても今晩はいけねえ」彼はれた自車のフオクを査しながらつぶやいた。

役に立たなくなた自車を肩にかついで、彼はぎ歩いて行た。そして例の石の塀のまでた時、先刻を半ば疑ながら、路面ろめんに足跡があるかどうかして見た。と、たしかにあた――それは大きなうくつの跡で指先ゆびさきが深く土に喰込んでた。からだめてそれを査してると、又もや奇怪な歌のきこえた。彼は其の物が草原狼を追跡する先刻目撃したので逃げたて駄目だといことを、よく知た。で、逃げ出うとはしないで、路の向側の最も木蔭の暗いへ身をひそませたのみであた。

そして、再び彼は、らたいの人間に似た物が、歌をうたならみかるに早く走るのを目撃した。彼のれてまでると、それは立止たちどまた。彼の心は鼓動をめた。が、それは彼のれてへやてはないで、ヒラリと空中へ飛び上路傍みちばたの樹の枝をつかみ、ましらうに枝から枝をつたて登て行た。それは塀の上を越して、それから約十二フィートも上の空中での樹の枝へ移り、其から地上へ飛び下りて見えなくなた。彼は二三分間に取られて見てのち、歩き出した。

デエヴ・スロタアはウオド、ノオルス合資社の社長ジムス・ウオドの社長室への通路を塞いでる机に忌々しげにりかかた。デエヴはプリプリしてたのである。事務所内のあらゆる人間がジロジロと怪しうに彼の姿を眺めた。ことに彼におうせつした男は特にうであた。

「大切な用なんだから、う社長さんに取次いで貰たいのだ。」彼は云た。

「社長は今お手紙を口授こうじしてられるから取次ぐにはいかん。」との返答である。

「又明日なさい。」

「明日では間に合ん。鳥渡て社長さんに生死いきしにくわする大事件だと云てくれ給。」

書は躊躇うちした。デエヴは早速そくそれにじた。

う云てくれ給、僕は昨夜ゆうべミル・ヴレエ方面へ出掛けて行たんだ、それについてお知らせしたいことがあるんだ。」

「君の名前は?」との質問である。

「名前なんかどうだていい。どうせ御存じないんだから。」

デエヴは社長室へ通された時依然として挑的の持であたが、速記者に口授してた立派な大男が回椅子を動かして彼と向合た時、デエヴの動は忽ち一した。彼には何故なぜだか判らなかた。そして心の内では自分自身をいまいましく思た。

貴下あなたが社長のウオドさんですね?」デエヴは間抜けた質問をした。そして其に一層自分自身がいまいましくなた。彼は、そんなことを云つもりはなかたのである。

うだ、で、君は?」との返事である。

「ハアリイ・バンクロフトと申します。」デエヴは出鱈目でたらめを云た。「御存じないのですから、名前なんかどうでもよろしいでう。」

昨夜ゆうべミル・ヴへ行たとことだたが?」

貴下あなたあそこにお住までしたね?」デエヴは問返した。速記者の方をジロジロと見ながら。

「左。して何の用だな? 私は大忙しいのだが。」

じつ内々ない/\で申上げたいことがあるのですが。」

オド氏はキと彼のを見て鳥渡躊躇ううちしてから心をきめた。

「ポタアさんそこまででよろしい。」

婦人速記者ふにんそくきしは立上てノオトを集めて出て行た。デエヴはジムス・ウオド氏をマジマジと不思議うに見詰めてたので、其紳士は彼の胸に浮びかけてた或るかんがいとを切た。

「で?」

「僕は昨夜ゆうべミル・ヴへ出かけて行たのです。」デエヴはマゴつきながら口を開いた。

「それはモウ聞いた。で、その用は?」

デエヴは信じべからざることが、段々確信ときつつあるに言葉をつづけた。

「僕は貴下あなたうち、いや庭へ這入はいたのです。」

「何のにだ?」

「泥棒に押入るつもりだたのです。」デエヴは正直に答た。「僕は貴下あなたが支那人の料理人と二人きりで住んでられることを聞いので、おあつら向きだと思たのです。でも押入りはしませんでした。ある邪魔が這入はいて出なかたのです。それでここへやたので、それをお知らせするためにです。僕は貴下あなたうちの庭を山男がウロついてるのを見ました――モウたいへんな鬼です。其奴そいつは僕みたいな人間を八つ裂きにしてしまます。僕は其奴そいつに追かけられて生命いのちからがら逃げ出したのでした。其奴そいつほとんど着物らしいものは着てりません。そしてましらみたいに旨く樹へ登り鹿のうに早く走ります。僕は其奴が草原狼を追かけてるのを見ましたが、モウ今にもそれに追付きうでした。」

