善き星々があなたの天宮図に集まり、 霊と火と露であなたをかたどった。
ブラウニング
父と母の思い出に
1章 レイチェル・リンド夫人、仰天
レイチェル・リンド夫人は、アヴォンリー本街道がわずかに下がって小さな窪地に続くところに住んでいた。その窪地は榛の木と『貴婦人の耳飾り』の花で縁取られ、そこを横切って流れる川の源は、年月を経たカスバート地所の森に遡る。川の上流は、窪地から森を抜けて複雑に急速に流れ、途中には暗く人の知らない淵や小さな滝があるということだ。しかし、リンド窪地に至るまでには、静かで落ち着いた小川となっていた。川でさえ礼節と作法に当然気を配らないでは、レイチェル・リンド夫人のドアの前を、流れてはいけないかのようである。レイチェル夫人が窓際に座って、通り過ぎるものを川から子供達に至るまで目ざとく観察しているのを、川は多分気付いていたのだろう。そして、もし夫人が奇妙なことや場違いな何かに気付いたなら、それがなぜか理由を探り出すまで決して落ち着いていられないだろうことも。
アヴォンリーとその界隈には、自分の事はさておいてお隣りの事に口出ししてしまう人々が大勢いる。しかしレイチェル・リンド夫人は自分の仕事もうまくこなし、よそ様の仕事もおまけにこなすといった大した人々の一人だった。夫人は有能な主婦だった。仕事はきちんと完璧にこなし、縫い物サークルはやる、日曜学校の手伝いはやる、その上、教会援助会[#訳者注 Church Aid Society]と海外伝道支援団体[#訳者注 Foreign Missions Auxiliary]の支援者筆頭だった。そういった全部をこなしてもまだ、木綿のキルトを編みながら台所の窓辺に何時間も座る時間の余裕を作れるのだった。アヴォンリーの主婦が恐れ入ったという調子で噂するように、夫人はもうすでに16枚編み上げていた。同時に、窪地と交差し向こうの赤い丘までうねうねと続く主街道を、目ざとく見張っているのだった。アヴォンリーはセント・ローレンス湾へと、小さな三角形の島状に突き出して位置し、両側を海で囲まれていた。そのため、誰であれそこから出入りする者はその丘の道を越えなくてはならず、レイチェル夫人の全てを見通す目による、目にみえぬ試練に立ち向かわなくてはならなかった。
夫人は6月に入ったある日の午後、その窓辺に座っていた。窓辺に差し込む陽の光は、暖かく輝かしい。リンド家の下手の丘に面した果樹園は、ピンクがかった白い花が咲き誇り、婚礼の席の風情で、無数の蜜蜂が羽音をたてていた。トマス・リンド、この男は温和で背が低くアヴォンリーの者はレイチェル・リンドの亭主と呼んでいたが、納屋の向こうの丘の畑で遅蒔きのカブを蒔いていた。そしてマシュー・カスバートも、グリーン・ゲイブルズの向こうにある、大きく赤い小川のそばの畑で、種蒔きをしているはずだった。レイチェル夫人は、マシューがそうしているはずであることを知っていた。昨日の夕方にカーモディーのウィリアム・J・ブレアの店で、マシューが、明日の午後にはうちでもカブの種を蒔くつもりだと、ピーター・モリソンに話すのをちゃんと聞いていたのだ。ピーターがもちろんマシューに聞いたのだ。マシューが生まれてこのかた、自分から何か教えるなんてしたことがないのは周知のことだった。
それなのにマシュー・カスバートがそこにいるではないか、3時も半分まわって忙しい午後に、落ち着き払って馬を走らせ、窪地を越えて丘を登っていく。そのうえ、マシューはホワイト・カラーと一番良い上下を着こんでいる。これからアヴォンリーの外に出かけます、といっているようなものだ。それに馬車には栗毛の雌馬、ずいぶんと遠くに出かけるらしい。さて、いったいどこにマシュー・カスバートは出かけるのだろう、なぜ出かけてゆくのだろう。
アヴォンリーの他の男なら、とレイチェル夫人、さっさとあれやこれや寄せ集めて、いくらでも言い当てられるだろうよ、どっちの疑いもね。でもマシューはめったに家から出歩かないし、何か急ぎの珍しい用事でもあるに違いない。だいたいあんなに引っ込み思案な男はいないよ、余所者のいる所とか、自分から話さなきゃいけないような所には絶対近づかないし。マシューがホワイト・カラーをして馬車でお出かけなんて、そうそうざらにあるもんじゃない。レイチェル夫人はあれこれ考えてみたが、まったく何も思い付かず、せっかくの楽しい午後がだいなしになった。
「これはちょっとお茶のあとでグリーン・ゲイブルズに足を伸ばして、どこに行って何をするつもりか、マリラから聞き出さなくちゃ」このごりっぱな夫人は最後にこう締めくくった。「マシューはいつもならこの時期この時間に街へ行ったりしないし、どこかにお客だなんて、絶対にない。もしカブの種を切らしたんだったら正装で馬車に乗るなんてあるわけないし、お医者を呼びに行くほど慌てて走らせていないね。やっぱり昨日の夜に何かあって、それででかけるんだ。さっぱりわからないよ、まったく。これじゃいっときも気が休まらない、何でマシュー・カスバートがアヴォンリーを今日出かけたのか分かるまではね」
お茶が済んだあと、レイチェル夫人はしかるべく出立した。それほど遠くへ行くわけではなかった。あの大きな、好き勝手に生えた果樹園で囲われたカスバート家は、リンド窪地から4半マイル足らず、道を上ったところにあった。まあ確かに、長い小径で大分遠くに思えるが。マシュー・カスバートの父親は、父親譲りの息子同様に引っ込み思案で目立たない男だった。農地と家を建てるにあたっては、村の連中からできるだけ離れ、事実上森に隠れていると言っていいくらいの場所を選んだ。グリーン・ゲイブルズは開墾地の遠く外れに建てられ、今日に至るまでそこにあって、主街道からはわずかに垣間見えるだけだ。他のアヴォンリーの家々はみんな仲良く街道に面して並んでいるのに。レイチェル・リンド夫人に言わせると、そんなところに住んでいるのは住んでいるだなんてとても言えないのだった。
「ただいるってだけだよ、まったく」夫人は、深く
こうしてレイチェル夫人は、小径をよちよち足を踏みしめ、グリーン・ゲイブルズの裏庭にたどり着いた。鮮やかな緑で覆われた手入れが行き届いた几帳面な庭は、一方が長老然とした柳で、もう一方はつんと気取ったセイヨウハコヤナギで囲われていた。折れた小枝や小石は1つも落ちていなかった。もしそうならレイチェル夫人が目ざとく見つけていただろう。夫人は口には出さないが、マリラ・カスバートは家の掃除と同じくらい頻繁にこの庭を掃除していると踏んでいた。地面の上で食事しても、諺にあるような泥をかき取らなくても食べられるんじゃないかね。
レイチェル夫人が台所のドアを手早く叩くと、返事を待って中に入った。グリーン・ゲイブルズの台所は気持ちのいい部屋だった――というより、気持ちのいい部屋だったかもしれない。もしうんざりするほど奇麗なため、使っていない客間のような雰囲気がなければの話である。窓は東と西を向いていた。西側は裏庭を見渡し、6月の柔らかい陽の光があふれていた。一方の東の窓から少しだけのぞいている左手の果樹園には、白いサクランボの木々が今を盛りと咲き誇り、風になびくほっそりした樺の木立ちが、小川のそばを窪地まで続いているのが見えた。その東の窓には、絡まったツタが青々と生い茂っていた。この窓辺にマリラ・カスバートが座るのだが、座る場合もなんだか陽の光があたるといつも落ち着かなかった。世の中は真面目なものなのに、マリラにはちらちら踊る陽の光は、好き勝手にすぎると感じるのだった。そこにマリラが編み物をしながら腰掛け、その後ろには夕食用にテーブルが置いてあった。
レイチェル夫人は、丁寧にドアを閉めてしまう間に、そのテーブルにのっているもの全部を頭にメモしていた。テーブルに皿が3枚置いてあるね、マリラが誰かとマシューをお茶に迎えるに違いない。でも、深皿はいつも使っているものだし、クラブ・アップルの砂糖漬けにケーキが1つとは、待っているお客は特別なお客ってわけじゃないね。それにしてはマシューのホワイト・カラーと栗毛の雌馬は何としよう? 単調で謎とは縁遠いグリーン・ゲイブルズのいつにない謎に、レイチェル夫人はすっかり目眩がしてきた。
「こんにちは、レイチェル」マリラの挨拶は簡潔だ。「今日はほんとにいい天気だね。座ったら? お宅はみんな元気?」
友情という以外に名前のつけようがない何物かが、マリラ・カスバートとレイチェル夫人の間にあったし、これまでそれが失われたことはなかった。二人がまったく違っているにもかかわらず、いやたぶん違っているからこその友情であろう。
マリラは背が高くやせた女で、あちこち角張って丸みに欠けている。マリラの黒い髪は幾筋か灰色のものが目立ち、いつも固く短い ひっつめに結んで、2本のヘアピンでぶすっと止めてあった。マリラは、狭い世間で事足りる、頑ななまで真面目な女という風に見えたし、実際そうだった。しかし、口元に残っているのは、何かこう、あと少しでも表情豊かだったら、ユーモアのセンスを示すと言えなくもないものだった。
「うちはみんな元気なものさ」とレイチェル夫人。「あたしはなんだかあんた達の方が心配だよ、もっとも、マシューが出かけるのを今日見たんだけどね。もしかするとお医者に行くところなのかと思ったよ」
そらきた、と言いたげに、マリラの口元がぴくっと動いた。マリラはレイチェル夫人が来るのを待ち受けていた。マシューがわけもないのに遠出するのを見たら、このお隣さんが好奇心を押さえていられないのは知れたことだった。
「いや、違うよ、私はすっかり元気さ、とはいえ昨日はひどく頭が痛くてね」マリラが言った。「マシューはブライト・リバーに行ったんだよ。私達で男の子を一人、ノヴァ・スコシアの孤児院からもらうことにしたんでね。それでマシューが今夜の汽車に迎えにいったとこさ」
マリラが、マシューはブライト・リバーまで、オーストラリアから来たカンガルーを迎えに行ったと言ったほうが、まだレイチェル夫人は驚かなくて済んだかもしれない。夫人は実際この衝撃をくらってたっぷり5秒間は口がきけなかった。マリラがふざけた冗談を言うなんて想像できなかった。がしかし、レイチェル夫人にはやっぱりそうとしか思えなかった。
「あんた、本気なの、マリラ?」夫人はまた声が出せるようになってからそう迫った。
「もちろん、そうだよ」マリラは答えた。まるでノヴァ・スコシアの孤児院から男の子をもらうなんて、アヴォンリーの農家では春先の恒例行事のうちで、初めて耳にする大事ではないかのようだ。
レイチェル夫人は、頭を強烈に殴られたように感じた。夫人の頭の中でびっくりマークが踊っていた。男の子! マリラとマシュー・カスバートがよりによって男の子をもらうだって! それも孤児院から! まあ、確かに世も末だよ! こんなことがあった後じゃ、もう驚くなんてあるわけない! あるわけない!
「何でまた、そんなこと考えついたんだい?」夫人は非難の声で尋ねた。
夫人の忠告を求めもせずこんなことをしたからには、何としても認めるわけにはいかなかった。
「まあね、私達はこのことを長い間考えていたんだよ。実際、冬の間はずっとさ」マリラが切り返した。「アレクサンダー・スペンサーの奥さんがクリスマス前にいつだったかいらして、何でも春になったら女の子を一人ホープタウンの孤児院からもらうんだということでね。従兄弟がそこに住んでいて、スペンサーの奥さんは行ったことがあるから様子はよく分かっているし。それでマシューと私は、それからというもの折りに触れ話し合ってたのさ。二人で考えたのは、男の子をもらおうということさ。マシューも歳をとってきたからね、もう60だよ、前ほど体が動くとはとてもいえないし。マシューの心臓は大分わるいんだよ。それに最近は人を雇うのがどれほど大変か知っているだろう。雇えるのは、ぼんくらで生意気なフランス人の男の子くらしかいないじゃないか。ようやく使い物になって何かを覚えたと思ったら、さっさと逃げ出してロブスターの缶詰工場とか合衆国へ行ってしまう。はじめは、マシューが英本国の男の子にしようって言ったのさ。私は、だめだって言ったよ、そりゃそうさ。『英国の男の子は確かにいいかもしれない、そうじゃないとは言わないけど、ロンドンの浮浪児だけはごめんさ。』そういったんだ。『私にはこの土地の生まれの子が最低条件だね。冒険なのは誰をもらっても一緒だよ。でもね、私は心穏やかにぐっすり眠れると思うよ、もしカナダ生まれを貰うんだったらね。』それで最後には二人でスペンサーの奥さんにお願いすることに決めて、奥さんが向こうに女の子をもらいに行った時に、一人みつくろってもらうことにしたのさ。先週奥さんが出かけるって聞いてたから、奥さん宛にリチャード・スペンサー家の人にカーモディーでことづてを頼んだんだよ、賢くて、感じのよい男の子で10か11くらいのを一人お願いしますってね。いろいろ考えてそれくらいが一番いい年頃だろうって決めたんだよ、物の役に立って雑用もさっさとこなせるくらい大人で、ちゃんと躾けできるくらいには子供だし。うちはその子にとっちゃ恥ずかしくない家庭となるだろうし、学校教育も受けさせるつもりさ。アレクサンダー・スペンサーの奥さんから今日電報が届いてね、いつもの郵便配達人が駅から届けてくれたんだけどね、奥さん達が今晩5時半の汽車で着くと書いてあったよ。それでマシューがブライト・リバーにその子を迎えに出かけたのさ。スペンサーの奥さんは駅でその子を降ろしてくれるだろうし。もちろん奥さんは、そのままホワイト・サンズ駅まで乗っていくわけだから」
レイチェル夫人は、日頃から自分の思うことをずばずば言うことを良しとしていた。この驚くべき新事実に対して体勢を立て直しながら、夫人は早速それを実践することにした。
「あのね、マリラ、率直に言わせてもらうと、あんたはとんでもなく馬鹿なことをやらかそうとしてるんだと思うよ。危ない賭けだよ、まったく。あんたは、どこの馬の骨ともしれない子供を、この家で、あんたの家庭で、育てようとしているんだ、それもあんたは何ひとつ、その子のことも、性格がどんなだかも、その子のふた親が何してるんだか、どんな風になりそうだとか、分かっちゃいないのにだよ。そうそう、たった1週間まえだった、あたしが読んだ新聞では、島のだいぶ西で、どこかの旦那さんと奥さんが男の子を孤児院から引き取ったら、その子が夜家に火をつけたって話でね――それもわざと火をつけたんだよ、マリラ。ベッドの中でカリカリに焼け出されそうになったってさ。それにあたしはもう一件知ってるが、養子にした男の子に卵を吸う癖があったんだってさ、どうしてもやめさせられなかったんだって。もし、あんたがあたしに今回の件で忠告を聞きにきていたら、あんたは聞きに来なかったよね、マリラ、あたしは、お願いだからそんなことは考えないでって言ってたはずだよ、まったく」
この辛抱強いヨブたるレイチェル夫人の心休まる慰めに、気を悪くもせず、動揺したそぶりも見えないマリラだった。そして手を休めることなく編み物を続けていた。
「私はね、あんたの言うことにも一理あることは否定しないよ、レイチェル。そういう不安は少しはあったさ。でもね、マシューがひどく乗り気だったんだよ。それが分かったので、私が折れることにしたんだ。マシューが自分から何かしようなんて、そんなにあることじゃないから、そういう場合は私が折れなきゃいけないんだって気になるんだよ。危ない賭けっていうけど、この世で人が何をするにしても大概危ないところがあるわけだし。自分の子供を持つのだって危ないところはあるさ、もし何か起こればだけど、いつも満足にいくとは限らないよ。それにね、ノヴァ・スコシアはこの島のすぐ近くだし。私達が男の子を英国や合衆国からもらうじゃなし。きっと島のみんなとそんなに変わらないよ」
「そうかい、すべてうまく行くといいねぇ」レイチェル夫人の口調は、あからさまに疑っているのがありありと分かるものだった。「あたしが用心するよう言わなかったとだけは言わないでよ、その子がグリーン・ゲイブルズに火をつけたとか、井戸にストリキニーネを投げ込んだとかしてもね。この件はニュー・ブランズウィックで小耳に挟んだんだけど、そこで孤児院の子供がそうして、家族全員恐ろしく苦しみながら死んだとさ。もっともその事件は、女の子のしわざだったんだけど」
「まあ、私達は女の子をもらうわけじゃないから」とマリラは言った。まるで井戸に毒を入れるのは女性だけに特有のことで、男の子の場合は恐れるに値しないというように。「女の子を引き取って育てるなんて夢にも思わないさ。アレクサンダー・スペンサー夫人のところはそうするんだから、驚いたもんさ。しかしまあ、もし思い付いていたらだけど、孤児院ごと全部引き取ることも、あの奥さんなら尻込みしそうにないね」
レイチェル夫人は、マシューが孤児を引き連れて帰ってくるまで居座りたかったようだった。しかし、よく考えるとマシューが帰って来るまで、少なくともたっぷり2時間はあるので、結局夫人は街道を上ってロバート・ベルの家に行き、この新事実を伝えることにした。どんな事件と比べても、みんながあっと驚くこと間違いなかったし、レイチェル夫人はセンセイションを巻き起こすことが何より好きだったのである。夫人が行ってしまうと、ようやくマリラは緊張から解放された。レイチェル夫人の悲観論に影響されて、マリラは疑いと恐れがまた戻ってくるのを感じていたからだ。
「さてさて、よりによって孤児の子供をもらうなんて!」無事に小径まで退却してきたレイチェル夫人は、たまった鬱憤を吐き出すように言った。「本当に、まだ夢を見ているようだよ。それにしても、その子も災難だね、何も間違いがないといいけど。マシューもマリラも、子育てが何だか何一つ分かっていないんだから、その子のお祖父さんより分別くさくてたよりになると思っているんだろうよ。もしその子にそんなお祖父さんがいればだけど、それも怪しいもんだ。グリーン・ゲイブルズに子供がいるなんて、どうやっても考えられないよ。いままで一人も子供がいたことはなかったからね、マシューもマリラも家を建てた時には大きくなっていたはずだし。――もし二人が子供だったことがあるとしてだが。あの二人を見てるとそんなことは信じられないよ。何があっても、その孤児の立場になりたくないもんだ。おや、あたしとしたことが、でもその男の子には同情するよ、まったく」
そう言って、レイチェル夫人は野バラの茂みに向かって、正直な感想を打ち明けた。しかし、もし夫人がその子供を目にしていたら、まさにその時、その子は辛抱強くブライト・リバー駅で迎えを待っていたのだが、夫人の同情はさらに深く、もっと心からのものになっていただろう。
2章 マシュー・カスバート、仰天
マシュー・カスバートも栗毛の雌馬も、気ままにゆっくり走っていた。ブライト・リバーまでは8マイルの道のりである。そのなんとも素敵な道は、住みやすそうな農場の間を縫って走っており、あちらこちらで香り豊かなモミの森を抜けたり、野生のプラムがいくつも半透明な花からぶらさがる窪地を横切っていた。香しい息吹が、そこらじゅうのリンゴの果樹園と牧草地から届き、その斜面は遠く水平線の真珠と深紅色の霞に消えていた。そして、
小鳥はみな歌う、まるで 今日ばかりが夏の日であるかのように
マシューは、マシューなりに馬車の旅を楽しんでいた。道で女性に会って、会釈せざるをえないときを除いて。プリンス・エドワード島では、見知らぬ人でも、道ですれ違うときは誰であれ会釈する習わしだった。
マシューは、マリラとレイチェル夫人は別だが、世の女性を恐れていた。この不可思議な神の創造物達は、裏で自分を笑い物にしていると感じ、どうも落ち着かないのだった。マシューがそう思うのも無理はなかった。見た目が風変わりな人物だったからである。優雅とはほど遠い姿で、長い鉄灰色の髪は猫背の背中まで届きそうだし、あご全体を覆う柔らかいとび色のあごひげは、はたちの歳からはやしつづけていたものだった。実際、マシューがはたちだった時の姿と60の今の姿は、白いものが混じっていない以外に変わらないように見えた。
マシューがブライト・リバーに着いたとき、まだ列車が来る様子はなかった。早く着きすぎたと思ったので、マシューは持ち馬を小さなブライト・リバー・ホテルの囲いに繋ぎ、駅舎の方へ向かった。駅の細長い乗車場は、誰もおらず物寂しい様子だった。目につく生きものといえば女の子が一人だけで、一番はずれに積んだ屋根板の山にちょこんと座っていた。マシューは、それが女の子だと分かったとたん、横歩きでその子の前をなるべく急いで通り過ぎ、目を合わせないようにした。もしマシューがその子を見ていたなら、その子が緊張して堅くなっていたこと、何か期待している態度や表情に、まず間違いなく気がついていただろう。女の子はそこに座って、何かをあるいは誰かを待っていた。座ること、待つことがただ一つその時できることだったから、自分の持てる力の全てをつぎ込んで、座り、待ったのだった。
マシューが駅長とちょうど行き合った時、駅長は切符売り場を一旦閉めて、夕食をとりに帰宅するところだった。マシューは5時半の汽車がもうすぐやってくるのか尋ねた。
「5時半の汽車はとうに着いて、半時間前に出発しとります」駅長はあっさり返事した。「だが、一人お客さんが降りて待っとりますよ。ちっちゃな女の子ですな。そこの屋根板を積んだ上に座っていますよ。あの子には女性用の待合室に行くよう言ったんですが、外にいるほうがいいって大まじめに言われましてな。『外のほうが想像に広がりがある』とこうですよ。あの子は変わりもんですな、まあそういうことです」
「わしは女の子を待っているのじゃないんです」困ったマシューは言った。「男の子を、わしは迎えにきたんです。ここにいるはずなんだが。アレクサンダー・スペンサーの奥さんがその子を連れて、ノヴァ・スコシアからわしのところまで送る手筈になっておったんですよ」
駅長氏は口笛を鳴らしてみせた。
「たぶん、何かの間違いでしょう」駅長が言った。「スペンサー夫人はその女の子と汽車を降りて、私に預けていきました。聞いてるのは、お客さんと妹さんがあの子を孤児院から引き取るということで、お客さんが今にあの子を連れに来るだろう、ということです。この件で私が知っていることはこれで全部でして。どこを見ても、もう他には孤児を隠しちゃいないです」
「わしにはさっぱり分からんな」マシューは言った。八方塞がりだった。マリラがここにいたらなんとかなっただろうに。
「それじゃ、あの子に直接聞いたらどうです」駅長は関心ない様子で言った。「あの子なら事情を説明できるでしょうな。自分の考えをすらすら言える子だ、それは確かです。たぶん、向こうじゃお客さん指定の男の子が品切れだったんでしょうな」
駅長は楽しげに歩き去った。空腹だったのだ。不幸なマシューは一人残され、ライオンの巣穴でひげを引っ張るより難しく思われることをするはめになった。あの子に近づき、あの見知らぬ女の子に、孤児の少女に言うのだ、なぜおまえさんは男の子じゃないんだね、と。マシューは心の中で苦悶しながら、体の向きを変えて重い足をひきずり、その子の方へとゆっくり乗車場をおりていった。
女の子は、マシューが前を通り過ぎた時からマシューに注意していたが、今はその一挙手一投足を見つめていた。マシューは目をそらしていたし、もし見たとしても、その子が実はどんな様子か見てとれなかったろうが、普通の人ならばこんなことを観察できただろう。11歳くらいの子供で、着ている服は、短くきつきつでみっともない、黄色っぽい灰色の
ここまで分かれば普通の人である。並外れた観察者ならさらに付け足したであろう。あごがかなりとがってはっきりしていること、大きな2つの目は生命力と活気に満ちていること、口元はかわいらしく感情が豊かであること、ひたいは広く豊かであること。一口でいえば、われらが洞察力ある観察者はこう結論するであろう。平凡ならざる魂が、このみなし児の女性である入れ物に宿っている。引っ込み思案のマシュー・カスバートが愚かしくも恐れているこの子は。
とはいえ、マシューは自分から話し掛けるという試練からは容赦された。その子はマシューが近づくと判断すると、自分から立ち上がり、一方のやせて日焼けした手で使い古しで時代遅れの旅行鞄の取っ手をしっかり握りしめ、残った手をマシューに差し出したからである。
「マシュー・カスバートさんですね、グリーン・ゲイブルズからいらした?」独特の、澄んだ、感じのいい声で女の子は言った。「お会いできてとっても嬉しいです。心配になってたんです、いらっしゃらなかったらどうしようって。何か起こって来られないかもしれないって、ありとあらゆることを想像してたんです。もし今晩迎えにいらっしゃらなかったら、線路の曲がり角にある、あの大きい野生のサクランボの木まで行って、よじ登って一晩過ごそうと決めてました。あたし、ちっとも恐くないんです。だって素敵じゃないですか、野生のサクランボの木に包まれて眠るなんて、月明かりの中、見渡す限り花で真っ白なのよ、そう思いません? 自分が大理石の邸宅に住んでいるって想像できるかも、でしょ? それに、今晩がだめでも、きっと明日の朝には迎えに来て下さるって思ってました」
マシューは骨ばった小さな手をおずおずと握った。その時、その場で、マシューはこれからどうするか決めたのだった。燃えるような目で見つめるこの子に、間違いだったなんてとても言えなかった。家に連れて帰り、後はマリラにまかせよう。とにかく、この子をブライト・リバー駅にこのまま置いておくわけにはいかないからな、たとえどんな間違いがあったとしてもだ。だから質問とか説明は、グリーン・ゲイブルズに間違いなく戻るまで、全部後回しにしてもいいだろう。
「済まないな、遅くなった」マシューは恐る恐るいった。「こっちだよ。うちの馬が向こうの囲いにいるんだ。その鞄を貸しなさい」
「あ、あたしが持ちます」その子は元気に返事した。「重くないの。あたしの全財産を入れてるんだけど、重くないの。持ちかたが悪いと、取っ手がとれるんです。だから、あたしが持たなくちゃ、持つコツもちゃんと知ってるし。すごく古い旅行鞄なの。あ〜あ、おじさんが来てくれたんでほんとに嬉しい、たとえ野生のサクランボの木に包まれて眠るのがすてきだとしてもね。あたし達、ずいぶん遠くまで馬車に乗らなくちゃいけないんでしょう? スペンサー夫人が8マイルあるって言ってたんです。でもあたしは嬉しいわ、馬車に乗るのが大好きなんだもの。なんだか夢みたい、おじさんと一緒に住んで、おじさんの家族になるなんて。あたし、誰かの家族になったことがないの、本物の家族にね。そういえば孤児院は最低だったわ。4ヶ月しかいなかったけど、もう十分。おじさんは孤児院のお世話になったことなんかないだろうし、どんな風だか全然分からないと思うな。想像するよりずっとひどいんだから。スペンサー夫人は、そんなこと言うなんて悪い子だって。でも悪くいうつもりはないのよ。自分が悪い子だって知らないでいたら、悪い子になるなんて簡単ね。根は良い人達だったのよ、そこの孤児院の人達。でも、孤児院を種に想像を広げようなんて無理に近いわ――他の子を種にする方がまだまし。とっても楽しかったわ、周りの子がもしあんなだったらって想像してると。こう想像するの、あなたの隣に座っているあの女の子は、実はさる身分の高い伯爵様のご令嬢で、赤ん坊のころ親元からさらわれた子、さらったのは血も涙もない乳母で、罪を告白する前に死んでしまった、とかね。よく夜更かしして、こんなことを想像してたわ、だって昼間は時間がとれないんだもの。だからこんなにやせてるんだと思う。あたし、すっごくやせてるでしょう? 骨にぜんぜん肉がついてないもの。自分が奇麗で、肘にくぼみがあるくらいぽっちゃりしてるって想像するのが大好きなの」
これだけ話し終えると、マシューの旅の友はおしゃべりをやめた。息が切れたのと、馬車についたからでもあった。その後しばらく、一言も口をきかなかった。二人は村を離れ、急な丘を下り、柔土まで深く轍が切れた道を過ぎ、土手を走った。土手沿いの満開の野生のサクランボの木と細身の白い樺の並木は、二人の頭の数フィート上まで枝を広げていた。
女の子は片手を伸ばし、馬車の脇をすっている野生のプラムを一枝折った。
「美しい木ね? 土手から伸びてるあの木、何もかも純白でレースでできてるみたい、あの木を見て何か思わない?」女の子が聞いた。
「うむ、そうだな、わからんよ」とマシュー。
「そりゃ、花嫁よ、もちろん。上から下まで純白で装って、魅力的なおぼろなベールをつけた花嫁。花嫁さんは一度も見たことないけど、どんな風に見えるか想像できるわ。あたしは、絶対花嫁になれないと思うな。ありふれてるから、誰もあたしと結婚したくないだろうし。海外宣教師とかでないと無理。海外宣教師なら、あんまり好みがやかましくないと思うの。でも、ほんとにいつか、真っ白な婚礼衣装を着られるといいな。奇麗な服って大好き。覚えてる限り、生まれて一度も奇麗なドレスを着たことがないの。もちろん、それだから余計に期待しちゃう、そういうものでしょ? だから、あたしはドレスに身を包まれてきらびやかな自分を想像するのよ。今朝、孤児院を出るとき、とっても恥ずかしかった。だって、こんなひどいお古の交織の服を着てかなきゃならないんだもの。そこの孤児はみんなこれを着なきゃいけなかったのよ。ホープタウンのお店の人が、去年、交織を300ヤードぶん孤児院に寄付してくれたの。売れ残ったからだっていう人もいたけど、あたしは、心からの親切で寄付してくれたって信じる方がいいわ、おじさんもそうじゃない? 汽車に乗ってた時、みんながあたしを見て哀れんでるように感じたの。でも、あたしは、自分の勤めに戻って、一番優雅な薄い青の絹のドレスを着てるんだって想像したのよ。だって、どうせ想像するなら価値のあるものを想像したほうがいいもの。そして、いろんな花や羽飾りの大きな帽子、金時計、キッドの手袋とブーツよね。すぐに元気になって、今度の島までの旅を精一杯楽しんだわ。船に乗ってる間もちっとも気分が悪くならなかったし。スペンサー夫人もそうなの、いつもは違うのに。あたしが船から落ちるんじゃないかって見張っていたから、船酔いする暇がなかったんだって。あたしみたいにばたばた走りまわる子は見たことないって言ってたわ。でも、それで船酔いにならなかったんだから、あたしがあちこち見てまわって良かったってことよ、そうでしょ? それに、船から見えるものは全部見たかったんだ。だって、またの機会なんかあるかどうか分からないもの。あ、またたくさん、満開のサクランボの木だ。この島ってどこよりも花が満開なところね。もうここが大好きになったわ。ここに住めるなんてとっても嬉しい。いつもプリンス・エドワード島は世界で一番奇麗な島だって聞いてたので、そこに住んでいるってよく想像したけど、そうなるとは全然思わなかったもの。夢がかなうんだからとっても気分がいいわよね? そういえば、ここの赤い道はとっても変。シャーロットタウンで汽車に乗るとき、赤い道がどんどん現れては消えていくから、スペンサーさんに、何で道路が赤くなるのか聞いたんだけど、そんなこと知らないわ、お願いだからこれ以上質問はなしにして、っていわれたの。もう千回も質問してるでしょう、だって。それくらい質問したかもしれないけど、でも、誰かに聞かなかったら、どうやって世の中の謎を解けるんだろう? それに、いったい何で道が赤いのかな?」
「うむ、そうだな、わからんよ」とマシュー。
「そう、この問題はいつか解決したいものの1つだわ。そのうち問題が全部解決されるって考えると、素晴らしいじゃない? 楽しく生きていけるって感じるもの。ほんとに世の中って面白い。もしみんなが何もかも知ってたら、今の半分も面白くないでしょうね。そんなじゃ想像の広がりがないもの、そうでしょう? そういえば、あたし、しゃべりすぎかな? みんな、いつもそういうのよ。おじさんは、あたしがしゃべらないほうがいい? もしそうだったら、黙ります。やろうと思えば黙ることもできるの、難しいけどね」
マシューは大いに驚いていた。楽しいのだ。口下手な人にありがちだが、おしゃべり好きな人達が嫌いではなかった。ただ、その人達だけで話し、自分が話に加わる必要がない場合であるが。しかし、マシューは女の子の話に付き合うのが楽しいとは思ってもみなかった。正直言って、女達にはうんざりだが、女の子達はもっとひどい。マシューは、女の子達が、ちらちらこちらを見ながら、自分をこわごわ避けて通り過ぎていく様子がいやでしょうがなかった。何か一言でも言ったら、わしに一口で取って食われるとでも思っているみたいじゃないか。こういうのが、アヴォンリー風の育ちのいい女の子達だった。しかし、このそばかすだらけの魔女は全然違った。自分の鈍い頭ではこの子の頭の速い回転について行くのが難しいが、「この子のおしゃべりはなんだか面白い」と思ったのだ。それで、マシューはいつもどおり恐る恐る言った。
「ああ、好きなだけしゃべっていて構わんよ。気にならんから」
「わぁ、嬉しい。おじさんとあたしは仲良くやっていけるわね。話したいときに話せて、子供は黙っていなさいなんて言われないなんて、ひと安心だわ。一言しゃべると百万回もそう言われるんだもの。それにみんなあたしのこと笑うのよ、大袈裟な言葉を使うって。でも、もし大きな考えがいろいろ浮かんだら、大きな言葉を使わないと言い表せないでしょう?」
「うむ、そうだな、なんだか筋が通っているな」とマシューは言った。
「スペンサーさんは、あたしの舌は宙に浮いてるって言ってたわ。でも、そうじゃない。ちゃんと片方はしっかりくっついてるもの。スペンサーさんは、あたしの行くところはグリーン・ゲイブルズという名前なんだっていってたの。その家のことはなんでも聞いたのよ。家の周りに何本も木があるんですって。聞く前より嬉しくなっちゃった。あたし、木が好きなの。孤児院では全然木を植えていなくて、ちっちゃい木がちょっとだけあったんだけど、前の方に小さな白塗りの檻みたいなもので囲まれてたの。孤児みたいに見えてたわ、その木がよ。見てるうちにいつも泣きたくなるなるの。その木に向かってよくいってたのよ、『ああ、なんて可哀想なの、小さな木さん! もし、広大な森の中に他の木と一緒に植えられていたら、コケとジューンベルが根っこに生い茂り、小川が遠くなく、鳥が枝の間で歌うなら、あなたも大きくなれたでしょうにね。ここじゃだめね。あなたがどんな風に感じるかちゃんと分かるわ、小さな木さん。』今朝、その木を置き去りにするのは可哀想に感じたの。おじさんは、こんな風に何かに引き付けられたことはある? グリーン・ゲイブルズの近くに小川はあるのかな? スペンサーさんに聞くのを忘れてたわ」
「うむ、そうだな、あるよ、家からみて右の下手にな」
「すてき! 小川の近くに住むのが、前からの夢の1つなの。あたしが住むことになるとは全然思わなかった。夢はそんなにかなわないものでしょう? 夢が全部かなったらすてきでしょうね? でも、今、ほとんど完璧に近いほど幸せって感じてるわ。あたしは絶対完璧な幸せにはなれないの。だって、ほら、これ何色だと思う?」
その子は、やせた肩の後ろまで伸びた、長い光沢のあるおさげを引っ張りだし、マシューの目の前に差し出した。マシューは女性の髪の房の色合いを見分けるのは慣れていなかったが、この場合はそんなに疑わしいところはなかった。
「赤、かね?」とマシュー。
女の子は、おさげを後ろに戻しながら、ため息をついた。まさに足元から湧きあがり、長年のすべての悲しみを吐き出すため息だった。
「そう、赤なの」諦めたように、その子は言った。「もうわかるでしょう、あたしが完全に幸せになれないって。これ以外のことならそんなに気にならないのよ。そばかすとか、目が緑だとか、やせてるとかは。そんなの想像でなくしてしまえるもの。あたしは美しいバラの花弁のかんばせで、愛らしい星のようなスミレの瞳だって想像できるわ。でも、できないの、想像で赤い髪を変えるのは。全てをつくしてやるのよ。あたしは自分に言い聞かせる、『さあ、あたしの髪は神々しい黒、黒く、カラスのぬれ羽色のよう。』でもいつもわかるの、そんなじゃなくてただの赤だって。そして私の心はこなごなになるの。一生の間続く悲しみなんだわ。前に読んだんだけど、小説の中である女の子が一生の間続く悲しみを抱えてたわ。でもその悲しみは赤い髪のことじゃなかった。その人の髪は純粋なこがね色で、アラバスターの額から背中まで波打っていたわ。アラバスターの額ってどんなのかな? ぜんぜん分からなかったわ。おじさん分かる?」
「うむ、そうだな、済まんが分からんな」とマシュー、少し目眩がしてきた。マシューは以前子供の頃に感じたような気分だった。あの時、いつもの男の子にそそのかされて、ピクニックでメリー・ゴー・ラウンドに乗った時だ。
「そう、それがどんな風でも、すてきな何かに違いないわ、だってその人は神のように美しかったんだもの。おじさんは、神のように美しいってどんな風に感じるか、想像したことある?」
「うむ、そうだな、いや、わしはないな」マシューは率直に打ち明けた。
「あたしは何度かあるわ。もしどれか選べるとして、おじさんだったらどれがいい、神のように美しいのと、目が眩むほど賢いのと、天使のように善良なのと?」
「うむ、そうだな、わしは、わしにはさっぱりわからんな」
「あたしもそう。どれも選べない。でも実際の違いは大してないわ。あたしがどれかになれるなんて、ありっこないもの。確かに、あたしが天使のように善良になるなんて、絶対無理ね。スペンサーさんが言ってたんだけど、あぁ、カスバートさん! あぁ、カスバートさん! あぁ、カスバートさん!!!」
これは、スペンサー夫人が言った言葉ではなかった。この子が馬車からころげ落ちたわけでも、マシューがなにか驚くことをしたわけでもなかった。二人は単にゆるやかに道を曲がり「並木道」に入っただけだった。
「並木道」そうニューブリッジの人達に呼ばれるのは、400から500ヤード道が続くところで、枝を大きく広げたリンゴの大木が道沿いにアーチをかけていた。何年も前に変わり者の老農夫が植えたものだ。頭上高く、芳しい花の雪で覆われた円天井が連なっていた。枝々の下を見れば、大気は深紫色の黄昏で満ちていた。遠く向こうに残るのは、夕陽に染められた日没の空、それは大聖堂の側廊の一番奥に鎮座する、ステンドグラスの大窓のように輝いた。
あまりの美しさに、その子は口もきけなくなったようだった。馬車から後ろに乗り出して、やせた手を胸の前で組み合わせ、感動にあふれるその顔は、頭上のまっ白な輝きを仰ぎ見ていた。そこを通り過ぎても、ニューブリッジに続く長い坂道を下っても、動きも話しもしなかった。まだ感動の名残を顔に残しながら、陽が沈みゆく遠い西をじっと見つめていた。その二つの目は、その燃え上がる背景に重なる、いつまでもとぎれのない、輝く幻影を追っていた。ニューブリッジに入り、その騒がしい小さな村で、犬が何匹もこっちに向かっては吠え、小さな子供達は大声を上げては窓ごしに興味津々の顔をのぞかせても、二人を乗せた馬車はまだ沈黙の内に走り続けた。村を後にして3マイル余りがいつの間にか過ぎ去り、それでもまだその子は何も語ろうとしなかった。その子は沈黙を守ることができた、確かにそうだった。元気いっぱいおしゃべりできるのと同じくらいに。
「なんだか、大分疲れたようだし、腹も減ったんじゃないかね」マシューはようやく言ってみた。長いこと黙ったままな理由は、それしか思い付かなかったからだ。「だがな、ここからそれほど遠くは走らんよ、あとほんの1マイルだ」
その子は、深いため息をひとつついて、自分だけの夢想の世界から戻って、夢見るまなざしでマシューの方を向いた。その魂は星に導かれ、たった今まではるか遠くをさすらっていたのだ。
「あぁ、カスバートさん」その子は小さな声で言った。「さっきのところ、あたし達が通り抜けた、あのまっ白なところ、あれは何?」
「うむ、そうだな、きっと並木道のことだな」ややしばらくあれこれ考えてから、マシューは言った。「あれは奇麗な場所かもしれないな」
「奇麗? そんな、奇麗じゃあの場所にぴったりの言葉じゃないと思うわ。美しい、でもないわ。そんな言葉じゃ追い付かないの。そうだ、夢のよう、夢のようだわ。今まで見た中で初めてのものだもの。想像の力でももうこれ以上良くできなかったもの。ここに来て本当に良かった」その子は、片手を胸にあてた。「あのせいで、気の遠くなるような変な痛みを感じるの。でも気持ちのいい痛みだわ。今までそんな痛みを感じたことある、カスバートさん?」
「うむ、そうだな、そんなことがあったか、ちょっと思いだせんな」
「あたしはいくらでもあるわ。すっごく美しい何かを見るといつもよ。でも、みんな、あの魅力的なところを、並木道なんて呼んじゃだめよ。そんな名前じゃ、何の意味も込められていないもの。こんな風に呼ばなきゃ、そうだなぁ、胸打つ白き路。なかなか想像性豊かな名前じゃない? どこかの場所や人の名前が気に入らない時は、いつも新しい名前を想像して、そういう名前なんだと思う事にしてるの。孤児院に、ある女の子がいたんだけど、名前がへプジバ・ジェンキンスなの。でもいつもその子の名前がロザリア・ドヴィアなんだと想像してたわ。他の人達はあそこを並木道と呼ぶのかもしれないけど、あたしはいつも胸打つ白き路と呼ぶことにするわ。本当にあとほんの1マイル行けばあたし達の家に着くの? あたし嬉しくて悲しいわ。悲しいのは、このドライブがとても楽しかったから。楽しいことが終わると、いつも悲しくなるの。何かもっと楽しいことが後からあるかもしれないけど、そんなこと分からないもの。それに、ありがちなのは、もっと楽しくなんかならないってこと。とにかく、そんなのばっかり、あたしの体験って。でも、あたし嬉しいわ、自分の家ができるって考えると。覚えている限り、本当の家があったことってなかったの。あの楽しい痛みをまた感じるわ。本当の真実の家に帰るって考えるだけで。あ、あれ奇麗じゃない!」
二人はちょうど丘の頂を越えたところだった。二人の下手には池があり、川といって差し支えないほど細長く、曲がりくねっていた。橋が一本中ほどに渡されて、池の下手の端は、
「あれはバリーの池だよ」マシューが言った。
「う〜ん、その名前も好きじゃないわ。あたしだったら、そうね、輝く
マシューは、記憶を何度も反芻してみた。
「うむ、そうだな、あるよ。キュウリの苗床を掘ると出てくる白い地虫を見ると、いつもぞくぞくするな。あの形が嫌でな」
「そんなぁ、おなじ種類のぞくぞくとは思えないな。おじさんはそう思うの? 地虫と輝く水面の湖とは、大して関係なさそうだもの、でしょ? そういえば、どうしてみんなはバリーの池って言うの?」
「思うに、バリーさんが、坂の向こうのあの家に住んでるからだな。果樹園坂が屋敷の名だ。あの屋敷の後ろの大きなやぶがなかったら、グリーン・ゲイブルズがここから見えるはずだよ。だが、あの橋を渡って道なりに曲がると、あと半マイルばかりだ」
「バリーさんに小さい女の子はいるの? えっと、そんなに小さくなくて、あたしぐらいの」
「11歳の子が一人いるな。名前はダイアナだ」
「すごい!」大きく息を吸いこむと、「何て素敵な名前、完璧ね!」
「うむ、そうだな、わしにはわからんが。何やら、ひどく異教徒臭いと思うがな。ジェーンとかメアリとか、そういうちゃんとした名前の方が良いがな。そういえば、ダイアナが生まれた時、学校の先生が下宿していて、その先生に名前を付けてくれるよう頼んだんだが、それでダイアナという名が付けられたんだよ」
「あたしが生まれた時に、そういう学校の先生が周りにいたら良かったのに。あ、ほら橋に着いたわ。ぎゅっと目をつぶるね。あたし、いつも橋を渡るときは恐くなるの。どうしても想像してしまうんだもの、もしかして橋の真ん中まで来たら、橋がジャック・ナイフみたいに、ぐしゃっと折れて挟まれるかもって。だから目をつぶるの。でも、真ん中まで来たなって思うと、いつも目をあけちゃうのよ。だって、そうよね、もし橋がほんとに折れるんなら、どうしても見てみたいもの。ガラガラ、ゴロゴロ、楽しい音よね! あたし、ゴロゴロいうところは、いつも楽しめるわ。好きなものがこの世に、こんなにいっぱいあるのって、素晴らしいことじゃない? ほうら、渡った。もう後ろを向けるわ。おやすみ、輝く水面の湖さん。好きなものには、必ずおやすみの挨拶をするの。人に挨拶するみたいにね。たぶん喜んでると思うわ」
二人がもう一つ丘を越えて曲がり角を曲がったところで、マシューが言った。
「家までもうすぐそこだよ。あれがグリーン・ゲイブルズだ、向こうの――」
「あぁ、言わないで」慌てて遮ると、マシューの上げかけた腕を押さえ、しぐさが見えないように目をつぶった。「あたしに当てさせて。ちゃんと当てて見せるわ」
女の子は目を開けてあたりを見回した。二人は丘の頂上にいた。陽は少し前に沈んでいたが、まだ、あたりの風景は、まだ空に残るやわらかな光の中に浮かび上がっていた。西には教会の尖塔が暗くマリゴールドの空を背に高くそびえていた。下手は小さな谷地で、その向こうには、居心地良さそうな農場が散在する緩やかな長い坂があった。一つまた一つと、その子の視線が投げかけられた、熱心に、そしてあこがれるように。ようやくその目が落ち着いたのは、左側遠くの、街道からだいぶ引っ込んでいて、周りを森で囲まれた、たそがれの中で花盛りの木々がぼんやりと白く見える一件の農家だった。その上に広がる清浄な南西の空には、大きな水晶のように透明な星が、導きと約束の灯のように輝いていた。
「あの家ね、そうじゃない?」指差してその子は言った。
マシューは、満足そうに栗毛の背中に手綱をくれた。
「うむ、そうだな、当たりだ! だが、思うに、スペンサーさんがいろいろと話してくれてたんで分かったんだろう」
「いいえ、話してもらってないわ。本当にそうなの。スペンサーさんが話してくれたことは、他の家でも大概当てはまるようなことだったし。あたしは、どんな風な様子か全然知らなかったもの。でも、あの家を見たとき、これがあたしの家なんだと感じたの。あぁ、何だか夢の中にいるみたい。ねえ、おじさん、あたしの腕は肘から上が青黒くなってるに違いないわ。朝から自分で何度も何度もつねったもの。しばらくすると、ものすごく気持ち悪くなって、何もかも夢なんじゃないかって心配になるの。でも、もし夢だったとして、できるだけ長く夢を見ている方がいいって、不意に思い付いたの。それで、つねるのをやめたのよ。でもそれが現実になって、あたし達はもうすぐ家に帰るんだわ」
喜びのあまりため息をついて、女の子は沈黙へと逆戻りしていくのだった。マシューは、落ち着かないように身動きした。ありがたかったのは、自分ではなくマリラが、この、世間をさ迷う宿無し児に、憧れていた家は、結局のところおまえのものではないと、告げることになるだろうということだ。二人の乗せた馬車はリンド窪地を過ぎた。そこはすでにすっかり暗くなっていたが、リンド夫人がリンド家の窓から二人を見物できないほど暗くもなかった。そして、丘を登りグリーン・ゲイブルズの長い小径へと入っていった。建物に到着するころまでに、マシューは、自分でも理解しがたい力を込めて、真実が暴露される時が刻一刻近づくのをなんとかして避けようとしていた。マシューは、マリラのことでも、自分のことでもなく、この取り違えからおそらく生じるであろう、二人を巻き込むごたごたでもなく、この子ががっかりするだろうことを案じていた。この子の目から喜びの光が消え去るのだと考えると、何かを殺す手伝いをするような、どうにも不愉快な気持ちになるのだった。子羊や子牛、あどけなくてまだ小さい生き物を殺さなくてはならない時に湧き起こる気持ちと同じだった。
馬車で乗り付けた時には、庭はすっかり暗くなっており、庭の周りではポプラの葉がさやさやと鳴っていた。
「聞いて、ポプラの木が眠りながらおしゃべりしてるのよ」マシューがその子を馬車から抱き降ろす時、女の子は囁いた。「きっと、素敵な夢を見てるんだわ!」
そして、「全財産」を詰めた旅行鞄をしっかり握り締め、その子はマシューに続いて家の中に入っていった。
3章 マリラ・カスバート、仰天
マリラは、マシューが家のドアを開けると、待ってましたとばかりにやってきた。しかし、この風変わりな小さな姿、ごわごわしたみっともない服を着て、長い赤毛のおさげの期待でいっぱいの輝く瞳の子を目にすると、仰天して足が止まってしまった。
「マシュー・カスバート、その子は誰?」マリラは激しい調子で言った。「男の子はどこなの?」
「男の子なんかいなかった」マシューは嫌々言った。「いたのはこの女の子だけだったよ」
マシューはその子に向かってうなずきながら、まだ名前さえ聞いていなかったことに気がついた。
「男の子がいなかった! そんな、男の子がいたはずよ」マリラは譲らなかった。「うちではスペンサーの奥さんに言付けて、男の子を連れてくるよう頼んだのよ」
「うん、そうじゃなかったんだな。奥さんはこの子を連れてきたんだ。駅長に聞いたんだが。それでこの子をうちに連れてくることになったんだ。この子はそこに置いとけなかったよ、どこかで間違いがあったにしてもな」
「ああそう、大した厄介事だわね!」激しくマリラは言った。
二人の会話を聞きながら、この子はさっきから黙ったままだった。目だけは二人の会話を追っていたが、顔からはさっきまでの表情が消え去っていた。と、その時、それまでの話の意味が全て通じたようだった。大事に抱えた旅行鞄が落ちるのも構わず、その女の子は思わず一歩踏み出し、両手をぎゅっと組み合わせた。
「二人ともあたしが要らないんだ!」その子は怒鳴った。「二人ともあたしが要らないんだ、どうせあたしは男の子じゃないわよ! こんなことだと思ったわよ。今まであたしを要る人、いなかったもの。何もかも素晴らしすぎて、続きっこなかったのよ。誰も、本当にあたしが要るわけなかったのよ。あぁ、どうしたらいいの? 涙がこぼれそう!」
存分にその子は涙をこぼした。テーブル脇の椅子に崩れ落ち、両腕をテーブルの上に投げ出して、その中に顔を埋めながら、嵐のように泣き始めた。マリラとマシューは、ストーブ越しにお互い非難の目で見合った。二人とも一言もなかった。結局マリラが、その砕け散る荒波にしぶしぶ足を踏み入れた。
「さあ、さあ、そんなに泣くほどのことじゃないさ」
「いいえ、泣くほどのことよ!」その子はさっと頭を上げ、顔に涙の跡をくっきり残して、唇を震わせた。「おばさんだって泣くわよ、もしおばさんが孤児で、自分のうちになるんだって思って来てみたら、そこじゃ男の子じゃないから要らないって分かったら。あぁ、これこそ空前の大悲劇だわ!」
長いことしまい込んでいたので大分錆付いてはいたが、何か慣れない笑みのようなものが、マリラの険しい表情を和らげた。
「さあ、もう泣かないで。なにもあんたを、今夜追い出そうなんてつもりはないからね。この件の調べがつくまでは、あんたはここにいることになるんだよ。あんた、名前は何だい?」
その子はちょっとためらった。
「あたしをコーデリアと呼んでくれる?」女の子は熱心に言った。
「コーデリアと呼んで! それがあんたの名前なのかい?」
「別にそういうわけじゃ……。必ずしもあたしの名前じゃないけど、どうしてもコーデリアと呼ばれたいの。すっごくおしとやかな名前だもの」
「いったい何を言いたいんだか分からないよ。もしコーデリアがあんたの名前じゃないなら、何ていうんだね?」
「アン・シャーリー」その名前の主はしぶしぶ口を開いた。「でも、ねぇ、お願い、あたしをコーデリアって呼んで。あたしはここにちょっとしかいないんだから、おばさんにはどっちでも構わないでしょう? それに、アンはすっごく
「
「そんな、恥ずかしくはないんだけど」とアンは弁明した。「ただコーデリアの方が好きなの。いつも想像してるのよ、あたしの名前はコーデリアだって。少なくとも、ここ最近はずっとね。あたしが子供だった頃は、ジェラルディンがお気に入りだったけど、今はコーデリアの方が好き。でも、もしあたしをアンと呼ぶなら、綴りの最後に E の文字をつけたアンで呼んで欲しいの」
「綴り方で何の違いがあるっていうのさ?」ティーポットを手に取りながら、またしても下手な笑顔のマリラが聞いた。
「え〜っ、とんでもない違いよ。とっても素敵に見えるわ。誰かの名前が口に出されるのを聞くと、印刷されたみたいに、頭の中で必ず名前が見えて来たりしないの? あたしはそう。A-n-n は見栄えが悪いけど、A-n-n-e は別物みたいに素晴らしいもの。もし、おばさんがあたしを e を付けたアンで呼んでくれるんなら、コーデリアと呼ばれなくても、甘んじて受け入れるわ」
「そりゃあ結構だね。で、E の付いたアン、何でこんな行き違いが起こったか説明できるかい? あたし達はスペンサーの奥さんに、男の子を連れてきてもらうよう言付けたんだよ。孤児院には男の子がいなかったのかね?」
「いいえ、いたわ。たくさんあまってたわ。でも、スペンサーさんははっきり言ってたの、おばさん達は11歳くらいの女の子を貰いたいって。それで院長さんが、あたしがいいと思うって。おばさんには、あたしがどれほど嬉しかったかわからないわ。嬉しくて一晩中眠れなかった。ねえ」マシューに振り向き、非難を込めて付け加えた、「どうしておじさん、駅であたしに言ってくれなかったのよ、あたしなんか要らないって。どうしてあたしを向こうに置いといてくれなかったの? もし胸打つ白き路や輝く水面の湖を見てなかったら、こんなにつらくないのに」
「いったい何のことを言ってるの?」マシューをジロッと見て、マリラが問い詰めた。
「この子は、この子は、来る途中でいろいろしゃべったことを言っているだけだよ」とマシューが慌てて言った。「わしは馬を小屋にいれてくるよ、マリラ。夕飯を用意しといてくれ、すぐ戻るから」
「スペンサーさんは、あんたのほかにだれか連れていたかい?」マシューが外へ逃げ出したあと、マリラが続けた。
「スペンサーさんは自分用にリリー・ジョーンズを連れて帰ったわ。リリーはまだ5歳でとても可愛らしくて、栗色の髪なの。もしあたしが可愛らしくて栗色の髪なら、おばさん、あたしを置いてくれる?」
「いや。あたし達はね、農場でマシューを手伝える男の子が要るんでね。女の子はあたし達には用なしなのさ。帽子を脱ぎなさい。玄関のテーブルの上に、あんたの鞄と一緒に置いておくよ」
アンは言われるまま、帽子を脱いだ。ほどなくマシューが戻ると、3人は夕食の席についた。だが、アンは何も食べられなかった。なんとか、バター付きパンを少し口にし、クラブ・アップルの砂糖漬けを小さな貝殻状のガラスの深皿から自分の皿に取って、ちょっとだけ食べてみただけだった。食事する努力なんかしたくもなかった。
「あんた、何も食べてないじゃないか」とマリラがアンを見ながら尖って言った。食べないことは重大な欠点と映るらしい。アンはため息をついた。
「食べられない。あたし、絶望の深みにはまってるの。絶望の深みにはまってる時、おばさん、食べられる?」
「あいにく絶望の深みにはまったことなんかないから、何とも言えないね」マリラが言い返した。
「おばさん、ないの? それじゃ、絶望の深みにはまったと想像しようとしたことは?」
「いや、ないね」
「それなら、どんなものだか分からないのも当然ね。とても気分が悪い感じがするの。食べようとすると、塊のようなものがのどにこみ上げてきて、何も飲み込めないのよ。チョコレート・キャラメルでもだめ。チョコレート・キャラメルは1粒だけ、2年前に一度食べたことがあるけど、それはそれは美味しかったわ。その後何度も、チョコレート・キャラメルをた〜くさん持ってる夢をみたの。でも、食べようとしたとたん、いつも目が覚めるのよ。あたしが食べられないからって、怒らないで下さいね。みんなとっても美味しそうなんだけど、でもやっぱり食べられないのよ」
「疲れたんだと思うがなぁ」とマシュー、納屋から戻ってきてからようやく口を開いたのだった。「寝かしてやるのが一番だよ、マリラ」
マリラはアンをどこに寝かせたらいいか考えをめぐらせていた。台所の部屋の寝椅子を、望んでおり予想もしていた男の子用に準備していたのだ。しかし、いくらきちんとしていて清潔だとはいえ、女の子をそんな所に寝かせるわけにはいかなかった。しかし、こんな迷子の孤児に客間を使わせるのも問題外だったので、残ったのは東向きの破風屋根の部屋だけだった。マリラは燭台に火を灯し、アンについてくるよう言った。アンは腑抜けたように従い、通りがけに玄関のテーブルから帽子と旅行鞄を手に持って行った。玄関は何ものも寄せ付けないほど清潔だった。だが、ふと気がつくとアンがいた破風屋根の小さな部屋は、さらに輪をかけてどうしようもなく清潔に思えた。
マリラは燭台を3脚の三角テーブルに置いて、ベッドの上掛けを折り返した。
「ねまきはあるんだろう?」マリラが聞いた。
アンはうなずいた。
「ええ、2着あるわ。孤児院の院長さんが作ってくれたの。どっちもひどくきつきつなの。孤児院じゃ何もかも足りないから、いつだってきつきつなものばかり。少なくとも、あたしがいたみたいな貧乏な孤児院ではね。きつきつなねまきは嫌い。でも、きつきつなねまきでも、フリルが首のまわりにたくさんついてる、可愛らしい裾の長いねまきでも、夢見ることは同じだから、少しは慰められるわ」
「さあ、さっさと服を脱いでベッドに入りなさい。何分かしたら燭台を取りに戻ってくるよ。あんたに自分で火を消してもらうなんて当てにできないよ。あんたに任せておいたら、ここが火事になりそうだからね」
マリラが行ってしまうと、アンは辺りを暗い雰囲気で見回した。白塗りの壁は、どちらを向いても痛ましいほど飾り気がなく、異様に目立つので、アンは、自らの飾り気なさを悲しんでいるに違いないと思った。床も飾り気がなく、いままで見たことがないような丸い編んだマットが、ただ一枚真ん中に敷いてあるだけだった。一方の隅にはベッドが置かれており、その背の高く古めかしいベッドの四隅には、黒っぽい間隔の広いねじり模様の柱がついていた。別の隅には前述の三角テーブルが置かれており、ベルベットで作られた丸っこい赤の針刺しが飾ってあったが、いかにも堅そうで、針先を曲げずに突き刺すのは至難の業だろう。その上には小さな6×8インチの鏡が掛かっていた。テーブルとベッドに挟まれて進むと窓があり、氷のように白いモスリンのフリルが覆っていた。窓の反対側には洗面台が据え付けられていた。部屋全体が、言葉にできそうもない厳しい面持ちで、アンは骨の髄まで震えが走った。涙目になりながら、アンは慌ただしく服を脱ぎ捨て、きつきつのねまきを着て、ベッドに飛び込んだ。顔は枕の下にすっかり隠し、頭の上まで布団をかぶった。マリラが燭台を取りに階下から来てみると、きつきつの衣類があれもこれもと、だらしなく床に散乱していた。嵐が過ぎ去ったベッドの様相が、マリラ自身を除いて、唯一何かしら人がいる気配を感じさせるものといえた。
マリラは、何やら考えながら、アンの服を一枚一枚拾い上げ、奇麗に畳んで四角四面の黄色い椅子に掛け、燭台を取り上げて、ベッドの方へ歩いていった。
「ゆっくりお休み」なんだか取ってつけたように、でも思いやりがないでもなく、そう言った。
アンの青ざめた顔と大きな目が、布団をめくってびっくり箱のように現れた。
「どうして、ゆっくり休めるのよ? 今夜はあたしの一番最低な夜だって知ってるくせに」アンは非難を込めて言った。
そう言うと、布団を被って、また見えなくなった。
マリラはゆっくりと階下の台所に下りて、夕食の皿を洗い始めた。マシューは煙草を吸っていた。何か気に掛かることがあると決まって煙草を吸うのだ。不潔な習慣だとマリラが反対するので普段はほとんど吸わないのだが、どうしようもなく吸いたくなるときもあるのだった。そういう時には、男だって少しは気持ちのはけ口が必要に違いないと理解を示し、マリラは見ぬ振りをするのだった。
「やれやれ、困ったことになった」マリラは不機嫌に言った。「自分達で行かずに、人づてで頼んだからこんなことになったんだよ。リチャード・スペンサー家の誰かが間違って伝えたんだろうね。明日にでも、兄さんかあたしが出かけていって、スペンサーさんに確かめないと。それだけは必ずやらなきゃ。この女の子は、元の孤児院に送り返しとかないといけないからね」
「ああ、そうなるんだろうな」と、マシューは乗り気ではなかった。
「何が、そうなるんだろうな、ですか! 兄さんは、そういうつもりじゃなかったっていうの?」
「うむ、そうだな、あの子はなかなか楽しい子だよ、マリラ。あの子を送り返すのはなんだか可哀想だよ、あんなにここにいたがっているんだし」
「マシュー・カスバート、あの子はここに置いとくべきだと思う、なんて言い出すんじゃないでしょうね!」
マリラは驚いてしまった。マシューが、逆立ちが趣味だと言ったわけでもないのに。
「うむ、そ、そうだな、そうは言わんよ、そうはっきりとはな」どもりがちにマシューが答えた。自分の言葉が災いして、崖っぷちまで追い込まれてしまった。「考えてみるとだな、あの子を置いておくなんてできない相談だな」
「そのとおりです。あの子がいると、何かあたし達の役に立つっていうの?」
「わしらがあの子の役に立つかもしれんよ」とマシューが言った。唐突でもあり、まったく思わぬ言葉でもあった。
「マシュー・カスバート、兄さんはあの子に魔法をかけられたのよ! あたしには明々白々だわ、あの子を置いておきたいんでしょ」
「うむ、そうだな、あの子はほんとに面白い子だよ」マシューが押し通した。「駅から来る途中の、あの子のおしゃべりを聞ければ良かったんだが」
「はいはい、そりゃあ必要以上に口は巧いね。すぐ分かったわ。でも、それのどこがいいのさ。おしゃべりの子供は好きじゃないよ。孤児の女の子は要らないね。もし引き取るとしたって、あの子はあたしの好みじゃないよ。何を考えているのか、分からないところがあるのよ。あの子はだめ、さっさと元来たところへ送り返してやらなくちゃ」
「フランス人の男の子の手伝いを雇うこともできるだろう」とマシュー。「それに、あの子はおまえの話し相手になるかもしれんし」
「話し相手には苦労してないわ」マリラはすぐに切り返した。「だからあの子を置くつもりもないわ」
「うむ、そうだな、おまえの言うとおりだよ、もちろんだ、マリラ」と言ってマシューは立ち上がり、パイプを片付けた。「わしは寝ることにするよ」
ベッドへとマシューは向かった。ベッドへと、お皿を片付けてからだが、マリラも向かった。表情は険しく、すでに心は決まっていた。そして二階では、東の破風屋根の部屋の中、寂しく愛情の空腹に耐え身寄りもなく、子供が一人泣き疲れて眠りの世界へと向かった。
4章 グリーン・ゲイブルズで迎える朝
アンが目を覚ましベッドから起き上がると、すっかり陽が上っていた。はっとして見つめた窓からは、陽気な日差しが差し込んでいた。窓の外には、何か白いふわふわしたものが揺れており、それをすかして青い空がちらちら見えていた。
しばらくの間、今どこにいるのか思い出せずにいた。はじめに思い出したのは、嬉しくてぞくぞくしたこと、そう、何だかとても楽しかった、そして、身の毛もよだつ記憶。ここはグリーン・ゲイブルズ、二人ともあたしが要らないの、男の子じゃないから!
だけど、今は朝なんだもの。そう、あれはサクランボの木、窓の外では、あたしのために満開の花が咲いているわ。ぽんとベッドから飛び出して、ぱたぱたと部屋の反対側に駆け寄った。窓枠を押し上げると、ずっと開けたことがなかったように、堅くてキーキー音がした。事実そうだったのだ。窓枠はきつくて押さえていなくても良かった。
アンは膝を床について、窓から見える6月の朝に浸っていった。その目は感動できらきら輝いていた。ほんと、奇麗じゃない? 素敵なところよね? あたしはここにいられるわけじゃないんだった! でもいられると想像するのよ。ほら、ここでは、こんなに想像が広がるよ。
窓の外には、大きなサクランボの木が枝を伸ばしていた。その木は窓に近く、枝が建物をかするように揺れていた。花がびっしり咲いていて、葉っぱがほとんど見えないくらいだった。建物の左右にはひとつながりの果樹園が広がっており、一方はリンゴの果樹園、もう一方はサクランボの果樹園で、どちらを向いても花の雨だった。木々の下の草地は、タンポポをあちこちに散らしていた。窓の下の庭では、ライラックの木々が紅藤色の花を咲かせ、目眩がするほど甘い香りが、朝の風に乗って窓辺まで漂っていた。
庭の下手の青々とした畑にはクローバーが生い茂り、坂になって窪地に続いていた。窪地には、小川が流れ、何十本もシダレカンバが生い茂っていた。シダレカンバが元気よく飛び跳ねて生えている下生えは、シダやコケなど森の植物がひととおり生えているかもしれないと、楽しい想像をかきたてた。窪地のさらに向こうは丘が続き、エゾマツとモミで、緑色の小さな羽毛がびっしり生えているように見えた。丘の森の切れ目からは、輝く水面の湖の反対側からも見えていた、小さな建物の灰色の破風屋根の端がのぞいていた。
そのちょっと左には大きな納屋があり、さらに向こうの、みずみずしい緑のなだらかに畑を下った先には、光輝く紺の海がかすかに見えていた。
アンの目は、美しいものを求めて、窓から見える風景を散策しながら、どれ一つとして見逃さず、手にとるように見入っていた。この子の人生の中では、美しいとは言いがたい場所が多すぎた。不運な子である。だが、目の前の風景は、夢に見てきた風景と同じくらい美しいものだった。
ひざまずいたまま、ただただ美しいものに埋もれて、夢中になっていた。と、そのとき、肩にかかる手を感じて、ハッと飛び上がった。マリラが部屋に入ったのが、この小さな夢見る人には聞こえなかったのだ。
「着替える時間だよ」身も蓋もなく言った。
マリラは実際どんな風にこの子に話し掛けたらいいのか見当がつかなかった。それで、どうすればいいか分からなくて居心地が悪く、そのつもりがなくとも、つい、つっけんどんでそっけない言い方になるのだった。
アンは立ち上がって、今まで息を止めていたかのように、大きくひと呼吸した。
「ねえ、夢のようね?」そう言って、外に広がるこの気持ちのいい世界全体を、手で大きく示した。
「確かに大きな木さ」とマリラ。「花は大したもんだが、実はそんなにならないんだよ、小さくて虫食いでね」
「あ、木だけじゃなくて、もちろんこの木も素敵よ、そうね、輝かんばかりに素敵よ、素敵に咲こうとしてるみたい、でもあたしが言ったのは何もかもがよ、この庭に、あの果樹園、あそこの小川も森も、この愛しい世界全体がよ。こんな朝には、世界がどうしようもなく魅力的に感じない? あたしには小川が笑いながらここまで流れて来るのが聞こえるわ。小川が陽気な性格だって知ってた? いつも笑ってるの。冬の時期でも氷の下から聞こえてくるわ。グリーン・ゲイブルズのそばに小川があってとっても嬉しい。たぶん、おばさんは、あたしを置くつもりじゃないから、大した違いじゃないと思うかもしれないけど、違いはあるのよ。これからは、いつでも、グリーン・ゲイブルズに小川があったことを懐かしく思い出すことになるわ、もう二度と見ることがなくてもね。もし小川がなかったら、何かひとつ足りないって落ち着かない感じに付きまとわれると思うの。今朝は、絶望の深みにはまってなんかいないの。朝はそんなこと無理だもの。朝があるって、素晴らしいことよね? でも悲しくなっちゃう。今までずっと想像してたんだもの、おばさんがほんとに欲しがっていたのは実はあたしで、ここにずっとずっといることになるって。想像している間は、とっても元気が出たわ。でも、想像の最大の欠点は、いつかやめなきゃいけない時がくることなの。傷つくのよね」
「さっさと着替えて、下に下りて来るんだね、あんたの想像の世界なんか心配してないで」マリラは言った。ようやく話に割り込む隙間を見つけたのだ。「朝ご飯の準備ができてるよ。顔を洗って、髪を梳かして。窓は上げといたままでいいよ、布団はベッドの足元に畳みなさい。さっさと手際よくね」
目的がはっきりしていると、アンが手際がいいのは疑いがなかった。10分後にはすでに階下に下りて来ていた。服はきちんと着ていたし、髪を梳かしてみつあみにして、顔も洗った。マリラの要求どおりにできたので、気分も上々だった。と言いたいところだが、布団を足元に畳むのは忘れていた。
「今朝はおなかペコペコ」マリラが引いてくれた椅子にすべりこみながら、そうのたまった。「この世界は、夕べみたいな、獣吠えるパレスチナの荒野って感じじゃないわ。からっと晴れた朝で、とっても嬉しい。でも雨の朝も、結構捨てがたいわ。どんな朝でも面白いわよ、そう思わない? 今日一日何が起こるか分からないもの、だから想像がどんどん広がるのよ。でも今日は雨でなくて嬉しいな、だって晴れてる日のほうが、元気に心の苦悩を支えやすいんだもん。ようし、頑張るぞって感じ。悲しいことを思って、自分がヒロインみたいに、その悲しみを乗り越えるんだって想像するのもそりゃあいいんだけど、その悲しいことが実際本当になると、そんなにいいもんじゃないもの、そうでしょ?」
「頼むから、あんたの舌はしまっといとくれ」とマリラ。「子供のくせに、あんた、ほんとにしゃべりすぎだよ」
直ちに、アンは舌をしまった。あまり素直で徹底して黙りこくっているから、なんだかわざとらしくて、かえってマリラの勘に障った。マシューも同様に舌をしまっていたが、こちらはわざとではなく、ごく自然だった。そんなわけで、朝ご飯はとても静かなものだった。
食事が進むにしたがって、アンはだんだんと、心ここにあらずといった調子になっていった。機械的にのどに流し込みながら、大きな目は、脇見もせず、かといって何か見ているようでもなく、窓の外の大空にしっかりと向けられていた。これがまた、輪をかけてマリラの気に障った。どうも落ち着かないね、この変な子の体は、このテーブルの前にあるっていうのに、心は遠く離れて、どこか遥か遠くの空にそびえる雲のお城まで、想像の翼にのって空高く運ばれていったみたいじゃないか。誰がこんな子を自分の家に欲しいかね?
いまだに、マシューはこの子を置きたがっている、まったくわけがわからないね! マリラには薄々分かっていた。マシューは夕べと同じく今朝になっても置きたがっている。その先も変わらないだろうと。マシューらしいやり方さ。何か気まぐれを思い付くと、それにかじりついて離れないだから。黙りこんだら頑固一徹、大したもんだね。頑固に黙ってられると、言いたいことを言われるより、十倍もたちが悪いよ。
食事が終わると、自分だけの夢想の世界から帰って来たアンが、皿洗いを手伝うと申し出た。
「ちゃんと皿を洗えるんだろうね?」疑わしげにマリラが聞いた。
「結構上手よ。子守りの方が上手なんだけど。子守りの経験は豊富なの。おばさんとこの子を子守りできなくて、ほんと残念だわ」
「あたしは、目の前の子の他に、子守りしなきゃいけない子を欲しいだなんて思わないよ。正直言って、あんただけでも、十分手に余ってるんだよ。あんたをどう扱ったらいいのか、検討がつかないよ。マシューもほんとおかしな人だね」
「おじさんはいい人だと思うな」とアンは反論した。「すごく気が合ったもの。あたしがどれだけおしゃべりしても嫌がらなかったし、気に入ったのかも。同じ波長の人だって、一目でピンと来たわ」
「確かにあんたたち二人とも変わってるよ、『同じ波長』っているのがそういう意味ならね」マリラは鼻で笑った。「そうだった、お皿を洗ってもらおうかね。たっぷりのお湯で、ちゃんと乾かすんだよ。午前中にたくさんやっておくことがあるんだよ、午後にはホワイト・サンズに出かけてスペンサーさんに会わなきゃいけないし。あんたも一緒に行くんだよ、スペンサーさんとあんたの処置を決めるんだから。お皿を洗い終わったら、二階に上がってベッドを直しといで」
アンの皿洗いはなかなか手際よく終了し、一部始終を厳しく評価していたマリラの眼鏡に適うものだった。そのあとのベッドの直し方は、あまり上出来ではなかった。羽根枕と格闘する術を身につけていなかったのだ。それでもとりあえずは枕のでこぼこも丸く収まった。それからマリラは、厄介払いするため、アンにお昼ご飯まで外で遊んできていいと言った。
アンは戸口まで飛んで行った。顔は晴れ晴れ、目は爛々である。ところが敷居に足をかけたところでアンは急に立ち止まり、くるっと向きを変えて戻ってくると、テーブルの椅子に座りこんでしまった。光も炎も、だれかがアンにろうそく消しをかぶせたみたいに消え去った。
「今度はいったい何だっていうの?」マリラの忍耐も限界である。
「怖くて外にでられないの」とアン。地上の喜びを棄てた殉教者の口調である。「ここにいられないなら、グリーン・ゲイブルズを好きになってもしょうがない。だって、もし外に出て、森や庭の花や果樹園や小川や何もかも全部と知り合いになったら、どうしようもなく好きになってしまうもの。今でも十分つらいの。だからもうこれ以上つらくしない。外に出たい、とっても。みんなあたしを呼んでるみたい 『アン、アン、出てらっしゃい。アン、アン、一緒に遊ぼう』でも出ていかない方がいい。もしいつか引き裂かれるんなら、何かを好きになってもしょうがないもの、そうでしょ? ここに住むことになるって思った時、あたしが嬉しかったのはそういうわけだったの。好きになっていいものが、うんとたくさんできたんだ、もう誰にもじゃまされないんだって思ったのよね。でも、そんな束の間の夢ももう終わり。いい加減に諦めて、あたしの定めに従うことにするわ。だから外に出ようなんて考えない、きっとまた諦められなくなるもの。窓のところの、あのゼラニウムの名前は何ていうの?」
「あれはリンゴの香りのゼラニウムだよ」
「あ、そういう名前のことじゃないの。おばさんが自分でつけた名前のことを言ったのよ。名前をつけていなかったの? あたしが名前をつけてもいい? 名前をつけていいなら、そうねぇ、ボニーがいい。あたしがここにいる間、これをボニーって呼んでいい? ね、そう呼ばせて!」
「わかったわかった、あたしはかまわないよ。だいたい、ゼラニウムに名前をつけようなんて、どこから思い付いたんだね?」
「そうね、あたしは何でも愛称を付けるのが好きなの、たとえゼラニウムでもね。愛称があると人間みたいに感じるわ。ただのゼラニウムとだけ呼ばれて、他に名前がなかったら、ゼラニウムが気を悪くするかどうかなんて、誰もわからないでしょう? おばさんもただの女っていつも呼ばれたら嫌だと思うわ。だからその花をボニーって呼ぶのよ。あたしが寝ていた寝室の窓の外にあるサクランボの木にも、今朝名前を付けたわ。すごく真っ白だから、雪女神と名付けたの。もちろん、いつでも花が咲いてるわけじゃないけど、そう想像することはできるでしょ?」
「あの子みたいな子は、生まれてこのかた見たことも聞いたこともないね」マリラはブツブツ言った。ジャガイモを取りに地下室へずんずん降りた時は、階段が退却の太鼓を鳴らしていた。マシューの言うとおり、確かにあの子はどこか面白いね。気がつくと、次はいったい何を言い出すんだろうって考えてるんだから。あの子は、あたしにも魔法をかけるつもりだね。マシューにはもう魔法をかけおわったからね。出がけにあたしを見てるあの顔、夕べ言ったことも言わなかったことも、同じことが書いてあったよ。普通の男みたいに、言いたいことがあれば、言ってくれればいいのに。こっちだって言い返せるし、理屈も通せるってのにね。でも、言いたいことを顔に出すだけの男に、どうしろっていうのさ?
