ゼンダ城の虜

原題
The Prisoner of Zenda
作者
アンソニー・ホープ
作者(英語表記)
Anthony Hope
翻訳者
枯葉

5章:代役の冒険

フリッツ・フォン・ターレンハイムとザプト大佐を背後の手近な位置に控えさせ、私は食堂を出て構内に足を踏み出した。最後に私は、リボルバーが手ごろなところにあるかどうか、剣が鞘から抜きやすくなっているかどうか、触って確認しておいた。将校や高官たちの陽気な集団が私のために整列していた。その先頭で、背の老人が、勲章をびっしりとぶらさげて、軍人らしく佇んでいた。ルリタニアの赤薔薇を象徴する赤と黄色の飾り紐を身につけている。ちなみに私の胸にも、本当はそれに値しないのだが、同じものがぶらさがっていた。

「ストラケンツ元帥だ」とザプトが囁き、私は、自分がルリタニア陸軍でもっとも有名な老将軍の前にいることを知った。

元帥のすぐ後ろには、痩せた背の低い男が立っていた。黒と深紅のゆったりとしたローブを身に纏っている。

「王国宰相」とザプトが囁く。

元帥は、短いながらも誠意ある言葉で私に挨拶し、続いてストレルサウ公の謝罪を伝えた。公爵は、急に気分が悪くなったため、駅までくることができなくなった。が、大聖堂で陛下をお待ちすることをお許し願いたい――ということらしい。私は懸念の意を表明して、元帥の弁解をたいへん穏やかに受けとめ、著名な人物が次から次へと挨拶してくるのにいちいち答えていった。誰にも秘密を暴かれることなく、またほんの疑いすら受けなかったので、神経が落ちつきを取り戻してゆき、心臓の鼓動もふだんどおりに静まってゆくのを感じた。しかし、フリッツはまだ青ざめており、元帥と握手するために伸ばした手は、木の葉のようにうち震えていた。

それからまもなく、私たちは隊列を組んで、駅の扉に向かって進んでいった。そこで私は、元帥にあぶみを支えてもらいながら、馬にまたがった。高級文官たちはそれぞれの乗り物に移動していったところで、私は通りを進み始めた。右手には元帥。左手にはザプト(私の主席副官として、この位置につく資格があったのだ)。ストレルサウの街は、古臭いところもあれば、真新しいところもある。広々とした現代的な並木道と居住地区が、抱きかかえるようにして、狭くて曲がりくねった、絵に描いたような昔ながらの街並を囲んでいた。外周部には、上流階級の人々が住み、内側には商店が並んでいる。その繁栄した前面の背後には、人は多くてもみすぼらしい路地が隠されているのだった。極貧で不穏で(いろいろな意味で)警察にやっかいをかける人々がそこにはぎっしりと住んでいる。あらかじめザプトに教えられていたとおり、こういった社会的・地域的隔絶は、もうひとつ、私にとってはより重要な隔絶と一致していた。新市街が国王派であるのに対して、旧市街はストレルサウ公ミヒャエルこそ希望であり、英雄であり、最愛の存在だったのだ。

チャールズ・ダナ・ギブソンによる挿絵:赤けりゃ本物!

グランド大通りに沿って王宮のある大広場まで進む。とても立派な光景だった。この地域では、私は献身的な味方に囲まれていた。あらゆる家に赤い飾り紐がかけられ、エルフブルク家の旗や銘で飾りたてられている。その通りの両側には、桟敷が組み上げられており、私は会釈しながら、人々の歓呼と祝福とはためくハンカチの下を進んでいった。居並ぶバルコニーに満ちた派手に着飾っている貴婦人たちが、拍手したり、お辞儀したり、きわめて晴れやかな眼差しを私に投げかけたりしてくれる。赤い薔薇が私の上に降り注いだ。そのなかの一輪が馬のたてがみにひっかかったので、私はそれをとって自分のコートに指した。元帥がにやりと笑った。私は彼の表情を盗み見たが、感情のなさすぎる表情だったので、私は彼が私に共感してくれているのかどうか計りかねた。