デエヴは言葉を切て、彼の言葉の効果を求めた。が、何んの効果もなかた。ジムス・ウオドは落付きはらて、好奇心をおこしたらしいのみであた。

じつに不思議だ、に不思議だ。」彼はつぶやいた。「山男だと云たね。で、何故なぜわざわざ知らせにたのだね?」

貴下あなたに危なお知らせするためです。僕はうまれつきの弱い方ありませんが、人を殺すことはり好きありません……止むを得ない場合のほかはです。僕は貴下あなたが危ひんしてることを知たのです。で、貴下あなたにお知らせしようと思たのです。全くのそれだけにやたのです。勿論もちろん貴下あなたが、それにして何か下さうと云のでしたら僕はいただきます。其事も考なくはなかたのです。が、下さうが下さるまいが、どちらでもかまません。僕は貴下あなたにお知らせしたのですから、僕の義務はすんだといものです。」

オド氏は何事か打案うちあんじながら机の上をコツコツと叩いてた。デエヴは、それが清潔ではあるが黒く日に焼けてて、大きく強うな手であるのにが付いた。それから又先刻を見ると同時に眼に這入たものに注意した――それは一方の眼の上の額に張られてる新らしい絆創膏ばんそうこう小片こぎれである。それでも猶彼の心の内に浮んでようとしてかんがは、りに信じ得べからざるものであた。

オド氏は上着の内側のポケトから紙入れを取出し一枚の紙幣を抜いて、それをデエヴにあたた。彼は、それをポケトに納めながら、それが二十弗札ドルさつであることに注意した。

「いや有難ありがう。」ウオド氏は云た。見が終たことを示しながら。「早速そく調べさせることにしよう。山男がウロついてては確に危だ。」

がウオド氏の態度がりにかだたのでデエヴは勇恢復くわいふくした。それに或る新らしい推測が胸に浮んだのである。山男はウオド氏の兄弟に違ない、狂人なので密に監禁してあるのであう。デエヴは、うい風な話を聞いたことがある。多分ウオド氏は、それを他人に知られたくないのであう。それで二十ドルくれたのであう。

「時に、」デエヴは云出した。「今思と其山男は、何貴下あなたに似てうですぜ――」

デエヴの言葉は、それ以上かなかた。其瞬間彼は、一大化を目撃した。彼は昨夜ゆうべ見たのと同じ獰猛どうもう極まる青いまなこと、同じつかみかかうとする爪のような手と、同じうに彼に向て躍りかかうとする恐ろしい巨躯とが眼に這入はいたが、今度は投げ付けうにもデエヴは中電燈を持なかた。で、彼は、手でギつかまれたが、それにはに恐ろしい力が籠たので彼は苦痛の呻きをした。彼は、咬み付うとする犬と同じうに、大きな白いが現れたのを見た。そのが彼の咽喉のどの方へ近付いた時、ウオド氏の口髯が彼のを撫でた。が、咬まれはしなかた。その代りにデエヴは、相手のからだうな自制で硬張るのを感じたと同時に投げ飛ばされた。それは々と投たのであるが非常な力が籠たので、彼は壁に衝突し床の上にコロコロとた。