アンは夢の世界へと再び堕落していた。頬は両手の杖の中、瞳は遠く空の上、マリラが地下室への巡礼の旅から戻ると、そんな有り様だった。マリラに放って置かれたアンがこちらの世界に戻ってきてみると、早めの昼ご飯がテーブルに準備できていた。
「午後から雌馬と馬車を使ってもいいでしょう、マシュー?」マリラが言った。
マシューは頷いて、名残惜しそうにアンの方を見た。そんなマシューの視線を遮り、マリラは冷たく言った。
「じゃ、ホワイト・サンズまで出かけて、この件のけりをつけてくるから。アンは連れて行くわよ。スペンサーさんは、たぶんこの子をノヴァ・スコシアにすぐ送り返すよう、手配してくれるでしょう。兄さんの分の夕飯は出しときます。牛の乳しぼりの時間までには戻るわ」
それでもマシューは何も言わず、マリラは言葉と息の無駄遣いをしたように感じた。何も言い返さない男ほど癪に障るものはない。女でも似たようなものだが。
出かける時間までには、マシューは栗毛の馬を馬車に繋ぎ終え、マリラとアンは出発した。マシューは二人のために庭の門を開けた。ゆっくり門を通り抜ける時に、マシューは誰ともなく言った。
「島の入り江のところからジェリー・ブートの坊主が今朝やってきてな、夏の間、雇うかもしれんと言っておいたよ」
マリラは返事をせず、栗毛をピシっと強く鞭打って、不幸な馬に八つ当たりした。この太った馬は、こんな仕打ちに慣れていなかったので、怒りもあらわに、不安を覚えるペースで小径をビュンビュン走りだした。マリラは、小径を飛び跳ねる馬車から、一度だけ振り返った。癪の種のマシューが門にもたれかかって、一心に二人を見送っているのが見えた。
5章 アンの過去の物語
「あのね」とアンは内緒の思いを口にした。「あたしこのドライブを楽しむことに決めたの。あたしの経験では、そうしようと堅く決断すれば結構いつでも楽しめたもの。もちろん、ほんとに堅く思わないといけないけど。馬車に乗っている間は、孤児院に戻ることを考えないつもり。このドライブのことだけ考えるの。あ、見て見て、早咲きの小さな野バラが一輪咲いてる! ね、可愛いでしょう? あのバラは、自分がバラで嬉しいって思ってるんじゃないかな? バラが言葉を話せたらいいのにね? きっととっても素敵な話をしてくれると思うわ。それに、バラのピンクは世界で一番魔力のある色じゃない? あたし大好き。でもピンクは着られないの。赤い髪の人はピンクを着ちゃだめよ、着る想像も無理ね。おばさん、子供の時髪が赤かったのが、大人になったら別な色に変わった人って知ってる?」
「知らないね、聞いたこともないよ」とマリラは冷たい。「それにあんたの髪は変わりそうもないよ」
アンはため息をついた。
「そう、またしても希望が潰えたわ。『我が人生は確かに、希望の碑が連なる墓地なのだ。』これは前に本で読んだんだけど、がっかりした時は、自分を慰めるために繰り返しこう言うのよ」
「あたしにはどこが慰めなんだか分からないね」とマリラ。
「それは、だって素敵で
「バリーの池を越えて行くんじゃないよ、もしあんたの言う輝く水面の湖がそのことならね。海岸道を通るんだよ」
「海岸道はいい響きね」アンは夢の世界である。「響きのようにいいところなの? おばさんが『海岸道』って言ったとき、頭の中にその絵が浮かんで見えたの、言った瞬間によ! それにホワイト・サンズも奇麗な名前ね。でもアヴォンリーほど好きじゃないな。アヴォンリーはほんとに素敵な名前。音楽みたいな響きよ。ホワイト・サンズまであとどれくらい?」
「あと5マイルだよ。あんたがおしゃべりなのは分かってるんだから、何かの役に立つように、あんたがどう育ったか、しゃべったらどうだい」
「でも、あたしがどう育ったかなんて話す価値がないわ」アンは熱心に続けた。「もし、何を想像したか話してもいいんだったら、そのほうがずっと面白いと思うな」
「興味ないね。あんたの想像なんか聞きたくないよ。ただの事実だけ話すんだね。一番始めから始めるんだよ。あんたはどこで生まれていくつなんだい?」
「こないだの3月で11歳になったわ」アンはため息を一つつき、諦めてただの事実を話すことにした。「ノヴァ・スコシアのボリングブルックで生まれたの。お父さんの名前はウォルター・シャーリー、ボリングブルックで高校の先生をしてたわ。お母さんの名前はバーサ・シャーリー。ウォルターもバーサも素敵な名前じゃない? 自分の親がいい名前で嬉しいな。変な名前だったら恥ずかしいでしょうね、例えばお父さんの名前が、ええと、ジェデダイアだったら、そうでしょ?」
「行いが善ければ、名前は関係ないと思うがね」とマリラ。有益な善き教訓を垂れておくべきだと感じたのである。
「ふ〜ん、そうかな」アンは考え込んでいるようだった。「バラは他の名前でも香りは変わらないって、前に本で読んだけど、全然信じられない。アザミとか、においキャベツなんて呼ばれていたら、今のバラほど魅力的だとは考えられないもの。お父さんはいい人だったんじゃないかと思うわ、もしジェデダイアって呼ばれていてもね。でもそうだったら、きっと十字架に架けられたような、受難の日々だったに違いないわ。それから、お母さんも高校の先生だったけど、お父さんと結婚したので、もちろん先生をやめたの。夫を持つのは、十分負担だもの。トマスのおばさんが言ってた、二人とも赤ん坊みたいに世間知らずで、教会のネズミみたいに貧乏だったって。だからボリングブルックに引っ越して、ちっちゃいちっちゃい黄色い家に住んでいたの。一度もその家を見たことがなかったけど、何千回も想像してみたわ。スイカズラで客間の窓を囲んで、前庭はライラック、通用門のすぐ内側には谷スズランを植えている、きっとそうだと思うな。そうだ、どの窓にもモスリンのカーテンがあるんだわ。モスリンのカーテンだと、家に雰囲気がでるもの。あたしはその家で生まれたの。トマスの奥さんは、見たことないくらいみっともない赤ん坊だったって言ってた。とっても痩せてちいちゃくて、目だけぎょろぎょろしてたんだって。でもお母さんはあたしをものすごく美人だって思ったんだって。母親の方が、掃除に来てたただのおばさんよりちゃんと分かってるわよ、ねえ? とにかくお母さんが満足してくれて良かった。だって、あたしを産んでがっかりしたなんて思ったら、とっても悲しいもの。お母さんはあたしを産んだあと長生きできなかったんだしね。あたしが生まれてたった3月で、熱病で亡くなったの。お母さんがもっと長生きできて、あたしがお母さんって呼んだことを覚えていられたらほんとに良かったのに。『お母さん』って呼べたら、とってもあったかい気分になれたと思うな、そう思わない? それから4日してお父さんも熱病で亡くなったの。だからあたしは孤児になっちゃって、周りの人はどうしたらいいか困ったそうよ、トマスのおばさんはそう言ってた。あたしをどうしようかって。分かるでしょう、その時も、誰もあたしが要らなかったのよ。そうなる運命みたいね。お父さんとお母さんはずっと遠くの出身で、残ってる親戚は誰もいないってみんな知ってたの。結局はトマスのおばさんが、引き取りましょうって言ったんだけど、実はおばさんも貧しい上に、旦那さんは飲んだくれだったのよ。おばさんはあたしを手で育てたの[#訳者注:ミルクで育てるの意味]。手で育てられると、そうでなく育てられた人よりいい人になるの? だって、あたしが言うことを聞かないと、いつもトマスのおばさんが、何でこう悪い娘なんだろう、わざわざ手で育てたのにって、あたしが悪いみたいに言ってたもの。
「トマスのおじさんもおばさんもボリングブルックから離れて、メアリーズビルに引っ越したの。8歳まで一緒に住んでたわ。トマス家の子供達の子守りを手伝っていたの。あたしより小さい子が4人よ。面倒見るのはほんと、一仕事だったわ。それから、トマスのおじさんが汽車に轢かれて亡くなって、おじさんのお母さんはトマスのおばさんと子供達を引きとることになったんだけど、あたしは引き取りたがらなかったの。今度は誰にも相談できなくて、どうしたらいいか困ったそうよ、トマスのおばさんはそう言ってた。あたしをどうしようかって。そしたら、川上に住んでたハモンドのおばさんがやって来て、子供の子守りにちょうど良さそうだってことで、あたしを引き取ることになったのよ。川を上って木を切った後のちょっと開けた場所に住むことになったの。だれも住まない、すごく寂しいところだったわ。想像力を持ってなかったら、絶対住めっこなかったわ。ハモンドのおじさんは、さらに川上の小さな製材所で働いていたんだけど、ハモンドのおばさんは8人子供がいたの。双子が3組続いたのよ。赤ちゃんはそこそこ好きだけど、双子が続けて3組はあんまりよ。最後の双子が生まれた時、ハモンドのおばさんに、そうはっきり言ったの。赤ちゃんをいつも抱いてなきゃいけなくて、いつもすっごく疲れてたのよ。
「川上のハモンドのおばさんのところには2年ちょっといたんだけど、それからハモンドのおじさんが亡くなって、ハモンドのおばさんはハモンド家を維持できなくなったの。子供達は親戚筋にもらわれて、おばさんは合衆国にいっちゃった。あたしはホープタウンの孤児院に行くことになったの、誰も引き取り手がなかったのよ。孤児院でもあたしが要らないかったの。孤児院の人がもう一杯なんだって言ってたから。でも、孤児院が引き取るしかなかったので、スペンサーさんが来るまで、4ヶ月そこにいたの」
アンは語り終えると、またひとつため息をついたが、今度は、ようやく終わってひと安心したからである。自分を要らない世間でこれまであったことなんか話したくないのは、見た目にもありありとわかった。
「学校へは行ってたのかい?」マリラは用件だけ言って、手綱を取って、栗毛の雌馬を海岸道を下らせた。
「あんまり行ってないわ。トマスのおばさんのところにいたときは、年にちょっとだけ行ってたけど。川上に行ったときは、学校からだいぶ離れていたから、冬は歩いて行けなかったし、夏は夏休みがあったし、春と秋だけ学校に行けたの。だけどもちろん、孤児院にいたときは通ってたわ。ちゃんと本を読めるし、あたし詩をたくさん暗唱できるのよ。『ホーエンリンデンの戦い』、『フロッデンの戦い後のエジンバラ』、『ラインのほとりのビンゲン』、それから『湖上の麗人』もかなりいけるし、ジェームズ・トンプソンの『四季』もほとんど暗唱できるわ。おばさん、背中をゾクゾクする感じが駆け回る詩って好きでしょう? 5年生のリーダーの教科書に1つあるの、『ポーランドの没落』なんだけど、これがもう、ゾクゾクするの。もちろん、まだ5年生のリーダーまで進んでないんだけど。あたしまだ4年生のリーダーなのよ。でも上級生がよく貸してくれたの」
「その人達――トマスさんとハモンドさんは、あんたに良くしてくれたかい?」マリラは、目の隅の方からアンを観察しながら聞いた。
「そ、それは」虚をつかれてアンは口ごもった。思ったことがすぐ出てしまい、小さな顔が真っ赤になった。その表情はきまり悪さをありありと映していた。「それは、あの人達はそうするつもりはあったのよ。あたし分かってるもの、二人ともなるたけ良くしよう、親切であろうとしてたの。でも、誰かが自分に良くしてくれるつもりがあるときは、あんまり気にならないものよ、そんなに、その、いつもってわけじゃないし。酒飲みの旦那さんがいるのは大変なことなのよね。それに、双子が3組、続けざまじゃ大変なのも無理はないわよ、そう思わない? だから確かに、おばさん達は良くしてくれるつもりがあったのよ」
マリラはそれ以上何も聞かなかった。アンは海岸道の美しさに身をまかせ、向こうの世界にいるので、静かなものだった。一方のマリラも何やら考え込んでおり、栗毛を操る手もうわのそらだった。突然、この子を気の毒に思う気持ちが胸に渦巻きだした。物にも愛にも飢えていたんだ、この子は。何て酷い暮らしをしてきたんだろう。きつい仕事と、貧しい生活、それに置き去りの人生だったんだ。マリラには、アンの過去の物語の行間があまりに明白で、何もかも正確に占ってみせることができた。ほんとうの自分の家ができるとあれほど喜んだのも、当たり前だったんだ。この子を追い返そうとしたなんて、まったく可哀想な事だったのだ。だが、もしあたしが、このマリラが、マシューのわけのわからない気まぐれに付き合って、この子を家に置くとしたら? マシューは乗り気だったし。なかなか素直ないい子じゃないか。
「この子は何かにつけてしゃべりすぎるね」マリラは心の中で言った。「まあ、それもおいおい躾けられていくだろうよ。それに粗野じゃないし、何を話すにしても汚い言葉使いはしないからね。淑女風なところがあるよ。身内は確かな人達だったらしい」
海岸道は「
「この海は夢のようね?」そう言って、アンは目を大きく見開いたままの長い沈黙から目を覚ました。「前に一度、メアリーズビルに住んでたとき、トマスのおじさんが借りてきた急行馬車にみんなを乗せて、その日一日全部つぎ込んで、10マイル先の浜に行ったことがあったの。その日は朝から夕方まで楽しくないことなんか1つもなかったわ、子供達の面倒をずっとみてなくちゃいけなかったとしてもね。それから何年も、その日を過ごす夢を繰り返し見たの。でも、この海はメアリーズビルの浜よりずっといいわ。あのカモメの群れ、すごいわねえ? おばさん、カモメになりたいと思わない? あたしはなってみたいな。もし人間の女の子じゃなかったら、あれがいいな。夜明けと一緒に目をさまして、スーッと海面に舞い下りて、陽がのぼっている間中、遠く向こうの奇麗な青空の向こうに飛んで行くの、夜になったらねぐらに飛び帰るのよ、いいでしょう? 自分がそうやって飛び回るのが想像できるわ。この先の大きな建物は何なのか、教えてもらえる?」
「あれはホワイト・サンズ・ホテルだよ。カークさんが経営してるんだが、まだ営業シーズンが始まってないんだよ。夏の間、アメリカ人がわんさか押し寄せてくるんだ。この海岸は避暑に都合のいいところらしいね」
「あれがスペンサーのおばさんの家なんじゃないかと心配したわ」と、アンが悲しそうに言った。「スペンサーさんのところには行きたくない。なんだか、そこに着いたらなにもかも終わってしまうみたい」
6章 マリラ、ついに決断
そうこうしているうちに、馬車はその屋敷に到着した。スペンサー夫人はホワイト・サンズ入江の、黄色を基調にした広い家に住んでいた。夫人は玄関まで出て来て出迎えたが、マリラを迎える意外さと歓迎の混じった表情が、その優しい顔に現れていた。
「まあまあ」驚いたので声が大きい。「あなたが今日いらっしゃるとは思いもよりませんでしたわ、ともかく、いらして下さって嬉しいですわ。馬は中にどうぞ? あなたも元気、アン?」
「望める限りは元気です、お気遣いありがとう」アンは笑顔が作れずそう言った。枯れ葉の病に襲われ、萎れたように見える。
「馬を休ませる間、ちょっと寄らせて頂くだけですので」とマリラ。「それにマシューには早く帰ると言ってきてありますから。実は、ミセス・スペンサー、どこかで奇妙な間違いがありましてね、それを確かめるため参りました。私達がお願いした言伝では、マシューと私ですが、奥さんに孤児院から男の子を連れて来て頂くようお願いしたんです。奥さんの弟のロバートには、私達が10か11歳位の男の子が要るとお伝えするよう申したはずですが」
「マリラ・カスバート、そんなことが!」スペンサー夫人は困った立場に追い込まれた。「なんとまあ、ロバートは娘のナンシーを寄越して伝えてきたんですのよ、あの子はあなた方が女の子が要ると言っておりましたのに、そうよね、フローラ・ジェーン?」玄関の石段に現れた娘に話をふった。
「あの子は確かにそう言ってました、ミス・カスバート」突然矢面に立たされたフローラ・ジェーンは懸命に身を守った。
「本当にお気の毒ですこと」とスペンサー夫人。「ひどすぎますわね。でも確かにあたくしの落ち度じゃございませんのよ、ミス・カスバート。あたくし、出来ることはちゃんと致しましたし、あなた方のご要望に沿ったつもりでおりましたのよ。ナンシーも本当にそそっかしくて。あたくし、いつもあの子の不注意を叱ってますの」
「私達の落ち度でした」マリラは諦め顔でそう言った。「私共で直接お願いに上がるべきでしたし、重要な用件をあんな風に口伝えで言伝に任せるべきでもありませんでした。ともかく、間違いは起こってしまったし、できることは誤りを正すことだけです。この子を孤児院に送り返せますか? 孤児院の方が連れて行って下さると思うのですが?」
「そうでしょうね」スペンサー夫人は何か考えているようだった。「でも、この子を送り返す必要はないと思いますわ。ミセス・ピーター・ブリュエットが昨日ここにおいでになって、手伝いができる小さな女の子を連れてきてくれるようあたくしのところに使いをよこすんだったって、そう言ってらしたのよ。ピーター夫人のところは大所帯じゃありませんか、お手伝いのなり手がなかなかみつからないんですって。アンならまさにお誂え向きですわね。まったく、神のご意思ですわ」
マリラ自身は、「神の意思」がこの件にどれほどかかわるのかはなはだ疑問の様子だった。ここに予想もしなかった良い機会が訪れ、この歓迎されざる孤児を手放すことができるというのに、マリラは素直に感謝する気持ちになれなかった。
マリラはミセス・ピーター・ブリュエットを見かけたことはあった。背の低い、意地の悪そうな顔つきで、骨の上に一オンスも余分な肉がついていないようなやせぎすな女という印象だった。だが噂だけは聞き及んでいた。「働くのもこき使うのも恐ろしいほど」ミセス・ピーターはよくそう言われていた。ブリュエット家から解放された元女中の子達からは、夫人の気の短さとけち臭さ、それから、ブリュエット家の生意気で口答えばかり巧い子供達の恐ろしげな逸話が、尾鰭をつけて聞こえてきていた。マリラは、そんな夫人の優しい御心に任せてアンを手放すことを思うと、良心に痛みを感じるのだった。
「それじゃ、上がらせて頂いて、その件につき相談致しましょう」マリラはそう言った。
「あら、小径をこちらにいらっしゃるのは、ミセス・ピーターじゃありませんこと、ありがたい巡り合わせですわ!」ミセス・スペンサーは大袈裟に言って、あわただしく客を玄関から客間へと通した。その部屋に入ったとたん、みんなひどく寒気を感じた。部屋の空気は、ダーク・グリーンの閉め切ったブラインドの目で長いこと濾されて、当初あった暖かさのかけらも残っていないようだった。「本当に運が良いですわ、これでちゃんともめごとを解決できるんですものね。肘掛け椅子をお使いになって、ミス・カスバート。アン、あなたはそこの長椅子におかけなさい、おとなしくしてるのよ。お帽子を渡して下さいな。フローラ・ジェーン、ケトルをかけてきてちょうだい。ご機嫌よう、ミセス・ブリュエット。あなたが、たまたまおいでになるなんて、あたくし達、なんて幸先がいいんだろうってお話ししてましたのよ。お二人とも紹介させて下さいな。ミセス・ブリュエット、こちらがミス・カスバートです。ちょっと失礼させて頂きますわ。フローラ・ジェーンに、オーブンから丸パンを出しておくよう言いつけるのを忘れておりましたので」
ブラインドを引き上げると、スペンサー夫人はそそくさと出ていった。アンは、長椅子に黙りこくって座ったまま、両手を膝の上でぎゅっと握り締めて、ブリュエット夫人をまじまじと見つめた。ヘビに睨まれたカエルである。この切れそうなほど尖ったキツネ顔で、鋭い目つきの人の世話にならなきゃいけないの? アンは喉に大きな塊が込み上げ、涙腺が苦しくて涙目になりかかっているのを感じた。もうこれ以上涙を押し返せないんじゃないかと不安になったころ、スペンサー夫人が戻って来た。その顔色はばら色で、晴れ晴れと喜びに満ちていた。どんな難題だってお任せなさい、体の悩み、心の悩み、宗教上の悩みも全て、即座に察して即座に解決して見せるわ、そんな風に見えた。
「この女の子のことで、間違いがあったらしいんですの、ミセス・ブリュエット」とスペンサー夫人。「あたくしは、ミスタとミス・カスバートが小さな女の子を養子に欲しがっていたと聞いていたんですの。あたくし、確かにそう言われましたのよ。そうしたら、男の子を欲しがっていた、ということらしいんですの。ですから、もし奥様がまだ昨日と同じお気持ちなら、どうでしょう、この子なら奥様にはちょうどいいのじゃないかしら」
ブリュエット夫人が鋭い視線をアンの方に放ち、頭の天辺から足の先まで視線の矢を突き刺さしていった。
「あんたはいくつで、名前は何だね?」有無を言わさぬ口調で言った。
「アン・シャーリーです」その子はすっかり萎縮して、声が震えていた。その名の綴りにおけるいかなる規定条項も、敢えて申し出る勇気はなかった。「歳は11歳です」
「ハン! 見掛けは大したことなさそうだ。だが、あんたは針金みたいに丈夫そうだ。針金みたいなのが、結局一番良かったってことになるか分からないがね。さて、あたしが引き取るからには、あんたは良い子でなきゃいけないよ、良い子で、ぼさっとしてないこと、それと目上には丁寧に。あたしがあんたに求めるのは、自分の生活費分は働くことだ、これは守ってもらうよ。わかりました、この子は引き取ってもいいですよ、ミス・カスバート。うちの赤ん坊はひどくむずかるから、面倒を見てるとすっかりくたびれるんでね。良かったら今すぐこの子を連れて行きます」
マリラがアンを振り返ると、堅いはずの決心が思わず和らいでしまった。真っ青な顔をして、口もきけないほど惨めなこの子の様子ときたら。この孤立無縁な子供は、折角逃げ出せたところを、またしても同じ罠につかまってしまったのだ。マリラはどうにも落ち着かなかった。もし、あんな目で訴えてくる救いの願いを拒絶したなら、死ぬその日に至るまで罪の意識がまとわりつくだろうことは確実だと感じた。しかもマリラは、ミセス・ブリュエットを気に入っているとは言いがたかった。傷つきやすく『神経過敏』な子を、こんな女の手に引き渡すなんて! いや、そんなことをしたら責任の取りようがない!
「そうですね、どうしましょう」マリラは考え考え言った。「マシューもわたしも、この子を全然引き取るつもりがないとは言っておりませんよ。実を申しますと、マシューはこの子を置きたがっておりまして。今日お邪魔したのは、どこで間違いが起こったのか確かめるためなんです。またこの子を連れて帰って、マシューと話し合ったほうがいいかもしれません。何であれ、兄に相談なしでは決めかねますから。もしわたし共でこの子を置かないと決めましたら、明日の晩に、この子を連れていくなり送るなり致します。もし連れて行かなかった時は、この子はわたし共で預かることになったと承知おき下さい。これで宜しいですか、ミセス・ブリュエット?」
「宜しくするしかないでしょうよ」ブリュエット夫人はむっとして言った。
マリラが話している間、夜明けの陽の光が、徐々にアンの顔に射しこんできた。始めのうちは絶望の面持ちが次第に消え去っていった。そのあと、かすかな希望の光が頬にさし、今や二つの眼は濁りなく輝く明の明星だった。この子はすっかり生まれ変わっていた。しばらくして、ミセス・ブリュエットが借りに来たレシピを探しにミセス・スペンサーと部屋を出て行くと、アンはパッと立ち上がり、マリラの元へ駆け寄った。
「ああ、ミス・カスバート、グリーン・ゲイブルズにあたしを置いてくれるかもしれないって、本当に言ったの?」息もつがずに、それでも囁き声で言った。大きな声だと、この輝かしい未来が砕け散ってしまいそうだから。「本当にそう言ったの? それとも、そう言ったとあたしが想像しただけ?」
「あんたは自分の想像を抑えることを覚えるべきだと思うよ、アン、本当のこととそうじゃないことの区別がつかないようじゃね」マリラは意地悪く言った。「確かに言ったよ、あんたの聞いたとおりで、あたしはそう言ったが、それだけだよ。まだ決まった訳じゃなし、もしかすると、ミセス・ブリュエットが結局あんたを引き取ることになるかもしれないよ。あたしよりあの人の方が、あんたが必要なのは確かだからね」
「あの人と一緒に住むくらいなら孤児院に戻ったほうがましよ」アンは激しく言った。「あの人、ほんとに、えっと、ねじ錐みたい」
マリラは笑いを押し殺した。こんなことを言うなんて、アンを叱っておかなくては。
「大人の女性に、しかも知らない人に、そんな風な言い方をするなんて、あんたみたいな小さな女の子のすることじゃないよ、恥ずかしいと思いなさい」そう厳しく言った。「さ、戻って、おとなしく座ってなさい、口は閉じて無駄口をきかないこと、良い女の子に相応しくしてるんだよ」
「努力します、おばさんに言われたとおり、何でもするし何にでもなるわ、もしあたしを置いてくれるんなら」アンは、従順そうに元の長椅子へと戻った。
その晩、二人がグリーン・ゲイブルズに帰ったとき、マシューとちょうど小径ですれ違った。マシューが小径をうろうろしているのを、マリラはずっと向こうから気がついていたので、何のためにそんなところにいるのか予想はついていた。マリラには、とりあえずは自分がアンを一緒に連れ帰ったのを見て、マシューが安心した顔をするのは分かっていた。しかし、今回の件に関してはマシューには何も言わず、二人が外に出て納屋の裏手の庭で牛の乳搾りする時を待った。そこでようやく、アンの経歴とスペンサー夫人との会見の結果について、簡潔に伝えたのだった。
「犬ころだってくれてやるか、なんであんなブリュエット婆さんに」マシューは、いつになく力を込めて言った。
「あの人のやり方はあたしも好きになれないわ」それはマリラも認めた。「でもあの人にまかせるか、でなけりゃうちであの子を置くかでしょ、マシュー。兄さんはあの子を置きたがっているみたいだから、あたしもあの子をここに置くことにしますよ。というより、そうしなきゃならないんだね。何度もよく考えてみて、ようやく、あの子を家に置くことを受け入れられる気がしたんだけど。ある種の義務といったところだろうか。今まで子供なんか、それも女の子なんか育てたことはないし、とんでもない失敗をすることだろうね。しかし、できるだけのことはするつもりです。あたしに関する限り、マシュー、あの子を置いてもいいですよ」
普段あまり表情豊かとは言えないマシューの顔が、嬉しくて輝いたようだった。
「うむ、そうだな、そんな風に分かってくれると思っていたよ、マリラ」とマシュー。「あの子はなかなか面白い子だよ」
「あの子は役に立つ子だって言えていれば、もっと良かったでしょうね」マリラが反撃した。「それはそうと、あの子がそうなるよう躾けるのは、あたしの役目にしますからね。覚えといてくださいよ、マシュー、あたしのやり方に干渉しないこと。たぶん、年取った未婚の女は子供の躾けについてよく知ってるとは言えないだろうけど、年取った独身の男よりまだしも分かっていると思うからね。だから、兄さんはただあたしにあの子の世話を任せておけばいいんです。あたしが失敗したら、その時は兄さんが口を出す番でしょう」
「そうだよ、そうだよ、マリラ、自分の好きなようにやって良いさ」マシューは安心させるつもりで言った。「甘やかさない程度に優しく親切にしてくれればそれで良いよ。あの子がおまえを好きになれば、あとは何とでもなる子じゃないかと思うよ」
マリラは鼻で笑って、女性に関するマシューの意見など、何であれ聞く耳持たぬことを知らしめてから、バケツを持って製乳室に歩き去った。
「今夜はあの子に、ここにいられることは話さないでおこう」クリーム分離器に牛乳を濾し入れながら、今までのことを振り返ってそう考えた。「舞い上がってしまって、きっと一睡もできないだろうからね。マリラ・カスバート、あんた、もう逃げようがないよ。孤児の女の子を養子にする日が来るなんて思ったことあるかね? それだけでも充分驚いたよ。しかし、マシューがきっかけになったってことの方が、よっぽど驚いたね。いつも小さな女の子を死ぬほど恐がってた、あの兄さんがねえ。とにかく、あたし達はやったことのないことに踏み込むことに決めたんだから、あとは何が起こるか、神様だけがご存じだよ」
7章 これがアンのお祈り
その夜、マリラがアンを2階のベッドに追いやると、厳しい顔で言った。
「さて、アン、あんたは夕べ服を着替えたとき、床に脱ぎ散らかしていたね。とてもだらしない習慣だよ。そんなことはもう許さないからね。どんな服でも脱いだらすぐにきちんと畳んで椅子の上に置いときなさい。きちんとしてない子なんかあたしは要らないからね」
「夕べは頭の中がグチャグチャだったから、服のことなんか全然考えられなかったのよ」とアン。「今夜はちゃんと畳むわ。孤児院じゃいつも畳まされてたの。でも畳むのをよく忘れたわ。さっさとベッドに入って、おとなしく静かにしてなきゃいけなかったし、それからいろんなことを想像もしなきゃいけなかったのよ」
「もう少し物覚えがよくなる必要があるよ、もしここにいるつもりがあるならね」とマリラは脅かした。「そうだね、よくなったみたいだ。お祈りして、それからからベッドに入るんだよ」
「あたし、お祈りしないことにしてるの」アンはその見識を披露してみせた。
マリラはショックを受け、目を丸くした。
「なんだって、アン、どういうことだい? お祈りするよう教わらなかったのかい? 神様はいつでも子供達がお祈りするのをお望みなんだよ。神とは何か知らないのかい、アン?」
「『神は聖霊、無限、不滅にして不変である。その本質は知恵、力、聖性、正義、徳にして真理である』」アンは即座にぺらぺらと応唱した。
マリラはいくらか安心したようだった。
「少しは知ってるんだね、やれやれ! あんたはまったくの異教徒というほどじゃないよ。それはどこでならったんだい?」
「どこでって、孤児院の日曜学校でよ。教理問答書を全部暗記させられたのよ。けっこう気に入ってたわ。『無限、不滅にして不変である』なんて何かすごいわ。威厳があるでしょう? 和音の響きよ、大きなオルガンをひいているみたいよね。詩とは言えないと思うけど、詩みたいに響くものよね?」
「今は詩の話をしているんじゃないよ、アン――あんたのお祈りのことを話しているんだよ。毎晩お祈りしないなんて、いけないことだって分からないのかい? あんたはとても悪い子みたいだね」
「おばさんがもし赤い髪だったら、良い子じゃなく悪い子でいる方が楽だってわかるわよ」アンは不満そうだ。「赤い髪じゃない人達には、どんなに大変か分からないんだわ。トマスのおばさんがあたしに言ったことがあるけど、神様はあたしの髪をわざと赤くしたんだって。だからもう神様なんか気にしないことにしたの。とにかく、いつでも夜は疲れてたから、お祈りするなんてどうでもよくなってたのよ。双子を何組も面倒見なきゃならない人には、お祈りすることなんか期待できないのよ。ねえ、おばさん、建前じゃなく期待できると思う?」
マリラは、アンの宗教上の躾をさっそく始めることにした。これはもう、ぐずぐずしている暇はない。
「あたしの家にいるからには、あんたにはお祈りしてもらうよ、アン」
「そりゃあ、もちろんするわ、もしおばさんがして欲しいというんなら」アンは機嫌よく同意した。「おばさんの言うことだったらなんでもするわよ。でも初めてなんだから、今回は何て言うのか教えてね。ベッドに入った後で、これから毎日言う時のために、立派な本当のお祈りを想像するから。お祈りを考えるのも面白いかもね、なるほど、悪くないわ」
「ひざまずいて」そうは言ったが、思わぬ展開にマリラはどうしていいやら困っていた。
アンはマリラの足元にひざまずくと、まじめな顔で見上げた。
「お祈りする時、どうしてひざまずかなくちゃいけないの? もしあたしが本当にお祈りするとすれば、どうするか教えてあげる。家の中じゃなく、すごく広い野原の真ん中か、深い深い森の中まで行って一人きりになるの。そして空を見上げるの、高く高く高く――果てしなく青く見える美しい青空を見上げるのよ。そうすればお祈りを感じられるわ。さあ、準備できてるわ。何て言えばいいの?」
マリラはまたまた困ってしまった。マリラは、アンに子供向けの祈りの古典である「今、私は身を横たえて眠りにつきます」を教えるつもりだった。しかし、すでに言ったように、マリラはたまにはユーモアを解する心を持っていた。それは物事に適応する感覚の別名でもあるのだ。こんな素朴で短いお祈りは、この子にはまったく似合わないと突然悟った。白い子供用のローブをまとい、母の膝に向かってひざまずきながら、たどたどしくお祈りする幼児期には向いていても、このそばかすだらけの魔女、神の愛を知らず気に止めようともしない子にはまったく不釣り合いだった。人の愛に囲まれた生活を通して、神の愛がこの子の中に根付いたことなどないのだから。
「あんたはもう大きいんだから、自分でお祈りしてごらん」迷った挙げ句にそう言った。「神様が祝福を与えて下さったことを感謝して、あんたの望みを謙虚に申し上げるんだよ」
「うん、できるだけやってみる」アンは頼もしげに言うと、顔をマリラの膝にあてた。「慈悲深い天の父よ――牧師さんが礼拝でそんな風に言うから、自分のお祈りでも使っていいでしょう?」頭を少しの間だけ上げて、お祈りに割り込んだ。
「慈悲深い天の父よ、胸打つ白き路と輝く水面の湖とボニーと雪女神を与えて下さって感謝いたします。本当に最高に感謝いたします。とりあえず今思い付く感謝すべき祝福は以上です。望みの件につきましては、たくさんあるので全部言うと時間が掛かりすぎますから、二つ申し上げるだけにします。どうかグリーン・ゲイブルズにいられますように、それと、どうか大きくなったら美人になれますように。敬具。
謹んでここに
アン・シャーリー」
「どう、うまくできたでしょう?」アンは、立ち上がると張り切って尋ねた。「もっと華麗なスタイルにできたかもね。もうちょっと文章を練る時間があれば良かったんだけど」
哀れマリラ。かくも突飛な祈願の責を負うべきは、神への不敬さではなく、単なる宗教的な無知にすぎないことを思い出すことで、マリラはかろうじて完全な挫折から救われたのであった。マリラは件の子に布団をかけてやりながら、心に誓うのだった。明日までには、何としてもこの子に1つでもお祈りを覚えさせなければ。マリラが燭台を片手に部屋を出ようとすると、アンがマリラを呼び戻した。
「今気がついたわ。『アーメン』と言わなくちゃいけなかったのよね、『謹んでここに』のところは、そうじゃない? ――そう牧師さんが言っていたもの。忘れてたわ。でもお祈りを終わらせなきゃいけなかったし、だからあんな風に言ったの。重要な差になると思う?」
「そ、そうでもないと思うよ」とマリラ。「さあ良い子にして寝なさい。ゆっくりお休み」
「今夜は晴れ晴れした気持ちで、ゆっくり休めるわ、お休み」そう言うと、アンは満足げに枕の間で丸くなった。
マリラは台所に撤退すると、燭台をテーブルにドンと置いて、マシューをジロッと睨みつけた。
「マシュー・カスバート、誰かがあの子を引き取って、必要なことを教えこむ時期だったのよ。あの子は完全な異教徒と紙一重しか違わないよ。信じられる? 今日のこの晩まで、生まれてから一言もお祈りを言ったことがないのよ。明日、牧師館に行かせて、『夜明け』シリーズを借りることにするわ。そうするわ、まったく。それに、あの子の背に合う服ができあがったら、日曜学校にも行かせなきゃ。手に余るくらい忙しくなるのが目に見えるようだ。やれやれ、自分達の分の悩みを引き受けないでは、この世は渡っていけないものなんだね。今まではとても気楽な生活だったけど、とうとうあたしの番が来たってわけだ。せいぜい頑張ることにしましょうよ」
8章 アンの躾け、開始
誰にも理由は話さなかったが、マリラは、グリーン・ゲイブルズにいることになったとは、翌日の午後になるまでアンに伝えなかった。午前中はアンにいろんな仕事をさせてみて、仕事をこなす様子を厳しい目でチェックするのだった。昼頃にはおおむね結論に達していた。この子は要領がいいし、すなおで働くのを嫌がらない、仕事の飲み込みもはやいね。ただ一番重大な欠点は、なにかと空想にはまる癖があることのようだ。ひとつ仕事を始めると、そのうちに空想が始まって何もかも忘れてしまう。あたしが叱るか大失敗すると、いきなり現実に呼び戻されるんだ。
昼食の皿を洗いおわると、アンは不意にマリラの前に立ちはだかった。最悪の事態であっても受け入れようとの、悲壮感漂う決意をみなぎらせて。そのやせた
「ねえ、お願い、カスバートさん、あたしを送り返すのか、送り返さないのか教えてくれない? 午前中はずっと我慢してたけど、教えてもらえないなんてもう耐えられそうにないの。すごく嫌な気分なのよ。お願い、教えて」
「きれいなお湯でその布巾をすすいでないよ、そう言っただろ」と、マリラは動じなかった。「さっさとすすいで来なさい、質問するのはその後だよ、アン」
アンはすごすごと戻って、布巾に注力することにした。それが終わってアンがまたマリラの元へ戻って来ると、マリラの顔を泣きそうな目でじっと見つめた。「そうだね」とマリラ。これ以上説明を遅らせる言い訳も思いつかなかった。「もう言ってもいいかもしれないね。マシューとあたしは、あんたを預かることに決めたよ――もしあんたが良い子でいるよう努めること、それに感謝の念を示すこと、そうしたらの話だよ。まあ、この子は、どうしたっていうんだい?」
「涙が止まらないの」とアン、自分でも予想外だったらしい。「どうしちゃったのかな。嬉しくて嬉しくてしょうがないのに。違った、嬉しいじゃ全然ぴったりこないわ。胸打つ白き路もサクランボの花も嬉しかったけど――でも、これは! ああ、嬉しいなんて遥かに越えてる。あたし、とっても幸せなんだ。あたし頑張ってとっても良い子になります。険しい坂道を登るような難しい務めになりそうだけど。だって、トマスのおばさんがよく言ってたもの、なんて悪い子なんだい、救いようがないねって。それでも、全力をつくすわ。でもどうして涙が止まらないのかな?」
「たぶん、興奮して舞い上がってるからだろうよ」マリラはまたかと、あまり良い顔をしていなかった。「そっちの椅子に座って落ち着きなさい。あんたはすぐ泣く、すぐ笑う、大丈夫かね。とにかく、あんたはここにいてもよくなったし、あたし達はあんたに充分なことはしてやるつもりだよ。学校にも行くんだからね。まあ、夏休みまで2週間しかないから、9月にまた学校が始まるまで行ってもしょうがないね」
「おばさんのことは何て呼ぶの?」アンが言った。「いつもミス・カスバートって言うことになるの? マリラ叔母さんって呼んでもいい?」
「いや。あたしのことはただマリラと呼ぶんだよ。ミス・カスバートなんて呼ばれ慣れないし、なんだか落ち着かないよ」
「ただマリラと呼ぶんじゃ、すごく失礼に聞こえるわ」アンが異議を申し立てた。
「どこも失礼じゃないだろう、丁寧に言うように気をつければいいのさ。老いも若きもアヴォンリーじゃ、牧師さん以外はみんなあたしをマリラと呼ぶんだよ。牧師さんはミス・カスバートというね、気がついたときは」
「あたし、どうしてもマリラ叔母さんと呼びたいな」いかにももの欲しげなアンである。「あたしには叔母さんとか親戚なんか誰もいなかったのよ――おばあさんだっていなかったし。だからそう呼べば、本当の家族みたいに感じるわ。マリラ叔母さんて呼んじゃだめ?」
「だめだね。あたしはあんたの叔母さんじゃないし、相応しくない呼び方をするのはあるべき姿じゃないと思うね」
「でも、みんなで叔母さんだと想像すればいいじゃない」
「あたしにはできないね」マリラは恐い顔で言った。
「本当とは別な風に想像しようとしないの?」アンは目を丸くした。
「しないよ」
「うそ!」アンは大きく息をつくと言った。「だって、おば――マリラ、なんてもったいない!」
「本当と違うことを想像するなんて正しいことじゃないと思うよ」マリラはむきになって言い返した。「神があたし達をある事情に置かれるのは、それを想像でなくしてしまうことを望まれているからじゃないよ。それで思い出した。居間に行ってきなさい、アン――足の汚れを落として、ハエを入れないように気をつけるんだよ――炉棚の上に置いてある絵つきのカードを持って来るんだよ。午後の空いてる時間を使っていいから、そこに書いてある主の祈りを空で言えるようになるまで覚えなさい。夕べ聞いたみたいなお祈りはもう御免だよ」
「あたしも夕べのは格好悪かったと思うけど」アンは昨日の自分を弁護した。「でも、分かってるじゃない、全然練習してなかったのよ。初めから巧くお祈りできるなんて期待できないと思う、そうでしょ? ベッドに入ってから素晴らしいお祈りを思い付いたの、夕べ約束したとおりよ。牧師さんのお祈りと同じくらい長くて、とっても詩的だったわ。でも信じてもらえる? 朝、目が覚めたら一言も思い出せないの。あんなにいいお祈り、二度と思い付かないんじゃないかな。どういうわけか、何事もあんまりよくならないのよね、二度目に考え付くと。そんな風に気付いたことある?」
「あんたが気付くべきことはこういうことだよ、アン。あたしがあんたに何かして欲しいと言った時は、すぐに言うことをきくってことで、ボケっと突っ立って話し込むことじゃないよ。あたしが言ったとおり、さっさと行きなさい」
アンは直ちに行動を開始し、玄関を通って居間に出発した。だが戻ってはこなかった。10分待ってからマリラは編み物を置いて、アンを追って進撃していった。すでに表情が恐い。マリラが見つけてみると、アンは2つの窓の間にかけてある1枚の絵の前で、じっと立ちつくしていた。両手を後ろに組み、顔を持ち上げて、夢見る瞳は星の輝きだった。白と緑の木漏れ日が、リンゴの木々と窓の外の絡まったツタを通して差し込み、うっとりしたその小さな姿の上に降りそそいで、半ばこの世ならぬ輝きを放っていた。
「アン、何をぼんやり考えているんだい?」マリラの言葉が突き刺さった。
アンはびっくりしてこの世に戻ってきた。
「これよ」壁に架けられた絵を指して言った――鮮やかな多色石版刷りの絵は「幼子を祝福するキリスト」と題されていた――「想像してたのよ。あたしもこの中の一人で――青い服の小さな女の子で、隅っこに離れて立っているの、あたしみたいに誰とも関係ないみたい。独りぽっちで寂しそう、そう思わない? 本当のお父さんもお母さんもいないんじゃないかな。それでも自分も祝福してもらいたいのよ。だからちょっと恐いけど少しずつそっと近寄って、みんなの周りまで行ってみるの、誰も自分に気がつきませんように――あの方だけは気がつきますように。あたしこの子の気持ちがすっかり分かるわ。胸がドキドキして手が冷たくなってるのよ、ここにいていいか聞いた時、あたしもそうだったもの。この子は恐いのよ、あの方が気がついてくれないんじゃないかって。でもあの方は気付いて下さってるわよね? どんな風になるのかずっと想像してたのよ――ちょっとずつ、もう少し、そうしてあの方のすぐそばまで近づくの。するとあの方はこの子の方を向いて、その手を頭に置いて、ああ、嬉しくて身体中震えてしまうのよ! でも、この絵を描いた絵書きさんは、あの方をこんなに悲しそうに描かなければ良かったのに。あの方の絵ってみんなそうよ、気がついてみると。あたしはあの方がこんなに悲しそうじゃないと思うわ、でなきゃ、きっとこの子達はあの方を恐がってたはずだもの」
「アン」とマリラ。なぜあたしはもっと前に話に割り込まなかったんだろう。「そんな風に言っちゃだめじゃないか。不敬だよ――まったく不敬だよ」
驚いてアンの目が丸くなった。
「え、あたしこれ以上ないくらい敬謙な気持ちだったのよ。不敬なつもりなんかなかったわ」
「まあ、あんたがそんなつもりで言ったとは思わないけど――でも正しくないように聞こえるんだよ、こういうことをそんな馴れ馴れしく話すなんて。それからもう一つ、アン、あたしがあんたに何かをすぐに持ってくるよう言いつけといたんだから、絵の前で突っ立ってぼんやり考え事をしたり、想像したりはよしとくれ。それは覚えとくんだよ。そのカードを持ってキッチンに来なさい。さあ、そこの隅に座ってお祈りを暗記して」
アンは水差しに溢れるほど生けられたリンゴの花にカードを立てかけた。リンゴの花は食卓を飾るために持ち込んだのだった――マリラは何だいそれはという目だったが、これといって何も言わなかった――両手で顎を支えて暗記に取り掛かり、はじめの数分の間は熱心で静かだった。
「このお祈り好きだわ」満を持してアンが言った。「美しいもの。前にも聞いたことがあるわ――孤児院の院長さんが日曜学校のお祈りで何度か繰り返してたのを覚えてるわ。でもその時は好きになれなかったの。ガラガラ声だったし、お葬式みたいにお祈りするんだもの。しょうがないからお祈りしてますって考えてるのが、はっきり分かっちゃうのよ。これは詩じゃないんだけど、詩を読んだ時みたいに感じるわ。『天にまします我等が父よ、願わくは御名が崇められますように』音楽の一節みたい。ねえ、このお祈りを覚えなさいって言ってくれて、とっても嬉しいわ、おば――マリラ」
「じゃあ、暗記を続けて口を閉じるんだね」マリラは無愛想だ。
アンはリンゴの花を生けた花瓶を傾けて、ピンクの窪んだ蕾に軽くキスすると、またしばらくの間勤勉に勉強を続けた。
「マリラ」しばらくしてアンが質問した。「あたし、アヴォンリーで本当の心の友ができるかな?」
「え――何の友だって?」
「心の友――親しい友達よ――本当に同じ波長の人で、この子なら心の底まで打ち明けられるって子。そんな子に会えればいいなって、生まれてからずっと夢見てきたの。本当に心の友ができるなんて思ってなかったけど、素敵な夢がいくつもいっぺんに叶ったんだもの、これも叶うかもしれないわ。叶いそうだと思う?」
「ダイアナ・バリーが向こうの果樹園坂にいるね、あの子はあんたと同い年くらいだよ。とても良い娘だから、家に戻って来たら、あんたの遊び友達になるかもしれないね。今はカーモディーの叔母さんの家にいるがね。友達になるにしても、行儀よくするように気をつけないといけないよ。バリー夫人はとてもやかまし屋なんだよ。礼儀作法がしっかりして良い子じゃないとダイアナと遊ばせてもらえないだろうね」
アンはリンゴの花ごしにマリラを見つめた。興味津々で瞳を輝かせていた。
「ダイアナってどんな感じの子? 髪は赤じゃないでしょうね? ああ、そうじゃないことを祈るわ。自分の髪が赤いだけでも充分酷いのに、心の友までそうだなんて絶対耐えられない」
「ダイアナはとても可愛い娘だよ。目と髪は黒でほっぺは薔薇色だね。それに良い子で物覚えがいいよ、これは可愛いよりずっと大事なことさ」
マリラは不思議の国の公爵夫人のように教訓好きで、躾け途中の子供に言い聞かせる言葉には、必ず教訓を付け加えるべきであると堅く信じていた。
一方のアンは、そのありがたい教訓をポイと払いのけて、その前に述べられた楽しい可能性だけ目ざとく捕まえていた。
「そう、可愛い子で嬉しいな。自分が奇麗なことの次にいいのは――あたしはそんなの不可能だもの――奇麗な心の友がいることよ。トマスのおばさんのところにいたときだけど、居間にガラスの扉の本棚があったの。本は入ってなくて、トマスのおばさんは一番いい瀬戸物と砂糖漬けを置くのに使ってたの――砂糖漬けがあった場合はだけど。扉の一枚は壊れてたわ。トマスのおじさんが、ある晩ちょっと酔っ払って割っちゃったのよ。でももう一枚はちゃんと残ってたから、そこに映ったあたしは実はあたしじゃなくって、本棚の中に住んでる女の子だって考えることにしてたの。その子の名前はケイティ・モーリス、あたし達はとても仲良しだったわ。何時間も話すことも珍しくなかったわ、特に日曜日はそう、あの子には何でも打ち明けたの。あたしの人生で、ケイティだけがあたしを楽しませてくれたし、慰めてもくれたのよ。あの頃は魔法ごっこでよく遊んだわね、この本棚は魔法がかけられていて、呪文さえ分かれば扉を開けてケイティ・モーリスの住んでる部屋に入って行ける、トマスのおばさんの砂糖漬けと瀬戸物の棚じゃなくね。そうすると、ケイティ・モーリスがあたしの手を取って、夢のような場所に連れていってくれるの、お花畑とお日様と
「そんな広がり、なくて結構だったと思うね」マリラが冷たく言った。「そういう振る舞いはいいことじゃないよ。あんた自分がした想像を半分信じかかっているみたいじゃないか。現実の生きた友達を持って、そんな馬鹿馬鹿しいことは頭の中から追い出した方がいいね。それに、バリー夫人にはあんたの言ってた、ケイティ・モーリスとかヴォイレッタとかの話は聞かせるんじゃないよ。そんなことしたらきっとあんたが作り話をする悪い子だと思うからね」
「そりゃあもちろん言ったりしないわ。みんなに話してるわけじゃないもの――あの二人の思い出はとても神聖だから、誰にでも聞かせられものじゃないわ。でもマリラにはあの子達のことを聞いておいて欲しかったのよ。あ、見て、大きな蜜蜂がリンゴの花から慌てて出てきたわ。こんな可愛い所に住めるなんて――リンゴの花の家よ! ちょっと素敵よね、風が揺らしてくれる花の中で眠るのよ。もし人間の女の子じゃなかったら、あたし蜜蜂になって花畑の中で暮らしたいな」
「昨日はカモメになりたいって言ってたじゃない」マリラが鼻で笑った。「あんたは気まぐれなんだね。そのお祈りを覚えてしゃべらないように言ったろう。どうも話を聞いてくれる人がいると、しゃべらないではいられないらしいね。部屋に行ってそこで覚えなさい」
「え〜、もう大体全部覚えちゃったわ――あと最後の行だけよ」
「さあ、つべこべ言わないの、言ったとおりにしなさい。部屋に上がってお祈りを全部覚えても、夕食の手伝いで呼ぶまでそこでじっとしているんだよ」
「このリンゴの花を話相手に連れていっていい?」アンが泣きついた。
「だめだよ。花であんたの部屋を散らかさないどくれ。だいたい、木に咲いたままにしておくべきだったんだよ」
「あたしもちょっとそう思ったわ」とアン。「なんだか花を摘んだら寿命を縮めるんじゃないかって感じがして――あたしがリンゴの木だったら摘まれたくないと思うわ。でも誘惑の力が強すぎて抵抗できなかったのよ。抵抗できないほどの誘惑と出会ったらどうすればいいと思う?」
「アン、あたしが部屋に行けって言ったのは聞いただろう?」
アンはため息をついて東の
「終わった――これでお祈りは覚えたわ。最後の文も階段を上る途中で覚えたし。さぁて、何か想像で取り出してこの部屋に置いてみようっと、ずっと想像し続けられる物がいいな。床には白いベルベットのカーペットを敷いてと、全体にピンクのバラ模様のカーペットね、ピンクのシルクのカーテンを窓に架けよう。壁に架けるのは金と銀の紋織のタペストリー。家具はマホガニー材だわ。マホガニーはまだ見たことないけど、すっごく高級感があるもの。ここには寝椅子を1つ、豪華なシルクのクッションをたくさん重ねよう、ピンク、ブルー、クリムゾン、それからゴールド、あたしはその上に優雅に横になるのね。姿見できるとっても大きな鏡をこっちの壁に吊るすわ。我は誇り高く威厳のあること女王の如し、白いレースのガウンを身に纏い、胸には真珠の十字架、髪には真珠の髪飾り。我が黒髪は真夜中の暗闇の如く、肌は透き通った象牙の白。我が名はコーデリア・フィッツジェラルド姫なり。だめ、そんな感じじゃない――こんなの本当だなんて思えない」
踊るように小さな鏡に近寄ってしげしげと覗きこんだ。尖りぎみのそばかすの顔とまじめくさった灰色の瞳が自分を見返していた。
「あなたはただのグリーン・ゲイブルズのアンよ」と大真面目に言った。「やっぱりあたしにはあなたが見えちゃうわ、そちらから今あたしを見ているみたいに、どんなに自分がコーデリア姫だと想像してみてもね。でもグリーン・ゲイブルズのアンでいるのは、どこの誰でもないアンより100万倍もいいわよ、そうじゃない?」
前に屈んで鏡に写った自分に愛を込めてキスすると、開いた窓に向かって歩みを進めた。
「雪女神さん、すてきな午後ね。窪地のカバノキさんもこんにちは。よろしくね、丘の上の灰色屋敷さん。ダイアナはあたしの心の友になるのかな。そうなれるって願ってるわ、そしたらあなたを心の底から好きになるわ。でもケイティ・モーリスとヴァイオレッタも決して忘れない。忘れたりしたら二人とも傷つくだろうし、誰の心も傷つけたくはないわ、それがただの本棚の女の子や木霊の女の子でもね。忘れないように気をつけて、毎日二人にキスを送らなくちゃ」
アンはサクランボの花の向こうに、指先から1組のキスを空に投げた。そうして、顎を両手の上に乗せたまま空想の海へと気ままに漂っていった。
9章 レイチェル・リンド夫人、驚愕
アンがグリーン・ゲイブルズで暮らしはじめて2週間ほど経ってから、ようやくリンド夫人がアンを検分に訪れた。夫人に公平を期して言うと、レイチェル夫人はこの訪問が遅れたことに対する責めを負うものではなかった。季節はずれの重いインフルエンザに見舞われて、先般グリーン・ゲイブルズを訪れてから今日に至るまで、この善き夫人は自宅に禁足の憂き目にあっていたのである。レイチェル夫人は病気にかかることが滅多になかったため、病気がちな人々を普段あからさまに軽蔑していたのだが、このインフルエンザだけは、夫人の主張するところによればだが、他の地上に広まった病気と異なり、神の意思による格段の計らいと見なされるべきであった。かかりつけの医者から家の外に出る許しが得られると、夫人は直ちにグリーン・ゲイブルズへと急行した。マシューとマリラが預かることになった孤児を一目見ようと、夫人の好奇心は爆発寸前であった。この孤児については、すでにアヴォンリー一帯で、ある事ない事各種様々な噂と憶測が飛び交っていたのである。
その2週間というもの、アンは目を覚ました後の時間を最大限に有効活用していた。屋敷の周りの木々や潅木とは、すでに挨拶を済ませ面識を得ていた。一本の小径がリンゴの果樹園の下手に伸びていて、帯状に広がる森林地を縫って上のほうまで続いているのも発見していた。その面白いほど気紛れな小径を一番端まで探検していくと、小川とそれを渡る橋、モミの低木からなる薪炭林と野生のサクランボの木が並んだアーチ、シダが密生した曲がり角、カエデとナナカマドの茂る分かれ道があった。
窪地を下った所にある泉とも友達になった――その泉からは驚くほど深く、澄み切って指が切れるほど冷たい水が湧き出ていた。その泉は滑らかな赤い砂岩にはめ込まれていて、大型のシュロの葉のような水生シダのやぶが取り囲んでいた。そのさらに向こうに小川に架かった丸木橋があった。
橋を後にして、アンの浮き浮きした足取りは、更に向こうの森のある丘へと歩みを進めた。森にはまっすぐに伸びたモミとエゾマツが密に生い茂っていて、その木々の下では1年を通して薄明が支配していた。ここで見つかる草花といえば、無数に生えた「ジューン・ベル」の優美な姿だけだった。森林地の花のどれよりも内気で、どれよりも愛らしく、蒼い澄明な星の花、前の年に消え去った花の魂のような、そんな花だった。木々に架かるか細い蜘蛛の糸が、銀の糸のようにちらちらと光を放ち、モミの枝とツルが巻き付いた房飾りが、風に揺られて友達同士のおしゃべりを楽しんでいた。
こうした天にも登る探検は、遊ぶ時間として許された半時間余りの旅の賜物だった。アンは自分の発見したあれこれについて、マシューとマリラ相手に耳が聞こえなくなるくらいうるさく喋りまくった。マシューは不平を言うどころか、黙ってにこにこしながら、楽しげに聞き入っていた。マリラもとりあえず「おしゃべり」させておくのだが、それも自分がついついのめり込んでしまうのに気付くまでのことで、そうなるといつでも、もうそれくらいにしなさいと、そっけなくアンのおしゃべりを遮って黙らせるのだった。
レイチェル夫人がやってきた時、アンはたまたま果樹園に出かけていて、自分の心の赴くままに放浪の旅を楽しんでいる真っ最中だった。足元の青々とした草地は風になびいて、夕陽の赤い光の飛沫をまき散らしていた。そんなわけでこの善きご夫人は、誠に都合よく自分のかかった病気について、全てを語る機会を得たのであった。どんな痛みがあったとか脈搏がどうだとか、いかにも楽しそうに説明するものだから、聞いていたマリラは、インフルエンザにかかるのもそんなに悪くないのかもと思えるほどだった。気の済むまで委細を語りつくしたところで、レイチェル夫人はようやく本来の用向きについて切り出した。
「なんだか驚くようなことがあんたとマシューにあったって聞いてるよ」
「あんたが驚いたって言っても、あたしが驚いたほどじゃないと思うよ」とマリラが言った。「今じゃ、だいぶ回復したがね」
「とんでもない行き違いがあって災難なことだね」とレイチェル夫人は心中をお察し申し上げた。「その子を送り返せなかったのかい?」
「送り返せたと思うけど、そうはしないことに決めたんだよ。マシューがどういうわけかあの子を気に入ってね。あたしも少しは気に入ってるんだよ――欠点もいろいろあるけどね。この家も今までとは大分変わったように感じるんだよ。あの子は本当に明るい子供だから」
話が進むにつれて、マリラは言うつもりのないことまで言ってしまった。レイチェル夫人がいかにも反対といった顔つきをしていたからである。
「重大な責任なんだよ、あんたが背負いこんだのは」夫人には暗い未来しか予想できなかった。「特にあんたは子供を育てた経験がないんだし。その子の生まれもその子の性格も、あんたはわかっちゃいないんだろう、そういう子はこれからどんな風に育つかなんてわからないからね。あたしはあんたの折角のやる気をなくそうなんて、全然思っちゃいないんだけどね、マリラ」
「やる気がなくなったなんて感じてないさ」マリラがそっけなく言葉を返した。「やると決めたからには、やるつもりだよ。あんたはアンを見に来たんだろう。今、戻って来るように言うから」
間もなくアンは走って戻ってきた。今まで果樹園で放浪の旅を楽しんでいたので、その顔は生き生きと輝いていた。が、見知らぬ人がいるのに気付くと戸惑ってしまい、ドアを入ったところで思わず立ち止まった。確かにその時のアンは妙な子供だったと言えた。孤児院から来るときに着ていた、短かすぎるきつきつの交織の服のままだったし、見下ろすと短いスカートから、痩せた足がにょっきり伸びてみっともない。そばかすは上気した顔の上でいつにも増して多く見え、存在感を主張していた。帽子を被らずに出かけたので、風で髪が逆立っていい加減を絵に描いたようだった。そして、この時ほど髪が赤く見えたこともなかった。
「なるほど、見掛けで選ばれたんじゃないのは絶対確実だね」レイチェル夫人による断定調の論評であった。レイチェル夫人は、常日頃から自分の考えを公平かつ率直に口にすることを誇りにしている、陽気でどこにでもいそうな人達の一人だった。「この子はとんでもなくガリガリに痩せてるしみっともないね、マリラ。こっちにおいで、さあ、よく見せてちょうだいな。正直言って、こんなにそばかすがあるなんて見た事ないね。髪は赤くて人参みたいだよ! こっちにおいで、さあ、おいでったら」
アンは「そっちに行った」が、レイチェル夫人の予想したのとはちょっと違っていた。あっと言う間に台所を通り過ぎると、レイチェル夫人の前に立ちはだかった。怒りで顔が真っ赤に染まり、唇はぷるぷると、か細い体も頭の先から爪先に至るまでわなわなと震えていた。
「大っ嫌い」怒りで詰まった声でようやく叫ぶと、足で床をドンと踏み鳴らした。「大っ嫌い――大っ嫌い――大っ嫌い――」床の音は憎しみを断言する言葉と共に高くなっていった。「よくも言ったわね、あたしがガリガリでみっともない? よく言えるわ、あたしがそばかすだらけで赤毛? あんたなんか礼儀知らずよ、失礼よ、この冷血女!」
「アン!」呆れてマリラが叫んだ。
それでもアンはレイチェル夫人に真っ向から対決し続けた。恐れる気配も見せず、頭を高く掲げ、目にはギラギラと炎が燃え立ち、爪が突き刺さるほど両のこぶしを握りしめ、激した怒りのオーラがアンの体から立ち上っていた。
「どうしてあたしのことそんな風に言えるのよ?」またもや繰り返した。心の中で轟々と激しい嵐が吹き荒れていた。「自分が言われたらどんな気がする、デブで不細工で、どうせ想像なんか一度も閃いたことがない、なんて言われたら? 今の言葉があんたの胸に突き刺さっても構わない! グサッと刺さればいいのよ。あんたはあたしの心を傷つけた、トマスのおばさんとこの、飲んだくれのおじさんの時よりずっとずっと傷ついた。あんたなんか絶対許さない、絶対、絶対!」
足をドン! 足をドン!
「こんな癇癪持ちは見た事ないわ!」びっくり仰天したレイチェル夫人が叫んだ。
「アン、部屋に行ってあたしが行くまでおとなしくしてなさい」かろうじてまともに話せるようになってからマリラは言った。
盛大に涙をこぼしながら、アンは廊下のドアに突進すると、通りしなにそのドアを思いっきり叩きつけて行ったので、ポーチの外壁にぶら下がったブリキの鈴が、アンに同情してカラカラ鳴った。玄関を走り抜け階段を駈け登り、さながらつむじ風が吹いたかのようだった。何かを叩きつけるこもった音が上から聞こえ、東の切妻のドアも同様に激しい嵐によって閉じられたことを物語っていた。
「やれやれ、あんなのを躾るんじゃ、あんたの役目も羨ましいとは言えないね、マリラ」レイチェル夫人のいわく言い難いほど重々しい一言だった。
マリラが口を開いたのは、どんな弁解も言い訳もしようがないと言うためだった。だが口をついて出てきた言葉に自分でも驚いてしまった、その時もあとからも。
「あの子の外見をからかうべきじゃなかったよ、レイチェル」
「マリラ・カスバート、あんたあの子の肩を持つつもりじゃないだろうね、あんなに酷い癇癪を見せ付けられたばかりだっていうのに?」ご立腹のレイチェル夫人は突っかかってきた。
「そんなつもりはないよ」考えながらマリラが言った。「あの子を弁護するつもりはないよ。確かにとても行儀が悪かったし、後でそのことを言って聞かせなくちゃならないさ。だがね手加減してしてやろうよ。これまで何が正しいことか躾けられていなかったんだよ。それにあんたはあの子にきつくあたりすぎたよ、レイチェル」
マリラは最後の一言を付け加えないではいられなかったが、言ってしまった後で、またしても自分の言葉に驚くのだった。レイチェル夫人は、プライドを傷つけられたと態度で示しながら、椅子から立ち上がった。
「そう、分かったわ、以後口のきき方にはせいぜい気をつけさせて頂きますよ、マリラ。どこぞの馬の骨に決まってる孤児の気持ちが、何よりお大切らしいからね。ああ、誤解しないで、あたしは腹を立ててるんじゃないよ――お気になさらず。あんたが気の毒すぎて、怒るどころじゃないからね。あんたはあの子がこれから起こす面倒事を抱え込まなきゃいけないことだし。だけどあたしの助言に聞く耳持つなら――そんな耳もなさそうだけど、あたしはこれでも10人子供を育てて、2人を亡くしてきたんだがね――あんたの言ってた『言って聞かせる』時には、そこそこ大きい樺の枝の鞭を用意した方がいいね。言わせてもらえば、それがあの子供に言って聞かせられる一番分かりやすい言葉だと思うよ。あの癇癪に合わせて髪の色が決まったんじゃないのかね。それじゃ、ご機嫌よう、マリラ。いつものように時々遊びに来てくれると嬉しいね。だけどこっちからお邪魔することはしばらくないだろうよ、また鷹みたいに飛びかかられたり、こんな風に侮辱されるんじゃね。初めてのいい経験をさせて頂いたわ」
かくしてレイチェル夫人は身を翻し速やかに退場して行った――普段はのそのそと歩いている太った女性に、速やかな退出ができると仮定してだが―― 一方のマリラは眉間にしわを寄せて、東の切妻の部屋に足を運んだ。
階段を上がりながら、これからどうするべきか考えあぐねていた。たった今目の前で演じられた光景で、少なからぬ動揺を覚えていた。運に見放されてるよ、よりによってあのレイチェル・リンドの前で、こんな癇癪を披露してしまったんだから! そこまで考えて、マリラははたと気がついた。そうだ、アンの性格にこんな重大な欠陥あったと分かったことで、あたしは恥をかかされたと感じている、アンの欠点を直さねばと感じるべきだろうに。これはまずいよ、いけないね。それではどう罰せばいいのか? 先ほど人当たりよく提案された樺の枝の鞭の手法――その有効性についてレイチェル夫人自身の子供達が、鞭のヒリヒリ感を思い出しつつ証言したとしても――マリラにとって魅力的な提案とは言いがたかった。子供を鞭打つなんて出来そうにないよ。そうじゃなく、罰を与えるには何か別な方法を探さなくては、さっきの無礼な振る舞いがいかに問題であるか、アンが正しく実感できるような何かを。
マリラが部屋に入ると、アンはベッドに突っ伏して、泣きながら人生の苦みを味わっていた。洗いたてのベッドカバーの上に泥だらけのブーツで上がっている事などすっかり忘れて。
「アン」優しくなくもない声で言った。
返事は返ってこない。
「アン」今度はずっと厳しい。「そのベッドから今すぐ降りなさい、これから言う事をよくお聞き」
アンはもそもそとベッドを離れ、脇の椅子に座ってじっと動きもしない。泣いた顔は腫れ、涙の跡がはっきり残っていた。目は意固地に床を向いたままだった。
「大したお行儀だね。アン! あんた、自分で情けなくないの?」
「あんな人に、みっともないだの赤毛だの言われる義理なんかない」矛先をかわしつつけんか腰でアンが応酬した。
「あんたも怒って暴発したりあんな酷い事を言えた義理じゃないよ、アン。みっともない――みっともないったらないわ。リンドさんの前では行儀良くして欲しかったね、面目丸潰れじゃないか。どうしてあんなに怒らなきゃならないのか全然分からないよ、リンドさんに赤毛でみっともないって言われたからって。自分でよく言ってるだろ」
「言ってるけど、まるっきり違うわよ、自分で自分のことを言うのと、人が言うのを聞かされるんじゃ」アンは心の傷を激白した。「本当はそうなんだろうって分かってる、だけど他の人にはそれほどでもないよって思って欲しいじゃない、そういうものよ。あたしがめちゃめちゃ癇癪持ちだって思ってるんでしょ、でもどうしようもなくああなっちゃったのよ。あの人にあんなこと言われた途端、私の中で何かが爆発して息が出来なくなったのよ。あの人にああ言うしかなかったのよ」
「まあとにかく、あんたは自分でお披露目してみせたわけだ。リンドさんはどこに行っても話せるくらいに、あんたの話題ができたわけだし――実際喋りまくるだろうね。癇癪を起こすにしてもまずいタイミングだったよ、アン」
「ちょっとは自分がどんな気持ちになるか想像してみてよ、誰かが自分の目の前で、あんたはガリガリに痩せてるとかみっともないって言うのよ」アンが目に涙を溜めて泣き落としにかかった。
遠い記憶の古傷が突如としてマリラの前に再現された。まだ幼かった頃、叔母の一人がもう一人に向かってこう言っていた。「まあ可哀想そう、このおちびちゃんときたら、色は黒いしみっともないこと」あの記憶の刺が消え去るまで、マリラはこの50年の歳月を必要としたのだった。
「リンドさんがあんな風に言っていいとはあたしも思わないよ、アン」マリラは認めた。一歩譲って柔らかい口調である。「レイチェルは言いたい放題言いすぎるからね。だからと言って、あんたの方でも酷い行儀で構わない、なんてことにはならないんだよ。あの人はあんたに初めて会ったんだし、年配であたしのお客だったんだから――この3つだけでも充分、あんたが丁重でなきゃいけない理由になるよ。あんたは確かに礼儀知らずで生意気だったし、そうだ」――アンの罰にぴったりの妙案がマリラの頭に浮かんだ――「あんたレイチェルの所に行って、癇癪を起こして済みませんでしたって謝ってきなさい」
「そんなの絶対、嫌」アンは断固たる様子で言った。険悪な雰囲気である。「マリラが好きなようにあたしを罰していいわよ。蛇やヒキガエルの住む暗くてじめじめした地下牢に、パンと水だけで閉じこめられても文句は言わないわ。でもリンドさんに謝るのは嫌」
「ここらじゃ誰かを暗くてじめじめした地下牢に閉じこめる習慣がなくってね」マリラが皮肉を言った。「殊にこのアヴォンリーじゃ地下牢なんてどこにも見当たらないよ。それはおいといて、リンドさんに謝りなさい、あんたにはそうしてもらうよ。謝りに行きますって言わない限り、ここにいて部屋を出ちゃだめだよ」
「じゃ、あたしは永遠にここにいる事になるのね」と悲しみに沈むアン。「だって、リンドさんにあんなこと言って済みませんでした、なんて言えるわけないもの。どうして言えるのよ? あたしは何も済まないことしてないのに。マリラに迷惑かけて済まないとは思うけど。言うだけ言ってせいせいした。いい気味よ。どこも済まなくないから、済まないなんて言えない、そうでしょ? 済まないなんて想像もできない」
「朝までにはあんたの想像力ももっと働くようになってるんじゃないかね」立ち上がって部屋を出がけにマリラが言った。「一晩あげるから、あんたの行いについてじっくり考えてみるんだね、そしたら考え方も変わるさ。グリーン・ゲイブルズに置いてくれるなら、良い子になるよう努力しますって言ってたけど、今晩はそんなに努力してるように思えないよ」
パルティアの騎兵が射たような捨て台詞の矢は、アンのいまだ嵐が荒れ狂う胸に突き刺さった。マリラは台所に下りてきたが、理性は酷く苦悩し、魂は悩みを抱えていた。アンにも腹が立ったが、自分自身についても腹が立った。なぜなら、レイチェル夫人の開いた口が塞がらないほど驚いた顔つきを思い出すと、可笑しくて唇がぴくぴくしたし、不届き千万にも笑いたいという欲求を感じずにはいられなかったからである。
10章 アンの申し訳
マリラはその晩、この一件についてマシューに口を閉ざしていた。しかし、翌朝になってもアンがまだ折れずに頑張っているので、食事の席にいない理由を話さざるをえなくなった。マリラはマシューにいきさつを全て隠さず話したのだが、アンの態度は当然不埒極まるとの点を納得させるのに骨を折ることとなった。
「レイチェル・リンドに言ってやったのは良い薬だよ。お節介なおしゃべり婆さんだからな」マシューの返答は誠に心が休まるものだった。
「マシュー・カスバート、なんてこと言うんだか。アンの態度が酷かったのは分かってるでしょうに、それでもあの子の肩を持つんだから! 今度は懲らしめる必要なんかないなんて言うんじゃないでしょうね!」
「うむ、そうだな――そんな必要は――いやそうは言わんが」マシューはそわそわしだした。「わしも少しは懲らしめなきゃいかんと思うが。だからってあの子に辛く当たっちゃいかんよ、マリラ。今まで誰もちゃんと教えてやらなかったんだからな。それで――それで、食事はさせてやるんだろう?」
「ひもじい思いをさせて行儀を躾けるなんて、誰がいつ言ったの?」マリラは憤慨もあらわに言った。「いつもどおり食事はさせるし、朝食はあたしが持って行ってあげるわ。でもアンには上にいてもらいますからね、あの子がリンドさんに謝る気になるまでそのままよ。これで決めたわよ、マシュー」
朝食も、昼食も、そして夕食もそれは静かなものだった――アンがいまだに頑固を通していたのである。食事が終わるたびに、マリラは盆に一杯の食事を東の切妻の部屋に運んだが、目に付くほど減らないまま持って降りるのだった。マシューは減らない夕食の盆を持って下りて来るのを心配そうに見つめていた。アンはちょっとでも食べているんだろうか?
