それは火曜日のことだった。今は土曜日。ロザリンドはまだ自分がミセス・アーネスト・ソーバーンであるという事実に慣れていなかった。たぶん、この先自分がミセス・アーネスト・ソーバーンであるという事実に慣れることはないだろう、と彼女は思った。湖から山々を望むホテルの飾り窓に腰掛けて。そして夫が朝食をとりに降りてくるのを待っていた。アーネストとは、慣れにくい名前だった。それは、彼女が選びたいと思っていた名前ではなかった。彼女は、ティモシーとか、アンソニーとか、ピーターといった名前の方が好きだった。それに、かれはアーネストのように見えなかった。つまりその名前は、アルバート記念碑やマホガニーの食器棚や、鉄製のコンソート王子の彫刻、それからかれの家族――ポーチェスターテラスにある、義母のダイニング・ルームを思わせるものだった。
けれどもここにかれはいる。ありがたいこと、かれはアーネストのように見えなかった――そうとも。でも、じゃあかれは何のように見えるんだろう? 彼女はかれを横目で盗み見た。すると、トーストを食べているときのかれはうさぎのように見えた。そういうちっぽけで臆病な動物と、このこぎれいでたくましい若い男性とのつながりを見出したものは他に誰もいなかったことだろう。だが、それはすべてをもっと面白くしてくれる。食事中、かれの鼻は極々わずかにひくついた。彼女が飼っていたうさぎがそうしたように。彼女はかれの鼻がひくつくのをずっと観察していた。やがて笑い出した彼女は、怪訝な視線を受けて説明をしなければならなくなった。
「だって、アーネストがうさぎみたいだったんだもの」と彼女は言った。「野生のうさぎ」かれを見つめながら付け加える。「狩りをするうさぎ、王さまうさぎ、他のうさぎたちのために法律を作ってやるうさぎ」
アーネストは自分がそういううさぎであることに別段不満もなかったし、鼻をひくつかせるとロザリンドが面白がるので――かれ自身は自分の鼻がひくつくなんて知らなかったのだけれども――わざとやってみせた。ロザリンドは笑い転げた。アーネストも笑い出した。それを見て、メイドたちも釣り人たちも脂じみた黒いジャケットを着たスイス人のウェイターもみな正しい推測を下した。
昼食時、湖のそばにあったヒースの茂みに席をしつらえ、「レタスはどう、うさぎさん?」と言って固ゆで卵に添えられていたレタスをさしだした。「さあおいで、手からとってちょうだい」とロザリンドが言い、アーネストは背伸びしてレタスを食み、鼻をひくつかせた。
「よしよし、いい子だね」そう言ってロザリンドは、かつて飼っていたうさぎをなでてやったように、アーネストをなでた。だが、それはばかげたことだった。アーネストがなんであるにせよ、けっして飼いならされたうさぎではなかった。ロザリンドはフランス語にしてみた。「ラパン」とかれを呼んだ。だが、アーネストがなんであるにせよ、フランスのうさぎではなかった。かれはどうみてもイギリス人だ――ポーチェスターテラス生のラグビー卒、今は国家公務員。だから、次に彼女は「バニー」としてみた。が、これはもっとひどい。「バニー」というと、太っていてぶよぶよしているコミカルな人物、といった感じ。アーネストは痩せていてたくましくて、シリアスだ。なのに、その鼻はひくつく。「ラピン」。ふと彼女は大声で言った。まるで探していたまさにその言葉を探りあてたかのように小さな叫び声をあげた。
「ラピン、ラピン、ラピン王」と繰り返す。それはかれにぴったりおさまるように思えた。かれはアーネストではなく、ラピン王だ。どうして? ロザリンドには分からなかった。
人気のない場所を話すこともなく長々と散歩したり、みなが口を揃えて雨になるだろうと言ったそのとおりに雨が降ったりしたとき、あるいは、肌寒さゆえに暖炉にあたりながら椅子に腰掛け、メイドの姿も釣り人の姿も見えず、ただウェイターだけがベルを鳴らしさえすればくるといった夕べには、彼女はラピン族の物語の空想に遊んだ。手元は――縫い物をしていた。アーネストは新聞を読んでいた。物語はとても現実味を帯び、とても真に迫り、愉快なものになっていった。アーネストは新聞を置き、彼女に助け船を出した。黒いうさぎと赤いうさぎがいた。敵うさぎと味方うさぎがいた。そこにはかれらの住む森があり、その外には草原があり、沼地があった。何にもまして、そこにはラピン王がいた。かれは、日がたつにつれ、鼻がひくつくという一芸を有するどころではない、偉大な特徴を持つ動物になっていった。ロザリンドは、かれに新しい資質を次々に見出していった。けれど、何にもまして、かれは偉大な狩人だった。