「どうい積りで俺を脅喝にやたのか?」

オド氏は彼を叱咤した。「さきの金を返せ。」

デエヴはて紙幣を返した。

「貴はそんな積りでやたのではないかと思たが、モウ判た。二度とこのへんをマゴマゴしてると監獄へ叩き込んでしまぞ。いか?」

「ヘイ。」デエヴはいだ。

れ。」

で、デエヴはて出て行た。彼の腕は先刻恐ろしい力でつかまれたので出血して激痛にられなかた。彼がドアの握りをつかんでる時、彼はとめられた。

「貴は運のい奴だ。」ウオド氏は云た。そしてデエヴは、彼の付きや眼が忍で、傲慢ごうまんで、慾望よくぼうに輝いてるのにがついた。「貴は運のい奴だ。俺の考一つで、俺は貴の手足をへし折て其反古籠ほこかごへ叩き込むことだて出たのだ。」

「ヘイ。」デエヴは云た。其には絶的の承認が含まれてた。

彼はドアを開けて出て行た。例の書が、どうした? というな付きで彼を見た。

「畜生!」デエヴの捨てぜりふはこれだけだた。そして、この一語と共に、彼は事務所からも、この物語からも全く出て行てしまた。

ムス・ゼ・ウオドは年四十歳バリ/\業家で、しかも非常に不幸な人であた。四十年間彼は、彼のみのものである一個の問題を解決すべく空しい努力をけてた。其問題はとしを取るにて層一層悲な苦となたのである。彼は一にんでありながら同時に二にんであた、そして年代的に云と、これらの二人は千年以上もへだたた。彼は二重個性の問題を、複で神な心理界の門の大家連たいかれんにも劣らぬほど深く研究したのであた。が、彼に取て彼は記録されてる如何なる例とも違た。最も想像力に富んだ小説家の奇想も、彼のな場合はかなかた。彼はジイキル博士はくしとハイド氏でもなかた。又キプリングの「世界一の奇談」中に出てる不幸な青年とも違た。彼の内にある二つの個性は、如何なる場合にも相互の存在を意識してうに混淆こんこうせられてた。

彼の一つの自己は近代的の教養を受けて十九世紀末から二十世紀の初めにかけて生活してる人間であた。彼のモウ一つの自己は、年前ねんぜんの原始的状態に棲息せいそくするやばんな未開人であることを、彼はじかくしてた。が、どちらが彼でどちらが彼でないのか、それは彼自身にも判らなかた。それといのが彼は、如何なる場合にも常に二つの自己であたからである。一つの自己のることを、の自己が意識しないというな場合は、ほとんまれであた。それと同時に彼は原始的の自己が生活してた過去の記憶も幻影も有してなかた。その原始的の自己は現在に生活してた。然しそれは現在に生活しながら、その遠い昔における生活の式を生活するうに強制せられてた。

彼は其幼少時代に、親や顧問こもんいしに取ては一個の疑問だたが、彼等かれらに彼の不規律な行動の原因のホンのかすかな手懸てがりをすら握ることが出なかた。かくして彼等は、午前中における彼の甚だしい睡眠状態をも、夜間における彼の甚だしい活動状態をも、理解することが出なかた。彼が夜間廊下を徘徊してたり、目まのするうな高い屋根の上をたり、丘の間を駈け廻たりしてるのを見した時、彼等は夢中歩行病者だと定した。然も際彼はかくせい状態にあたので、ただ原始的自己の夜間彷徨ほうこうを強制せられてたにすぎないのである。一度或る鈍感な師の質問にして、彼はしんじつはなした。すると彼の告白は、「夢」とい侮蔑的ぶべつてきだんていを下されてしまて、彼は甚だしい屈辱を感じたのであた。

黄昏たそがれとが近づくにつれて彼は眠られなくなた。部屋の四へきは、忌しいもの、活動をさまたげるものであた。彼は、やみの中から彼に向て囁く無を聞いた。よるが彼を呼んだ。彼は本能的に夜間彷徨することを好んだ。が、何人なんぴともそれを理解しなかた。一方彼も決して二度と説明しようとは試みなかた。家族の人々は、彼を離魂病者だと定してそれにする手を施した――が、それらの手は大抵無駄であた。大きくなるにて、彼は段々ズルくなり、夜間よるの大部分を野外で、彼のの自己を現するために過した。その結果彼は、午前中睡眠した。午前中の習や通は不可能であた。彼に何か教へようとするには午後家庭教師の手によるのほかはなかた。かくして彼の近代的自己は教育せられたのである。