その夕方、屋敷の後ろの放牧地から牛を連れ戻しにマリラが家を出ると、納屋でうろうろしながら待ち構えていたマシューは、泥棒のように家に入り込んで、こそっと階段を上った。普段のマシューは、台所と玄関から引っ込んだ小さな寝室を往復するだけで、たまに牧師がお茶に寄る時など、嫌々ながら客間や居間に入ってみることはあるにはあった。だが、自宅ではあるが2階へは上がることはなかった。以前、春にマリラが客用寝室の壁紙を張り替えるのを手伝いに上がったが、それも4年も前のことだった。
2階の廊下を爪先立ちして通り抜け、東の切妻のドアの前で数分立ち往生していたが、ようやく勇気を奮い起こすと、ドアを指でコンコンと叩いてからドアを開けて、中の様子をのぞき込んだ。
アンは窓辺の黄色い椅子に座り、悲しみに沈んだ眼差しでじっと庭を見入っていた。いつもより一回り小さく、不幸せに見えた。マシューの心がずきっと痛んだ。ドアを静かに閉めると、マシューはアンの方へと爪先立ちで近寄った。
「アン」小さな声で言った。誰かが立ち聞きしているみたいに。「具合はどうだい、アン?」
アンは弱々しく笑顔を見せた。
「大丈夫。いろんなことを想像してると気が紛れるのよ。やっぱり少し寂しいかな。でも、こんな事にも慣れなくちゃ」
アンはまた笑みを浮かべ、これから続くであろう孤独な投獄の日々に勇敢に立ち向かう覚悟を見せた。
マシューは何を話しに来たのか思い出した。ぐずぐずしている時間はないな、マリラが早く戻らないとも限らないし。「うむ、そうだな、アン、さっさとやって済ませたらどうかな?」そう小声で囁いた。「いずれ遅かれ早かれしなくちゃいけない事だしな、マリラはこうと決めたら梃子でも動かん女だから――梃子でも動かんのだよ、アン。今すぐやってだな、済ますんだよ」
「リンドさんに謝るってこと?」
「そうだよ――謝る――正にそれだな」マシューが張り切ってアンを後押しした。「言ってみればあんまり角が立たんようにするんだよ。そう言うつもりだったんだ」
「マシューがそうして欲しいって言うなら、できるかもしれない」考えながらアンが言った。「あたしが悪かったと言ってもそんなに間違いじゃないないわ、だって今ではあたし悪かったと思ってるんだもの。夕べはちっとも悪いと思わなかったのよ。ほんとに頭にきてたの、一晩中ずっと怒ってたんだから。夜中に3回起きたけど、3回とも猛烈に怒ってたから確かよ。でも今朝起きたら収まってた。癇癪なんかどこにもないの――すっかり終わってしまったみたいな感じしか残ってないのよ。今度はすごく恥ずかしくなってたの。でもリンドさんにそう言いに行くなんて考えられない。きっとすごく屈辱的よ。そんなことするくらいなら、ここに永遠に閉じこもっていようって決めたの。それでも――マシューのためだったら何でもできるから――もし本当にそうして欲しいなら――」
「うむ、そうだな、もちろんそうして欲しいよ。アンがいないと下はひどく物寂しくてな。ちょっと行って来て、角が立たないようにするんだよ――そうだ、良い子だ」
「よく分かったわ」アンは忍び難きを忍ぶことにした。「今度マリラが来たら、悔い改めましたって言うことにする」
「それが良い――それが良いよ、アン。だがマリラにこの事を言うんじゃないよ。わしが口を出したって思うだろうし、口は出さない約束でな」
「暴れ馬だってあたしから秘密を引きだすことはできないわ」アンは厳粛に誓いを立てた。「でもいったいどうすれば暴れ馬で秘密を引きだせるの?」
しかしマシューはもう部屋を出てしまい、首尾よくいったがここで見つかりはしないかと、ビクビクものだった。馬小屋の一番隅にそそくさと逃げかえって、上で何をしていたのかとマリラに疑われないように、素知らぬ顔を決め込んでいた。そのマリラは、家に帰ったところで、階段の手すり越しに「マリラ」と呼ぶ悲しげな予想外の声に迎えられた。やれやれ、ようやく謝る気になったらしい。
「それで?」玄関に歩いて来ながらそう言った。
「ご免なさい、癇癪起こして不作法なことを言ってしまいました。リンドさんにもそう言います」
「結構だね」マリラはそっけない言い方をして、実はホッとしたのを上手く隠した。もしアンが折れなかったら一体どうしようかと思っていたのだ。「牛の乳搾りの後であんたを連れていくよ」
そんなわけで、乳搾りの後にマリラとアンが小径を連れ立って歩く様が見受けられた。前者は意気揚々と勝利を誇り、後者は意気消沈し落胆の極みであった。だがしかし、小径を半ば下ったところで、アンの落胆は魔法の力を使ったかのように消えうせた。顔を上げて足取りも軽く、夕焼け空を見つめながら、ご機嫌なのを無理やり抑えているようだった。マリラはその変わりようを何やら怪しげに物見していた。この子は大人しい悔悛者なんかじゃないね、ご立腹のリンドさんと対面するに相応しいとは到底言いかねるよ。
「あんた何を考えてるんだい、アン?」質問する言葉が刺々しい。
「リンドさんに言わなきゃいけないことを想像してるのよ」夢見るアンが答えた。
申し分ない模範回答である――いや、当然そうでなくてはならない。しかしマリラは、アンを罰するという自分の計画が崩れかかっているのでは、という疑念を払拭することができなかった。今のアンは、こんなに夢心地で嬉しそうな様子になるはずがないのに。
夢心地で嬉しそうなアンの様子は、台所の窓辺に座って編み物をしていたリンド夫人の目前に二人が来るまでそのままだった。と、その時、嬉しそうなアンは消え失せた。立ち振る舞い全てにわたって、悲嘆に暮れた悔悛者である者が現れた。アンは一言も言わず、びっくりしているレイチェル夫人の前に不意にひざまずき、嘆願するかのように両手を夫人に向けて差しのべた。
「ああ、リンドさん、あたしが悪うございました」声が震えている。「それはもう言葉では言い尽くせないくらい後悔しています、辞書にある言葉を全部使っても言い表せません。どんなに無理があるかは、想像してくださらなくては。あたしはおばさんに大変不躾なことをしてしまいました――その上、あたしを助けてくれた立派なマシューとマリラに、大変恥をかかせてしまいました、男の子でないにもかかわらず、あたしをグリーン・ゲイブルズに置いてくれたというのに。あたしはとても悪い子で恩知らずです。罰を受けて、尊敬すべき立派な人々の手で永遠に追放されるのが当然の報いです。カッとなって怒ったのはとてもいけないことでした、言われたことは事実だったんですから。本当に事実でした。言われたことは全部本当でした。確かにあたしは、髪が赤くてそばかすだらけで、痩せててみっともないんです。あたしがおばさんに言ったことも本当のことですけど、言ってはならないことでした。ああ、リンドさん、お願いです、お願いです、あたしを許して下さい。もし許してもらえなければ、あたしは生涯悲しみに暮れることになります。一人の孤児に生涯悲しみを負わせるなんて望んだりしないでしょう、たとえその子が癇癪持ちだとしても? ああ、おばさんならそうしないと信じています。どうかあたしを許すと言って下さい、リンドさん」
アンは両手を組んで頭を垂れ、裁きの言葉を待ち受けた。
この子が誠意をもって謝ったのは間違いがなかった――それは言葉の端々に響き渡っていた。マリラもリンド夫人も間違いなくその響きを聞き取れたのだった。しかし、マリラはアンが実は屈辱の谷底を楽しんでいるのが分かって愕然としていた――アンは完膚なきまでにへりくだる満足に浸っていたのだ。道理に適った結果をもたらすはずの罰はどこにいってしまったんだい、このあたしが考え出した、鼻高々だった自慢の罰は? アンはそれをひっくり返して、罰どころかお楽しみに変えてしまったんだ。
善きリンド夫人はそこまで深読みするような煩わしさとは無縁だったので、そんなこととは分からず仕舞いであった。夫人はアンが極めて徹底して謝ったことだけを理解したので、このご夫人の思いやり深い、時にはお節介焼きな心から、憤りは全て消え去ったのだった。
「ほらほら、立って、さあ」心からそう言うのだった。「もちろん許しますとも。本当かどうかはともかく、あたしはあんたにきつく言いすぎたかもしれないね。まあ何だね、あたしはずけずけ言うたちでね。あたしの言うことをいちいち気に病んじゃだめだよ、まったく。あんたの髪が真っ赤なのは言い逃れできないが、ある女の子を知ってたんだけど――実は一緒に学校に通った子でね――その子の髪はあんたみたいに、どこもかしこも赤かったんだよ、子供のうちはそうだったんだけど、大人になったら色が濃くなって、本当に格好いいとび色になったんだよ。もしあんたがそうなってもちっとも驚かないよ――ちっともね」
「ああ、リンドさん!」アンは立ち上がると、大きく息を吸い込み、「おばさんは希望を与えてくれたわ。これからずっと、おばさんはあたしの恩人よ。ああ、これで何でも耐えられるようになったわ、大きくなったらあたしの髪は格好いいとび色になるんだって思えばいいんだもの。格好いいとび色の髪なら、良い子になるのもきっと簡単よ、そう思わない? おばさんとマリラがお話してる間、庭に出てリンゴの木の下のベンチに腰掛けていていい? あそこならずっと想像を広げられるわ」
「おやおや、いいわよ、行っといで。花を摘みたいなら、向こうの角の六月百合[#訳者注:水仙のこと]を花束を作れるくらい摘んでもいいよ」
アンが後ろ手にドアを閉めると、リンド夫人はランプを点けるために元気よく立ち上がった。
「あの子は本当に変な子だね。こっちの椅子がいいよ、マリラ。その椅子より楽だよ。それは雇いの男の子用なんだよ。そうだね、確かに変な子ではあるんだが、あの子はどこか人の気を引くところがあるんだろうね、そう思うよ。あんたとマシューがあの子を手元に置くことにしたのも驚くことじゃないね、こないだは違ったけどさ――もう、お気の毒とも思わないよ。良い子になりそうじゃないか。もちろん、妙な話し方をするけど――ちょっと、こう――そう、押し付けがましいという感じだがね。まあしかし、それも追々なおるだろうよ、ちゃんとした人の間で暮らすようになるわけだからね。それにしても、あの子はすぐに癇癪を起こすんだね、だがね、ころころ機嫌が変わる子のいいところは、ピーっと沸騰してすぐ冷えるような子のことだよ、狡かったり人を騙したりはしないってことでね。狡い子から我を守りたまえ、だよ、まったく。ぶっちゃけて言うとね、マリラ、好きな子と言っていいね」
マリラが帰宅するのに合わせて、アンが芳しい
「あたし結構上手く謝れたでしょう?」小径を家に向かいながら自慢そうに言った。「どうせやらなきゃいけないなら、徹底的な方がいいと思ったのよ」
「確かに徹底的だったよ、必要以上だね」これがマリラのコメントだった。思い出すと笑いたくなって、マリラは自己嫌悪するのだった。また、釈然としない気分でもあった。アンを叱るべきだろうか、あの子は上手く謝りすぎたんだから。だが、上手く謝ったから叱るなんて、そんなばかな! しょうがないので、自分の良心と妥協するために、こう厳しく言った。
「これからは、こんな風な申し訳を何度もしないでおくれ。自分で気持ちを抑えられるようになっとくれ、アン」
「そんなに難しくないわ、誰もあたしの見かけをからかわなければだけど」ため息をつくアンだった。「他のことなら怒ったりしないわよ。でももううんざりなの、髪の色をからかわれるのは。だからすぐ頭が沸騰しちゃうのよ。マリラは、あたしが大人になったら格好いいとび色の髪になると思う?」
「あんたは見かけにこだわりすぎなんだよ、アン。実はすごく見えっ張りじゃないのかね」
「どうして見えっ張りなの、みっともないのは分かってるのよ?」アンは別意見だった。「あたしは奇麗なものが好きなの。だから鏡を見るのは嫌い、鏡の中に奇麗じゃないものが見えるんだもの。すごくがっかりするのよね――みっともないものを見た時みたいで。美しくなくて可哀想」
「格好いいのは、見目より心だよ」マリラが引用してみせた。
「前にそう言われたことあるけど、本当かな」アンは懐疑的な所見を述べて、両手に抱えた水仙の香りを吸い込んだ。「う〜ん、甘い香りよね、この花! リンドさんって良い人ね、こんなに素敵な花をくれたんだから。もうリンドさんは嫌な人だなんて思わないわ。今は素敵な気分だわ、気も楽になったし、謝ってちゃんと許されたんだもの、ね? 今夜は空が澄んでて星が明るいわよね? どれか星に住めるとしたらどれがいい? あたしはあの陰った丘のずっと上の星がいいわ、大きくてキラキラ輝いてるとこが素敵」
「アン、もうおしゃべりはやめなさい」とマリラ。アンのくるくる変わる話題にもう付いていけず、すっかりお疲れのご様子である。
それから家の小径に入るまで、アンはもう何も言わなかった。一吹きの風の風来坊が小径で二人を待ち受けていて、露にぬれた伸び盛りのシダの茂みから、風味のある香りを運んできた。ずっと向こうには、暗い影が重なる中、人待ち顔の明かりが一つ、その光を輝かせていた。木々の向こうのグリーン・ゲイブルズの台所から届く明かり。アンはすっとマリラに寄り添うと、隣を歩くこの年配の女性の堅い掌の中へ、そっとその手を滑り込ませた。
「素敵ね、帰るうちがあるのよ、あれがうちなのよ」沈黙を破って言った。「グリーン・ゲイブルズが好き、とっくに好きになってた、今まで好きになったところなんかなかったのに。うちだと思えるところなんかどこにもなかったのに。ああ、マリラ、あたしすごく幸せ。今ならちゃんとお祈りできそう、ちっとも苦労しないでできそうよ」
何か暖かくて気持ち良いものがマリラの心の中に湧きあがった、あの痩せた小さなこの子の手が触れた途端に――ドクンとひとつ湧きあがった、おそらくは、母であること、自分にもなり得たはずのことが。こんな気分は尋常じゃない、こんなに甘い気分なんか。慌てて心の波を静め、教訓を一つ唱えると、いつもの落ち着いた静けさが戻ってきた。
「良い子になれば、いつだって幸せだろうよ、アン。それにお祈りに苦労するようじゃいけないね」
「お祈りの言葉を言うのは、神に祈るのとまったく同じじゃないわ」沈思の中からアンが言葉を紡ぎだした。「それはそれとして、これから想像を働かそうかな、あたしは風、あっちの木のてっぺんに吹き上がるのよ。木に飽きたら、こっちのシダの茂みにゆったりそよぎ降りるって想像するの――それからリンドさんの庭まで飛んでいって花を踊らせて――それからすうっとそっちのクローバーの原っぱに舞い降りて――それから輝く水面の湖の方まで吹いていって、そこら中にきらきら輝くさざ波を立てるの。ああ、風になるって、とっても想像が広がるわ! だから、とりあえずもうおしゃべりしなくていいわ、マリラ」
「ありがたいね、痛み入るよ」マリラは魂の救済を得て、ほっと一息つくのだった。
11章 日曜学校の第一印象
「どうだい、気に入ったかい?」とマリラが訊いた。
アンは切妻の部屋で突っ立ったまま、ベッドの上に広げてあるできたばかりの3枚の服を、いっぱしの権威者の目で眺めていた。1枚はかぎタバコ色のギンガムで、丈夫そうに見えたのでマリラが去年の夏に行商人から買ってみたものだった。もう1枚は黒と白のチェックのサテンで、冬にバーゲン品売場で見つくろっておいたものだった。最後の1枚は、変に青っぽい堅いプリント生地で、先週カーモディーの店で買い求めたものだった。
3着ともマリラが自分で仕立てたもので、3枚ともそっくりな出来栄えだった――どれもこれもあっさりしたスカートで、あっさりしたウェストまで何の遊びもなく繋がっていた。袖のあっさり加減はウェストとスカートに負けず劣らず、袖の遊びのなさも限界まで追及されていた。
「気に入ったと想像するわ」アンが真面目な顔で言った。
「気に入った想像なんかして欲しくないね」とマリラ。ご立腹である。「そうかい、この服が気に入らないって顔だよ! 何が悪いっていうの? どれもこれもきちんとしてるし、清潔で真新しいじゃないか?」
「そうね」
「それじゃ、何が気に入らないっていうの?」
「だって――あんまり――可愛くないんだもん」アンは渋々言った。
「可愛い!」マリラが鼻で笑った。「可愛い服をあんたに作ってあげるつもりは更々なかったね。あんたにくだらない流行を追いかけてもらおうなんてつもりはないよ、アン、それは今のうちに言っておくよ。どの服もちゃんとしてるし、ゴテゴテしてないし、丈夫だよ、フリルや裾ひだなんかついちゃいないからね。あんたの夏服はもうこれしかないよ。学校が始まったら茶色のギンガムと青いプリント地のを着ていくんだよ。サテンのは礼拝と日曜学校用だからね。いつもきちんとして破ったりしないどくれ。あんたが着てるそのきつきつの交織りに比べたら、どんな服でもありがたいと思うがね」
「そりゃあ、ありがたいとは思ってるわよ」アンは一言言っておく必要を感じた。「でもずっとありがたいと思うわけ、例えば――例えば1枚だけでもパフ・スリーブのを作ってくれたら。パフ・スリーブは最近流行なのよ。きっとすごくゾクゾクすると思うな、マリラ、パフ・スリーブの服を着たらきっとそうなるわよ」
「じゃ、ゾクゾクなしでいるんだね。パフ・スリーブに無駄に使う布地なんかないよ。大体あの馬鹿馬鹿しい袖ったら何だい。あたしは普通のちゃんとした服がいいね」
「でも、あたしは馬鹿馬鹿しくってもいいわ、他の人が馬鹿馬鹿しい格好してるのに自分だけ普通にちゃんとしてるなんて」悲しい声でこだわるアンだった。
「あんたならそうだろう! ほら、服をクロゼットにきちんと掛けて、それからちゃんと腰掛けて日曜学校の予習をしなさい。あんた用にベルさんのところから季刊誌を借りてきておいたよ、明日は日曜学校に行くんだからね」とマリラ。腹をたてたままさっさと階段を下りていった。
アンは両手を組んで服を見つめた。
「1枚は白のパフ・スリーブだったら良かったんだけどなあ」その声は小さく暗かった。「1枚だけはってお祈りしたんだけど、あんまり期待してなかったもの。神様だって忙しいのよね、孤児の女の子の服のことなんかかまっちゃいられないわ。マリラに望みを託すしかないのは分かってたのよ。まあいいわ、あたしは想像力の幸運に恵まれてるから、1枚は雪のように白いモスリンで、可愛いレースのフリルが付いてる3段のパフ・スリーブだって想像できるものね」
翌朝、マリラは頭痛で気分が悪くなりそうだったので、アンの付き添いで日曜学校へ行くことができなくなった。
「小径を下りていってリンドさんの家に寄ってから行くんだよ、アン」マリラが言った。「適当なクラスに入れてもらえるだろうから。それと、行儀正しくするように気をつけるんだよ。その後の説教まで残ってから、リンドさんに聞けばうちの席を教えてもらえるよ。これ、募金用に1セント渡しとくからね。他の人をじろじろ見たり、そわそわ落ち着かないなんてのはよしとくれよ。帰ってから聖書のどこからお祈りしたか話せるようにしておくんだよ」
アンは言われたとおり出かけた。ごわごわした黒と白のサテンを着込んでおり、丈に関しては見苦しくなく、確かにきつきつで短すぎというわけではなかったが、どうしても痩せている体つきが強調されて見えるのだった。かぶっている帽子はサイズが小さくぺちゃんこで、てかてか光った新品のセイラー帽だったが、これがまたどうしようもなくありきたりで、リボンと花飾りを秘かに期待していたアンは、服と同様にがっかりしてしまった。しかし、花飾りについてはアンが主街道に至るまでに飾られることとなった。小径を半ば過ぎた所に風に揺れて黄金色に咲き乱れていたキンポウゲと、今が盛りと咲いていた野ばらに行き会うと、アンは躊躇なくかつ気前よく、キンポウゲと野ばらを詰め込んだ花輪で帽子を飾ったからである。他の誰がどう思おうと、アンにとっては満足できる出来栄えだったようで、機嫌よく軽い足取りで道を下って行った。真っ赤な髪にはピンクと黄色の飾りを付けて、意気揚々と。
リンド夫人宅に着いたころには、夫人はすでに出かけていた。それでもひるむことなく、アンは一人で教会に向かって前へ前へと前進して行った。教会の入り口には、女の子達が一塊になっていた。程度の差はあれ、みんな白や青やピンクの服で華やかに着飾っていた。そして、自分たちの中に入り込んだ、この奇妙キテレツな髪飾りをつけた
ミス・ロジャーソンは中年の婦人で、日曜学校のクラスを20年間教えていた。その教え方ときたら、まず季刊誌に印刷された質問をして、質問に答えさせようと思った娘を、季刊誌の端から目をのぞかせて容赦なく追いつめる、というものだった。ミス・ロジャーソンは何度も何度もアンを見つめ、その度にアンは、マリラによる事前の教練に感謝しつつ、てきぱきと解答していった。ただし、アンが質問や答えの中身を十分解っていたかどうかは、多分に疑問の余地があった。
アンにはミス・ロジャーソンをあまり好きになれそうになかったし、それにとても惨めな気分を味わっていた。自分以外のクラスの生徒は、みなパフ・スリーブだったのだ。あたしの人生は生きるに値しないわ、だってパフ・スリーブじゃないんだもの、アンはそう感じるのだった。
「それで、どう、日曜学校は気に入ったかい?」アンが帰って来るとマリラは聞きたがった。アンの花輪はすでにしおれ、小径の途中に投げ捨てられていた。そのためマリラは、花輪の件に関してとりあえずは知らずに済んでいた。
「ちっとも気に入らなかったわ。嫌な所」
「アン・シャーリー!」マリラがそうたしなめた。
アンは大きなため息と共に揺り椅子へ座り込んで、ボニーの葉っぱの1枚にキスして、花盛りのフクシアの方に手を振った。
「あたしが出かけてる間、寂しかったんじゃないかなと思って」そう言い訳した。「で、その日曜学校のことだけど。行儀良くしたわよ、言われたとおり。リンドさんはもう出かけてたんだけど、一人でちゃんと行けたわ。教会の中に入る時は、周りの女の子達について行ったの。窓のそばの席の端っこに座って、冒頭礼拝が終わるまでそこにいたわ。ベルさんのお祈りがすごく長くて。もし窓際の席に座ってなかったら、たぶんお祈りが終わる前に飽き飽きしてたかもね。輝く水面の湖が目の前だったから湖の方ばかり見てたのよ、素晴らしい想像が次々と溢れてきたわ」
「そんなことしてちゃだめだよ。ベルさんのお祈りをちゃんと聞かなくては」
「でもあたしに向かって話してたんじゃないもの」アンが反論した。「神様に祈ってたのよ、だけどどっちにしてもあんまり熱心じゃなかったわ。神様があんまり遠くて、努力してもしょうがないって思ってたんじゃないかな。でも、あたしは自分用にお祈りしたわよ。白樺が湖沿いにずっと続いていて、枝のアーチが湖に延びてたわ。アーチ越しに陽の光が注いでいたの、深く深く、水面の底へ消えていくのよ。ああ、マリラ、美しい夢みたいだったわ! あんまりゾクゾクしたから『ありがとう、神様、素敵な光景です』って言ったのよ。2、3回言ったかな」
「大きな声じゃなかったろうね」マリラが心配した。
「ううん、ちっちゃい声でよ。それで、ようやくベルさんのお祈りが終わって、ミス・ロジャーソンの教室に行きなさいって言われたの。女の子9人か10人くらいのクラスで、みんなパフ・スリーブだったわ。あたしのもパフ・スリーブだと想像してみたんだけど、できなかったのよ。どうしてかな? パフ・スリーブだって想像するのは、誰もいない東の切妻だと簡単なのに、周りがまったく本当にパフ・スリーブだとすごく難しかったのよ」
「袖がどうとか考えてちゃだめだよ、日曜学校なんだから。授業に身を入れなくちゃ。分かってるだろうに」
「そりゃあ、分かってるわよ。だからたくさん質問に答えたのよ。ミス・ロジャーソンが何度も何度も質問するんだもの。先生ばっかり質問するんじゃずるいわよ。あたしにも聞きたいことがたくさんあったのよ。でも質問しようと思わなかったわ、先生はあたしと同じ波長じゃないみたいだったし。それから、クラスの他の女の子はみんな聖書の賛美歌の宿題を暗誦したの。先生はあたしも何か知ってるか聞いたから、賛美歌は何も知らないけど、でも、『飼い主の墓に控える犬』だったら暗誦しましょうかって言ったの。これ、ロイヤル・リーダーの3巻にある詩で、まったく本当に宗教的な作品とは言えないけど、とても悲しくてメランコリックだから親戚みたいなものね。でもそれじゃだめで、来週の暗誦では19番の賛美歌を覚えて来るようにって先生に言われたの。そのあと礼拝中に読んでみたけど、素晴らしかったわ。特にゾクゾクしたのがこの2行ね」
『かのミディアンの災いの日に 殺戮されたスクワドロンが瞬く間に倒れるが如く』
「『スクワドロン』も『ミディアン』も何のことだか知らないけど、ものすごく悲劇的に聞こえるのよ。来週の暗誦まで待てそうもないな。今週はずっと練習するつもり。日曜学校の後でミス・ロジャーソンに聞いて――リンドさんがずっと離れたところに座ってたからなんだけど――あたしの席はどこか教えてもらったの。できるだけじっと座ってたのよ。説教の題目はヨハネの黙示録第3章の2節と3節だったわ。もう長くて長くて。もしあたしが牧師だったら、短くてビシッと決まるのを選ぶんだけど。説教もすっごく長かったわ。たぶん、題目が長いから説教も長くしなきゃいけなくなったのよ。牧師さんってちっとも面白くない人なんだと思ったわ。問題は牧師さんに大して想像力がないってことね。だからあんまりよく聞いてなかったわ。かわりに好きに考えてたら、自分でもびっくりするようなとこまで考えが行っちゃったの」
こういう事は全部いけない事だと断固として叱るべきだと、マリラは感じないわけにはいかなかった。だが一方、アンが言った事のうちいくつかは否定できない事実であり、結局叱れずじまいになってしまった。特に牧師の説教とベル氏の祈りについては、口には出さないが長年心の底で思わないではないことだった。マリラには、これまで秘密にして語ったことのない批判の思いが、にわかに暴かれ責められたかのように感じた。社会から無視され取るに足らぬと思われた、この何の遠慮もなく話す人物の姿と形を取って。
12章 厳粛な誓約と約束
次の金曜日になって、ようやくマリラは花飾りの帽子の件を聞かされた。リンド夫人宅から帰るなり、アンを呼んでいきさつを問いただした。
「アン、レイチェルさんが言ってたけど、あんたこの間の日曜に、バラとキンポウゲで帽子をゴテゴテ馬鹿みたいに飾って教会へ行ったんだってね。何でまたそんなふざけた事をしでかしたんだい? あんたの格好は大した見物だったろうね!」
「ああ、あのこと。ピンクと黄色が似合わないのは分かってたんだけど」アンが言い訳しだした。
「似合わないだって、馬鹿馬鹿しい! あんたの帽子が花だらけだったって言ってるの、色がどうこうじゃなく、そういう事が馬鹿みたいないんだよ。あんたって子は本当に腹が立つね!」
「どうして帽子に花を飾ると馬鹿みたいなんだか分かんないわ、服には飾るじゃない」アンが反抗した。「ピンで服に花飾りを留めてた子はたくさんいたわよ。どう違うのよ?」
マリラは安全な各論を離れて、足元のおぼつかない一般論に引きずり込まれるつもりはなかった。
「いいから口答えするんじゃないの、アン。あんたは考えなしなんだよ、こんなことして。こんなおふざけで二度と小言を言わせないでおくれ。レイチェルさんは、あんたがゴテゴテ飾った酷い格好で入って来たときは穴があったら入りたいくらいだったって言ってたよ。席が遠すぎて花輪を取るように言えなかったから、万事窮すだったってさ。周りでみんなザワザワと噂してたんだそうだよ。きっとみんなは、あたしの躾けが悪いから、あんたがそういう格好で来たと思っただろうね」
「うう、ご免なさい」とアン、涙が込み上げて目がうるんでいる。「気にするような事だと思わなかったの。バラもキンポウゲもとても素敵で奇麗だったから、帽子に飾ると可愛いかなって。大勢の子が帽子に造花の飾りをつけてたのよ。あたしきっと、マリラに課せられた恐ろしい試練になってしまうんだわ。たぶんあたしを孤児院に送り返す方がいいのよ。でもそんなのきっと恐ろしく辛いわよ。耐えられそうにない。そして結核になってしまうのよ。今だって痩せてるのに。それでも、マリラの試練になるよりずっとましよ」
「何をくだらない事を」とマリラ。この子を泣かせてしまって、すっかりうんざりしていた。「あんたを孤児院に送り返すつもりはないよ、嘘じゃないから。あたしがあんたに言いたかったのはね、他の女の子みたいにして、馬鹿なことをするなってことだよ。ほらもう泣くんじゃないよ。いい知らせがあるんだから。ダイアナ・バリーが今朝戻って来たんだよ。これからバリーさんとこからスカートの型を借りに行くんだけど、何ならついてきてもいいし、そうしたらダイアナと顔を合わせられるよ」
それを聞くとアンは立ち上がった。両手をぎゅっと組み合わせ、涙がまだ頬に光っていた。縁を縫いかけていた皿布巾が、見捨てられてハラリと床に落ちた。
「ああ、マリラ、あたし怖い――ついにこの時が来たのよ、本当に怖いわ。もしあたしを好きになれないなんてことになったら! そんなことになったら、あたしの望みは夢と消え、人生最大の悲劇になってしまうわ」
「ほら、あわてるんじゃないよ。それから、そんな長々しい言葉を使って欲しくないね。すごく変に聞こえるんだよ、小さい子向けじゃないね。ダイアナはあんたを結構気に入るんじゃないかい。問題はあの子の母親でね、気をつけた方がいいよ。母親があんたを気に入らなけりゃ、ダイアナの方がいくら気に入っても無駄だからね。あんたがリンドさんに食ってかかったとか、キンポウゲで帽子を飾って教会に行ったとか、もし話が伝わってたら、あんたがどんな子と思うか分かったもんじゃないからね。丁寧で良い子にすること、それからいつものびっくり仰天するような言い回しをしないことだよ。なんだい、この子ったら本当に震えてるじゃないか!」
アンはまさに震えていた。顔色は真っ青で緊張していた。
「ああ、マリラ、きっとマリラだって緊張するわよ、これから心の友になれたらいいなって思ってた女の子に会うのに、その子のお母さんが自分を嫌いになるかもしれないんだから」そう言うと、帽子を取りに駆け出した。
二人は果樹園坂まで歩いて行った。途中、小川を渡って、モミの生えた丘の木立の近道を通ることにした。バリー夫人は、マリラのノックに答えて、台所の勝手口で出迎えた。夫人は背が高く、黒い瞳で黒い髪の女で、口元がことさらにきりっとしていた。子供達をとても厳しく躾けるともっぱらの評判だった。
「いらっしゃい、お元気でした、マリラ?」と夫人が丁寧に挨拶した。「中にどうぞ。この子が例のお宅で引き取ったっていう女の子かしら?」
「ええ、この子がアン・シャーリーです」とマリラ。
「E をつけて綴るんです」アンが慌てて付け加えた。緊張して震えてはいたが、この重要事については、何としても間違いがあってはならないと気をつけていたのだった。
バリー夫人は聞こえなかったのか、あるいは何を言っているのか分からなかったのか、単に握手を交わし優しくこう言っただけだった。
「ご機嫌いかが?」
「おかげさまで体の方は元気ですけど、心はかなり動揺してます。お気遣いありがとう、奥様」アンが大真面目にいった。それからマリラの方を向くと、大きなひそひそ声で言った「ねえ、どこもびっくりしなかったでしょう、マリラ?」
ダイアナはソファーに座って本を読んでいたが、客が入ってくると読書を中断した。ダイアナはとても可愛い女の子で、母親譲りの黒い瞳と黒い髪だった。バラ色の頬と陽気な表情は父親から受け継いだものだった。
「これがうちの娘のダイアナですわ」とバリー夫人。「ダイアナ、アンを庭に連れて行って、あなたの植えた花を見せてあげたらどう。あんな本で目を悪くするよりずっとましよ。この子は本ばかり読みすぎるんですよ――」これは、女の子二人が出ていくと、マリラに言った言葉である。「どうしても止めさせられないんですよ、父親が何かとけしかけるものですから。いつも夢中になって本を読んでますの。あの子に遊び友達ができそうで嬉しいですわ――そうすればたぶん、自然と外で過ごすことになりますから」
外の庭は、柔らかな夕陽の光がで満ちあふれていた。その光は古いモミの陰影を抜けて庭の西側を照らしていた。アンとダイアナは立ったまま、目の覚めるようなオニユリの茂みをはさんで、互いに恥ずかしそうに見つめあっていた。
バリー家の庭は、緑陰に富んだ花が咲くに任せた庭で、もし運命に悩む必要がない時ならば、アンも喜んで楽しんだことだろう。年月を経た大きな柳と高くそびえたモミの木に囲まれ、その下には木陰を好む花々が花開いていた。直角に交差する手入れが行き届いた小径は、貝殻で奇麗に飾られており、庭に縦横に掛けた瑞々しい赤いリボンのようで、小径に挟まれた花壇には、昔ながらの花々が咲き乱れていた。バラ色のケマンソウと鮮烈な深紅の大輪のボタン、真っ白な
「ねえ、ダイアナ」やっとの思いでアンが切り出した。両手をギュッと組み合わせて、囁き声かと思うような小さな声だった。「ねえ、あたしを少しは好きになれそうかな――あたしの心の友になれそう?」
ダイアナがクスッと笑った。ダイアナは口を開く前に笑う癖があるのだった。
「そうね、そうなれると思うわ」正直な答えが返ってきた。「あなたがグリーン・ゲイブルズにいることになってすごく嬉しいのよ。ようやく遊び友達ができるんだもの、楽しくなるわね。近くには女の子が誰もいないから遊べなかったのよ、それに妹は小さすぎるし」
「ずっと永遠にあたしの友達になるって誓って (swear) くれる?」勢いづいたアンが頼み込んだ。
ダイアナはギョッとしたようだった。
「えっ、悪口を言う (swear) なんて、とってもいけないことだわ」そう咎めた。
「そうじゃないの、あたしの言った誓うは違う意味なの。2つ意味があるのよ」
「あたしは1つしか聞いたことないわ」ダイアナは疑わしそうだ。
「本当にもう一つ意味があるのよ。ね、全然いけないことじゃないの。ただおごそかに誓約と約束をするのよ」
「なら、大丈夫ね」安心したダイアナが同意した。「どんな風にするの?」
「両手をつなぐのよ――そう」重々しくアンが言った。「流れる水の上でなくちゃいけないのよ。この小径が流れる水と想像すればいいわ。あたしから宣誓を復誦するわね。我ここにおごそかに誓うものなり、太陽と月の続く限り、我が心の友、ダイアナ・バリーに忠実であらんことを。さあ、あたしの名前を入れてあなたが言うのよ」
ダイアナが「宣誓」の前後にクスクスしながら復誦を終えた。それからこう言った。
「あなたって変わった子ね、アン。変わってるって聞かされてたのよ。でも、あなたのこと好きになれると思うわ」
マリラとアンが家に帰る途中、丸木橋までダイアナが連れ添った。二人の少女は腕を互いに背中にまわして仲良く歩いていった。別れ際に小川の上で、明日の午後は一緒に遊ぼうと、たくさんの約束を交わすのだった。
「それで、ダイアナは同じ波長の子だったかい?」グリーン・ゲイブルズの庭を抜けて家の方に上って行きながらマリラが聞いた。
「うん、そうだった」至福のため息をつきながらアンが言った。マリラの皮肉には少しも気がついていない。「ねえ、マリラ、あたしプリンス・エドワード島一番の幸せ者だわ、今、本当に幸せ。今夜はちゃんと自分からお祈りできるって自信を持って言えるもの。ダイアナとあたしは明日、ウィリアム・ベルさんの樺の林に遊び用に家を建てるの。外の薪置き場の割れた陶器をもらっていい? ダイアナの誕生日は2月で、あたしは3月なの。とても不思議な巡り合わせだと思わない? ダイアナは本を貸してくれるのよ。ものすごく華麗で、体が震えるほどドキドキするんだって。それから、森の奥のライス・リリーが咲いてるところを教えてくれるんだって。ダイアナの目って情熱的よね? あたしの目も情熱的だったらなあ。ダイアナは『はしばみ谷に眠るネリー』っていう歌を教えてくれるの。あたしの部屋に飾る絵もくれるのよ。ものすごく美しい絵だって言ってたわ――淡い青のシルクのドレスを着た素敵な女の人の絵よ。ミシン会社の人がくれたんだって。あたしも何かダイアナにあげられたらいいのに。あたしはダイアナより1インチ背が高いんだけど、ダイアナの方がずっとふっくらしてるの。おしとやかに見えるから痩せたいって言ってたけど、気をつかってくれたんじゃないかな。あたし達、そのうち海辺に行って貝殻を集めに行くのよ。丸木橋の下手の泉はドライアドのお喋り泉って呼ぶことにしたの。ものすごく上品な名前じゃない? 前に何かの物語で、そういう名前の泉がでてきたのよ。ドライアドって大人の
「やれやれ、あんたのお喋りで、ダイアナが死ぬほど参らなきゃいいけど」とマリラ。「ところで、計画を立てるのもいいけど、これは忘れないでおくれ、アン。あんたは年がら年中遊んでばっかりとか、遊び時間が大半というわけにはいかないんだよ。あんたには仕事があるんだし、まず最初にそれを片づけるんだからね」
アンの喜びの杯はすでにいっぱいだったが、それをマシューが溢れさせることになった。カーモディーの店に買い物に行って、ちょうど今帰ったところで、マシューはおずおずとポケットから小さな包みを取り出して、言い訳がましくマリラの方を見ながらアンに手渡した。
「チョコレート・キャンディーが好きだと聞いたもんだから、少し買ってきたんだよ」と言った。
「フン」マリラが鼻であしらった。「歯も胃も悪くなるだけなのに。わかった、わかった、この子はもう。そんなに情けない顔するんじゃないよ。それは食べてもいいんだよ、マシューがわざわざ買ってきたんだからね。どうせ買うならペパーミントにすれば良かったのに。その方がずっと体に良いよ。一気に全部食べて気分が悪くなったりしないどくれ」
「そんなことしない、そんなつもり全然ないわ」アンが張り切って言った。「今夜はひとつだけよ、マリラ。ダイアナに半分あげるの、いいでしょ? ダイアナと分けたら、残りの半分は二倍美味しくなるわ。ダイアナにあげられるものができてほんとに良かった」
「確かに、あの子はケチじゃないのは分かったわ」アンが自分の部屋に戻るとマリラが言った。「その点は良かったわ、何が嫌だって、ケチな子供が一番嫌だからね。しかしまあ、あの子が来てからまだたったの3週間しか経ってないんだからね。ずっとここにいたような気がするね。あの子がいない家なんか想像できないよ。だけどね、だから言っただろうなんて顔はしないでちょうだいよ、マシュー。女でも嫌なのに、男にそんな顔されたら我慢できないわ。正直言わせてもらうと、あの子を引き取ると決めて良かったし、あの子がだんだん好きになってきてるのよ。でもだからって、そのことをくどくど言わないでよ、マシュー・カスバート」
13章 期待で胸がはちきれそう
「もうアンが縫い物を始めなくちゃいけない時間だよ」とマリラ。ちらっと時計を見て窓の外に目をやった。黄色く染まった8月の午後、何もかもが暑い日差しの中でまどろんでいた。「まだダイアナと遊んでるんだね、あたしが遊んでもいいと言った時間より、半時間以上もゆっくりしてるよ。帰って来るなり、薪の山に座って今度はマシューとお喋りかい。のべつ幕なしだね。縫い物しなきゃいけないのはちゃんと分かってるはずなのに。マシューはマシューで嬉しそうに聞いてるし、まったく馬鹿みたいだね。あんなたわいなく夢中になる男は他に見たことがないよ。お喋りが長くて、突飛な事を言えば言うほど、嬉しくてしょうがないときてる。アン・シャーリー、今すぐこっちに戻って来るんだよ、聞こえてるだろ!」
イライラと何度か西の窓を叩くのが聞こえたアンが、庭から飛び込んできた。目はキラキラと輝き、頬はかすかなバラ色に上気して、編まれていない髪が光輝く奔流となって背中でなびいていた。
「ねえ、マリラ」息せき切りながら、大声で告げた。「来週、日曜学校のピクニックがあるのよ――場所はハーモン・アンドリューズさんの原っぱ、輝く水面の湖のすぐそばなの。それから、教会監督のベルさんの奥さんとリンドさんが、アイスクリームを作るのよ――考えてもみてよ、マリラ――アイスクリームよ! あ、そうだ、マリラ、あたし行ってもいいでしょう?」
「ちょっと時計を見てもらえるかい、アン。あたしは何時に戻るように言ったっけ?」
「2時よ――でもピクニックだなんて素晴らしいじゃない、マリラ? お願い、行ってもいいでしょ? ああ、あたしピクニックなんて行ったことないのよ――夢では何度もピクニックに行ったけど、でも今までは一度も――」
「そのとおり、あたしは2時に戻るように言ったんだよ。で、今は3時15分前。どうしてあたしの言うとおりできなかったのか教えて欲しいもんだね、アン」
「そうなの、あたし戻るつもりだったの、マリラ、できるだけ努力したのよ。でも
「あんたには、その、空の何とかの魅力に耐えることを勉強してもらおうかね。あたしがこれこれの時間に戻って来るよう言う時は、時間どおりってことで、半時間も後ってことじゃないんだよ。それから、途中で気持ちを察してくれる聞き上手と、話し込む必要もないからね。ピクニックの件は、もちろん行ってもいいよ。あんたは日曜学校の生徒なんだし、他の子達も行くからには、あんただけ行かせないなんてことはしないよ」
「でも――でも」アンが言いよどんだ。「ダイアナが言ってたんだけど、みんなバスケットいっぱいにおやつを持ってこなきゃいけないんだって。あたし料理できないのよね、マリラ、それから――それから――ピクニックにパフ・スリーブで行けなくてもそんなには気にならないけど、もしバスケットを持っていかなかったら、きっと大恥かくと思うの。ダイアナが教えてくれてから、ずっと気に病んでいたのよ」
「ああ、それならもう気に病む必要はないよ。バスケットに詰めるおやつは何か焼いてあげるから」
「うわぁい、マリラって優しい。ああ、すっごく親切だわ。もう、感謝感激」
『うわぁい』や『ああ』の合間に、アンはマリラに抱きつき、血色の悪い頬に有頂天になってキスした。自分の頬に、子供が自分から進んで無邪気なキスをするのは、マリラにとって生まれて初めての出来事だった。またしても、あの突発的な激情が、甘い渦となってマリラの全身を襲った。マリラは、心のどこかでアンの衝動的なスキンシップを大いに喜んでいる自分を感じ、それゆえにことさら無愛想を装って言った。 「ほらほら、馬鹿馬鹿しいキスなんかどうでもいいから。はやいとこ、あたしに言われたとおりにできるようになってもらいたいもんだね。料理のことは、近々暇を見つけて教えるつもりだったんだよ。だけど、あんたはそそっかしいからね、アン。まだ時期を見計らっているとこなんだよ。料理を習う前に、もう少し落ち着いて集中するってことを覚えてもらわなくちゃ。料理が始まったらちゃんと気を配ってなきゃならないし、作業の途中で手を休めて、ぼんやり考えに浸っているわけにはいかないからね。さて、パッチワークを持ってきて、お茶の時間までひとはぎやっておくんだよ」
「パッチワークは好きじゃない」アンは
「アン、あんたがお喋りしてる間に時計の針が10分も回ったよ」とマリラ。「さてと、ちょっと興味があるんだけどね、あんたが同じ時間口を閉じていられるか、見せてごらん」
アンは望みどおり口を閉じた。しかし、その週ずっとピクニックの事ばかり喋り続け、ピクニックの事ばかり考え、夢見たのもピクニックのことばかりだった。土曜日は雨になった。もしかすると翌週の水曜日まで降り続けるのではないかと、心配が高じてアンがあまりに落ち着かなかったので、気持ちを落ち着かせるために、マリラはアンにパッチワークをもう一枚余計に縫わせることにした。
日曜日に教会の帰り道でアンがマリラにそっと打ち明けたところによると、牧師が説教壇からピクニックの予定を発表したら、興奮で体中の血の気が引いた、とのことだった。
「もう体中、ゾクゾクが走って鳥肌がたったわ、マリラ! あたし、その時まで本当にピクニックがあるなんて信じられなかったのよ。自分の想像でしかないんじゃないかって心配でしょうがなかったんだもの。でも牧師さんが説教壇で言ったことなんだから、信じるしかないわよね」
「あんたは何にでものめり込みすぎるんだよ、アン」とマリラ。思わずため息をついた。「そんなことじゃ、生きていく間に、それこそ何度もがっかりすることになるよ」
「そんな、マリラ、何かを待ち焦がれるのも楽しみのうちなのよ」アンは大いに主張した。「その何かは、手に入らないこともあるかもしれないけど、もうすぐ楽しい何かが起こるんだって待つことは、必ずできることだもの。リンドさんは『期待せざる者は幸いなり、失望せざればなり』って言うけど、何も期待しないのはがっかりするより酷いわよ」
マリラはその日もいつもどおり、教会に紫水晶のブローチをつけて行った。マリラは教会に出かけるときは必ず紫水晶のブローチを付けることにしていた。そのブローチを付けずにいくのは、聖書や寄付の10セント硬貨を忘れるのと同じで、罰当たりなことだと考えていた。その紫水晶のブローチは、マリラが一番大事にしていた宝物だった。船乗りだった伯父がマリラの母におくったもので、それを形見としてマリラが受け継いだのだった。古めかしい長円形のブローチで、母の髪が一房編み込まれ、周りを非常に見事な紫水晶が囲んでいた。その宝石が実際どれほど価値があるか、マリラはほとんど何の知識も持ちあわせていなかった。しかし、とても美しい宝石だと思っていたし、自分からは見えないにもかかわらず、茶色のサテンのドレスの喉元に、いつも紫に輝いている宝石を快く感じてもいた。
アンは一目でその宝石に魅惑され、目を丸くしながら喜んでいた。
「わあ、マリラ、すごく上品なブローチね。こんなのをつけてるのに、よくお説教とかお祈りに身が入るわね。あたしなら無理だわ。紫水晶ってほんと奇麗だわ。ダイアモンドってこんな風かなって考えてたのにそっくりなのよ。昔、まだダイアモンドを見たことがなかった頃、本で読んでから、どんな宝石なのか想像してみたことがあるの。きっと、素敵な宝石で紫に輝いてるんだろうなって思ったわ。ある日、女の人がしてた本物のダイアモンドの指輪を見て、がっかりして泣いちゃった。もちろん、それはそれでとっても素敵なんだけど、あたしが考えてたダイアモンドと違ってたんだもの。ちょっとだけ、そのブローチ見せてもらえる、マリラ? 紫水晶って、幸せなスミレの魂みたいだと思わない?」
14章 アン、罪を告白する
待ちに待ったピクニックの週の月曜日の夕方、マリラが自室から困った顔で下りてきた。
「アン」台所にいる小柄な人物に声をかけた。只今、エンドウマメの皮むきの真っ最中のその人は、染みひとつないテーブルのそばで、「はしばみ谷のネリー」を元気に歌っていた。歌の出来は、ダイアナの教え方が良かったため、なかなかのものだった。「あたしの紫水晶のブローチをどこかで見かけなかったかい? 昨日の夕方に教会から帰って、針刺しに刺したと思ったんだけど、どこにも見当たらないんだよ」
「あの――あたし見たわ、夕方、マリラが教会援助会に出かけてる時」とアン、ちょっと言いにくそうである。「マリラの部屋の前を通りかかったら、針刺しの上に置いてあるのが見えたの、それでよく見てみようと思って中に入ったの」
「あんた触ったのかい?」マリラが厳しく言った。
「え、うん」アンは白状した。「そこから外して胸に留めて見たのよ、どんな風に見えるかなあと思って」
「そんな事する筋合いじゃないだろ。女の子は、人の物をいじったりするもんじゃないよ、大体、あたしの部屋に黙って入っちゃ駄目だし、それから、あんたの物じゃないんだから、ブローチを触ったりしちゃ駄目だよ。どこに置いたんだい?」
「どこって、
「あんたは元に戻してないよ」マリラが言った。「あのブローチは箪笥の上のどこにもないよ。外に持ち出すか何かしたんだろ、アン」
「確かに戻したわ」アンがせっかちに言った――生意気に口ごたえした、マリラにはそう思えた。「針刺しに刺したか瀬戸物の整理皿の上に置いたかは覚えてない。でもきっちり元に戻したのは確かよ」
「もう一回見てくるよ」とマリラ。なんとか公平であろうとつとめている。「もしあのブローチを戻したっていうなら、まだそこにあるはずだからね。もしなかったら戻さなかったってことだよ、分かってるね!」
マリラは自室に戻って、もう一度徹底的に探し始めた、箪笥の上だけでなく、他にもブローチがありそうな場所は全て探した。やはり何も見つからず、マリラは台所へ戻った。
「アン、ブローチは見つからなかったよ。あんたも認めたように、最後にあれを触ったのはあんたなんだよ。さあ、ブローチをどうしたんだい? すぐに本当のことを言いなさい。外に持って行ってなくしたの?」
「違うわ、あたし持っていってない」とアンは落着いて言った。怒ったマリラの目を真っ向から見据えている。「絶対ブローチを部屋から持ち出したりしてない、間違いないわ、たとえそのせいで台木[#訳者注:block/断頭台のこと]に引き立てられるとしてもね――台木って何のことだかよく分かんないけど。とにかくそういうことよ、マリラ」
アンの「そういうこと」は単に自分の言葉を強調する意味しかなかったが、マリラは対決の姿勢と受け取った。
「あんたが嘘をついてるとしか思えないね、アン」マリラは刺々しく言った。「嘘をついてるのは分かってるんだよ。もういいよ、本当のことを話すつもりになるまで、これ以上何も言うんじゃないよ。部屋に行って、白状するまで出るんじゃないよ」
「エンドウマメも持って行くの?」アンがおとなしく言った。
「いや、皮むきはあたしがするわ。言われたとおりに行きなさい」
アンが行ってしまうと、マリラは夕方の支度に取りかかったが、頭の中はそれどころではなかった。自分の大事なブローチが気掛かりでしょうがなかった。もしアンがなくしていたら? それに、なんてあの子は悪い子なんだろう、自分は持って行ってないだって? 誰が見てもあの子が取ったのは分かりきってるじゃないか! 白々しい顔して!
「どうしたらいいんだろう、嫌な事が起こったもんだ」苛々と豆をむきながら、マリラは考えていた。「そりゃあ、あの子がはじめから盗むつもりだったなんて思ってはいないよ。遊びに使うので持ちだしたか、あの子のいつもの想像に役立てようとしたんだろう。あの子が取ったに違いない、それははっきりしてるよ、あの子が自分で言ったことからすると、あの部屋に入ったのはアンが最後で 今夜あたしが部屋に上がるまでは誰も入ってないんだから。あのブローチはなくなってるんだし、これ以上確かなことはないからね。たぶんなくしてしまって、罰を受けるのが怖いんだ。まったく恐ろしい事だね、あの子が嘘をつくなんて。あの子の癇癪より、ずっと酷い事だよ。信用できない子を自分の家に置かなきゃいけないなんて、とんでもない責任じゃないか。狡くて嘘つき――これがあの子の性格だったんだ。ブローチのことより、この性格の方がずっと問題だよ。本当の事を話していたら、こんなに気にならなかったんだろうけど」
マリラは何度か自室に足を運び、その晩ブローチを探し続けたが、結局見つからなかった。寝る前に東の切妻を訪れたが、何の成果も得られなかった。アンはブローチのことは何もしらないと否定し続けたが、マリラはアンが取ったと確信を深めるばかりだった。
翌朝になってマリラはマシューに事の次第を話した。マシューは困ってしまい、悩みを抱えることとなった。マシューはアンに対する信頼をそう簡単に失わなかったが、それでも現在の状況がアンにとって不利なことは認ざるをえなかった。
「箪笥の後ろに落ちてないか確かめたかい?」マシューにはこう提案するのが精一杯だった。
「箪笥も動かしたし、引き出しも全部出して見たし、全部くまなく探したわよ」マリラからは、確信を持った答えが返された。「あのブローチは見つからなかったわ、あの子が取ったのに嘘をついてるのよ。これが誤魔化しのない、醜い事実なの、マシュー・カスバート。あたし達はこの現実を直視しなくてはね」
「うむ、そうだな、おまえはどうするつもりだね?」救いを得られなかったマシューが聞いた。自分ではなく、マリラがこの状況に立ち向かうことを秘かに喜んでいた。今回は、口出しするつもりはまったくなかった。
「白状する気になるまで、部屋に閉じこめておくわ」そう厳しく言った。マリラは前回の件は、この方法で上首尾だったことを思い出していた。「そしたら何か分かるでしょうよ。もしあの子がどこに持って行ったか話しさえすれば、たぶんブローチは見つかるでしょう。けど、いずれにしてもあの子は厳しく罰しないといけないわ、マシュー」
「うむ、そうだな、おまえはあの子を罰しないといかんな」マシューが帽子を手に取りながら言った。「わしはかかわらんからな、覚えてるだろう。おまえは口出しするなと自分で言ったんだからな」
マリラはみんなに見捨てられたように感じた。リンド夫人に相談にも行けなかった。東の切妻に非常に深刻な顔で上がっては、さらに深刻な顔で部屋を後にするのだった。アンは断固として白状することを拒んでいた。あのブローチを取っていないと、繰り返し主張していた。この子はずっと泣いていた様子が明らかで、マリラは同情を禁じえなかったが、心を鬼にしてこらえるのだった。夜になるまでには、マリラの言うところの「へとへと」になっていた。
「あんたが白状するまで、この部屋を出さないからね、アン。もう観念して諦めるんだね」不動の決意で言った。
「でもピクニックは明日なのよ、マリラ」アンが泣き声をあげた。「ピクニックに行かせない、なんて言わないわよね? 午後だけでいいから、外に出してくれるんでしょう? そしたらマリラの好きなだけここにいるから、ピクニックの後ならいくらでも元気でいるから。でも今回のピクニックにはどうしても行かなくちゃ」
「白状するまでは、ピクニックだろうがどこだろうが行かせないからね、アン」
「そんな、マリラ」アンの息が止まった。
それに構わず、マリラはドアを閉めて出て行った。
水曜日の朝は、ピクニックのために設えたような快晴だった。小鳥達がグリーン・ゲイブルズの周りでさえずっていた。庭のマドンナ・リリーの香りが、見えざる風にのってあらゆる戸と窓を抜けて入り込み、玄関ホールもどの部屋も、そぞろ歩く祝福の聖霊のように広がっていった。窪地の樺の木が楽しげに枝を揺らし、いつものようにアンが東の切妻から朝の挨拶をするのを待ち受けているかのようだった。しかし、アンは窓辺に顔を見せなかった。マリラが朝食を持って上がってみると、その子は自分のベッドに几帳面に座っていた。青い白い顔でそれでもしっかとした心持ちで、唇はしっかり結ばれ、双眸がキラキラと光を放っていた。
「マリラ、あたし、告白する覚悟を決めました」
「ああ、ようやく!」マリラはお盆を置いた。またしてもマリラのやり方は上手くいった。だがしかし、その成功の味はマリラにとって、とても苦いものだった。「聞かせてもらおうかね、あんたは何を言うつもりだい、アン」
「あたしが紫水晶のブローチを取りました」アンが言った。覚えたことをただ繰り返しているみたいだった。「マリラが言ったとおり、あたしが持ちだしました。部屋に入った時は持ちだすつもりはなかったんです。でも、すごく美しかったの、マリラ、自分の胸に付けてみたら、どうしようもない誘惑に駆られたんです。空の荒野に持って行って、レディー・コーデリア・フィッツジェラルドになって遊べたら、きっとゾクゾクの極みなんだろう、そう想像しました。もし本当の紫水晶を付けてれば、レディー・コーデリアだって想像するのは、ずっと簡単だろうなって。ダイアナと二人で野ばらの実のネックレスを作ったんだけど、野ばらの実じゃ紫水晶と比べ物にならないでしょう? それでブローチを持ちだしました。マリラが戻る前に戻しておけるだろうと考えました。ブローチを付けてる時間が少しでも長くなるように、あちこち寄り道しました。輝く水面の湖の橋を渡る時、もう一度よく見ようとしてブローチを外したんです。ああ、陽の光の中で、ブローチは眩しく輝いていたわ! そうして、橋に寄りかかったその時、ブローチは手からこぼれ――そう――下へと落ちて――落ちて――落ちて、ずっと紫にきらめきながら、沈んでいったんです、永遠に、輝く水面の湖の水底へと。これが、あたしにできる精一杯の告白です、マリラ」
マリラは目も眩むような怒りが、また込み上げるのを感じた。この子は、あたしが大事にしてきた紫水晶を持ちだしてなくした揚げ句、涼しい顔でここに座ったまま、微に入り細に入り顛末を朗誦して見せた上に、微塵も後悔した顔も、悔い改めた振りも見せないなんて。
「アン、こんなの酷すぎるよ」落ち着いて話そうと努めながら言った。「あんたは、今まであたしが聞いた中で一番悪い子だよ」
「そうね、そうだと思う」アンは平然と同意した。「それに罰を受けなきゃならないのも分かってる。あたしを罰する義務があるわ、マリラ。だからお願い、さっさと終わらせてくれない、だってピクニックには何の心残りもなく行きたいんだもの」
「ピクニックだって、とんでもない! 今日はピクニックになんか行かせないよ、アン・シャーリー。それがあんたの受ける罰さ。それだって、あんたのしたことに比べれば、半分にも足りないよ!」
「ピクニックに行けない!」アンはベッドから飛び上がると、マリラの手にしがみついた。「だって、ちゃんと約束したじゃない、行ってもいいって! ねえ、マリラ、あたしどうしてもピクニックに行かなくちゃいけないの。だからあたし告白したのよ。マリラの好きなように罰してもいいわ、でもそれだけはやめて。ねえ、マリラ、お願い、お願い、ピクニックに行かせて。アイスクリームが出るのよ! このピクニックを逃したら、あたしにはもう二度とアイスクリームを味わうチャンスなんか、ないかもしれないじゃない」
無情にも、マリラはしがみつくアンの両手を引き剥がした。
「泣きついても無駄だよ、アン。あんたはピクニックにはやらない、この話はもう終わり。これ以上何も言うんじゃないよ」
アンはマリラが動じる気配がないのを悟った。アンは両手を固く組みあわせると、突き抜けるような金切り声をあげ、頭からベッドに倒れ込んだ。失望と絶望に身も心も任せて、泣き叫び、身もだえするのだった。
「一体何だっていうの!」急いで部屋を出ると、マリラがあえぎあえぎ言った。「あの子はおかしいよ。まともな子ならあんな風に叫んだりしないだろうに。もしおかしくないんなら、どうしようもなく悪い子なんだね。ああ、困った、はじめからレイチェルの言う事が正しかったんだろうか。だけど、一旦手を染めたからには、今更止めるわけにはいかないからね」
その朝は憂鬱なものになった。マリラは猛烈に働き出した。他に何もすることがなくなると、ポーチの床と製乳室の棚をブラシでゴシゴシと磨いた。棚も床も磨く必要はなかった――しかしマリラの方にその必要があった。その仕事も終わってしまうと、今度は庭に熊手をかけた。
昼食が準備できると、階段の下からアンを呼んだ。涙が流れるに任せた顔が現われ、階段の手すり越しに悲劇を演じるかのように覗いた。
「下りておいで、お昼ご飯だよ、アン」
「お昼なんか食べたくない、マリラ」しゃくり上げながらアンが言った。「何も食べられそうにない。あたしの心は粉々に砕け散ったのよ。マリラもいつかきっと、そのことで良心の
腹を立てたマリラは、台所に戻ってマシューにこの話をぶちまけた。マシューは、正義の心とアンに対する理性を越えた同情心に板挟みにされて、惨めな有り様だった。
「うむ、そうだな、ブローチを持ちだしたのはいかんな、マリラ、それと、その作り話の件もそうだな」マシューもそれは認め、皿に盛った
「マシュー・カスバート、あきれて物も言えないわね。これでもあっさり許しすぎたと思ってるのに。大体あの子は、自分がどんなに悪いことをしたか、全然身にしみて感じてないのよ――一番心配してるのはこの事なのよ。もし本当に悪かったと思ってるのなら、まだ救いようがあるの。兄さんもそれがまったく分かってないみたいだわ。いつだって、本当はあの子は悪くないって思ってるんでしょ――分かってるのよ」
「うむ、そうだな、あの子はまだ小さいんだし」マシューは力なく繰り返した。「だから手加減しなくちゃいかんよ、マリラ。まだちゃんと躾けられたことがないんだからな」
「だから、今、躾けられてるのよ」マリラが応酬した。
言い返されてマシューは黙りこんだ。納得したかどうか定かではなかったが。その日の昼食も憂鬱なものになった。機嫌がいいのは雇いのジェリー・ブート少年だけで、マリラはなんだか自分が馬鹿にされているようで腹が立った。
皿も洗った、パン生地も作った、鶏に餌もやったところで、マリラは外出用の黒のレースのショールに、小さなほころびがあるのを思い出した。月曜の夕方、教会援助会から戻ってショールを外した時に気がついたのだった。
そこでマリラはショールを繕っておくことにした。ショールはトランクの上の箱に収められていた。マリラがそれを手に取ると、陽の光が、窓辺にびっしり伸びたつるのすき間から、ショールに引っ掛かった何かを照らした――細かな反射面が、キラキラと紫に光り輝く何かだった。息もつかずに、マリラはその何かをつかみ取った。あの紫水晶のブローチが、レースの糸に引っ掛かっていたのだ!
「これは一体全体」マリラは呆然とした。「どういう事だろう? あたしのブローチだ、ここに何事もなく無事にあるじゃないか、バリーの池の底に沈んでいたと思ってたのに。なんであの子は、これを持ちだしてなくした、なんて言ったんだろう? グリーン・ゲイブルズが魔法にかかってるに違いないよ。思い出した、そうだ、月曜の夕方、ショールを脱いだ時に、箪笥の上にちょっと置いたんだった。たぶん、ブローチがなんかに拍子で引っ掛かったんだね。そういうことなら!」
マリラは、ブローチを手に東の切妻へと足を運んだ。アンはすでに涙も涸れて果て、窓辺に座りこみ、意気消沈の体だった。
「アン・シャーリー」マリラが真剣な面持ちで言った。「あたしのブローチは、黒のレースのショールに引っ掛かってたよ。さて、今朝聞かされたあの下らない話、あれはどういうつもりで言ったんだか知りたいもんだね」
「ああ、あれね、マリラは白状するまでここから出さないって言ったじゃない」アンが言い返す気力もなく返事した。「だから告白することに決めたの、だってピクニックに行かなくちゃいけなかったし。告白の中身は、昨日ベッドに入ってから考えたの、いろいろ工夫して面白くしたのよ。何度も何度も繰り返し練習して、忘れないようにしたの。でも結局ピクニックに行かせてくれないんだもん、あんなに苦労したのに無駄になっちゃったわよ」
マリラは思わず笑わずにはいられなかった。だが、良心がチクリと刺すのを感じて、真顔になった。
「アン、あんたにはびっくりさせられるわ! だけどあたしが間違ってた――ようやく分かったよ。あんたの話を疑うべきじゃなかったんだね、あんたは今まで嘘をついたことがなかったんだから。もちろん、やりもしなかったことを告白するなんて、いいことじゃない――とっても悪いことだよ。だけど、それもあたしが原因だった事だね。だから、もしあんたがあたしを許してくれるんなら、アン、あたしもあんたの事を許してあげる、そうすれば、もう一回はじめからやり直せるだろうね。さあ、ピクニックの用意をしないと」
アンはロケットのように飛び上がった。
「ああ、マリラ、もう遅くないかな?」
「そんなことない、2時になったばかりだよ。まだみんな集まってないだろうね、お茶の時間には1時間もあるし。顔を洗って、髪を梳かして、ギンガムを着て。あんたのバスケットを一杯にしておくから。お菓子はたくさん焼いてあるんでね。それから、ジェリーに馬車の馬を付けさせるから、ピクニックの会場までそれに乗っていくといいよ」
「やったあ、マリラ」アンはそう叫んで、洗面台に吹っ飛んで行った。「5分前は、あんまり惨めで、生まれてくるんじゃなかったって思ったけど、今なら天使が来たって替わってあげない!」
その晩、幸せを極め、完璧に疲れ切ったアンがグリーン・ゲイブルズへと戻って来た。アンは筆舌に尽くしがたい至福の中にいた。
「ねえ、マリラ、完璧なくらい目茶楽しいな時間を過ごせたわ。目茶楽しい、は今日初めて覚えた言葉なの。メアリ・アリス・ベルが使うのを聞いたのよ。とっても感じがでてる言葉じゃない? 何もかも素敵だったわ。お茶の時間も素晴らしかったし。それから、ハーモン・アンドリューズさんが、あたしたちみんなを連れて、輝く水面の湖へ船に乗りに行ったのよ――一度に6人ずつね。ジェーン・アンドリューズなんか、船から落ちかかったのよ。睡蓮を摘もうとして船から乗り出したんだけど、もしアンドリューズさんが間一髪でベルトを掴まなかったら、落っこちて、あるいは溺れてたかもね。あたしがそうなってたら良かったのに。とっても
その晩、マリラは靴下を繕いながら、マシューに何もかも語って聞かせた。
「あたしが間違ってたと認めるのは、やぶさかじゃないわ」これがマリラの率直な結論だった。「とにかく、1つ勉強させてもらったね。アンの告白を思い出すと、どうしても笑ってしまうのよ、実は嘘だったんだから、笑ってる場合じゃないんだけど。でも、逆の嘘よりは悪くないような気がしてね、それにとにかく、あたしが悪かったんだし。あの子はなかなか分かり難いところがあるね。でも結局、いつかは良い子になると思うよ。それから、一つ確かな事は、あの子がいる家は退屈とは無縁だってことだね」
15章 疾風怒濤の小学校生活
「何て素晴らしい日!」アンはそう言うと、大きく深呼吸した。「こんな天気の日は生まれてきて良かったって思わない? まだ生まれてこない人達は気の毒ね、この素晴らしい日を味わえないんだから。もちろん、後から生まれた人も良い日はあるんだろうけど、でも今日のこの日は二度とないのよ。それにもっと素晴らしいのは、こんな素敵な道を通って学校に行けるってこと、そうじゃない?」
「街道を回り道するよりずっとましね。あの道、とっても埃っぽいし暑いもの」ダイアナは現実を語った。昼ご飯をつめたバスケットを覗き込んで暗算してみる。ここに果肉がたくさん詰まった、口当たりのいいキイチゴのタルトが3つあるけど、もしこれを10人の女の子で分けたら、一人当たり何口食べられるんだろう。
アヴォンリー小学校に通う女の子達は、いつもお昼ご飯をみんなで分け合っていたから、3枚のキイチゴのタルトを全部独り占めして食べたり、一番の仲良しと分け合ったとしても、そんなことをしようものなら、未来永劫「すっごいケチ」の烙印を押されるだろう。それにしても、せっかくのタルトを10人で分けては、意地悪なくらい少なくなってしまう。
アンとダイアナが学校に通う道は、実に奇麗な道だった。アンは、学校の行き帰りにダイアナと一緒に歩けるなんて、想像力を駆使してもこれ以上楽しくできないと思っていた。主街道を回り道するなんてどうしようもなく
恋人小径はグリーン・ゲイブルズの果樹園の下手に始まり、カスバート家の農地の端にある向こうの森の中まで伸びていた。この道を通って牛を裏の牧草地へ追い込み、冬になると薪を運ぶ道となった。アンが恋人小径と命名したのは、グリーン・ゲイブルズに来てひと月足らずの頃だった。
「恋人達が本当にそこを歩くわけじゃないけど」マリラにそう説明していた。「でもダイアナとあたしは、今、それはもう壮麗な本を読んでいて、その中に恋人小径が出てくるのよ。それであたし達もそういうのが欲しくなったの。それにとてもしゃれた名前だと思わない? とっても
アンは朝一人で家を出かけ、恋人小径を小川の所まで下っていった。そこでダイアナと待ち合わせ、二人の少女は、カエデでできた緑の天井のかかる小径を登って行った――「カエデの木ってとっても気さくなのよ」そうアンは言っていた。「いつだって梢がサラサラ揺れていて、そっと囁きかけてくるの」――そして丸太橋までやって来た。そこで恋人小径を離れると、バリー氏の裏の畑を通り抜け、柳ヶ池を通り過ぎた。柳ヶ池を越えて行くと見えてくるのがスミレの神殿だった――アンドリュー・ベル氏の大きな森の陰にある、小さな緑溢れる窪地のことである。「もちろん今はスミレなんか咲いてないけど」アンはマリラに語った。「でもダイアナが言ってたの、春になるとスミレが一斉に何百万も咲くんだって。ねえ、マリラ、想像できる? もう目に見えるようじゃない。思わず息が止まっちゃった。スミレの神殿って命名したのよ。ダイアナがね、あたしほど名前の付け上手は見たことない、その場所にぴったりの素敵な名前を付けるんだから、だって。何でも得意なことがあるのはいいことよね? そうだ、樺小径はダイアナが名付けたの。どうしてもって言うから、その名前でいいことにしたわ。でもあたしだったら、もっと詩的で、ただの樺小径じゃない何かを探すわね。そんな名前じゃ、誰でも考えつきそうだもの。それでも樺小径は世界で一番奇麗な場所の一つだわ、マリラ」
そのとおりだった。アンに限らず、そこをたまたま通りかかった人もやはりそう思うのだった。細い曲がりくねった道で、うねうねと長い丘を下って、ベル氏の森をまっすぐ突き抜けていた。ベル氏の森では、陽の光が、幾重にも重なるエメラルドの帳の合間を縫って注ぎこみ、その光はダイアモンドの心臓部のように傷一つなかった。道沿いには端から端まで、白い幹からしなやかに枝を伸ばした細身の白樺の若木が並び、シダ、星の花、野生の谷スズランとピジョンベリーの深紅の房といった草花が、所狭しと生い茂っていた。いつ行ってもそこには、心を弾ませるほのかな香りが立ちこめていて、呼び合う鳥の声が音楽を奏で、頭上に耳をすますと、梢を渡る森の風達がサラサラと囁き、笑いあっていた。時折ウサギがピョンピョン道を横切るのに出くわすこともあった、もし静かにじっとしていればだが――アンとダイアナもそんなことはブルー・ムーンに一度だけ[#訳者注:非常にまれなこと]だった。谷の方へと道を下ると小径は主街道に開け、エゾマツの丘を登るとそこが学校だった。
アヴォンリー小学校は白塗りの建物で、廂が低くて窓が広い作りだった。建物の中に入ると、落ち着いた頑丈な古い机が並んでいた。開け閉め可能なその蓋には、どの机も一面に生徒3世代分のイニシャルと象形文字が刻まれていた。学校の建屋は主街道から少し引っ込んでいて、裏手に薄暗いモミの林と小川があった。朝来ると、子供たちはみんな小川の中に牛乳瓶を浸しておき、昼食の時間には飲みごろに冷えているのだった。
9月の初日に、マリラはアンが学校へ出かけていくのを見送った。口には出さなかったが、あれこれと心もとない思いが湧きあがっていた。アンはあんな変わり者だからね。他の子と上手くやっていけるんだろうか? 大体、学校にいる間、口をつぐんでいられるのかね?
しかし事態は、マリラが危惧したよりずっと快調に進んだ。その日の夕方、アンは気分上々で家に帰ってきた。
「ここの学校は好きになれると思うな」アンが評した。「先生はそんなに大した人じゃないと思うけど。いつも口ひげの格好ばかり気にしすぎ。それにプリシー・アンドリューズを見る目付きが嫌らしいわ。プリシーはもう大人なのよね。16歳だし、シャーロットタウンのクイーンズ・アカデミーを来年受験する勉強をしてるの。ティリー・ボールターが言ってたけど、先生はプリシーにお熱なんだって。プリシーって、色白で茶色の髪は巻き毛なの、それでとっても優雅にアップにまとめてるのよ。一番後ろの長椅子に腰掛けてるんだけど、先生も一緒よ、大概はね――先生は、授業を教えるためだって言ってるわ。でもルビー・ギリスは見たことあるのよ、先生がプリシーの石盤に何か書いて、プリシーがそれを読んだら赤カブみたいに赤くなってクスクス笑ったんだって。ルビー・ギリスは、授業とは何の関係もないと思うって言ってたわ」
「アン・シャーリー、自分の先生のことをそんな風に噂するなんて。二度と聞きたくないね」マリラの言葉が突き刺さった。「あんたは先生のあら探しに学校に行ってるんじゃないんだよ。あんたは先生から何か教わる立場だし、あんたの仕事は勉強することだと思うがね。これは今すぐ頭に入れといて欲しいよ、家に帰ってから噂じゃ先生がどうしたとか言わないこと。あたしはそんなことは認めないよ。それで、良い子にはしてたんだろうね」
「ちゃんと良い子だったわよ」アンが気楽に言った。「それに、マリラが考えてるほどそんなに大変じゃなかったし。あたしはダイアナと一緒に座ってるの。あたし達の席は窓側。輝く水面の湖を見下ろせるのよ。学校に来てる女の子は良い子がたくさんいるわ。みんなでお昼休みに遊んで目茶楽しいだったわよ。一緒に遊べる女の子がたくさんいるっていいわね。でも、ダイアナがもちろん一番好きよ、これからもずっとそう。あたしね、ダイアナを崇拝してるの。あたしは他の子よりずっと遅れてるわ。みんなリーダーの5巻だけど、あたしはまだ4巻なの。なんだか恥ずかしいわ。だけど、あたしほど想像力のある子は誰もいないのよ、それはすぐに分かったわ。今日の授業はリーディングと地理とカナダ史と書き取り。フィリップス先生が、あたしの綴りは酷いものだって言って、あちこち直されてるあたしの石盤を、みんなが見えるように持ち上げたのよ。すごく恥ずかしかったんだから、マリラ。今日初めて会ったのに、先生はもっと優しくしてくれても良かったと思う。ルビー・ギリスはリンゴをくれたし、ソフィア・スローンは“家まで送らせてもらえませんか”って書いた、可愛いピンクのカードを貸してくれたわ。明日まで返せばいいの。それから、ティリー・ボールターが、午後中ずっとしててもいいって、ビーズの指輪を貸してくれたわ。屋根裏部屋の古いピンクッションに真珠のビーズが付いてるでしょ、あれを外してもらってもいい? 指輪を作りたいの。あ、そうだ、マリラ、ジェーン・アンドリューズがミニー・マクファーソンから聞いたって言ってたけど、プリシー・アンドリューズがサラ・ギリスに、あたしの鼻がとても格好いいって言ってたんだって。マリラ、褒め言葉を貰うなんて生まれて初めてだし、マリラには想像できるかなぁ、奇妙な気分だったわ。マリラ、あたしの鼻は格好いい? マリラだったら本当のこと言ってくれるもの」
「十分結構な鼻だよ」とマリラはそっけなかった。心の中では、アンの鼻は意外なほど格好いいと思っていた。しかしわざわざ教えてあげるつもりはなかった。
ここまでが3週間前のことで、まずは穏やかに何事もなく時は流れた。そして、今日のこの9月のすがすがしい朝、軽い足取りで楽しげに樺小径を下って行くアンとダイアナは、アヴォンリーで一番の幸せな二人だった。
「今日、ギルバート・ブライスが学校に出て来ると思うわ」ダイアナが言った。「夏中ずっとニュー・ブランズウィックのいとこの家にいて、土曜の夜に戻ったばかりなのよ。すっごいハンサムよ、アン。それに、女の子をからかってばかり、酷いのよ。彼ってあたし達女の子にとって、人生の悩みの種だわ」
ダイアナの声の調子では、どちらかというと自分の人生に悩みの種を作って欲しいようだった。
「ギルバート・ブライス?」とアン。「ポーチの壁に、ジュリア・ベルと一緒に名前が書かれてた人じゃない、上に大きく『気になる二人』って書いてある?」
「っそ」とダイアナ、ツンとして見せた。「でもギルバートはジュリア・ベルを特に好きってわけじゃないわよ。九九の表を、あの子のそばかすで覚えたって言ってたもの」
「ねえ、あたしにそばかすのことは言わないで」嘆くアンだった。「傷ついちゃうわ、あたしにはこんなにたくさんあるのに。でも、男の子と女の子のことを『気になる二人』って壁に書き出すなんて、ほんと馬鹿みたい。誰か、男の子とあたしの名前を一緒に並べて書ける人がいたら、見てみたいもんだわ。もちろん、そんなことあるわけないわよ」アンは慌てて付け加えた。「誰もするはずないし」
アンはため息をついた。別に名前を書かれたいわけではなかった。しかし、そんな危険すらないと分かっているのは、ほんの少し屈辱的ではあった。
「何言ってるの」とダイアナ、その黒い瞳とつややかな編み髪は、アヴォンリー小学校の少年達の心に壊滅的なダメージを与え、ポーチの壁にはダイアナの名前入りの『気になる二人』が半ダースも書かれていた。「あんなのただの冗談よ。それに自分の名前は書かれない、なんて安心してられないわよ。チャーリー・スローンはアンにお熱よ。何でも、お母さんに言ったんだって――お母さんによ、分かるでしょ――アンは学校で一番頭の良い子だって。奇麗って言われるよりずっとましよ」
「そんなことないわよ」とアン、骨の髄まで女性である。「賢いより可愛いって言われたいわ。それから、チャーリー・スローンは嫌い。あたし、ギョロ目の男の子には耐えられないの。もし誰かがあたしの名前をあの子と一緒に書いたりしたら、絶対立ち直れないわ、ダイアナ・バリー。でもとにかく、クラスでいつも一番なのはいい気分ね」
「これからはギルバートも同じクラスになるわよ」とダイアナ。「それに、今までずっとクラスで一番だったのよ、教えとくわね。まだ4巻しか進んでないのよ、もうすぐ14歳になるんだけど。4年前にお父さんが病気になって、アルバータに療養に行くので、ギルバートも付き添って行ったの。二人とも3年向こうにいて、こっちに戻って来るまで、ギルは学校にほとんど行ってなかったのよ。これからは一番でいるのは、そんなに簡単じゃなくなるわよ、アン」
「嬉しいわね」アンがすぐに切り返した。「九つや十の男の子や女の子達の中で一番だからって、自慢にならないもの。昨日『沸騰』という単語の綴りで一番だったのよ。ジョージー・パイが初めに手を上げたんだけど、いい、あの子ったらこっそり本を見てたのよ。フィリップス先生は注意して見てなかったの――プリシー・アンドリューズをじっと見てたから――でもあたしはちゃんと見てたわ。凍りつくような軽蔑の視線を投げたら、赤カブみたいに真っ赤になって、結局綴りを間違えたわ」
「あのパイ家の女の子達って、いつでもズルなのよ」とダイアナが不満をぶちまけた。アンと二人で主街道の柵を乗り越えながらではあるが。「ガーティー・パイなんか、昨日小川のあたしの場所にミルク瓶を置いたのよ。信じられる? 今あの子には口をきいてあげないの」
フィリップス先生が教室の後ろでプリシー・アンドリューズのラテン語を聞いている時、ダイアナがアンにそっと囁いた。
「向こうにいるのがギルバート・ブライスよ、通路のあなたと反対側に座ってるわ、アン。ちょっと見てみなさいよ、ハンサムかどうか確かめてみて」
アンは言われるまま見てみることにした。確かめるには絶好の機会だった。というのも、このギルバート・ブライスなる者は、ルビー・ギリスの長い黄金色のおさげを、こっそりいたずらするのに夢中だったからである。ルビーはちょうど前の席に座っていたので、その席の後ろにピンで留めようというのだった。少年は背が高く、巻き毛で褐色の髪、いたずら好きなはしばみ色の瞳で、口元にはニヤニヤとからかいの笑みを浮かべていた。そのうち、算数の答えを先生に持って行こうと、ルビー・ギリスが立ち上がろうとした瞬間、ルビーはキャーと叫んでバッタリと席に座り込んだ。髪が根元から全部抜けたかと思ったのだ。みんながルビーの方を向いていたし、先生も容赦なく睨みつけるので、ルビーは泣き出してしまった。ギルバートはピンを素早く隠しおおすと、いかにも真面目な顔で歴史の教科書を読むふりをしていた。しかしこの一騒動が収まると、アンの方を見て、何とも言い様のないおどけた仕草でウィンクしてみせた。
「あなたのギルバート・ブライスは、確かにハンサムだと思うわよ」アンはそっとダイアナに打ち明けた。「でも馴れ馴れしすぎると思う。失礼よ、初めて会う女の子にウィンクするなんて」
しかし、事態が本当に動き出すのは、午後を待たねばならなかった。
フィリップス先生が後ろの隅の席で、プリシー・アンドリューズに代数の問題を説明している間、残りの生徒達は好き勝手し放題だった。青いリンゴを食べている子、ひそひそ話をする子、石盤に絵を描いている子、コオロギを何匹も糸で結んで、通路の前へ後ろへと操る子等々。ギルバート・ブライスは、なんとかアン・シャーリーを振り向かせようとしていたが、全て徒労に終わっていた。なぜならその時のアンは、ギルバート・ブライスの存在だけでなく、アヴォンリー小学校の他の生徒も、アヴォンリー小学校のことすら、すっかり忘却の彼方だったからである。顎を両の掌の上に乗せ、両目を西の窓から楽しめる、青い輝く水面の湖のきらめきに釘付けにしたまま、アンは遠く妙なる夢の国に遊んでいた。聞こえるもの、目に入るものといえば、夢のような自分だけの幻想の景色だけだった。
ギルバート・ブライスは、今まで女の子を振り向かせようとして、首尾よくいかないことはなかった。何で振り向かないんだ、この赤毛のシャーリーとかいう女の子、尖り気味の顎で、大きな目、アヴォンリー小学校の他の女の子とは似てない目をした子は。
ギルバートは通路越しに腕を伸ばして、アンの長くて赤いおさげの一方の端を摘むと、腕を伸ばしたまま、グサッと囁いた。
「ニンジン! ニンジン!」
するとアンが、いきなり振り向いた!
振り向いただけではなかった。弾かれたように立ち上がった。輝き溢れる夢の世界は、今や救いようがないほどの廃虚と化していた。アンは両方の目からギラギラした憤怒の眼差しをギルバートに発した。パチパチはぜる怒りの火花は、込み上げる怒りの涙であっという間に消し去られ、取って代わられた。
「この意地悪、憎たらしい奴!」アンが激怒して叫んだ。「よくも言ったわね!」
そう言うと今度は――バキッ! アンはギルバートの頭に石盤を叩きつけて、かち割ってしまった――頭ではなく石盤を――真っ二つに。
アヴォンリー小学校では、楽しい見せ場があるといつもみんな大喜びだった。とりわけ今回はお楽しみの場面と言えた。みんなから「うわあ」っという恐ろしげなどよめきと、待ってましたの感嘆の声がもれた。ダイアナは息を飲み込んだままだ。ルビー・ギリスは、この子はヒステリー気味だったが、泣き出した。トミー・スローンは、せっかく集めたコオロギ軍団を、この活人画を口を開いたままぽかんと見入っている間に、全部逃がしてしまった。
いつの間にか通路をやって来たフィリップス先生が、アンの肩にガシッと手を置いた。
「アン・シャーリー、これはどういうことだね?」と、怒る先生。アンは何の言葉も返さなかった。血肉をそなえた人間相手に、あまりと言えばあまりな問いかけだった。自分が「ニンジン」呼ばわりされただなんて、どうして全学校の衆目の中で言えるだろうか。先生の怒りをものともせず、しっかりと返事を返したのはギルバートその人だった。
「俺が悪かったんです、フィリップス先生。俺がこの子をからかったんです」
フィリップス先生は、ギルバートをまったく無視した。
「残念でなりませんね、私の生徒たる者がこのように癇癪を、復讐の心を見せてしまうとは」と勿体をつけて先生が言った。なにやら、自分の生徒であるというだけで、まだ幼く不完全な永遠ならざる生徒達の心の中から、全ての悪しき感情が根絶やしにされているはずだ、とでも言いたいらしい。「アン、教壇の黒板の前で、これから午後いっぱい立っていなさい」
こんな罰を受けるくらいなら、笞打たれる方が幾億倍もましだった。アンの感じやすい心が、笞打たれたように震えおののいた。真っ青な固い表情でアンは従った。フィリップス先生はチョークを取って、黒板のアンの頭の上にこう書いた。
「アン (Ann)・シャーリーは、すぐカッとなります。アン (Ann)・シャーリーは、気持ちを抑えることを覚えなくてはなりません」そう書くと、まだ字が読めない初等クラスの子でもちゃんと分かるように、はっきりとこの文を読み上げた。
アンは午後いっぱい、頭の上に説明書きを掲げながら立っていた。泣きもしなかった。顔を伏せもしなかった。心の中でいまだに熱く燃えさかる怒りが、屈辱の苦悶の中でもよくアンを支えてくれた。憤り溢れる瞳で、怒りに燃えた頬で、アンはみんなと対峙していた。同情溢れる眼差しのダイアナにも、憤懣やる方なく一人うなずくチャーリー・スローンにも、アンを見ては意地悪く笑みをこぼすジョージー・パイにも。ギルバート・ブライス、この方は見ようともしなかった。あんな奴、もう二度と見るもんか! あんな奴に話しかけるもんか!!
学校が終わると、赤毛の頭をツンとさせて、アンは大股で外へ出ていった。ギルバート・ブライスがポーチの戸口でアンを呼び止めようとした。
「ゴメン、髪のことでからかって俺が悪かったよ、アン」小声で申し訳なさそうにそう言った。「本当さ。もう怒らないでくれよ」
アンは見ざる聞かざるで、軽蔑もあらわにサッとすり抜けた。「ねえ、よくそんなことできるわね、アン?」二人が街道の下りに出ると、ダイアナがようやく声に出して言った。半ば非難を込め、半ば感心していた。ダイアナは、自分だったらギルバートの頼みには逆らえないと感じていたのだ。
「あたし絶対許さない、あのギルバート・ブライス」と、アンは不動の決意を見せた。「それからフィリップス先生。あたしの名前に e を付けなかった。我が魂に
ダイアナはアンの言っていることがちっとも分からなかったが、恐ろしい何かであることだけは了解した。
「気にしちゃだめよ、ギルバートが髪のことをからかったからって」アンをなだめようとダイアナが言った。「ほら、女の子はみんなからかわれてるのよ。あたしのことも笑うの、髪が黒すぎるって。カラスって10回以上呼ばれたことがあるわ。だけど、何かあっても今までギルバートが謝ったなんて聞いたことないわよ」
「カラスって言われるのと、ニンジンって言われるのじゃ、あまりにも大きな違いよ」アンが重々しく宣言した。「ギルバート・ブライスはあたしの気持ちを、堪え難いくらい傷つけたのよ、ダイアナ」
この一件は、これ以上の堪え難さもなく立ち消えになる可能性もあった、もし他に何事も起こらなければ。しかし、物事は一旦転がりだしたら、そのまま転がり続けるものなのだ。
アヴォンリーの学生諸君は、松やにのガムを取るため、丘を越えた大きな牧草地の向こうにあるベル氏のエゾマツ林で、昼休みを過ごすことが多かった。生徒達はそこから見える、先生の下宿先であるエベン・ライトの家に注意を払っていた。フィリップス先生の姿がそこから出てくるのが見えたら、生徒達は校舎の方に駆け出すのだった。それでも、ライト氏の家から続く小径に比べ3倍も距離があるので、校舎にたどり着くと、息を切らしてゼイゼイいって、3分ほど遅刻するのだった。
事件のあった翌日、フィリップス先生は、生徒達を改革して進ぜようという突発性の発作にまたもや襲われたので、昼食をとりに下宿に戻る前にこう宣言しておいた。曰く、生徒諸君は私が戻って来るまでに、全員着席していることを是非とも期待します。遅れて来た者はみんな罰することにします、と。
男の子は全員、女の子も数人がいつものようにベル氏のエゾマツ林に出かけた。初めはみんな「ガム一噛み分取る」間だけのつもりだった。だがしかし、エゾマツ林も魅力を発揮し、黄色いガムの塊が誘惑するのだった。ガムを取ってはぶらついて、さまよい歩き、もう授業が始まる時間だと焦って思い出したのは、いつものように、ジミー・グラバーの「先生が来たぞ」と叫ぶ声が、古い長老エゾマツの木のてっぺんから聞こえてからだった。
女の子達は地面にいたから、先頭を切って走り、なんとか時間までに学校までたどり着けた。それでもあます余裕は一瞬しかなかった。男の子達は木の上から、慌てたイモムシのようにのたくりながら下りてこなければならないので、もっと遅れて来た。一方アンは、ガムを取りに行ったのではなく、エゾマツ林のずっと向こう側を放浪しながら、幸せを満喫していた。腰まで届くワラビの茂みを、自分だけに聞こえる小さな声で歌いながら、ライス・リリーの花の冠を髪の上に飾って、影多き国の異教の神にも似ていた。だからアンがみんなの中で一番後だった。しかし、アンは鹿のように身軽に走れたのだ。そうしてアンは走って行ったが、
フィリップス先生のつかの間の改革の熱意はすでに失われていた。1ダースもの生徒を罰するのは面倒なことだった。しかし、すでに罰すると言ってしまった手前、何かする必要があったので、生け贄の羊を求めて遅れてきた生徒達を見回すと、そこにアンがいた。ようやく席に倒れ込み、息を切らしていたのだ。被っているのも忘れていたライス・リリーの花輪が、曲がって耳に引っ掛かったままで、ことさらにこれ見よがしでだらしなく見えた。
「アン・シャーリー、あなたは男の子達と仲良くするのが大好きなようだから、今日は午後一杯あなたの趣味に合わせて、楽しませてあげることにしましょう」先生は嫌みたっぷりに言った。「髪から飛び出ている花を取って、ギルバート・ブライスと並んで座りなさい」
周りの男の子達がヒヒヒと笑った。ダイアナは、アンが可哀想で青くなりながら、急いでアンの髪から花輪の残骸を外して、アンの手を握りしめた。アン自身は、石に変わったかのように、ただただ先生を見つめるだけだった。
「私の言ったことは聞こえたかね、アン?」フィリップス先生が容赦なく問い質した。
「聞こえました、先生」アンの反応は鈍かった。「でも本気だと思わなかったんです」
「確かに本気ですよ」――またも嫌みの抑揚を利かせていた。子供たちはみんな、特にアンが、大嫌いな言い方だった。その言葉の笞は生傷に響いた。「すぐに従いなさい」
ちょっとの間、アンは従わないように見えた。それから、そんなことをしても意味がないと悟って、プライドを支えに立ち上がると、ユラッと通路を横切り、ギルバート・ブライスの隣にトンと腰を落とし、机の上に突っ伏して両腕の中に顔を埋めた。顔が隠れる前に少しだけアンの顔を見ることができたルビー・ギリスが、学校帰りにみんなに語ったところによれば、「っとに、あんな顔見たことないわ――顔面蒼白で、気持ち悪い赤いちっちゃな点々があったんだから」
アンにとって、これは全ての終りにも等しかった。等しく罪を問われるべき1ダースの罪人の中から、一人選ばれて罰を受けるだけでも十分ひどかった。さらにひどかったのは男の子と並んで座らせられる罪に処せられたこと、しかしその男の子がよりによって、なぜあのギルバート・ブライスなのか。このことが侮辱の上に山と重なる辱めとなり、今や耐えられる限度を超えていた。アンは感じた、もはや耐えられる見込みもなく、耐えようとするも愚かだ。我が全身全霊は煮えたぎる、恥と憤怒と屈辱にまみれて。
はじめのうちは他の生徒達も、ジロジロ眺め、コソコソ囁き、クスクス笑い、ツンツンわき腹を突っつき合った。しかしアンが一度も顔を上げず、ギルバートも分数の勉強を始め、心の底から分数に、分数だけに没頭している様子だったので、じきにみんなは各自の課題に戻りはじめ、そしてアンは忘れ去られた。フィリップス先生が歴史の授業を始めた時、アンはそのクラスに出るはずだった。しかし、アンは身じろぎもせず、フィリップス先生の方も、歴史授業の前から「プリシラへ」と題した詩を書き始めていて、厄介な韻について考え考えしていたので、アンがいないのにはまったく気付かなかった。一度だけ、誰も見ていない時を見はからい、ギルバートは自分の机から小さなピンクのキャンディーを取りだした。ハートの形で、その上には金文字の銘が刻まれていた。曰く「スイートな君」。これをアンの二の腕の下からそっと忍ばせた。すると、やおらアンが起き上がって、ピンクのハートを汚い物でも触るかのように指先で摘んで床に落としたかと思うと、粉々になるまで思いっきり靴の踵ですり潰して、またしても先ほどと同じ姿勢に戻った。その間ギルバートは、アンからもったいなき拝謁を賜ることはなかった。
学校が終わると、アンは自分の机に大股で戻り、これ見よがしに中の物を洗いざらい取りだした。本、ノート、ペン、インク、聖書、算数の教科書、これを全部壊れた石盤の上にきっちりそろえて積み重ねた。
「それ全部家に持って帰ってどうするつもり、アン?」二人が街道に出ると、すかさずダイアナが聞いた。それまでは怖くて質問できなかったのだ。
「あたし、もう学校には戻らない」とアン。ダイアナは息を飲んでアンを見つめた。本気なのかしら。
「マリラは家にいさせてくれる?」そう聞いてみた。
「いさせてもらうわ」とアン。「あたし、絶対学校に行かない、あんな男は二度とご免よ」
「ちょっと、アン!」ダイアナは今にも泣きだしそうだ。「そんなの酷いわよ。あたしどうしたらいいの? フィリップス先生は、あたしをあのおぞましいガーティー・パイと座らせるわ――絶対そうするわよ、だって、ガーティーは今、一人で座ってるんだもの。お願い戻って来て、アン」
「あたし、あなたのためなら、この世界でできないことなんかほとんどないわ、ダイアナ」アンが悲しみを込めて言った。「手足を引き裂かれても構わない、それが少しでもあなたの役に立つのなら。だけど、これだけはダメ、だからお願い、もう言わないで。あなたの言葉はあたしの魂をずたずたにしてしまうのよ」
「楽しい事もこれからたくさんあるのよ、それ全部逃してしまうのよ」ダイアナが楽しい未来を悲しく語った。「あたし達、学校の小川を下ったところに、それはそれは可愛い家を造るのよ。それから、みんなで来週ボール遊びをするの。ボール遊びしたことないでしょ、アン。とおっても楽しんだから。それから、新しい歌も覚えられるのよ――ジェーン・アンドリューズが今練習してるところなの。あと、アリス・アンドリューズが、来週新しいパンジー・ブックを持って来ることになってるのよ、一章ずつ順番でみんなに読んで聞かせるの、やっぱり小川を下ったところでよ。声に出して本を読むのとっても好きでしょ、アン」
どれもこれも心を動かすに足りず、アンは小揺るぎもしなかった。アンはすでに心を決めていたのだ。あたしは、フィリップス先生のいる学校なんか、二度と行かない。家に帰ると、アンはマリラにそう伝えた。
「下らない」とマリラ。
「全然下らなくなんかないわ」とアン。マリラを見つめる目には、威厳と非難が満ち溢れていた。「分からない、マリラ? あたしは辱めを受けたのよ」
「辱めだって、馬鹿馬鹿しい! あんたは明日もいつもどおり学校に行くんだよ」
「嫌、行かない」アンはゆっくり首を横に振った。「あたし、学校には戻らないわ、マリラ。家でもちゃんと自分の勉強はするし、できるだけ良い子でいる、いつでも口を閉じてることにするから、そんなことができればだけど。でも、あたしは学校に戻らない、本気よ」
アンの、どうあっても譲らない頑固な一面、それがアンの小さな顔に現われているのが、マリラにもはっきり読み取れた。これ以上無理強いしても問題を抱え込むばかりだとマリラは了解した。そこで、もう何も言わずに引き下がることで、上手くその場を収めることにした。「夕方さっそく出かけて行って、レイチェルにこの件を相談しなくては」そう考えたのだった。「今、アンを諭しても聞かないだろう。すっかり血が上って、こうと決めたらまったく頑固で手に負えないんだから。あの子の話を聞く限り、フィリップス先生はやり方が強引すぎたらしいことは分かったわ。だけど、あの子にそう言うのはやめておこう。まずはレイチェルに話を持って行こう。レイチェルは10人の子を学校にやっているんだし、何か子育ての手がかりになることを知っているだろう。それに今ごろは、レイチェルにも一部始終が伝わっているだろうし」
マリラが訪れると、リンド夫人はいつもどおり、勤勉に機嫌よくキルトを縫っていた。
「あたしが何しに来たか、もう分かってるんだろう」マリラが言った。少し恥ずかしそうな顔だった。
レイチェル夫人はうなずいた。
「アンが学校で起こした騒動のこと、そうだろう」とレイチェル。「ティリー・ボールターが学校の帰りに寄って、その話をしていったよ」
「あの子をどうしたらいいか分からなくて」とマリラ。「あたしは学校には戻らない、の一点張りでね。あんなに頭に血が上ってる子は見たことないわ。学校に行くようになってから、何かありそうな予感はあったんだよ。今まで万事順調すぎたんだね。どうもあの子は神経過敏だから。どうしたらいいと思う、レイチェル?」
「そうだね、あたしの助言が欲しいというんならね、マリラ」と愛想の良いリンド夫人――リンド夫人は、助言を請われるのが好きで堪らなかったのだ――「まずは、ある程度あの子の好きにさせるわ、あたしならそうするね。あたしの思うところでは、フィリップス先生に非があったよ。もちろん、子供達にそう言う必要はないがね。それと、昨日あの子を罰したのは、もちろん正しかったよ、癇癪を起こしたんだから当然さ。でも今日のは事情が違うわ。他の遅れてきた子も、みんなアンと同じに罰するべきだったよ、まったく。罰として、女の子を男の子と一緒に座らせるのはどうかと思うね。穏当なことじゃないよ。ティリー・ボールターはほんとに怒ってたね。あの子もアンの肩を持ってたし、生徒達もみんなそうだったってさ。あの子達の中で、アンはなかなか受けがいいみたいじゃないか。こんなに上手くみんなに溶け込めるとは思わなかったね」
「それじゃ、本気であの子を家に置いといた方がいいって思うんだね」マリラは唖然として言った。
「そうさ。あたしなら学校のことはもう一言も言わないよ、あの子が言い出すまでね。大丈夫、マリラ、一週間もしたら頭も冷えて、自分の方から戻るって言い出すようになるさ、まったく。だけど、今すぐ学校に行くようにごり押ししたら、次に何をしだすか分かったもんじゃないよ、珍事件を起こすか、癇癪を起こすかして、また騒動が増えるだけだね。騒ぎは小さいほうがいい、これがあたしの意見だよ。学校に行かなくても、失うものはそんなに多くないよ、あんな事が続くようじゃね。フィリップスさんは、まったく先生向きじゃないよ。今の学校の規律ときたら言語道断だよ、まったく。ちびちゃん達を放り出しておいて、クイーン校に入学する大きな生徒ばかり構ってるんだからね。今年度は絶対学校を受け持てなかったはずさ、あの人の伯父さんが理事だったからこそだよ。――あの理事会ときた日には、後の二人は顎で使われるだけなんだからねえ、まったく。言っちゃ悪いが、この島の教育はどうなることやら、分かったもんじゃない」
レイチェル夫人はやれやれと頭を振った。自分がこの州の教育機構を指揮すれば、何事もずっとよく運営できたに違いないと言わんばかりだった。
マリラはレイチェル夫人の助言を容れ、アンに学校に戻れとは一言も言わなかった。アンは家にいる間、自分で勉強し、家事をこなし、肌寒い秋の黄昏時、夕焼け色に染まりながらダイアナと遊んだ。一方、ギルバート・ブライスとは、道で出会っても、日曜学校でたまたま顔を会わせても、アンはギルバートの脇をすり抜け、氷のように冷たい軽蔑を示すだけだった。ギルバートがアンと仲直りしようと努めているのは明らかだったが、だからといって微塵もアンの心の氷が溶けた様子はみられなかった。ダイアナの仲裁でさえ、一向に報われなかった。アンは明らかに心を決めていた。ギルバート・ブライスを憎み続ける、生きている限り。
しかし、ギルバートを憎むほどに、アンはダイアナを愛した。小さな心の情熱の限り、全ての愛をダイアナに注ぎ込んだ。好きも嫌いも、等しく激しいものだった。ある晩マリラが、甘いリンゴで一杯の籠を下げて果樹園から戻ってみると、黄昏の光に照らされたアンが、東の窓辺に座って苦い涙を味わっていた。
「今度はいったい何だって言うの、アン?」マリラが聞いた。
「ダイアナのこと」アンが豪勢にすすり泣いた。「あたしダイアナが好き、とっても好きなの、マリラ。ダイアナがいなかったら生きていけない。でもよく分かってるのよ、いつか二人とも大人になって、ダイアナは結婚してしまう、そして遠く離れ、あたし一人が残されるのよ。そしたら、ああ、あたしどうしよう? ダイアナの夫となる人が憎い――憎くて憎くてたまらない。今までずっと想像してたの、全て想像しきったわ――結婚式も何もかも――ダイアナは雪の衣装を身にまとって、ヴェールを被り、美しくて自信に満ちて、女王のようなの。あたしは新婦の付添となって、素敵なドレスを着てるんだけど、それもパフ・スリーブなんだけど、それでも、砕けかかった心を微笑みの仮面の下に隠しているのよ。そして言うの、ダイアナ、さようならああ――」ここでアンはすっかり泣き崩れ、滂沱の涙を流すのだった。
マリラはクルッと背を向け、顔がヒクヒク引きつるのを隠そうとした。しかしそれも役には立たなかった。近くの椅子に崩れ落ちると、部屋には心の底からの、そして普段は聞かれることのない笑い声が響き渡った。外の庭を通りかかったマシューは、その声に驚いて足を止めた。マリラがあんな風に笑っている、今まで聞いたことがあったろうか?
