ニューヨーク市ハーレム。
ミセス・フィンクは
「ねえ、きれいじゃない?」とミセス・カシディは言った。
誇らしげに首を回し、ミセス・フィンクに顔が見えるようにする。片目の回りに青黒い痣ができていて、ほとんどふさがっている。唇は切れ、ほんの少し血が流れており、首の両側には赤い手形がついている。
「うちのひとは私にそんなことしようなんて考えもしないけどな」とミセス・フィンクは羨ましいのを隠しながら言った。
「少なくとも
「うちのひとは」ミセス・フィンクは自慢げなふりをして言った。「とっても立派な紳士だから私に手を上げようなんて考えもしないのよ」
「無理しないことね、マギー」とミセス・カシディはマンサクの膏薬を塗りながら笑い飛ばした。「あんた、妬んでるんでしょう。あんたんとこのひとはパンチ一発お見舞いしてくれない鈍いひとだもんね。家に帰ってきたらただ椅子に座って新聞で今日なにがあったかを眺めるばかり――どう、図星でしょう」
「うちのひとは確かに家に帰ってきたらじっと新聞を読んでるけど」とミセス・フィンクは頭をつんとそらしつつ認めた。「でも、面白半分にわたしをスティーブ・オドネルみたいにはしません――それは絶対よ」
ミセス・カシディは毎日の生活が充実した既婚女性特有の満足げな笑い声を立てた。自分の宝石を見せびらかすコーネリアさながらの態度で、ミセス・カシディは着ていたキモノの襟をくつろげて別の痣をミセス・フィンクの目にさらした。オリーブ色とオレンジ色に縁取られた栗色の痣――ほとんどよくなっていたが、愛すべき思い出はまだそこに残されていた。
ミセス・フィンクは抵抗を諦めた。瞳に宿っていた堅苦しい光が和らぎ、うらやましげな賞賛の色を帯びた。
「殴たれたとき、痛くないの?」とミセス・フィンクが好奇心から尋ねた。
「痛いって!」――ミセス・カシディはソプラノで喜びの叫びをあげた。「うーん、あのね――煉瓦の家の下敷きになった経験、ない?――そうね、ちょうどそんな感じよ――ちょうど、その瓦礫のなかから掘り出されるときみたいな感じ。ジャックの左
「でもあのひとはなんで殴ったりするの?」とミセス・フィンクは目を見張って問う。
「お馬鹿さんね!」とミセス・カシディは優しく言った。「そりゃあ酔っ払ってるからよ。ふつうは土曜日の夜のことだから」
「でもなんでそんなことされるの?」と知識の探求者は食い下がった。
「あのね、あたしはあのひとと結婚してるわけでしょう? つまり、ジャックがへべれけになって帰ってきたら、そこにあたしがいるってこと、そうでしょう? 他にだれを殴る権利があるって言うのよ? 一度でいいからあのひとがだれか他のひとを殴ってるところを見てみたいものね! 理由は夕食がまだできてなかったからってときもあるし、逆に準備できてたからってこともある。ジャックはべつに理由にこだわってるわけじゃないから。ただ、べろべろに酔っててもそのうち自分が結婚してるってことを思い出して、家に帰ってきてからあたしに手を上げるのよ。土曜日の夜になるとあたしは家具を移動させておくの。そうすめばあのひとがやりはじめたときに頭を切っちゃったりしないで済むから。あのひとの左は強烈でね! 第
ミセス・フィンクは考えこんでしまった。
「うちのマートは、一度もあたしを殴ったことない。メイムの言うとおりよ。家に帰ってきたらいつも不機嫌で一言も口を利いてくれない。どこにも連れてってくれないし。家ではずっと椅子を暖めてるだけ。いろいろ買ってきてはくれるけど、あたしがありがとうも言わないものだからすぐ機嫌を悪くしちゃう」