然しながら、子供としての彼は何時いつまでも一個の疑問であた。彼は愚鈍な忍さと兇暴さとを有する小さなあくきとして知られてた。顧問こもんいしなどは、ひそかに彼を精神的怪物であり低能であると判してた。彼と友達になた少の子供達は、彼を素敵だと云てほめたが、そのくせ彼等は皆彼を恐れてた。彼は、木登りでも、泳ぎでも、駈けこでも、いたでも、彼等の内の誰よりも上手にやてのけた。そして誰一人彼と喧嘩をしようなどといものはなかた。彼は途方もなく強かた。その上きちがうに猛烈であた。

九歳の時、彼は家出をして丘陵這入はいり込んだ。そして、七週間後に見せられて家へ連れてられるまで夜間獲物をあさて生活してた。その彼がどうや丘陵で起居し食してたかが、不思議に思れてた。彼はうさぎを殺したり、うづらを生捕りにしてムシムシたり、百姓家うや鳥屋とりやを荒らしたりしたことも、岩窟の中へ乾いたの葉や、草を敷いて、十日間の午前中を温かくたことをも、決して口外しなかた。家族の人々はんにも知らなかたのである。

時代の彼は、午前の講義には居睡ねむりと鈍感とで、午後にはさいきくわんぱつで、大中の評判になた。彼は考書をんだり、同級生のノオトを借りたりなどしてじついやな午前の講義をうじて胡麻化ごまかして行たが、午後の講義では驚くべき才能を揮した。フトボオルでは、彼は其巨躯きょくで敵を恐怖せしめた。又殆どすべてのトラク競技においても、時々する奇怪な獰猛どう憤怒ふんぬを除けば、彼の勝利は信頼することが出た。が、彼の仲間は、彼と拳をすることを恐れた。彼は彼の最後の一番には何時いつも相手方の肩に咬み付く癖があたのである。

を卒業すると、彼の父は思案にあまつて、彼をウオミング牧畜場の牛飼共うしかどもの所へ追た。三箇月後、流石さすがに荒くれた牛飼共も、全く彼には手古摺てこずてしまて、彼の父に宛て、一日も早く山男を引取りにて貰ひたとい電報を打た。そして彼の父が彼を連れにた時、牛飼共はこのあたま中から分けた大出の青年と一緒に暮らすくらなら、あの吠え叫ぶ喰人くじん種族、の判らぬ囈語たわごとを云精神病者、どうあくなゴリラ、毛の荒い大熊、人を喰虎と暮す方がだしもマシであると申立てた。

彼は、彼の原始生活の記憶を有してないと云たが、一つの例外があた。それは言語である。或る隔世遺かくせいいでん作用によて、原始的自己の言語が種族的記憶として彼につたた。幸福、喜、もしくはに際して、彼は屡々しば/\怪奇野くわいきやばんな歌わめいた。これによて、彼は、既に千年の昔に死んで土と化してるべきはずの彼の一つの自己の、時空における所在を明らかにしたのである。一度彼は、初めからそれを聞かせるつもりで、ウエルツ教授の居るで例の昔の歌を歌ウエルツ教授は、古代サキソン語の講義をして熱心とくがくねしんな言語者だた。第一の歌が始まるや否やたちまち教授は耳をそばだて、一たいそれはどこ種語か、それともドイツのどの地方の俗語かと質問した。第二の歌が終ると、教授は甚だしく興奮してた。その時ジムス・ウオドははげしい喧嘩や挌をやる際常に彼の口から知らずらずせられる歌をうたて、演技をおしまにした。するとウエルツ教授は、それはドイツの地方語ではない、古代ドイツもしくは古代チウトン語であて、者によ見されられたものよりも、ちがに古い時代のものであると言した。それはりに遠い昔の言語なので、彼にも判り兼ねたが、彼の知悉ちしつせる言語のけいたいかすかな痕跡が到るた。で、彼の鋭敏なるかくは、それがしんじつのものであることを、彼に語たのである。彼は其歌出所でどころを質問して、其歌の記してある貴重な書籍を借りたいと云た。同時に又彼は、何故なぜオドはこれまでドイツ語を少しも知らないうな風をしてたのであるかといた。そしてウオドは、彼がドイツ語を少しも知らないことを説明することも出ず、其貴重な歌の本を貸すことも出なかた。かくて、週間にわた懇請こんせいべんかいとののち、ウエルツ教授は、ウオドを憎するうになた。彼は、ウオドを嘘突きだと信じた。そして、最も古い言語者が想像したよりも更に古い、驚くべき言語で書かれた書籍を一見することすらも、彼に許さない生は、に憎むべき自己主義者であると考た。

