一
彼は、却々落付いた膽のすわつた男だつたので、塀の上に鳥渡腰を下して、何か危險を報ずる物音が聞こえはしないかと、ジメジメした暗闇を測量してみた。が、彼の聽覺といふ測錘は、彼に、眼に見えない木の間を渡る風の呻きと、搖れる枝のサラサラといふ木の葉の囁きとをもたらしたのみであつた。深い霧が風に吹きまくられてゐて、彼は霧を見ることは出來なかつたが、其濕氣を顏に感じた。彼の腰を下してゐる塀も濡れてゐた。
彼は少しの物音をも立てないで、外側から塀の上へ攀ぢ登つたのであつたが、同じやうに少しの物音をも立てないで内側の庭へスルスルとすべり下りた。そしてポケツトから懷中電燈を取出したが、それを使ひはしなかつた。行く手は眞暗だつたけれども。別に燈火を付けようといふ氣はなかつた。懷中電燈を片手に持つて、そのボタンに指を當てたままで、彼は進んで行つた。彼の踏む地面は天鵞毛のやうに柔かで且つ彈力があつた。長い間掃かれたことのない松葉や其他の木木の落葉や朽葉が一面に散り敷いてゐたからである。木の葉や枝が彼の身體に觸つた。非常に暗くて、それを避けることが出來なかつたのである。間もなく彼は兩手を前へ突き出して行く手を探ぐり探ぐり歩いてゐた。そして再三彼の手は巨大な樹の固い幹を探ぐり當てた。彼は、彼の周圍一面にかういふ樹のあることを知つてゐた。彼は到る處でそれらの樹の朦朧たる影を感じたのである。そして彼は、彼を押潰してしまはうと掩ひかぶさつてゐる巨大な幹の間で、自分が顯微鏡的微小物かなんぞのやうに不思議に思へたのであつた。向ふの方に家があることを彼は知つてゐた。そして彼は、容易に其處に達し得られる小徑があるに違ひないと思つたのであつた。
一度彼は、スツカリ進退が谷つた。前後左右どちらへ行かうとしても、樹や枝が手に觸るか、灌木の繁みへ迷ひ込むかした。そして到底どちらへも行けさうになかつた。そこで彼は用心しなが電燈を付けた。光を自分の足元の地面へ向けながら。そろそろと注意しつつ彼は、自分の周圍を照らした。煌々たる白い光は彼の進路を阻止した障碍物をクツキリと照らし出した。彼は巨大な幹と幹との間に隙間のあるのを見付けたので燈光を消して、頭上の密生せる枝葉によつて霧の滴から保護せられてゐる乾いた地面を踏みながら、其處を抜けて進んで行つた。彼の方向に對する感覺は鉛敏だつた。で、彼は、彼が家の方へ進んでゐることを知つてゐた。
そして其時に事件が起つた――想像すべからざる豫期すべからざる事件である。彼は何か柔かな生きたものを踏み付けた。そのものは、彼の身體の重味を感ずると同時に唸き聲と共に起き上つた。彼はパツと飛びのいた。そして更に飛びのく用意に身を屈めた。その得體の知れないものの攻撃に對して四邊に氣を配りながら、彼は鳥渡の間待つてゐた。そして彼の足元から起き上つて、今音も立てず動きもせずに、彼と同じやうに油斷なく身構へして待つてゐるに違ひない其生物は、一體何んであらうかと怪しんだ。其内に最早ヂツとしてゐられなくなつて來た。彼は懷中電燈を前へ突き出して、ボタンを押した。そして一目見るや否や消魂ましい恐怖の叫び聲を發した。彼は、慄へてゐる子牛、子鹿から獰猛な獅子に至るまで、あらゆるものを豫期してゐた。が、彼が見たものだけは豫期してゐなかつたのである。其の瞬間に彼の細い探照燈がクツキリと照し出したものを、彼は恐らく一千年後にも忘れることが出來ないであらう――それは白面黄髮黄髯の巨人で、腰の處に山羊の皮らしいものを纒ひ、柔かに鞣した鹿皮の靴を穿いてゐる外は、全く裸體であつた。手も足も肩も胸も赤裸々であつた。皮膚はスベスベしてゐて毛は無かつたが、日光と風とで褐色になつてゐた。そして其下には、巖丈な筋肉が肥えた蛇のやうに隆々と盛上つてゐた。
が、それは實に意外ではあつたが、彼に悲鳴を揚げさせた原因は、單にそれのみではなかつた。彼を恐怖せしめたものは、獰猛極まる顏付き、燈光にたじろがぬ青い眼の野獸的な閃き、髯や頭髮にくつついてゐる松葉、將に彼に飛び付かうとして身構へしてゐる恐るべき巨體等であつた。彼は一刹那に、彼れらのものすべてを見たのであるが、彼の悲鳴の終らぬ内に、其物は彼に向つて飛びかかつた。彼は懷中電燈を力一杯それに叩き付けて地面に突伏した。彼は、其物の足と脛とが彼の横腹に當つたのを感じた。彼は忽ち起き上つて逃げ出した。一方其物は、灌木の繁みへドツサリと重い音を立てゝ飛び込んだ。