「やれやれ、アン・シャーリー」マリラが言った。ようやくまともに喋れるようになったのだ。「もし心配の種を探すんなら、頼むから、もっと身近なところにしておくれ。いや、あんたの想像力は大した物だね、重々承知したよ」
16章 ダイアナとのお茶会は大悲劇
10月はグリーン・ゲイブルズでも美しい時期といえた。窪地の白樺が陽の輝きのような黄金に色づき、果樹園の裏のカエデは高貴の深紅に、小径に沿った野生のサクランボの並木は、濃い赤とブロンズの緑の素晴らしい色合いに装っていた。二番刈りを迎えた牧草地を穏やかな太陽が照らしていた。
色付く世界の真ん中でアンは浮かれていた。
「ねえ、マリラ」土曜の朝、アンが大きな声で言った。踊る足取りで入ってきたアンの両手は、たくさんの色鮮やかな木の枝で一杯だった。「あたしとっても嬉しい、10月がある世界で生きていけるんだもの。もし9月から11月に飛び越しちゃったら恐ろしくつまんないわ、そう思わない? 見てよ、このカエデの枝。見てるだけでゾクゾクしない? ――それも何度も。これであたしの部屋を飾るの」
「散らかるだけさ」とマリラ、美的感覚はそれほど進歩した兆しが見えない。「ただでさえ外から持ち込んだものでごちゃごちゃしてるじゃないか、アン。寝室はそこで眠るようにできてるんだよ」
「まあね、それとそこで夢見るためにもね、マリラ。奇麗な部屋だともっといい夢を見られるわよね。枝は古い青の水差しに生けて机に飾るのよ」
「階段に葉っぱが散らからないようにするんだね。午後からカーモディーの援助会に出かけて来るよ、アン、暗くなるまで戻れないだろうね。マシューとジェリーの夕食はあんたが作るんだよ。この間みたいに、席についたらティーポットにお湯が入ってませんでしたってのはなしにしとくれ」
「お湯を入れ忘れたのは大失敗だったけど」と言い訳がましいアン。「それは、あの時はスミレの神殿の名前を考えてたからで、他に気が回らなかったのよ。でもマシューはさすがね。少しも怒ったりしないの。自分でお茶を入れて、お湯が入っていても少しは待たなくちゃならないからって言ってくれたわ。それで、お茶が入るまで素敵なおとぎ話をしてあげたの。だから待つのは全然気にならなかったって。それはそれは麗しいお話だったわ、マリラ。どう終わるか覚えてなかったから、その場で考えて終わらせたんだけど、話の繋ぎ目なんか分からなかったってマシューが言ってたわ」
「マシューなら何でも万事結構だろうよ、アン、あんたが真夜中にムックリ起きだしてお昼ご飯を食べようと言ってもね。それはともかく、今度は頭を夕食の方に向けとくんだからね。それから――こんなことしていいのかわからないけど――あんたの頭のネジがもっと緩みそうだからね――ダイアナを呼んで午後からここでお茶にしてもいいよ」
「本当、マリラ!」アンが両手をギュッと組みあわせた。「完璧だわ、素敵! やっぱりマリラって想像力があるのよ、でなくちゃ、あたしがどんなにこれを願ってたか分かるはずないもの。いいわいいわ、大人チックよ。お茶を淹れ忘れる心配は無用よ、あたしのお客様なんだもの。ねえ、マリラ、バラの蕾模様の茶器を使ってもいい?」
「ダメ、決まってるだろ! バラの蕾の茶器だって! まったく、次は何だい? あれは牧師さんか援助会以外は絶対使わないって分かってるだろう。いつもの茶色の茶器を出すんだからね。でもサクランボの砂糖漬けの小さい黄色い瓶なら開けてもいいよ。どのみち使い切らなきゃいけないし――もう悪くなりそうだからね。あとフルーツケーキは少し切り分けてもいいし、クッキーとスナップ(ショウガ入りクッキー)も食べていいよ」
「もう目の前に浮かんできたわ、あたしはテーブルの上座に座って、お茶を淹れるのね」とアン、目をつぶってすっかり夢心地である。「そしてダイアナに聞くの、お砂糖はいかが! 砂糖を入れないのは知ってるけど、もちろん、何も知らないふりして聞くのよね。それから、フルーツ・ケーキをもうひとつどうぞ、砂糖漬けも召し上がってねって勧めるんだわ。ああ、マリラ、ちょっと考えただけなのに、信じられないくらいゾクゾクするわ。ダイアナが来たら、客室で帽子を脱いでもらってもいい? 休んで頂くのは客間で?」
「だめだね。あんたもあんたの友達も居間で十分だよ。ただ、この間の晩の教会の集会で残ったキイチゴ水が、まだ瓶に半分残っていてね。居間の戸棚の2番目の棚に置いてあるから、なんなら午後にあんたとダイアナで飲んでも構わないよ、クッキーに合うんじゃないかい。マシューが夕飯に戻るのはたぶん遅くなるんだよ、船にジャガイモの積み込みをしなくちゃいけないから」
アンは家の前の窪地をすっ飛んでいくと、ドライアドのお喋り泉を通り過ぎ、エゾマツの小径を抜けて、ダイアナをお茶に招待するため、一路、果樹園坂を目指した。その努力の甲斐あって、マリラがカーモディーに馬車を出したすぐ後には、ダイアナがもうやって来た。二番目に良い服を着込んで、いかにも、お茶にお呼ばれされましたの、という格好である。他の時なら、ノックもしないで台所に飛び込むところだが、今日は玄関を気取ってノックする。するとアンが、やっぱり2番目に良い服で、やっぱり気取って玄関の戸を開くと、二人の少女は、今まで一度も会ったことがないかのような、気品溢れる握手をした。ダイアナは東の切妻の部屋に案内されて帽子を脱ぎ、居間ではきちんとつま先をそろえて座った。この取ってつけたような儀式は、まだ10分ほど続くのだった。
「お母様の御機嫌はいかが?」アンが礼儀にのっとって聞いた。バリー夫人が今朝、この上なく元気で機嫌良くリンゴを摘んでいるのを、見かけなかったかのようだ。
「お陰様でとても元気ですの。カスバートさんは、午後からリリー・サンズ号に、ジャガイモを運ばれているところですわね?」今朝ハーモン・アンドリューズ氏の家まで、マシューの荷車に乗せてもらったダイアナが答えた。
「ええ。宅では今年はジャガイモの作柄がとても良いんですのよ。お宅のお父様のジャガイモの収穫もご同様じゃございませんこと」
「お陰様でまずまず、というところですわ。リンゴの収穫も、たくさんあったんじゃございません?」
「そうなの、すっごくたくさん」アンは気品を保つのを忘れ果てて言うと、さっと跳ねるように立ち上がった。「果樹園に行ってレッド・スィーティングを摘みましょうよ、ダイアナ。マリラが木に残っているのは食べてもいいって。マリラってとっても気前がいいのよ。フルーツ・ケーキとサクランボの砂糖漬けも、お茶に出していいって言ってくれたわ。でも、お客様に何をお出しするかはじめに言っちゃ、良いマナーとは言えないわね。だから、何を飲んでいいって言われたか、まだ言わないでおくわ。R と C で始まって、色は鮮やかな赤ってことだけね。鮮やかな赤色の飲み物って素敵じゃない? 他の色より二倍も美味しい気がするわ」
グリーン・ゲイブルズの果樹園は、どこもかしこも枝にはずっしり実がなり地面を向いてしなっていて、とても魅力的な場所となっていた。二人とも午後の大半をそこで過ごし、霜が降りずに緑色がまだ残っている、秋の柔らかな陽の光が射す隅に座って、リンゴをかじりながらお喋りの限りを尽くした。ダイアナはアンに学校であった何もかもを喋りたくてはち切れそうだった。ガーティー・パイと座らせられたの、もう嫌でたまらないわ。ガーティーはいつも石筆をキーキー鳴らすから、血が――あたしのよ――凍りそうになるわ。ルビー・ギリスが魔法でいぼを全部消したの、事実なのよ、これが、島の入り江から来たメアリー・ジョーお婆さんがくれた魔法の小石を使ったんだって。新月の日にいぼを小石でこすって、左の肩越しに後ろへ投げると、いぼが全部なくなるらしいわ。チャーリー・スローンの名前がエム・ホワイトと一緒にポーチの壁に書かれたんだけど、エム・ホワイトはすっごい怒ってたわ。サム・ボールターが授業中フィリップス先生に「生意気な口」をきいたから、先生に笞で打たれたの。そしたらサムのお父さんが、うちの子にまた手をあげたらどうなるか分かってるだろうなって、学校に怒鳴り込んで来たのよ。それからね、マティー・アンドリューズが、新しい赤のフードと房飾りのついた青のショールを着てきたの。だけど何、あの態度、ほんと感じ悪いわ。あと、リジー・ライトはメイミー・ウィルソンと口をきかないのよ。メイミー・ウィルソンのお姉さんが、リジー・ライトのお姉さんの恋人を取っちゃったからなんだって。それから、みんなアンがいなくてとっても寂しいって言ってる。また学校に出てこないかなあって。あとギルバート・ブライスは――
だが、アンはギルバート・ブライスのことなんか聞きたくなかった。慌てて逃げるように立ち上がり、家に入ってキイチゴ水 (raspberry cordial) を飲みましょう、と誘った。
アンが食料棚の2番目の棚を覗いてもどこにもキイチゴ水はなかった。探してみると一番上の棚の奥に見つかった。アンはそれを盆の上に乗せて、タンブラーと一緒にテーブルに置いた。
「さあ、召し上がれ、ダイアナ」丁寧にそういった。「あたしはいいわ、今は飲まない。さっきリンゴをたくさん食べたから欲しくないの」
ダイアナは自分でタンブラーになみなみと注ぎ、まずその鮮やかな赤い色合いを目で味わい、次に一口上品に味わった。
「このキイチゴ水、すっごく美味しいわ、アン」とダイアナ。「キイチゴ水がこんなに美味しいなんて知らなかった」
「美味しいって言って貰えて、ほんとに良かったわ。好きなだけ飲んでね。ちょっと行って薪の火をかき立ててくるわね。家庭をあずかるって、とってもたくさん責任を背負い込むってことなのよ、ね?」
アンが台所から戻ると、ダイアナは2杯目のキイチゴ水に突入していた。アンからも好きに飲むようお許しが出ると、3杯目にも何の不服があろうはずがなかった。毎度注ぐ手つきは惜しげがなかった。このキイチゴ水は確かに美味しいものだったから。
「今まで飲んだ中で一番美味しい」とダイアナ。「リンドさんとこのよりずっと美味しいわ、おばさんすごく自慢してたけど。味もリンドさんのとちっとも似てないわね」
「マリラのキイチゴ水って、おそらくはリンドさんのよりずっと美味しいと思うわ」アンは忠誠心がそう言わせた。「マリラは料理が巧いので有名なんだから。あたしに料理を教えてくれてるんだけど、これがねえ、ダイアナ、坂道を上るがごとしなの。料理には想像の余地が少なすぎるのよ。何でも規則ずくなんだもの。この間ケーキを作った時なんか、小麦粉を入れ忘れちゃったし。ちょうどあなたとあたし、二人のそれはもう素敵な話を考えてたのよ、ダイアナ。あなたは天然痘にかかって絶望的、みんながあなたを見離すの、でもあたしだけは何も恐れずに、あなたの側で献身的に看護して命を救うのよ。だけど今度はあたしが天然痘になって死んでしまうの。あたしは墓地のあのポプラの木の根元に埋められ、あなたはお墓の側にバラの木を植えてくれた、あなたの涙の水を注いでくれたのよ。そして、決して、決して忘れなかった、若き日の友、身を犠牲にして命を救ってくれた友を。ああ、何て悲しみを誘う話かしら、ダイアナ。ケーキの材料を混ぜてる時、涙が頬をつたって雨のようだったわ。でも小麦粉を入れ忘れたから、ケーキは大失敗。小麦粉ってケーキの命じゃない。マリラはもうカンカン、無理ないわね。あたしはマリラにとって大いなる試練なのよ。先週もプディング・ソースのことでものすごく恥をかかせちゃった。火曜日のお昼にプラム・プディングを食べたんだけど、プディングが半分とソースが水差し一杯分余ったの。でね、またお昼に食べるから食料棚に蓋をして置いておくように言われたの。蓋をしておくつもりはあったのよ、ダイアナ、でもソースを運んで行くとき、あたしはカトリックの修道女だと想像してたから――もちろんあたしはプロテスタントだけど、その時はカトリックだって想像してたの――ベールをまとって傷ついた心を人知れず胸に抱き、修道院の奥深くへ引きこもっているのよ。だから、プディング・ソースに蓋をするのをすっかり忘れちゃって。次の日の朝思い出したから、慌てて食料棚に走ったわ。ダイアナ、あなたもその場にいたら分かると思うけど、あんなにぞっとしたことないわよ、だってハツカネズミがプディング・ソースに浮いてたのよ! スプーンでネズミをすくって、裏庭に捨ててから、そのスプーンは3回もお湯を替えて洗ったわ。マリラは外で乳搾りしてるところだったから、戻ってきたらこのソースを豚の餌にした方がいいか、ちゃんと聞くつもりだったの。でもマリラが戻った時は、たまたま霜のフェアリーになる想像中。森の中を抜けて色づきたい木々を、赤と黄色の紅葉に染めてあげるのよ。だからまたプディング・ソースのことを思い出せなくて、マリラにリンゴを摘んできなさいって言われて、そのまま外に行ったのよ。それでね、その日の午前中にスペンサーヴェイルからチェスター・ロス夫妻がいらしたのよね。二人ともとても品位にこだわる人達でしょう、奥さんは特にそうよ。マリラからお昼ご飯に呼ばれて家に入った時は、料理は全部でき上がっていて、みんなテーブルについていたわ。あたしはできるだけ丁寧に、品位を失わないように気をつけたの、だってチェスター・ロスの奥さんには、可愛くなくてもレディー風の女の子だって思ってほしかったからよ。マリラがあれを持って来るまでは何もかも順調だったわ、片手にはプラム・プディング、もう片手にはプディング・ソースの水差し、それもなんと暖めて湯気がたってるのよ。ダイアナ、あれこそ恐るべき瞬間というものよ。何もかも思い出したから、席から思わず立ち上がって叫んだわ 『マリラ、使っちゃダメ、そのプディング・ソース。中でハツカネズミが溺れてたの。あたし言うのを忘れてた。』ああ、ダイアナ、あの恐ろしい瞬間は100歳になっても忘れっこない。チェスター・ロスの奥さんは、あたしをただじっと見つめるばかり、あたし、もう恥ずかしくて、どこか穴があったら逃げ込みたかったわ。奥さんの家事は完璧なんだもの、あたし達の事どう思ったか考えて見てよ。マリラは燃え盛る火のように真っ赤になって、だけど何一つ言わなかったの――その時は。ソースとプディングは全部片づけて、代わりにイチゴの砂糖漬けを持ってきたわ。マリラはあたしにも砂糖漬けを勧めてくれたんだけど、でも一口も食べられなかった。だって仇を恩で返されたってことよね。チェスター・ロスの奥さんが帰ってしまうと、マリラにものすごく怒られちゃった。あれ、ダイアナ、どうしたの?」
ダイアナはふらっと立ち上がった。しかしまたへたり込むと、両手で頭を抱えた。
「あた――あたしダメ気持ち悪い」ろれつが回らないようである。「あ――あ――たしすぐ帰らないと」
「えーっ、お茶も飲まずに帰るなんて、そんなのないわよ」せっかくの努力を無にされて、アンが泣き言を並べた。「すぐ準備するから――お茶を淹れてくる、あっという間だから」
「あたし帰る」ダイアナが繰り返した。意識は朦朧としているが意志は固かった。
「軽く食べてから帰って、ね、とにかく」アンが拝み倒した。「フルーツ・ケーキがあるの、ちょっとだけでいいから、サクランボの砂糖漬けも。しばらくソファーに横になったら良くなるわよ。どこが気分悪いの?」
「あたし帰る」とダイアナ。もうこれしか言えない。アンは虚しく説得に当たった。
「お客様にお茶も出さないで返したなんて聞いたことないわよ」と悲しみに浸って言った。「ねえ、ダイアナ、まさか本当に天然痘にかかったんじゃないでしょうね? もしそうでもあたしちゃんと看護するから、大丈夫任せておいて。あなたを見捨てたりしない。でもお願い、お茶が済むまでは我慢して。どこが気分悪いの?」
「すごく目が回る」とダイアナ。
そしてまさしく目が回った人のように千鳥足で歩き出した。アンは、期待はずれの涙を目に一杯ため、ダイアナの帽子を取ってくると、バリー家の裏庭の柵の所までついていった。そして、道々泣きながらグリーン・ゲイブルズに帰って行くのだった。悲嘆に暮れながらキイチゴ水の残りを食料棚に片づけると、マシューとジェリーのために夕飯の準備を終わらせたが、熱意もなく黙々と作業をこなすだけだった。
翌日は日曜で、土砂降りの雨が日がな一日降り続き、アンはグリーン・ゲイブルズに閉じこもりっきりだった。月曜日の午後になって、マリラはアンをリンド夫人の所まで使いにやった。待つまでもなく、アンが小径を飛び戻って来たが、涙をボロボロこぼしながらだった。台所に飛び込むと、ソファーに身を突っ伏して苦しみ悶えていた。
「今度はいったい何だっていうの、アン?」マリラが問い質した。どうしたんだろう、また何かやらかしたんだろうか。「また馬鹿やってリンドさんに生意気な事を言ったんじゃないだろうね」
アンからは何も返事もなく、涙が増水し、すすり泣きの嵐が激しくなっただけだった。
「アン・シャーリー、あたしが質問したら、ちゃんと答えて欲しいもんだね。今すぐに顔を上げてきっちり座って。何を泣いてるか言ってみなさい」
アンは座り直したが、絵に描いたような悲劇の人だった。
「リンドさんが今日バリーさんの奥さんに会ったら、奥さんがすごく怒ってたんだって」アンが泣きながら言った。「土曜日にあたしがダイアナを酔わせて、みっともない様子で家に帰したって言ったんだって。それから、あたしはあまりにも悪い子で、邪な女の子だから、絶対、絶対、二度とダイアナと遊ばせないって。ああ、マリラ、あまりの悲しみに身も世もないわ」
マリラはビックリ仰天して目をみはった。
「ダイアナを酔わせた!」ようやく口が利けるようになってから言った。「アン、あんたかバリーの奥さんか分からないが、おかしいんじゃないかい? あんた、一体全体何を飲ませたんだい?」
「キイチゴ水以外何も」アンがすすり泣いた。「キイチゴ水で酔うなんて思わなかったもの、マリラ――いくらダイアナみたいにタンブラーで3杯も飲んだからって。ああ、なんだか――なんだか――トマスさんとこの、あの旦那さんみたいじゃない! でもあたし、酔わせるつもりなんかなかった」
「酔わせるだって、馬鹿馬鹿しい!」とマリラ。居間の食料棚にズンズンと歩いていった。棚には瓶が一本あったが、一目で3年ものの自家製カラント・ワインを入れた瓶だと見分けがついた。マリラのカラント・ワインはアヴォンリーでは有名だったが、厳格な人々には、例えばバリー夫人はその最たる者だったが、非常に受けが悪かった。その時になって、マリラはようやく思い出した。キイチゴ水の瓶は地下室に置いたので、アンに言ったように食料棚ではなかったのだった。
マリラはワインの瓶を手に持って台所に戻ってきた。笑ってはいけないと思いつつ、顔がピクピクするのを抑えられなかった。
「アン、あんたはやっぱり事件に巻きこまれる才能があるね。あんたダイアナにカラント・ワインを飲ませたんだよ、キイチゴ水じゃなく。違ってるのが分からなかったかねえ?」
「あたし全然飲んでないもん」とアン。「キイチゴ水だとばっかり思ってたし。なんとか、い――い――慇懃におもてなしたかったの。ダイアナはものすごく気分悪くなって、家に帰るってきかないの。バリーの奥さんは、もう死ぬほど酔っぱらってたってリンドさんに言ったんだって。お母さんに、どうしたのって聞かれても、ダイアナは馬鹿みたいにヘラヘラ笑うだけ。それから眠りこんで、何時間も眠り続けたんだって。息をかいでみたらお酒臭くて、それで酔ってるって分かったらしいの。昨日は一日、酷い頭痛が続いたんだって。バリーの奥さんはすっかり怒ってるわ。あたしがわざと酔わせたって思い込んでるのよ」
「バリーの奥さんはダイアナを叱るべきだったね、何にしてもコップ3杯じゃ欲張りってものさ」とマリラはそっけない。「大体、大きなコップに3杯も飲んだら、キイチゴ水でも気分が悪くなるだろうね。やれやれ。カラント・ワインを作るんであたしを良く思ってないあの連中には、この件でうまい口実をあげたことになるか。牧師さんはどうも反対らしいと分かってからは、ここ3年作ってなかったんだけどね。病気になった時用に置いといたんだよ。ほらほら、良い子だから泣かないで。あんたが悪いんじゃないんだから、起こってしまったことは仕方がないさ」
「泣くしかないわ」とアン。「あたしの心は砕け散ったの。運命の星達が天空からあたしを攻め立てるのよ、マリラ。ダイアナとあたしは永遠に別れ別れ。ああ、マリラ、あたし達が友の誓いを口にした時、こんなこと思いもしなかった」
「馬鹿言うんじゃないよ、アン。バリーの奥さんだって、あんたが悪いんじゃないと分かれば考え直すよ。つまらない冗談かそんなつもりであんたがやったと思ってるんじゃないかい。今晩にでも事情を話しに行くのが一番だね」
「怒ったダイアナのお母さんと顔をあわせるなんて、思っただけでもおどおどするわ」とアン。「お願い、替わりに行って、マリラ。マリラの方があたしより堂々としてるもの。多分、あたしが行くより話が早いわよ」
「それもそうだ、あたしが行くよ」とマリラ。確かにその方が賢い解決の道だと考え直した。「もう泣くんじゃないよ、アン。全て良くなるから」
全て良くなるというマリラの意見は、果樹園坂から戻った時にはガラリと変わっていた。アンはマリラが帰るのを待ち構えていたので、ポーチの戸に駆けて行ってマリラを迎えた。
「ああ、マリラ、顔を見ただけで分かるわ、行っても無駄だったのね」悲しげな顔でアンが言った。「バリーさんはあたしを許してくれないんでしょう?」
「バリーの奥さんときたら、まったく!」マリラがビシッと言った。「頭が固い女はたくさんいたけど、あれは最悪だね。今度の件は全てあたしの過ちで、あんたが責められるような事じゃないと言ったんだが、何を言っても聞こうとしないんだから。それに、あたしのカラント・ワインをあげつらって、誰が飲んでも無害なものだっていつもあたしが言ってたじゃないかって、揚げ足とりさ。だからあの人にはこう言ってやったよ、カラント・ワインは一度にタンブラーで3杯も飲むようなものじゃないし、もしうちの子供がそんなにいやしいことをしたら、すぐにひっぱたいて酔いを醒してやるってね」
波立つ心のマリラはさっさと台所に入ってしまい、乱れた心の小さな子供が、ポツンと後に取り残された。やがて、アンは帽子を被るのも忘れて、冷たい秋の夕闇の中へと歩み出した。決然とそして着実に進路を取った。枯れたクローバーの原っぱを抜け、丸木橋を渡り、エゾマツ林を上って、西の森の上に低くかかる青白い月に照らされながら進んで行った。バリー夫人がおずおずしたノックに答えて戸を開けてみると、血の気のない唇で、目に熱を帯びた嘆願者が戸口の段に立っていた。
戸を開けた顔が冷ややかになった。バリー夫人は先入観の影響を受けやすく、好き嫌いがはっきりした女だった。怒るとよそよそしく内にこもるタイプで、なかなか容易に打ち負かせるものではなかった。バリー夫人に公平を期して言うと、夫人の見地では、アンがダイアナを酔わせた一件に関し、純粋にあらかじめ悪意をもって事に当たったのは疑いなく、かくも邪な子供と友誼を継続して、その魔の手にこれ以上委ねられることのないよう、自分の娘は守られるべきであると、真実危惧するところだった。
「何の用?」夫人の言葉は固い。
アンは両手をギュッと前に組みあわせた。
「ああ、バリーさん、どうか許して下さい。あたしはダイアナをその――その――酩酊させるつもりはなかったんです。なんであたしに、そんなことができるでしょう? ちょっと想像して下さらなくては、もし自分が、可哀想な孤児の女の子で、親切にも引き取って下さる人がみつかったけれど、この広い世界に心の友はたった一人いるだけだったとしたら。そしたら、わざわざその心の友を酩酊させたりします? あれはただのキイチゴ水だとばかり思っていました。本当にキイチゴ水だとばかり。ですからお願いです、もうこれ以上ダイアナと遊ばせない、なんておっしゃらないで。もしそんなことになったら、おばさんの言葉は苦悩の黒雲となって、あたしの人生を覆いつくすでしょう」
このセリフは、根が単純なリンド夫人の心を一瞬にして和らげることはできたが、バリー夫人には何の効果も上げず、今まで以上にイライラを募らせる結果に終わった。夫人はアンの大袈裟な言葉遣いと劇的な身振りを胡散臭く思ったし、この子は自分を馬鹿にしていると受け取った。だから、夫人の返答は冷たく容赦のないものとなった。
「あなたはダイアナのお友達には向いているとは言えないわ。お家に帰って行儀良くしていることね」
アンの口元が震えた。
「ダイアナに一目だけ会わせてもらえませんか? お別れを言いたいんです」アンが慈悲を請うた。
「ダイアナはお父さんとカーモディーに行って、今いないわ」とバリー夫人は言って、中へ入るなり戸を閉めた。
絶望に打ちひしがれて、アンは静かにグリーン・ゲイブルズへ戻って行った。
「あたしの最後の希望のともしびが消え失せたわ」アンはマリラにそう語った。「坂を上って一人でバリーの奥さんに会ってきたけど、とても無礼にあしらわれただけ。マリラ、あの人、あまり良い育ちじゃないと思う。もうできるのは祈ることだけ、でもそんなに希望を持てそうにないわね、だってマリラ、バリーの奥さんみたいに頑固な人が相手じゃ、神様でもたいして出来ることは多くなさそうだもの」
「アン、そんなこと言っちゃだめじゃないか」マリラは諌めたが、実は最近秘かに苦労していた。いけないと思いつつ、不信心にも笑いたくなる傾向はをますます強まるばかりだった。そして実際、その晩マシューに一部始終を話した時には、アンの被った試練を肴に、心の底から笑ってしまうのだった。
だが就寝前に東の切妻の部屋にそっとすべりこんで、アンが泣きながら寝入ったのが分かると、いつもは見られることのない、柔らかな表情がその顔に浮かんだ。
「不憫な子」そう呟くと、その子の涙に濡れた顔に垂れた巻き毛を直してやった。それから身をかがめ、枕の上の上気した頬にキスした。
17章 人生に希望が戻る
翌日の午後、アンが台所の窓辺でパッチワークに専念していたのだが、ふと外を見ると、ダイアナが向こうのドライアドのお喋り泉の側で、意味あり気にこちらに手招きしているのが見えた。瞬く間にアンは外へ駆け出して、泉のある窪地に飛んでいった。どうしたんだろ、もしかして、いやあるいはと、意外さと希望の思いが、アンの瞳に錯綜した。しかし希望の方は、元気のないダイアナの顔を見るとはかなく色褪せた。
「ダイアナのお母さん、まだ恨んでるのね?」アンは息をはずませている。
ダイアナは悲しそうに頷いた。
「そうなの。それに、ああ、アン、今後一切アンとは遊んじゃだめなんだって。あたし泣いて泣いてわけを話したのよ、あれはアンが悪いんじゃないって。でもそれも役にたたなくって。どうにかこうにか、さようならを言いにくる時間をちょっとだけもらえたの。10分しかここにいちゃいけないって言われてるの。今も時計を見ながら待ってるわ」
「十分じゃ充分じゃないわ、永遠の別れを告げなきゃならないっていうのに」アンは涙ぐんでいる。「ねえ、ダイアナ、心から約束してくれない? あたしを忘れないこと、若き日の友のことを、なお睦まじき友が御身の心をいざなうことありても」
「何があっても忘れない」ダイアナはすすり泣いた。「これからもう他に心の友は作らないわ――欲しくなんかないもの。他の子なんか愛せるわけない、こんなにアンを愛しているのに」
「ああ、ダイアナ」アンが叫んで、両手をギュッと組み合わせた。「あたしを愛してくれるの?」
「そんなの当たり前よ。分かってなかったの?」
「分からなかった」アンは深く息をついた。「もちろんあたしを好きなんだろうと思ってた。けどあたしを愛してくれるなんて思いもよらなかった。そうよ、ダイアナ、誰かに愛されるかも、なんて、とても思えなかったわよ。誰一人あたしを愛してはくれなかった、どんなに思い出を遡ってみても。ああ、これこそ奇跡よ! ぬばたまの闇隔つ径一筋に、照らす御身よ、とこしえの月。ダイアナ、ね、言ってよ、もう一度」
「あたしはあなたを忠実に愛します、アン」とダイアナが誠心を込めて言った。「そしていつまでも愛し続ける、だから安心していいわよ」
「そしていついつまでも、我は御身ダイアナを愛す」とアンはおもむろに手を差し出して言った。「月日巡るとも、追憶の君はひときわ明るい星に似て、我が孤独の生涯に輝き続けよう、先頃二人で読みし話にあるがごとく。ダイアナ、御身の漆黒の
「何か切るもの持ってる?」ダイアナが訊ねた。心打つアンの声音に感じ入り、新たなる熱き涙を拭いつつ、俗事にも対応するのだった。
「ええ、幸運にも、パッチワークの鋏をエプロンのポケットに入れてたわ」とアン。ダイアナの巻き毛を一房、重々しく切り取った。「いざさらば、愛しき友よ。これを限りに、軒を並べて住まうとも互いに我らは見知らぬ同士。しかれども我が情熱は永遠の誠を御身に誓うものなり」
アンはダイアナの姿がすっかり消えるまで、じっとその場で見送った。ダイアナが名残惜しそうに振り返るたび、哀しく振る手に想いの丈を込めるのだった。そしてアンは家に戻ってきた。しばしの間、この
「これで何もかも終わり」マリラにそう告げた。「友達は二度と作らない。昔より今の方がずっと酷いわ、だってケイティー・モーリスも、ヴァイオレッタも今はいないんだもの。たとえいたとしても、昔と同じになれないわ。どう逆立ちしても、夢の中の女の子じゃ、本物の友達のように満足できないかも。ダイアナとあたしは、泉の側で心打つ別れを交わしたの。今日の別れを、永久に神聖な想い出として胸に刻むわ。あたしね、思いつくかぎり、何よりも情感溢れる言葉を選んで、『御身』とか『君』って言ったの。『御身』も『君』も『あなた』より、ずっとずっと
「それだけ喋れるんなら、あんたが悲しみに打ちひしがれるあまり死ぬ心配はなさそうだね、アン」と、マリラは同情のかけらも見せてくれなかった。
次の月曜日、アンは自分の部屋から降りてきて、マリラを驚かせることになった。本を詰め込んだバスケットを小脇に抱え、キッと一直線に結んだ唇が、意志の固さを物語っていた。
「あたし学校に戻る」アンが通告した。「あたしにできる事はもうこれしかないの、無残にも友達と引き裂かれてしまったんだもの。学校に行けばダイアナの姿を見られるし、過ぎ来し日々に想いを巡らすこともできるわ」
「授業と算数に想いを巡らす方がましだよ」とマリラ、事態が好転の兆しを見せて嬉しかったのは隠しておいた。「もし学校に戻るんなら、またまた誰かの頭で石盤を割っちゃいましたとか、そんな類いの事を聞かされることのないように頼むよ。行儀良く、万事先生の言うとおりにね」
「模範的な生徒を目指してみる」アンが鬱々として承諾した。「面白くはなさそうだけどね、きっと。フィリップス先生に言わせると、ミニー・アンドリューズが模範生なのよ、あの子には想像の閃きも人生の輝きも、持ち合わせがないのにね。単につまんなくて大人しい子ってだけ。きっと楽しい事なんか何もないのよ。でもあたし、すごく落ち込んでるから、たぶん今ならそんなの簡単ね。街道を回り道して行くことにするわ。樺小径を一人ぽっちで歩くなんて耐えられそうにないもの。そんなことしたら、涙が次々溢れてくるのは確実よ」
学校に戻ってみると、みんながアンを暖かく迎えた。アンの想像力の魔法が働かない遊びは色彩を欠いていたし、アンの歌声も芝居がかった身振りも、昼食時の唱歌遊びや朗読会には欠くことのできないものだった。ルビー・ギリスは聖書の朗読の時間に、青いプラムを3つ、こそっと渡してくれた。エラ・メイ・マクファーソンは、花のカタログの表紙から切り抜いた、とても大きな黄色いスミレの絵をくれた――アヴォンリー小学校では、花の切り抜きで机を飾るのが、非常に流行っていたのだ。ソフィア・スローンは、レース編みの図案を教えてあげると言ってくれた。とても上品な模様で、エプロンの縁取りにピッタリだった。ケイティー・ボールターは石盤消しの水を入れる香水瓶をくれたし、ジュリア・ベルは、波模様で縁取られた淡いピンクの紙に丁寧に書き写した、次のような詩を贈った。
アンへ
黄昏の女神が夜の帳を下ろし 一番星のピンで留める頃 思い出して、あなたには友がいることを たとえ遠くさまよっていたとしても
「ちゃんと評価されるって気持ちいいわ」感極まったアンはため息を交えながら、その晩マリラに語った。
女生徒だけがアンを「評価した」わけではなかった。アンが昼食の後で席に戻ってみると――アンはフィリップス先生から、模範生であるミニー・アンドリューズと同席するよう言われていた――机の上に大きな「ストロベリー・アップル」が誘うように置いてあった。アンは思わず手に取って口を開けたが、そこで思い出した。アヴォンリーでストロベリー・アップルを作っているのはたった一ヶ所、輝く水面の湖の向こう側にある、ブライス家の古い果樹園だけよ。真っ赤に焼けた石炭に変貌したそのリンゴを取り落とすと、どうぞ見て下さいと言わんばかりにハンカチで手を拭った。そのリンゴはもはや触れられることもなく、翌日の朝まで机の上に置き去りになっていたので、ティモシー・アンドリューズ少年が学校の掃除とストーブに火を起こしに来たときに、これぞ役得とばかり懐に入れてしまった。チャーリー・スローンの石盤用の石筆は、赤と黄色のストライプ模様の包装紙で贅をつくしてごてごて飾られていて、普通の石筆の価格がわずかに1セントなのに対し2セントもするものだったが、昼食の後にアンに贈られると、ずっと色よい返事がなされた。アンは鷹揚に感謝して受け取ると、送り主には笑顔で報いるのだった。その笑みは、舞い上がった若者をそのまま真っすぐ第七天国の喜びの高みへと羽ばたかせてくれたが、その結果、書き取りで大間違いをしでかして、フィリップス先生から、放課後居残って書き直しを命ぜられた。
しかし、
シーザーの行列にはブルータスの胸像の姿無く だがそれ故に、ローマの最も良き息子を、ローマ人は余計に想い起こす
とあるとおり、ガーティー・パイと並んで座るダイアナ・バリーからは、一切の愛情の証しも会釈さえ得られないのは明かであり、アンのささやかな凱旋に苦い花を添えた。
「ダイアナも、一度くらいあたしに笑顔を見せてくれても良さそうなのに」アンはその晩マリラ相手に嘆いた。しかし、翌朝、これでもかと恐ろしくまた奇跡的にねじり上げ折り畳まれた1枚のメモと小さな包みが、アンの席まで手渡されてきた。
親愛なるアン(とメモは始まっていた)
お母さんから、学校にいる間もアンと遊んだりしゃべったりしちゃいけませんと言われてます。あたしのせいじゃないので気を悪くしないで下さい、あたしはアンを今までどおり愛していますから。アンがいなくてすごくさびしいです。あたしの秘密をなんでも話したいのに。それにガーティー・パイはちっとも好きになれません。アンのために新式の本のしおりを、赤の薄葉紙で作りました。今すごくはやっていて、学校でも3人しか作り方を知りません。これを見ながらあたしを思い出して下さい
あなたの真の友
ダイアナ・バリー
アンはそのメモを読むとしおりにキスし、早速に学校の遥か反対側へと返事を返信した。
わが愛しきダイアナ――
もちろん気を悪くなんかしていません、だってあなたはお母さんの言うことをきかなくてはいけないもの。あたしたちの気もちは通じあえるんです。ダイアナのすてきなプレゼントは永久にとっておきます。ミニー・アンドリューズはとても良い子です――想像力はゼンゼンだけど――でもダイアナという必の友をもったあとでは、ミニーとは友だちにはなれません。字が間ちがいだらけでごめんなさい。つづりはまだあまりうまくないんです。これでも少しは真歩したのよ。
死が二人をへだてるまであなたの
アン あるいは コーデリア・シャーリーついしん。今夜はあなたの手紙をまくらの下においてねむります。
A. あるいは C.S.
アンがまた学校に通い始めることになって、マリラは新たな事件が起こるのではと、悲観的にならざるをえなかった。だが蓋を開けてみると何の事件も起こらなかった。もしかすると、アンは「模範的な」ミニー・アンドリューズから、なにがしか得るものがあったのかもしれなかった。少なくともフィリップス先生とは、その後巧く折り合いがつけられるようになった。アンは一心に勉強に励み、どの教科でもギルバート・ブライスには負けられないと意を決したものとみえた。二人がライバル関係にあることはすぐに表沙汰になった。ギルバートの方では別に後ろ暗いところはなかった。ただアンにとっても同じことが言えたかどうかは怪しいものだった。アンは天晴れとは言い難いほどしつこく、いまだに恨みを抱いていたのは確かだった。愛と同様に、憎しみにも情熱を傾けるアンだった。アン自身は、授業でギルバートと張り合っているなどと認めて、身を貶めるつもりは毛頭なかった。もしそうなれば、これまで徹底して無視してきたギルバートという存在を、容認することになるからである。しかし二人の間の競争は、今ここにある現実であり、両者の間で栄誉が行き来した。ギルバートが綴りの授業で一番になったと思うと、ぷいと長く赤いおさげを振り立てて、今度はアンが綴り倒した。ある日午前の授業でギルバートが算数を奇麗にこなし、名前を黒板に書かれ表彰された。翌日の朝の授業では、前日の夕方を全部潰して小数と激しく格闘してきたアンが、今度は一番になった。ある不運な日には二人とも同点だったので、二人一緒に名前が書かれることになった。これは「気になる二人」と書かれたも同然で、アンが酷く傷つき、一方のギルバートが嬉しそうなのは、誰の目にも明らかだった。毎月恒例の月末試験が行われる時など、アンはいても立ってもいられないほどピリピリしていた。最初の月はギルバートが3点上だった。その次はアンがギルバートを破って5点リードを奪った。しかしアンの勝利は、ギルバートがみんなの前で心からアンを褒めてしまったため、台無しになった。ギルバートの心に挫折の疼きを感じさせてこその勝利の旨酒だったのに。
フィリップス先生はあまり良い教師とは言えなかっただろう。しかし生徒が、アンのようにこうも頑固にやる気を出して勉強し始めたら、どんな先生の元であろうが進歩しないわけにいかないものである。期末にはアンとギルバートは二人ともめでたく5年の授業に進級と相成った。つまり「分科」の基礎について勉強を開始するすることが許されたのである――それはラテン語、幾何、フランス語、そして代数を意味していた。幾何の授業で、アンはワーテルローの大敗を喫することになった。
「これがとんでもなく大変なのよ、マリラ」アンがうめいた。「もうあたし、何がなんだかさっぱりよ。全然ちっとも想像の広がりが感じられないの。フィリップス先生からも、今まで見たことがないくらい出来が悪いって言われたし。それにギル――えっと、他にさっさと解ける人達もいるのよ。ものすごく屈辱的だわ、マリラ。
ダイアナだってあたしよりよく分かるのに。でもダイアナに負けても気にならないのよね。たとえあたし達が見知らぬ同士であっても、それでも消えることのない愛でダイアナを愛してるの。ダイアナのことを考えるたびに、とっても悲しくなっちゃう。でも、マリラ、誰だって悲しい悲しいって、いつまでもいるわけにはいかないわよね、世界はこんなに面白いんだもの、でしょ?」
18章 アン、救助に向かう
重大な出来事というものは、みな些細な出来事の積み重ねに帰結するものである。カナダの某首相がプリンス・エドワード島を遊説先リストに組み込んだなど、一見したところグリーン・ゲイブルズのアン・シャーリーという子の運命に、何のかかわりもないように思えるだろう。だが、事実そうなったのである。
首相が遊説にやって来たのは1月のことで、忠誠心厚い支持者にはもちろんのこと、シャーロットタウンで催される大集会に来てみた非支持者にも演説するためである。アヴォンリーの大多数は政治的には首相側だったから、それゆえ集会の晩は、男はほぼ全員、女もかなりの割合で30マイル離れた町に出かて行った。レイチェル・リンド夫人も出かけて行った。レイチェル・リンド夫人は政治が何より好きで、この政治集会は自分が出向かなければ、始まるものも始まらないと考えていた。自分とは反対側の党の政治集会だったのだが。そんなわけで夫人は夫連れで町に出かけた――トマスは馬番役に好都合だから――そしてマリラ・カスバートも二人に同行した。マリラも実は政治に興味があって、首相を直に見る
そうしてマリラとレイチェル夫人が大集会を心ゆくまで楽しんでいる一方で、アンとマシューもグリーン・ゲイブルズの台所で二人きりの愉快な時を過ごしていた。昔ながらのウォータールー・ストーブには明るい炎が燃えさかり、青っぽい白の霜の結晶が窓ガラスに光っていた。マシューはソファーに座って「農民の代弁者」という雑誌を開いたまま、こっくりこっくり舟を漕いでおり、アンはテーブルで眉間にしわを寄せて学校の勉強に取り組んでいたが、時折、物欲しそうに時計が置いてある棚の方をちらちらと見ていた。そこに置いてあるのは、ジェーン・アンドリューズがその日貸してくれた新刊本だった。ジェーンの話によれば、その本を読めば、ぞくぞくするほどスリル、というより、スリルに満ちた表現を味わえるのは確実とのことだったので、アンの指は本を求めて我知らずピクピクと引きつるのだった。だが、本を読んでしまえば、明日はギルバート・ブライスが勝利してしまう。アンは時計の棚に背を向け、そこには本なぞありはしないと努めて想像した。
「マシュー、学校に通ってた時、幾何の勉強したことある?」
「うむ、そうだな、いや、わしはしなかったな」とマシュー、びっくりして居眠りから覚めたところだ。
「してくれれば良かったな」アンがため息をつた。「そしたら、同情してもらえたのに。勉強したことないんじゃ、ちゃんと同情してもらえないわ。幾何って、あたしの全人生に影を落とす黒雲だわ。あたし幾何はすっかり落第生なの、マシュー」
「うむ、そうだな、分からんが」とマシューが慰め顔で言った。「おまえなら万事結構にやれると思うがな。フィリップス先生が、先週カーモディーのブレアの店で、わしに言ったんだが、おまえは学校で一番賢い生徒で、飛躍的進歩を遂げているんだそうだ。『飛躍的進歩』、そう言っとった。テディー・フィリップスは先生としちゃなっとらんと、ケチをつける者もいるようだが、わしは万事結構な先生だと思うがな」
マシューの思うところでは、アンを褒める者は誰でも「万事結構」なのだった。
「幾何だってもう少しなんとかなると思うわよ、先生が記号を変えなければね」アンがこぼした。「定理をひとつ覚えるでしょ、そうすると先生が黒板に図を描いて、教科書に書いてるのと別の記号を付けるのよ、だからこんがらがっちゃうの。先生だからって、こんなズルしなくてもいいのに、ね? あたし達今、農学も習ってるんだけど、何で道が赤いかついに分かったの。これで一安心だわ。マリラとリンドさんは今ごろ楽しんでるんだろうなぁ。リンドさんが言ってたけど、オタワで政治が運営されてる限り、カナダは惨めになる一方だから、有権者は真剣に受け止めないといけないんだって。もし女に投票権があったら、もっといい世界になるだろうって言ってたわ。どっちに投票するの、マシュー?」
「保守党だよ」マシューは即座に言った。保守党に投票するのは、マシューの宗教の一部をなしていた。
「じゃ、あたしも保守党にする」アンが言い切った。「良かった、だってギル――学校の男の子で自由党の子がいるんだもの。フィリップス先生も自由党だと思うな。プリシー・アンドリューズのお父さんが自由党だからよ。ルビー・ギリスが、男が求婚する時は、求婚先の母親の宗教と父親の政見に合わせるのが常套手段だって言ってたわ。これ本当、マシュー?」
「うむ、そうだな、わしには分からんな」とマシュー。
「今まで求婚したことある、マシュー?」
「うむ、そうだな、ないな、一度もしたことがないと思うな」とマシュー、人生を振り返って見ても、確かにそんな事は一度たりと考えもしなかった。
アンは頬杖をついて考え込んだ。
「きっと面白いことなのよ、そう思わない、マシュー? ルビー・ギリスは、大人になったら恋人をたくさん作って、操り人形みたいにみんなを恋狂いにさせるんだって。でもそれじゃ刺激的すぎると思う。あたしは正気な一人がいればもうたくさん。ほら、ルビー・ギリスってこういうことになると、ほんとにいろんな事を知ってるから、だって、年上のお姉さんがたくさんいるんだもの。リンドさんなんか、ギリス家の娘はホットケーキみたいに売れ行き上々って言ってたわ。フィリップス先生は、ほとんど毎晩プリシー・アンドリューズの所に通ってるの。先生は授業見てあげているんだって言ってるけど、ミランダ・スローンもクイーンに入る受験勉強をしてるんだし、ミランダの方がプリシーよりずっと見てあげる必要があると思うわ、頭悪いんだもの。でも先生は一度もミランダの家に行ったことないのよ。世の中分からない事だらけだわ、マシュー」
「うむ、そうだな、わしも全部分かるわけじゃないがな」マシューが素直に認めた。
「さあて、勉強を終わらせないと。ジェーンが貸してくれた新刊本は、これが終わるまで開かないつもりよ。でも、辛い誘惑なの、マシュー。本に背中を向けても、手に取るようにそこにあるのを感じるの。ジェーンは読みながら泣けて泣けてしょうがなかったんだって。泣ける本はあたし大好きなの。ああダメ、あの本は居間に持って行って、ジャムの戸棚に鍵をかけてしまい込まなくちゃ、鍵はマシューが預かってね。絶対あたしに渡しちゃだめよ、マシュー、たとえあたしが跪いて請い願おうとも、勉強が終わるまでは渡さないでね。誘惑に耐えるって言うだけなら簡単だけど、鍵がなければもっと耐えやすいもの。ね、あたし地下室に行って赤リンゴを取って来ようか、マシュー? 赤リンゴ好きじゃない?」
「うむ、そうだな、わからんが、じゃあ貰おうか」とマシュー。赤リンゴはいつも食べないマシューだったが、アンが赤リンゴに目がないのはちゃんと知っていた。
ちょうどアンが、地下室から皿に山盛りの赤リンゴを捧げながら得意満面で現われ出たところで、外の凍てつく板道をダダダッと駆ける足音が聞こえて来たと思うと、次の瞬間、台所の戸がバンと開いて、ダイアナ・バリーが飛び込んできた。真っ青な顔でゼイゼイ息を切らし、頭には取り急ぎショールを巻いただけの格好だった。びっくりしたアンは、その場でお皿も燭台も放り出してしまった。皿と燭台とリンゴは砕けて割れて一緒くたにガチャガチャと階段を転げ落ち、翌日、地下室の床に溶けた蝋燭とひと塊になっているのをマリラに発見されたが、かけらを拾い集めながら、マリラは火事にならなかった幸いを神に感謝したのだった。
「どうしたっていうの、ダイアナ?」アンは叫んだ。「お母さんから晴れてお許しが出たの?」
「お願い、アン、すぐ来て」不安げなダイアナが取りすがった。「ミニー・メイが酷い病気になったの――喉頭炎にかかったのよ。メアリー・ジョーがそう言ってるわ――お父さんもお母さんも町に出かけていないし、誰もお医者を呼びに行ける人がいないの。ミニー・メイはすごく悪くて、なのにメアリー・ジョーはどうしたらいいかわからない――どうしよう、アン、あたし怖い!」
マシューは一言も言わず、帽子と外套に手を伸ばすと、ダイアナの脇をすり抜けて真っ暗な庭に出ていった。
「マシューは馬車に馬を付けに行ったわ、医者の先生を呼びにカーモディーに行くのよ」アンがフードとジャケットを急いで着ながら言った。「分かるのよ、ちゃんとそう言ったみたいにね。マシューもあたしも心の波長が同じでしょ、だから言葉を交わさなくても何をするつもりなのかピンと来るのよ」
「カーモディーじゃ先生は見つかりっこないわ」ダイアナがしゃくり上げた。「ブレア先生は町に行っているはずだし、スペンサー先生もやっぱり出かけてるわよ。メアリー・ジョーは喉頭炎の人なんか一度も看護したことないし、リンドさんは出かけてるし。どうしよう、アン!」
「泣かないの、ダイ」と、アンは元気だった。「喉頭炎ならどうしたらいいか、あたしがちゃんと知ってるんだから。ハモンドさんの家に双子が三組いたのを忘れてるわね。三組も双子の面倒を見れば、嫌でも経験豊富になっちゃうのよ。几帳面にみんな喉頭炎にかかったものだわ。ちょっと待ってて、
二人の少女は手をしっかり握り合い、恋人小径を抜け、雪がかたまった畑を渡って急いだ。森の道は雪が深すぎて近道できなかったのだ。アンは、心の底からミニー・メイを可哀想に思う一方、今という状況のロマンスと、そのロマンスを同じ波長の魂といま一度分かちあえる心地よい甘さを、無関心とはほど遠く感じていた。
澄み切って凍てつく晩だった。漆黒の影、白銀の坂。深閑たる畑を見下ろす輝く巨星。かなたこなたに天指す黒きモミ、雪かぶる枝、吹きすさぶ風。アンが想いを巡らすのは、この混じり気なく喜ばしき道行きのこと、密やかで愛しいこの地を滑るがごとく走り抜けて行くこと、かくも長き別離の後に心の友と共にあることだった。
3つになるミニー・メイの病状は実際酷いものだった。台所のソファーに寝かされ、高熱でうなされていた。ヒューヒューという息が家中に響き渡った。メアリー・ジョーはふっくらした、顔の大きい入江地区から来ているフランス系の娘で、バリー夫人が外出の間だけ雇われて子守に来ていたのだが、頼りなくうろうろするばかりで、何をしたらいいか頭が回らず、例え何か思いついたとしてもどうしたらいいか皆目見当がつかないという有り様だった。
アンは手際よくテキパキと働きだした。
「ミニー・メイは確かに喉頭炎ね。かなり悪いけど、でももっと悪いのも看護したことある。まずはお湯がたくさん要るわ。何これ、ダイアナ、ケトルにお湯がほとんど残ってないじゃない! 良しと、これで一杯になった。次は、メアリー・ジョー、ストーブに薪をくべて。心を傷つけるようで悪いんだけど、もしちょっとでも想像力があったら、こんなこと気づいてるはずだわ。じゃ、ミニー・メイの服を脱がせてベッドに連れてくから、柔らかいフランネルの布を探してきて、ダイアナ。とにかくこの子にイペカックを飲ませなくちゃ」
ミニー・メイはなかなかイペカックを飲み込んでくれなかったが、アンはだてに3組も双子の面倒を看たわけではなかった。イペカックは、長く不安な夜の間中、一再ならず喉を通り抜けた。その間、二人の少女達は苦しがるミニー・メイを忍耐強く看護した。一方、気の良いメアリー・ジョーもできることは何でも手伝おうと、轟々とストーブに火を起こし、喉頭炎の赤ん坊だらけの病院を丸ごと面倒みられるだけのお湯を沸かした。
3時になってようやくマシューと医者が到着した。マシューはわざわざスペンサーヴェイルまで足を伸ばさなくてはならなかったからである。しかし、火急の治療はすでに不要となっていた。ミニー・メイはかなり良くなっており、スヤスヤと眠っていた。
「もう少しで絶望して諦めるところだったんです」アンが経過を説明した。「ミニー・メイはどんどん悪くなるばかりで、ハモンドさんの双子達より悪くなって、一番最後の双子よりずっと酷かったわ。実は、息が詰まって死ぬんじゃないかって思ったの。瓶に入ってるイペカックは全部余さず飲ませたわ。最後の1服が喉を通ったとき、自分に言い聞かせたの――ダイアナとメアリー・ジョーには黙ってたんだけど、だってもうこれ以上心配させたくなかったから。でも、気持ちを落ち着かせるために、自分にだけは言わなくちゃいけなかった――『つれない望みも尽きようとしている、もはやこれまでか』でも、3分くらいしたら咳といっしょに痰を吐き出して、すぐに良くなり始めたんです。どれだけ安心したか想像してみて、先生、あたし言葉に表せない。言葉に表せないことってあるでしょ?」
「ああ、分かるよ」医者が頷いた。医者はアンを見つめて、アンのことで何事か考えているようだったが、やはり言葉に表せないようだった。その場では何も言わなかったが、後に医者はその事をバリー夫妻に語った。
「カスバート家に貰われたあの赤毛の女の子は賢い子ですよ、いや参ったな。赤ん坊の命を救ったのはあの子です。私が着いた時には手遅れだったはずですから。看護慣れしていて平静沈着だったようだし、まだ子供だというのにまったく素晴らしい。あの子のような瞳は見たことがありません、病状を説明している時の様子ときたら」
アンは家路についていた。夢のような真っ白に凍りついた冬の朝だった。寝不足でまぶたが重い。それでも疲れも見せずマシュー相手にお喋りを続けた。二人は長く真っ白な畑を横切り、恋人小径のカエデでできた、キラキラ輝くフェアリーのアーチの下を抜けて歩いていった。
「ねえ、マシュー、夢のような朝じゃない? この世界は、神さまが自分で楽しむために想像したものだったって感じるわよね? 向こうの木なんか、一息で吹き飛ばせそうだわ――プーッ! 真っ白な霜がある世界に住めてすごく嬉しいわ、ね? 結局、ハモンドさんの家に3組双子が産まれて感謝してるの。もし双子が産まれなかったら、ミニー・メイをどうしていいか分からなかったはずだもの。双子が産まれすぎたからハモンドさんを悪く思ったなんて、本当に申し訳ないわ。でも、ね、マシュー、あたしすごく眠い。学校には行けっこない。絶対目を開けていられないし、眠くてボーッとしちゃうわ。だけど、家にいるのは嫌。だってギル――学校の誰かがクラスで一番になっちゃうし、それをまた負かすのは大変なのよ――もちろん大変だからこそ、負かしたときに満足感があるんだけど、でしょ?」
「うむ、そうだな、おまえなら万事結構に運べると思うがな」とマシュー、アンの小さな顔が青ざめて、目の下にクマできているのが気になった。「すぐにベッドに入ってよく眠るんだ。残った仕事はわしがやっておくよ」
アンは言われるままにベッドに入って、長いことぐっすり眠った。白とバラ色に包まれた冬の午後になってようやく目を覚ますと、台所に降りてきた。その間にマリラが家に戻っていて、座って編み物をしていた。
「ね、首相を見てきたんでしょ?」顔を見るなりアンは元気に訊ねた。「どんな人だった、マリラ?」
「そうだね、見栄えで首相になったんじゃないのは確かさ」とマリラ。「あの鼻ときたら! だけど話はなかなかのものだった。あたしは保守党で良かったと思ったね。レイチェル・リンドはもちろん自由党だから、気に入るはずもないよ。あんたのお昼ご飯はオーブンの中だよ、アン、ブルー・プラムの砂糖漬けを貯蔵棚から出して食べていいよ。お腹が空いてるだろ。マシューが夕べのことを話してくれたよ。あんたが看護のやり方を知ってて運が良かったよ。あたしじゃ何をしたらいいか分からなかったろうし、なにしろ喉頭炎なんか看たことないからね。ほら、ご飯が終わるまでお喋りはお預けだよ。お喋りしたいって顔に書いてあるけど、後からで十分さ」
マリラはアンに言うべきことがあったが、今は言わないでおいた。言ってしまえば興奮で舞い上がって、食欲とか食事などという現実世界のことなど気にしなくなるのは分かっていた。アンが皿に乗ったブルー・プラムを食べ終わるのを待ってマリラが言った。
「バリーの奥さんが午後にいらしたよ、アン。あんたに会いたがったけど、起こすつもりはなかったんでね。ミニー・メイの命をあんたに救ってもらったことと、カラント・ワインの件ではとても済まないことをしたっておっしゃってね。ダイアナを酔わせるつもりがないことが今では分かってるから、許して欲しいと思っていること、またダイアナと良い友達になって欲しいんだとさ。あんたさえ良かったら、夕方に出かけて行ってもいいよ。なんでもダイアナが夕べ酷い風邪をひいたんで、家の外に出られないんだよ。ほら、アン、頼むから舞い上がるんじゃないよ」
この警告はあながち的外れとは言えなかった。アンの表情も気持ちも空高く高揚し、その顔は魂の燃え上がる炎で明るく照らされていた。
「ね、マリラ、今すぐ行っていい――お皿はそのままで? 帰ってから洗うから、でもこんなゾクゾクする瞬間に、お皿を洗うなんてそんな
「分かった、分かった、行っといで」親馬鹿なマリラだった。「アン・シャーリー――あんた何考えてるんだい? すぐ戻って来て何か着て行きなさい。これじゃ風に呼びかけた方がましだね。帽子もショールもなしで行っちゃったよ。髪をなびかせて果樹園を突っ切って行くじゃないか。死ぬほど酷い風邪をひかなかったら、儲け物だね」
アンは紫の冬の黄昏の中、雪深い場所もなんのその、踊りながら帰ってきた。遠く南西には、ちらちらとひときわ輝く真珠のような宵の明星が、薄金色の無限に澄んだバラ色の空にはめ込まれ、台座はきらめく雪白の広がりと黒いエゾマツの峡谷だった。チリンチリンと鳴る
「見て、これこのとおり、完璧な幸福を活人画にしてみました、マリラ」アンがお披露目した。「あたし今完璧に幸せ――そう、髪が赤いのによ。今というひとときは、赤毛なんて構ってられない。バリーさんね、あたしにキスして泣きながらこう言ったの、本当にご免なさい、お礼の言い様もないわって。すごく落ち着かなかったわ、マリラ、でもあたしはできるだけ丁寧にこう言っただけ。『あなたを悪く思ったりしていません、バリーさん。ただこれだけは確かなんです、あたしはダイアナを酩酊させるつもりはなかった、という事です。よってこれより後は、忘却のマントで過去を覆い隠すことにします。』なかなかどうして堂々たる話しぶりでしょ、マリラ?