「エルフブルク家に赤薔薇を、元帥」私が陽気に言うと、彼は頷いた。

私は「陽気に」と書いた。妙な言葉を使うものだと思われるに違いない。しかし、本当のところ、私は興奮に酔っていた。そのとき私は信じていた――というか、思いこんでいた――私は本物の王なのだと。そして、豪快に笑って見せながら、美女たちのバルコニーをふたたび見上げた……そして、はっとなった。私を見下ろしている、堂々とした微笑みを浮かべたその美しい顔は、先の旅の友のものではないか――アントワネット・ド・モーバンだ。彼女もまたはっとなって、唇を動かして、身を乗り出して私を見つめた。そして私は、自分を落ちつかせながら、真正面から彼女の視線を受けとめた。その間、私はふたたびリボルバーを確かめていた。考えてみてくれ、彼女がもし大声で叫んだとしたら――「あれは王さまじゃない!」と。

結局、私たちはそのまま行きすぎた。元帥は馬上で振りかえると、手を振った。すると重騎兵の輪が私たちに近づいてきて、そのために群集は私たちのそばにくることができなくなった。私たちは、私の区域を出てミヒャエル公爵の区域に入ったのだ。元帥のこの行動は、言葉よりもはっきりと、この街の感情がどういう状態にあるかを、私にはっきりと分からせた。しかし、もし運命が私を王と成したのであれば、私のほうでも、いちおう、王としての役割を華麗に果たせるはずだ。

「なぜ隊列を変えるのだ、元帥」と私。

元帥は白い口髭を噛んだ。

「こうしたほうが賢明でありましょう、陛下」と呟く。

私は手綱を引いた。

「前衛を先に進ませろ」と私。「50ヤード離れるまでだ。それから、元帥とザプト大佐、それに我が友人たちは、ここで私が50ヤード先に行くまで待て。誰一人、それ以上私に近づくことがないように。彼ら臣民に、王が臣民を信用しているところを見せるのだ」

ザプトが私の腕に手を置いた。私はそれを振り払った。元帥はためらっている。

「私の言うことが分からぬのか?」と私が言うと、元帥は、ふたたび口髭を噛み締めて、命令を下した。私は、ザプト老人が髭の陰で苦笑しているのを見ていたが、彼は私に向かって首を振った。もし私が白昼のもとストレルサウの通りで殺されてしまったら、ザプトの立場は困難なものになるだろう。

ちょっと言っておくべきかもしれない。あのとき私は、ブーツ以外、全身白ずくめだった。ところどころに金箔を施された銀の兜。襷状の赤い飾り紐が私の胸によく映えている。もし私が、慎ましやかにも、このときの私が見事な容儀だったと認めなかったとしたら、王に対してとんだご挨拶を述べるようなものだ。人々もそう思ったのだろう。私が単騎、わずかに飾りたてられた程度の陰気で黒っぽい旧市街の通りにさしかかったとき、最初は囁き声、それから歓声が上がった。そして、料理店の上の窓から、ひとりの女性がこの地方の古い格言を叫んだ。

「赤けりゃ本物!」そこで私は、高らかに笑って兜を外し、彼女に私が「本物の色」の持ち主だと見えるようにした。人々がふたたび私に歓声を上げた。

こうして単騎進むのはいっそう面白かった。群集のコメントを聞けたからだ。

「ふだんより青白いね」とあるものが言う。

「おまえもあの方みたいに生きてれば青白くなるさ」これは、たいへんけしからぬ答えだ。

「思ってたより大柄な人だな」とまた別のが言う。

「なるほど髭の下にはちゃんと顎があったのか」と3人めのコメント。

「写真で見たのよりもハンサムね」とかわいらしい娘さんがわざとらしい大声で言った。どうしても私に聞かせたかったのだろう。単なるお世辞に違いない。

しかし、こうして賛意や興味を表す人々もいたにはいたのだが、大多数は私を沈黙と愛想のない眼差しとで迎え入れた。親愛なる弟ぎみの肖像がほとんどの窓に飾りつけられている――王への挨拶としてはちょっと毒が強すぎるようだ。私は、王がこの不愉快な光景をごらんにならずにすんだことを喜ばしく思った。王は気の短い人だったし、ひょっとしたら、私ほど穏やかにこの光景を受けとめられなかったかもしれない。