その物音が止むと同時に、彼は停つて手と膝とで四つばひになつたままで、待つた。彼は、其物が彼を探し出さうと其邊を動き廻つてゐる物音を聞いた。で、彼は更に逃げ出すことによつて自分の居所を知らせることを恐れた。彼は、逃げ出したら屹度灌木をガサガサ云わす音によつて追跡せられることを知つてゐた。一度彼は短銃を取出したが、又考へを變へた。彼は自制を恢復してゐたので、物音を立てずに逃げ出したいと思つた。五六度彼は、其物か彼を探して叢林の中をガザガザ云はしてゐるのを聞いた。それから又時々は、其物もヂツとして耳をすましてゐるらしかつた。このことから、彼は或ることを思ひ付いた。丁度彼の片手が木切れにさはつたので注意深く腕を充分に動かすことの出來る空間があるかないかを確めてから、彼は其木切れを拾ひ上げて向ふの方へ投げた。それは餘り大きな木切れではなかつたので、隨分向ふへ飛んで行つて叢林の中へバサリと落ちた。彼は、其物が叢林の中へ飛び込んで行くのを聞いた。それと同時に彼はソロソロと向ふへ匍つて行つた。兩手と兩膝とで、注意しながら靜かに匍つて行く内に、彼の膝はジメジメした土で濡れて來た。彼は耳をすましたが、聞こえるものと云つては、呻く風の音と、樹の枝から垂れる霧の滴のみであつた。猶も、飽くまでも注意を怠らないで、彼は立上つて石の塀へ近寄り、それを攀ぢ登つて外側の徃來へ飛び下りた。
彼は草叢を分けて行つて、隱して置いた自轉車を引き出して乘らうとした。彼は、反對の側のペダルを上へあげようと足で聯輪を廻はしてゐると、ヒラリと地上へ飛ひ下りたらしい重い身體の物音が耳に這入つた。彼は一瞬も猶豫しなかつた。彼は自轉車の把手を兩手で持つて駈け出した。そして走りながらそれに跨つて、ペダルへ足が掛かるや否や全速力で疾走した。彼は後の方でバダバタいふ早い足音がしてゐるのを聞いたが、段々それは遠のいて行つて、遂には全く聞こえなくなつててしまつた。
處が、運惡く彼は、町とは反對の方向へ走り出したので、段々と丘陵道へ差しかかつて來た。彼は、其道が全く一本路で脇へそれる路のないことを知つてゐた。で、同じ路を後戻りする以外には方法はないが、さうすれば例の恐ろしいものの居る處を通らなくてはならない、彼は、再びそれに出會すだけの勇氣がなかつた。半時間後何處までも道が上りになるので、彼は自轉車を下りた。そして飽くまでも安全なやうにと、自轉車を路傍へ殘して置いて、垣を越えて丘の斜面の牧場らしい處へ入り込み、新聞紙を擴げて腰を下した。
「畜生!」彼は大きな聲で云つた、顏の汗と霧とを拭きながら。
「畜生!」彼はモウ一度云つた。そして紙卷煙草を捲きながら、どうして歸つたらいいかを思案した。
が、彼は歸らうとはしなかつた。彼は暗闇を冐して其道を通ることはすまいと決心した。そして頭を膝の上に垂れてうたゝねをした。夜の明けるのを待ちながら。
どのくらゐ經つた後だか判らないが、彼は若い草原狼の鳴き聲に夢を破られた。彼は四邊を見廻して、それが自分の背後の丘の中腹でしてゐるのを知つたが同時に夜の景色が變つた事に氣が付いた。霧は何時の間にか晴れてしまつて、星や月が出てゐた。風も殆ど止んでゐた。すがすがしいカリフオニヤアの夏の夜となつたゐた。彼は再びうたゝねを爲ようとしたが、草原狼の鳴き聲がうるさく耳についた。ウトウトしながら彼は、荒々しい奇怪な歌の聲を聞いた。再び四邊を見廻すと、例の草原狼は鳴き聲を立てるのをやめて丘の背に沿うて逃走してゐた。其のすぐ後から彼が庭で出會した裸體の生物が狼を追跡してゐたが、モウ歌つてはゐなかつた。それは若い草原狼だつたので、追跡の光景が、彼の眼界の外に出やうとする時には、今にも追ひ付かれさうであつた。彼は、寒氣がするかのやうに慄へながら立上つて垣を越え、自轉車に跨つた。この機を逸してはならぬことを彼は知つてゐたのである。恐ろしいものは最早彼とミル・ヴアレエとの間にはゐないのである。
彼は、まつしぐらに丘を馳せ下つた。が、麓の曲り角の木蔭の暗い處で、路の窪みに車輪がはまつて、彼はモンドリ打つて投げ出された。
「どうしても今晩はいけねえ」彼は壞れた自轉車のフオオクを檢査しながら呟いた。
役に立たなくなつた自轉車を肩に擔いで、彼は喘ぎ喘ぎ歩いて行つた。そして例の石の塀の處まで來た時、先刻の經驗を半ば疑ひながら、路面に足跡があるかどうか搜して見た。と、確にあつた――それは大きな獵靴の跡で指先きが深く土に喰ひ込んでゐた。身體を屈めてそれを檢査してゐると、又もや奇怪な歌の聲が聞えた。彼は其の物が草原狼を追跡する處を先刻目撃したので逃げたつて駄目だといふことを、よく知つてゐた。で、逃げ出さうとはしないで、路の向ふ側の最も木蔭の暗い處へ身を潜ませたのみであつた。
そして、再び彼は、裸體の人間に似た物が、歌を唱ひなら身輕に早く走るのを目撃した。彼の隱れてゐる處まで來ると、それは立止つた。彼の心臟は鼓動を留めた。が、それは彼の隱れてゐる處へやつては來ないで、ヒラリと空中へ飛び上つて路傍の樹の枝をつかみ、猿のやうに枝から枝を傳うて登つて行つた。それは塀の上を越して、それから約十二呎も上の空中で他の樹の枝へ移り、其處から地上へ飛び下りて見えなくなつた。彼は二三分間呆氣に取られて見てゐた後、歩き出した。