バリーさんの仇に恩で報いた気分だったわ。それにダイアナと二人の午後は素敵だったわ。ダイアナはあたしに新しいかぎ編みの編み方を教えてくれたの、カーモディーのおばさんに習ったんだって。アヴォンリーではあたし達の他には誰一人知らないのよ、二人で厳粛な誓いを立てて誰にも秘密を明かさないことにしたわ。ダイアナはあたしにバラの花輪の絵の奇麗なカードをくれたの。詩の一節が書いてあるのよ。
我が愛の如く、御身の愛あらば 隔てうる者、死の他になし
そうよ、これこそ真実なのよ、マリラ。あたし達フィリップス先生に学校でまた同じ席に座れるようにお願いするの。ガーティー・パイにはミニー・アンドリューズと座ってもらうわ。お茶は上品で良かったわ。バリーさんは一番いい茶器を使ってくれたのよ、マリラ、あたしがまるで本当のお客様みたいだったわ。どれだけゾクゾクしたか説明できない。あたしのためにわざわざ一番いい茶器を使ってくれる人なんて誰もいなかったもの。フルーツ・ケーキとパウンド・ケーキとドーナツ、あと砂糖漬けは2種類出されたわ、マリラ。それから、バリーさんがお茶をもう一杯勧めてくれてから、こう言ったの『お父さん、アンにビスケットをお渡しして下さらない?』大人になるってきっと素敵なことね、マリラ、大人になったつもりでも、こんなにいい気分なんだもの」
「どうだかね、分からないよ」と、マリラが短くため息をついた。
「そう、でもとにかく、あたしが大人になったらね」アンが言い切った。「小さな女の子に話しかける時は必ず、その子も大人だという目で見てあげることにするわ。だから大袈裟な言葉を使っても笑ったりしない。あたしの悲惨な経験上、どれだけ傷つくか分かるのよね。お茶の後で、ダイアナと二人でタフィーを作ったの。タフィーはあまり巧く作れなかったと思う、だってダイアナもあたしも今まで作ったことなかったんだもの。タフィーをかき回すのはあたしにまかせて、ダイアナはお皿にバターを塗ってたんだけど、あたし忘れてたから、タフィーが焦げちゃったのよ。それから、台に乗せて冷やしてるうちに、猫がお皿の上を歩いたので、それは捨てることにしたの。でもタフィー作りは楽しかったわよ。あとね、帰るときにバリーさんがちょくちょく遊びに来てねって言ってくれたの。恋人小径を下っていく時、ダイアナはずっと窓の所であたしにキスを投げてくれたわ。自信を持って言えるけど、マリラ、今夜はほんとにお祈りしたい気分。今日という日を記念して、特別に真っさらのお祈りを考えるつもりよ」
19章 コンサート、大失態、そして懺悔
「マリラ、ちょっとダイアナの所に行ってもいい?」とアンが訊いた。東の切妻から息をはずませて駆け降りてきたところだ。頃は2月、ある日の夕方のことだった。
「何でまたうろつかなくちゃいけないんだね、もう暗いじゃないか」愛想なくマリラが言った。「あんたもダイアナも、学校から一緒に帰る道で喋り、雪の中で突っ立っては半時間以上も喋り、どっちの舌もいい加減動きっぱなしだろう、まあペチャクチャ・ペチャクチャと。だから、またダイアナと会わなきゃ困ることなんかまったくないと思うがね」
「でも、ダイアナがあたしに来て欲しがってるの」アンが頼み込んだ。「何かとても重要な事を伝えたいのよ」
「どうして分かるんだい、そんなこと?」
「それは、ダイアナが窓から信号を通信してきたからよ。あたし達、ローソクと厚紙で信号の手順を決めたの。窓枠のところにローソクを置いて、厚紙を左右に動かしてチカチカさせるのよ。たくさんチカチカさせるとある意味になるの。この方法はあたしが考えついたのよ、マリラ」
「確かにあんたが考えそうなことだ」とマリラが力強く保証した。「次には、馬鹿な信号ごっこでカーテンに火がつくだろうさ」
「そんなことないわ、二人ともちゃんと注意してるわよ、マリラ。それにすごく面白いの。チカチカ2回の意味は『そこにいる?』3回で『はい』4回は『いいえ』よ。5回だと『急いで来て、重要な事が待っているわ』なの。ダイアナは5回チカチカさせたから、あたし何があったか知りたくて悶々としてるのよ」
「じゃあ、もう悶々とする必要はないさ」マリラは皮肉を言った。「行ってきてもいいけど、10分で戻ってくるんだからね、忘れるんじゃないよ」
アンは確かに条件どおり忘れずに戻ってきたのであるが、ダイアナからの非常通信の内容を、限られた10分間に圧縮して受け取るためいかなる犠牲を払ったか、誰一人として知る者はなかった。ただ少なくともその10分を有効利用したのは確かである。
「わあい、マリラ、何だと思う? 明日はダイアナの誕生日じゃない。それでね、ダイアナのお母さんが、学校から直接ダイアナの家に行って、そのまま一晩過ごしたらって、言ったんだって。ダイアナのいとこが、ニューブリッジから箱橇で来るの。明日の晩に公会堂で開かれる討論クラブのコンサートを見に来るのよ。でね、ダイアナとあたしもそのコンサートに連れて行ってくれるらしいの――マリラが行かせてくれたらだけど、そうするって言ってたわ。行かせてくれるでしょ、行かせてくれない、マリラ? ああ、もうドキドキしてるわ」
「そういうことなら、気を落ち着けて構わないよ、あんたは行かないんだから。家にいてベッドで休むべきだね、クラブのコンサートの事だけど、あんなのはまったく下らないし、子供が出かけていいような所じゃないよ」
「討論クラブはちゃんとした催しだわ」アンが弁護を買って出た。
「ちゃんとしてないとは言っていないよ。でもね、コンサートなんかに出歩いて、一晩中夜遊びするようになって欲しくないからね。とんでもないことさ、子供のすることじゃないよ。大体驚くじゃないか、あのバリーさんがよくダイアナを行かせるもんだね」
「でも、今回は特別重要な機会なの」涙を滲ませてアンが嘆いた。「ダイアナの誕生日は年に一回しかないのよ。誕生日は平凡な出来事なんかじゃないわよ、マリラ。プリシー・アンドリューズは『晩鐘よ、今宵響くなかれ』を暗誦するの。これなんか道徳的で立派な作品よ、マリラ。それを聞いたら、きっとあたしにも良い影響があると思うわ。それから聖歌隊はそれはそれは悲壮な歌を4曲合唱するの。賛美歌とほとんど同じくらいためになるわよ。それから、そうだ、マリラ、牧師さんも参加するんだった。嘘じゃないわ、本当にそうなのよ、式辞を述べることになってるの。ほら、説教と同じようなものよ。お願い、行ってもいいでしょ、マリラ?」
「あたしが言ったことは聞こえたはずだろ、アン、そうだろ? さっさとブーツを脱いで寝なさい。8時を回ってるよ」
「あと一つだけ、マリラ」と、アンはせめて最後の一矢を報いるべく試みた。「バリーさんがダイアナに言ったんだけど、二人で客用寝室に寝てもいいんだって。これは光栄なことよね、我が家のアンがなんと客用寝室に寝かせてもらえるのよ」
「そういう光栄はなしで済ますんだね。寝なさい、アン、もう何も聞きたくないからね、一言も喋るんじゃないよ」
アンが頬に涙の川を何筋も作りながら悲しみに暮れて二階に上がって行くと、二人の対話が続く間、寝椅子ですっかり眠り込んでいたように見えたマシューが、やおら目を開け、断固としてこう言った。
「うむ、そうだな、マリラ、アンを行かせてやるべきだとわしは思うがな」
「あたしはそうは思わないわ」マリラが切り返した。「あの子を躾けてるのは誰なの、マシュー。兄さん、それともあたし?」
「うむ、そうだな、おまえさ」マシューはとりあえず認めた。
「じゃ口出ししないで」
「うむ、そうだな、口出しなんぞしとらんよ。おまえの意見に口出しなんぞしとらんよ。だがわしの意見を言うとだ、おまえはアンを行かせてやるべきだよ」
「兄さんなら、もしあの子が行きたいと言い出したら月にでも行かせてやれって言うんでしょ、間違いないわ」とマリラ。返す答えはなかなかに友好的なものだった。「ダイアナと一緒に一晩泊まるのは良しとしましょ。でもね、コンサートに行くなんて事は賛成しかねるわ。アンを行かせてみなさい、風邪をひくのが落ちだし、下らないことで頭を一杯にして、地面に足が着かなくなるだけよ。地面に落ち着くまで一週間ってとこだろうね。あたしはね、あの子の癖も、どうしたらいいかも兄さんよりずっと分かってるのよ、マシュー」
「おまえはアンを行かせてやるべきだと思うがな」マシューが断固として繰り返すだけだった。議論はマシューの得意とするところではなかったが、自分の意見にしがみついて離れないのは、確かにマシューの得意技だった。マリラは八方塞がりの溜め息をつき、黙って退散することにした。翌朝、アンが台所で朝食の皿を洗っている時、マシューは納屋に出ていくところで足を止め、マリラにまた言うのだった。
「おまえはアンを行かせてやるべきだと思うがな、マリラ」
一瞬、マリラの顔が曰く言い難い、ただならぬものになった。それから、避けられぬ運命と屈しつつも、舌鋒鋭くこう言った。
「よく分かりました、行かせてもいいわ、何を言っても気に入らないみたいだし」
アンが台所から飛び出てきた。手にした皿拭きから水がポタポタ滴っている。
「やったぁ、マリラ、マリラ、その有り難き言葉をもう一度言って」
「一回言えばで十分だろうよ。これはマシューが言い出した事なんだし、あたしは手を出さないからね。寝慣れないベッドで寝たとか、真夜中に人いきれのする公会堂から帰ってきたとかで、もし肺炎にかかっても、あたしが悪いんじゃないからね、悪いのはマシューだよ。アン・シャーリー、あんた、油汚れのついた水を床中にポタポタ落として回ってるじゃないか。こんな不注意な子は見たことないよ」
「あ、しまった。あたしがマリラに課された大いなる試練だって、自分でも分かってるのよ、マリラ」とアンが悔い改めた。「何かと失敗するしね。でもほら、まだ失敗してないこともたくさんあるでしょ、そりゃあ、これから失敗するかもしれないけど。学校に行く前に、汚した所を砂でブラシがけしておくわ。ああ、マリラ、あたしコンサートに行きたくて気になってばかりだったの。生まれて一度もコンサートに行ったことないから、学校で他の女の子達が話題にすると、仲間外れにされたように感じるのよ。マリラにはどんな風だか分からなかったんだろうけど、マシューは分かってくれたのよね。マシューはあたしを理解してくれるわ、理解してもらえるってすごく嬉しいことなのよ、マリラ」
アンは興奮して浮かれまくっていたので、午前の授業はずっと上の空だった。ギルバート・ブライスは綴りの授業でアンを下したうえ、暗算では遥か彼方まで引き離した。その結果、アンは当然屈辱を感じることになったが、いつもよりもずっとダメージが少なかった。コンサートと客用寝室のことを思えば、小さなことだったから。アンとダイアナは一日中コンサートのことばかり喋っていたので、もしフィリップス先生より厳しい先生だったら、厳しく叱責され恥辱を被らないでは済まなかっただろう。
アンは思ったものだ。もしコンサートに行けなかったとしたら、辛すぎてきっと耐えられなかったわね。というのも、その日の学校では、コンサートのこと以外何一つ話題に上らなかったからである。アヴォンリー討論クラブは、冬の間、隔週で開催されていて、参加費なしでもちょっとした娯楽を提供してくれていた。だが今回はいつもより大仕掛けであり、図書館の援助金として入場料10セントを払う必要があった。アヴォンリーの若者達は何週間も練習をつんで臨み、学校の生徒全員も、自分たちの年長の兄弟姉妹が参加するため興味津々だった。9歳以上の生徒はみんな黙っていてもコンサートに行くことになっていた。唯一の例外はキャリー・スローンだった。キャリーの父親は、小さい女の子が夜中のコンサートに行くことに関して、マリラと同じ考えを共有していた。キャリー・スローンは、午後の授業の間、ずっと文法の教科書に隠れて声を殺して泣きぬれていた。コンサートに行けない人生なんか何の意味もないわ。
アンにとって、本当の興奮は、学校から解放されたところから始まり、コンサートという山場で最高潮に鳴り響くまで、クレッシェンドで次第に強くなっていくのだった。「完璧に上品なお茶」の時間を過ごし、その後、階上のダイアナの小部屋でさんざん着替えを楽しんだ。ダイアナはアンの前髪を流行の先端を行くポンパドゥール・スタイルにまとめ、アンはダイアナのリボンを技巧の限りを尽くして結んだ。後ろ髪の結い方は、少なくとも半ダースはああでもないこうでもないと試してみた。それでも最後には二人とも準備が整った。頬を真っ赤に染め、興奮で瞳が燃えていた。
実のところ、アンはほんの少し胸に痛みをおぼえずにはいられなかった。自分の地味で黒っぽい房のついたベレー帽と、格好悪いふくらんでいない袖の、生地反を使った自家製コートに対し、ダイアナは粋な柔毛の縁なし帽と、流行の可愛いジャケットで、まったく対照的である。だがそこでアンは考え直した。あたしには想像力があるんだし、それを使わない手はないわ。
そのうち、ダイアナのいとこ達がニューブリッジのマレイ家からやって来た。全員がひしめきあって、一台の大型の箱橇の麦わらのマットと毛皮のひざ掛けの中にようやく収まった。公会堂へ行き着く間、アンは嬉しくてしょうがなかった。サテンのように滑らかな道を滑って行くと、凍った雪が橇の下でパリパリいうのが聞こえてきた。そして、ひたすら圧倒的な日没。雪白の丘とセント・ローレンス湾の
「ねえ、ダイアナ」アンが囁いた。毛皮のひざ掛けの下で、ダイアナのミトンに包まれた手をギュッと握っていた。「何もかも美しい夢の光景みたいじゃない? あたし、いつもと同じに見える? いつもと全然違って感じるの、きっと顔に出てるんじゃないかな」
「すっごく素敵よ」とダイアナ。いとこの一人に褒めてもらったばかりだったから、自分もそうしなくちゃと思ったのだ。「顔色もとってもいいし」
その夜のプログラムは、少なくとも聴衆の一人にとっては「ゾクゾク」の連続だった。アンがダイアナに断言したところによると、1つのゾクゾクが終わっても次のはもっとゾクゾクなのだった。プリシー・アンドリューズが真新しいピンクのシルクのブラウスで装い、ツルッとした色白な首には真珠の首飾り、髪には本物のカーネーションを差して現われ――噂では、先生がプリシーのためにわざわざ町から買い求めたと囁かれていた――「ぬめる梯子を登り行く、闇につつまれ、一筋の陽も射しはしない」と、アンは体を震わせ思うままに同情に浸った。聖歌隊が「遥か天から優しいヒナギクを望み」を合唱すれば、アンは天井を見つめ、天使が舞い飛ぶフレスコ画を想い描いた。サム・スローンが「ソッカリーはいかにして雌鳥に卵を抱かせたか」を身振りを交えて説明し始めると、アンは大笑い。周りの人もつられて笑った。アンのために一緒に笑ってあげたのであって、出し物が面白いせいではなかった。アヴォンリーにあっても、この出し物はすでに陳腐化していたのだ。フィリップス先生はマーク・アントニーの演説を朗誦した。シーザーの遺体を前にして、心を揺るがす声音を披露すると――プリシー・アンドリューズを一文終わるごとに見つめながら――アンは、もしたった一人でもローマ市民が先頭に立っていたならば、その場で自分も蜂起に応じたに違いないと感じた。
プログラムのうち、たった一つだけ興味を引かないものがあった。ギルバート・ブライスが「ラインのほとりのビンゲン」を暗誦すると、アンはローダ・マリーが図書館から借りた本を取り上げ、ギルバートの出番が済むまで読み続けた。アンはじっと堅苦しく強ばった姿勢で身じろぎもしなかったが、一方のダイアナは拍手しすぎで手が痛いほどだった。
家に戻った時には11時になっていた。遊興に時を費やしすでに堪能していたが、それでもコンサートについて再度語り返すという、格別に素敵なお楽しみはまだこれからだ。みんな寝入っているようで、家中の明りが消え、シーンとしていた。アンとダイアナはつま先立ちでそっと客間に入り込んだ。そこは細長い部屋で、客用寝室へ出入りできるようになっていた。まだ気持ちいいくらいの温みがあり、暖炉の残り火が格子の中から部屋をぼんやりと照らしていた。
「着替えはここでしましょうよ」とダイアナ。「あったかくていいものね」
「ほんとに楽しかったわよね?」と溜め息をつくアン。感激の余韻に浸っている。「きっと素晴らしいわね、壇上で暗誦できたら。あたし達もいつか暗誦を頼まれたりすると思う、ダイアナ?」
「ええ、もちろんよ、そのうちにね。高学年の生徒はいつでも引っ張りだこよ。ギルバート・ブライスなんか何度も出演してるわ、あたし達より2歳年上なだけなのに。そういえば、アン、よくギルバートの暗誦を聞いてないふりできたわね? 暗誦の中でこういう行があったでしょう、
『今一人、妹ならざる者あり』
ギルバートったらしっかりアンを見てたわよ」
「ダイアナ」と威厳たっぷりのアン。「あなたはあたしの心の友だけど、あんな人の話はして欲しくないわ。ベッドに入る準備できた? ね、競争しましょう、誰が先にベッドに着けるか」
この提案にダイアナも乗った。二つの白装束で覆われた姿が、長く伸びた部屋を突っ切って飛んで行った、客間のドアを抜け、二人同時にベッドに飛び乗った。とその時――何か変なものが――二人の下でうごめいて、喘ぎ声と叫び声が続き――変な何かはくぐもった声でこう言った。
「神様!」
アンとダイアナは二人ともどうやってベッドを飛び降り、部屋を抜け出したか覚えていなかった。ようやく覚えていることといったら、狂気のようにバタバタと逃げ出したことと、つま先立って震えながら階段を登ったことだけだった。
「ねえ、誰なのあれ――何なのあれ?」と囁くアン。寒さと恐ろしさで歯の根が合わない。
「ジョセフィン伯母さんだったわ」とダイアナ、笑いすぎて息を切らしている。「そうなのよ、アン、ジョセフィン伯母さんだったのよ、何であそこにいたんだろう。あ〜あ、伯母さんきっと猛烈に怒るわ。まずいわね――ほんとにまずいわ――だけど、こんなに可笑しいこと聞いたことないわよね、アン?」
「そのジョセフィン伯母さんって誰なの?」
「お父さん方の伯母さんで、シャーロットタウンに住んでるのよ。すっごい年寄りなの――とにかく70歳は過ぎてるわ――あの伯母さんが子供だったことがあるなんて、信じろっていう方が無理ね。遊びに来ることになってたんだけど、でもこんなに早いなんて。ほんと四角四面で堅苦しくって。今度の事ですっごく怒るわ、絶対よ。それはそうと、あたし達ミニー・メイと寝なくちゃね――驚くわよ、この子蹴とばすんだから」
ミス・ジョセフィン・バリーは翌朝早めの朝食には現われなかった。バリー夫人は二人の少女に優しく微笑みかけた。
「二人とも夕べは楽しかった? 戻って来るまで起きてるはずだったんだけど。ジョセフィン伯母さんがいらしたから、結局2階で寝てもらうことにしたと伝えたかったの。だけど疲れてたので寝入ってしまって。伯母さんをお騒がせしなかったでしょうね、ダイアナ」
ダイアナは沈黙したまま切り抜けたが、テーブルごしのアンと、昨晩のやましい出来事を思い出してこっそり笑いあった。朝食後、アンは急いで帰宅したので、バリー家の騒動のことは、とんと知らず仕舞だった。ようやく知ったのは、午後遅くになってマリラに用を頼まれてリンド夫人のところに行った時のことだった。
「それで夕べあんたとダイアナで、可哀想にミス・バリーお婆さんを死ぬほど脅かしたんだって?」リンド夫人が手厳しくこう言った。その割にその目は興味津々で輝いていたが。「ちょっと前にバリーさんがカーモディーに行く途中で寄っていらしたんだよ。酷く気をもんでいたようだったね。ミス・バリーお婆さんは、今朝起きた早々、癇癪を爆発させたんだそうだよ――ジョセフィン・バリーの癇癪は冗談じゃ済まないからねぇ、いや本当だよ。ダイアナは口もきいてもらえないんだとさ」
「ダイアナが悪いんじゃないの」とアンは深く悔いていた。「あたしが悪かったの。誰が先にベッドにもぐり込めるか、競争しようって言ったのはあたしなのよ」
「やっぱりね!」とリンド夫人、予想がズバリ的中してご満悦である。「こんな事を考えつくのはあんたしかいないと分かっていたよ。それにしても大ごとになったもんだ、まったく。ミス・バリーお婆さんは一月お客になるつもりだったらしいが、もう一日だって我慢できやしない、明日は日曜でもさっさと町に戻るからね、と万事この調子だもの。できることなら、今日にも戻りたかったらしいけど。ダイアナのために、1学期分の音楽の授業の学費を払う約束をしてたっていうのに、それが今じゃ、こんなお転婆には何一つしてやるもんかね、だよ。さてさて、今朝はそれこそ大した見物だったろうね。バリーの一家は、さぞかしこき下ろされたことだろうさ。ミス・バリーお婆さんは裕福だからね、ここでご機嫌をとっておきたいところだろう。もちろん、バリーさんはそんなこと一言も言わなかったさ、だがね、あたしほど人を見る目があると、そんなことはお見通しなんだよ、まったく」
「あたしって不幸をもたらす子なんだわ」アンが嘆いた。「いつでも厄介事に巻き込んでしまうの、自分も仲の良い友達も――その人達のためなら、我が心臓の血を流しても構わないほどなのに――みんなに迷惑をかけてしまうんだわ。どうしてそうなっちゃうか分かる、リンドさん?」
「それはだね、あんたがあんまり考えなしで、何でも気の向くままだからだよ、分かるかい、そういうことさ。いつでも何かが頭の中を走り回って止まりゃしない――言うこと為すこと、思いついたら即実行、いっときも考えようとしないんだからね」
「そうだけど、でもそれが一番いいのよ」と抗弁するアン。「何か頭に浮かぶとするでしょ、例えばすごく面白いこととか、そしたらそれを実行すべきよ。ちょっと待てよ、なんて考え直してちゃ、つまらなくなるだけ。そんな風に感じたことないの、リンドさん?」
そう、ないのだった、リンド夫人はそんな経験はなかったのだ。やれやれと夫人は頭を振った。
「少しは考えるってことを覚えないとね、アン、まったくさ。あんたにはこの諺が杖代わりになるよ、『飛ぶ前によく見よ』って言うだろ――特に客間のベッドに飛び込む前にはね」
リンド夫人は自分の軽い冗談にひとしきり笑い興じていたが、一方アンは考え込んでしまった。アンにしてみれば、現在の状況のどこにも笑うべきところは見あたらず、深刻そのものにしか映らなかった。リンド夫人宅を後にすると、アンは凍りついた畑を横切って果樹園坂へと向かって行った。ダイアナが台所のドアまで出迎えた。
「ダイアナのところのジョセフィン伯母さん、あの事でとっても怒ってるんじゃない?」アンがひそひそ訊いた。
「そうなの」と答えるダイアナ。クスクス笑いを押し殺しながら、肩越しに閉じた居間のドアの方を気遣わしく振り返った。「あんまりカッカするから今にも踊りだしそうよ、アン。もう、とんでもなく怒ってたわよ。伯母さんに言わせると、あたしの行儀は今まで見てきた女の子の中で最低だし、お父さんもお母さんもあたしをこんな風に育ててしまって恥ずかしいと思うべきなんだって。もう泊まりに来るつもりはないって言われたけど、あたしは全然平気、気にならないわ。でもお父さんもお母さんも気にするのよね」
「何であたしが悪いって言わなかったのよ?」アンが咎めた。
「そんなことするはずないでしょ?」と誇り高きダイアナは相手にしない。「あたしは告げ口なんかしないの、アン・シャーリー、それに第一、悪かったのはあたしも一緒なんだもの」
「じゃ、あたしが説明して来るわ」アンが決心した。
ダイアナは目を丸くした。
「アン・シャーリー、ダメよそんなことしちゃ! だって――生きたまま食べられちゃうわ!」
「脅かさないでよ、もう十分怖いんだから」アンが情けなく言った。「大砲の口に潜り込む方がましなくらいなのよ。でも、あたしはしなくちゃならないんだわ、ダイアナ。あたしが悪かったんだし、だから告白しなくちゃ。告白の経験は豊かだしね、運がいいわ」
「あっそ、伯母さん、今部屋にいるわよ」とダイアナ。「どうしてもって言うなら、入れば。あたしそんな勇気ないわ。それに、何も変わらないと思うし」
この暖かい気遣いを胸に、アンは巣穴のライオンの髭を引っ張った――即ち、決死の覚悟で居間のドアまで歩み出で、腰の引けたノックをした。とげとげしい「お入り」の返事が返ってきた。
ミス・ジョセフィン・バリーは、痩せぎすで、堅苦しく、頑固な人で、暖炉の側で猛烈な勢いで編み物をしていた。怒りはいまだにしつこく後を引いており、金縁眼鏡ごしに、両目がギラギラしていた。椅子に座ったままくるりとこちらを向くと、予期したダイアナではなく、そこに見えたのは真っ青な顔の女の子だった。大きな瞳に溢れんばかりに浮かんでいるのは、やけっぱちの勇気とすくみ上がるような恐怖だった。
「あんた誰だい?」と高飛車なミス・ジョセフィン・バリー。儀礼も何もあったものではない。
「あたし、グリーン・ゲイブルズのアンです」小柄な訪問者は震えながらそう言った。両手を組みあわせた、いつもの仕草である。「それで、あの、告白しに来たんですけれど」
「告白? 何を?」
「つまり、夕べお休みのところ、ベッドに飛び乗ってしまったのは、あたしが悪かったってことをです。あたしが言い出したことなんです。ダイアナはあんなことは考えもしませんでした、本当です。ダイアナはとてもおしとやかな女の子なんです、ミス・バリー。これでもうお分かりのはずです、ダイアナを責めるのは間違っているんです」
「ほう、分かるはずねえ、へえ? 少なくともダイアナも飛び乗った事は確かだろうに。行儀の悪い事この上ないよ、ご立派な家だこと!」
「あたし達、ちょっとふざけてみただけなんです」アンは食い下がった。「許してくれてもいいじゃありませんか、ミス・バリー、こうして謝っているんですから。それと、他のことはさておき、お願いですから、ダイアナを許して音楽の授業を受けさせてあげて下さい。ダイアナは音楽の授業を受けたくてしょうがないんです、ミス・バリー、あたしには痛いくらい分かるんです、何か気になってしかたがないけど、手に入らない気持ちがどういうものだか。もし怒らなくては気が済まないなら、あたしを怒って下さい。あたしは以前から人に怒られることに慣れてるんです。だからダイアナより巧く耐えられると思うし」
この頃には、この老婦人の視線からトゲトゲした様子がかなりなくなっており、面白がって輝く瞳がとって代わっていた。それでも婦人は、まだ声に厳しさを残しておいた。
「ふざけてみただけなんて言い訳になりゃしないよ。あたしが若い頃にゃ、女の子がそんなおふざけして良かったことなんかないよ。あんたにこの気持ちが分かるかい、長くて体にこたえる旅が終わって、気持ちよくぐっすり寝ていたところを叩き起こされたんだからね、大きななりの女の子が二人も自分の布団に飛び乗って来たんだよ」
「確かに分かりませんけど、あたし、想像ならできます」アンがここぞとばかりに言った。「とてもお騒がせしたことは分かってます。でもですよ、あたし達の側にも事情があるんです。ちょっとでも想像力の持ちあわせはあります? ミス・バリー。もし、そうなら、少しはあたし達の立場になってみて下さい。あのベッドに誰か寝てるなんて知らなかったから、あたし達怖くて死ぬかと思ったんですよ。もう恐ろしいなんてもんじゃなかったもの。それに、寝てもいいって言われてたのに、客用寝室で寝られなくなったし。あなたは客用寝室なんて寝慣れてるんでしょう。でも想像してみて下さい、自分ならどう感じるか、もし自分が孤児の女の子で、こんな光栄なことは初めてだとしたらどう感じるかって」
この時にはすでに先ほどの刺々しさは
「錆びかかった想像力で間に合えばいいが――その昔使ったっきりなんでね」と婦人。「いやまったく、あんたの主張もあたしのに負けず劣らず共感できるよ。何事も見方を変えればってわけだ。こっちに座んなさい、あんたの事を聞かせておくれ」
「申し訳ないんですけど今は無理です」とアンが固辞した。「あたしはお話したいんですよ、なぜって面白い方みたいだし、ことによると同じ波長の人かもしれないから。見かけはそんな風に見えないんですけど。でも、帰らなくちゃいけないんです、ミス・マリラ・カスバートが待ってますので。ミス・マリラ・カスバートはとても親切な方で、あたしを引き取って、きちんと育てて下さるんです。ただ、全力を尽くしてるんですけど、それでもなかなかうまくいってないんです。あたしがベッドに飛び乗ったからって、ミス・カスバートを責めないで下さいね。でも帰る前に、ダイアナを許して予定どおりアヴォンリーに滞在してもらえるかどうかだけは、どうしても訊いておきたいんです」
「たぶんそうすることになるさ、もしあんたがここに来て時々話し相手になってくれるんならね」とミス・バリー。
その晩ミス・バリーは、ダイアナに銀のブレスレットを贈り、一家を担う年長者には旅行カバンから詰め込んだ荷を戻した旨を語った。
「ここに居ることにするよ。あのアン嬢ちゃんのことをもっとよく知りたくてね」と明け透けに言った。「あの子は面白い。この歳になると面白い人間ってのが貴重品でね」
この一件を聞きつけたマリラのコメントはたったこれだけであった。「言わんこっちゃない」マシューに当てつけて言ったのだった。
ミス・バリーは優に1月以上も滞在していた。いつもよりずっと人当たりが良い客人だった。アンといるといつも機嫌が良かったからである。二人とも今では固い友情を取り結んでいた。
ミス・バリーが帰る時、こんなことを言い残した。
「覚えておきなさいよ、ねえ、アン嬢ちゃん、町に来たら必ずあたしを訪ねること、うちで一番の客用中の客用寝室のベッドに休んでもらうからね」
「ミス・バリーは結局、同じ波長の人だったのよ」アンがマリラに明かした。「見た目はそうじゃないんだけど、でも実はそうなの。初めは分からないのよ、マシューの時と違うわね、でもしばらくするとそれが見えてくるのよ。同じ波長の人は、あたしが考えてたより珍しいってわけじゃないんだわ。これは素晴らしい経験ね、この世界にはたくさんそういう人達がいるのが分かったんだもの」
20章 素晴らしい想像力が裏目に
グリーン・ゲイブルズをまた春が訪れた――美しいけれど、気まぐれで腰の重いカナダの春が、4月、5月と長居を決め込んでいた。気持ちよくさわやかな、ひんやりした日が続いた。バラ色に夕暮れを染めながら、驚くべき再生と成長の時がやって来たのだ。恋人小径のカエデの木々が赤く蕾を膨らませ、小さく丸まったシダがドライアドのお喋り泉の周りで、地面から顔をのぞかせていた。サイラス・スローン氏の裏手の荒れ地を行くと、そこにはメイフラワーが咲き乱れており、茶色の葉の下に甘く香るピンクと白の星々を飾りつけていた。生徒達は女の子も男の子も、ある黄金色の昼下がりをみんなでメイフラワーを摘んで過ごした後、晴れやかでこだまを返す黄昏の中を家路についた。腕にもバスケットにも溢れんばかりの花また花だった。
「メイフラワーが咲かない所に住んでる人って可哀想」とアン。「ダイアナは、その人達は代わりにもっと素敵なものを持ってるかもって言うけど、メイフラワーより素敵なものなんかあるわけないもの、そうよね、マリラ? ダイアナはこうも言ってたの、もしメイフラワーがどんなものだか知りもしなければ、なくて悲しむこともないわよ、だって。でもね、それこそ最も悲しむべき事なんだと思う。悲劇だと思うのよ、マリラ、メイフラワーがどんなものだか分かりもしないし、悲しみもしないのよ。メイフラワーって何か、あたしがどう考えてるか分かる、マリラ? あれはね、去年の夏に死んだ花の魂なの、この世界が花達の天国なんだわ。ね、今日は素晴らしい日だったのよ、マリラ。昼ご飯は、古井戸の側の、苔で覆われた大きな窪地で食べたの――とっても
「当然だろう! 馬鹿ばっかりするんだから!」マリラの返事はこうだった。
メイフラワーが咲き終わると、スミレの季節がやってきて、スミレの神殿がスミレ色に色づいた。アンは学校に通う途中、その真ん中を通り抜けていくのだが、うやうやしい足取りと崇拝の眼差しが、聖地に足を踏み入れていることを物語っていた。
「どうしてだろ」とアンがダイアナに語った。「ここを通る抜ける時は、ちっとも気にならないのよ、ギル――誰かにクラスで抜かれようが何だろうが。でも、学校に着くと全然違ってしまって、いつもと同じく気になるの。あたしの中にはたくさんのアンがいるのよ。だからあたしは問題を起こしやすいんだって、時々考えることがあるわ。もしあたしが一人のアンだけでできてたら、ずっと気楽に暮らせるんだろうけど、でもそれじゃきっと半分も面白くないわ」
ある6月の晩、家の果樹園が再びピンクの花盛りを迎え、輝く水面の湖の端の湿地で蛙が銀の声で気持ち良さそうに鳴き、そしてクローバーの原と芳しいモミの森の香気が一面に漂う頃、アンは切妻の窓辺に座っていた。勉強をしていたのだが、暗くて本が読めなくなってきたので、かわりに瞳を見開いて夢の世界に浸っていった。ぼんやり目に映る雪女神の枝には、花の房飾りが今年も星のようにちりばめられていた。
本質的な点では、この小さな切妻の部屋にはまったく何も変化が見られなかった。壁は相変わらず白いし、針刺しは固いまま。どの椅子もいつもどおり堅苦しく、黄色く突っ立っていた。それでも全体として部屋の性格は違ったものになっていた。革新的で生命力に富んだ脈打つ個性が部屋全体に溢れ浸透していたが、その個性は、女子生徒向けの本やドレスやリボンのせいではなく、テーブルの上に飾った、リンゴの花で一杯の欠けた青い水差しとも無関係だった。それはもしかすると二つの夢、つまり眠りの夢と目覚めた夢のせいだったかもしれない。どちらも部屋に住まう溌剌とした住人が現世にもたらしたものだった。姿こそ物質の形を取らなかったが、アンの夢は、むき出しの壁を虹と月明りからなる妙なる薄衣のタペストリーで飾っていったかのようだった。しばらくして、アイロンがけしたばかりのアンの学校用エプロンを持って、マリラが無駄のない足取りで入ってきた。椅子の背にエプロンをかけると、フッと溜め息をついて座り込んだ。その日の午後は持病の頭痛がぶり返して、痛みが去っても元気が戻らず、マリラの言うところの「どっと疲れて」しまったのだった。マリラを見るアンの目には、混じり気のない思いやりが浮かんでいた。
「代わりにあたしが頭痛になってあげられたらいいんだけど、本当よ、マリラ。マリラのためなら喜んで我慢できると思うな」
「あんたは役に立ったよ、代わりに家事をしてくれたし、あたしはそれで休めたんだからね」とマリラ。「まあまあ巧くこなしたようじゃないか、いつもより失敗は少なかったよ。もちろんマシューのハンカチを糊付けしたのはいらないお世話だったがね! それに、オーブンで夕食のパイを温める時は、たいがい誰でも火が通ったら取りだして食べるもんだよ、カリカリの黒焦げになるまで入れっぱなしにはしないさ。だがあんたはそんな風にしないんだね」
頭痛に悩まされた時は、マリラはいつでもいくらか
「あ、ごめんなさい」アンは非を認めた。「オーブンに入れたきり、今までパイのことはすっかり忘れてたわ、それでも直感的に昼ご飯のテーブルに何か足りないとは思ったのよ。今朝マリラが仕事を任せてくれた時に、しっかり気を引き締めたの、何も想像しないぞ、現実だけに集中しなきゃって。パイを入れるまではかなり巧く行ってたのよ、そしたら耐えられないほどの誘惑がやってきたの。で、想像しちゃったのよ、あたしは魔法にかけられた王女で独り寂しく塔に閉じこめられていて、堂々たる騎士があたしを助けに、石炭のように真っ黒な馬に乗って駆けつけるのを待ってるの。それでパイのことは忘れてしまったのよ。ハンカチに糊付けしたのは気がつかなかったわ。アイロン掛けしてる間ずっと島の名前を考えてたの、ダイアナとあたしが小川を遡ったところで、誰も知らない島を発見したのよ。すっごく魅惑的な場所なんだから、マリラ。二本のカエデの木が生えていて、小川が周りをグルッと囲んでいるの。ついに閃いたのが、
「いや、特別何も思いつかないね」
「ああ、マリラ、あの日こそあたしがグリーン・ゲイブルズに来た日なのよ。あたしは絶対忘れない。あれは人生の節目だったの。もちろんマリラにはそんなに大切な事じゃないんだろうけど。ここに一年いる間、ずっと幸せだった。もちろん、悩みや失敗もあるけど、それは少しずつ克服していけばいいのよ。あたしをここに置いて後悔してる、マリラ?」
「いや、後悔してはいないよ」マリラは時々信じられなく思うことがあった。アンがグリーン・ゲイブルズに来るまえは、どうやって毎日を過ごしていけたんだろうか。「そう、後悔というのとは違うね。勉強が終わってるんなら、アン、ちょっとバリーさんのところに行って、ダイアナのエプロンの型紙を貸してもらってきてくれないかい」
「えっ――もう――真っ暗よ」アンが悲鳴をあげた。
「真っ暗? 何言ってるんだい、まだ陽が落ちたばかりだよ。それに暗くなりすぎてからも、あんたよく出かけてるじゃないか」
「朝になったら行ってくるから」とアンは一生懸命だった。「日が昇ったら朝一番で行ってくるから、マリラ」
「今度は何を思い付いたんだい、アン・シャーリー? あんたの新しいエプロンを作るんだから、型紙は今晩要るんだよ。すぐに出かけて、無駄に時間をつぶすんじゃないよ」
「じゃ、街道を回り道して行かなくちゃ」とアンはいやいや帽子を取り上げた。
「わざわざ街道を行って、半時間も無駄にするっていうの! 何言ってるんだい!」
「呪いヶ森なんか通れないわよ、マリラ」アンがどうしようもなく泣き声をあげた。
マリラは目を丸くしていた。
「呪いヶ森! 頭がおかしいんじゃないかい? 一体、呪いヶ森ってなんだね?」
「小川を渡ったとこのエゾマツの森」アンが小さく言った。
「馬鹿馬鹿しい! 呪われた森なんてのはどこにもあるわけないよ。誰がそんな馬鹿を言ったんだんだね?」
「誰も」アンは白状した。「ダイアナとあたしで、あの森が呪われてるって想像してみたの。この辺りはどこもすごく――すごく――平凡なのよ。二人で楽しむために考え出したことなの。始めたのは4月から。呪われた森ってすっごく
「こんな話は聞いたことがない!」マリラが吐き出すように言った。黙って聞いていたのは、口もきけないほど驚いていたからだった。「アン・シャーリー、あんた、自分で想像したそんなしょうがない馬鹿話を、信じてるんじゃないだろうね?」
「信じてるというのとは違うけど」アンが口ごもった。「少なくとも、日中は信じてないもの。でも日が暮れると、マリラ、そうはいかないの。だって幽霊が出る時間なのよ」
「幽霊なんかいるわけないよ、アン」
「ああ、でもいるのよ、マリラ」切羽詰まったアンが言った。「あたし知ってるもの、幽霊を見たことある人。みんなちゃんとした人ばかりよ。チャーリー・スローンが言ってたわ、お婆さんがある晩、牛を家の方に追い立てるお爺さんを見かけたんだって、お爺さんが亡くなって一年も過ぎてたのによ。マリラも知ってるでしょ、チャーリー・スローンのお婆さんは、断然作り話をするような人じゃないわ。あと、トマスおばさんのお父さんなんか、ある晩、鬼火の子羊に家まで追いかけられたのよ、頭が切り取られて首の皮一枚でぶらさがってたんだって。トマスおばさんのお父さんによると、小羊は実は兄弟の霊で、9日以内に死ぬ定めだという前兆だそうよ。9日では死ななかったけど、2年後に亡くなったわ、だから本当にホントなのよ、分かるでしょ。それにルビー・ギリスが言ってたけど――」
「アン・シャーリー」マリラが固い声で割って入った。「もう二度とそんな風に喋るんじゃないよ。あんたの得意の想像についちゃ、前から常々気になってたんだよ。もしこれがその想像の賜物だとしたら、黙って見過ごすわけにはいかないね。今すぐバリーさんの家に行ってきなさい。あのエゾマツの森を抜けていくこと。ちょうど良い教訓だよ、あんたの戒めにピッタリだ。さあ、もう何も言うんじゃない、もう呪われた森がどうのとか二度と聞きたくないからね」
アンは情けを請い、泣きつきたかった――事実そうしたのだ、森の恐怖はあまりに真に迫った現実だったから。アンの想像はアンの手綱を逃れ、アンを圧倒した。アンの目には、日没後のエゾマツの森が、死に至る恐怖の世界と見えたのだった。だがマリラには情けも容赦もなかりけり。縮み上がった霊視者を泉のところまで連行すると、橋を越えて真っすぐ前進、然る後に泣き叫ぶ婦人と首のない亡霊が潜む、向こうの薄暗い隠れ家の中へと突入せよと命令を下した。
「そんなのないわよ、マリラ、どうしてそんなに無慈悲になれるの?」アンがしゃくり上げた。「マリラは構わないの、もしあたしが白いお化けに捕まってどこかに連れていかれてもいいの?」
「連れていかれてから考えるさ」とマリラは冷たい。「あたしは言ったことは翻さないのは分かってるだろう。あんたの頭から、その想像の幽霊を取り除いてあげるよ。さあ、前進」
アンは前進した。つまり、つまずきながら橋を越え、全身を震わせながら恐ろしい、闇に消えかかった道を向こうの方へと進んでいった。その道行きはアンにとって忘れられないものとなった。苦々しい後悔が頭をよぎった。想像力に力を与えすぎたのだ。自分の空想から飛びだした小鬼が、陰のあるところはどこにでも潜んでいた。冷えきった痩せこけた手を伸ばして、脅えた女の子を、自分たちをこの世に呼びだした張本人を掴まえようとしていた。白樺から剥がれた白い樹皮が一枚、窪地から森の茶色の地面に風に飛ばされて来た時、アンの心臓が一瞬止まった。二本の古枝が互いにこすれて、長く引っ張るようなむせび泣きを響かすと、アンの額には玉の汗が浮かんだ。闇の中で頭上をパサパサとコウモリが飛び回れば、この世の物ならぬ生き物の羽ばたきの音となった。ウィリアム・ベル氏の畑に辿り着くと、畑を飛んで駆け抜けた。白いお化けの軍団に追い回されているかのようだった。そしてバリー家の台所に到着し戸を開けた時には、息が切れて、エプロンの型紙を貸して欲しいと、喘ぎ喘ぎ言うのがやっとという有り様だった。ダイアナは出かけていたので、グズグズする言い訳も見つからなかった。帰りの旅が恐ろしい口を開けて待っていた。アンは固く目をつぶって戻ることにした。白いお化けを見るくらいなら、道に伸びた太い枝に頭からぶつかる方がまだましだったのだ。つまずきながらもようやく丸木橋を越えると、安心して長い震えた息を一つついた。
「なるほど、何にも捕まらなかったってことだね?」と、マリラは同情のかけらも見せなかった。
「ああ、マ――マリラ」アンの歯がカチカチ鳴った。「あた、あたしもう、か、か、構わない、へ、へ、平凡なところでも」
21章 妙な味付け
「あ〜あ、所詮この世は出会いと別れ、リンドさんの言うとおりだわ」と、哀愁を漂わせてアンがもの申した。6月最後のその日、石盤と教科書を台所のテーブルに置きながら、赤く充血した目を、ぐしょぐしょにぬれたハンカチで拭うアンだった。「ラッキーだったわよね、マリラ、今日学校に一枚余計にハンカチを持って行って? 何となく要りそうな予感がしたのよ」
「これは夢々思いもしなかったねぇ、あんた、そんなにフィリップス先生が好きだったのかい。先生とさよならするだけなのに、ハンカチを2枚も使って涙を拭かなきゃならなかったとはね」とマリラ。
「先生を本当に好きでしょうがないから泣いたんじゃない、と思うけど」己を振り返ってアンが言った。「あたしが泣いたのは、みんなが泣いたからよ。泣きはじめたのはルビー・ギリスなの。ルビー・ギリスはいつもみんなに言ってたのよ、フィリップス先生なんか大嫌いだって。でも先生が惜別の辞を言い始めようと席を立ったら、それだけで大泣きしちゃったの。そしたら女の子がみんな泣きだして、あの子が泣きこっちの子が泣き、順によ。あたしはなんとか踏ん張ろうとしたわ、マリラ。フィリップス先生があたしをギル――男の子と並んで座らせようとした時のことを、なんとか思い出そうと頑張ったの。それから、黒板にあたしの名前を e を抜かして書いたことも、今まで教えた生徒の中で幾何の出来が最悪だって言われてことも、綴りで笑われたことも、それに、いつもチクチクいじめられたり、いやみを言われたことも思い出そうとしたの。でもどうしてか分からないけど思い出せなかったのよ、マリラ、だからあたしもついに泣いちゃった。ジェーン・アンドリューズなんか、一ヶ月も前から、フィリップス先生が出て行ってくれて、嬉しくてしょうがないわ、涙をこぼすなんて絶対ありっこないって言いふらしてたわ。ところがどう、あの子が誰より一番泣いたのよ。お兄さんからハンカチ借してもらったんだから――もちろん男の子は泣かなかったし――ほら、自分のハンカチを持って来なかったのよ、要るわけないと思ってたから。ふぅ、マリラ、あたし胸が引き裂かれるかと思った。フィリップス先生の惜別の辞は、実に素晴らしかったわ。こう始まるのよ、『ついにこの時がやってきました、皆さん、お別れです。』心にしみる言葉だったわ。先生も目に涙を滲ませてたのよ、マリラ。どうしよう、あたしものすごく悪い子だったわ、何度も授業中お喋りしたり、石盤に先生の悪戯書きして、先生とプリシーの事をからかったり、あんなことしなきゃ良かった。ミニー・アンドリューズみたいに模範的な生徒だったらと思うわ。あの子だったら、何も心に咎めることなんかないわよ。学校の帰り道も、あたし達女の子達は泣きながら帰ったわ。キャリー・スローンが何分かおきに繰り返すの、『ついにこの時がやってきました、皆さん、お別れです』って。だからそれを聞くとまた泣きだしちゃって。もう大丈夫、もう元気になれるかなって時になると必ず言うんだもの。あたし、今も大きな悲しみに抱かれているのよ、マリラ。でも、誰だって絶望の深みにはまってばかりもいられないわよね、これから2ヶ月のお休みが待ってるんだもの、でしょ、マリラ? それにね、あたし達帰り道で新任の牧師さんと奥さんが駅からいらっしゃるのにすれ違ったの。フィリップス先生とお別れするのは悲しいけど、それはそれとして、新任の牧師さんにもちょっと興味あるじゃない? 奥さんはとっても可愛らしい人だったわ。あまりにも素敵すぎるってわけじゃないわよ、もちろん――たぶん、牧師の奥さんがあまりにも素敵すぎるのはよくないんじゃないかな。だって、悪い前例になりかねないもの。リンドさんが言ってたけど、ニューブリッジの牧師さんの奥さんは、悪い例なんだって。ドレスの流行を追いすぎるからだって。うちの村の牧師さんの奥さんは、青いモスリンの服で、素敵なパフ・スリーブだったし、バラ飾りの帽子をかぶってたわ。ジェーン・アンドリューズは、パフ・スリーブなんか着て、牧師の奥さんにしては世俗的で着飾りすぎよって言うけど、あたしはそんなに目くじらたてたりしないの、マリラ。なぜかっていうと、あたしにはパフ・スリーブを着たい気持ちが痛いほど分かるんだもの。それにほら、牧師の奥さんになってまだ日がないでしょ、だから多少のことには目をつぶってあげなきゃいけないと思うの、そうよね? 牧師さん達、牧師館の準備ができるまでリンドさんちにお世話になるのよ」
もし、その晩リンド夫人宅に出かけたマリラが、昨年冬から借りっぱなしのキルト用枠を返す以外に、リンド家に行きたい訳があったとしても、それは罪のない弱点と言えた。それに、アヴォンリーの村人なら多かれ少なかれ持ちあわせていた弱点でもあった。その晩、リンド夫人の元には、借り手の元に預けられたままになっていた物が、山のように戻ってきた。中には、二度と目にすることはないだろうと諦めていたものもいくつか含まれていた。新任の牧師、しかも奥さんを同行している牧師とあっては、この平穏で小さな田舎村、どんな事件とも縁遠く、めったに何も起きないこの村では、興味の的にならざるをえなかったのだ。
老ベントリー氏、アンが想像力なしと酷評した牧師であるが、この人がアヴォンリーで牧師を勤めてすでに18年の歳月が流れていた。着任した時には妻をなくして一人ものだったし、結局やもめ暮らしのまま終わった。牧師が毎年どこかの家に一時逗留するたびに、この人と結婚するんだって、いいえあの人よ、別な人よと、きまって口さがない噂が飛び交うのだったけれど。今年の2月には、教区を預かる勤めを辞して、人々が名残惜しむ中、この地を去っていった。神の代弁者としては今一つ力不足だったはいえ、たいがいの人は、人の良いこの老人と長年つき合ううちに、いつしか親しみの気持ちを抱くようになっていたのだ。それからというもの、アヴォンリー教会では、ありとあらゆる宗教道楽を楽しめるようになった。日曜になると、十人十色の牧師候補や「代理牧師」達が入れ替わりやってきては、売り込みの説教合戦をしていくのだった。そして、この神の国ならぬ村に住まう父と母なる人々の審判にさらされて、あるものは及第し、あるものは落第と裁定された。それとは別に、馴染みのカスバート家の信徒席の端におとなしく座っている、ある幼い赤毛の少女も、牧師候補らに関しては独自の意見を持っていたので、マシュー相手に微に入り細に入り、同様の吟味を重ねるのだった。マリラはどんな形であれ、牧師を論評することは避ける主義だったから、そのような議論はいつも丁重にお断り申し上げていた。
「あたしはスミスさんはそれほどじゃなかったと思うな、マシュー」と、これがアンの最終弁論だった。「リンドさんは、あの人の話しぶりがかなりまずいって言ってたけど、あたしの意見では、あの人の最大の欠点はベントリーさんの欠点と同じだと思う――想像力に欠けてるってことよ。テリーさんは逆にありすぎだったな。あたしが呪いヶ森のことで失敗したみたいに、想像力が一人歩きしちゃってるの。それに、リンドさんによると、あの人の神学は正統じゃないんだって。グレシャムさんはとても良い人だし、とても信心深いんだけど、可笑しな話が多すぎて、礼拝中にみんなを笑わせちゃうんだもの。威厳に欠けるのよね、牧師なんだからもっと威厳があっても良さそうなのに、ねえ、マシュー? あたし、マーシャルさんは断然気に入ったな。でも、リンドさんの話では、あの人は結婚してないし、婚約もしてないんだって。手を回して問い合わせてみて分かったのよ。若い未婚の牧師をアヴォンリーに迎えるのはよくないらしいわよ。信徒の誰かと結婚するかもしれないし、そうなると何かとトラブルの元になるからなんだって。リンドさんってすごい。よくそこまで分かるわよね、ね、マシュー? アラン牧師さんにお任せすることになってとっても嬉しいわ。あたし、あの人好きだな。だって、説教は聞いてて飽きないし、お祈りは心から祈っているようだし、惰性でお祈りしてるしてるのとは違うみたいだもの。リンドさんは、アランさんでもまだ欠点はあるって言うのよ、年俸750ドルの牧師に欠点のないことを期待するほうが間違ってるだろうね、だって。とにかくアランさんの神学は正統なのよ、おばさんが教義の核心について、徹底的に質問をして確認してるんだから。アランさんの奥さんの親戚筋を、おばさん知ってるのよ。ちゃんとした人達だし、女の人達はみんな良い主婦だそうよ。リンドさんは、男の教義が正統で、女が良い主婦なら、牧師の所帯としては理想的な組み合わせなんだって言ってた」
新任の牧師とその妻は、若々しくいつも楽しげなカップルで、いまだハネムーンのアツアツ気分だった。そして二人で選んだ一生涯の仕事を遂行しようと、理想に燃え、意欲満々だった。アヴォンリーの人々もそれに答えて、着任早々から暖かく二人を迎えたのだった。高い理想を掲げた、このざっくばらんで元気な青年と、牧師館の女主人役を勤めることになった、ほがらかで優しい若奥様は、老いも若きも問わず、みんなに気に入られた。アラン夫人といえば、アンはその場で一目ぼれ、心の底から愛するようになった。ここにも一人、同じ波長の人を見つけたのだ。
「アランさんって素敵、完璧ね」ある日曜の午後、アンはそう結論付けた。「あたし達のクラスの受け持ちになったんだけど、とっても良い先生なんだ。授業が始まると、さっそくこうよ、『先生だからといって、質問する権利を独り占めするのは不公平だと思います』。これね、マリラ、あたしがいつも思ってたこととまったく同じなのよ。何でも好きに質問しても構わないっていうので、すごくたくさん質問しちゃった。あたしって質問が上手なのよ、マリラ」
「確かにそう思うよ」と、マリラのお墨付き。
「他には誰も質問しなくて、ルビー・ギリスが1つしただけ。今年の夏も日曜学校のピクニックはあるんですか、だって。もっと考えて質問すればいいのに。だって授業と全然関係ないもの――授業はライオンの洞窟に投げ込まれたダニエルについてだったわ――でもアランさんはね、にっこり笑って、きっとありますよって言ったのよ。アランさんの笑顔って素敵。ほっぺにすっごく可愛いえくぼができるの。あたしにもえくぼがあったらいいのにね、マリラ。ここに来た時の半分もやせっぽっちじゃないけど、えくぼはまだできないのよね。もしえくぼがあったら、周りの人に良い影響を及ぼしてたかも。アランさんから、あたし達は他の人達に良い影響を与えられるよう、努力するべきなんだって言われたの。どんな話題でも話し上手なのよ。信仰生活がこんなに楽しいものだって、あたし知らなかった。いままでずっと、何か暗い感じだなぁって思ってたけど、でもアランさんは違うのよ。だからあの人みたいになれるなら、クリスチャンになるのも悪くないわね。でも、教会監督のベルさんみたいにはなりたくないなぁ」
「なんていけない子なんだか、ベルさんのことをそんな風に言うなんて」と、マリラがきつくたしなめた。「ベルさんは本当に良い人なんだよ」
「それはもちろん、良い人よ」アンも認めた。「でも、良い人だからって別にどうとも思ってないみたい。もしあたしが良い子になれたら、踊ったり歌ったり、一日中そうしてるわ。だって嬉しいじゃない。アランさんはもうすっかり大人だから、踊ったり歌ったりはしないと思うし、もちろんそんなことしたら、牧師の奥さんの威厳も何もあったもんじゃないわね。だけど、あたしには分かるの、アランさんは自分がクリスチャンで嬉しいのよ、それと、もしクリスチャンでなくても天国に行けちゃうとしても、やっぱりアランさんはクリスチャンになってたと思うな」
「アランご夫妻を、近々お茶にお招きしないといけないだろうね」考え考えマリラが言った。「二人とも、ほとんどの家を回ったし、残ってるのはうちぐらいだよ。そうだね。今度の水曜日ならお招きするのにちょうどいいか。でも、この事はマシューに一言も言っちゃダメだよ、牧師さん達をお招きするなんて聞いたら、きっと何か口実を作って、その日は逃げ出すに違いないからね。ベントレーさんには慣れてたから、気にもしなかったけど、新任の牧師さんと近づきになるのは大変そうだし、まして見たこともない牧師の奥さんと同席なんかしたら、恐ろしくて死んでしまうよ」
「口無き死者の如く秘密にしとく」とアンが保証した。「それでね、マリラ、今度のお招き用に、ケーキを作らせてくれない? アランさんのために、どうしても何かしてあげたいの。あたし最近は、ケーキを作るのずいぶん巧くなったじゃない」
「レイヤー・ケーキなら作ってもいいよ」と、マリラが約束した。
月曜と火曜のグリーン・ゲイブルズは、色々な準備でてんやわんやだった。牧師夫妻を夕食に招待するというのは真剣かつ重要なイベントなので、マリラは気合い十分であり、アヴォンリーの主婦の誰にもひけをとるつもりはなかった。アンは大喜びで、嬉しくてしょうがなかった。火曜の夕方には、薄暮の中で、ダイアナに何もかも話して聞かせた。二人はドライアドのお喋り泉のそばの、大きくて赤い石に仲良く座って、小枝を香りのいいモミの樹脂に浸して、水の上に虹を作っていた。
「全て準備万端整ったわ、ダイアナ。あとは明日の午前中に作るあたしのケーキと、ベーキングパウダー・ビスケットだけ。これはマリラがお茶の時間の直前に作るの。マリラもあたしもここ二日は忙しくて目が回るくらい、ホントよ、ダイアナ。責任を痛感するわ、牧師さんのご家族を昼食にお招きするんだものね。こんな経験をくぐり抜けるのは初めてだもの。うちの食料貯蔵室を是非とも見ておくべきだわ。これは見物よ。まずはじめにゼリー・チキンとコールド・タンを出すの。次にゼリーが2種類、赤と黄色ね、そして、ホイップ・クリームとレモン・パイ、チェリーパイ、クッキーが3種類、フルーツ・ケーキ、あと、マリラの名高い黄色いプラムの砂糖漬け、これ特別ゲスト用で牧師さんにしか出さないの。それから、パウンド・ケーキにレイヤー・ケーキ、あと、さっき言ったビスケット。パンはできたてと、少しおいたものの両方よ。牧師さんが消化不良で、できたてを食べられないと悪いから。リンドさんが言ってた、牧師って消化不良になりがちなんだって。でも、アラン牧師は牧師になって間がないから、できたてでも体に障らないと思うな。あたしが作るレイヤー・ケーキのことを考えただけで、体が冷たくなるわ。ねえ、ダイアナ、上手くできなかったらどうしよう! ゆうべの夢で、頭が大きなレイヤー・ケーキ製の、怖〜い
「上手くできるわよ、大丈夫」そう言ってダイアナが安心させた。なにかにつけ心強い友であった。「2週間前にお昼用に作ってくれたあれ、空の荒野で二人で食べたじゃない、すっごく上品な味だったわよ」
「ありがと。でも、ケーキ作りにはありがちじゃない、ここ一番上手く出来て欲しいって時になると酷い出来になるなんて」と、きれいに樹脂がついた小枝を水の上に流しながら、溜め息をつくアン。「それはともかく、あとは神の意志を信じて、小麦粉を混ぜる時に気を抜かないようにするだけ。ほら、見て、ダイアナ、なんて素敵な虹! あたし達が帰ったら、ドライアドがこれをスカーフにするんじゃないかな?」
「ドライアドなんかいないって分かってるくせに」とダイアナ。ダイアナの母親は呪いヶ森の一件を聞くと、大変な怒りようだった。その結果、ダイアナは、何であれ想像の翼をはためかせる真似すら控えるようになり、想像する心を養うことなど、賢明ならずと考えていた。たとえドライアドといった当たり障りのないものだとしてもである。
「でも、いるって想像するのはとっても簡単でしょ」とアン。「ベッドに入る前に、あたし、いつも窓の外を覗いて考えるの、ドライアドが本当にここに座ってるんじゃないかな、泉を鏡にして巻き毛を梳いているじゃないかなって。時には、朝露がおりた後に足跡を残してないか、探すこともあるわ。お願い、ダイアナ、ドライアドを信じるのをあきらめないで!」
水曜の朝がやってきた。アンは朝日とともに飛び起きた。ドキドキして眠れなかったのだ。酷い鼻風邪をひいていたのは、前日の夕方、泉で水遊びしたせいだった。だが、すっかり肺炎にでもならない限り、その朝の料理という問題から、興味が失せることなどありえなかった。朝食の後は、ケーキ作りに取りかかった。そしてついにオーブンの戸を閉めると、大きく息をついたのだった。
「大丈夫、今度は何も忘れなかったわ、マリラ。でも、上手く膨らむと思う? ベーキング・パウダーの質が良くなかったりしたらどうしよう? 新しい缶から出して使ったんだけど。それにリンドさんが言ってた、近ごろは、せっかく買ったベーキング・パウダーも、質がいいかどうか分かったもんじゃない、何もかも紛い物が幅を利かせてるからね、だって。政府がこの問題を取り上げるべきなんだって。でもトーリー党政府の元じゃ、その問題が取り上げられる日は絶対来ないだろうって言ってた。マリラ、ケーキが膨らまなかったどうしよう?」
「ケーキがなくても、まだたくさんあるからね」と、さめた目で見るマリラ。
それでも、ケーキはちゃんとふくらんだのだった。そして、オーブンから取り出してみると、軽くふわっとして、黄金色の泡のようだった。アンは嬉しくて顔を輝かせながら、手早くルビー色のゼリーの層と重ねていった。そして同時に、こんな風に想像していた。アラン夫人があたしの作ったケーキを召し上がってるわ、ひょっとして聞かれるかも、もうひと切れ頂けるかしら、なあんてね!
「一番いいお茶セットを出すんでしょ、もちろんそうよね、マリラ」とアン。「テーブルをシダと野ばらで飾っていい?」
「そんな馬鹿なことはやめて欲しいね」と鼻で笑うマリラ。「言わせてもらえば、重要なのは食べられるものであって、実のない飾りつけなんかどうでもいいんだよ」
「バリーさんちではテーブルを飾ったのよ」とアン、エデンの蛇の知恵とまったく無縁なわけではなかった。「そしたら、牧師さんから大変お褒めにあずかったんだって。味覚だけでなく、視覚にもすばらしいご馳走でしたって、牧師さんが言ったそうよ」
「なら、あんたの好きにしたらいいよ」とマリラ。バリー夫人だろうが他の誰だろうが、負けてはいられないのだった。「お皿と食べ物を並べる場所だけ残しておくんだよ」
アンは飾り付けのディスプレイに腕をふるい、なんとかバリー夫人を凌駕せんと頑張った。バラとシダとアンの趣味を芸術的かつふんだんに盛り込んだ、この昼食の席という作品は、独特の美しさを放っていた。その見事さにみとれて、席につこうとした牧師夫妻は、思わず異口同音に声をあげることとなった。
「これは、アンがしたんですよ」とマリラ、公正さには気を配った。一方のアンは、アラン夫人の笑顔に報いられて、あまりの幸せに天にも昇る思いだった。
マシューもそこに同席していたが、どうやって篭絡され、このパーティーに集うことになったのかは、神とアンのみぞ知ることだった。どうしても恥ずかしがって、神経質になっていたから、マリラは絶望視して諦めていたのだが、アンが首尾よく手を引いて連れてきたので、マシューはこうしてテーブルにつくことになった。とっておきの上下に身を包み、真っ白いカラーをつけて、牧師相手に、そうつまらなくもなさそうに話をしていた。アラン夫人には絶対に一言も口をきこうとはしなかったが、それはたぶん、期待するほうが無理というものだろう。
何もかも愉快に過ぎて、結婚式の鐘の音のようだった。そんなところに、アンのレイヤー・ケーキが運び込まれた。アラン夫人は、もうすでにあきれるほどの品ぞろえを満喫させられていたので、レイヤー・ケーキは遠慮することにした。しかしマリラは、がっかりしたアンの表情が気になって、笑顔を浮かべるとこう言った。
「まあまあ、一切れだけでもどうぞ、アランさん。アンが奥さんのために作ったものですから」
「そういうことでしたら、味見させて頂かなくてはね」と、笑顔で答えるアラン夫人。きっちり中身の詰まった3角形の一切れを取り分けた。牧師とマリラも一切れずつ取り分けた。
アラン夫人がケーキを一口ほお張ると、世にも奇態な表情が夫人の顔をよぎった。だが夫人は何も言わず、休むことなく平らげていった。その表情を目撃したマリラは、急いでケーキを味見した。
「アン・シャーリー!」とマリラが叫ぶ。「あんた一体、ケーキに何を入れたの?」
「別に何も、レシピにあったものだけよ、マリラ」と、アンの声が高くなった。心配で顔が歪んでいる。「もしかして、上手く出来てないの?」
「上手く出来てるだって! 酷いとしか言いようがないよ。アランさん、もう無理しないで下さいな。アン、自分で味を見てごらん。調味料に何を使ったの?」
「バニラ」とアン、ケーキを味見すると、恥ずかしくて顔が真っ赤に染まった。「バニラだけ。そうだ、マリラ、きっとあのベーキング・パウダーよ。怪しいと思ってたのよ、あのベーキ――」
「ベーキング・パウダーだって、馬鹿馬鹿しい! あんたが使ったバニラの瓶を見せてごらん」
貯蔵室に消えたアンが、小さな瓶を持って戻った。茶色の液体が中にまだいくらか残っていて、黄色いラベルに『ベスト・バニラ』と書いてあった。
マリラは瓶を受け取り、コルクを抜いて臭いをかいだ。
「やれやれ、アン、あんた、あのケーキの味付けに、痛み止めの塗り薬を使ったんだよ。先週、塗り薬の瓶を割ったから、バニラの空き瓶に入れ替えておいたんだけど。これはあたしの責任でもあるね――あんたに言っておくべきだったよ――だけど何でまたこの臭いが分からなかったかねえ?」
さらに恥を上塗りされて、アンは涙をぽろぽろこぼし始めた。
「分かんなかったわよ――だって風邪引いてたんだもん!」そう言い捨てたアンは、あっという間に自分の切妻の部屋に逃げ込んで、ベッドに身を投げ出し泣き伏した。誰にも慰めてもらいたくなんかなかった。
ほどなく、軽い足音が階段に響くと、誰かが部屋に入ってきた。
「ああ、マリラ」と、しゃくり上げるアン、顔をあげもしない。「あたし永遠に名を汚したのよ。これはもうダメ、立ち直れない。みんなに知れ渡るのよ――アヴォンリーではいつでも何でも広まっちゃうんだから。ケーキの出来はどう、なんてダイアナに聞かれたら、真実を告げないわけにいかないし。あたし、これからずっと後ろ指さされるのよ、ほらあれが痛み止めの塗り薬でケーキを味付けした女の子だって。ギル――学校の男の子達は、容赦なく笑うに決まってる。ああ、マリラ、もし僅かなりともクリスチャンの憐れみがあるなら、こんな事があった後で、さっさと降りて来てお皿を洗えなんて言わないでね。牧師さん達が帰ったら洗うわ。だけどアランさんとは、もう二度と面と向かって話せない。もしかすると、あたしがわざと毒を盛ったと思うかもしれない。リンドさんは、引き取ってくれた恩人に毒を盛った孤児の女の子を知ってるんだって。でも、あの塗り薬は毒じゃないのよ。体の中に取り込まれるためにある薬なんだもの――ケーキに入れたりはしないけど。アランさんにそう言ってくれない、マリラ?」
「じゃあ、飛び起きて自分で言ってみたらどうかしら」と、陽気な声がそう言った。
アンがガバッと起き上がると、そこにいたのはアラン夫人で、ベッドの側に立って、にこやかな瞳でアンを眺めていた。
「さあ、良い子ね、そんなに泣かないで」アンの痛ましい表情に心を動かされて、そう言った。「ね、あんな事ただの笑い話だわ、誰でもしちゃいそうな失敗じゃない」
「そんなことないです、こんな失敗するのはあたしくらい」と、絶望的なアン。「あのケーキはすごく上手に作りたかったんです、美味しく食べて欲しかったの、アランさん」
「ええ、分かるわ、ありがとう。あなたの優しさも思いやりも、本当に嬉しく思っているのよ、上手にできた時と変わらないくらいにね。さあ、もう泣かないで、私と一緒に降りて、あなたが育てた花壇を見せてちょうだい。ミス・カスバートが、小さいけどあなただけのお庭があるとおっしゃってたわ。見てみたいのよ、私ね、草花にはとても興味があるの」
ようやくアンも、夫人の慰めの言葉を容れて下に降りる気になった。そして、アランさんが同じ波長の人だったのは、本当に神の意志が働いたのだと、しみじみ実感した。塗り薬ケーキについては、それ以上触れられることはなかった。そしてお客が帰ってしまったところで、アンはふと気がついた。今日の夕方は、思ったよりずっと楽しかったんだなぁ、あんな恐ろしい事件はあったけど、と。それでもなお、深く溜め息をつくアンだった。
「マリラ、素敵だと思わない、明日という日は、真新しくてまだ失敗のない日なのよ?」
「きっと明日になれば、またたくさん失敗するさ」とマリラ。「あんたが何も失敗なしでいられた事なんかなかったよ、アン」
「はい、よぉく分かってます」不本意ながらアンもそう認めざるをえなかった。「でもね、気づいたことない? 改善されてるところもあるんだからね、マリラ? あたしは同じ失敗を二度と繰り返さないのよ」
「それのどこが嬉しいのやら。いつでも新しい失敗をしているようじゃね」
「え、分からない、マリラ? 一人の人ができる失敗には、限界があるはずよ。全ての失敗をし尽くしたら、あたしの分はそれで終了。そう考えると元気になれるな」
「それはそうと、あのケーキは豚の餌にしたほうがいいよ」とマリラ。「人間の食べるものじゃないからね。ジェリー・ブートだって食べられやしない」
22章 アン、お茶に招待される
「何があったか知らないけど、目がこぼれてきそうじゃない、今度は何?」とマリラが訊いた。アンは郵便局まで使い走りを頼まれて、今戻ったところだった。「また同じ波長の誰かを見つけたのかい?」興奮の衣を身にまとったアンは、瞳をキラキラさせて、顔全体が明るく輝いていた。小径を踊りながら帰ってきたのだ。さながら風に舞う飛ぶ
「ううん、マリラ、でも、ああ、何だと思う? あたしね、お茶に招待されたの、牧師館で明日の午後なの! アランさんが、わざわざ郵便局に手紙を置いて行ってくれたのよ。ほら、見て見て、マリラ、『グリーン・ゲイブルズ、アン・シャーリー様』生まれて初めてだわ、『様』なんてつけて呼ばれたの。あんなにゾクゾクするなんて! 大事に大事にずっと取っておこう、あたしの極め付きの宝物と一緒に」
「アランさんから聞いてるよ、日曜学校の生徒を順番にお茶に呼ぶつもりなんだってさ」とマリラ、せっかくの夢の如き出来事だというのに、誠にそっけない。「そんなに熱に浮かされて、うわ言を口走る必要はないんだよ。物事はもっと冷静に受け止めなくては、分かったね」
アンが物事を冷静に受け止めるられるようになったら、それはもうアンとは呼べないだろう。全てが「霊と火と露」でできていたアンは、生きる愉しさにも苦しさにも、人の3倍も強く翻弄された。マリラはこれに気づいており、漠然と不安を抱え、危ぶんでいた。人生の浮き沈みが、魂の衝動を抑えきれないでいるこの子の肩に、重くのしかかるのではないだろうか。ただ、十分理解していないこともあった。悲しむだけでなく、誰にも増して喜ぶ力があるということは、欠点を補って余りあるものなのだ。それゆえに、マリラが心得るに至った義務とは、できる限りアンをきびしく躾け、何があっても動揺しない態度を身に付けさせることだった。しかし、そんなことはアンには不可能で、しかも縁がない事であって、小川の浅瀬で踊り回る陽の光に言ってみるのと変わりなかった。その努力が何ほども実を結んでいないのは、残念ながらマリラも認めるところだった。何かの望みや計画にのめり込んで、それが破綻すると、アンは真っ逆さまに「悲しみの深淵」まで沈んだ。逆にそれが上手くいくと、目がくらむような歓喜の王国の高みまで、駆け上がった。マリラはしばらく前から望みを失いかけていた。この世間をさ迷う宿無し児を、自分の頭にある模範的な少女、控え目な素振りで行儀良い態度の娘という型に無理やりはめ込もうなど、土台無理な相談なんじゃなかろうか。それだけでなく、マリラは自分でもまったく分かっていなかったのだ。本当は今のアンの方がずっと好きだという事を。
アンがその晩部屋に戻る時、何も喋らず悲しげに黙ったままだった。マシューが、風が北東に向いてきたから、明日は雨降りじゃないかな、と言っていたからだ。かさかさいうポプラの葉擦れの音が家の周りから聞こえてくると、気が滅入ってきた。なんだか、雨粒がぱたぱた落ちて来る音そっくり。どどーんと遠く重く、セント・ローレンス湾から海鳴りが響く。他の場合なら楽しく聞き入ったかもしれない、聞き慣れない堂々たる響きと、耳に残る波のリズム、それも今は嵐と凶兆を告げるお告げと化した。そのお告げを授かった小さき乙女は、殊のほか青空を請い願っていたというのに。まさか、もう二度と朝が来ないなんてことは……。
だが物ごと全てには終わりがつきもの、牧師館に招かれるまでに、指折り数えるあの夜この晩とて例外ではない。朝起きてみると、マシューの予報にもかかわらず快晴に恵まれたから、アンの気分は空の天辺まで舞い上がった。「ああ、マリラ、今日はあたしの中の何かが疼くわ、誰に会っても愛してしまいそうなの」朝食の皿を洗いながら、そう感激を語った。「あのね、自分でも善い子だって感じるのよ! これがいつまでも続くといいのにね? あたし模範的な子になれるかもね、もし毎日お茶に招かれたらだけど。でもね、ああ、マリラ、お茶のお招きは正式な行事でもあるのよ。とっても心配だわ。もし礼儀正しくできなかったらどうしよう? ほら、あたし牧師館でお茶なんて初めてじゃない。だから、エチケットの決まりを全部知ってるとは言えないのよ。ここに来てから、ファミリー・ヘラルド誌のエチケット欄を欠かさず読んで、書いてある決まり事を頭に入れるようにしてたんだけど。あたし恐いわ。何か間抜けなことしたり、しなきゃいけないことを忘れたりするんじゃないかな。お替りを頂くのは良いマナーと言えるの? もし、ものすごぉくあれが欲しいって思った時よ」
「あんたの欠点はね、アン、自分のことばかり考えすぎることだよ。そうじゃなくて、アランさんのことを思いやるべきだね。アランさんの身になって、どうすれば喜んでもらえるか、よく考えてみなさい」とマリラ、珍しく当を得た、堅実かつ簡潔な助言だった。対するアンも、打てば響くようだ。
「そのとおりね、マリラ。あたし自分のことは全然考えないようにしてみる」
アンは牧師館の訪問を無事に切り抜けたらしい。特に重大な「エチケット」違反もなかったようで、黄昏が、巨大な弾けそうなほど曲げられた空のアーチの下で、サフランとのバラ色の雲の裳裾を引いて、栄光を謳歌する中を、至福の心で家に戻って来ると、幸いに包まれたまま、何一つ余さずマリラに語ったのだ。台所の戸の前にある、大きな赤い砂岩の石敷に座り、疲れた巻毛の頭をマリラのギンガムの膝にのせて。
涼しい風が吹き下ろしてきた。細長い畑刈り入れ時の畑を越えて、周りのモミの生える西の丘々の縁から、ポプラの梢をヒューと吹き抜けていった。星が1つ、くっきりと家の果樹園の上に輝き、蛍が「恋人小径」をふわふわと飛び回って、シダの茂みと、ざわざわ揺れる枝の間を縫いながら、現われては消えていった。アンの瞳は、お喋りしながらも、そんな風景を見つめていた。どうしてだろう、風も星も蛍も、みんなひとつに絡まりあって、言葉にできないけど、気持ちよくてうっとりする何かに、溶けていくような気がする。
「ああ、マリラ、最高に魅惑の時間だった。今までの人生は無駄じゃなかったのよ、きっとこれからもそう感じ続けるわ、例えもう二度と牧師館に招かれなくてもね。向こうに着いたら、アランさんが玄関までお出迎えしてくれたの。ドレスは淡いピンクの素敵なオーガンディー、エルボー・スリーブでフリルもたくさん付いていて、
23章 アン、名誉事件で災難に
アンは、あいにくと2週間以上我慢するはめになった。塗り薬入りケーキ事件があってからもうすぐひと月になろうとしていた。そろそろ何かがあってもいい時期、アンがまたしてもトラブルに巻き込まれてしまう頃合いだった。小さな失敗はいくつかあった。例えば、上の空で平鍋でミルクの皮をすくっていたら、台所に置いた毛糸の玉を入れているバスケットにあけてしまった。本来なら豚用のバケットにあけるはずだったのに。他にも、丸木橋を歩いていたら、足を踏み外してドボンと小川に落ちたこともあった。想像で紡いだ夢の世界に包まれていたからだ。だがこんなことは些細すぎて、数える手間も惜しいくらいだった。
牧師館のお茶会から一週間が過ぎて、ダイアナ・バリーがパーティーを開いた。
「こぢんまりした集まりだし、誰でもじゃないの」アンはこう言ってマリラを説得した。「あたし達のクラスの女の子だけよ」
とても楽しく時が流れ、何一つ面倒事は起こらなかった。お茶が済むまでは。その時、みんなはバリー家の庭に集まっていた。どのゲームも新鮮味に欠けてきており、そろそろ、いたずらという熟れた実が、
挑戦ごっこは、現在大流行のゲームで、アヴォンリーのちびっ子連中の間に蔓延していた。まず男の子達の間で始まったのだが、すぐに女の子達にも広がって、ありとあらゆる下らない事が、その夏のアヴォンリーで実行に移された。なぜなら、「挑戦」を受けたからには、やるしかなかったからである。下らない挑戦のリストは、それこそ一冊の本を埋め尽くすほどだった。
まずはじめに、キャリー・スローンがルビー・ギリスに、あるところまで、正面のドアの前の巨大な柳の老木に登るように言った。その挑戦を受けて立ったルビー・ギリスは、その木にはびこる、ころころ太った青虫が死ぬほど恐ろしかったにもかかわらず、そして、新しいモスリンの服にかぎ裂きでも作りでもしたら、お母さんが目を三角にしてどんなに怒るか分かっていたにもかかわらず、するする登ってしまったので、キャリー・スローンの目論見は完敗に終わった。次に、ジョージー・パイがジェーン・アンドリューズに挑戦した。左足のケンケンで庭を一周して、途中一度も止まったり右足をつかないという挑戦内容である。ジェーン・アンドリューズは果敢に努力したが、3番目の角でギブアップして、敗北を認めざるをえなかった。
ジョージーが得意満面の天狗になって、ちょっと鼻につくほどだったから、今度はアン・シャーリーが、庭の東側を仕切っている板塀の上をつたって歩いてみなさいよ、と挑戦した。さて、板塀の上を「歩く」のは、試したことがないと分からないかもしれないが、意外と頭から踵まで体全体を操る腕前と安定性を要求されるものである。さて、ジョージー・パイは、仲間受けがあまりよくないきらいはあったかもしれないが、少なくとも板塀の上を歩くことに関しては、生まれながらの才能を授かっていたし、十分に練習も積んでいた。ジョージーは無造作に楽々とバリー家の塀を歩いていった。こんなつまらないことは、わざわざ「挑戦」するほどの事ではないというのが、ありありと伺えた。ジョージーの功績を讚えて、嫌々ながら称賛が送られた。というのも、そこにいた女の子は大概、自分たちが何度も板塀を歩こうと苦労した経験上、どんなに大変なことか知っていたからである。板塀の上にお高くとまっていたジョージーが、勝利の喜びに頬を紅潮させながら降りてくると、アンに挑戦的な視線を投げた。
アンがぷいっと頭をそらすと、赤毛のおさげが揺れた。
「そんなに大して驚くほどのことじゃないと思うわ、低い板塀ごときを歩いたくらいじゃね」とアン。「あたし知ってるもの、メアリズヴィルの女の子で屋根の棟木の上を歩いた子がいるのよ」
「そんなの信じられない」とジョージーは取り付くしまもない。「誰も棟木の上なんか歩けるわけないわ。あなたには無理よ、どのみち」
「あたしには無理?」と思わず言ってしまうアン。
「じゃあ、挑戦するからやってみなさいよ」とけんか腰のジョージー。「あなたに挑戦するわ、そこを登って棟木の上を歩くこと、バリーさんちの台所の屋根のよ」
アンの体から血の気が引いた、がしかし、為すべきことは明らかにただ一つだった。アンは建物の方に歩み寄っていった。そこには、台所の屋根に立て掛けた梯子があった。5年組の女の子みんなが声をそろえて言った、「ウソ〜っ!」興奮とビックリ仰天が半々に混じっていた。
「こんな事やめて、アン」と、すがるダイアナ。「落ちて死んじゃうわ。ジョージー・パイなんか気にしないで。卑怯よ、こんな危ない事で挑戦するなんて」
「あたし、やらなくちゃいけないの。あたしの名誉がかかってるんだから」とアンは本気だ。「あの棟木を歩くしかないのよ、ダイアナ、でなければ、試み虚しく途中で倒れるかだわ。もしあたしが死んだら、真珠のビーズの指輪はあなたの物よ」
アンは梯子を登って行った。手に汗握る沈黙のさなかを、一段一段棟木を目指し、ふらふらとバランスを取りながら立ち上がった。怪しげな足元だった。そして棟木に沿って、はじめの一歩を踏み出した。目まいがする中で強烈に意識したのは、自分が気分が悪くなるほど高く、世界にそびえる場所にいることと、棟木を歩く時には、想像力があっても物の役にも立たないということだった。それでもなお、アンは、何とか数歩歩みを進めたが、そこで大災厄がやって来た。その時、アンの体がグラッと大きく揺れた。バランスを失う、つまずく、よろめく、ああ、倒れた、日に焼けた屋根を滑って行く、そして、アメリカヅタの絡まりを派手に巻き込みながら、屋根から落ちた――全てが一瞬のうちに過ぎ去り、下でうろたえている女の子達が、一斉に恐怖の悲鳴をあげた。
もしアンが梯子を登った側にころげ落ちていたら、ダイアナはたぶんその場で、真珠のビーズの指輪の相続人になっていたことだろう。幸運にも、アンが落ちたのは反対側で、屋根がポーチの上まで延びており、かなり地面に近かったので、そこから落ちてもそれほど重大な事にはならなかった。そうではあるが、ダイアナと他の女の子達が家をまわって、狂ったように駆け寄ると――ルビー・ギリスは別だった、地面に根が生えたように動けず、ヒステリーを起こしていたから――アンが倒れているのが見つかった。血の気のない、ぐったりした姿で、ばらばらになったアメリカヅタの残骸に囲まれていた。
「アン、死んじゃったの?」と叫ぶダイアナ、大事な友の傍らにくずおれていた。「ねえ、アン、愛しいアン、何か言って、一言でもいいから、死んじゃったのかどうか教えてよ」
その場の全員、特にジョージー・パイが一安心できる答えが返ってきた。ジョージーは想像力に欠けていたけれど、近い将来の幻覚に襲われていて、アン・シャーリーを若くして悲劇的な死に追いやった張本人、という烙印を押されるのではと震え上がっていたのだ。アンはふらふらと体を起こすと、頼りない声でこう答えた。
「死んでない、ダイアナ、あたし死んでない、でもジンジフセイに陥ってたと思う」
「どこが?」としゃくり上げるキャリー・スローン。「ねえ、どこが、アン?」アンが答えるより早く、バリー夫人が登場した。その姿が見えるとアンは急いで立ち上がろうとしたが、痛みに堪え兼ね、鋭く小さな悲鳴をあげると、また座り込んでしまった。
「一体何があったの? どこを怪我したの?」とバリー夫人が問い質した。
「足首が」と喘ぐアン。「ねえ、ダイアナ、お願い、あなたのお父さんを探してきて、あたしを家まで連れて行ってもらって。ダメなの、あたし家まで歩けない。片足でそんなにケンケンして行けないわ、ジェーンだって庭を回り切れなかったのに」
マリラは果樹園に出て、サマー・アップルを皿に一杯摘んでいたのだが、ちょうどバリー氏がやって来るのが見えた。丸木橋を渡って、斜面を登って来るバリー氏は、隣にバリー夫人、後ろに女の子の行列をそっくり引き連れていた。腕に抱えられて来たのはアンだ、頭を弱々しくバリー氏の肩にもたせかけていたアンだった。
その瞬間、マリラの黙示録のページが開いた。突然、恐怖のナイフを心臓にグサリと突き立てられ、マリラは自覚した、アンが自分にとって何であるかを。今まで認めていたのは、アンを好きだということ――いや、アンがお気に入りだということまでだった。だが、今にしてマリラは気がついた、矢も楯もたまらず一心に丘を駆け下りながら、アンがこの地上で、他の何より大切なものだということに思い至ったのだ。
「バリーさん、この子に何があったんですか?」息急き切ってそう訊いた。マリラは真っ青になっており、動揺の色を隠せない。長年そうであった、落ち着いた分別臭いマリラからは想像できない姿だった。
自分で答えようと、アンが頭を起こした。
「そんなに心配しないで、マリラ。あたし、棟木の上を歩いてたら落ちたのよ。足首をくじいたんじゃないかな。でも、マリラ、もしかすると首を折ってたかもしれないのよ。物事は明るい面を見ないとね」
「何かしでかすと分かっていたよ、あんたをあのパーティーに行かせた時からね」とマリラ、安心したので、ついきつくガミガミ言ってしまう。「こっちに運んで下さいな、バリーさん、ソファーの上に寝かせて。どうしよう、この子ったら気絶したわ」
まったくそのとおりだった。傷の痛みに堪え兼ねて、アンが待ち望んだ願いが、また一つ叶ったのだ。アンは失神し、ピクリともしなかった。
マシューが収穫作業中の畑から慌ただしく呼び戻され、そのまま大急ぎで医者を呼びに立った。やがて医者が到着すると、怪我が思ったより重いことが分かった。アンの足首は骨折していた。
その夜、マリラが東の切妻まで上がってきた。そこには青白い顔で女の子が寝ていたのだが、惨めな声がベッドからマリラを出迎えた。
「あたしってとっても可哀想な子だと思わない、マリラ?」
「自分のせいだろうに」とマリラ、ブラインドをぐいっと下ろして、ランプに火を灯した。
「だから余計、可哀想に思って欲しいのよ」とアン。「だって、全部あたしのせいなんて思ったら、辛すぎるもの。誰かに責任を押し付けられるんなら、いっそ気が楽なのに。ねえ、マリラだったらどうする、もし棟木を歩けって挑戦されたら?」
「あたしならしっかりした地面から離れたりしないね、勝手に挑戦させとくさ。ほんとに馬鹿馬鹿しいったら!」とマリラ。
アンが溜め息をついた。
「それは、気丈な心を持ってるからよ、マリラ。あたしは違うもの。あたし我慢できなかったの、ジョージー・パイに笑われるだなんて。あの時あたしが勝ったのよって、あの子に一生言われたかもしれないもの。それにあたしは十分罰を受けたと思うし、もう怒る必要ないわよ、マリラ。大体、ちっとも素敵じゃないんだもん、気絶なんか。お医者さんは、足首を固定する時すっごく痛くしたし。6週間も7週間も歩き回れないんじゃ、新しい女の先生を見逃しちゃうわ。あたしが学校に行く頃には、もう新鮮味に欠けてるわね。それに、ギル――みんなに授業で追い抜かれちゃうわ。ああ、我、悲しみに打ちひしがれたり。だけど、あたし雄々しく耐え抜いてみせるわ、もしあたしのこと怒らないでくれたらだけど、マリラ」
「分かった、分かった、怒っちゃいないよ」とマリラ。「運がなかったんだよ、それは間違いないさ。まあ、いみじくも自分で言ったように、これから苦労が待ってるんだから。さあて、夕飯を食べてごらん」
「幸運だと思わない、あたしが想像力を持ってて?」とアン。「おかげで、きっと楽に乗り切れそうに思うの。想像力がない人は、どうやって骨折を乗り切っていけるんだろう、どう思う、マリラ?」
幾度となく、アンは自分の想像力のありがたさを、身にしみて感謝した。それほどに退屈で、なかなか過ぎていかない7週間だった。ただし、想像力だけに頼っていたわけではなかった。アンはたくさんの見舞客を迎えることになったし、学校の女の子達が1人も顔を見せない日は一日としてなかった。そして花や本、そしてアヴォンリーの子供たちの世界で起こった出来事の話を全部、お土産に置いていくのだった。
「誰も彼もこんなに優しくしてくれるのね、マリラ」と幸せの溜め息をつくアン、足を引きずって歩き始めた日のことだった。「ベッドで横になっているのは楽しいとはとても言えないけど、明るい面もあるのよ、マリラ。自分にどれだけ友達がいるか、これで分かるわ。何と、教会監督のベルさんも会いに来てくれたのよ。本当にとても立派な人なのね。同じ波長の人じゃないけどね、もちろん。それでもあの人、気に入ったわ。だからすごく反省してるの、いままであの人のお祈りをけなしたりしたけど、悪いことしたなって。ちゃんとお祈りしてるのが分かったのよ、ただ、癖でつまんなそうに言っちゃうだけ。もうちょっと気をつけたら、きっとよくなるわ。分かりやすくヒントをあげたのよ。あたしは自分でお祈りする時、面白いお祈りになるように、あれこれ試してますってね。ベルさんも子供の頃足首を折ったことがあるんだって、色々話してくれたわ。何だか変なの、ベル教会監督さんが小さい男の子だったなんて。あたしの想像力も万能じゃないのね、だってそんなこと想像すらできないもの。男の子だって想像しても、白髭を生やして眼鏡をかけた子しか思い浮かばないわ、日曜学校で見かけるとおりで、背が低いだけなの。でも、アランさんが女の子だった頃は、簡単に想像できるわ。アランさん、14回も来て下さったのよ。自慢できる事だと思わない、マリラ? 牧師の奥さんて、何かと忙しくて時間を取られるのに! それに、来て下さると元気になれるの。こうなったのは自分のせいなんだから、これで少しは良い子になれればね、なんて絶対言わないし。リンドさんは、会いに来るたび、いっつもそう言うのよ。それにあの言い方。あたしが良い子になれればいいけど、土台無理な相談だって考えてるのが分かるんだもん。それにジョージー・パイも会いに来たわ。できるだけ丁重に受け答えしたわ、棟木を歩けって挑戦したのを後悔してるように思えたからなの。もしあたしが死んでたら、あの子、良心の呵責という暗い重荷を、一生背負うことになってたかもしれないわ。ダイアナは今まで同様、忠実な友だったわ。毎日来てくれて、我が寂しき枕辺を慰めてくれたわ。それにしても、ああ、学校に行けたらすごく嬉しいのに。今度の先生ね、すごいんだって。女の子はみんな、完璧に素敵な先生だと思ってるのよ。ダイアナが言ってたわ、可愛らしい金髪をカールさせて、すっごく魅力的な瞳なんだって。着てる服がまた麗しいのよ、袖のパフなんかアヴォンリーの誰よりも大きいんだって。金曜日の午後は隔週で暗誦会を開くの。みんな詩を暗誦するか、対話劇のパートを受け持たなきゃいけないのよ。ああ、考えただけでも楽しそう。ジョージー・パイは嫌でしょうがないって言うけど、それはジョージーに想像力が少なすぎるからね。ダイアナとルビー・ギリスとジェーン・アンドリューズで、対話劇の練習をしてるわ。『朝の訪問』っていう劇で、今度の金曜日に演じるのよ。暗誦会のない金曜の午後は、ステイシー先生がみんなを連れて森に行く『野外観察』の日。シダや草花や鳥について学ぶの。それから、朝と夕に体育体操をするんだって。リンドさんが、聞いたことのない妙な事ばかりして、女教師なんか選んだせいだって言ったそうよ。でも、あたしは素晴らしいことだと思うな。きっとね、あたしと同じ波長だと思うわ、ステイシー先生って」
「これだけは言えるね、アン」とマリラ、「バリー家の屋根から落ちても、あんたの舌は健在だってことだよ」
24章 ステイシー先生と生徒達、コンサートを企画
また10月が訪れた頃、アンは学校に通えるまでになっていた――燦然と燃え上がる10月、全てが紅と黄金に輝き、しっとりとした朝には、いずこの谷地も、もやに満たされる。まるで秋の精霊がもやを注ぎ込んで、太陽が飲み干すのを待っているようだ――紫水晶、真珠、白銀、薔薇、そしてくすんだ藍のカクテルだ。朝露が重く玉を作ると、穀物畑が白銀の織物に姿を変えて煌めき出し、かさかさと吹き溜まった落ち葉の山が、葉を落とした枝ばかりが目立つ森の窪地で、乾いた音をたてて風に吹かれて走り出す。樺小径は黄色の天蓋に覆われ、干からびた焦げ茶色のシダが、どこまでも道に沿って続いている。ツンと香る秋のそよ風が小さな乙女達の心をはずませれば、足取りも軽く、カタツムリとは似ても似つかぬように、乙女達はうきうきと学校へ駆けて行く。ここに戻れて本当に嬉しいわ、ダイアナの隣も、懐かしい茶色に色褪せた机も。ルビー・ギリスが通路ごしにうなずいた。キャリー・スローンは短い手紙を送ってきた。ジュリア・ベルが後ろの席からガムを『一噛み』手渡してくれた。鉛筆を削り、絵付きのカードを机の中に奇麗に並べ直しながら、アンは大きく息をついて幸せに浸っていた。生きてるって、こんなにも楽しいことなんだわ。
新任の教師にアンが見いだしたのは、救いの手を差しのべてくれる真の友の姿だった。ステイシー先生は、若くて明るく、相手の気持ちを汲むのがうまい女性で、生徒達の心をつかんで飽きさせず、知識の点でも道徳の点でも、その生徒から最良のものを引きだすという、生まれつきの才能に恵まれていた。こうした望ましい環境のもとで、アンは一輪の花のように健やかに花開いていった。家に帰れば、感心顔のマシューと批判的なマリラに向かって、授業で習った事やこれからの予定のことを、滔々と夢中になってまくし立てるのだった。
「あたし、ステイシー先生が大好き、心の底からそう思うわ、マリラ。品が良いし、とっても感じの良い声なのよ。あたしの名前を口にする時、直感的に分かるのよ、ちゃんと Anne に e を付けてるって。午後は暗誦があったの。あたしが『スコットランド女王メアリー』を暗誦するのを一緒に聞けたら良かったのに。この暗誦には魂の全てを捧げたんだから。家に帰るときにルビー・ギリスが言ってたわ、あたしが『今こそ父の腕が、力が欲しい、意気地なき女の心よ、さらばだ』って言った時、血が凍りついたんだって」
「うむ、そうだな、そのうちで良いから暗誦してくれんかな、納屋でどうだろう」と頼んでみるマシュー。
「もちろん、構わないけど」とアン、何か考え込んでいる。「でもね、あまり上手くできないかもね。そんなにエキサイティングじゃないもの、学校中が、自分の一言一言を息を殺して集中してるのと違うし。マシューの血を凍らせるほどにはならないと思うな」
「リンドさんの事だろ、血が凍りついたのは。このあいだの金曜日に、男の子達が木によじ登ってたそうじゃないか、ベルさんの丘にある、あの高い木のてっぺんに登って、カラスの巣を取ってたんだってね」とマリラ。「ステイシー先生も何を考えてるんだか、そんな事させておくなんて」
「だけど自然観察用に、カラスの巣が必要だったのよ」と説明するアン。「午後の野外活動の日だったのよ。午後の野外活動って素晴らしいんだから、マリラ。それに、ステイシー先生が何でもすっきりと説明してくれるし。あたし達、午後の野外活動について作文を書かなくちゃいけないの。いつもあたしが一番なのよ」
「自惚れもいいとこだよ、そんなこと言って。それは先生が言うことだろう」
「だから先生がそう言ったのよ、マリラ。それにあたし自惚れてなんかない。そんなのありえないわよ、幾何がこんなにできないのに? 前よりちょっとは分かるようになってきたけどね。ステイシー先生が分かりやすく教えてくれたの。それでも、絶対得意になりっこないから、何とも恥ずかしき思いだわ。だけど、作文を書くのは大好き。大抵、ステイシー先生はあたし達に自分で題を決めさせるのよ。でも来週は、偉人を題に作文を書くことになってるの。選ぶのが大変、今までに、こんなにたくさん偉い人が生まれてきたんだもの。偉くなって、死んだあとに作文を書かれるようになれたら、きっと素晴らしいわね? あ〜、あたしもいつか偉い人になれたらな。大人になったら職業看護婦になりたいわ。赤十字と一緒に戦場に出かけて、慈悲の担い手になれたらって思うの。もし海外宣教師になれなかったら、そうなりたいな。宣教師はとっても
「何が促進するだか、馬鹿馬鹿しい!」とマリラ、下らないたわ言でしかないと思っていたのだ。
だが、午後の野外活動も、金曜の暗誦も、体育曲芸も、何もかも色褪せてしまう事件が起こった。ステイシー先生が11月になって、あるプロジェクトを公にしたのである。そのプロジェクトとは、アヴォンリー小学校の学生諸君によるコンサートを企画しようというもので、クリスマスの晩に公会堂で催されること、そして、売り上げ金は校旗の購入資金に充当するという大義名分があった。生徒達はだれもかれも、快くこの計画を支持したので、プログラムの準備がさっそく始められることになった。選抜された出演者はみんな興奮していたのだが、中でも一番舞い上がっていたのはアン・シャーリーその人だった。この企てに身も心も捧げるアンだったが、マリラの反対には四苦八苦していた。マリラにかかると、どれもこれも「下らない」の一言で一刀両断にされたから。
「馬鹿なことばかり頭に詰め込んで、勉強に身を入れる暇もないんだから」とこぼすマリラ。「気に入らないね、子供がコンサートを開くだの、稽古に走り回るだの。自惚れるようになるし、生意気になったり、遊び歩くのばかり好きになるだけさ」
「でも立派な目的があるのを忘れないでよ」と弁護にまわるアン。「校旗があれば愛国心がはぐくまれるわ、マリラ」
「いい加減なことを! あんた達がどれほど愛国心のことを気にしてるっていうんだい。気になるのは遊びのことだけだろうに」
「う〜ん、愉しみながら愛国心がはぐくまれれば、それでもいいんじゃない? もちろん、コンサートを催すのはホントに面白いもの。コーラスが6つあって、ダイアナがソロを歌うの。あたしは対話劇が2つ――『禁噂会』と『妖精の女王』よ。男の子達も1つ対話劇を演じるの。あとね、あたし2つ暗誦するのよ、マリラ。考えると体がゾクゾク震えてきちゃうけど、いい意味でゾクゾクしてるの。それから活人画で最後を飾るの――『信仰、希望、慈悲』という題よ。ダイアナとルビーとあたしが出演するんだけど、みんな真っ白の寛衣で、髪は流れるように垂らすのよ。あたしは希望の役、手を組み合わせて――こう――そして天を見上げるのよ。暗誦の練習は屋根裏部屋でするつもり。あたしのうめき声が聞こえてもビックリしないでね。暗誦の中で、胸が引き裂かれるようなうめき声をあげなくちゃいけないのよ。でもね、美的センス溢れるうめき声をあげるのって、本当に難しいんだから、マリラ。ジョージー・パイはふて腐れてるわ、対話劇で欲しい役をもらえなかったからよ。妖精の女王になりたかったんだって。だいたい変だわ、ジョージーみたいに太った妖精の女王なんて誰も聞いたことないわよね? 妖精の女王はすらっとしてなきゃ。ジェーン・アンドリューズが女王役で、あたしの役は女王の侍女の妖精の一人。ジョージーが、赤毛の妖精だって太った妖精と同じで変だって言うけど、ジョージーが何を言おうが気にしないでおくわ。白バラの花冠で髪を飾るのよ。ルビー・ギリスが上靴を貸してくれるし。だってあたし、自分用のを持ってないんだもの。妖精に上靴はつきものだしね。妖精がブーツを履いてるなんて想像できないわ、そうでしょ? 特に銅のつま先のブーツなんてね? みんなで公会堂の飾り付けをするのよ、トウヒツタとモミで校訓の銘を作って、薄紙で作ったピンクのバラで飾るわ。お客さんが着席した後で、全員が2列になって行進して登場するのよ、エマ・ホワイトがオルガンで行進曲を演奏するのに合わせてね。ねえ、マリラ、マリラがあたしほど乗り気じゃないのは分かってるけど、うちのアンが目立って欲しいって、ちょっとは期待してるでしょ?」
「あたしが期待してるのはね、あんたが大人しくしてくれることだよ。こんな騒ぎが終わってあんたが落ち着いてくれたら、それこそ嬉しいだろうね。今のあんたは何の役にも立ちゃしない、頭に一杯詰まってるのは、対話だのうめき声だの活人画だのばかりだろ。それにあんたのよく回る舌、よく擦り切れてしまわないもんだね、感心するよ」
アンは溜め息をつくと、裏庭に撤退することにした。庭の上にかかった新月はまだ細く、葉の落ちたポプラの枝の向こうの、青リンゴ色の西の空に輝いていた。行ってみるとマシューが薪を割っていた。アンは木の塊に腰を下ろすと、マシュー相手にコンサートについて思う存分お喋りした、少なくとも今度は、物の分かった、心を察してくれる聞き手なのは確実だったから。
「うむ、そうだな、大したコンサートになりそうじゃないか。アンなら上手く役をこなせると思うがな」そう言って、こちらを見上げている、熱心で元気な可愛い顔に微笑みを送った。アンも笑顔を返した。この二人は誰よりも仲が良かった。マシューは運命の星に何度も感謝したものだった、アンを躾ける責任を負わなくて良かったと。あれはマリラだけの重責だ。もし自分が躾けなければならなかったとしたら、自分の気持ちと義務の念の間に押しつぶされて、何度も悩んでいたはずだ。マリラのおかげで、わしは自由でいられる、「アンを甘やかして」いられる――マリラの言い方だが――自由に、好きなだけな。だが結局、そんなに悪くした物でもなかったのだ。時にはちょっとした「褒め言葉」で、一生懸命「躾け」るよりずっと効果をあげられるのだから。
25章 マシュー、パフ・スリーブを主張
マシューは不幸だった。なぜ10分もの間、苦しみ続けなければならなかったのか。たまたまマシューは台所にいたのだ。陽も沈みかけて、寒さが身にしみる薄暗い12月の夕方のことだった。薪入れ箱の角に腰かけて厚ぼったいブーツを脱ごうとしていたマシューは、アンが学校の友達と一緒に、居間でピーチクパーチク「妖精の女王」を練習しているのに気がついていなかった。しばらくするとみんなは、どやどやとホールを抜けて台所に出て来たのだが、笑ったりしゃべったり、いや、かしましいこと。女の子達にはマシューが目に入らなかった。マシューは恐れをなして、薪入れ箱の反対側の目に付かない所に逃げ込んでいたので。片手にブーツ、もう片手に長靴脱ぎを持ったまま、マシューは恐る恐る女の子達の様子に気をつけながら、先ほど言った10分間の責め苦を耐えていた。帽子を被る、ジャケットを着る、それでもまだ対話劇とコンサートの話で盛り上がっていた。アンもその中に混じっていて、みんなと同じように瞳を輝かせ生き生きとしていたのだが、そこでマシューはおやっと気がついた。アンは他の子と何かが違っている。アンと友達を隔てる溝など、あってはならないはずだ。アンの顔は誰よりも輝いていたし、誰よりも目立つ夢見がちな瞳をしていた。目鼻立ちだって誰にも負けないくらい感じが良い。いくらマシューが引っ込み思案で血の巡りがよくないといっても、この程度のことは分かっていた。だが、気になる溝は、そんなこととは関係がなかった。では、いったい何から違いが生まれるのだろう?
マシューは、この疑問にずっと悩まされ続けた。女の子達が腕を取りあって、長い凍りついた小径を帰って行っても、アンが教科書に向かうためその場を去って行っても、ずっと。マリラには相談できるはずもなかった。話す前から想像できた。きっとマリラなら鼻で笑って、アンが他の子と違って見えるのは、他の子達は時々静かにすることもあるけど、アンは絶対静かにしてられない、ただそれだけよ、なんぞと言うに違いない。これでは、とマシューは思った、さっぱり役に立ちそうにない。
その晩マシューは、パイプを頼りに謎の究明に努めることにした。マリラがあからさまに嫌な顔をしていたけれど。2時間パイプをふかして懸命に頭を回転させた結果、マシューはようやくこの疑問を解決するに至った。アンの服が、他の子と違っていたのだ!