が、一方このはなはだだしく二重自己の混淆こんこうせる青年に取ては、彼の半ばが近代アメリカ人で、他の半ばが古代チウトン人であると知る事は、大して役には立たなかた。けれども彼の内にある近代アメリカ人は決していくなしではなかた。で、彼は(彼等ではなくして彼で、二つの自己以外に統一せる一個の存在を有してるものとして)、彼のの自己を午前中むからせる夜間彷徨の野人的な自己と、他の普通人と同じうに事務をこりし普通の生活やれんあいしてる教養ある文化的の自己との間に、一種の妥協を成立せしめて、それを強制した。彼は午後ととを一方にあた夜間よるのものにあたた。そして午前と夜間よるの一部とを、二つの自己の睡眠時間とした。が、早朝には、彼は文明人としてしんだいの上にた。夜間よるは野うにた。丁度デエヴ・スロタアが、森の中で彼を踏み付けた時のうにるのである。

彼は父を説きけて資本を出して貰業界に身を投じたが、機敏きびんかつ巧妙こうに仕事をやてのけた。彼は午後の事務にり、彼の共同出資者が午前の事務にたのである。彼は、宵の内は社交に時を過してるが、九時十時頃になると押切れない不安に襲れる。そして翌日の午後まで、人間の多くあつる場所からは姿をしてしまのである。友人や知己ちきは、彼は多くの時間をスポオトに費してると思た。それは彼等の思た通りであた。しかし彼等が、ミル・ヴ丘陵夜間よる草原狼を追かけてる彼の姿を見たとしても、彼等は到底とうてい彼のスポオトが如何いかなる種類のものであるかを夢にも想像することは出なかたであう。そして又帆式帆船うはんしきはんせんの船長達が、寒い冬の朝ラクウン海潮衡うこうで、又は陸から幾浬いくマイルも離れたエンゼルとうとゴオトとうとの急流で、泳いでる男を見たとはなしても、誰一人それを本にするものはなかた。

ミル・ヴの山に、彼は李清りしんとい支那人しなじんと二人きりで生活してた。この料理人兼執事である支那人は、主人の奇行きこうかず/\を知たが、それを口外しないでればい給金が貰たので、決して他人に洩らすうなことはなかた。夜間よる滿足のうに過したのち、朝を睡眠に費し、李清りしんの作た朝食を喫してジムス・ウオドは正午ひる渡船わたしぶねでサン・フランシスコへ渡りくらぶや事務室へやて行た。其時そのときの彼は、市内いたで見受けるうな通常普通の業家であた。が、夜が更けてくと、夜が彼を招いた。彼の知力が速度を増して、不安が迫た。彼のうかくは不意に鋭敏になた。無の夜の物音が彼に誘惑的な聞きれた物語をはなした。そしてし自分一人だと、彼はい部屋の中をアチラコチラと歩き廻た、丁度に入れられた山野さんやの野と同じうに。

一度彼は向見ずにもこひをした。彼は二度とそのしみにを許さなかた。彼はそれを恐れたのである。そして幾日間も彼のの相手の若い貴婦人の腕や肩や手首からは、大小種々/″\黒青こくせい内身傷うちみきずが消なかた――それは彼が愛しさのあま彼女あた愛撫あいぶしるしたが、が更けすぎてたのである。そこに過失があた。し彼が午後をしたのだたら、どこまでもおんわな紳士としてをしたに違ないからばんじ好都合だたのである――が、夜間よるの彼は、陰鬱いんうつドイツの森林に住む荒くれた掠奪くだつ結婚をする野人だた。彼の智識ちしきは、彼の午後のを都合く進行せしめ得ることを思せた。が、同じ智識は彼に結婚が悲なる失敗に終るべきことをも確信せしめた。彼は、結婚して夜間よる彼の妻とを合す時のことを想像するだに恐ろしかた。