二
デエヴ・スロツタアはウオオド、ノオルス合資會社の社長ジエムス・ウオオドの社長室への通路を塞いでゐる机に忌々しげに倚りかかつてゐた。デエヴはプリプリしてゐたのである。事務所内のあらゆる人間がジロジロと怪しさうに彼の姿を眺めた。殊に彼に應接した男は特にさうであつた。
「大切な用なんだから、さう社長さんに取次いで貰ひたいのだ。」彼は云ひ張つた。
「社長は今お手紙を口授してをられるから取次ぐ譯にはいかん。」との返答である。
「又明日來なさい。」
「明日では間に合はん。鳥渡行つて社長さんに生死に關する大事件だと云つてくれ給へ。」
祕書は躊躇した。デエヴは早速それに乘じた。
「さう云つてくれ給へ、僕は昨夜ミル・ヴアレエ方面へ出掛けて行つたんだ、それについてお知らせしたいことがあるんだ。」
「君の名前は?」との質問である。
「名前なんかどうだつていい。どうせ御存じないんだから。」
デエヴは社長室へ通された時依然として挑戰的の氣持であつたが、速記者に口授してゐた立派な大男が回轉椅子を動かして彼と向合つた時、デエヴの擧動は忽ち一變した。彼には何故だか判らなかつた。そして心の内では自分自身をいまいましく思つた。
「貴下が社長のウオオドさんですね?」デエヴは間抜けた質問をした。そして其爲に一層自分自身がいまいましくなつた。彼は、そんなことを云ふ積りはなかつたのである。
「さうだ、で、君は?」との返事である。
「ハアリイ・バンクロフトと申します。」デエヴは出鱈目を云つた。「御存じないのですから、名前なんかどうでもよろしいでせう。」
「昨夜ミル・ヴアレエへ行つたと行ふことだつたが?」
「貴下は彼處にお住まひでしたね?」デエヴは問ひ返した。速記者の方をジロジロと見ながら。
「左樣。して何の用だな? 私は大變忙しいのだが。」
「實は内々で申上げたいことがあるのですが。」
ウオオド氏はキツと彼の顏を見て鳥渡躊躇してから心をきめた。
「ポツタアさんそこまででよろしい。」
婦人速記者は立上つてノオトを集めて出て行つた。デエヴはジエムス・ウオオド氏をマジマジと不思議さうに見詰めてゐたので、其紳士は彼の胸に浮びかけてゐた或る考の絲を切つた。
「で?」
「僕は昨夜ミル・ヴアレエへ出かけて行つたのです。」デエヴはマゴつきながら口を開いた。
「それはモウ聞いた。で、その用は?」
デエヴは信じ得べからざることが、段々確信と變つて行きつつある間に言葉をつづけた。
「僕は貴下の家、いや庭へ這入つたのです。」
「何の爲にだ?」
「泥棒に押入るつもりだつたのです。」デエヴは正直に答へた。「僕は貴下が支那人の料理人と二人つきりで住んでをられることを聞いので、お誂へ向きだと思つたのです。でも押入りはしませんでした。ある邪魔が這入つて出來なかつたのです。それで此處へやつて來たので、それをお知らせするためにです。僕は貴下の家の庭を山男がウロついてゐるのを見ました――モウ大變な鬼です。其奴は僕みたいな人間を八つ裂きにしてしまひます。僕は其奴に追つかけられて生命からがら逃げ出したのでした。其奴は殆ど着物らしいものは着てをりません。そして猿みたいに旨く樹へ登り鹿のやうに早く走ります。僕は其奴が草原狼を追つかけてゐるのを見ましたが、モウ今にもそれに追つ付きさうでした。」
デエヴは言葉を切つて、彼の言葉の効果を求めた。が、何んの効果もなかつた。ジエムス・ウオオドは落付き拂つてゐて、稍好奇心を起したらしいのみであつた。
「實に不思議だ、實に不思議だ。」彼は呟いた。「山男だと云つたね。で、何故わざわざ知らせに來たのだね?」
「貴下に危險なお知らせするためです。僕は生れつき氣の弱い方ぢやありませんが、人を殺すことは餘り好きぢやありません……止むを得ない場合の外はです。僕は貴下が危險に瀕してゐることを知つたのです。で、貴下にお知らせしようと思つたのです。全くの處それだけにやつて來たのです。勿論貴下が、それに對して何か下さらうと云ふのでしたら僕はいただきます。其事も考へなくはなかつたのです。が、下さらうが下さるまいが、どちらでも關ひません。僕は貴下にお知らせしたのですから、僕の義務はすんだといふものです。」
ウオオド氏は何事か打案じながら机の上をコツコツと叩いてゐた。デエヴは、それが清潔ではあるが黒く日に焼けてゐて、大きく強さうな手であるのに氣が付いた。それから又先刻顏を見ると同時に眼に這入つたものに注意した――それは一方の眼の上の額に張られてゐる新らしい絆創膏の小片である。それでも猶彼の心の内に浮んで來ようとしてゐる考は、餘りに信じ得べからざるものであつた。
ウオオド氏は上着の内側のポケツトから紙入れを取出し一枚の紙幣を抜いて、それをデエヴに與へた。彼は、それをポケツトに納めながら、それが二十弗札であることに注意した。