やがて、私たちは大聖堂に到着した。そのすばらしい灰色の正面部が、飾りたてられた数百の彫像や、ヨーロッパに誇る両開きの樫の扉とともに、はじめて私の前に立ちはだかった。私は急に、自分の無謀さかげんを感じて圧倒されそうになった。馬から下りたとき、何もかもが霞んで見えた。私は元帥とザプトがおぼろげに見え、豪華なローブをまとって私を待っている大勢の司祭たちもおぼろげに見えた。そして、オルガンの響きを耳にしながら大身廊を歩き始めたときも、目はまだ霞んでいた。その場を埋め尽くすきらびやかな人々の群れもまったく見えず、枢機卿が大司教席から立ちあがって私に挨拶をしたときも、かろうじてその堂々とした人影を見分けることができたというほどだった。はっきりとした顔が2つ、私の眼前に並んで立っていた。片方は少女の、白くて美しい顔で、輝かしいエルフブルクの髪(女の場合は輝かしいものなのだ)という冠を戴いていた。もう一方は男の顔で、血が余っているらしい赤い頬に黒い髪、そして黒ずんだ瞳をしている。これらの特徴から、私はとうとう我が弟、ブラック・ミヒャエルと対面しているのだと悟った。ミヒャエルは私を見たとたん、赤かった頬をあっというまに青ざめさせ、兜を床に取り落として大きな音を立てた。思うにミヒャエルは、そのときまで、王がほんとうにストレルサウにいるのだと信じていなかったのだ。

それからどうなったのかは覚えていない。私は祭壇の前に跪き、枢機卿から頭に聖油を塗られていた。それから私は立ちあがり、手を伸ばし、枢機卿からルリタニア王冠を受け取り、王冠を頭の上に載せ、昔ながらの王の誓いを述べ、そして(もしそれが罪だったのであれば、どうかお許しあれ)居並ぶ人々の前で聖餐のパンを押しいただいた。すると、ふたたび大型オルガンが鳴り響き、元帥が式部官たちに私のことを公表するように命じた。ルドルフ5世は王位についたのである。この印象的な式典を描いたすばらしい絵が、今、我が家の食堂に飾られている。じつにみごとな王の肖像だ。

それから白い顔に輝かしい髪の例の貴婦人が、ぞろりとしたドレスのすそを2人の小姓に持たせて、自分の場所から足を踏み出し、私が立っているところまでやってきた。式部官が声を張り上げる。

「フラビア王女殿下!」

フラビアは深々と頭を下げ、すくいあげるようにして私の手をとり、口づけした。私は一瞬、どうするのがいちばんかと頭を悩ませた。それから、私は彼女を引き寄せて、頬に二度口づけした。姫の頬が赤く染まり――そのとき、枢機卿猊下がブラック・ミヒャエルの前に割り込んできて、私の手に口づけし、ローマ法王からの手紙を差し出した――最初で最後の経験だろう、この私があの高貴なお方から手紙をいただくとは!

それからやってきたのはストレルサウ公爵。足元がふらついており、視線を右へ左へ泳がせていた。まさしく、まるで逃走を企てている人間みたいに。顔は赤と白でつぎはぎされている。彼のぶるぶる震えている手は、震えのあまり私の手の下でびくりと跳ねたし、唇の感触もひどくかさかさしていた。ちらりとザプトを見ると、ふたたび髭の奥で笑っている。私は、天が与えたもうたこの奇妙なシチュエイションにおける義務を果たそうと固く決意し、親愛なるミヒャエルの体を両の手で引き寄せ、頬に口づけしてやった。すべてが終わったとき、ミヒャエルは(もちろん私もだが)さぞ喜んだことだろう!

だが、姫も他の誰も私への疑いを顔に浮かべはしなかった。いや、私と王が隣り合って立っていたとしたら、姫も一瞬でどちらが本物か答えきれただろう。あるいはちょっとくらい考え込んだかもしれないが。しかし、姫も他の誰も、私が王様と違う人間だなんて夢にも思わず、想像だにしなかったのである。それほど私の外見は役に立った。私はそれから一時間、まるで本物の王様のように退屈そうに、無関心に突っ立っていた。誰もが私の手に口づけし、大使たちは私に敬意を払った。中には老トーファム卿もいた。私は数十回、グロスヴェニア区にある卿の家での舞踏会に出たことがあったのだが、ありがたいことに、老人はコウモリ同然の盲目で、私を知っているなどと主張することはなかった。