そこで彼は、すべてれんあいめいたことは念してしまた。そして彼の二重生活を整調せいし、事業で百からの金を儲け、娘を押付けようとする母親達や種々/″\な年輩の美しい彼にのある令達にしては飽くまでも遠慮勝ちに振舞た。その内にリリアン・ガアスデエルと知合になたが、晩の八時位後いごには決して彼女にないといげんな規則を立てて、夜間よるは草原狼を追かけたり、森の中の岩窟にたりなどしてた。かくして彼のほ、李清りしん以外のものには全く知られないですんだ。が今デエヴ・スロタアに嗅ぎ出されたのである。あの男に、彼の二重自己を見現みあらされたといことは、すくななからず彼を恐れさせた。彼はあの泥棒をアベコベに取りしいでは置いたが、泥棒が人に喋べらないとも限らぬ。若し又彼が喋べらなかたとしても、早晩誰かほかのものに見付けられるに違ないのである。

ここにおいてかジムス・ウオードは、彼の半ばであるチウトン族的野人を制御すべくあらたな悲な努力を開始した。そして彼は、に巧妙に午後と宵の内とだけしかリリアンに逢ないうな手筈てはずにしたので、に彼女は彼との幸不幸を共にする約束をした。其の時彼はろひそかに、自分達のが幸福であれかしと熱心に祈たのであた。試合を前に控ての拳家の猛烈な忠な鍛錬も、この時における彼が彼の内にある野な未開人を征服すべく自分を鍛錬したはげしさにくらべたら、到底とうてい問題にはならなかた。それから又彼は、ひるの内に自分を疲させるうにと努力した。これは、睡眠によて夜のよびごが耳に這入はいらないうにするであた。彼は事務所から休暇を取て、長いかりに出かけた。そして鹿の行方を追うて最もけんそで困難な山地さんちを駈け廻た――何時いつひるにである。で、夜間よるはヘトヘトに疲れ切て屋内にることが出た。一方又自宅には種々/″\の運動器具を備付けて置いて、普通の人々が十回繰返す運動を、彼は百回繰返くりかした。更に又、一個の妥協的方法として二階へ出部屋でべやを建て、それを室にてた。其では、少くとも新鮮な夜の空を呼吸することが出た。彼が森の中へ脱出しないうにと二重の金網戸が設けられた。そして毎晩李清りしんは、彼が其這入はいると外から錠をおろし、毎朝外からそれを開けた。

かくて八月になると、彼は幾人かの新らしい召使めしつかひを雇入れて李清りしんを手せミル・ヴの山で招待を催すこととなた。客はリリアンと彼女の母親と兄、及び人の共通の友人達であた。二夜は事が都合好く進んで行た。三日目の晩には十一時ごろまでブリヂをやたので、彼が得意になたのもあながち無理ではなかた。彼は彼の不安をたくみした。が、幸か不幸かリリアン・ガアスデエルが彼の敵手で彼の右手に席を占めてた。彼女は如何いかにも弱弱しい可憐かれんな花のうな婦人であた。そして彼の夜の持では其かよわさが彼を刺戟しげきした。彼は愛しさのり、彼女を手で抱き上げて手玉に取りたくて仕方がなかた。ことに彼女が、彼を相手にして勝る時に、たかた。

彼は鹿狩犬しかがりいぬを一ぴき連れてさせて、緊張にられなくなると犬を愛撫することによを紛らした。モジモジした毛皮とのは、たちまち彼の心をかるくして、彼に勝負をけることをさせた。何人なんぴとも主人がしつつあた恐ろしい心の内のには付かなかた、彼は如何いかにも快活に笑ながら、落付いて熱心に勝負をたから。