「いや有難う。」ウオオド氏は云つた。會見が終つたことを示しながら。「早速調べさせることにしよう。山男がウロついてゐては確に危險だ。」
がウオオド氏の態度が餘りに穩かだつたのでデエヴは勇氣を恢復した。それに或る新らしい推測が胸に浮んだのである。山男はウオオド氏の兄弟に違ひない、狂人なので祕密に監禁してあるのであらう。デエヴは、さういふ風な話を聞いたことがある。多分ウオオド氏は、それを他人に知られたくないのであらう。それで二十弗くれたのであらう。
「時に、」デエヴは云ひ出した。「今思ふと其山男は、何處か貴下に似てゐたやうですぜ――」
デエヴの言葉は、それ以上續かなかつた。其瞬間彼は、一大變化を目撃した。彼は昨夜見たのと同じ獰猛極まる青い眼と、同じ攫みかからうとする爪のような手と、同じやうに彼に向つて躍りかからうとする恐ろしい巨躯とが眼に這入つたが、今度は投げ付けやうにもデエヴは懷中電燈を持つてゐなかつた。で、彼は、兩手でギユツと攫まれたが、それには實に恐ろしい力が籠つてゐたので彼は苦痛の呻きを發した。彼は、咬み付かうとする犬と同じやうに、大きな白い齒が現れたのを見た。その齒が彼の咽喉の方へ近付いた時、ウオオド氏の口髯が彼の顏を撫でた。が、咬まれはしなかつた。その代りにデエヴは、相手の身體が鐵のやうな自制で硬張るのを感じたと同時に投げ飛ばされた。それは實に輕々と投けたのであるが非常な力が籠つてゐたので、彼は壁に衝突し床の上にコロコロと轉がつた。
「どういふ積りで俺を脅喝にやつて來たのか?」
ウオオド氏は彼を叱咤した。「さつきの金を返せ。」
デエヴは默つて紙幣を返した。
「貴樣はそんな積りでやつて來たのではないかと思つたが、モウ判つた。二度と此邊をマゴマゴしてゐると監獄へ叩き込んでしまふぞ。いゝか?」
「ヘイ。」デエヴは喘いだ。
「ぢや歸れ。」
で、デエヴは默つて出て行つた。彼の兩腕は先刻恐ろしい力で攫まれたので出血して激痛に堪へられなかつた。彼が扉の握りをつかんでゐる時、彼は留られた。
「貴樣は運のいゝ奴だ。」ウオオド氏は云つた。そしてデエヴは、彼の顏付きや眼が殘忍で、傲慢で、慾望に輝いてゐるのに氣がついた。「貴樣は運のゝい奴だ。俺の考へ一つで、俺は貴樣の手足をへし折つて其處の反古籠へ叩き込むことだつて出來たのだ。」
「ヘイ。」デエヴは云つた。其聲には絶對的の承認が含まれてゐた。
彼は扉を開けて出て行つた。例の祕書が、どうした? といふやうな顏付きで彼を見た。
「畜生!」デエヴの捨て白はこれだけだつた。そして、この一語と共に、彼は事務所からも、この物語からも全く出て行つてしまつた。
三
ジエムス・ゼ・ウオオドは當年四十歳バリ/\の實業家で、然も非常に不幸な人であつた。四十年間彼は、彼のみのものである一個の問題を解決すべく空しい努力を續けて來た。其問題は年を取るに從つて層一層悲慘な苦惱となつて來たのである。彼は一人でありながら同時に二人であつた、そして年代的に云ふと、これらの二人は數千年以上も距つてゐた。彼は二重個性の問題を、複雜で神祕な心理學界の專門の大家連にも劣らぬほど深く研究したのであつた。が、彼に取つて彼は記録されてゐる如何なる實例とも違つてゐた。最も想像力に富んだ小説家の奇想も、彼の樣な場合は描かなかつた。彼はジイキル博士とハイド氏でもなかつた。又キプリングの「世界一の奇談」中に出て來る不幸な青年とも違つてゐた。彼の内にある二つの個性は、如何なる場合にも相互の存在を意識してゐるやうに混淆せられてゐた。
彼の一つの自己は近代的の教養を受けて十九世紀末から二十世紀の初めにかけて生活してゐる人間であつた。彼のモウ一つの自己は、數千年前の原始的状態に棲息する野蠻な未開人であることを、彼は自覺してゐた。が、どちらが彼でどちらが彼でないのか、それは彼自身にも判らなかつた。それといふのが彼は、如何なる場合にも常に二つの自己であつたからである。一つの自己の爲てゐることを、他の自己が意識しないといふやうな場合は、殆ど稀であつた。それと同時に彼は原始的の自己が生活してゐた過去の記憶も幻影も有してゐなかつた。その原始的の自己は現在に生活してゐた。然しそれは現在に生活しながら、その遠い昔における生活の樣式を生活するやうに強制せられてゐた。
彼は其幼少時代に、兩親や顧問醫師に取つては一個の疑問だつたが、彼等は終に彼の不規律な行動の原因のホンの微かな手懸りをすら握ることが出來なかつた。かくして彼等は、午前中における彼の甚だしい睡眠状態をも、夜間における彼の甚だしい活動状態をも、理解することが出來なかつた。彼が夜間廊下を徘徊してゐたり、目まひのするやうな高い屋根の上を匐つてゐたり、丘の間を駈け廻つたりしてゐるのを發見した時、彼等は夢中歩行病者だと斷定した。然も實際彼は覺醒状態にあつたので、唯原始的自己の夜間彷徨を強制せられてゐたにすぎないのである。一度或る鈍感な醫師の質問に對して、彼は眞實を話した。すると彼の告白は、「夢」といふ侮蔑的な斷定を下されてしまつて、彼は甚だしい屈辱を感じたのであつた。