考えれば考えるほど、マシューは確信を持てるようになった。アンはいままで一度も他の女の子と同じような服を着たことがなかった――グリーン・ゲイブルズにやって来てから一度もだ。マリラの着せるものは、きまって地味で暗い色の服ばかりで、いつも代わり映えのしない形だった。もしマシューが、服にはファッションというものがあると知っていたとして、期待できるのは、せいぜい知ってます程度のことだった。ただ、そんなマシューにも、アンの袖が他の女の子達の袖とは全然違って見えることは自信を持って言えた。マシューは、その晩アンの周りに寄り集まっていた女の子達を思い出してみた――みんな元気がよくて、赤や、青や、ピンクや、白の服を着とったな――何でまたマリラは、いつもアンにあんな地味で堅苦しい服を着せておくんだろう。
もちろんそれはそれで結構なことなのに違いない。こういうことはマリラが一番よく知っているんだし、マリラがアンを躾けているのだから。ワシなんぞには分からんが、たぶん何か考えた上でそうしているのだろう。だが、あの子に可愛い服の一つくらいあっても、いかんはずがあるまい――そうだな、ダイアナ・バリーがいつも着ているようなのが。決めた、アンに1着買ってやることにしよう。この程度なら、いらん口出しをしたと、反対されるいわれはあるまい。クリスマスまでもう2週間だしな。きれいな服を新調してやれば、贈り物にもうってつけだ。マシューは、満足そうに息をついて、パイプをしまいベッドに向かった。入れ替わりに、マリラがドアを全部開けて、家中の換気を始めた。
翌日の夕方には、カーモディーに服を買いに行くマシューの姿が見受けられた。嫌なことはさっさと済ますに限るというわけである。きっと取るに足りない試練というわけには行くまい、そうマシューは予想していた。物によっては、マシューにも買い手として取引上手なところがあったが、今回は売り手市場なのが分かっていた。女の子向けの服を買うはめになっては、売方のお慈悲にすがるしかないのだから。
頭を振り絞って考えた末に、マシューはウィリアム・ブレアの店ではなく、サミュエル・ローソンの店に行くことにした。実のところ、カスバート家の行きつけの店はウィリアム・ブレアの店だった。プレスビテリアン教会に列席したり、保守党に投票したりするのと同じで、この店を利用しないと心が咎めるのだった。しかし、ブレアの店では、ウィリアム・ブレアの娘二人が客の応対に当たっていることが多く、マシューはこの二人に会うのが、嫌でしかたがなかった。何を買いたいのか正確に分かっている時は、それでも何とか言いたいことが言えた。だが、今回の買い物では、教えてもらったり、あれこれ相談に乗ってもらう必要があるので、どうしてもカウンターの後ろに男の店員が控えていて欲しかった。それでマシューはローソンの店に行くことにしたのだ。きっとサミュエルか息子が応対してくれるはずだから。
ああ、何としたことか! マシューはサミュエルが最近事業の手を広げて、女店員も置くようになったことを知らなかったのだ。この店員は、サミュエルの家内の姪で、まったく元気一杯の娘だった。やたら大きな、しなだれたポンパドールの髪、くるくるよく動く大きな茶色の目、それに笑顔があまりにもニッコリしすぎて、思わず引いてしまうほどだ。しゃれたドレスを着込んで、腕にいくつもブレスレットをつけているから、腕を動かすたびにキラキラ、ガチャガチャやかましい。マシューはすっかりうろたてしまった。こんなはずではなかったのに。ブレスレットが鳴った途端、冷静さも何もかも一瞬にして吹き飛んだ。
「いらっしゃいませ。何になさいますか、カスバートさん?」と、ルシーラ・ハリス嬢が訊ねた。てきぱきと愛想よく、カウンターを両手でトントン叩きながらそう言った。
「あれをもらおうか――あれを――あれを――うむ、そうだな、その、熊手なんぞあるかね?」
ハリス嬢は少々驚いたようだ。無理もない。12月の半ばだというのに、熊手を欲しがるお客が来たのだから。
「1本か2本在庫していたように思います」と返事をした。「でも2階の倉庫にあるので、ちょっと確認してまいります」ハリス嬢がその場を離れた隙に、マシューは気持ちを落ち着けて、再挑戦に備えた。
ハリス嬢は熊手を持って戻ってくると、愛想よく訊ねた。「他に何かご入り用ですか、カスバートさん?」マシューが、勇気を奮って両手でこぶしを握りしめながらこう答えた。「うむ、そうだな、他に何かというとだな、あれが良いな――つまり――あれを見せて欲しい――ちょっと買いたいんだが――その、干し草の種をちょっと」
ハリス嬢は、マシュー・カスバートが変人扱いされているのを小耳にはさんでいたが、今、本人に接して納得いった。変人どころじゃないわ、この人絶対おかしいわよ、と。
「当店で干し草の種を取り扱い致しますのは、春だけでございます」と高飛車に答えた。「ですから只今在庫がございませんっ」
「いや、もっともだ――もっともだ――あんたの言うとおりだ」と口ごもる不幸なマシュー。熊手をつかみ取ると逃げるようにドアを目指した。が、敷居をまたぎかけたところで、まだ金を払っていないことに気がつき、惨めにカウンターへと戻っていった。ハリス嬢が釣りを数えている間、再度全ての力を奮い起こすと、やけっぱちで最後の賭けに出た。
「うむ、そうだな――もしそれほど手間でなければ――あれが欲しいんだが――つまり――見せてもらえんかな、あそこの――あそこの――砂糖を」
「白ですか赤ですか?」と訊ねる、じっと我慢のハリス嬢。
「えっ――うむ、そうだな――赤で良い」と意気地のないマシュー。
「樽にひとつ、向こうに置いてあります」とハリス嬢、ブレスレットをジャラジャラ揺らしながら指さした。「残っているのはあれだけなんです」
「それじゃ――それじゃ20ポンドもらおうか」とマシュー、額に玉のようなあぶら汗が浮かんでいる。
家に帰る道を半分も過ぎた辺りで、ようやくマシューは正気に戻ることができた。何ともぞっとしない経験だったが、天罰てきめんだと思った。普段行きつけない店に行くなんて不義理をするからこんな事になるんだ。家に帰り着くと、熊手を農具小屋にこっそりしまったが、砂糖の方は隠せないのでマリラのところに持ち込んだ。
「赤砂糖じゃない!」とマリラ、何でこんなものをという顔つきである。「何を考えてこんなに山ほど買ってきたの? 知らないはずないでしょ、赤砂糖なんか、雇い人のポリッジか黒色フルーツ・ケーキにしか使わないのよ。ジェリーはもう戻って行ったし、ケーキはずっと前に作ってしまったわよ。それにこの砂糖、質が悪いわね――粒は粗いし色も悪いじゃない――ウィリアム・ブレアでは、普段こんな砂糖は置かないわよ」
「ワシは――ワシはそのうち使えるんじゃないかと思ったんだが」とマシュー、上手いこと言い抜けたようである。
今回の事をじっくり反省した結果、マシューは、相談に乗ってくれる女性を見つけて、手伝ってもらうことにした。マリラは問題外だった。マシューには言う前から分っていた。せっかくのアイデアも、その場で冷水をあびせかけられてしまうのが落ちだろう。残るはリンド夫人だけ。アヴォンリーのどこを探しても、マシューが相談できる女は他にいなかったのだ。こうしてリンド夫人を訪ねたわけだが、この気のいい夫人は、すぐさま悩める男の肩の荷を下ろしてくれた。
「アンの贈り物にするから服を選んで欲しい? もちろん構わないわよ。明日カーモディーに行って、探して来るわ。特に何か注文はある? ないの? それじゃ、あたしの見立てで選ばせてもらうわ。濃い目の茶色なんかシックでアンに似合うんじゃないかしら。ウィリアム・ブレアに新しいグローリア地が入ったんだけど、これがなかなか素敵なのよ。アンの服を縫うのも、きっとあたしにやって欲しいんでしょ、マリラが縫ったんじゃ、アンが嗅ぎつけてしまって、せっかくのお楽しみが台無しだものね? ええ、縫って差し上げましょう。い〜え、ちっとも面倒じゃないわ。縫い物は好きだから。うちの姪のジェニー・ギリスに寸法を合わせて作ればいいし、あの子はアンと瓜二つだもの、こと背丈に限ってはね」
「うむ、まったく恩にきるよ」とマシュー。「それで――それで――よく知らんのだが――こう何というか――最近の袖の作りは昔と違っているようでな。もしあまり負担にならなければ――袖も今時の作りにして欲しいんだが」
「パフのこと? もちろん、そうしましょ。もう何も言わないでも大丈夫よ、マシュー。最新の流行に合わせて作ってあげるわ」とリンド夫人。マシューが帰ってしまってから、心の中でこう付け加えた。
「やれやれ、一安心だわね、今度ばかりは、あの子もちゃんとしたものを着られるんだから。あの子にあんな格好させておくなんて、マリラもまったく馬鹿だね、まったく、今まで何度言ってやろうとしたかしれやしない。ずっと黙ってたけどね。そりゃそうでしょ、マリラは人の言う事を聞きたがらないし、あたしなんかよりずっと上手く子供を育てられると思っているんだから、オールド・ミスに何が分かるっていうの。だけど、世の中そんなものだからね。子供を育てたことがあれば、子供の躾けは万能薬なんかないのが道理だって身に沁みてるはずよ。育てたことがない人に限って、三の法則[#訳者注:a : b = c : x から変数 x を求める方法]みたいに簡単至極と思ってる、3つの項を決まりどおりに解けば、はい出来上がり、じゃないんだから。そうじゃなくて、血肉をそなえた人間は計算なんかと一緒じゃないのよ、そこをマリラ・カスバートは取り違えてるのよ。アンに謙虚な心を植え付けようとして、あんな服を着せてるんだろうけど、せいぜい植え付けられるのは、人をねたんだり、不満だらけの心ってとこでしょ。あの子はちゃんと分かってるはずだわよ、自分の服装が他の子と差がついてるってね。それにしても、あのマシューがよく気がついたもんだわ! あの男は60年の眠りから醒めつつあるわよ」
その後の2週間というもの、マリラはマシューが何か隠し事を企んでいるのに感づいていたが、何をしようというのかまるっきり見当がつかなかった。クリスマス・イブに、リンド夫人が新しい服を持って来るまでは。マリラは大体においてにこやかに夫人を迎えたが、リンド夫人が裏で糸を引いていると思っているようだった。リンド夫人のまことしやかな説明によれば、マリラが作ったのではアンにすぐ感づかれるからとマシューが気を使ったから、とのことだったが。
「ああ、そういうこと、この2週間ずっと、マシューが何か隠し事して、一人でニヤニヤしていたのはこれね?」と、マリラは表情が堅かったが、それでも器の大きいところを見せた。「何か下らないことを企んでいたのは分かってたけど。それはともかく、今以上アンに服が要るとは思えないわ。秋には3着も、暖かくて長持ちする良い服を作ってあげたんだから、これ以上作ったら贅沢でしかないわ。袖の生地だけでブラウスが作れそうじゃない、ほんとにまあ。アンを甘やかして天狗にするだけよ、マシュー、今だって孔雀みたいに自慢たらたらなんだから。さて、これでようやくアンにも満足して頂けそうだわね、あたしだってアンがあの馬鹿な袖にあこがれてたくらい知ってたわ、ここに来てからずっとだったわよ、一度言ったきり言わなくなったけど。パフ・スリーブときたら、サイズも馬鹿さ加減も大きくなる一方だわ。今じゃ風船サイズだし。きっと来年には、パフ・スリーブの人は、袖からはすに入ってドアを抜けないといけなくなるわね」
クリスマスの朝が明けると、一転して素晴らしい銀世界になっていた。とても暖かい12月だったので、誰もが雪のないグリーン・クリスマスになるだろうと思っていた。だが、夜の間にしんしんと降り積もった雪で、アヴォンリーの姿が一変したのだ。アンは霜のおりた切妻の窓から、目を輝かして外をのぞき渡した。呪いヶ森のモミの木立ちが、ふんわりした不思議な衣装に衣替えしている。樺と野生のサクランボは、どれも真珠色に縁取られている。あぜの並ぶ畑は純白のさざ波だ。清々しい空気には言葉もなかった。駆け出したアンが、歌いながら階段を降りて行く。アンの響く声がグリーン・ゲイブルズ中に充ち満ちた。
「メリー・クリスマス、マリラ! メリー・クリスマス、マシュー! 素敵なクリスマスじゃない? 嬉しいわ、ホワイト・クリスマスなのよ。これ以外のクリスマスなんか本物じゃないわ、でしょ? あたし、グリーン・クリスマスは嫌い。ちっともグリーンじゃないもの――うんざりするような、ただのしおれた落ち葉色と、どんよりした曇り空色よ。それなのに、どうしてみんなグリーンって言うの? え――なに――マシュー、それ、あたしに? ああ、マシュー!」
マシューはおどおどと包装紙で覆われた服の包みを開けて差し出した。これはプレゼントだから、という言い訳がましい顔で、マリラの方にちらっと目をやった。マリラはマリラで、馬鹿にしたような振りをして、ティーポットにお湯を注いでいたが、それでも、そこで繰り広げられる場面を、横目で興味あり気に見入っていた。
アンは服を受け取ると、口もきかずに恐る恐る眺めていた。わあ、なんて可愛いんだろう――柔らかい茶色のグロリア地だわ、つやがあってシルクみたい。スカートは上品にフリルとシャーリングがついてる。このウェスト、手がかかってるわね、ピンタックを今のはやりに合わせてるし。襟に薄手のレースのひだ飾りがあるわ。だけど、この袖――何にもまして素晴らしきかな! 肘までカフスが長く伸びて、そこから美しいパフが2つ、シャーリングで真ん中で分けて、茶色のシルクのリボンが結んであるわ。
「クリスマス・プレゼントだよ、アン」と恥ずかしそうなマシュー。「ええと――ええと――アン、こんなのは好きじゃないかい? うむ、そうだな――その、つまり」
マシューの見ている前で、アンの瞳に突然涙が溢れたのだ。
「好きじゃないかって! ああ、マシュー!」アンは服を椅子の背に掛けると、両手をギュッと組み合わせた。「マシュー、絶妙だわ、完璧よ。ああ、ありがとうじゃまだ足りないくらい。見て、この袖! 幸せすぎて夢を見てるみたい」
「さあ、さあ、朝ご飯にするわよ」割って入るマリラ。「言っておくけど、アン、あたしはこんな服は必要ないと思うわ。でもマシューがわざわざあんたのために買ってきてくれたんだからね、丁寧に扱うように気をつけるんのよ。さ、これがヘア・リボン、リンドさんが置いていったわ、あんたに、だって。茶色だから、服とおそろいだわね。さあさ、座って」
「どうしよう、朝ご飯なんか喉を通らない」と、天にも登りそうなアン。「朝ご飯はあまりに平凡すぎるのよ、こんなにドキドキしてるのに。それより、この服を見て、目のご馳走を頂きたいわ。ああ良かった、パフ・スリーブがまだ流行ってて。きっと嘆いても嘆ききれなかったかもね、もし一度もパフ・スリーブを着ないうちにすたれちゃいました、なんてことになってたら。願いがかなって、こんなに嬉しかったことないわ、ホントよ。リンドさんって素敵な人ね、こんなリボンをくれるんだもの。本当に、とても良い子にならなくちゃね。こんな時はいつも悲しくなるの、自分が模範的な良い子だったらなあって思うのよ。で、いつか良い子になるんだって、いつも決心するの。でも、どうしてだか、決心を実際に行動に移すのが難しいのよね、どうしようもない誘惑に惑わされちゃうんだもの。でもね、これからは今まで以上に努力してみる」
平凡な朝食が終わったところで、真っ白になった窪地の丸木橋を渡って、ダイアナの姿が見えた。楽しそうな小柄な姿を、深紅のアルスター外套で包んでいた。アンは坂を駆け降りてダイアナを迎えた。
「メリー・クリスマス、ダイアナ! あのね、ああ、今年は奇跡のクリスマスなのよ。素晴らしいもの見せてあげる。マシューが最高に可愛い服を買ってくれたの、袖がすっごいのよ。あれ以上素敵なのは想像すらできそうにないわ」
「あたしもアンに渡すものがあるわ」息を切らしながらダイアナが言う。「ほら――この箱よ。ジョセフィン叔母さんが、大きな箱でたくさん贈り物を送ってくれたの――でね、これがアンの分よ。昨日の夜、向こうから届いたんだけど、暗くなってから着いたから、気楽に来るわけにいかなかったのよ、陽が落ちてから呪いヶ森を通るなんて気持ち悪くて」
アンは箱を開けて、中を覗き込んだ。一番上にカードが添えられて「アン嬢ちゃんへ、メリー・クリスマス」と書いてあった。そして、とても趣味の良い可愛いキッドの上靴が1組、つま先がビーズ飾りで、サテンのリボンとキラキラ光る締め金が付いていた。
「わあ」とアン。「ダイアナ、何て素敵なの。夢を見てるんじゃないかな」
「天の助けってとこね」とダイアナ。「ルビーの上靴をもう借りなくてよくなったし、助かったでしょ。あの上靴、アンの足には2つもサイズが大きいんだもの。妖精が靴を引きずってたら、きっと見られた物じゃなかったわよ。ジョージー・パイなら喜んだと思うけど。聞いて、おとといの晩の練習の帰りに、ロブ・ライトがガーティー・パイと一緒だったんだって。ビッグ・ニュースでしょう?」
その日は、アヴォンリーの生徒達全員が、憑かれたように興奮していた。ホールの飾り付けも残っていたし、最後のまとめのグランド・リハーサルが待っていたのである。
コンサートの幕が上がったのは夕暮れ時で、蓋を開けてみると大盛況だった。小さな公会堂がお客で超満員になったのだ。出演者全員がこの上ない出来だったけれど、燦然と輝くコンサートのスターの座を射止めたのはアンだった。あのジョージー・パイですら、嫉みながらも認めざるをえなかった。
「ああ、華々しい夕べだったわね?」ため息まじりのアン。何もかも片づいて、暗い星空の下を、アンとダイアナが連れ立って帰るところだった。
「どれもとても上手く行ったわ」と、現実的なダイアナ。「10ドルは儲かったはずよ。聞いて、アラン牧師さんがね、シャーロットタウンの新聞に、今日のコンサートの記事を送るんだって」
「すごいわ、ダイアナ、あたし達の名前が新聞に載るの? 考えただけでゾクゾクするわ。ダイアナのソロ、上品で完璧だったわ、ダイアナ。アンコールされた時、ダイアナよりあたしの方が鼻が高かったと思うわよ。心の中で思ったもの『あたしの大切な心の友が、今こんなに名誉を与えられているんだわ』ってね」
「そんなことより、アンの暗誦だって会場中から割れるような拍手をもらったじゃない、アン。悲しい方のなんか、もう素晴らしいの一言よ」
「ああ、あたし緊張しちゃった、ダイアナ。アランさんに名前を呼ばれて、演壇に上がった時のこと全然覚えてないの。あたしをじっと見つめてる目が100万もあるみたいで、視線が痛くて。だからあの恐怖の瞬間、もうダメ、暗誦なんか始められそうにないって思ったわ。だけどその時、自分が素敵なパフ・スリーブを着てることを思い出して、勇気を振り絞ったの。この袖に恥じないようにしなきゃってね、ダイアナ。それで、始めてはみたけど、自分の声がどこか遠くから聞こえてくるのよ。なんだかオウムになったみたいだった。でも助かったわ、屋根裏部屋で暗誦を何度も繰り返して練習しておいて、でないと最後までたどり着かなかったかもね。あたしのうめき声、ちゃんとできてた?」
「ええ、それ以上だったわ、素敵なうめき声だったわよ」と安心させるダイアナ。
「席に戻る時、スローンさんとこのお祖母さんが、涙を拭いてるのが見えたの。我ながら天晴れね、あたしの暗誦で誰かの心を揺さぶれたんだもの。コンサートに出演するって、ホントに
「男の子の対話劇もよかったんじゃない?」とダイアナ。「ギルバート・ブライスなんか素晴らしかったわ。アン、あなたちょっと酷すぎるわよ、いつもギルを無視してばかりじゃない。待って、最後まで聞いて。妖精の対話劇の後で、アンが演台から駆け降りてきた時にね、バラが1本、髪から落ちたの。それをギルが拾って胸ポケットに入れたのを、あたし目撃しちゃったのよ。これなんかどう。アンはロマンチックなのが好きだから、嬉しいでしょ」
「あたしには関係ないわ、好きにすればいいのよ」と、高飛車なアン。「あんな人のことを気にするなんて、無駄よ、無駄、ダイアナ」
その晩、マリラとマシューは、20年ぶりのコンサートの余韻に浸りながら、台所のストーブの側に腰を落ち着けていた。アンはもう床に就いていた。
「うむ、そうだな、うちのアンは誰より上手くやれたようだ」と鼻高々のマシュー。
「ええ、そうだったわ」マリラがうなずいた。「賢い子だもの、マシュー。それに、本当に引き立って見えたわ。あたしはどちらかと言うと反対だったのよ、今度みたいな子供だけのコンサートなんてね。でも、結局そんなに悪くもなさそうだわ。とにかく、今夜のアンは大したものだったわ、アンに言うつもりはないけど」
「うむ、そうだな、ワシも大したものだと思ったから、アンが2階に上がるところで、そう言っておいたよ」とマシュー。「これからあの子にどうしてやれるか、二人で考えておかないとな、マリラ。そのうちに、アヴォンリーの学校じゃ物足りなくなるだろう」
「まだ十分時間があるし、ゆっくり考えればいいのよ」とマリラ。「3月でまだようやく13なんだから。でもね、今夜はビックリしたわ、いつの間にかずいぶん大きくなってたのね。リンドさんがあの服をちょっと長めに作ったから、アンの背がかなり高く見えたわ。物覚えもいい子だし、あの子のために一番いいのは、しばらくしたら、クイーン校に通わせることだと思うわ。でも、あと1年か2年は、特に何か話し合うようなことでもないわよ」
「うむ、そうだな、折に触れて考えるくらいなら別に問題なかろう」とマシュー。「こういう事は、よく考えておくに越した事はないからな」
26章 物語倶楽部、結成
アヴォンリー小学校の子供達は、これまでの平々凡々とした生活になかなか戻れずにいた。特にアンにとっては、平板で気の抜けた、目的に欠けた日常生活など堪え難かった。ここ何週間も、興奮で泡立った杯を飲み干し続けてきたというのに。あたしは、かつての穏やかな安寧の世界に戻れるのかしら、今やあのコンサートという一大イベントの、遠く彼方に霞んで見えるあの世界に? はじめのうちは、アンがダイアナに語ったように、そんなことは無理に思えた。
「ホントそうよね、ダイアナ、何もかも変わってしまったのよ、あの遠き日々に再び戻ることなどできないんだわ」アンが嘆いた。50年以上も前の娘時代を振り返るお婆さんのようである。「もしかすると、いつの間にか元の世界を受け入れてしまうのかもしれないけど、コンサートって穏やかな暮らしとは両立しないのね。だからマリラが反対するんだと思う。さすがマリラだわ。マリラみたいにちゃんとした人になれたら、それはそれで大したものなのかもしれないわ。でも、本当にそうなりたいかって考えると、そうは思えないのよね。だって、ちゃんとした人って
しかし、結局のところ、アヴォンリー小学校もいつしかガタゴトと馴染みの道に戻り、馴染みの遊びも復活してきた。コンサートが後ろに車輪の跡を残したのも確かであるが。ルビー・ギリスとエマ・ホワイトは、演台の席順のことで喧嘩をして、もう同じ机に座っていない。いつまでも続くと思えた3年間の長い友情も、ついに終焉の時を迎えた。ジョージー・パイとジュリア・ベルは3ヶ月も「挨拶」していない。ジョージー・パイがベッシー・ライトに、暗誦の前にお辞儀した時、ジュリア・ベルがピョコッと頭を動かすから、ニワトリみたいだったと言ったのを、ベッシーがジュリアにばらしたからだ。スローン家の子供達は、ベル家の子供達を無視していた。プログラムにスローンの名前が並びすぎた、とベル家の子達が文句たらたらだったのだ。スローン側でも、ベルの奴等はちょい役もまともにこなせない役立たずだ、と言い返していた。もう一つ。チャーリー・スローンがムーディー・スパージョン・マクファーソンと大喧嘩をした。暗誦が上手く行ったもんだから、アン・シャーリーが偉そうにしてる、とムーディー・スパージョンが言ったからで、結局ムーディーはチャーリーに「ぼこぼこにされ」た。結局、ムーディー・スパージョンの妹のエラ・メイは、アン・シャーリーとは冬の間ずっと「挨拶」しようとしなかった。こうした些細な衝突があったものの、ステイシー先生の小王国は、いつもどおり順調に統治されていた。
一週また一週と、いつしか冬の日々が過ぎて行った。例年にないほどの暖かい冬で、かなり雪が少なかったから、アンとダイアナはほとんど毎日樺小径を通って登校できた。アンが誕生日を迎えた日、二人は樺小径を軽快な足取りで下って行った。おしゃべりの最中でも、目も耳も注意を集中して怠りなく構えていた。ステイシー先生から、「冬の森の散歩」という題で、近々みんなに作文を書いてもらうと言われていたので、作文の題材探しに二人とも一生懸命だったのだ。
「そうなのよねえ、ダイアナ、あたし今日で13歳なのよ」とアンがかしこまった声で感想をもらした。「何だか信じられない、もうティーンエージャーなんだわ。今朝起きたら、何もかも昨日と違ってるような気がしたの。ダイアナはひと月も前から13歳だから、あたしと違ってもう珍しいと感じないだろうけど。大人に一歩近づいたんだもの、どんどん面白いことが増えるわね。あと2年もしたら、すっかり大人なんだわ。そしたら一安心よ、思う存分難しい言葉を使っても、もう笑われなくなると思うわ」
「ルビー・ギリスは、15歳になったらすぐ恋人を作るんだって」とダイアナ。
「ルビー・ギリスって、それしか考えてないもの」と軽蔑するアン。「あの子、誰かに『気になる二人』って自分の名前が書かれると、本当は嬉しいのよ。怒ったふりしてるだけ。でも、こんなこと言ってるようじゃ、心が狭いわ。アランさんに、心ない発言は絶対避けるようにっていつも言われてるもの。だけど、思わず言っちゃってから気がつくって、ありがちじゃない? ジョージー・パイの話をすると、絶対何か心ないことを言いそうだから、あの子の事は言わないようにしてるの。気がついてたかもしれないけど。アランさんみたいになれるように、これでも一生懸命気を使ってるのよ。アランさんって完璧な人だもの。アラン牧師もそう思ってるわ。リンドさんが言ってたけど、牧師さんが自分の奥さんを大切にしすぎるなんて、牧師の在るべき姿じゃないだって。奥さんは神様じゃないんだから、あんなに入れ込んじゃいけないんだそうよ。でもね、ダイアナ、牧師さんだって人間だもの、ちょっとした悩みの種くらいしょうがないわ、誰にでもあることよ。先週の日曜の午後に、アランさんと悩みの種のことで面白い話をしたの。日曜日向きの話題って少ないけど、この話は日曜向きだったわ。あたしの悩みの種は、想像しすぎることと、言いつけられた仕事をすぐ忘れること。頑張って直そうとしてるんだけど、今日で13歳になったんだし、たぶん少しはましになるでしょうね」
「あと4年したら、あたし達も髪をアップにできるのよ」とダイアナ。「アリス・ベルはまだ16歳なのにアップにしてるわ。だけど、あんなのおかしいわよ。あたしは17歳まで待つつもり」
「アリス・ベルみたいに曲がった鼻だったとしても」とはっきり言うアン。「きっとあたしなら――あ、いけない! これ以上言うの止めておこう。思いやりとはかけ離れた話になりそうだもの。それに、自分の鼻と比べたりしたら、自惚れてることになるわ。自分でも鼻の格好ばかり気にしすぎだと思う。随分前に鼻のことで褒められてからずっとだもの。今でも鼻が格好いいって考えると、気が休まるのよ。あ、ダイアナ、見て、兎だ。森の作文を書く時のために、覚えておいて損はないわね。夏もいいけど、冬の森も素敵だと思うな。真っ白な雪に覆われてしんとしてるでしょ。眠りについた森が、気持よく夢を見てるみたい」
「森の作文なら、取りあえずその場で書けちゃうと思うわ」と溜め息をつくダイアナ。「森について書くならなんとかなるけど、月曜日のが問題よ。ステイシー先生ったら、自分で物語を考えなさい、なんて言うんだもの!」
「え? そんなのあっという間よ、簡単じゃない」とアン。
「そりゃあアンには簡単でしょう、想像力がある人はいいわよね」と、言い返すダイアナ。「でも、もともと想像力がない人はどうしたらいいのよ? もう作文書いちゃったんでしょう?」
アンがうなずいた。謙遜してみようとしたが、顔がにやけて全然うまくいかなかった。
「こないだの月曜日、夕方のうちに書き上げたわ。タイトルは『恋敵のジェラシー』、サブタイトルは『死んでも離れない』っていうの。マリラに読んで聞かせたら、ああ下らないって言われたわ。そのあと、マシューに聞かせたら、上出来だって。マシューみたいな批評家なら歓迎よ。悲しくて
「スミレ色の目の人なんか見たことないわよ」と、半信半疑のダイアナ。
「あたしも見たことない。想像しただけ。どこかに平凡じゃないところが欲しかったの。ジェラルディンは、アラバスターの額をしてるのよ。今ならアラバスターの額がどんなだか分かるわ。13歳になって良かったことの一つね。たったの12歳だと分からなかったことも、どんどん解決されていくもの」
「で、コーデリアとジェラルディンがどうなったの?」と、せっつくダイアナ。二人の運命がだんだん気になりだしたのである。
「二人は美しく成長し、仲睦まじく過ごしました。そしてそろって16歳を迎えた年、あるとき、二人が生まれ育った村にバートラム・ドヴィアがやって来て、美しきジェラルディンと恋に落ちました。ジェラルディンの馬が暴れて、ジェラルディンを乗せたまま馬車が暴走して命が危なかったところを、助けてあげたからです。バートラムは、気を失ったジェラルディンを腕に抱いて、3マイルも向こうの家まで連れ帰りました。なぜって、分かるでしょ、馬車がばらばらに壊れていたからよ。
プロポーズの場面を想像するのが、かなり大変だったわ。だってそんな経験ないんだもの。ルビー・ギリスにも聞いてみたのよ。プロポーズってどんな風にするのか、知ってるんじゃないかと思って。こういう事なら、やっぱりルビーが一番だろうと思ってね。結婚してるお姉さんが何人もいるし。ルビーが話してくれたのは、マルコム・アンドリューズがお姉さんのスーザンにプロポーズした時の事。台所に隠れて聞いてたんだって。マルコムが、お父さんが自分名義で農場を残してくれた話をして、それから『なあ、どうだろう、今年の秋に一緒になっちまうってのは』って言ったの。そしたらスーザンがこう答えたんだって『いいわ――やっぱりダメ――どうしよう――ちょっと待って』――で、ご覧のとおり、さっさと婚約しちゃったってわけ。だけど、こんなプロポーズじゃ
それで、ジェラルディンはプロポーズを受け入れたんだけど、その台詞が長くて1ページもあるのよ。これを書きあげるの本当に苦労したわ。5回も書き直してるんだから、あたしの代表作と言っていいわね。
婚約のしるしに、バートラムはダイヤモンドの指輪とルビーのネックレスを贈って、こう言いました、僕たちの新婚旅行はヨーロッパにしよう。バートラムは大金持ちだったのです。しかし、そうこうしているうちに、嗚呼、二人の将来に不吉な陰が差し始めます。コーデリアが、実は秘かにバートラムを慕っていたのです。コーデリアは、ジェラルディンから婚約の話を聞かされて、大変腹を立てました。特に、贈られたネックレスとダイアモンドの指輪を見ると哮り狂ったのです。愛していたはずのジェラルディンは、今や憎い恋敵になってしまいました。コーデリアは誓いました。決してジェラルディンをバートラムと結婚させるものか。でも、見かけはいつもどおりで、相変わらずジェラルディンの友達を装います。
ある日の夕方、二人がたまたま波立つ激流に渡された橋を通りかかった時のこと、二人だけだと高をくくっていたコーデリアが、ジェラルディンを橋から突き落としてしまいます。そして無情にも高笑いをするのでした。『ハッハッハッ。』
ところが、バートラムは事のはじめからずっと見ていたので、すぐさま流れに身を投じました。『我、汝を救い出さん、我が君、ジェラルディンよ。』と叫びながら。けれども、哀れバートラム、自分が泳げないことを忘れていたのです。そうして、しっかり抱き合ったまま、二人とも溺れてしまいました。その後しばらくして、川岸に二人の遺体が流れ着きました。二人は一緒に一つのお墓に葬られて、立派なお葬式が執り行われました、とこういうお話よ、ダイアナ。
結婚式で終わるよりお葬式で終わる話の方が、ずっとずっと
「すっごく素敵だわ!」と溜め息をつくダイアナ。批評家としてはマシュー派だった。「よくこんなゾクゾクする話を考え出せるわね、アン。あたしの想像力もアンと同じくらいあれば良かったのに」
「きっとそうなるわ、養えばいいだけなのよ」と励ますアン。「いいこと思いついた、ダイアナ。二人で自分たちだけの物語倶楽部を作って、物語を書く練習をするのよ。自分で書けるようになるまで手伝ってあげる。各自想像力を養うべしってね。ステイシー先生がそう言ってるもの。要は正しい方向に進むように気をつければいいのよ。呪いヶ森のことを話したら、間違った方向に進んだって言われたわ」
物語倶楽部は、こういう経緯で結成されたのだ。はじめはダイアナとアンだけの倶楽部だったが、すぐに会員が増えて、ジェーン・アンドリューズとルビー・ギリス、他に1、2人、想像力を養うべきだと感じた子が仲間に入った。男の子は倶楽部に入れてもらえなかった――ルビー・ギリスの見立てでは、男の子を入れてあげればもっと刺激的な会になるとのことだった――会員全員が、週に一度物語を書き上げることに決まった。
「最高に面白いのよ」アンがマリラに語った。「めいめいが自分の物語を読み上げて、その後みんなで議論するの。大事に残しておいて、後々まで読まれ続けるようにするつもり。書くときはペンネームを使うの。あたしのペンネームはローザモンド・モンモランシー。みんなとてもよく書けてるわ。ルビー・ギリスはかなりセンチメンタルなラブストーリー。恋愛の場面をたくさん詰め込みすぎるのよ、せっかくの場面も多すぎては効果が台無しよね。逆にジェーンのは全然ないのよ、朗読するとき恥ずかしいんだって。ジェーンの物語は、どれもあまりにも常識的すぎるわ。それから、ダイアナのは殺人事件を入れすぎ。登場人物をどうしたらいいかアイデアが煮詰まると、大概は殺して解決するんだって言ってたわ。あたしはどう書いたらいいか、いつもみんなに教えてあげる役なんだけど、別に大変じゃないのよ、アイデアは次々湧いてくるもの」
「物語を書いて喜んでるなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがあるわ」と、けなすマリラ。「頭の中ががらくたで一杯になって、勉強の時間を無駄にするだけよ。物語なんか読むのも悪いけど、書くのはもっと悪いことだわ」
「でもね、作品には必ず教訓を入れるように気をつけてるわよ、マリラ」と、分かりやすく説明してあげるアン。「そうしようって言ったの。善人はみんな報われて、悪人は悪人にふさわしく罰を受けるのよ。そういう教訓が入ってたら、読んだ人のためになるわよね。教訓こそ重要なのよ。アラン牧師がそうおっしゃってるわ。あたしが書いた物語を一つだけ、牧師さんとアランさんに読んであげたら、教訓が素晴らしいって認めてもらえたわよ。でも二人とも妙なところで笑うのよね。あたしは聞いてる人に泣いてもらえると嬉しい方なのよ。ジェーンとルビーは、悲しい場面になると大概いつも泣いてくれるのよ。ダイアナがジョセフィン叔母さんに物語倶楽部のことを書いたら、ジョセフィン叔母さんが、作品をいくつか送ってくれって書いてきたの。だから、4人の自信作を写して送ったのよ。そしたら、こんなに笑える話は読んだことがないって返事だったわ。みんな、どうしてだろうって考え込んじゃったわよ、だってどれも悲しいお話ばかりだし、大半が死んでしまうのに。だけど、バリーさんが気に入ってくれて嬉しいわ。世の中の役に立ってるってことだもの。アランさんがよく言うの、何をするにしても、世の中に役立つことをしなさいってね。だから、あたし一生懸命努力してるのよ、でも、楽しい時はよく忘れちゃうの。大人になったら、ちょっとでもいいから、アランさんみたいになれたらなあ。あたし、アランさんみたいになれそうだと思う、マリラ?」
「あまり大きな期待はしない方がいいわね」と、マリラから元気が出る返事があった。「アランさんなら、今のあんたくらいの時、きっとこんなお馬鹿さんでも、忘れっぽい子でもなかったでしょうに」
「そうだけど、昔からずっと今みたいな善い人でもなかったのよ」と、アンがまじめに言った。「自分からそうおっしゃったのよ――つまり、小さい頃はとってもいたずらっ子で、よく大ピンチに見舞われたんだって。それを聞いて元気でちゃった。あたしって悪い子なのかな、マリラ、他の人が昔いけない子だったり悪戯好きだったって聞いて、元気が出るんだから? リンドさんは、そんなのいけないことだって言うわ。リンドさん、誰かが昔悪い子だったって聞くと、いつもドキッとするんだって。ほんの小さい時のことでも気になるそうよ。いつかある牧師さんが、子供の頃叔母さんの台所からイチゴのタルトを盗ったって告白するのを聞いてから、その牧師さんを二度と尊敬できなくなったんだって。だけどね、あたしならそんな風に感じたりしないわ。告白する勇気があって、本当に立派な心の持ち主なんだ、と思うだろうし、悪戯ばっかりしてるけど実は後悔してる今時の小さな男の子達だって、きっと元気づけられるわよ。いたずらっ子でも牧師になれるんだって分かってね。あたしはそう感じるの、マリラ」
「今あたしが感じるのはね、アン」とマリラ。「本当なら、あんたは今頃このお皿を洗い終わっているはずだってこと。30分も余計にかかってるじゃないの、お喋りばかりして。まず、仕事を終えてからお喋りすることを覚えなさい」
27章 自惚れて、落ちこんで
ある4月の夕暮れどき、婦人会の帰り道をてくてくと歩くマリラの姿があった。長かった冬も終わって春が来たんだわ、と歩きながら体で感じていた。若くて元気な人ばかりでなく、老いて陰気な人だって、春の陽気に誘われて気持ちが弾むものである。マリラも例外ではなかった。マリラは自分が何を考えたり感じたりしているか、特に内省するような性格ではない。たぶん本人は婦人会のこと、伝道募金箱のこと、礼拝室のカーペットのことを考えているつもりなのだろう。けれど心のどこかが知らず知らずに、沈む夕陽に淡く紫に霞む真っ赤な畑や、小川の向こうの牧場に伸びたモミの細長い影、森に隠れて風もなく鏡のような池の周りを飾る紅の蕾のカエデ、春の息吹と枯芝の下に隠れた芽生えといった自然の変化に影響されていた。そこかしこに春が溢れていた。生真面目で若くもないマリラの足取りを軽くし、駆けだしたいような気にさせる、心踊る嬉しい季節になったのだ。
マリラの目の動きが止まった。あたしの帰る家、グリーン・ゲイブルズ。
期待が大きかっただけに、マリラが台所に入って、ストーブに火の気もなく、アンの気配もないことが分かると、がっかりしすぎて頭にきた。アンにあれだけ言いつけておいたのに、5時にはちゃんと夕飯を準備しておきなさいって言いつけたのに。ああもう、急いでこのドレスを着替えないと。アンに任せてたら食事の準備が間に合わないわ、マシューが畑仕事から戻る前に終わらせなくちゃ。
「帰って来たら、アンお嬢様はお仕置きだわ」と恐い顔のマリラ。切り出しナイフで焚付けの木を薄く削る手に、必要以上に力がこもっている。マシューは畑から戻って来ていたのだが、いつもの隅っこで夕食ができるのをじっと待っていた。「どこにいるか知らないけど、ダイアナとふらふら遊び歩いてるのよ。小説書きだの、対話劇の練習だのくだらない事ばかりしてるんだわ。だから約束の時間に遅くなった事も自分の仕事の事も、ちっとも思い出せないのよ。こういう事はきっぱりお終いにしてもらうわ。アランさんに何と褒められようが、もうどうでもいいわ、誰よりも頭がいいだの、魅力的だのそれがどうしたっていうの。そりゃ、あの子は人より頭がいいし魅力的かもしれない。だけど頭の中は下らない事で一杯だし、いつまたとんでもない事を考えつくか知れたものじゃない。一つ気まぐれが収まって安心すると、また別のことを考えつくんだものね。あら、何言ってるんだろ! 今日の婦人会でレイチェルに言われて腹が立った事そのままじゃない。やれやれ、アランさんがアンの肩を持ってくれて助かった。そうでなけりゃきっと、みんなの前でレイチェルにきつい事を言ってしまったに違いないもの。アンは欠点だらけだわ、それは確かよ、あたしだってそうじゃありませんなんて言うつもりは毛頭ないわ。だけどあの子を育ててるのはあたしよ、レイチェル・リンドじゃないの。あのレイチェルにかかったら、天使ガブリエルだってケチがついたでしょうよ、アヴォンリーに住んでなくて幸いだわね。それはそうと、いったいアンは何してるのかしら、家のことをほったらかしにして、午後は家にいて、家事をしなさいって言っておいたのに。欠点だらけなのはしょうがないとして、今まで言われた事を守らないことはなかったし、頼りにもなったのに、今頃になって任せられなくなるなんてあんまりだわ」
「うむ、そうだな、つまりその」とマシュー。今まで賢明にもじっと黙っていたことも、その上腹が減っていることも忘れて、口を出した。いつもはマリラに勝手に愚痴をこぼさせておくに如くはなしと決めていたのだが。マシューの経験上、マリラは何であれ一旦手を付けると、不用意に嘴を突っ込まない方がずっと仕事がはかどると分かってはいたのだ。「そんなに急いで決めつけなくてもよかろうに、マリラ。頼りにならないとは限らないさ、まだあの子が言われた事を守らなかったと確かめたわけじゃないんだから。きっとだな、説明がつくはずだよ――アンはなにしろ説明が上手いからな」
「あの子はここにいないじゃない、いなさいって言っておいたのに」と噛みつくマリラ。「いくらアンでも弁明は難しいでしょうよ、どうしてここにいないのか、あたしに納得させて欲しいもんだわ。もちろん兄さんならあの子の肩を持つだろうと分かってたわ。だけどあの子を育ててるのはあたしなの、兄さんじゃなくて」
夕飯の準備ができた頃にはすっかり陽が落ちていた。それにもかかわらず、まだアンが戻る気配はなかった。息急き切って、どうしよう夕食の支度をするのを忘れてた、という顔をしながら、丸木橋や恋人小径を慌てて駆けてくるはずだったのだが。マリラは皿を洗い後片づけを終えたが、相変わらず難しい顔だった。たまたま地下室へ降りるのに燭台が欲しくなって、東の切妻に取りに行くことにした。たいがいはアンのテーブルに置きっぱなしなのだ。燭台に火を灯し振り返って見たら、なんとそこにアンがいた。ベッドにうつ伏せに倒れ込んで、枕に顔が埋もれていた。
「ああ、ビックリした」マリラは心臓が飛び上がるかと思った。「ずっと寝てたの、アン?」
「ううん」くぐもった声が答える。
「なら、気分が悪いの?」と問い質すマリラ。心配そうにベッドに近づいてくる。
アンがもぞもぞと枕の間に縮こまっていく。どこかに隠れてしまいたい、永遠に人の目に触れたくない、と言っているように見えた。
「ううん。そうじゃないけどお願い、マリラ、こっちに来ないで、あたしを見ないで。あたし絶望の深みにはまってるの。だから誰がクラスで一番になろうが、誰が作文の出来が良かろうが、誰が日曜学校の聖歌隊で歌おうが、どうでもいいの。そんな小さな事は、もう意味を失ったの、だってもはや二度と外に出られそうにないんだもん。夢多き我が生涯に幕が降ろされたのよ。お願い、マリラ、こっちに来ないで、あたしを見ないで」
「いったい全体何のことを言ってるの?」マリラは煙に巻かれたままでいるつもりはなかった。「アン・シャーリー、いったい何があったの? 何かしでかしたの? 今すぐ起きて白状しなさい。さあ、今すぐよ。ほらどうしたの、何だっていうの?」
アンは静かに身を起こすと床に足をおろした。これ以上逆らっても始まらないから。
「髪を見て、マリラ」と小さな声。
言われるままにマリラは燭台を持ち上げて、じっくりとアンの髪を眺めてみた。ほどかれた髪が豊かな奔流のように背中を波打っている。なるほど奇妙極まりない髪になっていた。
「アン・シャーリー、あんた髪をどうしちゃったの? これはまた、緑色だわ!」
緑色、そう呼べるかもしれない、もしこの色に名前を付けるとすればだが――この奇怪な、鈍いブロンズがかった緑に加えて、そこここに元の赤が筋状に染め残り、不気味な色合いを醸し出している。目の前のアンの髪ほどおぞましいものを、マリラはいまだかつて見たことがなかった。
「そうよ、緑色よ」低い恨み声のアン。「赤い髪ほど酷い色なんかあるわけないと思ってた。だけど今なら分かる、緑の髪の方が10倍も酷いのよ。ああ、マリラ、マリラにあたしの気持ちが分かるはずないわ、あたしったらこんなに惨めな姿になっちゃったのよ」
「ちっとも分からないね、なんでまたこんな破目に陥ったのやら。だけどその辺りのことは、じっくり聞かせてもらおうじゃない」とマリラ。「台所に降りておいで――ここは寒すぎるから――何をしでかしたんだか残らず話してもらうからね。そろそろ何かおかしな事が起こる頃だと思ってたわ。ここのところ2ヶ月以上、ひと悶着もなかったし、また別のが始まるはずだったのよ。さて、で、あんたの髪いったいどうしたの?」
「染めたの」
「染めた! 髪を染めた! アン・シャーリー、あんた、髪を染めるのが悪い事だって知らなかったの?」
「ううん、知ってた、ちょっと悪い事だなって」と認めるアン。「でも、ちょっとくらい悪くても、赤い髪でなくなるんなら、やってみてもいいと思って。どっちがいいか天秤にかけてみたのよ、マリラ。それに、悪かったとしても、その分余計にいい子になるつもりだったし」
「それにしてもね」と皮肉なマリラ。「仮に髪を染めてみるとして、あたしなら最低、見苦しくない色で染めるだろうね。好き好んで緑に染めようとは思わないわ」
「あたしだって緑色に染めるつもりじゃなかったわよ、マリラ」しょぼんと言い返すアン。「悪い子だったかもしれないけど、ちゃんと目的があって悪い子になったのよ。美しいカラスのぬれ羽色に髪が染まるって言われたんだもん――ぜったい奇麗に染まるって。そこまで言われちゃ疑えっこないでしょ、マリラ? 自分の言った事が疑われるってどんな気持ちか、あたし知ってるの。それにアランさんがおっしゃるもの、人様の言葉を軽々しく疑ったりしちゃだめなのよ、正しくない証拠が見つかるまでは。今なら証拠があるけど――この緑の髪だけで誰でも納得するわ。だけどあの時は何の証拠もなかったから、言われたことを丸ごと鵜呑みにしちゃったの」
「誰に言われたの? あんた誰の話をしてるの?」
「行商人の人。午後うちに来たの。その人から毛染め剤を買ったのよ」
「アン・シャーリー、いつも言ってるでしょうに、ああいうイタリア人を家に入れちゃ駄目だって! ここら辺をうろちょろされちゃかなわないわ」
「だから、家の中には入れなかったわよ。マリラに言われた事を思い出したから、外に出て、ちゃんと戸を閉めて、階段の所で見せてもらったもの。それに、あのおじさんイタリア人じゃないわ――ドイツ系のユダヤ人よ。大きな箱にとっても面白い物が一杯詰まってたの。たくさん働いて、お金が貯まったらドイツから奥さんと子供を呼ぶんだって。すごくしみじみ話すから、ついホロッときちゃったわ。それで何か買って、あのおじさんを助けてあげたくなったのよ。それで何かいいものがないか探したの。そしたら、すぐ目に付いたのが毛染め剤。行商のおじさんの話では、どんな髪でも美しいカラスのぬれ羽色に染まる保証付きで、洗っても落ちないんだって。その瞬間、自分の髪が美しいカラスのぬれ羽色になった姿が目に浮かんでクラッときたの、誘惑の力が強すぎたのよ。だけど、その瓶に付いてた値段は75セントなのに、たった50セントしか小銭が残ってなくて。でもあの行商のおじさん、とっても優しい人だと思うな。『嬢ちゃんには特別だよ、50セントで売ってあげよう、これじゃタダであげるようなもんだがなあ』だって。そんなわけで毛染め剤を買ったの。おじさんが行っちゃってからすぐにこの部屋に上がって、説明書どおりに古くなったヘアブラシにつけて髪を染めたわ。一瓶全部使い切ったんだけど、そしたら、ああ、マリラ、自分の髪があのおぞましい色に変わってるじゃない。あの時はとんでもない事しちゃったって、あたし悔やんでも悔やみきれなかったわ、本当よ。それからずっと今まで悔やみ続けてるの」
「やれやれ、体で覚えるまで悔やんでもらえると助かるんだけど」と容赦のないマリラ。「もうこれであんたも目が覚めたんじゃない、自惚れたりするからこんな事になるのよ、アン。身から出た錆だわ。そうだね、まずはあんたの髪をよく洗ってみて、落ちるかどうか試すとしましょ」
言われるままにアンは髪を洗ったのだが、石鹸水をつけて一生懸命ゴシゴシこすってもどれほど落ちたか疑問であり、元の赤い色を洗い流す方がまだましなくらいだった。確かに洗っても落ちないという行商人の宣伝文句に嘘偽りはなかった。とはいえ他の諸々の点で疑わしき部分は多分にあったのだが。
「ああ、マリラ、あたしどうしたらいいの?」と涙ながらに訴えるアン。「この話が広まったら、あたし絶対立ち直れない。他の失敗ならきっと忘れてもらえるわよ――塗り薬入りのケーキも、ダイアナを酔わせたことも、リンドさんに食ってかかったことも。だけど、今度だけは絶対に忘れてくれない。普通じゃないと思われちゃうのよ。ああ、マリラ、『ひとたび欺き始めれば、もつれもつれて蜘蛛の糸。』これは詩なんだけど、真実を突いてるわ。それだけじゃない、ああ、あのジョージー・パイに笑われちゃう! マリラ、何があってもジョージー・パイとは顔を合わせられない。プリンス・エドワード島で一番不幸な子はあたしで決まりよ」
アンの不幸は一週間引き続いた。その間どこにも出かけずに、髪をシャンプーする毎日だった。身内以外でこの極めて重大な秘密を知らされたのは、たった一人ダイアナだけだったが、絶対に誰にも話さないと厳かな約束を交わしたし、ダイアナが誓いを守ったと、今ここで述べておいても構わないだろう。不幸な週も終わろうという日、マリラがこう言い渡した。
「洗っても無駄よ、アン。まったく頑固な毛染だわ、いくら頑固だって落ちないにもほどがある。髪を切るしかないのよ。他にどうしようもないわ。そんなんじゃ外を出歩けないし」
アンの唇が震えたが、その辛い事実を受け入れた。マリラの言うとおりなのだ。憂鬱にひとつため息をつくと、鋏を取りに行った。
「お願い、今すぐに切って、マリラ、さっさと済ませて。ああ、心が砕け散ってしまいそう。同じ苦しむにしても、こんなに
そう言ってアンは泣き濡れた。ただ後になって、2階に戻ってから鏡をのぞきこんだ頃には、諦めもついて落ち着いていた。マリラは徹底的に刈り込んでいた。なるべく短くシングル・カットしなくてはいけなかったのだ。その結果、似合うとは控え目にも言えなくなっていた。アンはパッと鏡を壁に向けてひっくり返した。
「髪が伸びるまで、絶対、絶対、自分の顔なんか見ない」と思わず叫ぶ。
それから不意に鏡を元に戻した。
「ダメ、やっぱり見るのよ。これが罰なの、いけない事をしたんだもの。部屋に入る度に自分の顔を見るのよ、醜い自分を。それに想像で覆い隠したりもしない。この髪のことで自惚れてたなんて思いもよらなかったけど、ようやく分かった、自分が自惚れてたって、確かに色は赤だったけど。そうよ、あんなに長くて、豊かで、カールしてたんだもの。次は鼻がどうかなっちゃうんじゃないかな」
明けて月曜日、刈り上げた頭でアンが姿を現すと、学校中にセンセーションが巻き起こった。だが、誰も髪形を変えた本当の訳を言い当てられなかったので、ひと安心だった。あのジョージー・パイでさえ分からず仕舞いだったが、それでもこの格好の機会を逃がすようなヘマはせず、アンにこう言うのを忘れなかった。「これじゃ、まるっきり案山子よね」
「ジョージーにそう言われても、何も言い返さなかったのよ」とアンはその晩、マリラに打ち明けた。マリラは持病の頭痛でソファーで横になっていたのだ。「どうしてかって言うと、これも罰のうちで、我慢して堪えなくちゃと思ったから。案山子みたいなんて言われてムカッときたわ。言い返したいのは山々だった。けど、黙ってたの。軽蔑の眼差しを投げかけるだけで許してあげたのよ。他人を許してあげられると、何だかとても立派な人になったみたいな気がするわよね? これからは良い人になれるように全力を尽くしてみるし、それに美しくなろうなんて、もう二度と考えないようにするわ。もちろん良い人になれるに越したことはないわよ。それはあたしだって分かってるの、だけど頭では分かって事でも、時々本当にそうなのかなって信じられなくなる時があるものよ。良い人になりたいのは本当よ、マリラ、例えばマリラとかアランさんとかステイシー先生みたいにね。大きくなったらマリラが自慢に思える人になりたいの。ダイアナがね、髪が伸びたら頭に黒のベルベットのリボンを結んで、横で蝶結びにしたらどうかって言うの。とっても似合うんじゃないかしら、だって。あたしそのリボンのこと、スヌードって呼ぶつもり――すごく
「もうかなりよくなったわ。午後は酷かったけど。このところ頭痛が酷くなる一方だわ。お医者に行って見てもらわないと。あんたのおしゃべりだけど、迷惑以前に気にもしてなかったわ――すっかり慣れてしまってね」
これでもマリラにしてみれば、聞いてて楽しかったと言っているつもりなのである。
28章 ある不運な百合姫
「当然エレインになってもらうわよ、アン」とダイアナ。「あたしには絶対無理、あそこまで舟で流されていく勇気なんかないもの」
「あたしも駄目」ゾクッと体を震わせるルビー。「2、3人でみんなきちんと座って乗れるなら、小舟で流れにまかせて行くのもどうってことないのよ。そういうのなら楽しいわ。だけど、舟底に寝転がって死んだふりなんて――そんなの絶対ダメ。恐くて本当に死んじゃいそう」
「ロマンチックなのはそうなんだろうけど」ジェーン・アンドリューズもそれは認めた。「でもきっと静かにじっとしてるなんて無理。一分刻みで飛び起きて確かめないと気が済まないわ、今どこにいるんだろうとか、もしかして遠くに流されちゃったんじゃないとか。分かるでしょ、アン、そんなんじゃせっかくの雰囲気も台無しよね」
「だけど、赤毛のエレインなんてすごく変」と、ガッカリ声のアン。「あたしは舟で流されても恐くないし、できることならエレインを演じてみたいわ。だけど、やっぱり変。エレインはルビーじゃなくちゃ、だって色白だし、長くてすっごく素敵な金髪をしてるもの――エレインの『輝ける髪は流れる川となり』じゃない。それにエレインは百合姫だったじゃない。ほらね、赤い髪の人じゃ百合姫は務まりっこないの」
「アンだって色白よ、ルビーと変わらないわ」とダイアナが持ち上げた。「髪も、切る前に比べるとずっと濃くなって来たし」
「え、ホントにそう思う?」と叫ぶアン。上気して嬉しさが顔に現われている。「時々自分でもそう思ってたの――だけど不安で誰にも聞けなかったのよ、思い過ごしだなんて言われそうで。もうとび色で通じると思う、ダイアナ?」
「ええ、本当に奇麗だと思う」ダイアナがアンの少し伸びてきた髪を見て感心している。至る所で、クルッと短く絹のようにつややかにカールして、とても可愛い黒のベルベットのリボンと蝶結びが似合っていた。
さっきから4人が立っている所は果樹園坂を下った池の土手である。池に少し突き出たその岸辺を、池に枝を伸ばした樺の木が囲っていた。桟橋代わりに岸辺の水際に小さな木の足場が組まれ、釣り人やカモ猟をする人の便宜がはかられていた。夏真っ盛りの午後、ルビーとジェーンがダイアナを誘ってぶらぶらしていたところに、アンが遊びにやってきてのだ。
その夏アンとダイアナの遊ぶ場所は、たいがいバリーの池の周辺と決まっていた。『空の荒れ野』はもはや過去の世界に属していた。今年の春にベル氏の手にかかって、裏手の牧草地の小さく輪になった木立が切り倒されてしまったのだ。アンは残った切り株に腰かけて別れの涙をこぼしたが、その涙には
エレインの劇をしようと言い出したのはアンだった。冬の授業でテニソンの詩を習ったのだが、教育監督官のお声がかりで、プリンス・エドワード島の国語の授業に取り入れられることになったのだ。よってたかってばらばらの品詞に分解され、構文の骨を抜かれ、細切れに引き裂かれた詩に、何か意味が残っていたとしたら奇跡と言えるほどだったが、ただ、美しき百合姫、ランスロット、グウィネヴィア、アーサー王といった登場人物が詩から抜け出して、本物の人のように感じられるようになったことだけは確かで、アンなどは、口に出すことこそなかったが、悔しくてたまらなかった。あたし、どうしてキャメロットに生まれてこなかったんだろう。あの頃は、今よりずっとずっと
アンの立てた企画を聞くと、たちまちみんな夢中になった。実は4人で遊んでいるうちに、面白いことを発見していたのである。桟橋から小舟で漕ぎだすと、黙っていても橋の下を抜けて、最後には池が折れ曲がった所にある川下の岸辺に流れ着くのだ。こんな風に流れにまかせてよく川下りをした経験からして、これほどエレインを演じるのにうってつけな舞台はなかった。
「しょうがないわね、あたしがエレインになるわ」と、いやいや承知するアン。そりゃ、主役を演じられるんだから嬉しいと言ってもいいけど、あたしの芸術感覚が許さないのよ、あたしとエレインじゃ、月とスッポンだわ。「ルビー、アーサー王になって。ジェーンはグウィネヴィアになるのよ。ダイアナはランスロット。でも最初はみんな、エレインのお兄さん達とお父さん役よ。もの言わぬ老従僕は抜きでいくしかないわね、この小舟じゃ一人が横になったら、二人目が乗る隙間がなくなっちゃうもの。屋形船には端から端まで、漆黒の絹織で柩覆いをかけないとね。ダイアナのお母さんの古い黒のショールがあれば助かるんだけど、あれがベストなのよ、ダイアナ」
黒いショールが調達されると、アンは小舟の上にショールを広げて、舟底に横たわった。目を閉じて、両手を胸の上に組んだアン。
「なんか、ホントに死んでるみたい」ルビー・ギリスの小さな声が不安で裏返った。ピクリともしない色白の小さな顔の上で、樺の木漏れ日が揺れている。「あたし恐くなってきたわ、ねえみんな。こんな事してて本当にいいの? お芝居なんか言語道断でいけない事だって、リンドさんから言われているじゃない」
「ルビー、リンドさんのことなんか言わないで」ピシッと笞を振るうアン。「せっかくの雰囲気がぶち壊しじゃない、これはリンドさんの生まれる何百年も前のことなんだから。ジェーン、後は任せたわ。エレインがしゃべってちゃおかしいわよ、もう死んでるのに」
監督の大任はジェーンに引き継がれた。金襴緞子の覆いはなかったが、黄色い日本ちりめんの古めかしいピアノ・カバーで十分代用できた。白い百合もまだ手に入らなかったが、すらっと伸びた真っ青なアヤメをアンの片手に握らせると、雰囲気が盛り上がった。
「さあ、これですっかり準備できたわ」とジェーン。「順番にエレインの安息の訪れた額にキスするのよ。それから、ダイアナはこう言うの『妹よ、さらば永久に』、ルビー、あなたはこうよ『さらば、愛しき妹よ』。二人とも精一杯悲しみ溢れる演技をしてよ。アン、お願い、少しは笑顔を見せて。分かってるでしょ、エレインは『横たわる、あるいは微笑む如く』なのよ。それでましになったわ。じゃ、小舟を押して」
こうして小舟が押し出され岸を離れたのだが、その途中で岸辺に隠れていた古い杭の上をガリガリとこすっていった。ダイアナとジェーンとルビーがその場にいたのはわずかの間で、小舟が流れに乗って舳先を橋に向けたのを見届けると、急いで駆けて行った。森を抜けて街道を横切り、川下の岸辺へと下っていく。そこで今度はランスロットとグウィネヴィアとアーサー王になって、百合姫が流れて来るのを今か今かと待つ手はずだった。
数分ほどは、アンは静々と波間を漂い下って行きながら、自分の
アンは首をしめられたような短い悲鳴を上げたが、誰も耳にも届かなかった。ただ、唇まで真っ青になっていたけれど、それでも冷静さが失われたわけではなかった。まだ一つチャンスが残ってるわ――たった一回だけ。
「恐くて恐くて堪らなかったんです」翌日アンはアラン夫人に語った。「小舟が橋の流れ着くまで何年もかかったような気がして。水かさはどんどん増えるばかりだったし。あたしね、アランさん、それはもう一生懸命お祈りしたけど、お祈りする時に目を閉じたりしませんでした。だって神さまが助けてくれるとしたら、小舟を橋脚近くまで寄せてもらって、それによじ登るしかないでしょう。橋脚はただの古い木の幹なので、こぶとか枝の切り株とかたくさん残ってたんです。身を入れてお祈りするべきだったんだけど手が回らなくて。舟の流れをしっかり見てなくちゃいけないのは確かだったんです。あの時あたしが言えたのは『神さま、お願いですからこの舟を橋脚の方に向けて下さい、そしたら後は自分でしますから』ってことで、あとは何度も何度も繰り返しただけ。あんな状況じゃ、誰だって華麗なお祈りかどうかなんて考えたりしないでしょ。それにあんなお祈りでもちゃんと通じたんですよ。小舟が橋脚の右側にドンとぶつかって、ほんの少しだけ止まってくれたんですもの。そのままスカーフとショールを肩に背負って、神さまから賜った大きな切り株に乗り移ったんです。で、そこにじっとしてたんですけどね、アランさん、つるつる滑る古くさい橋脚にしがみついて、登れもしない下れもしないんだから、もうお手上げ。すごく
小舟は橋の下をくぐって、そのままあっという間に川の真ん中で沈んでしまった。ルビー、ジェーン、ダイアナ、この3人はさっきから川下の岸辺で待っていたのだが、目の前で舟が川底に消え去るのを見ると、間違いなくアンも一緒に沈んだとばかり思い込んだ。ちょっとの間、誰も身動きできなかった。全身血の気が引いてシーツのように真っ白、恐ろしい悲劇を目撃して体が凍りついた。それから、金切り声。狂ったように走り出し、森を駆け抜けて行く。主街道を横切る時も、立ち止まって橋の方を見てみる余裕などまったくなかった。あぶなっかしい足場に死物狂いでつかまっているだけのアンには、3人がすっ飛んで行く姿が見えたし、悲鳴をあげているのも聞こえた。助かった、すぐに誰かが来てくれる、だけどそれまでは、こんな辛い姿勢で我慢してなくちゃいけないんだわ。
一分また一分と時間が経過していく。一分どころか一時間のように思える百合姫だった。どうして誰も来ないの? 3人ともどこに行っちゃったの? まさか気絶してるんじゃ、みんなまとめて! もしかして、誰も来なかったら! もしかして、このまま腕が痛くなってしびれてきたら! 掴まっていられなくなったら! 足元の忌まわしい緑色の底知れぬ深みに視線を移せば、長い影がおもねるようにピカリピカリと揺らめいている。アンはゾッとした。すると想像力が身の毛のよだつ声で囁き始めた。こんな風に死にたい? それともあんな風に?
そうこうするうち腕も手首も痛みが溜まってきて、もう限界だわ、これ以上耐えられない、と思ったちょうどその時、ハーモン・アンドリューズの釣り舟を漕いでいたギルバート・ブライスが、橋の下を通りかかったのだ!
ギルバートが見上げると、なんとビックリ、真っ青な蔑むような顔がこちらを見下ろしている。大きく見開いて恐しさに震えた、それでいて蔑むような灰色の瞳だ。
「アン・シャーリー! どうやってそんな所まで登ったんだ?」ギルバートが叫んだ。
答えを待たずに橋脚まで舟を寄せると、一杯に手を差し出した。ああもうっ、他にどうしろっていうのよ。アンはギルバート・ブライスの手にすがって、釣り舟の中にあたふたとなだれ込んだ。両腕にまだ水が滴るショールとぐっしょり濡れたちりめんを掛けて舟の後ろに座り直したが、全身泥だらけで猛烈に機嫌が悪い。まるでちっとも全然お話にならない、こんな有り様じゃ、威厳の「い」の字もないじゃない!
「何があったんだ、アン?」オールを取りながら声をかけるギルバート。
「みんなでエレイン姫の劇をしてたの」けんもほろろなアン。命の恩人の方を振り返ろうともしない。「それで、キャメロットまで流れに身を任せなくちゃいけなかったから、御座船に乗って――あの小舟のことよ。そしたら舟が漏り始めたので、橋脚によじ登ったの。みんなは助けを呼びに行ったわ。桟橋まで乗せていって下さると助かるんですけど?」
親切なギルバートは桟橋まで漕いであげたが、不機嫌なアンは差し出された手を見下すように無視して、サッと岸に飛び降りた。
「大変お世話になりました」そう高飛車に言うと、背中を向けて歩き出した。だがギルバートもボートから飛び降り、腕を取って引き止めた。
「アン」ギルバートが畳み込んだ。「聞いてくれ。俺達、仲直りして友達になれないか? あの時君の髪をからかって悪かった。笑いものにするつもりはなかったんだ、ただの冗談のつもりだったんだ。それに、ずいぶん昔の事だろ。今の君の髪はすごく奇麗だと思う――本当だよ。さあ、友達になろう」
束の間アンはためらった。奇妙な、初めての気持ちが心の底から頭をもたげた。何でこんな奴に助けられなくちゃいけないの、と腹立たしく思っていたのだが。こちらを見つめるギルバートの瞳。恥ずかしそうな、それでも一生懸命なハシバミ色の瞳が、何かしらとても心地良い物に感じる。なぜか急にトクンと心臓が打った。だがそこで、昔のあの苦い記憶がよみがえった。揺れる心が即座に堅くこわばった。2年前のあのシーンが、まるで昨日の事のようにフラッシュバックした。ギルバートはあたしのことを「ニンジン」よばわりして、学校のみんなの前で恥をかかせたんだ。アンがギルバートに感じた恨みつらみは、アンのことを知らない、人生経験を積んだ方々から見れば、そのきっかけである「ニンジン」事件と同じく、失笑ものの下らない事でしかないかもしれない。時が経てば、本心はともかく表立った恨みだけでも、和らいだり弱められたりしそうなものだが、アンにすればそんなことはありえなかった。憎たらしいギルバート・ブライス! こんな奴、絶対に許してやらない!