ハネムーン最終日、ロザリンドは言った。「それで、王さまは今日なにをなさったの?」
現実的には、
「今日かれは」と、アーネストは葉巻の端を噛みきりながら鼻をひくつかせた。「野うさぎを追いかけた」そこで間をおき、マッチを擦り、もういちど鼻をひくつかせる。
「女の野うさぎを」
「白い野うさぎね?」とロザリンドは叫んだ。まるでそれをずっと待ち望んでいたかのように。「小さめの野うさぎ、シルバーグレイの、大きくて綺麗な目をしている?」
「そう」と、以前ロザリンドから受けたような眼差しを返して、言った。「小さなやつだよ。目が少し飛び出した感じで、小さな前足をだらんとさせている」まさしくそのとおりに彼女は椅子に座っていた。縫い物をしている両手をだらりとさせて。それに目も、とても大きくて綺麗な目だったので、たしかに少し浮きあがっていた。
「ああ、ラピノヴァね」ロザリンドが呟くように言った。
「そう呼ばれているのかい?」とアーネストは言った――「ほんとうのロザリンドは」かれは彼女を見た。かれは、自分は彼女をとても愛していると思った。
「そうよ、彼女はそう呼ばれてるの」とロザリンドは言った。「ラピノヴァ」。そしてその晩ベッドに行く前にすべてが決まった。かれはラピン王、彼女はラピノヴァ女王。お互いは正反対たっだ。かれは勇敢で意思が強い。彼女は慎重で頼りない。かれはせわしないうさぎの世界を支配していた。彼女の世界はうらびれた、神秘的なところで、ほとんどが月明かりの下にあった。とはいうものの、お互いの縄張りは接していた。
こんなふうにして、ハネムーンから返ってきた後も
ロザリンドは思う。あの世界なしでは、どうやっても、あの冬を越せなかったのではないだろうか? たとえば、金婚式があって、ソーバーン一族がポーチェスターテラスに揃い踏みし、
それからかれらはディナーのため、下に降りた。カールした赤や金の花弁が質感のある球体に見える、盛大な菊の花々に、彼女の姿はなかば隠されていた。なにもかもが金色だった。複雑な意匠の金色の文字で、次から次へと運ばれることになっている料理のリストが、金縁のカードに書かれている。澄んだ金色の液体に、彼女はスプーンを浸した。外の白い霧は、ランプに照らされて金色のメッシュに変わり、皿の縁をぼかし、パイナップルの表面を金色に染めていた。ただ白いウェディング・ドレスを着、少し飛び出した目で虚空を凝視する彼女一人が、
ところが、ディナーの進行にともなって部屋には熱がこもり、蒸し暑くなっていった。玉の汗が男たちの額に浮かぶ。彼女は、自分の氷柱が水に変わっていく気がした。溶けている。霧消する。無へと融解していく。気を失うのも遠くはないだろう。鈍磨した思考と耳鳴りの中、女性の金切り声を聞いた、「でもかれらは次々と子を作る!」
ソーバーン家――ええ、かれらは次々と子を作る。彼女はそう心の中で思った。はげしい
「小悪魔どもめ!――蹴散らせ! でかいブーツで踏み潰せ! それが唯一の扱い方だ――うさぎどもめ!」
その、魔法の言葉を聞いて、彼女はよみがえった。菊の間からのぞきみると、アーネストの鼻がひくついた。それは波打つように、みごとにひくついた。それを受けて、ソーバーン家に神秘的な破局が訪れた。金色のテーブルはハリエニシダが繁茂する原野となった。人々の声は大空を旋回するヒバリたちの笑いの轟きと化した。空は青く――雲がゆっくりと流れてゆく。かれらはみな
「ああ、ラピン王!」ソーバーン家が連れだって霧の中を家路につくと、彼女は叫んだ。「もしもちょうどあのときあなたの鼻がひくついてくれなかったら、わたし、きっと罠にかかってた!」
「でも、きみは安全だった」とラピン王は、彼女の前足を握っていった。
「もうすっかり安全」
そして二人はハイド・パークを抜けて、沼地の、霧の、ハリエニシダに覆われた原野の王と女王にもどった。
そのようにして時は流れた。
「今日、何があったと思う?」と彼女は、かれが腰を下ろして足を暖炉のほうに伸ばしたとたん、言った。「小川を渡ってたらね――」
「小川だって?」アーネストが話をさえぎった。
「窪地の小川よ、私たちの森と黒い森との境にある」彼女は説明した。
アーネストは一瞬、完全に呆気にとられた顔をした。
「いったい何の話?」
「まあ、アーネスト!」彼女はうろたえて叫んだ。「ラピン王」と、火明かりの下、小さな前足をだらりとさせる。けれども、かれの鼻はひくつかなかった。彼女の両手は――今、それは手になっていた――縫い物をしっかりと握っていた。瞳は顔から飛び出さんばかりだった。少なくとも