黄昏と夜とが近づくにつれて彼は眠られなくなつた。部屋の四壁は、忌はしいもの、活動を碍げるものであつた。彼は、暗の中から彼に向つて囁く無數の聲を聞いた。夜が彼を呼んだ。彼は本能的に夜間彷徨することを好んだ。が、何人もそれを理解しなかつた。一方彼も決して二度と説明しようとは試みなかつた。家族の人々は、彼を離魂病者だと斷定してそれに對する手當を施した――が、それらの手當は大抵無駄であつた。稍大きくなるに從つて、彼は段々ズルくなり、夜間の大部分を野外で、彼の他の自己を實現するために過した。その結果彼は、午前中睡眠した。午前中の學習や通學は不可能であつた。彼に何か教へようとするには午後家庭教師の手によるの外はなかつた。かくして彼の近代的自己は教育せられたのである。
然しながら、子供としての彼は何時までも一個の疑問であつた。彼は愚鈍な殘忍さと兇暴さとを有する小さな惡鬼として知られてゐた。顧問醫師等は、祕かに彼を精神的怪物であり低能兒であると判斷してゐた。彼と友達になつた少數の子供達は、彼を素敵だと云つてほめたが、そのくせ彼等は皆彼を恐れてゐた。彼は、木登りでも、泳ぎでも、駈けつこでも、惡戯でも、彼等の内の誰よりも上手にやつてのけた。そして誰一人彼と喧嘩をしようなどといふものはなかつた。彼は途方もなく強かつた。その上狂氣のやうに猛烈であつた。
九歳の時、彼は家出をして丘陵へ這入り込んだ。そして、七週間後に發見せられて家へ連れて歸られるまで夜間獲物を獵つて生活してゐた。その間彼がどうやつて丘陵で起居し飮食してゐたかが、不思議に思はれてゐた。彼は兎を殺したり、鶉を生捕りにしてムシヤムシヤ喰つたり、百姓家の鳥屋を荒らしたりしたことも、岩窟の中へ乾いた木の葉や、草を敷いて、數十日間の午前中を温かく氣樂に寢たことをも、決して口外しなかつた。家族の人々は何んにも知らなかつたのである。
大學時代の彼は、午前の講義には居睡と鈍感とで、午後には才氣煥發で、大學中の評判になつた。彼は參考書を讀んだり、同級生のノオトを借りたりなどして實に厭な午前の講義を辛うじて胡麻化して行つたが、午後の講義では驚くべき才能を發揮した。フツトボオルでは、彼は其巨躯で敵を恐怖せしめた。又殆どすべてのトラツク競技においても、時々勃發する奇怪な獰猛な憤怒を除けば、彼の勝利は信頼することが出來た。が、彼の仲間は、彼と拳鬪をすることを恐れた。彼は彼の最後の一番には何時も相手方の肩に咬み付く癖があつたのである。
大學を卒業すると、彼の父は思案に餘つて、彼をウオミング牧畜場の牛飼共の所へ追ひやつた。三箇月後、流石に荒くれた牛飼共も、全く彼には手古摺つてしまつて、彼の父に宛て、一日も早く山男を引取りに來て貰ひたといふ電報を打つた。そして彼の父が彼を連れに來た時、牛飼共はこの頭髮を眞中から分けた大學出の青年と一緒に暮らすくらゐなら、あの吠え叫ぶ喰人種族、譯の判らぬ囈語を云ふ精神病者、獰惡なゴリラ、毛の荒い大熊、人を喰ふ虎と暮す方が未だしもマシであると申立てた。
彼は、彼の原始生活の記憶を有してゐないと云つたが、一つの例外があつた。それは言語である。或る隔世遺傳作用によつて、原始的自己の言語が種族的記憶として彼に傳はつた。幸福、歡喜、若くは戰鬪に際して、彼は屡々怪奇野蠻な歌謠を喚いた。これによつて、彼は、既に數千年の昔に死んで土と化してゐるべき筈の彼の一つの自己の、時空における所在を明らかにしたのである。一度彼は、初めからそれを聞かせる積りで、ウエルツ教授の居る處で例の昔の歌を歌つたウエルツ教授は、古代サキソン語の講義をしてゐる篤學熱心な言語學者だつた。第一の歌が始まるや否や忽ち教授は耳をそばだてゝ、一體それは何處の雜種語か、それとも獨逸のどの地方の俗語かと質問した。第二の歌が終ると、教授は甚だしく興奮して來た。その時ジエムス・ウオオドは烈しい喧嘩や挌鬪をやつてゐる際常に彼の口から知らず識らず發せられる歌を唱つて、演技をおしまひにした。するとウエルツ教授は、それは獨逸の地方語ではない、古代獨逸語若くは古代チユウトン語であつて、從來學者によつて發見され傳へられたものよりも、違に古い時代のものであると斷言した。それは餘りに遠い昔の言語なので、彼にも判り兼ねたが、彼の知悉せる言語の形體の幽かな痕跡が到る處に殘つてゐた。で、彼の鋭敏なる直覺は、それが眞實のものであることを、彼に語つたのである。彼は其歌謠の出所を質問して、其歌の記してある貴重な書籍を借りたいと云つた。同時に又彼は、何故ウオオドはこれまで獨逸語を少しも知らないやうな風をしてゐたのであるかと訊いた。そしてウオオドは、彼が獨逸語を少しも知らないことを説明することも出來ず、其貴重な歌の本を貸すことも出來なかつた。かくて、數週間に亘る懇請と辯解との後、ウエルツ教授は、ウオオドを憎惡するやうになつた。彼は、ウオオドを嘘突きだと信じた。そして、最も古い言語學者が想像したよりも更に古い、驚くべき言語で書かれた書籍を一見することすらも、彼に許さない學生は、實に憎むべき自己主義者であると考へた。