「無理ね」と、冷ややかな返事。「友達なんて絶対なれないわ、ギルバート・ブライス。なりたくもないわよ!」
「ああ、そうかい!」ギルバートがボートに飛び乗った。怒りで頬を染めている。「友達になろうなんて、もう二度と頼むもんか、アン・シャーリー。もう知った事か!」
そう言い捨てると力任せにオールを操り、さっと岸を離れていった。アンはアンで、カエデの下のシダの茂る急な小径を登って行った。これ以上なく頭をツンとさせていたけれど、心の中になぜか後悔している別の自分を感じた。ギルバートに言い返すにしても、他に言いようがあったかもしれない。もちろんあいつはすごく無礼な奴だけど、それでも――! とまあ色々あって、どこかに腰を落ち着けて思いっきり泣けたら楽な気分になれるだろうな、とアンは思った。緊張がとぎれてすっかり気が緩んでいたのである。恐怖にさらされながら、腕がしびれるほど掴まっていた反動で、そう感じるのも無理はなかった。
小径の途中で、ジェーンとダイアナがバリーの池に猛然と逆戻りしてくるのに出会った。二人ともご乱心一歩手前という取り乱しようだ。果樹園坂には誰も見つからなかった。バリー氏もバリー夫人も出払っていた。それで、ルビー・ギリスはヒステリーになってしまい、勝手に直るまでそこに放って置かれた。その間、ジェーンとダイアナは呪いヶ森を飛び抜けて、小川を渡りグリーン・ゲイブルズに向かった。やはりそこでも誰も見つからなかった。マリラはカーモディーに出かけてしまい、マシューは裏の畑で干し草刈りをしていたからだ。
「良かった、アン」せわしい息をつくダイアナ。ホッとひと安心し、嬉しくてアンの首にかじりついて泣いている。「ああ、アン――あたし達ね――アンが――溺れちゃったと思って――人殺しになったみたいで――だってみんなで無理に――エレイン役を――させたから。ルビーはヒステリーになるし――ああ、アン、どうやって逃げ出したの?」
「橋脚によじ登ったの」大儀そうに説明するアン。「そのうちギルバート・ブライスがアンドリューズさんの釣り舟で通りかかって、岸まで乗せてくれたわ」
「わあ、アン、さすがギルバートね! もう、すごくロマンチックだわ!」とジェーン。ようやく息がつけるようになったのだ。「もちろんこれからは口をきくのよね」
「もちろん口なんかきかないわ」咄嗟に言い返すアン。その時だけいつもの元気が戻ってきた。「それからあたしの前で『
アンの嫌な予感はズバリ命中した。嫌な予感というものは普段あまりあてにならないものだが。その日の午後の事件がバレたとたん、バリー家とカスバート家では大騒動が巻き起こった。
「この先いつになったらまともな常識が身に付くのかしらね、アン?」
「まあね、大丈夫よ、身に付くと思うわ、マリラ」と返すアン。いたって楽天的である。東の切妻に閉じこもって思いっきり泣いた後なので、気の高ぶりもおさまり、いつもの元気を取り戻していた。「きっとちゃんとした人になれるわよ、今や未来はずっと明るくなったと思うな」
「何でそうなるのやら」とマリラ。
「そうねえ」アンの説明が始まった。「今日はね、また一つ今までにない貴重な経験を学んだのよ。グリーン・ゲイブルズに来てからずっと、あたし、失敗続きだったじゃない。だけど転んでもただじゃ起きない、失敗するたび大きな欠点を直して来たもの。紫水晶のブローチの事件では、自分のじゃない物をいじる癖が直ったわ。呪いヶ森の失敗では、想像力にたずなを付けるようになったもの。塗り薬入りケーキで失敗した時は、料理の間はぼんやりしてちゃダメだって分かったし。髪を染めたから自惚れも直ったのよ。今じゃ髪とか鼻の格好のことなんか全然考えないもの――少なくとも、ごくたまに考える程度ね。そして今日失敗した事で、
「そうあって欲しい点だけは確かなんだけどね」と、あまり信用していないマリラ。
だが、隅の自分の席に黙って座っていたマシューは、マリラが台所を出て行ったところで、アンの肩に手を置いてこう言った。
「何も全部ロマンチックなところを捨てる必要はないさ、アン」恥ずかしそうな小さな声が言った。「少しくらいならかえって適量だな――多すぎではいかんが、もちろんな――ただ、少しは残しておくんだ、アン、少しは残しておくんだ」
29章 人生の一大イベント
裏手の放牧地から家の方へ牛を追いながら、アンは恋人小径を歩いていた。9月の夕方、木々の隙間や森を切り開いた開墾地には、日没のルビーの光が注がれ、溢れていた。小径のそこここにも夕陽のしぶきが飛んでいたが、並木道はすでにカエデの影で覆われ、モミの足元には大気に漂うワインのように透き通った紫の薄暮が満ちていた。風がモミのてっぺんを揺らしている。薄暮れ時に風が奏でる音楽ほど心地よいものはまたとない。
小径を下る穏やかで気ままな牛の歩みに合わせ、アンは夢見るように足を進めた。何度も口にするのは「マーミオン」の戦の章――これも冬に国語の授業で習ったもので、ステイシー先生に暗記するよう言われた作品だった――突撃する戦列、剣同士のぶつかり合いを心に描いてうっとりしていた。そして、
槍を抱えた屈強な戦士達は未だひるまず 真っ黒な森となって敵をはねのける
という行では、感極まってその場で立ち止まり目を閉じた。まぶたの奥に、勇敢な軍勢の一人となって戦う自分がありありと浮かんでくる。もう一度目を開けてみたら、今度はこちらに向かってくるダイアナの姿が目に入った。バリー家の畑につながる柵の門を開けて、なんだかもったいぶった顔をしている。何かニュースがありそうね。何だろう、気になるな。でも自分から聞くのはやめておこうっと。
「黄昏ゆく今日は、スミレの夢色みたいじゃない、ダイアナ? 生まれてきて良かったって気がするわ。朝起きるとやっぱり朝が一番だと思うのに、夕方にはこっちの方がずっと素敵だって思えるのよ」
「ホントにきれいな夕方ね」とダイアナ。「それより、ねえ、ニュースがあるのよ、アン。なあ〜んだ。答えは3回までよ」
「シャーロット・ギリスが結局教会で結婚式を挙げることにして、アランさんから飾り付けを頼まれたとか」とアンの大きな声。
「はずれ。シャーロットの恋人が賛成しないわよ、誰も村の教会で結婚したことないんだもの。お葬式みたいだって思ってるのよ。意地悪よねえ、きっとすっごく面白くなるのに。次どうぞ」
「ジェーンのお母さんが誕生パーティーに OK を出した?」
ダイアナが首を横に振った。黒い瞳が楽しそうに揺れている。
「さっぱり分からない」とアンは諦め顔。「もしかして、ゆうべの祈祷会の帰りにムーディー・スパージョン・マクファーソンに送ってもらったとか。当たり?」
「そんなことあるわけないでしょ」ダイアナが大声を出してむくれた。「もしそうだとして、自慢にもなりゃしないじゃない、あんな嫌な奴! どうせ当たらないと思ってたわよ。今日お母さん宛てに、ジョセフィン叔母さんから手紙が届いたの。そしたらその手紙にね、来週の火曜にアンとあたしを街に寄越しなさいって書いてあったの。展覧会を見せてあげるから泊まって行けばいいだって。どうだ参ったか!」
「ああ、ダイアナ」息も絶え絶えなアン。カエデの木に寄りかからないと倒れてしまいそうだ。「本当にそう書いてあったの? だけどマリラが行かせてくれそうにないわ。あちこち遊び歩くのは頂けないって言うだろうし。先週だって、ジェーンがツー・シーターの馬車に乗って、ホワイト・サンズ・ホテルで催されるアメリカ人のコンサートに行こうって誘ってくれたのよ。どうしても行きたかったのに、マリラの意見では、あたしは家で勉強するべきだし、ジェーンもそうなんだって。あたし、もうガッカリしちゃったわ、ダイアナ。心が砕けてしまったから、寝る時にお祈りを飛ばしたの。でも、後から気が咎めたから、真夜中に起きてお祈りしたわ」
「こうしたらどう」とダイアナ。「うちのお母さんからマリラに頼んでもらうの。これならマリラも行かせてくれそうでしょ。もし行けるとしたら、うんと楽しくなるわ、アン。展覧会には行ったことなかったから、他の子が行った時の話をしてるのが聞こえてくると、すっごくイライラするのよ。ジェーンもルビーも2回も行ってるのに、今年もまた行くんだもの」
「行けるかどうか決まるまで考えないでおく」アンはそう決めた。「もし今から期待してその後ガッカリなんてことになったら、耐えられそうにないわ。だけど行けることになったら嬉しいな、新しいコートが出来上がってる頃だもの。マリラは新しいコートは要らないって考えてたのよ。前から着てるコートであと一冬十分間に合うし、新しい服を作ってもらったんだからそれで我慢しなさい、だもの。こんどの服、とても奇麗なの、ダイアナ――ネイヴィー・ブルーで流行のスタイルよ。この頃マリラは、いつも服を流行に合わせて作ってくれてるの。マシューがもうリンドさんにあたしの服を頼みに行ったりしないように先手を打ってるんだって。だからあたし嬉しい。良い子でいるのは、流行の服を着てるとずっと楽チンなのよ。少なくとも、あたしはそう。もともと善人なら、どっちでも変わりないんだろうけどね。で、マシューがあたしにコートを作るように言ってくれたから、マリラが素敵な青のブロードクロスを買ってきて、カーモディーの本職の仕立屋さんにお願いしてるの。土曜の夜に出来上がるのよね。でもなるべく日曜日のことは想像しないようにしてるんだ。新調のコートとドレスに帽子をかぶって教会の通路を気取って歩くなんて、何だかいけないことみたいだもの。だけど、ついつい考えちゃうわ。帽子もとっても可愛いのよ。みんなでカーモディーまで出かけた日に、マシューが買ってくれたのよ。今大流行の青いベルベット製で、金の飾り紐と房がついてるの。ダイアナの新しい帽子、あれ上品よね、ダイアナ、それに似合ってるわ。先週の日曜日にダイアナが教会に入ってきた時、この子があたしの一番大事な友達なんだって思えて鼻が高かったわよ。服のことばかり考えてるなんて不謹慎だと思う? マリラはとても罰当たりな事だって。でも話してると楽しいんだもの、そうじゃない?」
結局マリラはアンを街に行かせることを承知し、バリー氏が来週の火曜に子供たちを連れていく手はずになった。シャーロットタウンは30マイル離れていて、バリー氏はその日の内に帰宅したかったので、朝早く出かけなくてはならなかった。しかしそんなことも、アンにとっては楽しみのうちだった。火曜の朝は日が昇る前に目をさましていた。アンは窓から空をのぞいてみた。今日は一日いい天気。呪いヶ森のモミの向こうの東の空が銀色に輝いてる、雲一つないわ。梢の隙間から果樹園坂の西の切妻に明りが一つ輝いていた。やっぱりダイアナも起きているのだ。
マシューが火をおこす頃までにアンは着替え終わっていた。マリラが降りて来てみると、すでに朝食の準備が出来上がっていた。が、興奮しすぎて自分の分に手が付かなかった。朝食の後、おろしたての粋な帽子とジャケットを身にまとい、小川を渡ってモミの小径を抜けて、アンは果樹園坂に急いだ。向こうではバリー氏とダイアナがアンを待ち受けていて、間もなく馬車の旅が始まった。
馬車の旅は長かったが、アンもダイアナも嬉しくてしょうがなかった。早朝の赤い太陽に照らされて、露に濡れた道を馬車に揺られてガタガタ行くのは楽しかった。道沿いに続く刈入れ後の畑が、少しずつ赤く染まっていった。爽やかで清々しい空気。ぼんやり青みがかったもやが丘の凹みに沿って曲がりくねり、丘の斜面から漂い流れていく。街道は時に森を突っ切って、深紅の小旗を飾り始めているカエデを見せてくれた。時には川に架かった橋に続いて、相変わらず楽しさ半分恐さ半分のアンは橋の上で身がすくんだ。またある時は港のある岸辺に沿ってうねうねと曲がりくねり、風にさらされ灰色に脱色された釣り小屋がせせこましく立ち並ぶ脇を通り過ぎた。今度は丘を登っていく。丘の道からは、遥か遠くに続いている高台のうねった背や、もやに青く霞んだ空を目にすることができた。ただ、どこに道が続いていても、話題に事欠くことはなかった。街に足を踏み入れ「ブナ屋敷」に到着した時はお昼時に近かった。「ブナ屋敷」は昔ながらの素晴らしい大邸宅であり、通りから引っ込んで、緑のニレと枝を伸ばしたブナの陰に隠れていた。ミス・バリーがわざわざ玄関まで出て迎えてくれた。黒く鋭い瞳をキラキラさせている。
「ようやく会いに来てくれたね、アン嬢ちゃん」とミス・バリー。「おやまあ、まだ子供だと思ってたのに、大きくなって! あたしより背が高いじゃないの。それにこの間会った時よりずっと奇麗になってるわ。あら、こんなこと言わずもがなで、分かってることだわね」
「そんなことないです、知りませんでした」とアン、嬉しさを顔に滲ませている。「そばかすが前ほどじゃないのは気がついてましたから、ずいぶん気が休まってたんです。でも他にもましになったところがあるなんて、本当に思ってもみませんでした、少しは見込みがありそうと思って頂けるなんて、あたしもとっても嬉しいです、ミス・バリー」
バリー嬢の家屋敷の調度品は、帰ってからアンがマリラに語ったように、どれも「目が回るほど豪華な」ものばかりだった。豪勢な客間に通されても、田舎からやってきた二人の子供達は妙に落ち着かず、調度品の数々を堪能するどころではなかった。バリー嬢は二人をそこに残して、晩餐の準備が滞りないか監督に行ったのである。
「まるで御殿みたいじゃない?」ひそひそ声のダイアナ。「あたし今までジョセフィン叔母さんのお屋敷に来たことなかったのよ。こんなに立派だなんて思わなかった。ジュリア・ベルに見せてやりたいわ――あの子ってば、お母さんの客間のこと、いっつも自慢してるんだもの」
「ベルベットのカーペットだわ」豪華さに圧倒されて、溜め息をつくアン。「それにシルクのカーテン! どれもこれもずっと夢見てきたものよ、ダイアナ。だけど、なんていうか、こうしたものに囲まれてると気が休まらないものなのね。この部屋にはあまりにもたくさん物がありすぎるのよ。どれも素晴らしすぎて想像の余地がなくなっちゃうんだわ。貧乏にも一ついい点が見つかったわ――想像できることがたくさんあるってことよ」
その後何年か、アンもダイアナも街に滞在した事をたびたび振り返ることになった。はじめから最後に至るまで、思い出に残る楽しい出来事がめじろ押しだったのだ。
水曜日には、バリー嬢は二人を引き連れて展覧会の会場まで出かけ、会場で一日を過ごすことにした。
「素晴らしいの一言だったわ」帰ってからアンがマリラに話して聞かせた。「あんなに面白いなんて想像してなかったもの。どの展示が一番面白いか分からないくらい。馬と花、それから刺繍の展示が一番気に入ったかも。ジョージー・パイがレース織りで一番だったのよ。ジョージーが一番で嬉しかったわ。それに嬉しいと感じたことも嬉しかったの、だって進歩してるってことでしょ、そう思わない、マリラ? ジョージーのいい事を祝ってあげられるんだもの。ハーモン・アンドリューズさんはグラーヴェンスタイン種のリンゴで2等賞だったし、ベルさんは豚で1等賞だったわ。ダイアナが、日曜学校の校長先生が豚なんかで賞を取るなんて変な気がするって言ってたけど、そうは思わないな。マリラも変だと思う? ベルさんが真面目な顔でお祈りするたび、必ず豚のことを思い出しそう、だって。クララ・ルイーズ・マクファーソンは絵で賞を取ったし、リンドさんは自家製のバターとチーズで一等になったわ。アヴォンリーがずいぶん目立ってたって事よね? あの日リンドさんが展示会に来てたんだけど、実はおばさんのこと好きなんだなあって初めてわかったの。知ってる顔を見つけて嬉しかったのよ、周りは知らない人ばかりなんだもの。会場には何千人もお客さんがいたんだから、マリラ。自分がちっちゃな米粒になったみたいな気分だったな。あとね、ミス・バリーが正面観覧席で競馬を見せてくれたの。リンドさんは断ったわ。競馬なんか言語道断で、教会の一員である自分は、良き模範となるべく競馬に近寄らないでいるのが義務だと思うって言ってたわ。でもあんなにたくさん人がいたら、リンドさんがいなくてもきっと誰も気がつかないわよ。それでも、あまり何度も競馬に行くのは止しといた方が良さそう。だって、すっごくのめり込むんだもの。ダイアナなんか大はしゃぎ、あの赤い馬が勝つと思うから10セント賭けようって言うの。勝てそうな馬だと思わなかったけど、賭けはやめておいたわ。後からアランさんに見てきたことを全部話したかったからなのよ。競馬で賭けをしました、なんて言えないじゃない。牧師の奥さんに話せないようなことは悪いことだもの。お友達に牧師の奥さんがいるって、もう一つ良心が増えたようなものでいいことだわ。それに賭けないで正解だったのよ、赤い馬が勝っちゃったんだもの、あぶなく10セントなくすところだったわ。良いことをしてればちゃんと報われるってことよね。気球に乗って空にぷかぷか浮いてる人がいたわ。あたしもいつか気球に乗れたらいいんだけど、マリラ。きっとゾクゾクよ。おみくじを売ってる人も見かけたわ。10セント払うと小鳥がおみくじを引くの。ミス・バリーがダイアナとあたしに10セントずつ渡して、おみくじを引いてごらんって言ってくれたわ。あたしの運勢では、色黒でお金持ちの男性と結婚して、海の向こうで暮らすんだって。それを読んでから色黒の男の人に出会うとじっと観察してみたけど、気に入る人はいなかったわ。ま、とにかく、今から見つけ出そうなんて、まだ早すぎるわね。それにしても、忘れ得ぬ日とはあの日のことよ、マリラ。疲れすぎて夜眠れないくらいだったもの。約束どおり、ミス・バリーが客用寝室で寝かせてくれたの。拡張高い部屋だったわ、マリラ、だけどどうも客用寝室で寝るって、あたしが思ってたのとは違ってるわ。これが大人になることの欠点ね、あたしにもだんだん分かってきた。小さい時にあこがれてた事って、現実になるとそれほど素晴らしくなくなるのよ」
木曜日には二人とも公園にドライブとしゃれこんだ。午後になると、バリー嬢に連れられて二人を音楽アカデミーのコンサートを聞きに行った。有名どころのプリマドンナの歌がその日の目玉だった。アンにしてみれば、その晩は喜びに満ちた、光きらめく幻想世界そのものだった。
「ああ、マリラ、言葉では言い尽くせない。すごくドキドキして何も言えなかったのよ、このあたしが。これでもう、どんなだったか分かってもらえるわよね。口もきかずにじっと座ってるだけ、ただうっとりなのよ。マダム・セリツキーって美の極地よ、白のサテンのドレスにダイアモンドの飾り。でも歌が始まると、他のことなんか考えられなくなっちゃったわ。ああ、あの時のあの感じ、どうしても言葉にならない。そうね、善人への道はもはや遠からずって気がしたわ。まるで夜空の星を見上げる時の気分だった。涙が溢れてくるんだもの。でもそれはね、幸せの涙なのよ。幕が降りるのがすごく辛かったわ。だからミス・バリーに言ったの、当たり前の生活に戻れそうもないって。そしたら、通りの向こうのレストランに行ってアイスクリームでも食べれば、そんな気分も吹き飛ぶんじゃないかね、だって。その時は、なんて身も蓋もない言い方だろうって思ったけど、なんとビックリ、実際そのとおりだったのよ。美味しいアイスクリームだったわ、マリラ。夜中の11時にレストランでアイスクリームを食べてるなんて、とっても素敵だし贅沢な気分よ。ダイアナは街の暮らしの方が向いてそうなんだって。ミス・バリーにあたしはどう思うか聞かれたけど、本当は自分がどう思ってるか、しっかり考えてから返事するって言っておいたの。それで、ベッドに入ってからじっくり考えてみたのよ。考え事をするにはちょうどいいもの。あたしの結論はね、マリラ、自分が街の生活には向いてないことと、それが気に入ってるってこと。夜中の11時にきらびやかなレストランでアイスクリームを食べるのもたまには悪くないわよ。でもそれよりは、いつものように東の切妻で11時にはぐっすり眠っていたいの。そして、寝ていても何となく感じているのよ、窓の外に星が輝いているのも、風が小川の向こうのモミの間を吹き抜けていくのも。朝起きてから朝食の席でミス・バリーにそう言ったら、笑われちゃった。ミス・バリーって、たいがいあたしが何か言うと笑うのよ。こっちが真面目に言ってる時もそうなんだもの。そういうのあまり好きじゃないな、マリラ、だって笑わせようってつもりじゃないのに。それはそうと、実際とても親切な方だし、素晴らしいおもてなしをして頂いたのは確かね」
そして金曜、ついに帰宅の日になり、バリー氏が馬車で子供たちを迎えに来た。
「さてと、楽しんでもらえたかしらね」とバリー嬢、別れの挨拶をする時のことである。
「本当に楽しかったです」とダイアナ。
「あんたはどう、アン嬢ちゃん?」
「お邪魔してる間、ずっと楽しいことばかりでした」そう言うと、感情の赴くままにアンは老婦人の首に抱きついて、しわの寄った頬にキスした。こんなことするなんて大胆すぎるわ、とダイアナはアンの行動に内心冷や冷やものだった。予想に反してバリー嬢は喜んでおり、ベランダから遠くなる馬車が見えなくなるまで見送るのだった。そして、溜め息を一つつくと屋敷の中に戻って行った。若い爽やかな息吹が欠けた今、自分の家がとてつもなく寂しい場所に思えた。かなり自分本位な人、ありていに言うとバリー嬢という老婦人はそんな人だった。自分の事以外関心がなく、他人がどうなろうと気にする性格ではなかった。人を判断する場合は、自分に何かしてくれるか、楽しませてくれるか、それだけが基準なのである。アンは楽しませてくれる子だった。だからこうしてバリー嬢の眼鏡にかなったのである。ただ、今思い返してみると、アンの風変わりなおしゃべりよりも、何にでも新鮮に感動する気持ちや、開けっ広げな表情、どころなく人を惹きつける様子、眼差しや口元の愛らしさの方が、ずっと印象に残っていた。
「そういえば、マリラ・カスバートも馬鹿なことをしたと思ったんだわ、孤児院から女の子を引き取るらしいと聞かされちゃあね」バリー嬢がひとりごちた。「でも結局のところ、それほど間違いでもなかったらしい。もしいつもこの家にアンのような子供がいたら、あたしだって今よりずっと善良で幸せになるのかもしれない」
家に戻る道々、アンとダイアナは来るときと同じように楽しい時を過ごした――いや、もっと楽しかった。それもそのはず、旅が終わろうとする今、我が家が少しずつ近づいて来て浮き浮きしているのだから。陽が沈みかけた頃、ようやくホワイト・サンズを通り過ぎ海岸道の角にさしかかった。目をあげると、アヴォンリーの丘陵がサフラン色の空を背景に影絵になって浮かんでいた。一行の後ろでは、海の上に月が昇りつめていく。煌々と投げ掛けられた光を浴び、いつもと違う姿を表す海。曲がりくねった道沿いに点々と並ぶ小さな入江を通るたび、さざ波が踊り戯れる不思議な光景を見せる。崖下の岩場に柔らかく打ち寄せる、波の衣ずれの音。磯の香りが清々しい。
「ああ、元気で我が家に帰れるって素晴らしいことなんだわ」そっと口にするアン。
小川の丸木橋を渡ると、グリーン・ゲイブルズの台所の明りが瞬いて、お帰り、待ってたよ、とウィンクした。開け放したドアの向こうに暖炉の火が輝き、暖かい真っ赤な炎が肌寒い秋の夜と対照的だった。元気一杯に斜面を駆け登って台所に駆け込むと、出来立ての御馳走がテーブルの上でアンの帰りを待っていた。
「ようやく帰って来たね?」と、マリラが編み物を片づけ始める。
「ただいま、ああ、帰って来たのね」と嬉しそうなアン。「そこらじゅうの物にキスしたいくらい、あの時計にもよ。マリラ、チキンの照焼きじゃない! もしかして、あたしのために作ってくれたとか!」
「ああ、そうだよ」とマリラ。「お腹が空いてるはずだし、馬車で長いこと揺られて来たんだから、何か食が進む物がいいだろうと思ってね。さっさと着替えておいで、マシューが帰ってきたらすぐ夕飯にするから。あんたが戻ってくれて嬉しいわ、本当にね。あんたが出かけてすっかり侘しい日が続いたもんだから、たかが4日が長かったわ、こんなこと初めてよ」
夕飯の後で、アンはマシューとマリラの間で暖炉の前に陣取って、二人に見物してきた様子を一つ残らず話した。
「素晴らしい経験だったわ」アンは満足そうに締めくくった。「これであたしの人生に一時代が画されたと言えるかもね。だけど一番素晴らしかったのは、我が家に帰ってきたことよ」
30章 クイーン組、設立される
マリラが膝の上に編みかけを置いて、椅子の背にもたれかかった。目が疲れた。今度町に行ったついでに、眼鏡を作り替えてもらわないといけないだろうか、近頃なにかと疲れ目になりやすくなってるもの。
外はすっかり暗くなっていた。すでに半ばを過ぎた11月のある日、グリーン・ゲイブルズに黄昏が帳を降ろしていた。一つだけ台所にともった光が、ストーブの中で赤い炎をパチパチ踊らせていた。
ストーブの前の敷物にトルコ風にあぐらをかいたアンが、楽しそうに真っ赤に燃え盛る輝きをじっと覗き込んでいる。燃えているのは百年を経た夏の日光なんだわ、カエデの薪から蒸留されたエッセンスなのよ。さっきまで読んでいた本は床の上に滑り落ちるにまかせ、今や夢の中を彷徨っていた。少し開いた唇に笑みが浮かんでいる。まばゆく光り輝くスペインの幻想の城が、かすみと虹の彼方から鮮やかな姿をとって浮かび上がってきた。不思議な心奪う冒険の数々が、雲の向こうの世界で次々と巻き起こる――どんな危険が待ち受けようとも、いつだって終わりはめでたしめでたし。決して現実の世界のように、厄介事に巻き込まれたりはしないのだ。
そんなアンをマリラは目を細めて見つめた。普段は決して顔に出したりしない、暖炉の輝きと闇が柔らかに混ざり合う時だけに見せる優しさだった。言葉にするとか、表情に表すとか、気楽に表現すればいいだけなのに、そういう事はマリラにはどうしても身に付かないのだった。しかし身に付いたこともある。目の前のほっそりした灰色の瞳の少女を愛する事を憶えた。口には出さないが、それだけに一層心の底から激しく愛するのだった。いや実際、甘やかしすぎるのではと不安になるほどだった。アンを愛しく思うにつけ、誰であれ人間相手にこんなに入れ込むなんて、ずいぶん罰当たりなのではと落ち着かない気分になった。だからたぶんその償いとして、無意識の内に余計口を酸っぱくしてきつく当たってしまうのだろう。もし大事な子でなければ、そこまでしなかったに違いない。それが功を奏して、アンはマリラが自分の事を気にかけていることに気づいていなかった。時々、どうしてマリラって何をしても喜んでくれないし、こちらの気持ちを汲んだり事情を分かってくれたりできないんだろう、と思わずにいられなかった。ただそういう時はいつも、マリラへの恩義を思い出してはそんな自分を叱るのだった。
「アン」マリラが出し抜けに言った。「午後にステイシー先生がいらしたわよ、あんたはちょうどダイアナと出かけていたけど」
ハッとしたアンは、自分だけの別世界から急に連れ戻され、溜め息をついた。
「先生が? せっかく来てもらったのにいなくて悪いことしたわ。なんで呼んでくれなかったの、マリラ? ダイアナと一緒に向こうの呪いヶ森にいたのよ。あそこは今が素敵な頃なの。森の中の小さな生き物達がね――例えばシダでしょ、サテン・リーブにゴゼンタチバナ――みんな眠りについて、誰かが落ち葉の毛布の下に、春が来るまでしまい込んだみたい。虹のスカーフを巻いた、ちっちゃな年寄りの妖精の仕業かも。月夜の晩につま先立ちでこっそり来て隠しちゃったのね。ダイアナはそういうことはあまり言わなくなったけど。ダイアナね、いまだにお母さんに叱られたことを気に病んでるのよ、呪いヶ森にお化けがうろついてるって想像したもんだから。ダイアナにとってはいい災難だわ。想像力がしおれちゃったもの。リンドさんは、マートル・ベルがしおれかかってるって言ってるわ。ルビー・ギリスになんで元気がないのか聞いてみたら、ボーイフレンドに振られたんじゃないの、だって。ルビー・ギリスってボーイフレンドのことしか考えてないし、毎年ひどくなる一方だわ。ボーイフレンドも結構だけど、いつもそんな話ばかりじゃね、でしょ? 最近、ダイアナもあたしも真剣に考えてるんだけど、二人とも結婚なんかしないで、素敵なオールド・ミスになって一緒にいつまでも暮らすことにしようかって。ダイアナはまだ決心がつかないでるわ。もしかすると、ワイルドで粋な遊び人と結婚して、その人を正しい道に戻してあげる方がずっと立派な事じゃないかって思ってるのよ。このごろダイアナと話すと、難しい話題になるのよね。昔と違って大人になってるんだから、子供っぽい話題は似合わないのよ。なんだか衿を正す思いだわ、このあたしがもうすぐ14歳だなんてね、マリラ。先週の水曜日に、ステイシー先生があたし達ティーンエージャーの女の子全員を小川の所まで連れて行って、ティーンの心得について話してくれたの。これからの時期はとても重要だから、どんな考え方を形作るか、どんな理想を持つか、いくら注意しても注意しすぎることはないんだって。20歳になるまでにあたし達の性質が作り上げられて、将来の生き方の基礎が出来上がるからなの。もし基礎が不安定だと、その上に何を作ったとしても本当に意味のあるものにはならないんだそうよ。学校の帰り道で、ダイアナとそのことについて話し合ったわ。二人とも真剣な気持ちだったわ、マリラ。それで二人で決めたのよ、これからしっかり気をつけて立派な習慣を身に付けること、何でも学んでいくこと、できるだけちゃんとした人になることって。そしたら20歳になるまでに、あたし達の人格も年齢に相応しく磨かれてるわよ。あたしもいつかは20歳になるなんて、考えてみると驚いちゃうわよね、マリラ。すっごく年をとって大人みたいなんだもの。それで、午後にステイシー先生が来たのはなぜ?」
「あたしもそれを話そうとしていたのよ、アン。ただ、あんたの話にはどこにも口を挟む隙間が見つからなくてね。先生の用件はあんたの事だったのよ」
「あたしの事?」アンの顔が少し青ざめた。それから顔を赤くしてこう叫んだ。
「あ、何を言われたか分かった。あたし話すつもりだったのよ、マリラ、本当にそうするつもりだったけど、忘れてたの。昨日の午後、授業中に『ベン・ハー』を読んでるのをステイシー先生に見つかっちゃったの。本当はカナダ史を勉強してなくちゃいけなかったんだけど。ジェーン・アンドリューズに貸してもらったのよ。お昼休み中ずっと読んでたら、戦車競争の場面でちょうど授業が始まっちゃって。どうなったか知りたくて我慢できなかったの――ベン・ハーが必ず勝つだろうって予想はついてたけどね、だってもし負けたりしたら正義は勝つって理想が成り立たないじゃない――だから歴史の教科書を机の蓋の上に広げておいて、見えないように『ベン・ハー』を机と膝の隙間に置いたのよ。こうしておけばカナダの歴史を勉強してるように見えるじゃない、で、あとはずっと好きなだけ『ベン・ハー』を読めるってわけ。本の事しか頭になかったから、ステイシー先生が教壇からこっちに近づいて来るのに全然気がつかなかったの。ハッと顔を上げたら、先生があたしを見下ろしてるんだもの、授業中にいったい何してるのって顔だったわ。何て言っていいか分かんないくらい恥ずかしかったわ、マリラ、特にジョージー・パイにクスクス笑われた時はね。『ベン・ハー』は没収されたけど、ステイシー先生にはその場で特に何も言われなかったわ。休み時間に残されてお説教されたけど。あたしの悪い点は2つあるんだって。1つは勉強するべき時間を無駄にしたこと、もう1つは先生を騙したこと。歴史の勉強をしてる振りをして、実は小説を読んでたからなの。言われるまで気がつかなかったわ、マリラ、あたしのした事って人を騙すことだったのよ。ショックだった。うんと泣いて、ステイシー先生、許して下さい、もう二度としませんからって謝ったわ。それから罰として、『ベン・ハー』をまるまる1週間見えないところにしまっておいて、戦車競争の結果だけちらっと読んだりもしないからって。だけど、そんな事はしなくていいわってステイシー先生に言われて、あとは無罪放免で許してもらったのよ。なのに先生ったらひどい、わざわざ家まで来て結局マリラに告げ口しちゃうんだもん」
「ステイシー先生はそんな事一言もおっしゃらなかったわよ、アン。あんたにやましいところがあるからそう思うんでしょうに。物語本を学校に持ち込んだりするからよ。大体、あんた小説の読みすぎなんだから。あたしが子供の頃は、小説なんか目にするのもいけない事だって言われたものだわ」
「そんなぁ、どうして『ベン・ハー』がただの小説なの、あんなに信仰について語ってる本なのに?」と不服そうなアン。「そりゃあ、ちょっと血湧き肉踊るところがありすぎて、日曜向きの読み物とは言い難いわよ、だからあたしは日曜以外の日に読むことにしてるわ。それから、今は不適切な本は一冊も読んでないもの。読んでるのは、ステイシー先生やアランさんがお勧めの、13歳9ヶ月になった女の子が読むべき本だけよ。これはステイシー先生と約束したことなの。この間、あたしが『謎の化け物屋敷の恐怖』という本を読んでるのを、たまたま先生が見かけたのよ。ルビー・ギリスが貸してくれたんだけど、これがね、ああ、マリラ、読み始めると止まらないのよ、背筋がゾ〜ッとしたわ。あたし、体中の血が凍っちゃった。だけどステイシー先生は、とても下らないし不道徳な本だって。こうした類いの本はもう読まないように約束してくれないって言われたの。こういう本はもう読みませんって約束するのは別に構わないんだけど、七転八倒の苦しみだったのは結末を読まないで本を返さなきゃならなかったこと。それでも、大好きなステイシー先生のために、この試練を耐え忍んだのよ。これ、本当に奇跡のようだわ、マリラ、心から誰かに喜んでもらいたいと思うと、何だってできちゃうんだから」
「さぁて、ランプをつけて仕事にした方が良さそうね」とマリラ。「ステイシー先生が何をおっしゃったか、聞きたくないって言うんじゃしょうがない。何より自分のおしゃべりに聞きほれていたいんだものね」
「ああっ、そんな事ない、マリラ、どうしても聞きたいわ」と泣きつくアン。「もう一言もしゃべらないわ――絶対。おしゃべりなのは分かってるけど、本気で直そうとしてるんだからね。それでもしゃべりすぎるんだわ、だけど、たくさんしゃべりたい事があるのに、これでも抑えてるのよ、そう考えれば大した物よね。お願い、教えて、マリラ」
「まあいいわ、ステイシー先生は特別クラスを作るんだそうよ、クイーン学院の入試に備えて勉強したい生徒達だけでね。授業が終わってから別枠で1時間だけ課外授業をするんだって。先生がマシューとあたしに会いに来られたのは、あんたを参加させる気があるか確認するためなのよ。あんたはどうしたいの、アン? クイーンに行って教師の免許を取るつもり?」
「ああ、マリラ!」アンは膝をついて両手を組みあわせた。「学校の先生になりたいってずっと夢見てきたのよ――ずっとって、ここ半年くらいだけど、ルビーとジェーンが入試勉強の話をしだしてからよ。でもあたしは何も言わなかったわ、なぜって、そんなの全然意味ないと思ったんだもの。あたし先生になりたい。でもすご〜くお金がかかるんじゃない? アンドリューズさんの話では、プリシーを卒業させるまで150ドルかかったんだって、それにプリシーは幾何の落第生じゃなかったわ」
「そんな事はあんたが心配することじゃないわ。マシューとあたしがあんたを育てるって決めた時に、できる限りのことはしてあげるつもりだったし、ちゃんと教育を受けさせようって考えてたんだから。女の子だって自立して生活費を稼げるようにならなくちゃ。必要あるかどうかじゃなくね。あんたはいつでもここに帰ってこれるの、グリーン・ゲイブルズはマシューとあたしがいる限りあんたの家なのよ。だけど何が起こるか分からない世の中だから、備えておくに越したことはないわ。だからもしあんたが入りたければ、クイーンのクラスに入ってもいいのよ、アン」
「ああ、マリラ、ありがとう」アンはマリラの腰にギュッと手を回して、ジッと顔を見上げた。「マリラとマシューにはものすごく感謝してるわ。だからあたし一生懸命勉強する、二人の期待に応えたいの。今のうちに言っておくと、幾何は望み薄よ、でもそれ以外なら、頑張ればいけると思うわ」
「あんたならきっと巧くやれるわ。ステイシー先生が、賢くて勉強熱心だっておっしゃってたもの」何があってもマリラはアンにステイシー先生の褒め言葉をそのまま聞かせるつもりはなかった。そんなことをしたら、アンが天狗になってしまうから。「そんなに慌てることないのよ、何も体を壊すほど根を詰めて勉強しなくても大丈夫だわ。急がなくていいの。入試まであと1年半も余裕があるんだから。でも、勉強を始める時期を逸しないことと入念な基礎固めは重要よ、ステイシー先生がそうおっしゃってたわ」
「これで今までよりずっと勉強を頑張ろうって気になるわ」と幸せを噛みしめるアン。「人生に目標ができたんだもの。アラン牧師さんがいつもおっしゃるもの、人は誰でも人生に目標を持つべきで、その目標に向かって真摯に突き進まなくてはいけないのよ。ただし、その目標が価値あるものであるか、まず確かめなくてはいけないんだって。ステイシー先生みたいな先生を目指すのは、価値ある目標と言えるわよね、マリラ? 教師ってとても高貴な職業だと思うわ」
そうこうするうちに、クイーン組が編成された。ギルバート・ブライス、アン・シャーリー、ルビー・ギリス、ジェーン・アンドリューズ、ジョージー・パイ、チャーリー・スローン、それにムーディー・スパージョン・マクファーソンという顔触れである。ダイアナ・バリーはその中には含まれなかった。両親にはダイアナをクイーンに進ませる気がなかったのである。これはアンにとって大ショックだった。そんなことはありえなかった。ミニー・メイが喉頭炎に罹ったあの晩から、何をするにもアンとダイアナは一緒で、引き離されたことなどなかったのだ。夕方になり、クイーン組の生徒だけが課外授業を受けるために学校に居残った時、アンの目に映ったのは、他の生徒と一緒に嫌々帰っていくダイアナの姿だった。これからは一人きりで樺小径とスミレの神殿を通って帰ることになるのだ。席にじっとしているのがやっとだった。席を蹴って仲良しの後を追い駆けられたらよかったのに。喉に塊が込み上げてきた。慌ててラテン語の文法書を立て掛けると、ページの後ろに逃げ込んで滲んだ涙を隠した。間違ってもあってはいけないのよ、ギルバート・ブライスやジョージー・パイなんかにあたしが涙する姿を見られるだなんて。
「だけど、ああ、マリラ、あたしあの時痛感したの、あの時味わったものこそ、死に別れのむごさなんだって。これ、アランさんが先週の日曜に礼拝でおっしゃってた事だけど、ダイアナが独りぼっちで教室を出ていく時に、そうんな気がしたの」その晩、アンは悲嘆にくれながらそう語った。「もしダイアナも一緒に入試勉強ができたら素晴らしいのになあって思ったわ。でもこの不完全な世の中じゃ、完璧などありえないんだもの、これはリンドさんの言うとおりね。リンドさんといると時々気分が滅入ることもあるけど、言ってることはどれもこれも真実そのものよ。でね、クイーン組はとっても面白くなりそうだわ。ジェーンとルビーも先生の免許を取るためだけに勉強するんだって。それ以上は望まないのよ。もし試験に受かったら、ルビーは2年間だけ教えて、結婚するつもりなの。ジェーンは、人生を全て教職に投げ出す覚悟だから、何があっても結婚はしないんだって。なんでも、教師なら教えた分だけ給料をもらえるけど、夫からは何も収入が期待できないかららしいわ。夫っていうのは、卵やバターで稼いだお金から、自分の働いた分が欲しいなんて言おうものなら、犬みたいに唸ってぶつぶつ不平を言うんだそうよ。きっとジェーンがそう言うのは、悲しい経験があったからだわ。だってリンドさんから聞いたんだけど、ジェーンのお父さんってとにかく気むずかしいし、ミルクから2回もクリームをすくってもまだ足りないくらいのケチなんだって。ジョージー・パイは教養を身に付けるために大学に進学するつもりらしいわ、自分で稼がなくちゃいけないほどお金に困ってないんだって。他にもこう言ってたわ、もちろん他人の情けにすがって生きてる孤児ならこうはいかないでしょうけど――そういう人達はあくせく働かないといけないものね、だそうよ。ムーディー・スパージョンは牧師になる気なの。あの名前に似合う職業は牧師以外にありえないって、リンドさんがいつも言ってるけど。ムーディー・スパージョンには悪いけどね、マリラ、あの子が牧師になるなんて思うとホントに可笑しくって。あの子おかしな顔なの、丸顔で大きな顔でね、青い目が妙に小さいし、帽子の縁みたいに耳が突きだしてるんだもの。だけどもしかすると、大人になったらもっと知的な顔つきになるかもね。チャーリー・スローンは政治の世界に入って議員になるんだって。でも、リンドさんは絶対成功しないって言ってた。スローン家はみんなばか正直だし、近頃ではうまく立ち回れる政治家は悪人ばかりだからだそうよ」
「ギルバート・ブライスは何になるつもりなの?」アンがシーザーの本[#訳者注:ガリア戦記のこと]を手に取るのを見て、マリラが訊ねた。
「ギルバート・ブライスが何になりたいかなんて、知ってるわけないわ――大体そんなものあるのかしら」と小馬鹿にするアン。
今やギルバートとアンがライバル関係なのは公然の事実になっていた。かつてはライバル意識といってもかなり一方的なものだったが、ここにきてギルバートもアンのようにクラスで一番になろうと決心したのはもはや疑いなくなった。ギルバートはなかなかに手ごわい相手だった。言葉には出さなかったが、クラスの他のみんなはこの二人が周りを圧倒しているのを知っていたから、わざわざ張りあおうなどと夢にも思わなかった。
せっかく仲直りしようと謝ったのに、バリーの池の畔でアンに剣突を食わされたあの日以来、ギルバートは、さきほどのライバル関係に関する場合を除いて、アン・シャーリーなどという輩は眼中にないらしかった。他の女の子とは話をしたりからかったり、本やパズルを交換しあったりした。授業や勉強の計画について話し合ったり、時には祈祷会や討論倶楽部の帰りに送っていくこともある。だが、アン・シャーリーのことは完全に無視した。無視されてみるとアンにしても面白くなかった。頭をツンとして、別に気にならないわ、と心の中で言ってみても無駄なことだった。意地っ張りな性格の陰に隠れて、女心が大いに傷ついているのが分かっていた。もしまた先日の輝く水面の湖のようなチャンスがあれば、ずいぶん違った返事をするだろうことも。あっという間に、そう、アンにはあっという間に思えた、それに誰にも言えず一人悶々としていたのだが、これまで抱いてきたギルバートへの憎しみがすっかり消え去っていた――跡形もなく。今こそ憎しみをバネに戦う力を湧き起こさなくてはいけないというのに。何をしても憎しみが戻らない。今まで起こった事件や、忘れ得ぬ出来事があった時にどう感じたかを逐一思い出して、これまでいつも体中に溢れんばかりだった怒りを奮い起こそうとしたが駄目だった。池の畔のあの日が、怒りの発作が最後のきらめきを見せた最後の場面になったのだ。いつの間にかギルバートを許していたのね、あれはもう昔の話になってたんだわ。だけど今更遅いのよ。
ともかくギルバートや他の人はもちろん、ダイアナにだって心の中を知られちゃいけないの。だからあたしは後悔なんかしてない、あんなに居丈高で嫌な女でなければ良かったのに、なんてあたしは思ってない! アンは「自らの心を忘却の深淵に隠し」てしまおうと固く決意しており、まずは大変巧く実行したと述べておくことに留めよう。確かにアンはとても巧く気持ちを隠せた。ギルバートは見かけほど無関心ではいられなかったので、せっかく仕返しに軽蔑してみせても、アンが痛くも痒くもなさそうだからガッカリしていた。気休め程度にすぎなかったが、チャーリー・スローンも不幸だったのがせめてもの救いだった。ちょっかいを出しては、容赦なく、相も変わらず、必要以上に肘鉄砲を食らっていたから。
そうした事を除けば、今年の冬は家事も勉強もまた楽し、と思っているうちに過ぎ去っていった。アンにとっては一日一日が貴重で、今年一年というネックレスからこぼれ落ちる黄金のビーズのように、毎日が輝いていた。幸せで、やる気十分、いつだって面白い発見があった。学ぶべきことがあり、勝ち取るべき名誉があった。読みたい本もたくさんある。今度、日曜学校の聖歌隊で練習する新曲も待ち遠しい。アランさんと牧師館で過ごす楽しい土曜の午後。そして、いつしかグリーン・ゲイブルズにまた春が訪れた。今年もあたり一面に花が咲き誇る季節になったのだ。
そんなわけで、勉強にもちょっぴり気乗りがしなくなってきた。クイーン組だけが学校に居残って、他のみんなは新緑が眩しい小径や、森の木陰に続く道、牧草地の脇道へと三々五々に散っていくのだ。残った生徒達が窓から羨ましそうに外を眺めている。ラテン語の動詞もフランス語の練習問題も、どうしたものか味も素っ気もなくなっていた。身を切るような冬の間はあんなに素晴らしく見えたのに。アンとギルバートでさえ集中力が散漫になり、投げやりになってきた。だから学期が終わると、教える側も教わる側もどちらも心底喜んだ。さっきから楽しい休みが目の前にちらついている。
「それにしても、この一年というもの皆さんは大変よく勉強しました」休み前日の夕方、ステイシー先生が生徒達を前にしてそう言った。「これで、大変素晴らしい休みを楽しめる身分になったのです。明日からは家の中に閉じこもっていないで、戸外で思う存分遊んで構いませんよ。次の一年間をやり抜くために、健康に気を配って気力と体力を養っておいて下さい。来年度こそ雌雄を決する年ですものね――入試前の最後の年なのですから」
「来年も教えてもらえるんですか、ステイシー先生?」とジョージー・パイが訊いた。
ジョージー・パイは、普段から何でもズケズケと口にするタイプだった。今回に限っては、クラスのみんなはそんなジョージーに感謝した。恐くて誰もステイシー先生に訊けなかったのだが、みんなが訊きたかったことだった。学校中に、来年はステイシー先生がアヴォンリーに戻らないという噂が広まっていて、戦々恐々としていたのだ――噂では、実家の近くの小学校で教えないかという誘いがあって、それを受けたとか受けないとか。クイーン組一同が、固唾を飲んで先生の答えを待ち受けた。
「ええ、そのつもりです」とステイシー先生。「他の学校に行くことも考えましたが、結局アヴォンリーに戻ることにしました。本当言うとね、ここにいるみんなの事が気になって、このまま放っておく気にならなかったの。だから今年もアヴォンリーに残って、最後まで面倒見てあげるわ」
「やったぜ!」とムーディー・スパージョン。ムーディー・スパージョンはこれまで一度も自分の気持ちを見せたりしなかったので、このあと一週間ほどは、思い出すたびに顔がほてって落ちつかない日々が続いた。
「ああ、あたしすごく嬉しいです」とアン、瞳を輝かせている。「良かったわ、ステイシー先生、もし噂どおり先生が戻ってこなかったら、ホントにガッカリだったと思うもの。もしアヴォンリーに代りの先生が来たら、きっと落ち込んで全然勉強する気がなくなるわ」
その晩、家に帰って来ると、アンは教科書を全部古いトランクに詰め込んで、屋根裏部屋に持って上がった。トランクに鍵を掛けて、鍵は毛布箱の中に放り込んでしまった。
「休みの間、学校の本は一切見ないことにしたの」とマリラに告げた。「今学期は一生懸命勉強したのよ、あの幾何だって、教科書の一巻目に出てくる命題を、どれも空で言えるまで読んで頭に叩き込んだんだから。もう記号が入れ替わっても大丈夫。現実的なことはもう飽き飽きしたから、夏の間は思う存分想像の花を咲かせるつもり。あ、心配しなくても大丈夫よ、マリラ。想像の花を咲かせると言っても、ちゃんと節度は守りますって。それはそうと、今年の夏は思いっきり楽しみたいな。だってもしかすると、あたしが子供でいられる夏はこれが最後なんだもの。リンドさんが言ってたわ、今年みたいなペースで背が伸びたら、来年はもっと長いスカートをはかなくちゃいけないって。あんたときたら足と目玉ばかり目に付いちゃって、なんて言われたわ。長いスカートをはくようになったら、感じ方もそれなりにしなくちゃいけなくなるだろうし、品のある行動をしないとね。そしたら妖精を信じるのもやめないといけなくなるかも。だからこの夏は心の底から妖精を信じることにするわ。みんな今年はワクワクするような休みになりそうなのよ。もうすぐルビー・ギリスが誕生パーティーを開くことになってるし、日曜学校のピクニックと伝道コンサートが来月の予定なの。それからバリーさんが、そのうちダイアナとあたしをホワイト・サンズ・ホテルに連れて行くから、そこでディナーを食べよう、だって。あそこじゃディナーは夕方に食べるのよね。ジェーン・アンドリューズが去年の夏に一度お食事に行ったの。素晴らしすぎて眩しいくらいなんだって。電燈とか花の飾り付けとか、泊まり客のレディーなんか素敵なドレスを着た人ばかりなのよ。ジェーンは、上流階級の生活を見たのは初めてだけど、死ぬまで忘れないって言ってたわ」
翌日の午後、マリラが木曜の援助会に来なかったわけを探りに、リンド夫人がやって来た。マリラが援助会に顔を見せないなんて、グリーン・ゲイブルズで何かがあったに違いない、と誰でも考えるのである。
「木曜にマシューがひどい心臓発作を起こしたのよ」マリラが理由を打ち明けた。「それでマシューを置いて出かけたくなかったの。ええ、そう、今はいつもどおりよ。でもこのところ前に比べてちょくちょく発作が起きてるから心配なのよ。かかりつけの医者からは、興奮することは避けるようにっていつも言われてるし。それは気にするまでもないわ。マシューがわざわざ興奮のきっかけを探し回ることなんかないし、今までだって一度もなかったもの。ただ、無理に働かないでもらいたいんだけど、マシューは働かないでいられないのよ、息をするなって言うようなものだわ。さあ、こっちにどうぞ、それ預かるわ、レイチェル。お茶は飲んでいくでしょ?」
「そうね、せっかくだからお邪魔させて頂くわ」とレイチェル夫人。お茶に呼ばれる事以外は考えてもいなかったのだが。
レイチェル夫人とマリラが客間で気楽に世間話をしているところに、アンがいれたてのお茶と焼き立てのビスケットを運んできた。ビスケットはサクサクと軽く、焦げ目がついていたりしない。さすがのレイチェル夫人もあらを探し出せない出来栄えだった。
「確かにアンは本当によく出来た子になったわね」とレイチェル夫人がかつての意見を撤回した。沈む夕陽の中、小径の端まで送る途中でマリラにそう言った。「あんたもずいぶん楽になったろうに」
「あの子のおかげで助かってるわ」とマリラ。「今じゃホントにしっかりしてるし、頼りになるわよ。そそっかしいのは絶対直らないんじゃないかって気にしてたんだけどね。それはもう直ったわ。今は何をさせても、あの子に任せておいて何の不安もないのよ」
「あの子がここまで変わってしまうなんて、3年前の初めて顔を合わせたあの日には思いもしなかったわ」とレイチェル夫人。「やれやれ、あの子が起こした癇癪、忘れるもんですか! あの晩、家に帰ってトマスに言ったのよ、『見てなさいよ、トマス、マリラ・カスバートはいつか思いっきり後悔するから、早まった事をするんじゃなかったってね。』だけどあれはあたしの読み違い。読み違いでホントに良かったわ。あたしはね、マリラ、自分の間違いをいつまでもウジウジと認められない人間とは違うの。ええそうですとも、あたしはそんなんじゃないわ、ありがたいことよ。あたしには確かにアンを見る目がなかったけど、不思議でも何でもないでしょ、あの魔女っ子ときたら、どこの誰よりも変わってるし、予想もつかない事をやらかしてくれるんだものねえ、まったく。他の子には当てはまる事も、アンにはからきし当てはまらないのよ。まったくもって驚き桃の木じゃない、3年でよくぞここまでになったわ。それも殊に眉目かたちがね。ホントに可愛い子になったじゃない、まあ、あの手の色白で目が大きいタイプは、どっちかって言うとあたしの趣味じゃないけど。もっと元気があって色つやのいい方が好みなの、例えばダイアナとかルビー・ギリスみたいな。ルビー・ギリスはホントに目立つでしょ。でも、どういうわけか――自分でも何でか分からないんだけど、アンが奇麗な子の中に混じっている時なんかね、たいして美人じゃないんだけど、他の子が野暮ったくて飾りすぎに見えるのよ――あの子は水仙って呼んでるけど、大輪の真っ赤なボタンの脇にひっそり咲いてる、真っ白な六月百合みたいなのよ、まったくね」
31章 小さな川が大きな川と出会うところ
アンは「素敵な」夏を、思う存分堪能した。ダイアナと二人で連れ立って、たいがいは外で過ごしていた。恋人小径にドライアドのおしゃべり泉、柳ヶ池もヴィクトリア島も、あきれるほど楽しくて、浮かれ騒ぐ日々だった。マリラはアンがあちこち放浪して歩いても反対しなかった。実は、ミニー・メイが喉頭炎を患った晩に呼ばれたスペンサーヴェイルの医者が、たまたまアンと会っていたのだ。まだ休みが始まったばかりの頃だったが、たまたま他の患者の診察に訪れた夕方、その医者はアンを厳しい目つきで検分すると、口元をへの字に曲げて頭を振った。そして人づてにマリラ・カスバートにこういうメモを届けさせたのだ。
「お宅のあの赤毛の娘は、夏中ずっと戸外で遊ばせて、本も取り上げておくこと。もっと元気に歩き回れるようになるまで、そうなさるがよろしい」
このメモを受け取ったマリラは、飛びあがって驚いた。もしこれに誠心誠意従わない場合は、結核でアンが死んでしまうと思い込んだのだ。そのため、この夏はアンにはこれまでになく輝きに満ちた夏休みであり、思う存分はしゃいでいられたというわけである。散歩して、舟を漕いで、果実を摘んだり夢を見たり、心ゆくまで夏を満喫した。9月になる頃には、目の輝きも動きの機敏さも元にもどり、足どりは、これならスペンサーヴェイルの医者も満足だろうというほどに回復していた。以前のような意欲満々、やる気充分なアンが戻ってきたのだ。
「あたし元気いっぱいで勉強を始められそうよ」屋根裏部屋から教科書を下ろしてくると、自信あり気に言った。「ああ、懐かしい我が友よ、また誠実な顔を見られて嬉しいわ――そうよ、あなたもよ、幾何さん。今年の夏は申し分なく素晴らしかったわ、マリラ。このあいだの日曜にアラン牧師がおっしゃってたけど、今や喜々として競争に臨む勇士の気分だわ。アラン牧師の説教って堂々としてるわよね? リンドさんに言わせると、アラン牧師さんは毎日のように進歩してるから、早々に町の教会に引き抜かれて、村がおいてけぼりになるのは覚悟しないといけないんだそうよ。新米の牧師さんをまた一から仕込まなくちゃいけないって。でもまだそう決まったわけでもないのに、悩んでみても始まらないわよね、マリラ? アラン牧師はまだいらっしゃるんだから、それを喜んだ方がずっと建設的だと思うけど。あたしが男なら牧師になってみたいな。神学が健全なら、人に良い影響を与えることができるもの。人前で素晴らしい説教をして、聞いてる人達の心を揺り動かせたら、きっとぞくぞくするわ。女はどうして牧師になれないのかな、マリラ? リンドさんに訊いたら、スキャンダルになるわよってびっくりされたわ。合衆国なら女の牧師だっているかもしれないし、きっといると思うけど、ありがたいことにカナダではそんな惨状に至っていないし、決してそうなって欲しくないわねっておばさん言ってた。でもどうして? 分からないわ。女だって素晴らしい牧師になれると思うけど。懇親会を催す時だの教会のお茶会とか寄付金集めなんか、始めるのも実際一生懸命になってやってるのも女よ。きっとリンドさんだったら教会監督のベルさんと同じくらい上手くお祈りできるし、練習を積めば説教だってできるはずよ」
「ああ間違いない、あたしもそう思うわ」と、さりげないマリラ。「仕事じゃないけど、いつも説教してまわってるからね。レイチェルが監督してくれるおかげで、アヴォンリーでは何一つ間違いがなくていられるわ」
「あのね、マリラ」と、いきなりアンが隠し事をぶちまけた。「聞きたいことがあるんだけど、マリラはどう思うか教えてほしいのよ。まえから深刻に悩んでたの――日曜の午後なんか、特にこういうことで考え込んじゃうの。あたし本当に善い人になりたいの。マリラやアランさんやステイシー先生といると、よけいに善い人になりたくて、どうすれば喜んでもらえるんだろう、何をすれば認めてもらえるんだろう、そういうことだけしたいなぁって思うの。だけどリンドさんといると、たいがいどうしようもなく天の邪鬼になって、しちゃいけないって今言われたことを、そのまましそうになるってわけ。いやおうなく誘惑されるちゃうのよ。ねえ、どうしてそんな風に感じちゃうんだろう? あたしが相変わらず悪い子で、反抗的だからだと思う?」
一瞬マリラはアンの真意を測りかねた。それから笑い出した。
「それならあたしも同罪だね、アン。レイチェルにはあたしもよくそんな思いをさせられるからね。あたしも時々思うわよ、さっきあんたが言ったみたいに、レイチェルなら人に良い影響を与えることができそうだって。ただしあんなに小うるさく、こうしろああしろ言わなかったらだけどね。うるさく小言を言うべからずって十戒の中に入れとけば良さそうなものだわ。やれやれ、こんなこと言うべきじゃないわ。レイチェルは善きクリスチャンだし、悪気があるわけじゃないんだから。アヴォンリーの中でもあんなに親切な人はいないし、どんな仕事だって怠けたり責任逃れしたことがないのよ」
「ああ良かった、マリラも同じように感じてるんだもの」と元気百倍のアン。「すごく勇気づけられたの。これでそんなに悩まなくてよくなるわ。でも、すぐにまた悩み事ができるんだろうな。次から次と増えるんだもの――またまた悩んじゃうのよね。一つ解決したと思うと、すぐに別のが待ってるのよ。大人になろうとすると、じっくり考えたり決めたりする事がたくさんできるんだわ。いつでも、あれを考えなくちゃとか、どっちがいいのかなとか忙しいのよ。大人になるって実際大変よね、マリラ? マリラにマシュー、アランさんにステイシー先生っていう強い味方がいるんだから、しっかりした大人にならなくちゃ。そうなれなかったら、あたしの責任だもの。責任重いな、一度しかない人生だしね。もしちゃんとした大人になれなくても、やり直しはきかないんだわ。今年の夏はね、2インチも背が伸びたのよ、マリラ。ルビーの所でパーティーがあった時に、ギリスさんに計ってもらったの。今度のドレス、長めに作ってもらって良かったわ。深緑のはすごく可愛いし、ひだ飾りをつけてくれるなんて、マリラって優しい。もちろん本当は必要ないのは分かってるけど、この秋はすそ飾りが流行りだし、ジョージー・パイなんかドレス全部にすそ飾りをつけてるもの。これで勉強もはかどるわ。すそ飾りがついてるんだなって頭の隅で感じられると、やる気がでるのよ」
「そりゃ、付けた甲斐があったわ」と、一歩譲るマリラ。
ステイシー先生がアヴォンリー校に帰ってみると、生徒全員がまた勉強する元気を取り戻していた。特にクイーン組は心機一転、気合を入れて待っていた。来たる年こそ最後の年であり、これまでも行く手にぼんやりと影を落としていたのだが、「入試」と呼ばれる運命の日が不気味な姿を現しつつあったからである。そのことを考えるだけで、誰一人気持ちが沈まない者はなかった。もし合格しなかったらどうしよう! アンはその冬、目がさめている間ずっと、不合格になるのではという思いに取りつかれていた。日曜の午後さえも同様で、道徳がどうとか、神様がどうとか考える余裕がほとんどなくなっていた。眠っている時には、惨めに入試の合格者リストを見つめている自分の夢を見た。そこにギルバートの名前が誇らしげに一番を飾っているのに、自分の名はどこにも見つからないのだ。
そんなこともあったが、その冬は楽しく忙しく幸せのうちに、あっという間に過ぎていった。学校の勉強も面白かったし、クラスのライバル関係にはかつてのように夢中になった。初めて考えたこと、初めて実感したこと、そして大きな夢に溢れた新世界と、まだ踏み込んだことのない新鮮で魅力的な知識の平原が、意欲に満ちたアンの目の前に洋々とした広大な姿を現した。
「丘の彼方に丘が見え、山にも山がそびえ立つ」
こうしたことの多くは、ステイシー先生の見事で注意深い、柔軟な教育方針のおかげだった。先生は授業の中で、生徒達に独力で考え、調べ、あるいは発見するよう促した。従来の踏みならされた道筋から足を踏み外してみることも推奨したので、リンド夫人や学校の理事会員などは、発作を起こしかねないほどだった。こうした人達には、昔風のやり方によらないすべての新機軸が、かなり胡散臭いものに映ったのだ。
勉強以外の社交関連でも、アンは活動の場を広げていた。これはマリラがスペンサーヴェイルの医者の処方箋を後生大事に守ったためで、時折外出する際にも、もう反対しなかったからである。討論倶楽部は盛況だったし、そこで何度かコンサートが催された。大人の集いといっていいようなパーティーも一、二度開かれた。そりで遠出したり、スケート遊びをしたりすることも多かった。
そうしているうちにアンも成長していった。あまり背が急に伸びたので、ある日マリラはたまげてしまった。二人並んで立ってみると、アンの方が背が高いではないか。
「まあ、アン、いつの間に大きくなって!」と、信じられないほどだった。そしてその後にため息が続いた。マリラはアンの背が伸びて妙にがっかりしていた。マリラが愛するようになった子はなぜかどこかに行ってしまい、ここにいるのは背の高い、生真面目な目をした15才の娘だった。考えぶかそうなまゆと、物怖じしない可愛い頭を備えていて、昔とは大違いなのである。マリラはこの娘のこともかつての子供同様に愛していたのだが、何かを失ったという奇妙に悲しい思いを感じていた。その晩、アンがダイアナと連れ立って祈祷会に出かけた折り、冬のたそがれ時にマリラは一人きりで、思う存分泣いてしまうことにした。ランタンを持って入ってきたマシューが、たまたまそこに出くわした。びっくりして穴のあくほど見つめられたものだから、これには涙を流していたマリラも思わず笑ってしまった。
「アンのことを考えていたのよ」と説明した。「あんなに大きな娘になって――きっと来年の冬には、あたし達を置いて遠くに行ってしまうんだわ。あの子がいなくなったら寂しいわ」
「いくらでも帰って来れるさ」とマシューが慰めた。マシューにとってはアンは変わらずに元気いっぱいの少女のまま、4年前のあの7月の夕方にブライト・リバーから連れてきたあのままなのだった。「それまでにはカーモディーに鉄道の支線ができてるはずだよ」
「いつでもそばにいるのとはわけが違うでしょ」とマリラが憂鬱なため息をついた。慰めなんか不要なのだ、悲しみの中に贅沢に浸っていることにしたのだから。「まあしょうがない――男はこういう事が分からないようにできてるのよ!」
アンに起こった変化のうち、体の変化以外にも目に見えてきたものがあった。ひとつには、かなりおとなしくなった。もしかすると以前にも増して考え事が増え、夢見ていたのかもしれない。しかし、それを口にすることは確かに少なくなった。マリラは気がついていたので、これも話題にしてみた。
「あんた、前に比べておしゃべりしなくなったね、アン、それに大げさな言葉も使わなくなったじゃない。何かあったの?」
アンは顔を赤らめ、ちょっとだけ笑うと、教科書をぱたんと閉じて、窓の外を夢見るように眺めた。大きなふっくらした赤いつぼみが、ツタの上に一斉に花ひらいていた。春の日差しに誘われたのだ。
「分からないわ――そんなにしゃべりたくないの」と、考え考え顎を人指し指で支えている。「素敵で綺麗なことを考えついたら、宝物みたいに心の中にしまっておいた方がいいわ。笑われたり、勘ぐられたりは好きじゃないもの。それにどういうわけか、大げさな言葉は使いたくないの。せっかく大人になったんだから、使っても構わないのにもったいないわね。大人に近づくって面白いこともあるんだけど、考えてたのとは違ってたわ、マリラ。憶えることも、やりたいことも、考えることもたくさんありすぎて、大げさな言葉を使ってる暇がないのよ。それに、ステイシー先生から、簡潔な言葉の方がずっと説得力があるし望ましいって言われたの。先生は、いつも小論文を書く時、無駄なく書くよう努めなさいって。初めは難しかったわよ。思いつく限り見栄えのする大げさな言葉で、文章を埋め尽くすことに慣れてたんだもの――それに次から次とそんな言葉が頭の中に湧いてくるのよ。でも今では慣れたし、この方がずっといいことも分かってるわ」
「物語倶楽部はどうなったの? だいぶ前から倶楽部のことを言わなくなったじゃない」
「物語倶楽部はもうやめたの。みんな時間がとれなくなったし――ともかくみんな飽きちゃったんだと思う。今考えてみると、恋とか、人殺しとか、駆け落ちとか、秘密だとか、よくあんな物を書いていたものだわ。時々ステイシー先生は作文の練習に物語を書かせるの。でも書いていいのは、実際のアヴォンリーの生活で起こりそうなことだけ。先生はとっても厳しくチェックするし、自分でもチェックさせられるのよ。あたしの作文がこんなに欠点だらけだなんて思わなかった。自分で探してみて初めて分かったの。もう恥ずかしくって、投げ出したくなったわ。だけどステイシー先生が、誰より自分に厳しく評価できるように訓練すれば、うまく書けるようになるからって。そんなわけで、ただいま実践中なの」
「入試まであとたった2ヶ月だわね」とマリラ。「うまく通りそうだと思う?」
アンは身を震わせた。
「分からない。時々、問題なく通りそうに思えるし――怖くてぞっとする事もあるし。みんな一生懸命勉強してるわ。ステイシー先生からも徹底的に教わってる。それでも通らないかもしれないもの。みんなそれぞれに弱点を抱えてるわ。あたしのは当然幾何。ジェーンはラテン語、ルビーとチャーリーは代数。ジョージーは算術。ムーディー・スパージョンは英国史で失敗しそうな悪い予感がするって言ってるわ。6月になったら、ステイシー先生は試験をすることにしてるの。入試と同じくらい難しくして、採点も厳密に行うのよ。これである程度入試の予想がつくわけ。さっさと終わってしまえばいいのにね、マリラ。入試のことで頭が一杯。時々夜中に目が醒めて、合格しなかったらどうしようって思うことがあるの」
「そりゃ、次の年も学校に行って、また受ければいいでしょ」と平気なマリラ。
「そんなぁ、あたしそんな度胸ないわ。落ちたら恥ずかしくてしょうがないわよ、特にギルが――他の人が合格してたら。試験でいつもうんとあがっちゃうから、本番では大失敗しちゃいそう。ジェーン・アンドリューズみたいに、落ち着いていられたらなあ。何があっても動じないんだもの」
アンはため息をついて、春の世界の魔力から、いやがる目を引き離した。そこでは、そよ風と青い空が手招きし、庭では緑が萌えていた。アンは気持ちを引き締めて、教科書に集中することにした。春はまた巡ってくるだろうけど、もし入試をうまく突破できなかったら、落ち込まずに春を楽しむなんて、とても無理な相談よね。
32章 合格者リストが公表される
6月の終わりとともに学期も終わり、ステイシー先生がアヴォンリー校で教鞭をとるのもこれが最後となった。アンとダイアナがその晩帰ってきたとき、すっかり沈んだ気分だった。赤い目とぐしょぬれのハンカチが紛れもなく物語っているのは、ステイシー先生のお別れの言葉が、3年前のフィリップス先生の時と同じくらい感動的だったということである。ダイアナは、エゾマツの丘のふもとから校舎を振り返って、深いため息をついた。
「何もかも終わりみたいじゃない?」ダイアナが暗い声で言った。
「あたしほど辛くないじゃない」とアン。ハンカチのまだぬれていない所を探そうと無駄な努力をしている。「今年の冬期にはまた学校に行けるじゃない。でもあたしは懐かしい学校とは永遠のお別れなんだわ――もし運が良ければだけど」
「前とちっとも同じじゃないのよ。ステイシー先生はもういないし、アンもジェーンもルビーもきっといないわ。今度は一人だけで座ることにするわ、だってアンがいないからって、他の人と仲良く座るなんてとてもできない。あ〜あ、みんなでいると楽しかったわね、アン? それも全部終わってしまうんだわ、考えるだけでも嫌」
大粒の涙が二つこぼれ、ダイアナの鼻の側を落ちていった。
「泣かないでよ、あたしもう泣きたくないの」と嘆くアン。「ようやくハンカチをしまっても、ダイアナの目に涙が溢れてくるのを見ると、あたしもまた泣いちゃうのよ。リンドさんの言うとおり、『から元気でも、ないよりまし』だわ。結局また来年度もここに戻ってくることになるわ。こういう気分の時は、落ちることしか考えられなくなるのよ。最近よくこんな気分になるの、不安になるくらい」
「あら、ステイシー先生の模擬試験ではすごい成績だったじゃない」
「ええ、でもあの試験ではあがらなかったもの。本番のことを考えると、想像できないかもしれないけど、心臓のあたりが冷えきってどきどきするの。それに受験番号が13番。ジョージー・パイなんか、縁起悪〜い、だって。あたしは全然迷信的じゃないし、番号なんて関係ないとは分かってるの。でもやっぱり13番じゃないほうがいいんだけどな」
「あたしも一緒に行ければいいのにね」とダイアナ。「そしたらきっと素敵な時間が過ごせるわよね? でも、毎晩詰めこみ勉強するんじゃ大変ね」
「そんなことないわよ、みんなステイシー先生と約束したの、教科書を開けたりしないって。詰めこみしてみても疲れて頭が混乱するだけだから、散歩でもして、試験のことは忘れて早めに寝た方がいいんだって。ありがたい忠告だわ。問題は実行が難しいことよ。ありがたい忠告ってそういうものなのよ。プリシー・アンドリューズに聞いたことあるけど、入試の週は毎晩ほとんど徹夜で、必死に詰めこんだんだって。あたしだって最低でもプリシーと同じくらい起きてることに決めたの。ジョセフィン叔母さんってとっても親切ね。町にいる間はブナ屋敷に泊まってらっしゃいって声をかけて下さったのよ」
「向こうにいる間、あたしに手紙書いてくれるでしょ?」
「火曜日の晩に書くわ、初日の結果を報告してあげる」と、アンが約束した。
「じゃ、水曜日に郵便局で待ち構えてるわね」と、ダイアナが誓った。
アンはその次の月曜日に町へ出発し、水曜日には、郵便局で待ち構えていたダイアナに、約束どおりアンから手紙が届いた。
親愛なるダイアナ殿(とアンは書きだした)
今、火曜日の夜です。ブナ屋敷の書斎でこれを書いてるの。昨日の晩は自分の部屋で一人っきりで、すっごく寂しかったわ。本当にダイアナと一緒だったら良かったのに。ステイシー先生との約束で『詰めこみ』できないでいるの。でも歴史の教科書を開けないでいるのは、以前みたいに、勉強しなくちゃいけないけど、物語を読みたくなるのと同じくらい難しいわ。
今朝、ステイシー先生が寄ってくれて、みんなで学院まで行ったの。途中でジェーンとルビーとジョージーの所にも寄ったのよ。ルビーに言われて手を触ってみたら、氷みたいに冷たかったわ。ジョージーなんか、あなたちっとも眠らなかったみたいじゃない、それじゃ体力不足で、試験に通っても教師免許のコースの厳しい勉強をこなせないわね、だって。年々歳々、道いまだ遠しよ、いつになったらジョージー・パイを好きになれることやら!
学院に着いたら、島中から何十人も受験生が集まっていたの。最初に見かけたのはムーディー・スパージョン。階段に座って何かぶつぶつ言ってるのよ。ジェーンが、一体なにしてるのって聞いてみたの。そしたら、九九を何度も何度も繰り返して、心を落ち着けてるんだって。頼むから邪魔しないでくれよ、途中でちょっとでもやめたら、怖くなって憶えたことを全部忘れちゃうんだから、でも九九を言ってる間は、何もかも丸く収まってくれるんだ、だもの!
試験を受ける教室の割り当てが済むと、ステイシー先生の付き添いはそこまで。ジェーンとあたしは一緒の机だったんだけど、ジェーンはすっかり落ち着いてるじゃない、うらやましかったわ。九九なんか絶対必要ないし、平静で、分別のあるジェーン! こっちは、あがってるのが顔に出てるんじゃないかとか、心臓がばくばくいってるのが教室中に響いてるんじゃないかとか思っちゃったわよ。それから男の先生が入ってきて、国語の試験用紙を配り始めたの。試験用紙を手にした時、両手が冷えきって、頭がぐるぐる回ったわ。そして恐怖の一瞬――ダイアナ、4年前マリラにグリーン・ゲイブルズにいてもいいか訊いた時とまったく同じ――それから頭の中が何もかもはっきりしてきて、心臓もまた打ちだしたの――忘れてたけどそれまですっかり止まってたのよ! ――この問題ならなんとか解けそうって分かったから。
お昼になると昼食を食べに一旦帰宅して、歴史の試験があるから午後には戻ってきたわ。歴史はかなり難しかったから、どの年に何が起こったか、わけが分からなくなっちゃってもう大変。けど、今日はけっこういけたと思うわ。でも、ああ、ダイアナ、明日は幾何の試験があるのよ。そのことを考えると、ユークリッドの本を開かないでいるのは、並々ならぬ決心が必要だわ。九九で少しでも楽になれるなら、今から明日の朝まで唱えたいくらい。
夕方になってから、他の女の子達に会いに足をのばしてみたわ。途中で、ムーディー・スパージョンがうろたえて歩き回ってるのに出会ったの。そしたら、きっと歴史を落としたよとか、僕が生まれてきたのは両親を悲しませるためなんだとか、明日の朝の列車で家に帰るんだとか、言いだすじゃない。あげくの果てに、ともかく勉強して牧師になるより大工の方が楽だろうし、だもの。元気だしなさいよって励まして、やっとのことで最後まで試験を受けるように納得させたわよ。そうでないとステイシー先生に申し訳ないからってね。時々男に生まれてればって思うこともあるけど、ムーディー・スパージョンを見てると、やっぱり女で嬉しいし、ムーディーの妹でなくて助かったわ。
寄宿先についてみたら、ルビーはヒステリー。国語の試験でとんでもない勘違いをしてるのが見つかったのよ。ルビーが元気を取り戻してから、みんなで山の手に繰り出して、アイスクリームを食べたわ。ダイアナも一緒だったらってみんな言ってたわよ。
ああ、ダイアナ、幾何の試験さえ終わってくれたら! でもね、リンドさんなら言いそうだけど、あたしが幾何で落ちようが、太陽の昇り沈みには関係ないんだわ。確かにそうだけど、だからって別にそれで気が休まるわけじゃないわよね。あたしが幾何を落としたら、太陽も昇るのをやめて欲しい!
あなたに忠実な
アン
幾何の試験も他の全ての試験も予定どおり終わり、アンは金曜の夕方に帰宅した。かなり疲れてはいたが、成績には自信がありそうな雰囲気だった。アンが到着した時にはダイアナがグリーン・ゲイブルズで待っていて、二人は何年も離れていたように再会を喜んだ。
「待ってたわよ、また戻って来てくれてホントに良かった。町にでかけたのが遠い昔のことみたい。ねえ、アン、どうだった?」
「どれも結構いけたわ、たぶんだけど、幾何以外はね。幾何は受かったかどうか分からないけど、背中がざわざわするほどいやな予感がするのよね、受かってないんじゃないかな。ああ、戻ってこれてこんなに嬉しいなんて! グリーン・ゲイブルズは世界で一番懐かしくて素敵な所よ」
「他の人はどうだったの?」
「女の子達はきっと受からないって言ってるけど、結構良かったみたい。ジョージーなんか、幾何は簡単だったわ、10才の赤ん坊でも解けるわよ、だって。ムーディー・スパージョンは相変わらず歴史を落としたって思ってるし、チャーリーは代数がダメだったんだって。でも実際どうなのか分かるはずもないし、こればかりは合格者リストが発表されてみないとね。2週間経たないと分からないことよ。だいたい、こんなにどきどきしながら2週間も待たされるなんて! 眠って起きたら、発表されてたってことにならないかなぁ」
ギルバート・ブライスがどうだったかは聞くだけ無駄なので、ダイアナはこれしか言わなかった。
「大丈夫、ちゃんと合格するから。心配しないの」
「上位で通らないんじゃ、合格しない方がまだましよ」と、一気に燃えあがるアン。アンには分かっていた――ダイアナも分かっていた――せっかく合格しても砂を噛むような不甲斐ない結果に終わってしまう、ギルバート・ブライスより上位でなくては意味がないのだ、と。
こんなことばかり気にかけていたから、試験の間、アンの神経は緊張で張りつめたままだった。それはギルバートも同じことだった。二人とも道で出会っても、お互い通りすぎるだけ、こういうことが10回以上も繰り返された。毎度そ知らぬ顔で、アンは頭をいつもよりつんとあげ、ギルバートが言いだした時に仲直りしておけばよかったといつもより深く後悔し、試験ではギルバートを負かしてやるぞといつもより強く誓うのだった。アンもどちらが上位になるかアヴォンリーの仲間内で噂になっていることは知っていた。ジミー・グラヴァーとネッド・ライトがこれで賭けをしていることも、間違いなくギルバートが勝つと、ジョージー・パイが言いふらしていることだって耳にしていた。だからこそ余計に、自分が負けたら恥ずかしくて我慢できそうにない気がするのだ。
とはいえ、他にもいい成績を望むもっと立派な動機があった。「上位合格」したかったのは、マシューとマリラの――特にマシューのためだった。マシューは、いつもアンが「島中を打ち負かす」んだといつも言っていた。さすがにそれは馬鹿馬鹿しくて望めもしないことで、いい加減な夢だとしてもちょっとどうかと思えた。でも少なくとも上位10人の内に入れること、これだけは実現して欲しかった。そしたらあたしの努力の結果を誇りに思って、マシューが優しい茶色の目を輝かせるのを見られるんじゃないかな。きっといい気分だろうな、想像のカケラもない方程式や活用変化の間に埋もれて、あれだけ一生懸命頑張って、こつこつ勉強してきた甲斐があったというものよ。
試験が終わって2週間も終わりに近づくころ、アンも郵便局「通い」を始めた。取り乱しているジェーン、ルビー、ジョージーの間に混じって、シャーロットタウン日報を震える手で広げる時は、身が凍るようで、今にも倒れそうで、入試の週に味わったのと同じくらい最悪の気分だった。チャーリーとギルバートも郵便局「通い」から超然とはしていられなかったが、ムーディー・スパージョンだけは頑なに郵便局に近寄ろうとしなかった。
「俺は根性ないから、平気の平左で新聞をのぞく気になれない」と、アンに打ち明けた。「合格したかどうか、誰かが不意に教えに来てくれるまで、待ってることにするんだ」
3週間が過ぎ去っても合格者リストの音沙汰はなく、アンの緊張もそろそろ限界に達してきた。食欲は哀れなほど落ちて、アヴォンリーの話題にも興味が失せていた。リンド夫人などは、トーリー党の教育監督官が取りしきっている限り、せいぜいこの程度がいいところだ、と鼻息が荒い。アンの顔色がさえないことや、何事にも熱が入らず、毎日午後になると郵便局から、のろのろと力ない足取りで家に帰ってくることが気になって、マシューは、次の選挙ではグリット党に投票せにゃならんかな、と真剣に悩み始めるのだった。
そんなこんなで迎えたある晩、待ちに待ったニュースがやってきた。アンは自分の部屋の開け放した窓辺に座って、しばしの間、試験の苦しみも浮世の苦労も忘れて、夏の夕暮れ時の美しさに酔いしれていた。花の息吹の甘い香りが下の庭から漂い、ポプラの木々が揺れて、さらさらと葉ずれの音が聞こえてくる。立ち並ぶモミの彼方の東の空は、西空が映えてかすかなピンク色。アンは、色の魂はこんな風に見えるのかな、と夢ごこちでこの世の不思議に想いを馳せていた。そんな時だった。飛ぶようにダイアナがモミ林の間を抜けて、丸木橋を越え、丘を駆け登ってきた。はためく新聞がその手に握りしめられている。
アンは飛びあがった。一目であの新聞に載っているものが分かった。合格者リストが発表された! 頭がぐるぐる回って、心臓が早鐘のように打ちはじめ、今にも破れそうだ。一歩も動けない。アンにはダイアナが部屋に来るまで1時間もかかった気がした。玄関を走り抜けて、ノックもせずに部屋に飛びこんで来た。それほど興奮していたのだ。
「アン、合格よ」ダイアナが叫んだ。「一番トップで合格――アンとギルバートと二人とも――同点なの――でもアンの名前が先よ。ああ、あたしも嬉しいわ!」
ダイアナは新聞をテーブルの上に放り投げ、アンのベッドに身を投げ出した。すっかり息が切れてそれ以上話ができなかったのだ。アンがランプを灯そうとしてマッチ箱をひっくり返し、5、6本もマッチを無駄にしたあげく、震える手でようやく火を灯すことができた。そして新聞をひったくった。間違いじゃない、あたしが合格してる――あたしの名前が二百人のリストの一番上に出ている! 生きていて良かったと思える瞬間だった。
「ホントにすごいわ、アン」ようやく起き上がってしゃべれるようになると、ダイアナが大いに誉めた。瞳が星のように輝いて夢心地なのに、アンが一言もしゃべらなかったからである。「お父さんがブライト・リバーから新聞を持って帰ったの、まだ10分も経ってないのよ――午後の列車で届いたのよね、郵便だとここに着くのは明日になるわ――それで、合格者リストがのってるのを見て、すっ飛んで来たのよ。全員合格よ、一人も落ちなかったわ。ムーディー・スパージョンもみんなも。ただしムーディーは歴史が条件付きだけどね。ジェーンとルビーは結構良かったわよ――真中より上よ――チャーリーもそう。ジョージーなんかきわどかったわ、ボーダーラインまであと3点なのに、見てなさい、先頭切って合格したみたいに威張るから。ステイシー先生が大喜びすると思わない? ね、アン、合格者リストの先頭に名前が載るってどんな感じ? きっとあたしなら、嬉しくてきっと頭がおかしくなっちゃうわ。今だって頭がおかしくなりそうなのに、アンったら冷静でさめてるのね、春の晩みたい」
「頭の中はくらくらしてるわ」とアン。「言いたいことは百もあるの。でも言葉が見つからない。こんなこと夢にも思わなかった――ううん、あたしも考えたことある、たった一度だけ! 一度だけ考えてみたの、『もし一番になっちゃったらどうしよう?』って。体が震えて止まらないのよね。だって、いかにも天狗で何様って感じじゃない、あたしが島中で一番になるかもなんて。悪いけどちょっと待ってて、ダイアナ。急いで畑まで行ってくるね、マシューに知らせないと。それから、街道沿いに二人でこの素敵なニュースを他の人にも知らせるのよ」
二人は納屋の向こうにある干し草畑に急いだ。そこではマシューが干し草を巻いていて、うまいことに、リンド夫人がマリラと小径の垣のところで立ち話をしていた。
「ああ、マシュー」大声で叫ぶアン。「合格したの、一番なのよ――あたしも一番なの! 自慢してるんじゃないわ、でもありがたくて」
「うむ、そうだな、いつも言ってたろう」とマシュー。合格者リストを見つめて大喜びである。「おまえなら島中が相手でもらくらく打ち負かせるってな」
「よくやったわ、たいしたもんね、アン」と、抑え気味のマリラ。チェックの厳しいレイチェル夫人の手前もあって、アンが自慢でたまらないのを取り繕おうというのだ。そんな心配を吹き飛ばすように、かの善人夫人は心からこう言った。
「この子はよくやったじゃないの、そう認めるのはやぶさかじゃないわ。あんたは誇っていいのよ、アン、まったく。あたし達みんな鼻が高いわ」
その晩アンは、大いに楽しかった夕方を、牧師館のアラン夫人との、短いが真剣な話で締めくくった後、自室の開け放した窓辺にそっとひざまずいた。月光の大いなる輝きが降り注ぐ中、感謝と願いをこめた祈りを、心から溢れてくるままつぶやいた。そこには、恵まれた過去を嬉しく思う心と、未来を目指す敬虔な想いがあった。白い枕に頭を横たえ眠りについた時、そこに去来する夢は、汚れなく光に溢れ、美しく、若い娘の夢そのものだった。
33章 ホワイト・サンズ・ホテルでのコンサート
「白のオーガンディーを着て行きなさいよ、絶対いいわ、アン」もうこれしかない、と勧めるダイアナ。
二人がいるのは東の切妻の小部屋。外はまだ黄昏時――雲一つない晴れた紺青の空に、素敵なこがね色を含んだ青が映える黄昏時だった。呪いヶ森の上にかかった大きな満月が、青白い陶から磨かれた銀へ、ゆっくりと輝きを増していく。大気は夏の快いざわめきに満ちていた――眠そうな鳥達のさえずりに、気まぐれなそよ風、遠くから聞こえるさざめきと笑い声が溢れていた。そんなことも知らぬげに、アンの部屋にはブラインドが下ろされ、ランプが灯されていた。大事に向けて準備におおわらわだったのだ。
東の切妻は、4年前のあの晩と比べて、まるで違った部屋になっていた。あの頃は、骨の髄まで寒さが染み込むほど剥き出しだった。そんなアンの部屋にも、少しずつ変化が忍びこんできた。マリラはあきらめ顔で見て見ぬふり、今では気持ちよく上品な寝ぐらに様変わりして、若い娘の部屋そのものだった。
ピンクのバラをあしらったベルベットのカーペットや、ピンクのシルクのカーテンという、以前のアンが描いた幻は少しも現実に近づかなかった。しかし、夢自体がアンの成長とあいまって進歩していったから、かなわぬ夢を悲しむことはなかっただろう。床を可愛らしいマットで覆い、淡い緑の美しいモスリンのカーテンが背の高い窓のいかつさを和らげ、気まぐれなそよ風に揺れていた。壁には金銀の錦織のタペストリーこそ掛けられていなかったが、代わりに上品なリンゴの花柄の壁紙が貼られていて、アランさんから送られた素敵な絵が数枚、壁のアクセントになっていた。ステイシー先生の写真は特等席を占めており、先生との懐かしい思い出を記念して、写真の下の棚に摘んだばかりの花を欠かさず飾ることにしていた。今夜は白ユリの花束で、芳わしい香りがかすかに部屋に漂い、香りの精の夢のようだった。「マホガニーの家具」も備えられていなかったが、本の詰まった白塗りの本棚と、クッションを敷いた柳の揺り椅子、白のモスリンで縁を飾った化粧テーブルに、古風な金めっき縁の鏡、この鏡のてっぺんのアーチには丸々した血色の良いキューピッドと紫のブドウが描かれていて、元々客間に掛けてあったもの、そして背の低い白塗りのベッドが置かれていた。
アンは、ホワイト・サンズ・ホテルで催されるコンサートのために、盛装しているところだった。このコンサートは、ホテルのお客達がシャーロットタウン病院の援助するために準備したもので、出し物を確保するため、辺りの町や村から素人の出演者が片っ端からかき集められた。ホワイト・サンズ・バプティスト聖歌隊のバーサ・サンプソンとパール・クレイは、デュエットの歌を頼まれていた。ニューブリッジのミルトン・クラークがバイオリンのソロ、カーモディーのウィニー・アデラ・ブレアはスコットランドのバラッド[#訳者注:民間伝承の物語詩]、スペンサーヴェイルのローラ・スペンサーとアヴォンリーのアン・シャーリーは暗誦をすることになっていた。
今のアンはもう言わなくなってしまったが、今回のことは「人生の一大イベント」だったから、すっかり虜になって興奮でわくわくしていた。マシューはうちのアンに与えられた名誉にすっかり鼻高々で、第七天国まで舞い上がっていた。マリラだって負けずに舞い上がっていたが、そんなことを認めるくらいなら死んだほうがましだったから、ぞろぞろと保護者もなしにあんな高級ホテルまで遊びに繰り出すなんて、若い者にはふさわしくないと言っておくことにした。
アンとダイアナは、ジェーン・アンドリューズと兄のビリーと一緒に、ツー・シーターの馬車で送ってもらうことになっていた。アヴォンリーの若者達は男も女もコンサートに行くことにしていた。コンサートの客は町からも大挙してやって来るはずで、コンサートが終わった後に出演者のための夕食が予定されていた。
「本当にオーガンディーが一番いいと思う?」と、アンが心配そうにお伺いをたてた。「青の花柄のモスリンほど可愛くないと思うんだけど――それにあまり流行りじゃないのは確かだし」
「でもね、この方がずっと似合ってるわよ」とダイアナ。「柔らかいし、フリルがついてるし、体にぴったりよ。モスリンのは生地が硬いでしょ、いかにも盛装してるように見えるの。でもこっちのオーガンディーのは自然な感じなのよ」
アンはため息をついて折れることにした。このところダイアナは、服の着つけの趣味がいいことで有名になりつつあったので、こういう事に関しては引っ張りだこで、アドバイスを求められることが多かったのだ。今日という格別の晩に、ダイアナはとても可愛らしく装っていて、アンが永久に着ることができない、素敵な野バラのピンク色のドレスを着ていた。しかし、ダイアナはコンサートで何か演じるわけではないので、自分の外見は後回しだった。アンのためにできることは骨惜しみせず何でもやった。ダイアナは誓ったのだ、アンを何としても、アヴォンリーの名誉のため、趣味よく装わせなくてはいけない、服も、髪型も、飾りも完璧にと。
「そのフリル、もうちょっと出して――そう。さてこっちね、サッシュを結ぶわよ。今度は上靴ね。髪は2つに編んで、大きな白いリボンで中ごろを結ぶわ――だめ、カールは額に出さないで――ふわっと分けるだけ。他の髪型よりこれが一番よく似合うのよ、アン。それに、こうして髪を分けると聖母のようだって、アランさんがおっしゃるもの。耳の後ろに小さな白バラを留めておくわね。これ、あたしの鉢植えに一つだけ咲いてたの。アンのために残しておいたのよ」
「真珠のネックレスをつけたいんだけど、どうしよう?」とアンが水を向ける。「マシューが先週、町で買ってきてくれたのがあるの。つければきっと喜んでもらえるわ」
ダイアナは口をすぼめて、値踏みするように黒髪の頭をかしげたが、最後には着けても構わないとお許しを出したので、ネックレスはアンのほっそりした乳白色の喉元に結ばれることになった。
「なにかこう、とっても気品があるのよ、アンって」とダイアナ。自分のことはすっかり忘れて見とれている。「胸をはって、頭がしっかり上がってるでしょ。体つきのせいかしら。あたしなんかずんぐりむっくり。ずっとこうなりそうで恐かったんだけど、案の定よ。あ〜あ、もうこれで我慢するしかないわ」
「でもえくぼがあるじゃない」とアン。自分のすぐ側の可愛らしくて元気いっぱいな顔に、愛情をこめて微笑みを送った。「クリームがちょっとへこんだみたいな、素敵なえくぼだわ。あたし、えくぼの望みは諦めたの。あたしのえくぼは決して叶わぬ夢なのよ。けど、叶った夢もたくさんあるもの、文句は言えないわ。これで全部出来上がり?」
「全部出来上がり」と、ダイアナが太鼓判を押した。ちょうどその時マリラが戸口に顔を出した。やつれて、かつてより髪に白いものが目だち、肉付きが悪くて角ばっているのは変わらないが、ずっと柔らかな顔つきになっていた。「どうぞ入って、我らが朗読家はいかがかしら、マリラ。どう、素敵じゃない?」
マリラは何か言ったが、フンともウーンともつかないものだった。
「小綺麗できちんとしてるじゃない。その髪型は悪くないわ。だけど、向こうに着いたら土ぼこりや夜露やらで、そのドレスはめちゃめちゃになりそうね。それに薄すぎるんじゃないの、こんな湿っぽい晩には向かないわ。とにかくオーガンディーはほんとに見かけ倒れの生地だからね。買って来た時、マシューにはそう言っといたんだけど。でも近頃じゃマシューには言うだけ無駄なのよ。前はあたしの言うことを聞いてたこともあるけど、今じゃアンのためなら何でも買いこんで聞く耳持たないし、カーモディーの店員も心得たもので、何でも押しつけるときたもんだわ。これは可愛いとか流行りだとか言うだけで、マシューはほいほいお金を投げ出すんだからね。スカートを車輪に引っ掛けないように気をつけなさい、アン、それとジャケットを着て暖かくして行くのよ」
そう言ってマリラはゆっくり階段を降りていった。頭の中では鼻高々で、今晩のアンはなんて愛らしいのだろう、
「月光が一筋、額から頭の上まで照らし」
ているようだと思い、自分もコンサートに行って、うちのアンが暗誦するのを聞ければ、と残念がった。
「このドレスのままじゃ、実際湿っぽすぎるんじゃないかな」と、心配になるアン。
「ちっともそんなことないわ」と、窓のブラインドを上げてダイアナが言った。「素晴らしい晩よ、露なんか降りないわ。あの月の光を見てよ」
「朝日が見える東向きの窓で良かった」と、アンがダイアナの方に近づいて行く。「見てるととっても素晴らしいのよ、向こうにずっと並んでる丘の上から朝になっていくでしょ、モミの尖ったてっぺんを通して曙光が映えるのよ。毎日新しい朝が始まって、最初の日差しを浴びると心が洗われるような感じがするの。ああ、ダイアナ、あたしこのちっちゃな部屋が大好き。どうしよう、この部屋に住めなくなってもやっていけるのかな、来月は街にいるっていうのに」
「今夜は出ていくことは言わないで」と、せがむダイアナ。「考えたくないわ、悲しくなるんだもの。今晩だけはパーッと楽しくしたいのよ。何を暗誦するの、アン? 緊張してる?」
「ちっとも。今まで人前でずいぶん暗誦したことあるし、今も全然気にならないわ。『乙女の誓い』を暗誦することに決めてたの。とっても泣けるのよ。ローラ・スペンサーは喜劇の暗誦をするんだって。でも、あたしは笑わせるより人を泣かせる方がいいわ」
「アンコールされたら何を暗誦するの?」
「アンコールなんて間違ってもないわよ」アンは軽くいなした。ただ、密かにアンコールを期待していないではなかったし、翌朝の朝食の席でマシューにそんな話を聞かせてあげる自分を、その前から思い描いていたのだ。「ほら、ビリーとジェーンが来たわよ――馬車の音が聞こえたもの。行きましょ」
ビリー・アンドリューズに、ぜひ自分と前に座るように言われて、しかたなくアンは前の席に上がることにした。後ろの席で他の女の子達と一緒に、心ゆくまで笑ったりおしゃべりしている方がずっと良かったのだが。ビリーとは笑ったりもおしゃべりもほとんどなかった。ビリーは今年二十歳の、大柄で太りぎみ、ぼうっとした若者だった。加えて、丸顔で表情に乏しく、痛ましいほどの会話下手である。そんなビリーでも、アンに非常にあこがれていたので、このドライブが嬉しくてしかたがなかった。このほっそりしてきちんと居住まいを正した人を、ホワイト・サンズまで乗せて行けるのだから。
アンは、肩越しに後ろの女の子達としゃべるという芸当をしながら、時たまビリーにも礼儀程度に言葉をかけてあげていた――一方のビリーは、にやにや、くすくすするだけで、返事を思いついた時にはもはや手遅れというありさま――それにもかかわらず、アンはこのドライブを楽しむことができた。今宵はみんなで楽しむ晩なのだ。街道はホテルに向かう軽馬車でごったがえし、街道沿いに銀のように澄んだ笑い声が、何度もはっきりと響き渡っていた。ホテルに到着すると、天井から床までまぶしいほどの光で照明されてた。コンサート委員会のご婦人達に出迎えられ、その一人に連れられて、アンは出演者の控え室に通されたが、すでにシャーロットタウン・シンフォニー・クラブの面々でいっぱいだった。その中に入ると、アンは突然臆病風に吹かれて恐くなり、自分が田舎じみているように感じた。着ているドレスも、東の切妻の部屋ではとても上品で可愛らしく見えたのに、今はあっさりで地味に見えた――これじゃあっさりで地味すぎよ、まわりはみんなシルクとレースで輝いて、衣ずれの音をたてているっていうのに。真珠のネックレスだって、隣の体格のいい威厳のあるご婦人のダイヤモンドに比べたら、どれほどの物? ちっぽけな白バラが一つだけなんてみっともない、いったいどんな風に見られてるんだろう、他の人がふんだんに温室栽培の花で飾り立てているのに! アンは帽子と上着を預けると、落ち込んで隅で小さくなっていた。さっさとグリーン・ゲイブルズの白の部屋に帰れたらいいのに。
ホテルの大コンサート・ホールの舞台にあがると、事態はよけい悪化した。気がつくと、いつのまにかアンはそこにいたのだ。電灯で目がくらみ、香水とざわめきでうろたえていた。ダイアナとジェーンと一緒に観客席に座っていたかった。二人とも後ろの方で気楽に素敵な時間を過ごしているようだった。アンは恰幅のいいピンクのシルクを着た婦人と、人を見下したような背の高い白いレースのドレスの少女の間で肩身をすぼめていた。恰幅のいい婦人は、さっきから時折こちらに顔を向けて、何を探しているのか眼鏡の向こうからこちらをじろじろ見ている。うるさく見つめられることに殊のほか敏感なので、アンは大声で悲鳴をあげそうになった。白いレースの少女は、観客席の「田舎者」と「鄙小町」を肴に、隣席の人と聞こえよがしのおしゃべりを止めない。御当地の素人芸がプログラムにあるけど、わざわざご披露して頂けるなんて「お楽しみ」ね、と大して期待もしていなさそうだった。アンは、この白いレースの娘を死ぬまできっと憎み続けるだろうと思った。
その日のアンはついていなかった。ホテルに逗留していたプロの朗読家に依頼したところ、このコンサートで暗誦してもらえることになったのだ。さりげなく上品な黒い瞳の女性で、月光の糸を編みこんだような、ちらちら輝く灰色の生地でできたみごとなガウンをまとい、首元と黒っぽい髪に宝石をあしらっていた。驚くほど柔軟な声には、信じられないほどの表現力が備わっていて、観客はその演技に熱狂した。アンも、しばしの間、自分の立場も心配も忘れて、目を輝かせて夢中で聞き入った。しかしそれも暗誦が終わるまでのこと、突然アンは顔を両手の間に埋めた。こんな素晴らしい暗誦の後じゃ、絶対、舞台に立って暗誦なんかできない――絶対。どうして暗誦ができるなんて思い上がってたんだろう? ああ、グリーン・ゲイブルズに帰れたら!