客達がるために自分達の部屋へ行た時、彼は彼等のる前でリリアンと別れた。いよいよ出部屋でべや這入はいて外から錠を下されると、彼は平生へいせいの二倍も三倍も四倍もはげしく室内運動をやて、スカリ疲してからしんだいに横になた。そしてうとしながら、彼を少なからずましてる二つの問題について思案した。其の一つは室内運動である。それは一個のパラドクスであた。彼が、うやて猛烈に運動すれば運動するほど、彼は益々強健うけんになて行た。彼がこれによて、夜間彷徨するチウトン人的の自己を疲させてたことは事だけれども、それはに彼の力が彼以上のものとなて、彼を征服してしま運命的な日の到を延ばしてるにすぎないらしかた。其時における力は、彼がじうらいけいけんした以上に恐ろしいものであるに違ないのである。今一つの問題は、彼の結婚及びにちぼつご彼の妻を回避するに用なくてはならない策略についてである。かくて、これとい智慧ちえうかばぬ内にてしまた。

さて、あの巨大な黒熊くろくま其晩そのばんどこからやたかは、長い間疑問であたが一方ソオサリトオで興行こうしてたスプリングス兄弟曲馬くばだんの者共は「世界一の大黒熊おおくろくまグ・ベン」の行方ゆくを長い間索したけれども、容易に手懸りがなかたのである。が、ビグ・ベンは抜出ぬけだして百といや別の散在するうちで、特にジムス・ゼ・ウオドの庭を選んで這入はいり込んだ。ウオド氏は自分でそれとの付いた時、早くも起き上て武者震に緊張し、胸はに躍り、古いの歌を口ずさんでた。外からは犬共うけんどもはげしいうなりや、きこえた。そして耳をろうするけんそううちからナイフの一刺しのうに鋭い、打たれた犬の悲鳴が聞えてた。彼はそれが、自分の犬であることを知た。

上靴ぐつ穿かずに間着ねまきのままで、彼は李清りしん重に錠を下ろしたドアを蹴破り、階段を駈下かけくだて戸外のやみへ出た。彼の素足すあし砂利を敷いた車道どうれると、彼はたちま立停たちどま踏段ふみだんの下に手を突込つきこんでかねして置いた大きな節くれ立棍棒こんぼうを取出した――丘陵における度々の奇怪な何時いつも彼の伴侶だた棍棒である。物狂ものくるしい犬のうめき吠えるは段々近づいてた。棍棒を打振り打振り彼は、それに出に樹の繁みの中へ躍り込んだ。

物音に眼をさました家中の人々は、ろたいあつまた。誰かが電燈を付けたが、彼らはお互の吃驚くりした以外には何も見ることが出なかた。煌々こう/\と照り輝く車道の向には、樹木が不可入ふかやみの壁を造た。が、何か其黒闇くろやみの中で恐るべきが演ぜられてたのである。に物凄い動物の叫びに次いで大きなうなり吠えるが聞えた。物をなぐり付ける音や、灌木くわんぼく叢林やぶが重いからだで打ちかれ踏みにじられるひびききこえた。

の場所は樹々の間から見物人の眼下の車道に移動した。そこで彼等は目撃した。ガアスデエル夫人はアと叫んで失神しつつ我が子にすがり付いた。リリアンは、其後そのご幾日間も彼女の指先に傷跡をしたほど固く手摺てすりに補まりながら、の毛の黄色い狂暴な眼付きをした大男の姿をせんりつしながら見詰めてた。其大男は誰あう彼女の夫たるべき人間であた。彼は大きな棍棒を打振りながら、彼女が今までに見たどの熊よりも大きい毛深い怪物を相手に、猛烈且つ悠然とた。熊の前肢あしの爪は、ウオドの間着の一部を引き裂いて其からは血がにじみ出てた。

リリアン・ガアスデエルの恐怖は大部分その愛する人についてであたが、その人にする恐怖も少からず含まれてた。彼女は彼女の婚約者の固いのりの付いたシツと世間並の衣服との下に、こんなたくましい立派な野人がれてうとは、夢にも思なかた。そして又彼女は、男がどうしてものか少しも知らなかた。こんなたしかに近代的ではなかた。それに彼女は知らなかたけれども、彼女の目撃してたのは近代人ではなかた。これはサン・フランシスコの業家ジムス・ゼ・ウオド氏ではなかた、無名不知むめいふち野性やせい粗暴そぼう生物せいぶつで、或る偶然のくわから千年後に再生したものであた。