が、一方この甚だしく二重自己の混淆せる青年に取つては、彼の半ばが近代アメリカ人で、他の半ばが古代チユウトン人であると知る事は、大して役には立たなかつた。けれども彼の内にある近代アメリカ人は決して意氣地なしではなかつた。で、彼は(彼等ではなくして彼で、二つの自己以外に統一せる一個の存在を有してゐるものとして)、彼の他の自己を午前中睡むからせる夜間彷徨の野蠻人的な自己と、他の普通人と同じやうに事務を處理し普通の生活や戀愛を欲してゐる教養ある文化的の自己との間に、一種の妥協を成立せしめて、それを強制した。彼は午後と宵とを一方に與へ夜間を他のものに與へた。そして午前と夜間の一部とを、二つの自己の睡眠時間とした。が、早朝には、彼は文明人として寢臺の上に寢てゐた。夜間は野獸のやうに寢た。丁度デエヴ・スロツタアが、森の中で彼を踏み付けた時のやうに寢るのである。
彼は父を説き伏けて資本を出して貰ひ、實業界に身を投じたが、機敏且巧妙に仕事をやつてのけた。彼は午後の事務に當り、彼の共同出資者が午前の事務に當つたのである。彼は、宵の内は社交に時を過してゐるが、九時十時頃になると押へ切れない不安に襲はれる。そして翌日の午後まで、人間の多く集る場所からは姿を隱してしまふのである。友人や知己は、彼は多くの時間をスポオトに費してゐると思つた。それは彼等の思つた通りであつた。然し若し彼等が、ミル・ヴアレエの丘陵で夜間草原狼を追つかけてゐる彼の姿を見たとしても、彼等は到底彼のスポオトが如何なる種類のものであるかを夢にも想像することは出來なかつたであらう。そして又縱帆式帆船の船長達が、寒い冬の朝ラクウン海峽の潮衡で、又は陸から幾浬も離れたエンゼル島とゴオト島との急流で、泳いでゐる男を見たと話しても、誰一人それを本當にするものはなかつた。
ミル・ヴアレエの山莊に、彼は李清といふ支那人と二人つきりで生活してゐた。この料理人兼執事である支那人は、主人の奇行の數々を知つてゐたが、それを口外しないでゐればいゝ給金が貰へたので、決して他人に洩らすやうなことはなかつた。夜間を滿足の行くやうに過した後、朝を睡眠に費し、李清の作つた朝食を喫してジエムス・ウオオドは正午の渡船でサン・フランシスコへ渡り倶樂部や事務室へやつて行つた。其時の彼は、市内到る處で見受けるやうな通常普通の實業家であつた。が、夜が更けて行くと、夜が彼を招いた。彼の知覺力が速度を増して、不安が迫つて來た。彼の聽覺は不意に鋭敏になつた。無數の夜の物音が彼に誘惑的な聞き馴れた物語を話した。そして若し自分一人だと、彼は狹い部屋の中をアチラコチラと歩き廻つた、丁度檻に入れられた山野の野獸と同じやうに。
一度彼は向ふ見ずにも戀をした。彼は二度とその樂しみに氣を許さなかつた。彼はそれを恐れたのである。そして幾日間も彼の戀の相手の若い貴婦人の腕や肩や手首からは、大小種々の黒青の内身傷が消ゑなかつた――それは彼が愛しさの餘り彼女に與へた愛撫の印だつたが、夜が更けすぎてゐたのである。そこに過失があつた。若し彼が午後戀をしたのだつたら、何處までも穩和な紳士として戀をしたに違ひないから萬事好都合だつたのである――が、夜間の彼は、陰鬱な獨逸の森林に住む荒くれた掠奪結婚をする野蠻人だつた。彼の智識は、彼の午後の戀を都合好く進行せしめ得ることを思はせた。が、同じ智識は彼に結婚が悲慘なる失敗に終るべきことをも確信せしめた。彼は、結婚して夜間彼の妻と顏を合はす時のことを想像するだに恐ろしかつた。
そこで彼は、すべて戀愛めいたことは斷念してしまつた。そして彼の二重生活を整調し、事業で百萬からの金を儲け、娘を押付けようとする母親達や種々な年輩の美しい彼に氣のある令孃達に對しては飽くまでも遠慮勝ちに振舞つた。その内にリリアン・ガアスデエルと知合ひになつたが、晩の八時位後には決して彼女に會はないといふ嚴重な規則を立てて、夜間は草原狼を追つかけたり、森の中の岩窟に寢たりなどしてゐた。かくして彼の祕密ほ、李清以外のものには全く知られないですんだ。處が今デエヴ・スロソタアに嗅ぎ出されたのである。あの男に、彼の二重自己を見現されたといふことは、少なからず彼を恐れさせた。彼はあの泥棒をアベコベに取りひしいでは置いたが、泥棒が人に喋べらないとも限らぬ。若し又彼が喋べらなかつたとしても、早晩誰か外のものに見付けられるに違ひないのである。