ミセス・カシディは腕をすらりと伸ばして友だちの体を抱きしめた。
「かわいそうに! でもみんながジャックみたいな夫を持てるわけじゃないの。世の中の夫がみんなジャックみたいだったら結婚して失敗だったなんてことはありっこないのにね。不満を抱えた奥さんってのにはね――
ミセス・フィンクは溜息をついた。
廊下からとつぜん騒がしくなった。ドアがミスター・カシディの足蹴を受けて大きく開く。両腕が荷物でふさがっていたのだ。メイムは飛んでいって夫の首に抱きついた。ふさがっていないほうの目が愛情をたたえて輝いた。その光は、あのマオリ族の乙女が、彼女を気絶させて拉致した求愛者の小屋で意識を取りもどしたときに、その目に輝かせていたものと同じものだった。
「ただいま!」ミスター・カシディは声を張り上げた。抱え込んでいた包みの山を床に落とし、彼女を抱えあげ力いっぱい抱きしめる。「バーナム&ベイリーのチケットを手に入れたんだ、それからその包みのどれかにシルクのブラウスが入ってて――おや、こんばんは、ミセス・フィンク――いらっしゃっていたんですか。マートのやつは最近どうです?」
「とても元気ですよ、おかげさまで。あ、そろそろ帰らないと。マートが夕食に帰ってきちゃう。メイム、欲しがってた型紙は明日持ってくるからね」
ミセス・フィンクは階段を上って自分の部屋にもどり、ちょっぴり泣いた。意味のない涙、女性だけにしか分からない種類の涙、とりたてて原因もなく発生する馬鹿げた涙――嘆きのレパートリーのうちもっとも儚く、そしてもっとも救いようのない涙だった。なぜマーティンは妻をぶたないのであろうか? かれはジャック・カシディ並みに大柄で、力も強い。かれは妻のことなどまったく気にしていないのだろうか? 口喧嘩の一度もやったことがないのだ。家に帰って椅子にもたれかかると、あとは鬱々とふさぎこむ。扶養者としてはかなり優秀だったが、人生のスパイスというやつを忘れている。
ミセス・フィンクの夢の舟は静まりかえっていた。船長の行動範囲はプラム・プティングとハンモックとの間に限られていた。せめて、ときおり梁を揺さぶったり、甲板を踏み鳴らしたりしてさえくれたなら! 彼女としてはそんな感じで陽気に喜びの島々を訪ねて回ろうと思って船出したというのに! だがいまや、言い方を変えれば、スパーリング・パートナーとの退屈な何ラウンドもの間、注目に値する傷も負わず、疲れきり、タオルが投げこまれるのを待ち構えているという状態だった。一瞬、メイムに対して憎しみにも似た想いを抱いた――メイム、その切り傷にアザ、その機嫌直しのプレゼントにキス。喧嘩好きで残酷だけども愛のあるパートナーとの、波乱に富んだその航海。
ミスター・フィンクは
「ごはんは、マート?」とミセス・フィンクは言った。
「ん、ん、ん、うん」とミスター・フィンクは言った。
夕食が済むと、かれは新聞をかき集めて読みはじめた。靴を脱ぎ捨て腰を下ろす。
いずくにか起こり来れ、新たなるダンテ。そして、家で靴を脱ぎ捨て椅子に収まりこんでいる男にふさわしい地獄の詩を詩ってくれ。種々のしがらみに捕われ、シルクなりコットンなりウールなりの靴下に耐え忍ぶシスターズ・オブ・パティエンスよ――新編はそこに捧げられるべきではないか?