この最悪のタイミングを待っていたいたかのように、アンの名が呼ばれた。どうしてそうできたか分からないが、アンは――白いレースの少女がはっと驚いて気まずそうな顔をしたのには気づかなかったし、もしかするとほんの少し尊敬が混じっていたと理解もできなかっただろうが――ぎくしゃくと立ちあがって、ゆらゆら足を動かして舞台正面に出た。あまり真っ青だったので、ダイアナとジェーンは観客席の中でお互いの両手をぎゅっと握りしめ、不安におののきながら、アンのことを案じていた。
アンは、大舞台の圧倒的な雰囲気にあっさり飲まれてしまったのである。何度も人前で暗誦したことがあるといっても、これまでこんな大勢の聴衆を前にした経験は一度もなかったので、その光景で頭が麻痺して、体から一切の活力が奪われてしまったのだ。何もかもが見慣れず、きらびやかで、思考を奪うものばかりだ――イブニング・ドレスに身をつつみ観客席にずらっと並んだご夫人達、いつでもあらを探してやろうという顔、顔、顔、そしてどこを向いても富と教養の雰囲気が鼻をつかんばかり。討論クラブの飾り気のないベンチから見るのとは大違いだった。そこには馴染みの友人や近所の人達の好意的な顔があった。でもここにいるのは、きっと情け容赦なく批判する人達ばかりなのよ。きっと白いレースの女の子みたいに、あたしの「田舎臭い」演技で楽しもうというんだわ。希望もなく助けもなく、アンは恥ずかしくて惨めだった。膝がぶるぶる震えて、心臓がどきどき打っている。今にも気絶しそうで恐ろしい。うんともすんとも声が出ない。ああ、もう駄目、舞台から逃げ出してしまおう、大恥をかいて一生の傷になっても構わない。
だがその時突然、怯えて大きく見開いた瞳で大勢の観客の面々を呆然と見つめていると、会場のずっと後ろにいたギルバート・ブライスが目に入った。身を乗りだして顔に笑みを浮かべている――笑ってる、勝ち誇ってる、あたしを嘲笑ってる。実際には、そういう意味で笑ったのではなかったのだ。ギルバートが笑顔だったのは、ただ、こうした大きなイベントに対して普通に感心していたのと、アンの白い服に包まれたほっそりした姿と知的な顔が、シュロを背景に醸し出す印象が素晴らしかったからだった。ジョージー・パイはギルバートに送られてきて隣に座っていたが、その顔にこそ勝利と嘲笑の両方が浮かんでいた。しかしアンにはジョージーが目に入らなかったし、目に入ったとしても気にしなかっただろう。アンは大きくひとつ深呼吸をしてから、すっと頭を上げた。勇気とやる気が、電気でしびれたようにびりびりと体中を駆け巡った。あたしは何としてもギルバート・ブライスの前では負けられない――あいつに笑われるなんて絶対ありえない、絶対、絶対! 恐ろしさも緊張も完全に消え去った。アンは暗誦を始めた。透き通った心地よい声が、震えもせずよどみもせず会場の隅々まで届いた。落ち着きは完全に戻っていた。先ほどの頼りなく恐ろしかった瞬間の反動で、今までにないほどの出来だった。暗誦を終えた時、心からアンを称えるはじけるような拍手が鳴り響いた。はにかみと喜びで頬を染めながら席に下がったアンは、気がつくと先ほどの恰幅のいいピンクのシルクの婦人に、握りしめられた手をぶんぶん振りまわされていた。
「ねえあなた、素晴らしい出来だったわ」と、べた褒めである。「あたくし赤ん坊みたいに泣いてしまったわ、ええ本当に。ほら、アンコールされてますよ――あなたにまた出てきて欲しいと待っているわ!」
「そんな、あたし行けません」と、とまどうアン。「それでも――行かなくちゃ、でないとマシューががっかりするから。きっとアンコールされるって言ってたんです」
「それではマシューをがっかりさせないようにね」と、ピンク婦人が笑った。
笑顔の頬を染め、澄んだ瞳で、アンは足取りも軽く舞台に戻った。アンコールでは一風変わった愉快な小品を取り上げ、これがいっそう観客の心を奪った。それ以降は、アンにとって少なからぬ勝利の夕べとなった。
コンサートが終わると、恰幅のいいピンク婦人が――この人はアメリカの百万長者の奥さんだった――何かと世話を焼いてくれて、みんなに紹介してまわった。会う人すべてが優しく接してくれた。プロの朗読家であるエヴァンズ夫人も軽くおしゃべりをしていった。アンは魅力的な声をしているし、作品の「解釈」が素晴らしかったとのことだった。白レースの少女さえも気のないお世辞を言ってくれた。その後、美しく飾りつけられた広いダイニング・ルームでの夕食となった。ダイアナとジェーンもご相伴にあずかっていた。二人ともアンと一緒に来ていたからだが、ビリーの姿はどこにも見当たらなかった。こうした招待が死ぬほど恐かったので姿をくらましたのだ。とはいえ、全てが終了し、3人の楽しげな娘達が、ホテルから穏やかな真っ白く月光が輝く戸外に出てくると、ビリーが馬と共に3人を待っていた。アンは深く息を吸い込むと、影になったモミの枝の向こうに広がる透き通った夜空に見入った。
ああ、混じり気のない静かな夜をまた味わうことができるのは、なんて素晴らしいんだろう! 何もかも、なんと偉大で静かで奇跡のようなんだろう。海のつぶやきが響き、向こうの暗がりにそびえる岩壁が、魔法をかけられた海辺を守る険しい顔の巨人のようだ。
「何ともいえないほど素晴らしかったじゃない?」と、馬車の上でジェーンがため息をついた。「お金持ちのアメリカ人だったらなあ。夏をホテルで過ごしたり、宝石をつけたり、ローネックのドレスを着たり、毎日毎日アイスクリームやチキン・サラダを食べたりできるのに。きっと学校で教えるよりずっと楽しいはずよ。アン、あなたの暗誦、すごかったわよ。もっとも最初は、いつまでたっても始まらないのかと思ったけど。エヴァンズ夫人のより良かったわ」
「もうっ、やめてよ、そんな馬鹿なこと言わないで、ジェーン」アンがすぐ言い返した。「そんなのおかしいわ。エヴァンズ夫人のよりいいはずないじゃない。あっちはプロなのに、こっちはただの学生よ、暗誦がちょっとうまいだけ。会場の人達があたしの暗誦で喜んでくれたなら、もうそれで充分」
「お誉めの言葉を頂戴してるわよ、アン」とダイアナ。「少なくとも誉め言葉に違いないわ、あの人の話し方から考えるとね。とにかく、誉め言葉が含まれていたわ。ジェーンとあたしの後ろにアメリカ人が座ってたの――すっごくロマンチックな顔つきの人で、黒炭色の髪と目をしてたわ。ジョージー・パイから聞いたんだけど、あの人は著名な画家で、ボストンにいるジョージーのお母さんのいとこが、その人と同じ学校に通ってた人と結婚したんだって。それはさておき、その人がこう言ってたの――ね、ジェーン? ――『舞台のあの娘は誰だい? 素晴らしいティツィアーノの髪だな。いい顔をしてる。描いてみたいよ。』ほら、どう、アン。でもティツィアーノの髪ってどういうこと?」
「早い話が、ただの赤毛ってことね、たぶん」アンが笑った。「ティツィアーノっていうのはとっても有名な画家で、赤毛の女性をよく描いた人なの」
「ねえ、会場のご婦人方のつけてたダイアモンド見た?」と、ジェーンのため息。「まったくまぶしいくらいだったわ。贅沢してみたくない、みんな?」
「あたし達、贅沢してるじゃない」と、自信ありげなアン。「ほら、あたしたち、これまで生きてきた16年という財産があるし、どの女王様にも負けないくらい幸せよ。それに、多かれ少なかれ想像力の持ち合わせがあるもの。あの海を見てよ、みんな――ありとあらゆるものが、輝く銀と陰影と見えざる物の幻でできてるみたい。たとえ何百万ドル持っていても、ダイアモンドのネックレスを何十本かけていても、この素晴らしい景色をもっと楽しめるわけじゃないもの。だいたい、もし代れたとしても、代りたいような人なんかいなかったでしょ。あの白いレースの女の子みたいに、ずっと一生、服やネックレスだけじゃなく、意地悪な仮面もつけていたい? あれじゃ生まれた時から世の中を馬鹿にしてきたみたいじゃない。ピンク婦人も同じ。親切で優しいのは確かだけど、あんなに太って背が低いから、プロポーションなんかあったもんじゃないわ。エヴァンズ夫人だってそう。あの人の目、悲しくて悲しくて堪らないように見えたでしょ? きっと、すごい不幸に見舞われたことがあるから、あんな風に見えるのよ。これで分かったんじゃない、うらやましくなんかないのよ、ジェーン・アンドリューズ!」
「そうとは限らないわよ――必ずしもね」と、納得いかないジェーン。「ダイアモンドがあれば、心が休らぐことだってかなりあると思うな」
「まあともかく、あたしは自分以外の誰かになんかなりたくないわ。たとえ一生ダイアモンドで心が休らぐことがなくてもね」と、これがアンの結論だった。「あたしは、真珠のネックレスをつけたグリーン・ゲイブルズのアンで充分。マシューはこのネックレスと一緒に真心をくれたんだもの、マダム・ピンク婦人の宝石にだって負けてないわ」
34章 クイーン校の女学生に
それからの3週間というもの、グリーン・ゲイブルズはてんてこまいで、アンがクイーン学院に行く準備に追われていた。縫い物も山と残っていたし、相談ごとも取り決めごともたくさんあった。アンの引越し支度はかなり膨れ上がっていた。マシューがあれこれ世話を焼いたからだが、マリラが今回初めて、文句一つ言わずに、マシューがあれこれ買ったり、荷物を持たせたりするにまかせていたからでもあった。それだけではなく、こんなこともあった――ある晩、マリラは東の切妻まで、腕一杯に品の良い淡い緑の生地を持っていった。
「アン、これなら綺麗なライト・ドレスを作るにはいいでしょ。別に必要だとは思わないのよ、可愛いブラウスがたくさんあるからね。でも、たぶんしゃれた服が要るときもあるんじゃない、街の夜会とかパーティーとかそんな所に呼ばれないとも限らないし。ジェーンもルビーもジョージーも『イブニング・ドレス』とかいうのを作ったらしいじゃない。あんただけ何も持ってないというわけにはいかないわ。先週、アランさんにお願いして町で選んで頂いたの。仕立てはエミリー・ギリスに頼むからね。エミリーは趣味がいいし、仕上げも一番だし」
「ああ、マリラ、これ素敵だわ」とアン。「ありがとう、本当に。こんなに気をつかってくれなくてもいいのに――これじゃ日ごとに別れが辛くなるばかりよ」
緑のドレスは、エミリーの趣味が許す限り、縫いひだとフリルとギャザーをたくさんつけて仕上がってきた。ある晩アンは、マシューとマリラの親切にこたえて、そのドレスを着て台所で「乙女の誓い」を暗誦した。表情豊かに輝く顔と優雅な物腰をじっと見ているうちに、マリラの思いは、アンがグリーン・ゲイブルズにやってきた晩まで記憶を遡った。すると、まざまざと思い出がよみがえってきた。風変わりな怯えた子供が、あきれるような黄色がかった茶色の交織の服で立っている姿と、涙が溢れた目が訴えかける、心もはり裂けんばかりのあの表情が目に浮かんだ。そんな思い出にひたるうちに、マリラの目に涙がにじんできた。
「光栄だわ、あたしの暗誦で泣いてもらえるなんて、マリラ」と、アンはマリラの椅子の上に華やかに身をかがめると、聞いて頂いたご婦人の頬に気取ってバタフライ・キスをした。「ということは、大成功ってことね」
「悪いけど、あんたの暗誦で泣けたわけじゃないわ」とマリラ。詩なんぞで泣くなんて、そんな弱みを見せることなど、いさぎよしとはしないのだ。「ただ思いださないでいられなかったのよ。あの頃、あんたはまだまだ小さかったわ、アン。ずっと子供のままだったらと考えてたのよ。何をさせてもおかしな事ばかりだったけどね。今はもうあんたは大人になって、巣立って行こうとしてる。こんなに背が高くて格好良くて、こんなに――こんなに――見違えて、そのドレスを着るとすっかり別人だわ――アヴォンリーなんかの人じゃないみたいよ――そういうことを考えてたら、少しだけ寂しくなっちゃったのよ」
「マリラ!」アンはマリラのギンガムの膝に座って、マリラのしわの目立つ顔を両手ではさみこむと、一心に愛情をこめてマリラの目を見つめた。「あたしはちっとも変わっていないわ――本当にそうよ。ただ、少し不ぞろいなところを刈りこんだり、枝が伸びただけ。本当の私は――その陰にいて――同じままなの。あたしがどこに行こうが、みかけがどんなに変わろうが、そこはちっとも変わらないの。心の中は、いつだってマリラの小さなアンよ、マリラのこともマシューのこともグリーン・ゲイブルズのことも、毎日どんどん好きになっていく、一生好きであり続けるアンなのよ」
アンはみずみずしい若い頬をマリラの枯れたようなやつれた頬に寄せ、伸ばした手でマシューの肩を軽く叩いた。もしかするとマリラもその時なら、アンのように心の中を口に出す力を発揮できたかもしれない。しかし、性格や習慣に囚われて、どうしても口に出せなかった。ただかろうじてできたのが、目の前の愛しい娘に腕をまわし、優しく抱きしめることだけだった。心の中で、この娘を旅立たせなくて済めばと念じながら。
自分の目がぬれてきたような気がして、マシューは席を立って戸外に出た。紺青の夏の夜、満天の星空の元、いつになく心騒ぐまま、庭を横切ってポプラの生える木戸のところまで歩いて行った。
「うむ、そうだな、あの子はそれほど甘やかされちゃいないな」と、自慢げにつぶやいた。「時々口出ししたのも、結局そんなに悪くなかったようだ。利口で綺麗で、それに愛情豊かで。これは何より好ましいことだ。あの子はわしらに神が下さった賜物だ。スペンサーさんがただ手違いしただけにしても、あんな幸運はあるもんじゃない――あれが幸運の一言で済むならだが。そんなものじゃ片付かないに違いない。あれは神の摂理だった。全能の神が、わしらにあの子が必要なんだと見抜いて下さったからだろうな」
ついにアンが町に旅立つその日がやってきた。ある晴れた9月の朝、アンとマシューはみんなに見送られながら、馬車で出かけて行った。涙の別れはダイアナと、涙と無縁の実際的な別れは――少なくともマリラの側は――マリラと。だが、アンが行ってしまうとダイアナは涙を拭い、カーモディーのいとこ達とホワイト・サンズへ海辺のピクニックに出かけて、それなりに楽しく過ごすことができた。一方マリラは、不要な仕事に猛烈に打ちこんで、その日一日、激しい心の痛みを胸に感じながら働き通した――その痛みは、焼けつくような、食い入るような、こらえた涙でも洗い流せない痛みだった。しかしその晩マリラがベッドに入ると、刺すような惨めな思いが湧きあがってきた。廊下の端の切妻の小部屋に宿っていた、生き生きした若い命は、もういない。柔らかい寝息が聞こえてくることもない。マリラは枕に顔を埋めて、愛しい娘懐かしさにわっと泣き伏した。我に返った後でよくよく考えると、罪深い人間なんかにかかわってこんなに取り乱すとは、なんと不謹慎なことかとうろたえた。
アンと他のアヴォンリー出身の学生達は、時間どおりに町に到着し、そのまま学院に急いだ。初日はとても愉快で、興奮の嵐の中、見知らぬ学生どうしで挨拶したり、教授連の顔を覚えたり、クラス分けされたりするうちに過ぎていった。アンは、ステイシー先生に勧められた2年度の授業を受けることにしていた。ギルバート・ブライスが選んだのも同じ授業だった。これは教師の1級免許を2年でなく1年で取れるということだった。もちろんうまくいけばの話である。そして勉強量も多くて厳しくなるということでもあった。ジェーンとルビー、ジョージー、チャーリーにムーディー・スパージョンは、野心のうずきに悩まされることはなかったから、2級クラスで満足していた。アンは一人だけ別の教室に放りだされて、痛いほど寂しさを味わっていた。50人も学生がいるのに、部屋の向こうの背の高いとび色の髪の青年以外、一人も知った顔がいないのだ。知った顔といっても、こんな関係じゃ大して役に立たないわ、と思うとすっかり嫌になった。それでも、二人が一緒のクラスで嬉しかったのは否定できなかった。今まで続いたライバル関係をそのまま続けられるだろうし、もしその関係が失われたら、アンは途方にくれたことだろう。
「ライバルなしじゃきっと身の置き所がなかったわね」と思った。「ギルバートったらやる気充分じゃない。今、目標に決めたんじゃないかな、メダルを取る気ね。格好いい顎してるんだなぁ! 今まで全然気が付かなかった。ジェーンとルビーも1級クラスに来れば良かったのに。顔見知りができたら、借りてきた猫みたいに感じなくなると思うんだけど。この中のどの女の子があたしの友達になるんだろうなぁ。これ、本当に面白そうね、考えてみよう。もちろんダイアナとは約束したわよ、どんなに好きでも、クイーンの子とはダイアナより大事な親友にならないって。でも2番目に大事な友達の席ならたくさん開いてるものね。茶色の目の、紅色のブラウスのあの子なんか感じいいわ。目の覚めるような赤いバラってとこね。あっちにいる色白で金髪の子、さっきから窓の外をよそ見してるわ。素敵な髪だな。夢の世界のことで少しは話が合うかもね。あの二人のこと知りたいな――どんな人達なんだろう――仲良くなりたい、腰に腕を回して一緒に歩いたり、あだ名で呼びあう仲になりたいよね。でも、こっちは向こうを知らないし、向こうもこっちを知らないし、たぶん別に知りたくもないのよ。ああ、あたしは独りぼっち!」
その夜、日が暮れて、寄宿先の寝室で一人になると、アンはもっと独りぼっちになった。アヴォンリーの他の女の子と一緒に下宿するわけにはいかなかったのだ。みんな気にかけてくれる親戚が町にいたのである。ジョセフィン・バリー嬢がアンを下宿させたがったが、ブナ屋敷は学院から遠すぎて話にならなかった。かわりにバリー嬢は下宿先をみつくろい、マシューとマリラに、アンにぴったりの場所だと太鼓判をおしてくれた。
「そこの切り盛りをされてるご婦人は、かつての上流婦人でね」と、バリー嬢がいきさつを説明した。「旦那様が英国の士官だった方で、下宿人選びにはとても気を遣うのよ。これならアンも、いかがわしい人達と同じ屋根の下で暮らすこともないわ。お食事も結構だし、学院に近いし、閑静な所なの」
話を聞くとまったくそのとおりらしかったし、実際そのとおりだったのだが、アンを襲った初めてのホームシックの苦しみを和らげるには、あまり役に立たなかった。狭い小部屋を憂鬱そうに見まわしてみると、面白くもない壁紙が貼られた、絵一つ掛けられていない壁に、小さな鉄の骨組みのベッド、それに空っぽな本棚。グリーン・ゲイブルズの自分の白の部屋のことを思うと、喉がぎゅっと締め付けられた。あそこなら、部屋の中にいても外の様子がきっと手に取るように、心地よく感じていられたのに。静かな戸外に生い茂る緑、庭に育ったスイート・ピーと果樹園を照らす月の光、坂の下を流れる小川、その向こうの夜風にそよぐエゾマツの枝、広大な満天の星空、それから木々の間にきらめくダイアナの部屋の窓あかり。でもここには、そんなものは何もない。窓の外にあるのは、舗装された固い道路と、空を締め出すほどの網の目のような電話線、見知らぬ人達の重い足取り、それに千もの明かりでかすかに照らされた馴染みのない顔だけ。このままでは泣きだしてしまう、なんとかしなくちゃ。
「泣いちゃだめ。馬鹿みたいじゃない――それに弱虫よ――これで涙が3粒目、鼻の脇を流れてはねちゃった。また流れそう! 何か笑える事を考えて止めないと。でも笑える事はどれもアヴォンリーにつながってる、よけいひどくなるばかりじゃない――4つ――5つ――今度の金曜日には帰れるんだから。でも100年先のことみたい。ああ、今ごろマシューが帰るころよね――マリラが木戸の所で、小径の向こうからマシューが来ないか探してる――6つ――7つ――8つ――これじゃ、数えても意味ない! もうすぐ洪水みたいに溢れてくる。もう元気になんかなれない――元気になんかなりたくない。落ち込んでる方がまだましよ!」
きっと涙の大洪水が起こっていたはずだった。もしその時ジョージー・パイが現われなければ、間違いなく。見知った顔に会えたのが嬉しくて、アンは自分とジョージーとの間に失って惜しむほどの何物もなかったのを忘れていた。アヴォンリーの生活の一部としては、パイ家の一人でさえ嬉しいお客さんだったのだ。
「嬉しい、来てくれたのね」アンは心の底からそう言った。
「泣いてたんでしょ」いきなりジョージーが突っ込んだ。腹が立つほど哀れんで下さる。「ホームシックなんじゃない――いるのよね、そういう面で自制がきかない人って。ホームシックなんてごめんだわ、これほんとよ。町にいると楽しいわ、みっともなくて古臭いアヴォンリーとは月とスッポン。あんなところ、長いことよくいられたもんよ。泣いてどうするの、アン。似あわないわよ。鼻も目も赤くなっちゃって、それじゃ顔中全部赤ばっかじゃない。今日の学院はものすごくめちゃ楽しかったわ。うちのフランス語の教授ってとっても可愛いのよ。お髭を見てるとどきどきしちゃう。何か食べる物ない、アン? あたし、お腹ぺっこぺこ。これこれ、きっとマリラのケーキをわんさか持ってきてるだろうと思った。あたしが寄り道したのはそういうわけ。でなきゃ、フランク・ストックレーと公園にバンドの演奏を聞きに行ってたわ。彼、あたしと同じ所に下宿してるの、あの人、なかなか悪くないわ。今日あなたがクラスにいるのに気が付いて、あの赤毛の子誰って訊かれたの。あの子、カスバート家で引き取った孤児で、その前にどんな風に育ったか誰もよく知らないのよって教えといたわ」
アンが、ジョージー・パイと一緒にいるより、結局、一人きりで閉じこもって涙にくれてる方がまだ気楽なんじゃないかと考えている時、ジェーンとルビーが現われた。二人とも短いクイーン学院のカラー・リボンを――紫と真紅の――自慢げにコートにピンでとめていた。ちょうどその時、ジョージーはジェーンと「口をきか」ない関係だったので、これで少しはジョージーの毒も薄まったわけである。
「参ったわ」ため息をついてジェーンが言った。「朝から何ヶ月も経ったみたいな感じよ。本当は家でウェルギリウスの宿題しなきゃいけないの――あのいけ好かないお爺ちゃん教授が、明日20行やるから予習しておくようにだって。でも今晩だけはじっと座って勉強なんかしてられない。おやぁ、アン、それはいったい何かなぁ、泣いた跡が残ってるじゃない。泣いてたんならすっかり白状しちゃいなさい。これであたしも自尊心を保てるわ。だってあたし、ルビーが来るまで恥ずかしげもなく泣いてたんだもの。他にも誰かお馬鹿なら、自分がお馬鹿でもあまり気にならないわ。あら、ケーキ? ちょっとだけ味見させてくれない? ありがと。これこそ本物のアヴォンリーの味わいだわ」
ルビーは、クイーン学院のカレンダーが机にのっているのに気が付いて、アンが金メダルを狙っているのか聞きたがった。
アンは顔を赤らめて、考えてはいると認めた。
「ああ、それで思いだした」とジョージー。「結局クイーンでエイヴリー奨学金の枠を一つ確保したんだって。今日決まったのよ。フランク・ストックレーが話してくれたわ――あの人の叔父さんが理事の一人なのよね。学院では明日発表されるわ」
エイヴリー奨学金! アンは心臓が早鐘のようにどきどき打ちだすのを感じた。野心の地平線が一変して大きく広がり、魔法にかけられたようだった。ジョージーがそのニュースを言いだす前には、アンが目ざす頂点は、頑張って1級教師の州内免許を年末に取得するというのがせいぜいだった。それに、あわよくばメダルも! だがこの瞬間、アンは自分がエイヴリー奨学金を勝ちとり、レドモンド大学の人文コースを受講して、ガウンと房のついた角帽という姿で卒業する姿が見えた。ジョージーの言葉が耳にこだまして、まだ消えずに残っている。エイヴリー奨学金は国語学に与えられるんだから、これなら得意分野じゃない。
しばらく前にニュー・ブランズウィックで工場を経営する裕福な社長が亡くなったのだが、遺言で財産の一部を奨学金として寄付し、沿海州にある様々な高校や学院の間で、たくさんの奨学金を学校ごとに適切に行き渡るようにしたのである。クイーンにも一人分が割り当てられるかどうか疑問の声が上がっていたのだが、結局結論が出て、年度末に国語学と国文学で最高の点数を得た卒業生が、奨学金を勝ち取ることになった――毎年250ドルの奨学金で4年間、レドモンド大学で学べるのである。アンがその晩、頬を紅潮させ、ぞくぞくしながら寝ついたことは間違いない!
「あの奨学金を勝ち取ってみよう、努力すれば報われるかもしれない」アンはそう決心した。「あたしが文学士になっちゃったら、マシューも鼻高々なんじゃないかな? ああ、突き進むべき目標を持つって、なんて素晴らしいことなんだろう。どこまで行っても決して終わりがなくて、いまだずっと先があるみたい――一番素敵なのはそこなのよ。ひとつ目標を成し遂げると、また一つ、もっと高いところにきらめいてるのが見えるんだわ。これこそ人生の醍醐味よね」
35章 クイーン校の冬景色
アンのホームシックは徐々に消えていった。なんといっても週末ごとに帰宅できたおかげである。秋晴れが続く間、アヴォンリーの学生達は、カーモディーまで新設された鉄道の支線を使って、毎週金曜日の晩に帰ってきた。たいがいはダイアナや他のアヴォンリーの若者達が出迎えに来ていて、アヴォンリーまでにぎやかに楽しく歩いて帰るのだった。アンにとって、こうして毎週金曜に、ひんやりした黄金色に染まる夕暮れを秋の丘々を越えて気ままに散策できるひと時は、一週間の内で一番素晴らしく大切な時間だった。
ギルバート・ブライスは、いつもと言っていいくらい、ルビー・ギリスと二人で歩いたり、鞄を持ってあげたりしていた。目鼻立ちがはっきりした美人のルビーは年若い淑女然としていたし、自分でもすっかり大人のつもりでいた。母親に口をはさまれない程度にスカートの丈をぎりぎりまで長くし、町にいる間は大人っぽく髪を上げていた。もっとも、家に帰る時はまた下ろさなくてはならなかったが。大きな青い瞳にすずしげな目元、光り輝く肌と人目を引く女らしい体つきが印象的なルビーは、大いに笑い、にこやかで気立てが良く、楽しいことは悪びれずありのままに楽しんでいた。
「でも、ギルバートが好きになるタイプじゃないと思う」と、こっそりアンに耳打ちするジェーン。心の中ではアン自身も賛成だったが、エイヴリー奨学金と引き換えにしても、そんなことは言えるわけがなかった。それと、あんな友達がいたらなあと思わないでもいられなかった。ギルバートと冗談を言ってふざけたり、本や勉強のこと、将来の目標なんかの事をおしゃべりできたら、きっとすごく楽しいだろうな。ギルバートもちゃんと目標を持ってるはずだけど、そういう話題にはルビー・ギリスじゃ役者不足かもね。
ギルバートに対するアンの気持ちには、特に深い意味はなかった。男の子のことを考えることがあっても、単に仲の良い友達になれるかもしれない相手としてだった。たとえギルバートと友達だったとして、他に何人友達がいようが、誰と仲良く歩こうが気にしなかっただろう。アンは友達作りの名人だった。女の子の友達はもうたくさんいる。一方で、男友達だって悪くないだけでなく、女友達だけでは得られないものを補えるだろうし、両方の良し悪しをより広い視点で捕らることができるだろうと、ぼんやり気がついていた。とはいえ、この点に関してアンが自分の感覚をこれほど明確に意識していたわけではない。それよりは、もしギルバートと一緒に歩いて帰ることがあり得るなら、汽車を降りて、ひんやりした野原を歩いたり、シダが茂みを近道したりしながら、二人の目の前に広がる新世界や希望や目標や、気楽な面白い会話をいろいろと楽しめたかもしれない、そう思っただけのことである。ギルバートは賢い若者になっていて、自分自身の考えをしっかり持ち、自分の可能性を最大限に引きだし、それに力を注いで最大限に伸ばしていこうという気概があった。以前、ルビー・ギリスはジェーン・アンドリューズに、こうこぼしたことがある。ギルバート・ブライスの言うことは分からないことだらけ。よくアン・シャーリーが突然何か考え込んじゃう時があるじゃない、あんな話し方なの。あたしの方では、必要もないのに本がどうとかそんなことを話題にされても嬉しくないのよね。その点、フランク・ストックレーならずっと軽いのりなんだけど、ギルバートほど顔が良くないし、どっちが一番好きか決められなくて困っちゃう!
学院にいる間、アンの周りには小さいながらも次第に仲間の輪が出来あがっていった。生真面目で、想像力豊かで、アン自身のように一生懸命な学生達の集まりである。「赤いバラ」の娘、ステラ・メイナードと、「夢見る娘」プリシラ・グラントとはすぐに親しくなったが、後になってわかったのは、色白で知的な雰囲気の乙女に見えたプリシラの方が、いたずら好きで悪ふざけとお祭り騒ぎが大好きなのに対して、生き生きした黒い瞳のステラは、物狂おしい夢や幻を溢れるほど抱えていて、ちょうど霞のような虹のようなアンの夢にも似ていた。
クリスマス休暇が過ぎると、アヴォンリー出身の学生達は金曜ごとに帰宅するのを諦め、腰を据えて勉強に身を入れだした。この頃には、クイーンの生徒達の間でお互いに格付けが行われ、誰もが収まるところに収まってきたし、どのクラスもそれぞれに鮮やかな独自色を定着させていった。同時に、おおむね誰もが認める事実もいくつかはっきりしてきた。メダルの競争相手は事実上3人に絞られてきた――ギルバート・ブライス、アン・シャーリー、ルイス・ウィルソンである。エイヴリー奨学金はまだ疑問の余地があるが、おおむね6人のうちの誰か一人が勝ち取ると思われていた。数学に設けられた銅メダルは、田舎から出てきた、突き出たおでことつぎはぎのコートがトレードマークの、背の低い太った変わり者の少年が取ることが確実視されていた。
ルビー・ギリスは今年度の学院一のハンサムで通っていた。2年度クラスではステラ・メイナードが美人の誉をさらったが、少数ながらファンのいるアン・シャーリーは、知る人ぞ知るという存在だった。エセル・マーは、髪型が流行の最先端をいっていると、有識者全員からお墨付きをもらっていたし、ジェーン・アンドリューズは――平凡でこつこつ努力型の真面目なジェーンは――家政学のコースでいくつもの名声を勝ち得ていた。なんとジョージー・パイさえ、クイーンに通う女生徒の中で、最も辛口の毒舌名人の名を欲しいままにしていた。このように、ステイシー先生の教え子達は、より広い学究の世界に進んでも充分健闘していた、と言っても構わないのではないだろうか。
アンは一生懸命、一歩一歩確実に勉強した。ギルバートとのライバル関係は引き続き激しいままで、アヴォンリーの学校にいる頃と変わらなかった。ただ、この事はクラス内でもそれほど知られておらず、どうしたものか、かつてのとげとげしさが消え失せていた。もはや、ギルバートをへこますために勝とうという気が、アンになくなっていたのだ。それよりも、戦うに足る相手と正々堂々勝ったという誇りのために勝ちたかった。勝利するのは素晴らしい、がしかし、勝つだけが人生とはもう思わなくなっていた。
学業に追われていたにもかかわらず、学生達は時間を見つけて楽しんでいた。アンは空いた時間をブナ屋敷で過ごすことが多く、日曜の昼食をそこでとって、バリー嬢と教会に行くのが常だった。バリー嬢は、自分でも認めているとおり年をとってきたが、黒い目はかすみもせず、舌鋒の鋭さだって少しも衰えてはいなかった。ただ、その切っ先をアンに向けることは絶対になかった。アンは相変わらずこの辛口の老婦人の一番のお気に入りだった。
「あのアン嬢ちゃんは、いつ会っても良くなる一方だわねぇ」とバリー嬢。「他の娘は飽きてしまったわ――癪にさわるし、いつまでたっても何も変わらないんだから。その点アンは虹みたいにいろんな色合いを見せてくれるし、どれを取ってもそれが一番素敵に思えるのよ。子供の頃ほど面白いかどうか分からないけど、あの子の方から好きになるように働き掛けてくるのよ。あたしは努力しなくても好きになれる人がいいわ。好きになる手間が省けるってものよ」
そして、気が付く人もほとんどいないまま、春がやってきた。アヴォンリーを見渡すと、枯れ野原にはメイフラワーがピンクの芽をのぞかせ始め、解け残った雪が花輪のようだ。そして「新緑のかすみ」がベールのように林や低地を覆っていった。しかし、ここシャーロットタウンの悩めるクイーンの学生達にとって、頭に浮かぶのも話題になるのも試験のことばかりだった。
「信じられないな、もうすぐ今学期も終わりか」とアン。「あ〜あ、去年の秋には、まだずっと待たないと終わってくれない気がしたのに――冬中勉強したり授業を受けたりだったもの。なのにこうして試験が来週に迫ってきてる。ねえみんな、時々試験がすべてのような気がすることもあるけど、あのクリの木に大きな芽がふくらんできたり、通りの端にかすみのかかった青空が見えると、試験なんかそれほど大切なものと思えなくなるわよ」
ジェーンとルビーにジョージーがアンの部屋に来ていたが、こうした見方には賛成してくれなかった。3人にとって、来たる試験はいつだって重要だった――クリの芽吹きや五月のかすみより遥かに重要なのである。少なくとも試験を通ることは確実だったので、アンとしては試験なんかと考えてもまったく問題なかった。しかし自分の未来がすべてこれにかかっているとなると――3人ともまさしくそう考えていたのだが――哲学的見地から眺めることなど到底不可能だった。
「この2週間で7ポンドもやせちゃった」ため息をつくジェーン。「気に病むなって言っても無駄。どうしても気に病んじゃう。気に病むだけで少しはましだもの――気に病んでると、何かしてるような気がするの。もし教員免許を取れなかったら最悪。冬中せっかくクイーンで勉強してさ、こんなにお金も使ったのに」
「あたしは気にしない」とジョージー・パイ。「今年通らなかったら来年また受けるし。うちのお父さんなら受けさせてくれるもの。アン、フランク・ストックレーから聞いたんだけど、トレメイン教授が、ギルバート・ブライスがメダルを取るのは確実だし、エミリー・クレイがエイヴリー奨学金を取るんじゃないかって言ってたんだってさ」
「明日になったら滅入ってるかもね、ジョージー」と、笑うアン。「でも今日のところは、全然違う気分。スミレが咲いてグリーン・ゲイブルズの下の窪地が一面紫になったり、恋人小径で小さなシダがぴょんと頭を飛びださせてたりしてるんだなって思うと、エイヴリーを取れようが取れまいが、大して違いはない気がするの。やるだけやったし、『戦う喜び』ってどういうことだか分かってきたもの。頑張って勝てればそれで良し、でもその次にいいのは、頑張って負けることなの。みんな、試験の話はもうやめ! あっちの建物の上の、あの淡い青空のアーチを見て。そして故郷の空を心の中に描いてみるのよ、アヴォンリーの向こうに広がる濃い紫のブナ林の上はどんなだろうって」
「卒業式では何を着るの、ジェーン?」と、ルビーが現実的に訊ねた。
ジェーンとジョージーが二人とも即座に乗ってきたので、話は横道にそれてファッション方面に流れていった。けれども、窓の敷居にひじをのせ、組んだ両手で柔らかな頬を支えているアンの目に浮かぶのは、他の誰にも見えない光景だった。町並みに連なる屋根や尖塔の向こう、燦然と輝く夕焼け空のドームをぼんやりと眺めながら、いつか実現しそうな夢の数々を、明るい希望という糸から黄金色の薄衣に編んでいけるのも、若さゆえだった。遥か向こうには自分だけの別天地が待っている。そこに植えられた可能性という名のバラの木には、来たるべき年のためいくつもの蕾がついている――そして毎年毎年、約束のバラが一輪、不滅の花冠に編まれていくのだ。
36章 栄誉と夢
全ての試験の最終結果がクイーンの掲示板に貼り出されるその朝、アンとジェーンは街の通りを連れ立って学校の方に歩いていた。ジェーンはにこやかで幸せだった。試験は終わったし、少なくとも通ることは確かなのでこれでひと安心だった。それ以上ジェーンが悩むべきことはまったくなかったのだ。天駆ける野心など持たなかったから、それに付きまとう不安に心乱されたりはしなかった。何事も、この世で何かを得ようとする者は、それ相応の対価を払わねばならない。高き望みを持つのは価値あることでも、望んだ結果を安く買い叩けるわけではなく、努力と自制というしかるべき税を払い、不安と落胆に耐えなくてはならない。青ざめて口もきけないアンだった。あと10分少しで、誰がメダルを勝ち取ったか、エイヴリーは誰なのか、知らされるはず。この10分が過ぎたあとも、意味のある「時」は流れているんだろうか。
「大丈夫、ともかく、どっちか一つはあんたが取るから」と、ジェーン。教授連だってそれほど不当ではないはずだし、きっと悪い結果にはならないだろうとジェーンには思えたのだ。
「エイヴリーの望みはないな」とアン。「みんなエミリー・クレイが取るって言ってる。あたし、みんな見てる前で掲示板まで堂々と歩いていって確認するなんてできない。情けないけど、そんな勇気ないの。まっすぐ女性用の控え室に行くことにする。発表を見るのは任せたわ、必ず結果を教えてよ、ジェーン。あたし達長い付きあいでしょ、お願いだからなるだけ急いで見てきて。もし落ちててもちゃんとそう言ってよ、回りくどい言い方はやめて。それから絶対に同情しないで。約束だよ、ジェーン」
ジェーンは厳かに約束した。が、その直後、こんな約束も必要がなくなった。二人がクイーンの入り口の階段を上がると、講堂は男子生徒がでいっぱいで、みんなでギルバートを肩にかついで回りながら、大歓声を上げていた。「メダリスト、ブライスに万歳!」
一瞬、青ざめ気分が悪くなるアン。挫折感と失望が胸を鋭くえぐったつまり、あたしが負けて、ギルバートが勝ったんだ! あ〜あ、マシューが残念がるだろうな――あたしが勝つってあんなに信じてたのに。
だがその時!
誰かが大声で叫んだ。
「エイヴリー受賞者、ミス・シャーリーに万歳三唱!」
「ああ、アン」息を飲むジェーン。心から万歳が唱えられているところを突っ切って、二人とも女性用の控え室に逃げ込んでしまう。「ああ、アン、あたしも嬉しいよ! 凄いじゃない?」
あっという間に二人は女子学生に取り囲まれ、アンは笑顔とおめでとうという黄色い歓声の真っただ中にいた。肩はばんばん叩かれるし、両手はぶんぶん振りまわされた。小突かれ引かれ抱きつかれ、そんな中でジェーンにはこう囁くのがやっとだった。
「ああ、マシューとマリラが喜ぶよね! すぐにこの結果を手紙に書かないと」
卒業式が次に控えた大イベントだった。式は学院の大講堂で開催された。祝いの辞を頂き、小論が読まれ、歌が歌われ、そして卒業証書と賞とメダルが授与された。
マシューとマリラも式に出席していた。二人の目と耳が向けられているのは、演壇の上のたった一人の学生――背が高く淡い緑の服の娘、ほのかに赤みがさした頬と星の輝きを持つ瞳で、最も評価の高かった小論を読み上げる、あれがエイヴリーの受賞者だと指差され囁かれている娘だった。
「あの子を置いて良かったと思うだろ、マリラ?」と囁くマシュー。アンが小論を読み終わると、講堂に入って初めて口をきいたのだ、
「別に今初めて良かったと思ったわけじゃないわ」と言い返すマリラ。「何回言えば気が済むのかしら、マシュー・カスバート」
二人の後ろに座っていたバリー嬢が顔を寄せて、手にしたパラソルでマリラの背を軽く叩いた。
「あのアン嬢ちゃんには鼻が高いんじゃない? あたしもよ」とバリー嬢。
その晩、アンはマシューとマリラと一緒にアヴォンリーの家に帰った。4月からずっと帰っていなかったので、もう一日も待てそうになかったのだ。リンゴの花が咲いて、世界中が生き生きと若がえっていた。ダイアナがグリーン・ゲイブルズで待ち構えていた。懐かしい白の部屋に入ると、マリラが育てたバラの鉢が窓辺に飾ってあった。アンは部屋全体を見まわして、大きく幸せを吸い込んだ。
「ああ、ダイアナ、良かったなあ、また帰ってこれて。向こうの尖ったモミが紅の空に映えているのもすごくいいし――あの花盛りで真っ白の果樹園と懐かしい雪女神も。ミントの息吹が香って素敵じゃない? それにそのティー・ローズ――そう、歌と希望と祈りが全部ひとつになってるみたい。そして、あんたにまた会えてすごく良かったよ、ダイアナ」
「あたしなんかより、ステラ・メイナードとかいう子の方が好きなんだと思ってた」と、不満顔のダイアナ。「ジョージー・パイからそう聞いてるよ。ジョージーの話じゃ、あんたその娘にべたべたしてるそうじゃない」
アンは笑って、頂き物のブーケからしおれた「六月百合[#訳者注:水仙]」を抜いては、ダイアナに投げつけた。
「ステラ・メイナードのことは世界で一番気に入ってるけど、一人だけ例外がいるの。その例外はあんたよ、ダイアナ」とアン。「前よりもずっと好き――それにたくさん話したいことがあるしさ。でも今は、ここに座ってあんたを見ていたい、それで充分嬉しいの。疲れたんだと思う――高い目標を立てたり、それに向かって頑張ったりでくたびれちゃった。明日になったら、少なくとも2時間は果樹園の草の上で寝転がって、何にも考えないでいることにするんだ」
「あんた本当によくやったもんね、アン。先生にはならないんでしょ、エイヴリーを取ったんだから?」
「うん。9月にはレドモンドに行くことにしてる。このあたしが大学に行くなんて、なんだか奇跡みたいだと思わない? 3ヶ月間の光り輝く黄金の夏休みが終わるまでに、新品の野心を仕込んでおくの。ジェーンとルビーは学校で教えることになってる。考えてみるとすごいことだよね、あたし達みんな試験に合格したんだもん、ムーディー・スパージョンやジョージー・パイも含めてね?」
「もうジェーンには、ニューブリッジの理事会から、うちの学校に来ないかって話がきてるんだって」とダイアナ。「ギルバート・ブライスも学校で教えるつもり。しょうがないのよ。結局、ギルバートを来年大学に入れようとすると、お父さんに負担がかかりすぎるんだって。それで、自力でやっていこうって決めたのよ。エイムズ先生がここを離れることに決まったら、ここの学校で教えることになるんじゃないかな」
不意を打たれて、アンはなぜか、わずかに動揺した。そんなの聞いてない。ギルバートもレドモンドに行くんだと思ってたのに。やる気の源のライバル関係がなくなって、これからどうしたらいいんだろう? 男女共学の大学で、本物の学位が取れるかもしれないとして、敵であり友達という今までの存在がなくなったら、大学の勉強が気の抜けたものになってしまうんじゃ?
翌朝の朝食の席で、アンははっと気がついた。マシューの様子がよくなさそうだ。確かに去年よりずっと、髪に白いものが増えていた。
「マリラ」マシューが出て行ったところで口を開いたが、なんとなく訊きにくい。「マシューのことだけど、具合はいいの?」
「ううん、よくないわ」と、マリラの不安そうな声。「春頃、何度か心臓がかなり悪い時期があったのに、ちっとも体をいたわろうとしないのよ。本当に心配してたのよ。でもここしばらくはいくらか具合がよくなってきたし、よく働く雇い人も見つかったことだから、体を休めて体調を取り戻したりとかしてもらえればいいんだけど。あんたが帰ってきたから、たぶんそんな気になるだろうね。あんたがいると、いつも機嫌がいいのよ」
テーブルの向こうから身を乗り出して、アンは両手でマリラの顔をはさんだ。
「思ってたほど元気がないのはマリラも一緒だよ、ね。疲れてるみたい。働きすぎなんじゃない。体を休めなきゃ、あたしが帰ってきたんだもん。今日一日だけ休みをもらうね。懐かしい思い出の場所を歩き回ったり、昔よく見た夢を探しに行ってくるの。そしたら、今度はマリラがのうのうとする番。代わりにあたしが働くからさ」
マリラが大事な娘に優しく笑いかけた。
「問題は働きすぎじゃないの――頭の方よ。かなり頻繁に頭痛がするようになってきてね――目の奥がね。スペンサー先生には眼鏡を何度も替えさせられたけど、どれもたいしてきかないの。何でも6月末にこの島に有名な眼科の先生が来るらしくて、その先生に診てもらうように言われたわ。そうしなきゃいけないんだろうけど。今じゃ、何か読んだり縫い物したりが億劫でね。それより、アン、クイーンでは本当によくやったわねえ。1級免許を1年で取るし、エイヴリー奨学金に選ばれるし――まあ、リンドさんなら、傲りは滅びの始まりだとか、女が高等教育を受けるなんてどうかしら、とか言いそうだけど。高等教育では女の真の力を発揮できないんだそうよ。あたしは全然そんな風に思わないわ。レイチェルの話で思いだした――最近アビー銀行のことで何か聞いた、アン?」
「危ないらしいよ」とアンの返事。「どうして?」
「レイチェルがそんなことを言ってたのよ。先週いつだったかここに来て、あの銀行が噂になってるって話していったわ。マシューが本当に心配したのよ。うちの蓄えは全額あの銀行に預けてるの――1セント残らず。何はともあれ、マシューにはまず貯蓄銀行に預け替えて欲しかったんだけど。アビーお爺さんと父は親しく友達付き合いしてたから、父がずっとそこに預けてたのよ。マシューに言わせると、あの人が上にいる銀行なら、誰でも安心して任せておけるってことだったし」
「その人、何年も前から名前だけの支配人なんじゃない」とアン。「かなりの年だもの。今あの銀行の実権を握ってるのは甥達なの」
「それでね、レイチェルからそんな話を聞かされたから、マシューにすぐにお金を引きだすよう言ったの。マシューも考えておくということだったのよ。ところが昨日、マシューがラッセルさんに、銀行はまったく問題ないって吹き込まれてね」
久しぶりにアンが戸外の世界と旧交をあたためられた一日だった。その日はアンにとって忘れられない日になった。明るく、黄金色に照らされた晴れ渡った一日で、陽が陰ることもなく、花が咲き誇っていた。アンは充実した時間を、しばらく果樹園で過ごした。ドライアドのお喋り泉と柳ヶ池とスミレの神殿にも足を伸ばした。その後、牧師館を訪ね、アラン夫人との話に満ち足りて帰ってきた。そして最後に、陽が低くなった頃、マシューと一緒に恋人小径を通って、牛を追いに裏手の牧草地まで行った。森は隅々まで夕焼け空の後光に包まれ、汗ばむほどの光の奔流が西の丘の合間を縫って射し込んだ。腰を曲げてマシューがゆっくり歩いていく。アンは、高い背をしゃんと伸ばし、はずむ足取りをマシューに合わせた。
「今日はずっと働き詰めだったんでしょ、マシュー」と咎める。「もっと気楽にしたら?」
「うむ、そうだな、そんな気にならんのだよ」と、囲いの木戸を開いて牛を入れるマシュー。「齢を取りすぎてしまったからな、アン、体に染みついて離れんのだよ。やれやれ、今までずっとせいを出して働いてきたことだし、元気なうちに楽に逝きたいもんだな」
「もし注文どおりあたしが男の子だったら」と、物思いに沈むアン。「今頃、たくさん手伝いもできたし、いろんな面でマシューの役に立ってたはず。心の底から思うの、男の子だったらって。少しでも役に立ちたかった」
「うむ、そうだな、わしはおまえが居てくれた方が良いな、男の子1ダースよりずっと良いよ、アン」と、マシューがアンの手を優しく叩いた。「いいかい――男の子1ダースよりずっと良いんだよ。うむ、そうだな、男の子じゃなかっただろう、エイヴリー奨学金を取ったのは? ありゃ女の子だったな――わしの女の子だ――わしの自慢の女の子だ」
いつもの恥ずかしそうな笑みを見せて、マシューは中庭に入って行った。その記憶を胸に、その晩自室に向かったアンは、開いた窓辺にしばらくじっと座って、昔の思い出を遡ったり、将来のことを夢見たりしていた。戸外では雪女神が月明かりの中で白くおぼろに霞み、沼地のカエルの鳴き声が果樹園坂を越えて聞こえてきた。後にアンがきまって思いだしたのは、その夜が、しろがね色で安らぐように美しかったことと、花の香りが漂って穏やかだったことだった。これが、アンの人生と悲しみが無縁だった最後の夜になった。どんな人生も変わらずにいられなくなるのだ。ひとたびあの凍るような清めの手が置かれた後では。
37章 草刈る農夫、その名は死
「マシュー――マシュー――どうしたの? マシュー、気分が悪いの?」
マリラの声だった。荒げた声のはしばしに緊張がにじんでいる。アンが玄関の広間を抜け、両手にいっぱいの白スイセンを抱えたまま入ってくると――後にアンが白スイセンの姿、香りをまた愛でるようになるまで、長いことかかることになる――ちょうどそこで声を耳にした。マシューがポーチの出入り口に立って手に新聞を握りしめている。顔が不自然にひきつり血の気がない。アンが花束を取り落として一足飛びに台所を横切る。マシューの元へ駆け寄ったのはマリラと同時だ。だが間に合わなかった。二人の手が届いた時、すでにマシューは敷居の上にくずおれていた。
「気絶してる」マリラがあえいだ。「アン、急いでマーティンを――はやく、急いで! 納屋にいるから」
雇い人のマーティンは、いまちょうど郵便局から戻ったところだったが、すぐに医者を呼びに馬車を走らせた。その途中、果樹園坂に寄って、バリー夫妻に来てもらった。リンド夫人がたまたまそこに用事で居合わせたので、やはり来てくれた。三人が駆けつけてみると、アンとマリラが、取り乱しながらマシューの意識を取り戻そうと懸命になっていた。
リンド夫人が二人を優しく脇にどかし、脈を取って耳を心臓の上にあてた。周りで心配しているみんなの顔を無念そうに見ると、夫人の目に涙が溢れてきた。
「ああ、マリラ、」と声を落とした。「これはもう――手の施しようがないわ」
「リンドさん、そんなことって――マシューがそんな――そんな――」アンはその恐ろしい言葉を口にすることができなかった。胃の腑が重く、血の気が引いていく。
「ええ、そうなの、言いにくいことだけど。マシューの顔を見てごらん。あたしみたいに何度かああした表情を目にしたら、どういうことだか見当が付くようになるわ」
アンがマシューのじっと動かない表情に目を向けてみると、そこには大いなる神の徴が刻まれていた。
呼びにやった医者の話では、マシューは一瞬のうちに亡くなり苦しまなかっただろうこと、何か急激なショックを受けたのが原因と推測されるとのことだった。ショックの謎を解く鍵は、マシューが握りしめていた新聞に隠されていた。その朝、マーティンが郵便局から持ってきたもので、アビー銀行の倒産の記事が掲載されていたのだ。
マシューが亡くなったことは、あっという間にアヴォンリー中に広まった。一日中ひっきりなしに友人や隣人が押しかけ、故人と残された家族のために、あれこれとなく用向きを買って出てくれた。生涯で初めて、内気で物静かなマシュー・カスバートが、村の最重要人物となった。純白の威厳がマシューを覆い、冠を頂く者として聖別したのだ。
グリーン・ゲイブルズの上にしめやかな夜が静々と幕を下ろすと、この古い家全体がひっそり静まりかえった。客間に安置されたマシュー・カスバートは、棺の中で、長い白髪混じりの髪をなでつけた穏やかな顔に、ふっと優しい微笑みを浮かべている。まるで、ただ眠っているように、楽しい夢を見ているように、微笑んでいる。棺の中は花で飾られていた――この可愛らしい古風な花は、マシューの母が新婚時代に家の庭に植えたもので、誰にも言わず、言葉にできるものでもなかったが、マシューにとってこの花は常に貴重な宝物だった。花を摘んで来てマシューの周りに供えたのはアンだった。苦しみ抜いた目が、涙の跡も見せず青白い顔に燃えている。今のあたしには、こんな事しかしてあげられない。
バリー夫妻とリンド夫人に、その夜一緒に付いてもらうことになった。ダイアナが東の切妻に上がって行くと、アンが窓辺に立ち尽くしていた。ダイアナが気遣ってこう言った。
「ねえ、アン、今夜は一緒に寝た方がいいんじゃない?」
「ごめんね、ダイアナ」アンが友達の顔を真剣に見つめた。「一人でいたいと言っても、あんたなら分かってくれるよね。一人でも恐くないの。今日のことがあってから、一人きりになる機会が一度もなくて――だから一人になりたいの。静かなところで、落ち着いて心の中を整理してみたいの。いまだに整理できてないのよ。マシューが死ぬなんてありえないって思える時もあるし、そうじゃなく、マシューはずっと前に死んでしまって、それからずっと、今みたいに苦しくて堪らない痛みが続いてるって思える時もあるの」
ダイアナはあまり分かってあげられなかった。マリラは激しく嘆き悲しんでいた。普段保っていた矜持を振り捨て、長年続いた習慣を打ち破り嵐のような激情に身を任せていた。この方が、涙も見せずにただ苦しむだけのアンよりも、ずっと分かりやすかった。しかし、ダイアナは気を悪くもせず部屋を離れ、最初の悲しい通夜の晩を過ごせるように、アンを一人残してあげた。
アンは、きっと一人になれば涙が流れてくるだろうと思っていた。マシューのために涙一粒流せないなんて、あまりに酷すぎる。あんなに大切な人だったのに、あんなに優しくしてもらったのに。夕方の日暮れ時を一緒に歩いたのは、まだ昨日のことなのに。でも今、マシューは階下の薄暗い部屋に横たわり、崇高で穏やかな表情をたたえている。だが、まだ涙は流れてこなかった。真っ暗な中で窓の側にひざまずき、祈っても、丘の上に輝く星空を見上げても――それでも涙は出てこない。ただ、相変わらず惨めなだけの苦しくて堪らない痛みだけが続き、いつの間にかアンは、その日の心痛と動揺に疲れ切って眠り込んでしまった。
真夜中に目を覚ますと、静けさと闇の中で、昨日の記憶が悲しい波のように押し寄せてきた。こちらに向けられたマシューの微笑む顔が見える。最後の日、夕方に戸口で別れたあの時の微笑みだ――声が聞こえる。「わしの女の子だ――わしの自慢の女の子だ」すると涙がこぼれ、アンは泣いた。泣いて心の中のすべてを吐き出した。マリラが泣き声を聞きつけ、忍び足で慰めに入って来た。
「ほら――ほら――泣かないで、いい子だから。泣いてマシューが戻るわけじゃないのよ。そん――そんなに――泣くのはいいことじゃないわ。あたしもそれは分かってた。けど今日だけはどうしようもなかったわ。マシューはどんな時でも、素晴らしい、優しい兄さんだった――でも、これも全知の神の行いだもの」
「ねえ、泣かせて、マリラ」アンがしゃくり上げた。「泣いてもさっきまでの痛みほど苦しくないの。少しだけでいいからここにいて抱きしめて――そう。ダイアナにいてもらうんじゃだめなの。あの子は親切で、優しくて、思いやりがあって――だけど、本当に悲しいわけじゃない――遠くで悲しんでるだけで、心の中まで入り込んで一緒に泣いてくれるわけじゃないのよ。本当に悲しいのはあたし達だけ――マリラとあたしの二人だけなの。ああ、マリラ、あたし達どうしたらいいの、マシューはもういないのよ?」
「まだお互いがいるじゃない、アン。きっとあたしだけなら途方に暮れてたわ。あんたがここにいなかったら――あんたが来てくれなかったらと思うと。ねえ、アン、あんたには何というか厳しくしてきたし、辛く感じることもあったろうと思う――でも、考え違いをしないで。きつく当たったけど、マシューほどあんたを大切に思っていないからじゃないの。今言えるうちに言っておくわ。あたしにはそんなに簡単じゃないのよ、心の中をさらけ出して言葉にするなんて無理。だけど、たまにこんな時なら少しはましになるから。あんたが愛しくてしかたがない。まるで血がつながっているよう。嬉しかったり慰められたりするのは、いつもあんたのことばかり。あんたがグリーン・ゲイブルズに来てからずっとそうだった」
二日の後、村人の手によってマシュー・カスバートが運ばれて行き、自宅の敷居を越えて、自ら耕した畑と愛した果樹園、植えた木々を後にした。そしてアヴォンリーはいつもの平静さを取り戻した。グリーン・ゲイブルズでさえ、いつの間にか轍の中に車輪が戻っていくように、仕事も義務も残さず済まされ、以前の規則正しい日常が帰ってきた。それでも、「慣れ親しんだ何かが欠けている」という、痛いような気持ちが常に付きまとった。アンは、親しい人を亡くして悲しむのは初めてだったから、こうして日々が過ぎていくのが寂しいような気がしていた――マシューがいなくても以前のように暮らせてしまう日々が。時には、思いがけず楽しい気分になることに気がつくと、情けないような罪深いような気分に襲われた。モミの向こうに昇る日の出や、庭で開いた淡い紅の蕾で、相変わらず圧倒的な喜びに浸ってしまう――それに、ダイアナが来れば楽しくて、陽気な言葉やしぐさに思わず笑ったり微笑んだりしてしまう――要するに、花と愛と友情の美しい世界が、空想を膨らませたりわくわくさせたりする力をまったく失っていなかったことや、人生がたくさんの声音で蠱惑的に自分を誘い続けることに気がついて、気持ちが沈んでしまうのだった。
「何だかマシューに悪いような気がして。こういうことで喜んでちゃいけないんです、マシューが亡くなったっていうのに」ふさぎこんだアンがアラン夫人に言った。ある日の夕方時に、二人が牧師館の庭で語らっていた時のことだった。「マシューがいないととても寂しい――いつもそう――なのにね、アランさん、周りの世界も生きてることも、とても素晴らしくて、面白く思えてしかたないんです。今日、ダイアナにおかしなことを言われて、気がついたらあたし笑ってました。あのことがあった日、二度と笑えるはずがないって思ったのに。それに何だか、笑っちゃいけないんじゃないかって」
「マシューが亡くなる前、あなたの笑い声を聞くのが好きで、あなたが周りの出来事を楽しんでいるか、気にしていたわよね、」と優しくアラン夫人が言った。「今は少しだけこの世界から離れているけれど、今でも同じようにして気にしているの。私達は、生まれつき備わった癒しの力に逆らって、心を閉ざすべきではないのよ。そうはいっても、気持ちは分かるわ。みんな同じ経験をするのじゃないかしら。今まで楽しかったことも疎ましくなってしまうのね、愛する誰かと共に、もはやその喜びを分かち合えないんですもの。そして自分は本当は悲しんでいないんじゃないか、と感じてしまうんだわ。人生がまた楽しく感じられるなんて、裏切りなんじゃないだろうかって」
「午後から墓地に行って、マシューのお墓にバラの木を植えてきました」と、夢見るようなアン。「白いスコッチ・ローズの枝を一本。マシューのお母さんがずっと昔に、スコットランドから持ってきたんです。マシューが一番好きだったのはいつもこのバラでした――刺のある茎に、小さくて甘く香るバラが咲くんですよ。お墓の隣に植えることができたから嬉しくて――バラをそばに植えかえてあげたら、マシューも喜んでくれそうだから。天国でもあんなバラが咲いてればいいですよね。もしかすると、たくさんの夏をマシューに大事にされて、あの小さな白バラの魂達は、天国に行ったらみんながマシューに会えるのかも。もう帰らなくちゃ。マリラが一人で待ってるんです。黄昏時には寂しがるから」
「なおさら寂しくなるんじゃないかしら。大学に行ってしまうとまた離ればなれね」アラン夫人がぽつりと言った。
アンには返す言葉がなかった。そのままおやすみの挨拶だけ言って、重い足取りでグリーン・ゲイブルズに帰っていった。マリラが正面玄関の上り段に座って待っていた。その隣に腰を下ろすアン。二人の後ろで玄関の戸が開け放され、重し代わりの大きなピンクの巻貝の口から、海の入り日を思わせる滑らかな渦巻きがのぞいていた。
アンは淡い黄色のニオイニンドウの小枝を何本か摘んで髪にさした。そうすると優しくほのかに香るのが好きだった。霊妙な祝福のように、動くたびに香りが頭上に漂うのだ。
「あんたが出かけてる間に、スペンサー
「大丈夫、任せて。ダイアナに話し相手に来てもらうし。アイロンがけとパン焼きも問題なくこなせるわよ――心配ご無用、もうハンカチに糊付けしたり、ケーキに塗り薬で味付けしたりしないから」
マリラが笑った。
「いやはや、なんて子だったんだろう。あの頃はいつも失敗ばかりだったわね、アン。何かというと厄介な羽目に陥ったりして。何かが乗り移ってるんじゃないかってよく思ってたのよ。憶えてる、髪を染めた時のこと?」
「ええ、それはもう。あれは絶対忘れない」アンはにこっと笑って、美しく均整のとれた頭に巻いてあるたっぷりしたおさげ髪に触れた。「今ではちょっとだけ笑っちゃうこともあるのよ、髪のことでいつも悩んでたなって時々思いだすとね。だけどうんと笑ったりはしないの。だってあの頃は本当に悩んでたんだもの。髪とそばかすが、気になって気になってしょうがなかった。そばかすはすっかり消えちゃったし、今では赤褐色の髪だってみんな気を使ってくれるわ――ただしジョージー・パイは別。昨日もわざわざ教えてくれたのよ、赤い髪がよけい赤くなったんじゃない、少なくとも喪服の黒で赤が目立ってるのは確かよね、だいたい赤毛の人って髪が赤いのに慣れたりしないんじゃないの、だって。マリラ、あたしもうダメかも。ジョージー・パイを好きになるなんて無理な相談よ。あの子を好きになるため、あたしの昔の言い方だと、ひとかたならぬ努力をしてきたけど、やっぱりジョージー・パイは鼻につくタイプなのよ」
「ジョージーはパイ家の一人だからね」と、とげとげしいマリラ。「だから人好きがしないのは、自分でもどうにもならないのよ。あの手の人達だってある程度社会の役に立っているんだろうけど。でもきっと、アザミと同程度がいいところじゃない。ジョージーは先生をするの?」
「ううん、来年もクイーンに戻るの。ムーディー・スパージョンとチャーリー・スローンもそう。ジェーンとルビーは先生をするんだけど、二人とも教える学校が見つかったわ――ジェーンはニューブリッジで、ルビーは西の方のどこかだって」
「ギルバート・ブライスも先生をするんでしょ?」
「まあね」――そっけない。
「立派になったじゃない」と、聞いていないマリラ。「このあいだの日曜の礼拝で気がついたんだけど、背が高くて男らしくて。父親の若いころそっくり。ジョン・ブライスは素敵な男の子だったわ。友達どうしお互い本当に気に入ってたの、あの人もあたしも。噂じゃ、あの人があたしを口説いてるとかでね」
アンが顔を上げた。急に興味が湧いたらしい。
「え、マリラ――それで何があったの?――どうしてそのまま――」
「喧嘩したのよ。許してあげなかったの、せっかく謝ってきたのにね。許すつもりだったわ、すぐにじゃないけど――でも、すねてたし、腹が立ってたから、まずは意地悪してやりたかったの。あの人は二度と戻ってこなかった――ブライス家は、みんな人の風下に立たない人達ばかりだからね。そんなわけで、今でも、こう――悔いが残ってるの。あの時許してあげてればって、今でも思わないではないわ」
「それじゃ、マリラの人生にも、ちょっとは
「ええ、そう言えるかもしれないわね。あたしを見ても、そんな事があったなんて考えられないんじゃない? だけどね、人は見かけによらないものなのよ。あたしとジョンのことは誰も憶えていない。あたしだって忘れてたくらい。でも、全部よみがえってきたのよ、このあいだの日曜にギルバートを見てからね」
38章 道の途中の曲がり角
マリラは翌日町にでかけ、夕方になって戻ってきた。アンは果樹園坂までダイアナと出かけていたが、帰ってみるとマリラが台所にいるのに気がついた。椅子に座りこんで、テーブルに肘をつき頭を支えている。どこか様子がおかしい。意気消沈した姿に、アンは急に寒気を憶えた。これほどぐったりと弱々しいマリラは初めてだった。
「だいぶ疲れてるんじゃない、マリラ?」
「そうだね――いや――どうだろう」とマリラ。見上げる顔が疲れ切っている。「疲れたんだろうね、でも気が付かなかったわ。そんなんじゃないの」
「眼科の先生には診てもらったんでしょ? 何か言ってた?」アンが心配して訊ねた。
「ええ、診てもらったわ。先生が目を検査してくれたの。そしたら、読んだり縫ったりするのはすっかり止めて、目の負担になるような仕事も止めて、泣かないように気をつけて、先生のくれた眼鏡をかけて、それができたら、今以上に悪くならないかもしれないし、頭痛も直るんじゃないか、と言われたわ。でも、それができなければ、6ヶ月で完全に失明だって。失明よ! アン、考えてもみて!」
「そんな!」と狼狽して叫んだきり、しばらくの間アンは口がきけなかった。声を出そうとしても出てこない。それから懸命に口を開いたが、言葉につまって思うようにしゃべれない。
「マリラ、そんな風に考えないで。希望があると言ってくれたのよ。注意さえすれば、全然目が見えなくなることはないのよ。それに、眼鏡で頭痛が直るんなら、たいしたものじゃない」
「どれほどの希望だっていうの」マリラが苦々しく言った。「何のために生きていけばいいの、読んだり縫ったり、何もできなくなるのよ? 目が見えない方がまだまし――死んだ方がましだわ。何が泣かないようによ、寂しくなったらどうしようもないじゃない。だけど、まあ、こんなこと言っててもいいことないわ。お茶を入れてもらえるとありがたいんだけど。くたびれちゃってね。とにかくこのことは、しばらく黙っておいて。押しかけられて、あれこれ聞かれたり同情されたりするのはご免だから」
マリラが軽く食事を済ませると、アンはベッドで休むよう促した。それから、アンは東の切妻に重い足を運び、窓の側に腰を下ろした。真っ暗で一人きり。涙が溢れて心が重く沈んでいく。悲しいほど何もかも変わってしまった、家に戻ってここに座ったあの晩を最後に! あの時は、溢れる夢を追いかけて舞い上がっていた。バラ色の未来が約束されているように見えたのに。あの日から何年もの年月が流れたような気がする。けれど、ベッドに入る頃には、口元に笑みがよみがえり、心には平穏が戻っていた。勇気を持って正面から見据えてみると、義務と仲良くなれることが分かったのだ――率直につきあえば、いつでも義務とはそんな関係になれるものだから。
それから数日が過ぎたある午後に、マリラが庭から重い足取りで戻ってきた。今までそこで客と立ち話をしていたのだ――客の男は、アンも顔を見かけたことがある、カーモディーのジョン・サドラーだった。いったい何の話だったんだろう、マリラの表情がただ事じゃない。
「サドラーさん何だって、マリラ?」
マリラは窓辺に座り込んでアンを見た。眼科医から禁止されたにもかかわらず、もうどうにでもなれとばかりに目に涙を浮かべ、途切れ途切れにこう言った。
「グリーン・ゲイブルズを売る話を聞きつけたのよ。ここを買いたいと言ってたわ」
「ここを買う! グリーン・ゲイブルズを買う?」アンは耳を疑った。「そんな、マリラ、嘘でしょ、グリーン・ゲイブルズを売るなんて!」
「アン、他に手がないのよ。あれこれ考え抜いたわ。もし目さえ悪くなければ、ここにいて、ちゃんとした雇い人を雇って、家のことを面倒みたり、なんとか暮らしていけるのよ。でもこんなありさまじゃ、それもできない。すっかり目が見えなくなるかもしれないもの。いずれにせよ、とてもじゃないけどやっていけないわ。ああ、あたしの目の黒いうちに、自分の家を売る日がくるとは思わなかった。だけど、後になるほど条件は悪くなる一方だろうし、買いたい人がいなくなってからでは遅いのよ。うちのお金は一セント残らずあの銀行に預けてたからね。それに、去年の秋にマシューが振り出した未払の手形も残ってる。リンドさんが、農場を売ってどこかに下宿したらと言ってくれたわ――あたしの家に下宿しろ、ということかもしれない。一緒に住ませてもらうことになるんでしょうね。うちの畑と家じゃそれほどお金にならないのよ――狭いし建物が古いから。でも、あたし一人が世話になるには充分でしょ。奨学金を取ってくれて助かったわ、アン。済まないわね、大学の休みに帰る家がなくなって。気掛かりはそれだけよ。だけど、あんたならきっと上手くやれるわ」
マリラが激しく泣き崩れた。
「グリーン・ゲイブルズを売っちゃ駄目」アンがきっぱり言い切った。
「ああ、アン、それに越したことはないわ。だけど、あんただって分かるでしょ。あたし一人でここにいるなんてとても無理。心配で寂しくて気が変になっちゃうわよ。それにきっと目が――きっとそうなるわ」
「一人でここにいなくていいのよ、マリラ。あたしが一緒にいるんだもの。あたし、レドモンドにいかないことにしたの」
「レドモンドに行かない!」マリラは覆っていた両手から顔を上げて、アンを見つめた。「それ、どういうこと?」
「今言ったとおり、そういうこと。奨学金の権利は放棄するつもり。マリラが町から帰った晩に決めたの。マリラを一人でほったらかして苦労をかけるなんて思わないでね、マリラ、あんなにあたしのために尽くしてくれたじゃない。あたしね、これからどうしたらいいか、ずっと考えてたの。あたしの立てた計画を説明するね。バリーさんが、来年用に農場を借りるつもりなの。だからこの件はこれ以上悩まなくていいわけ。それから、あたしは学校で教えるつもり。ここの学校に申し込んでてね――だけど取れそうにないの、理事会はギルバート・ブライスと契約したって聞いてるから。でもカーモディーの学校なら取れるわ――ブレアさんがゆうべお店でそう言ってたもの。そうなればもちろん、アヴォンリーの学校で教えるみたいに楽でもないし、行き来も便利じゃないけどね。でも、家から通えるし、カーモディーまでなら自分で馬車を操って行き来できるわ。少なくとも暖かいうちは大丈夫。それに、冬になっても金曜には帰ってこれるもの。だから馬は売らないことにしようね。ね、どこにも漏れがないように計画したのよ、マリラ。マリラに本や新聞を読んであげたり、元気づけたりしてあげる。つまらないとか寂しいとか感じないで済むわ。そしたら、ここで一緒に楽しく幸せに暮らせるのよ、マリラもあたしも」
マリラは黙って聞いていた。まるで夢のような話だった。
「ああ、アン、あんたがここにいてくれるなら、本当に楽に暮らせるのは確かだわ。でも、あたしのためにあんたを犠牲にするなんて、とてもできない。ひどすぎるわ」
「馬鹿馬鹿しい!」元気にアンが笑った。「犠牲なんかじゃない。グリーン・ゲイブルズを放りだしてしまうのが何より悪いことよ――これほど辛いことはないの。いままでずっと暮らしてきたこの素敵な場所を、二人で守らなきゃ。あたし決めちゃったわよ、マリラ。レドモンドには行かない。それから、絶対ここにいて教師をする。あたしのことはちっとも心配することないの」
「しかしね、あんたの夢が――それに――」
「夢は捨ててない。今までと同じよ。ただね、夢の方向を変えただけ。素敵な先生になるの――あと、マリラの目の負担にならないように、あたしがマリラの代わりをする。それから、家で勉強して、自費で大学の短期講座を取ってみるつもり。ああ、やるべき事は山ほどあるわ、マリラ。ここ一週間、そのことばかり考えてたの。ここで全力で生きていくつもりだし、それだけ何か得るものがあるはずよ。クイーンを卒業した時、未来は、ここからどこまでも伸びてゆく、真っ直ぐな一本道のような気がしてた。道沿いに、目指すべきたくさんの道しるべが見えるものだと思ってた。だけど今、途中で曲がり角にぶつかったの。この曲がり角の向こうに、何が待っているのか分からない。けど、信じてみようと思うの、全力を尽くせばきっと報われるって。人を引きつける何かはそこにも、その曲がり角にもあるのよ、マリラ。この道は角の向こうでいったいどこにつながっていくんだろう――燃え上がる緑と、柔らかい光と影の綾織りの世界なのか――見知らぬ景色か――あるいは未知の絶景――なだらかな斜面や小山や窪地が遠くまで続いているのかもね」
「せっかく取れたのに、無理に諦めさせちゃ悪いわ」と、マリラが奨学金のことを持ち出した。
「そんなこと言っても止められないんだから。あたしはもう16歳半、『頑固でラバみたい』なの、リンドさんが前に言ってた」と笑うアン。「ねえ、マリラ、可哀想なんて思わないで。可哀想がられるのは好きじゃないし、必要もないの。あたし心底嬉しいのよ、何と言っても愛しのグリーン・ゲイブルズにいられるんだもん。誰でもない、マリラとあたしが一番ここを大切に思ってるんじゃない――それなら二人で守らなくちゃね」
「あんたは、あたしには過ぎた娘だわ!」とマリラが折れた。「あんたは、あたしに人生をやり直させてくれた気がする。本当ならここで頑張って、大学に入れてやるべきところなんだろうね――でもそれが無理なのは分かってるし、だから無理を通すのはやめるわ。でもきっといつか、この埋め合わせはするわよ、アン」
じきに、アヴォンリー中にあれこれとうるさい噂が広がった。何でも、アン・シャーリーが大学に進むつもりだったのをやめて、家に居残って教師をするらしい、とのことだ。すると、村中で大いに議論が盛り上がった。気の良い村人達のほとんどは、マリラの目のことを知らなかったから、口には出さずにアンの馬鹿さ加減を嘆いていた。そんな中で、アラン夫人は例外だった。夫人から、私は賛成だと告げられると、アンは嬉しくて泣けてきた。気の良いリンド夫人も例外の一人だった。ある日の夕方、夫人が来てみると、アンとマリラが正面玄関の所に座っていた。まだ暑い、花香る夕暮れ時のことだった。二人とも、夕暮れが近づく頃に、そうして座っているのが好きだった。黄昏が近づいて、庭で白い蛾が飛びまわり、さわやかなそよ風にミントの香りが満ちていた。
レイチェル夫人は、玄関の側の石のベンチの上に、よっこらしょと存在感のある体を落ち着けた。その背中の向こうに見えるのは、背の高いピンクと黄色のタチアオイ。疲れてほっとしたのか、大きくため息をついた。
「やっと座れて嬉しいことだわ。一日中立ちっぱなしだったの、200ポンド[#訳者注:約90キログラム]の重さを、2本足でえっちらおっちら運ぶのはえらく骨だわ。太ってないのはとてもありがたいことよ、マリラ。あんたは感謝した方がいいわね。それで、アン、大学に進もうなんて気まぐれはよしたそうね。それを聞いてほんとに嬉しかったわ。あんたはもう充分教育を受けたんだからね、これ以上受けても女には荷が重いだけよ。娘が男に混じって大学に行ったり、ラテン語とかギリシャ語とか他の馬鹿なことを頭に詰めこむのは、どうかと思うわ」
「でもラテン語とギリシャ語はこれまでどおり勉強するのよ、リンドさん」と笑うアン。「このグリーン・ゲイブルズにいたまま文学コースを取るつもりだし、大学で取るつもりだった科目もみんな勉強するわ」
リンド夫人は、何を考えてるんだかこの娘は、とあきれて両手を上げた。
「アン・シャーリー、それじゃあんた死んじゃうわよ」
「ちっとも心配ないわ。ちゃんと上手くやっていけるから。あのね、何も無理しようって言ってるんじゃないの。『ジョサイア・アレンの奥さん』の言葉を借りると、『度を越さねえ』ようにするつもり。でも長い冬の晩なら充分時間は取れるし、だいたい手芸なんかに向いてないもの。ほら、あたし向こうのカーモディーで教えることになってるから、ちょうどいいじゃない」
「ちょうどいいか怪しいものね。あんたはこのアヴォンリーで教えることになると思うわ。理事会はあんたを取ることに決めたのよ」
「リンドさん!」アンが叫んだ。あんまり意外で思わず立ちあがってしまう。「うそでしょ、ギルバート・ブライスと契約したって思ってたのに!」
「そのとおり。だけどギルバートは、あんたが申し込んだって聞いて、すぐに理事会に顔を出したのよ――昨夜は学校で打ち合わせがあったじゃない――自分の申し込みは取り下げることにしたので、あんたのを受理したらどうかって説得したわけ。ホワイト・サンズで教えることにするので、こっちは問題ないからってね。もちろん、取り下げたのはあんたのため以外の何ものでもないわ、どれほどあんたがマリラといたいか分かってるからね。ほんとに親切で思いやりがあるじゃないの、まったくそう思うわ。本物の自己犠牲でもあるわよ、ホワイト・サンズで下宿する分、お金がかかるんだし、自力で稼いで大学を目指しているのは誰でも知ってることだもの。そんなわけで、理事会はあんたを取ることに決めたのよ。トマスが帰ってきて話してくれた時は、もう嬉しくていても立ってもいられなかったわ」
「そんなの、はいそうですかって受けられるわけないよ」アンが呟く。「えっと――ギルバートにそんな無理させるなんて悪いわ、それも――それも、あたしのために」
「今更元には戻せないと思うわ。ホワイト・サンズの理事会との契約はサイン済みよ。だから、あんたが受けるのを嫌がってみても、それでギルバートの得にはならないの。いいから、ここの学校を受けなさい。問題なくちゃんとやれるわ、もうパイ家の子はいないんだから。ジョージーが一番最後だったし、いなくなってせいせいするわね、まったく。あっちのパイ、こっちのパイと、ここ20年ずっとアヴォンリーの学校に来続けたものよ。あの子達の使命は、学校の先生達に繰り返し思い知らせることじゃないの、地上は安らげる場所ではないとね。あらまあ! いったい何をしてるんだろう、バリーの切妻でチラチラ、ピカピカしてるじゃない?」
「ダイアナが信号を送ってるの、あたしに来て欲しいんだって」と笑うアン。「前からこうしてたのよ。ちょっとごめんね、何があったか行って確かめてくるから」
アンはクローバーの斜面を鹿のように駆け降りて、呪いヶ森のモミの木陰に消え去った。リンド夫人がその背中を見送り、しょうがない子ねと笑った。
「まだずいぶん子供っぽいところがあるわね」
「それよりも大人びたところの方がずっと多いわよ」と言い返すマリラ。一瞬、昔のつっけんどんな口調が戻る。
しかし、つっけんどんなところは、もはやマリラの特徴としては目立たなくなっていた。その晩、リンド夫人がトマスにこう語ったように。
「マリラ・カスバートは人当たりが柔らかくなったわ。いやまったく」
次の日の夕方、アンはアヴォンリーの小さな墓地に出かけた。マシューの墓に摘んだばかりの花を手向け、スコッチ・ローズに水をやるためだった。アンは黄昏時までその辺りをぶらついていた。狭いながらも穏やかで静かなその場所は、立ち去りがたかった。ポプラの葉ずれは低く親しげで、気ままに茂った芝草が墓標の間で囁き交わしている。ようやくその場所を後にし、輝く水面の湖につながる、長く続く丘を歩いて下っていくと、日没の後に、アヴォンリー全体が目の前に夢のように残照に照らされた姿を現した――「いにしえの平和が宿る」その姿を。風がさわやかに香っていた。甘く香るクローバーの野原の上を吹き渡るそよ風のようだ。窓の明かりが輝いて、そちらこちらの農家の木々の間からのぞいていた。ずっと向こうには海が横たわり、かすんで紫に染まっている。耳に残る、止むことのない波がざわめく。西の空が、柔らかな混じりあった色合いでさまざまに輝き、池の水鏡に映えて、静かで、より柔らかく微妙に移り変わっていく。何もかもが美しい。アンの心が震え、高揚する。感謝の気持ちに満ちて、世界に向けて魂の扉を開け放った。
「いつまでも愛しい世界よ」と呟く。「あなたはとても素晴らしい。あなたに
丘を下る途中で、背の高い若者に出会った。口笛を吹きながら、ブライス家の地所の前の扉を通ってやってくる。ギルバートだった。口笛が止んだ。アンに気が付いたのだ。礼儀正しく帽子を持ち上げたが、もしかするとそのまま黙って通り過ぎていたかもしれない。もしアンが立ち止まって手を差し出さなかったら。
「ギルバート」と、真っ赤に頬を染めるアン。「どうもありがとう、あたしのためにここの学校を譲ってくれたのね。こんなに親切にしてもらえるなんて――分かって欲しいんだけど、心から感謝してるのよ」
ギルバートが、待ち望んだその手を取った。
「別に大したことじゃないよ、アン。少しは役に立てたようで嬉しいね。これでもう友達だろう? 昔のこと本当に水に流してくれた?」
アンは笑った。握られた手を引っ込めようとしたがうまくいかない。
「あの日、池の舟付き場で水に流してたわ、あの時は気が付かなかったけど。もう、あたしって頑固で馬鹿よね。あたしずっと――なにもかも言っちゃうわ――あれからずっと後悔してたの」
「俺達、一番の友達になろう」とギルバートは嬉しそう。「二人とも生まれた時から友達になるはずだったんだよ、アン。運命に逆らうのはもう充分だろ。お互いにいろいろ助け合えるんだから。勉強は続けるよな? 俺もさ。行こう、家まで送るよ」
マリラは興味津々で、台所に入って来るアンを見つめた。
「小径をあんたと一緒に来たのは誰、アン?」
「ギルバート・ブライスよ」と答えるアン。もうっ、どうして赤くならなくちゃいけないのっ。「バリーの丘で会ったの」
「知らなかったわ、あんたとギルバート・ブライスって、ずいぶん仲良しだったのね。30分も門のところで立ち話してたじゃない」とマリラ。さりげなく笑みを浮かべる。
「あたしたち別にそんな――あたし達、いい敵同士だったの。だけど将来はいい友達同士の方が意味があると考え直したのよ。本当に30分もいた? 数分くらいの気がしてた。でも、5年も口をきいてなかったんだもの、取り返すのが大変なのよ、マリラ」
その夜、アンは長いこと窓辺に座っていた。足るを知ることが嬉しかった。サクランボの枝を抜ける風が柔らかく喉を鳴らし、ミントの息吹がここまで漂ってきた。窪地の尖ったモミの彼方に星々がまばたき、ダイアナの窓からもれる明かりが、いつものように森の隙間で小さくきらめいていた。
アンの洋々たる前途は、クイーンから戻ってここに座った晩を境に、限りある狭いものになっていた。しかし、たとえ歩むべき目の前の道が狭められるのだとしても、それでも道に沿って、ひっそりと幸せの花が咲いていると分かっていた。真摯に努力する喜び、価値ある目標を目指す喜び、気の合う仲間と友情を持つ喜び、どれも自分のものになるだろう。何物も、生まれながらの想像力や、夢に溢れる理想の世界を、奪い去ることはできはしないのだ。それに、いつだって道には曲がり角がつきものなのだから!
「『そう、神が天にあるのだ、この世の全てが好ましい』」そっと囁くアンだった。