ここにおいてかジエムス・ウオードは、彼の半ばであるチユウトン族的野蠻人を制御すべく新な悲壯な努力を開始した。そして彼は、實に巧妙に午後と宵の内とだけしかリリアンに逢はないやうな手筈にしたので、終に彼女は彼と將來の幸不幸を共にする約束をした。其の時彼は心祕かに、自分達の將來が幸福であれかしと熱心に祈つたのであつた。試合を前に控へての拳鬪家の猛烈な忠實な鍛錬も、この當時における彼が彼の内にある野蠻な未開人を征服すべく自分を鍛錬した烈しさに較べたら、到底問題にはならなかつた。それから又彼は、晝の内に自分を疲勞させるやうにと努力した。これは、睡眠によつて夜の呼聲が耳に這入らないやうにする爲であつた。彼は事務所から休暇を取つて、長い狩獵に出かけた。そして鹿の行方を追うて最も險阻で困難な山地を駈け廻つた――何時も晝間にである。で、夜間はヘトヘトに疲れ切つて屋内に寢てゐることが出來た。一方又自宅には種々の運動器具を備へ付けて置いて、普通の人々が十回繰返す運動を、彼は數百回繰返した。更に又、一個の妥協的方法として二階へ出部屋を建てゝ、それを寢室に當てた。其處では、少くとも新鮮な夜の空氣を呼吸することが出來た。彼が森の中へ脱出しないやうにと二重の金網戸が設けられた。そして毎晩李清は、彼が其處に這入ると外から錠を下し、毎朝外からそれを開けた。
かくて八月になると、彼は幾人かの新らしい召使を雇ひ入れて李清を手傳はせミル・ヴアレエの山莊で招待會を催すこととなつた。客はリリアンと彼女の母親と兄、及び數人の共通の友人達であつた。二晝夜は萬事が都合好く進んで行つた。三日目の晩には十一時ごろまでブリツヂをやつてゐたので、彼が得意になつたのもあながち無理ではなかつた。彼は彼の不安を巧に隱した。が、幸か不幸かリリアン・ガアスデエルが彼の敵手で彼の右手に席を占めてゐた。彼女は如何にも弱弱しい可憐な花のやうな婦人であつた。そして彼の夜の氣持では其纖弱さが彼を刺戟した。彼は愛しさの餘り、彼女を兩手で抱き上げて手玉に取りたくて仕方がなかつた。殊に彼女が、彼を相手にして勝つてゐる時に、さう爲たかつた。
彼は鹿狩犬を一疋連れて來させて、緊張に堪へられなくなると犬を愛撫することによつて氣を紛らした。モジヤモジヤした毛皮との接觸は、忽ち彼の心を輕くして、彼に勝負を續けることを得させた。何人も主人が爲しつつあつた恐ろしい心の内の鬪爭には氣付かなかつた、彼は如何にも快活に笑ひながら、落付いて熱心に勝負を爭つてゐたから。
客達が寢るために自分達の部屋へ行つた時、彼は彼等の居る前でリリアンと別れた。いよいよ出部屋へ這入つて外から錠を下されると、彼は平生の二倍も三倍も四倍も烈しく室内運動をやつて、スツカリ疲勞してから寢臺に横になつた。そして寢入らうとしながら、彼を少なからず惱ましてゐる二つの問題について思案した。其の一つは室内運動である。それは一個のパラドツクスであつた。彼が、かうやつて猛烈に運動すれば運動するほど、彼は益々強健になつて行つた。彼がこれによつて、夜間彷徨するチユウトン人的の自己を疲労させてゐたことは事實だけれども、それは單に彼の力が彼以上のものとなつて、彼を征服してしまふ運命的な日の到來を延ばしてゐるにすぎないらしかつた。其時における力は、彼が從來經驗した以上に恐ろしいものであるに違ひないのである。今一つの問題は、彼の結婚及び日沒後彼の妻を回避する爲に用ひなくてはならない策略についてである。かくて、これといふ善い智慧の浮ばぬ内に寢入つてしまつた。
さて、あの巨大な黒熊が其晩何處からやつて來たかは、長い間疑問であつたが一方ソオサリトオで興行してゐたスプリングス兄弟曲馬團の者共は「世界一の大黒熊ビツグ・ベン」の行方を長い間搜索したけれども、容易に手懸りがなかつたのである。が、ビツグ・ベンは檻を抜出して數百といふ山莊や別莊の散在する中で、特にジエムス・ゼ・ウオオドの庭を選んで這入り込んだ。ウオオド氏は自分でそれと氣の付いた時、早くも起き上つて武者震ひに緊張し、胸は戰鬪に躍り、古い戰ひの歌を口ずさんでゐた。外からは獵犬共の烈しい唸りや、吠え聲が聞えた。そして耳を聾する喧騷の中からナイフの一刺しのやうに鋭い、打たれた犬の悲鳴が聞えて來た。彼はそれが、自分の犬であることを知つてゐた。
上靴も穿かずに寢間着のままで、彼は李清が嚴重に錠を下ろした扉を蹴破り、階段を駈下つて戸外の闇へ出た。彼の素足が砂利を敷いた車道に觸れると、彼は忽ち立停つて踏段の下に手を突込んで豫て隱して置いた大きな節くれ立つた棍棒を取出した――丘陵における度々の奇怪な夜の冐險に何時も彼の伴侶だつた棍棒である。物狂はしい犬の唸き吠える聲は段々近づいて來た。棍棒を打振り打振り彼は、それに出會う爲に樹の繁みの中へ躍り込んだ。