それから私たちは宮殿に続く表通りに戻った。ブラック・ミヒャエルを称える歓声が聞こえてきた。しかしミヒャエルの方は、フリッツから聞いた話によると、物思いに耽ってのことか、爪を噛みながら座っていたらしい。ミヒャエルの支持者たちからさえも、もっと勇ましく構えてくれればいいのに、という声が聞かれたそうだ。私はというと、馬車の中、フラビア姫の隣に収まっていた。そこへ、乱暴にもこんなことを叫んだやつがいた。

「さあ、婚礼はいつだ?」また別の男がそいつの顔を殴りつけて叫んだ。「ミヒャエル公爵万歳!」姫は赤くなって――みごとな色合いだった――真正面を見据えた。

さて、難しいことになった。私はどれくらい姫に熱をあげているのだろうか。というか、私と姫の仲はどこまで進んでいるのだろうか。そのあたりのことをザプトに聞いておくのを忘れていたのだ。率直に言えば、2人の仲が進んでいれば進んでいるほど嬉しい。もし私が本物だったとしたらの話だが。私は血の巡りの悪い人間ではないから、フラビア姫の頬に口づけしておいてたたですむはずはないのだ。とかく考えゆくものの、やはり自分の立場はよく分からずに押し黙っていた。しばらくして、落ちつきを取り戻した姫が私のほうに向き直った。

「お分かりですか、ルドルフ」と姫。「今日のあなたはどこか違ってるって?」

事実としてはべつに驚くことではないが、口に出されるとなると不安になった。

「見たところ」と姫が続ける。「いつもより冷静で、落ちついてるわ。なんだか心配のあまりやつれたみたい。ええ、絶対に前より細くなりましたね。ほんとに、まさかあなたが何かに真剣になってくださるなんてねえ?」

どうやら姫の王に対する評価は、レディ・バールズドンの私に対する評価と変わりないらしい。

私は気を取りなおして口を開いた。

「そのほうがお気に召しますか?」と私はそっと尋ねた。

「まあ、私の考えは分かっているくせに」と姫は目をそらす。

「姫のお喜びとあれば、私はなんでもやってみせますよ」と私。姫が頬を染めながらにっこりと微笑んだ。それを見て、我ながらうまいこと本物のために尽しているものだと思った。だから、私は先を続けた。そして、そのときの言葉は、まさしく私の本心だった。

「安心してください、親愛なる従弟ぎみ。私の人生において、今日のできごとほど心を動かされたものはありません」

姫は明るく微笑んでくれたが、すぐに重苦しい表情になって囁きかけた。

「ミヒャエルのこと、お気づきになって?」

「ええ」と私。そして付け加えるように「あまり楽しめていないようでした」

「ほんと、気をつけて! 王さまったら――本当に王さまったら――あの方への警戒心が足りませんわ。知ってのとおり――」

「分かっています。弟は私が手にしたものを欲しがっているのです」

「そうです。しッ!」

そのとき――正当化のしようもないが、王として許された以上のことをやってしまった――おそらく彼女に心奪われて、だ。とにかく、私は言葉をついだ。

「それにおそらく、今はまだ私のものではないけれど、いつか私のものにしたいと想っているものもね」

もし私が本物だったとしたら、姫の次の言葉にきっと心を躍らせたに違いない。

1日にできることにはかぎりがありますもの、今日のところは十分ではありませんか?」

礼砲が立て続けに爆音を轟かせ、ブラスバンドが高らかに響き渡る。私たちは宮殿に到着した。大砲が火を吹き、ラッパが響き渡る。使用人たちが列を作って待っていた。姫の手を取って大理石でできた幅の広い階段を上る。私は、即位した国王として、この先祖伝来の城を正式に我が物としていた。私のものとなったテーブルにつくと、右手には従弟が、その右隣にはブラック・ミヒャエルが座り、また、左手には枢機卿猊下が座った。私の席の後ろにはザプトが立っていた。テーブルの向こうの端ではフリッツ・フォン・ターレンハイムが、礼儀正しいというにはやや早すぎるペースでシャンパンのグラスを空にしていた。

いまごろ、本物のルリタニア国王はどうしているのだろうか。私はあれこれ想いをめぐらしていた。


原文
The Prisoner of Zenda (1894)
翻訳者
枯葉
ライセンス
クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンス
公開日
-
最終修正日
2012年10月19日
URL
Egoistic Romanticist: http://www1.bbiq.jp/kareha/
特記事項
プロジェクト杉田玄白正式参加(予定)