翌日は労働祭だった。ミスター・カシディもミスター・フィンクも今日一日仕事休み。労働者が気焔をあげてはパレードに加わったり、あるいは別の方法でその日を楽しむ。
ミセス・フィンクはミセス・カシディの型紙を持って、早朝、階下に降りていった。メイムは新しいシルクのブラウスを着ていた。その半ばふさがった目からさえ、休日を喜ぶ光が溢れ出していた。ジャックは悔いを気前よく表し、散歩、ピクニック、ピルズナーを含んだその日の計画を立てていた。
この休日も、フィンク夫妻にとっていつもと変わりないようであった。ミセス・フィンクは、一晩つけおいた
ふつふつとわきあがる怒りにも似た嫉妬心が、
嫉妬心がミセス・フィンクの心を高々と押し上げ、さらに向こう見ずな決意を固めさせるところまで打ち上げた。もし夫が殴ってくれないのなら――もし夫が、自分の男らしさを、自分の権力を、自分の夫婦生活への関心を、いままでずっと示そうとすら思ったこともないのならば、自分の義務がなんであるかを理解させてやらないと。
ミスター・フィンクは平和そうにパイプに火をつけ、靴下のつま先で踝をこすった。プティングに残った脂身のように、かれは結婚生活の現状に安んじていた。これこそがかれの安定した楽園なのだ――気楽に座りこみ、活字化された世界を飛びまわりながら、洗濯の水音と、すでに下げられた朝食とやがて出てくる夕食の心地よい香りを楽しむ。かれとは縁遠いアイディアがいくつもあったが、なかでもいちばん縁遠いのは、妻を殴るというアイディアだった。
ミセス・フィンクはたらいに湯をあけ、洗濯板を突っこんだ。階下からはミセス・カシディの楽しげな笑い声が聞こえてきた。愚弄するように響くその声は、階上に住む働き者の花嫁にいかに自分が幸福かを見せびらかすものように思えた。今度こそミセス・フィンクの番だ。
突如、彼女は新聞を読んでいる男に憤怒の女神よろしく向き直った。
「この怠け者! あたしはあんたみたいな愚図のために腕がいたくなるまで洗濯してやらなきゃならないわけ? あんた、それでも男なの? それじゃあただの飼い犬じゃないの!」
ミスター・フィンクは新聞を取り落とした。驚きのあまり身じろぎもしない。夫は殴たないかもしれない、ミセス・フィンクはそう案じた――挑発不充分ではなかったか。彼女は夫に飛びかかり、握り締めた拳で力一杯夫の顔面を殴りつけた。その瞬間、彼女は夫にぞくぞくするような愛情を感じた。もうずいぶんと感じていないものだった。起て、マーティン・フィンク、おまえの力を見せてやるのだ! おお、いまこそ妻は夫の拳の重みを感じなければならない――夫が妻を気にかけていること示すため――夫が妻を気にかけていることを示すため!
ミスター・フィンクは弾かれたように立ちあがった――マギーは反対側の拳を大きく振りかぶり、ふたたびかれのあごをとらえた。そして恐怖に目を閉じた。夫の鉄拳が下されるまでの至福のひととき――妻は自分の胸の中でそっと夫の名を呼んだ――予期される衝撃に身を傾け、飢えたようにそれを待った。
階下の部屋ではミスター・カシディが、恥と悔恨のいりまじった表情でメイムの目元にパウダーをつけてやり、遊山の準備をしていた。上の部屋から昂ぶった聞こえてきたのにつづいて、どたばた暴れていたかと思うと、椅子がひっくりかえる音がした――まがうことなき夫婦喧嘩の物音だ。
「マートとマグが喧嘩?」とミスター・カシディは読み取った。「喧嘩なんかする
ミセス・カシディの片目がダイアモンドのような輝きを放った。もう一方の目も少なくとも模造宝石くらいには光った。
「おお、おお」と、女性特有の突発的な調子で、とりたてて意味のない柔らかな声を出す。「もしかしたら――もしかしたら! 待ってて、ジャック、上に行って見てくるから」
猛スピードで階段を駆け登る。階上の廊下に踊り出たところで、キッチンのドアからミセス・フィンクが激しい勢いで飛び出してきた。
「あっ、マギー」ミセス・カシディは叫んだ。「あのひと、やったの? やったのね?」
ミセス・フィンクは友達のところに駈けより、その肩に顔を埋めて頼りなげに泣きじゃくった。
ミセス・カシディはマギーの頬を両手ではさんでそっともちあげた。涙に汚れ、赤らみ青ざめていたけれど、そばかすの散る柔らかな肌は薄桃色のままで、ミスター・フィンクの拳による引っかき傷も痣も見当たらなかった。
「教えて、マギー」メイムが訊ねる。「じゃないと中に入ってこの目で見ることにするから。どうしたのよ? あのひと、ひどいことをしたの?――何をされたっていうのよ?」
ミセス・フィンクは自棄になってふたたび顔を友だちの胸に埋めた。
「お願い、お願いだからドアを開けないで、メイム」ミセス・フィンクはすすり泣いた。「それから絶対誰にも言わないでよ――内緒にしといてちょうだい。あのひと――あのひと、あたしに触ろうともしなかったの――それであのひとったら――ああ、あんまりよ――洗濯してるの――あのひと、洗濯してるのよ!」