物音に眼を覺した家中の人々は、廣い露臺に集つた。誰かが電燈を付けたが、彼らはお互の吃驚した顏以外には何も見ることが出來なかつた。煌々と照り輝く車道の向ふには、樹木が不可入の暗の壁を造つてゐた。が、何處か其黒闇の中で恐るべき鬪爭が演ぜられてゐたのである。實に物凄い動物の叫びに次いで大きな唸り吠える聲が聞えた。物を毆り付ける音や、灌木の叢林が重い身體で打ち碎かれ踏み躙られる響が聞えた。
戰鬪の場所は樹々の間から見物人の眼下の車道に移動した。そこで彼等は目撃した。ガアスデエル夫人はアツと叫んで失神しつつ我が子に縋り付いた。リリアンは、其後幾日間も彼女の指先に傷跡を殘したほど固く手摺りに補まりながら、髮の毛の黄色い狂暴な眼付きをした大男の姿を戰慄しながら見詰めてゐた。其大男は誰あらう彼女の夫たるべき人間であつた。彼は大きな棍棒を打振りながら、彼女が今までに見たどの熊よりも大きい毛深い怪物を相手に、猛烈且つ悠然と鬪つてゐた。熊の前肢の爪は、ウオオドの寢間着の一部を引き裂いて其處からは血がにじみ出てゐた。
リリアン・ガアスデエルの恐怖は大部分その愛する人についてであつたが、その人に對する恐怖も少からず含まれてゐた。彼女は彼女の婚約者の固い糊の付いたシヤツと世間並の衣服との下に、こんな逞ましい立派な野蠻人が隱れてゐやうとは、夢にも思はなかつた。そして又彼女は、男がどうして鬪ふものか少しも知らなかつた。こんな戰鬪は確に近代的ではなかつた。それに彼女は知らなかつたけれども、彼女の目撃してゐたのは近代人ではなかつた。これはサン・フランシスコの實業家ジエムス・ゼ・ウオオド氏ではなかつた、無名不知の野性の粗暴な生物で、或る偶然の機會から數千年後に再生したものであつた。
獵犬共は相變らず物狂はしい唸りや吠え聲を揚げながら、熊と人間との周圍をクルクル馳せ廻り、時々其處へ飛び込むかと思へば飛びのいて、熊の注意を他へ轉ぜしめた。熊が、こんな側面攻撃に向はうとすると、忽ち人間は飛び込んで行つて棍棒が打ち下された。その一撃毎に怒を増して、熊は猛烈に襲ひかかつた。一方人間はヒラリヒラリと身をかはして、犬を避けながら熊の背後へ廻つたり、兩側へ廻つたりした。
結末は不意に來た、黒熊は急に身體の向を變へて、その恐ろしい前肢で獵犬の一疋をはたいた。犬は肋骨をグジヤグジヤにされ脊骨を折られて、二十呎も向ふへ投げ飛ばされた。すると人間獸は狂氣になつた。野蠻な譯の判らぬ叫び聲を揚げた其唇には忿怒の泡が湧き立つた。それは飛び込みざま混棒を兩手で大上段にふり上げ、今後肢で立上つた大熊の腦天へ力一杯打ち下した。如何に大熊の頭蓋骨でも、この恐ろしい力の籠つた猛打には堪ふべくもなかつた。熊はドタリと地上に倒れた。と同時に獵犬共は四方から襲ひかかつた。其時走り廻る獵犬の群の間から、かの人間はヒラリと熊の死骸の上に飛び上つて白い電燈に照されながら混棒に身を支へて不思議な言葉で勝利の歌を歌つた――
客達は喝采すべく彼の處へ駈寄つた。が、ジエムス・ウオオドは不圖古代チユウトンの眼をもつて、彼の愛してゐる罐弱く美しい二十世紀の乙女を見た。其時頭の中で何かがバチツと音を立てた。彼はヨロヨロよろけながら彼女の方へ進んだ。混棒を取落して倒れさうであつた。彼は確にどうか爲ていたのである。彼の頭腦の中には、堪へ切れない苦痛があつた。彼の靈魂は二つに裂けて飛んでゐるやうであつた。他人の興奮せる視線を辿つて彼は振返つて熊の死骸を見た。その光景は彼を恐怖せしめた。彼はアツと叫んで逃げ出さうとしたが、人々は彼を引留めた。
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ジエムス・ゼ・ウオオドは今でちウオオド・ノオルス合資會社の社長であるが。が、彼は最早田舍には住んでゐない。又夜間月光の下で草原狼を追つかけて走り廻つたりなどしない。彼の内の古代チユウトン人は、ミル・ヴアレエで熊と鬪つた其夜から全く死んでしまつた。ジエムス・ゼ・ウオオドは今、徹頭徹尾ジエムス・ゼ・ウオオドである。彼は最早原始世界の野蠻な時代錯誤と、自己の存在を判つてはゐない。そして文明的恐怖の咒咀を何から何まで知悉してゐるほどに、ジエムス・ゼ・ウオオドは近代的である。彼は今暗闇を恐れる。そして夜の森林は彼に取つては地獄に等しい恐怖である。都會における彼の邸宅は最新式で、彼は泥棒除けの工夫に非常な興味を示してゐる。彼の家庭には電線が無暗矢鱈に引張り廻してあつて、就寢時間後には客が大きな呼吸をしてさへも非常報知器が動き出すといふ調子でゐる。それから又彼は組合せ式鍵なし錠を發明した。それは旅行先きへでも自由にポケツトに入れて携帶することが出來て、如何なる扉にも旨く應用されるものであつた。が、彼の妻は彼を臆病者だとは思つてゐない。彼女は彼をよく知つてゐる。彼の剛勇は、ミル・ヴアレエの挿話を見聞してゐる友達の仲間では、一度も疑はれたことはなかつた。