犬共うけんどもは相らず物狂ものくるしいうなりや吠えげながら、熊と人間とのういをクルクル馳せ廻り、時々其へ飛び込むかと思ば飛びのいて、熊の注意をてんぜしめた。熊が、こんな側面攻撃に向うとすると、たちまち人間は飛び込んで行て棍棒が打ち下された。その一撃毎げきごといかりを増して、熊は猛烈に襲かかた。一方人間はヒラリヒラリと身をかして、犬をけながら熊の背後へ廻たり、側へ廻たりした。

結末は不意にた、黒熊は急にからだむきて、その恐ろしい前肢あしうけんの一ぴきをはたいた。犬は肋骨ろくこつをグジグジにされ脊骨せぼねを折られて、二十フィートも向へ投げ飛ばされた。すると人間ひとげんきちがになた。野の判らぬ叫びを揚げた其唇には忿怒ふんぬの泡が湧き立た。それは飛び込みざま棒を手で大上段にふり上げ、今後肢あとあし立上たちあがた大熊ののうてんへ力一杯打ちおろした。如何いかに大熊の頭蓋骨でも、この恐ろしい力のこもた猛打にはべくもなかた。熊はドタリと地上に倒れた。と同時に犬共うけんどもは四方から襲かかた。其時走り廻る犬の群の間から、かの人間はヒラリと熊の死骸の上に飛びあがて白い電燈にてらされながら棒に身を支て不思議な言葉で勝利の歌を歌た――

客達は喝采さいすべく彼のへ駈寄た。が、ジムス・ウオドはふと古代チウトンの眼をもて、彼の愛して罐弱かよわく美しい二十世紀の乙女を見た。其時頭のうちで何かがバチと音を立てた。彼はヨロヨロよろけながら彼女の方へ進んだ。棒を取落とりおとして倒れうであた。彼はたしかにどうかていたのである。彼ののううちには、こら切れない苦痛があた。彼のれいこんは二つに裂けて飛んでうであた。他人の興奮せる視線を辿たどて彼は振返て熊の死骸を見た。その光景は彼を恐怖せしめた。彼はアと叫んで逃げ出うとしたが、人々は彼を引留ひきとめた。

*****

ムス・ゼ・ウオドは今でオド・ノオルス合資社の社長であるが。が、彼は最早もうなかには住んでない。又夜間よる月光のもとで草原狼を追かけて走り廻たりなどしない。彼の内の古代チウトン人は、ミル・ヴで熊と其夜そのよから全く死んでしまた。ジムス・ゼ・ウオドは今、徹頭徹尾とうてつびムス・ゼ・ウオドである。彼は最早もう原始世界の野な時代錯誤と、自己の存在を判てはない。そして文明的恐怖の咒咀を何から何まで知悉ちしつしてるほどに、ジムス・ゼ・ウオドは近代的である。彼は今暗闇くらやみを恐れる。そして夜の森林もりりんは彼に取ては地獄に等しい恐怖である。都における彼の邸宅は最新式で、彼は泥棒けの工夫に非常な興味を示してる。彼の家庭には電線が無暗矢鱈むやみやたら引張ひつぱり廻してあて、就時間後にはかくが大きな呼吸をしてさも非常報知器が動き出すとい調子でる。それから又彼は組合くみあせ式鍵なし錠を明した。それは旅行先こうさきへでも自由にポケトに入れてけいたいすることが出て、如何なるドアにも旨くおうようされるものであた。が、彼の妻は彼を臆病者だとは思ない。彼女は彼をよく知る。彼の剛勇ごうゆうは、ミル・ヴ挿話そうわ見聞けんぶんしてる友達の仲間では、一度も疑れたことはなかた。

底本:「清新小説 英米七人集」大阪毎日新聞社
   1922(大正11)年9月10日発行
入力:枯葉

※和気律次郎 (1888 - 1975) の著作権は、法律上有効です。このテキストは、著作権法67条1項(権利者の所在不明)を理由に近代デジタルライブラリーでインターネット公開されている資料の、いわば不正利用ですので、再利用にあたってはご注意ください。