けれど、彼女はよく眠れなかった。なにか自分の身におかしなことが起きたような気がして、夜半に目をさました。体はこわばり、冷え切っていた。とうとう、灯りをつけて隣で眠っているアーネストを見つめた。かれはぐっすり眠っていた。いびきをかいていた。だがいびきをかきながらも、その鼻は完璧なまでに動こうとしなかった。あたかも、これまで一度もひくついたことがないかのように。ありえるだろうか? かれがほんとうにアーネストで、彼女がほんとうにアーネストと結婚しただなんてことが? 義母のダイニング・ルームの幻が眼前に浮かび上がった。
「ラピン、ラピン王!」と彼女はささやいた。一瞬、かれの鼻がひとりでにひくついたように思えた。が、まだかれは眠っていた。「起きて、ラピン、起きて!」と彼女は叫んだ。
アーネストは目を覚ました。そしてロザリンドを隣に抱えおこしながら尋ねた。
「どうした?」
「私のうさぎが死んでしまったみたいなの」と囁くように言った。アーネストは怒った。
「馬鹿げたことを言うんじゃない、ロザリンド」とかれは言った。「横になって、眠るんだ」
かれは背を向けた。次の瞬間には、もういびきをかきはじめていた。
けれど、彼女は眠れなかった。巣穴に入った野うさぎのように、ベッドの彼女の側で、背を丸めて横たわっていた。灯りは消していたが、街灯がほのかに照らす天井に、木々が網目状の影を投げかていた。まるで、そこに鬱蒼とした森があるかのようで――彼女はさまよい、駈け、飛びはね、出入りし、歩き回り、狩りをし、狩られ、猟犬の咆え声と角笛の響きを聞きながら、走りに走って逃げつづけた。やがて、メイドがブラインドを引き、朝の紅茶を運んでくるまで。
翌日、彼女は落ちつけなかった。何かを失ってしまったように思った。自分の体が縮んでしまったような気分だった。小さく、固く、黒くなってしまっていた。体の節々もこわばったみたいで、部屋を歩き回っているときにときどきするように鏡をのぞきこんでみると、ちょうど巻毛についたレーズンのように、瞳は頭から飛び出していた。部屋もまた縮んだように思った。大型の調度類はでたらめな方向に突きだし、気づけば、繰り返しそれらにつまづいている始末だった。やがて彼女は帽子をとって出掛けた。クロムウェル・ロードに沿って歩く。通りすがりにのぞきこむ、人々が食事の席についている部屋のどれもが、鉄の彫像が飾られ、厚ぼったい黄色いレースのカーテンが垂れ下がり、マホガニーの食器棚が据えつけられた、あのダイニングルームのように見えた。やがて彼女は自然史博物館に到着した。この博物館が、子どもの頃好きだった。けれど、入場してはじめに目にしたものは、作り物の雪の上に立つ、ピンクの瞳をした剥製の野うさぎだった。どういうわけか、それを見ると全身に震えが走った。ひょっとしたら、日が落ちれば事態は改善されるかもしれない。彼女は家に帰り、灯りをつけないまま暖炉の前に座って、荒野にひとりでいるところを想像してみようとした。だが、彼女は小川よりも先に行くことができなかった。とうとう、露に濡れた草の茂る土手にしゃがみこみ、そして、椅子の中で身を縮め、両手をむなしく下ろし、じっと、ちょうどガラス玉のようなその瞳で、暖炉の炎を見つめた。そのうち、銃声がした。まるで自分が撃たれたかのように、はっとした。それは単に、アーネストがドアの鍵を回しただけのことだった。彼女は震えながら待った。かれは部屋に入り、灯りのスイッチを入れた。それから、背が高く、端正な顔をかれは、寒さのために赤くなった手をこすりはじめた。
「なんで真っ暗ななかに座りこんでるの?」とかれは言った。
「ああ、アーネスト、アーネスト!」と、椅子から飛びあがった彼女は叫んだ。
「おやおや、どうしたんだよ?」と、両手を暖炉であぶりながら軽く尋ねる。
「ラピノヴァよ」ロザリンドはようやくのことで声を出した。その瞳を大きく見開かれ、落ちつきなくアーネストの姿を追う。「ラピノヴァがいなくなったのよ、アーネスト。わたし、ラピノヴァをなくしてしまったの!」
アーネストは眉をひそめた。口元を固く引きしめた。「ふうん、そんなことがあったんだ、なるほどね?」とかれは、気味の悪いとさえいえるほほえみを妻に向かって浮かべてみせた。
「そうだよ」とかれはようやく口を開いた。「かわいそうなラピノヴァ――」かれはマントルピースの鏡に向かってネクタイを整えた。
「罠にかかって」とかれは言った。「殺された」そして腰を下ろして新聞を読みはじめた。
それが結婚生活の終わりだった。